シャンプーは、掟の外で乱馬を選ぶ―らんま1/2・女傑族の村残留IF― 作:エーアイ
夜明け前の宗家は、まだ眠っていた。
中庭に面した竈小屋にも火は入っていない。
井戸のそばに置かれた桶も、昨夜の場所から動いていない。
母屋では、早起きの女が一人、二人と起き始めている気配がするだけだった。
シャンプーは、いつもの時間に目を覚ました。
身体は疲れているはずだった。
昨日は朝から乱馬を追い、石橋で戦い、男の乱馬に敗れた。
そのまま長老会議へ連れていかれ、宗家の離れを掃除し、寝床を整えた。
同じ卓で食事をした。
古い洗い場を一緒に掃除した。
乱馬へ水をかけようとした子どもたちを、自分の判断で止めた。
最後には、ほとんど裸の男乱馬を見てしまった。
思い出した瞬間、シャンプーは敷布を顔の上まで引き上げた。
だが、眠れなかった理由はそれだけではない。
男の乱馬に負けた感触が、まだ身体に残っている。
腹へ止められた拳。
求婚の接吻を与えた唇。
食卓で言われた言葉。
──俺は、おまえが自分で何も決めてねえって言ってんだ。
腹が立った。
いま思い出しても腹が立つ。
けれど、子どもたちを止めたとき、自分は確かに言った。
私が決めた。
その言葉だけは、不思議と嫌ではなかった。
シャンプーは敷布を下ろし、薄暗い天井を見つめた。
もう一つ、気になっていることがある。
乱馬は離れへ入ったとき、寝台より先に窓を見た。
棚を開け、机の下を覗き、最後に窓の外を確かめた。
宗家の石塀。
斜面に並ぶ家々の屋根。
村の外壁。
見張り台。
乱馬は景色を眺めていたのではない。
逃げ道を見ていた。
裁定が出るまで残るとは言った。
だが、あれは長老たちへ従うという意味ではない。
呪いを治す手掛かりがあるから、ひとまず待つというだけだ。
気が変われば出ていく。
乱馬は、そういう男だ。
昼間は村人が多い。
夜半は門と見張りが最も警戒している。
村が眠りから目覚める直前。
見張りが夜から朝へ交代し、仕事へ出る者もまだ少ない時間。
逃げるなら、夜明け前だ。
シャンプーは寝台から起き上がった。
いつもの朝稽古へ出る服に着替える。
髪を整える。
だが、錘は持たなかった。
戦いに行くのではない。
乱馬が本当に逃げるのか、確かめに行くだけだ。
コロンから、夜明け前に見張れと命じられたわけではない。
宗家の女たちから頼まれたわけでもない。
自分が、確かめた方がよいと思った。
シャンプーはまだ眠る母屋を出た。
中庭を横切らず、石塀に沿って宗家の外側へ回る。
離れの窓の下には、隣家との間を通る狭い路地がある。
そこへ入ったとき、頭上から小さな音がした。
木の窓が、ゆっくりと開く。
乱馬は日の出よりも前に目を覚ました。
隣の寝台では、玄馬が大きないびきをかいている。
村はまだ静かだった。
窓の外は薄暗い。
乱馬は音を立てずに服を着た。
昨日の雨で濡れた上着は、寝ている間に乾かしてある。
荷物は少ない。
持って出ようと思えば、すぐに出られる。
玄馬は置いていってもよい。
どうせ目が覚めれば、食事のある村へ戻るだろう。
窓を開ける。
予想していたより、外壁までの道は単純だった。
屋根を三つ越え、見張り台の死角を通れば、村の外へ出られる。
乱馬は窓枠へ足をかけた。
そのとき。
「どこへ行く」
下から声がした。
乱馬は動きを止める。
路地にシャンプーが立っていた。
すでに服を着替え、髪も整えている。
両手に錘は持っていない。
ただ、腕を組んで乱馬を見上げていた。
「散歩だ」
「窓からか」
「近道だよ」
「荷物を持って?」
乱馬は肩にかけた袋を見る。
「朝の修行だ」
「修行に全部の荷物が必要か」
「細かい奴だな」
乱馬は窓から外へ飛び降りた。
シャンプーの前へ着地する。
「邪魔すんな」
「村を出るのは禁止されている」
「俺は村の人間じゃねえ」
「裁定が出るまで残ると、昨日言った」
「俺は言ってねえ。ばあさんが勝手に決めたんだ」
乱馬はシャンプーの横を通ろうとする。
シャンプーは立ち位置を変え、道を塞いだ。
「どけ」
「どかない」
「力ずくで行くぞ」
「やってみろ」
二人の視線がぶつかる。
乱馬は拳を握った。
シャンプーも腰を落としかける。
だが、先に動いたのは乱馬だった。
攻撃ではない。
路地の壁を蹴り、一気に屋根へ飛び乗る。
シャンプーの頭上を越え、そのまま走り出す。
「待て!」
シャンプーも屋根へ跳ぶ。
乱馬は速い。
屋根から屋根へ、ほとんど減速せずに飛び移る。
シャンプーも追う。
戦いを挑むつもりはない。
だが、逃がすわけにもいかない。
乱馬が見張り台の横を抜ける。
村の外壁が近づく。
そのとき。
路地の下から、女の声が上がった。
「危ない!」
乱馬が足を止める。
外周の共同水場では、朝の水汲み当番が仕事を始めていた。
二十歳ほどの女が、水を満たした桶を家へ運ぼうとしている。
そのそばでは、十二歳ほどの少女が、大きな水甕の栓と木台を確かめていた。
シャンプーには、その少女が分かった。
昨夜、乱馬へ水をかけようとしていた三人のうちの一人だった。
だが、今朝は遊んでいるのではない。
年長の従姉と一緒に、家の水汲み当番を手伝っていた。
乱馬にとっては、見覚えのない子どもだった。
昨夜も窓の外に人影がいることには気づいていたが、その顔までは見ていない。
少女の手から、木栓が落ちた。
石畳の上を転がり、水甕の木台の下へ入り込む。
少女は反射的に膝をつき、木栓へ手を伸ばした。
その瞬間。
前日の雨を吸った木台へ、水を満たした甕の重みがかかった。
一本の脚が、濡れた石畳の上を滑る。
大きな水甕が、少女の方へ傾いた。
「離れて!」
年長の女が桶を捨てて走る。
だが、間に合わない。
乱馬は屋根を蹴った。
村の外へ向かっていた身体が、反対側へ跳ぶ。
空中で身をひねり、少女の前へ降りる。
両手を伸ばす。
倒れてきた甕を受け止めた。
「ぐっ!」
水を満たした甕は重い。
勢いも加わっている。
乱馬の足が石畳を滑る。
背後には少女がいる。
避けることはできない。
乱馬は歯を食いしばり、腰を落とした。
甕を正面から押し返す。
シャンプーが屋根から降りる。
甕の反対側へ回り、両手を添えた。
「持ち上げるぞ」
「一、二でいく」
「三ではないのか」
「今そんな話してる場合か!」
二人で力を合わせ、甕を立て直す。
壊れた木台には戻せない。
そのまま地面へゆっくり下ろした。
甕の中で水が大きく揺れる。
縁を越えた冷水が、乱馬の頭から降りかかった。
白い湯気が上がる。
乱馬の身体が縮み、女の姿へ変わった。
少女が目を丸くした。
「本当に女になった」
「見てる場合か!」
女乱馬が怒鳴る。
年長の女が少女を抱き起こし、腕や足を確かめる。
擦り傷もない。
少女は少し震えていたが、自分の足で立つことができた。
「どこか痛いか」
シャンプーが尋ねる。
「ない」
「木台の下へ手を入れるな」
「ごめんなさい」
少女は素直に頭を下げた。
それから、自分を助けた乱馬を見る。
乱馬は濡れた髪を絞りながら、不機嫌そうに立っていた。
少女は一度息をのみ、乱馬の前へ進んだ。
「助けてくれて、ありがとう」
「別に。近くにいただけだ」
乱馬は顔を背けた。
少女はその場を離れなかった。
両手を身体の前で握り、もう一度頭を下げる。
「それと、昨日はごめんなさい」
乱馬が少女を見る。
「昨日?」
「水をかけて、女になるところを見ようとした」
乱馬の眉が動いた。
少女の顔を見ても、昨夜の子どもだとは分からない。
「おまえ、あの中にいたのか」
「うん」
「顔なんか見てなかったから、分かんなかった」
「ごめんなさい」
「もう勝手に水かけようとすんなよ」
「しない」
少女は今度こそ、はっきりとうなずいた。
年長の女も乱馬へ頭を下げた。
「助かった。あの子は、私の従妹なんだ」
「怪我がねえなら、それでいいよ」
乱馬は肩にかけた荷物を直した。
シャンプーは、その手を見た。
荷物を下ろしてはいない。
助けたあとも、村を出る準備はそのままだ。
朝の仕事を始めていた村人たちが、騒ぎを聞きつけて集まってくる。
水桶を抱えた女。
荷籠を担いだ男。
夜の見張りを終えたばかりの若者。
近くの家から出てきた老人。
まだ村全体が起きる時間ではない。
それでも、乱馬が荷物を抱えて外壁へ向かっていたことを隠せる人数ではなかった。
乱馬は周囲を見回し、顔をしかめる。
「最悪だ」
「仕事に戻れ」
シャンプーが村人たちへ言った。
「この男は、私が連れ戻す」
「勝手に決めんな」
乱馬がすぐに口を挟む。
シャンプーは乱馬を見る。
言い直すまで、わずかに時間がかかった。
「私は、村を出るなら止める」
「同じじゃねえか」
「だが、子どもを助けたから村へ残ると決めたとは思っていない」
乱馬が黙った。
集まった村人たちも、二人を見ている。
シャンプーはそちらへ向き直った。
「もう危険はない。仕事へ戻れ」
年長者が先に歩き出す。
それに続き、村人たちは少しずつ散っていった。
少女も従姉に手を引かれながら、何度か乱馬を振り返った。
周囲が静かになる。
シャンプーは乱馬の肩にかかった荷物を見る。
村を出るつもりだった。
実際、外壁までもう少しだった。
それでも少女が危険にさらされた瞬間、乱馬は引き返した。
考える時間すらなかったはずだ。
誰かに命じられたわけではない。
村の掟でもない。
助けた相手が、自分へ水をかけようとした子どもだと知っていたわけでもない。
危険に気づいた。
だから助けた。
乱馬自身が決めた。
シャンプーは、昨日のコロンの言葉を思い出す。
──この男が掟を持たぬ者だと思うかい。
乱馬にも、守るものがある。
それは文字には書かれていない。
長老から命じられたものでもない。
だからこそ、シャンプーには分かりにくかった。
「乱馬」
「何だよ」
「助けたことと、村に残ることは別か」
「当たり前だろ」
「そうか」
「何だよ。その顔は」
「確認しただけだ」
シャンプーは、乱馬と外壁の間から一歩退いた。
追わないという意味ではない。
通ってよいと認めたわけでもない。
ただ、力ずくで連れ戻す前に、乱馬自身の答えを聞こうと思った。
「それで、おまえはどうする」
乱馬は肩の荷物を見る。
外壁を見る。
次に、助けた少女が戻っていった道を見る。
「今から出ても、親父が起きてねえ」
乱馬は不機嫌そうに言った。
「起こしてからにする」
「では、いまは戻るのか」
「呪いのことも聞いてねえしな。それに」
「それに?」
「この格好のまま山越えする気はねえ」
乱馬は女になった自分の身体を見る。
「朝からこれじゃ、やってられねえ」
シャンプーは、少しだけ口元を緩めた。
「宗家に湯がある」
「笑うな」
「笑っていない」
「笑ってるだろ」
「おまえの顔がおかしい」
「おまえな!」
乱馬がシャンプーへ詰め寄る。
だが、その足は外壁ではなく、宗家の方を向いていた。
シャンプーは先に歩き出す。
乱馬が、その半歩後ろをついてくる。
捕まえたのではない。
勝負に勝って連れ戻したのでもない。
乱馬は、自分で戻る方を選んだ。
そのとき、村の入口から大きな声が響いた。
「シャンプー!」
道の向こうから、白い服を着た青年が走ってくる。
両腕を大きく広げ、まっすぐこちらへ向かっている。
ただし、その足はシャンプーからわずかに外れた方向へ進んでいた。
村での乱馬の生活は、まだ始まったばかりだった。