シャンプーは、掟の外で乱馬を選ぶ―らんま1/2・女傑族の村残留IF― 作:エーアイ
「シャンプー!」
白い服の青年は両腕を広げ、道端の柱へ一直線に駆けていった。
「会いたかったぞ、シャンプー!」
そのまま柱へ抱きつき、頬を寄せる。
乱馬は女姿のまま、その光景を見つめた。
「何なんだ、こいつ」
青年は背後から聞こえた声へ反応した。
柱から離れ、ぼやけた視界の先にいる赤い髪の少女へ向き直る。
今度こそ両腕を広げて走り出した。
「シャンプー!」
「俺はシャンプーじゃねえ!」
乱馬はためらわなかった。
迫ってきた青年の顔へ右足を突き出す。
靴底が鼻先を押し潰した。
「ぐおっ!」
青年――ムースは、両腕を広げた姿勢のまま後ろへ倒れた。
硬い石畳へ背中から落ち、土煙を上げる。
その手には、いつの間に取り出したのか、色鮮やかな花束が握られていた。
「こいつはムースだ」
シャンプーは短く答えた。
「名前じゃなくて、どういう奴か聞いてんだよ」
「昔から私に求婚している。交易隊の護衛と修行で村を離れていた」
「へえ」
乱馬は倒れているムースを見る。
「おまえにも、勝手に結婚しろって迫る奴がいるんだな」
シャンプーの眉が動いた。
「私をムースと一緒にするな」
「何が違うんだよ」
「全部だ」
「説明になってねえ」
乱馬は肩にかけた荷物を持ち直した。
村から出ようとしたところを、シャンプーに見つかった。
その途中で水甕から子どもを助け、冷水をかぶって女になった。
今度は、知らない男からシャンプーと間違えられ、抱きつかれそうになった。
朝からろくなことがない。
乱馬は宗家へ戻ろうとした。
その足首を、倒れていたムースがつかむ。
「待て……」
「あ?」
「シャンプー、いきなり蹴るとはひどいではないか!」
「だから俺はシャンプーじゃねえ!」
「人違い?」
ムースは袖から分厚い眼鏡を取り出し、顔へかけた。
ひびの入ったレンズ越しに、目の前の少女を見る。
赤い髪。
赤い上着。
黒いズボン。
シャンプーとは髪も服も違う。
ムースは眼鏡を外し、布で丁寧に拭いた。
もう一度かけ直す。
「シャンプーではない……」
「最初からそう言ってんだろ」
「では、おまえは誰だ」
「早乙女乱馬だ」
ムースの動きが止まった。
「早乙女乱馬とは、男の名前ではないのか」
「男だ」
シャンプーが答える。
「だが、これは女だ」
「これって言うな!」
乱馬がムースの手を蹴り払った。
ムースは立ち上がり、乱馬の周りを一周する。
正面から見る。
横から見る。
背後へ回る。
「じろじろ見るな!」
「どう見ても女だ」
「見りゃ分かる!」
「ならば男ではない」
「男なんだよ!」
乱馬とムースが、顔を突き合わせて怒鳴り合う。
シャンプーは額に手を当てた。
朝の騒ぎを聞きつけた村人たちも、再び足を止めている。
「水だ」
乱馬が面倒そうに言った。
「冷たい水をかぶると女になって、湯をかぶると男に戻る。呪泉郷の呪いだ」
ムースは乱馬を見た。
シャンプーを見る。
もう一度、乱馬を見る。
「あり得ん」
「俺だって好きでこうなったんじゃねえ」
「シャンプーが、見知らぬ女を男だと思い込まされている!」
「思い込まされていない」
シャンプーが訂正する。
「私は目の前で変わるところを見た」
「目の前で?」
「雨をかぶった」
「裸だったのか!」
ムースの叫びが村中へ響いた。
次の瞬間、シャンプーの拳がムースの腹へ突き刺さる。
「ぐはっ!」
ムースの身体が浮き、背中から石壁へ激突した。
「服は変わらない!」
シャンプーの顔が赤い。
「変な想像をするな!」
「だから何も見せてねえ!」
乱馬も顔を赤くして怒鳴った。
ムースは壁から身体を引き抜く。
髪についた石の粉を払いながらも、乱馬へ向ける目だけは真剣だった。
「証明してみろ」
「何でおまえのために」
「このままではシャンプーの名誉を守れん!」
「おまえの勘違いから何を守るんだよ!」
「宗家へ戻れば湯がある」
シャンプーが言った。
「そこまで待てるか!」
ムースが叫ぶ。
先ほど少女と水汲みをしていた年長の女が、呆れた顔で口を挟んだ。
「うちの竈なら、もう朝の湯が沸いている。少し持ってくるよ」
女は近くの家へ入り、ほどなく湯気の立つ桶を抱えて戻ってきた。
乱馬は桶を受け取る。
「これで分かったら、もう黙れよ」
「言われなくても見ている」
ムースは眼鏡を外し、服の裾で念入りに拭いた。
もう一度かけ、両手で位置を調整する。
乱馬が頭から湯をかぶる。
白い湯気が身体を包んだ。
背が伸びる。
肩幅が広がる。
赤い髪が黒へ変わり、女の身体が男のものへ戻る。
湯気が晴れる。
そこには、男の乱馬が立っていた。
「これで分かったか」
ムースは無言だった。
男乱馬の周囲をゆっくり一周する。
前から。
横から。
後ろから。
また正面へ戻る。
「何だよ」
ムースは突然、乱馬の上着の襟をつかんだ。
「貴様が、シャンプーの婿候補か!」
「違う!」
乱馬がムースの手首をつかむ。
「長老たちが勝手に決めようとしてるだけだ!」
「シャンプーに求婚の接吻を受けたと聞いたぞ!」
「俺が頼んだんじゃねえ!」
「シャンプーから男へ接吻を……」
「掟だ!」
シャンプーの顔が赤くなる。
「おらには一度もしてくれないのに!」
「おまえに負けていない!」
「この男が、シャンプーに勝ったのか」
「二回負けた」
シャンプーが答えた。
ムースが固まる。
「二回?」
「女の乱馬と、男の乱馬に」
ムースは乱馬を見る。
いま目の前にいるのは男だ。
だが、少し前までは女だった。
「待て。整理する」
「まだやるのかよ」
ムースは指を一本立てた。
「女の乱馬に負け、死の接吻を与えた」
「そうだ」
「その後、男の乱馬に負け、求婚の接吻を与えた」
「そうだ」
「二人は同一人物」
「最初から一人だ!」
「では、シャンプーは夫にする相手を殺すのか」
「だから裁定が止まってんだよ!」
「結婚してから殺すのか」
「どっちも嫌だ!」
ムースは頭を抱えた。
「ならば、シャンプーがもう一度勝てば求婚は取り消せる!」
「取り消せない」
シャンプーが即座に答えた。
「一度でも村外の男が女傑族の女を倒したなら、その事実は後の勝敗では消えない。おまえも知っているだろう」
「知っているから腹が立つのだ!」
「俺に怒るな!」
乱馬がムースの手を振り払った。
ムースの袖が大きく広がる。
その内側から鎖と分銅が飛び出した。
「ならばおらが、婿候補にふさわしくないと証明する!」
「勝手に試験を始めんな!」
分銅が乱馬へ迫る。
乱馬は身体を沈めて避けた。
鉄輪を蹴り落とし、足元を狙う鎖を跳び越える。
「どこに隠してた!」
「白鳥拳の奥義、暗器!」
「全然白鳥っぽくねえ!」
空中へ上がった乱馬へ、袖の内側から木製の大槌が現れる。
乱馬は大槌の上へ片手をつき、そのまま逆立ちした。
ムースが振り上げた勢いを利用し、頭上を越えて背後へ着地する。
振り向きざまに蹴る。
「ぐっ!」
ムースが前へよろめく。
だが、袖から伸びた棒を地面へ突き立て、それを支点に身体を回した。
後ろ回し蹴りを、乱馬が腕で受ける。
衝撃で一歩下がる。
「やるじゃねえか」
「きさまに認められる必要はない!」
ムースの鎖が乱馬の右腕へ巻きついた。
強く引く。
乱馬の身体が前へ崩れる。
そこへ膝蹴りが迫る。
乱馬は左手を地面につき、身体を横へ逃がした。
鎖に巻かれた右腕を支点に、そのまま低い姿勢で回転する。
両足がムースの足首を払う。
ムースの身体が浮いた。
乱馬は鎖を逆に引き、引き寄せられたムースの額へ自分の額をぶつけた。
鈍い音が響く。
二人が同時に後ろへ下がった。
「いてえ……」
「頭突きとは野蛮な」
「暗器を山ほど投げる奴に言われたくねえ!」
二人が再び構える。
シャンプーが、その間へ踏み込んだ。
「やめろ」
「シャンプー、下がっていろ!」
「おまえが下がれ。ここは村の中だ」
「しかし、こいつは」
「乱馬は村の客人だ」
「監禁されてる客人な」
「乱馬は黙っていろ」
シャンプーが睨むと、乱馬は口を閉じた。
「男の姿でも女の姿でも、同じ乱馬だ。裁定が出るまでは、どちらの姿でも宗家の客人として扱う」
ムースの眉間にしわが寄った。
「だが、婿候補になったのは男の乱馬だ」
「死の接吻を受けたのは女の乱馬だ」
「ならば姿ごとに扱いを分ければよいではないか」
「同じ俺だって、いま見ただろ!」
乱馬が怒鳴る。
ムースは真剣な顔で考え込んだ。
「分かった」
「本当か」
「男の乱馬は恋敵。女の乱馬は、恋敵が一時的に女になっている状態だ」
「結局、全部俺じゃねえか!」
「だから女の姿の間だけ一時休戦じゃ!」
「そんな休戦があるか!」
乱馬の蹴りがムースの顔へ入った。
ムースは石畳の上を滑り、近くの木箱へ頭から突っ込んだ。
箱の中から声が響く。
「シャンプー……おらという者がありながら……」
「おまえは何者でもない!」
「幼いころから、ずっと一筋に!」
「頼んでいない!」
「愛に勝敗はない!」
「おまえは私に一度も勝っていない!」
ムースが木箱を破って立ち上がる。
「早乙女乱馬!」
「何だよ」
「きさまが男でも女でも、同じ一人であることは認める!」
「やっと分かったか」
「だから、どちらの姿でもシャンプーへ近づくことは許さん!」
乱馬の顔が引きつった。
「結論が悪化してんじゃねえか!」
「おらは認めん!」
「俺も婿候補なんか認めてねえ!」
「ならば村を出ていけ!」
「今朝出ようとしたら、シャンプーに止められたんだよ!」
ムースの顔色が変わる。
「シャンプーが、きさまを引き止めた?」
「裁定が出るまで村を出すなと言われている」
シャンプーが答えた。
「宗家へ泊めているのか」
「離れだ」
「同じ食卓で食事をしたのか」
「した」
「身体を洗う湯まで用意したのか!」
シャンプーの拳がムースの腹へ突き刺さった。
「なぜそこまで聞く!」
ムースが別の木箱へ頭から突っ込む。
乱馬が腕を組んだ。
「同じようなこと聞いて、昨日も俺に怒鳴られたぞ」
「おまえは黙っていろ!」
シャンプーは乱馬にも怒鳴った。
木箱から、ムースの弱々しい声が聞こえる。
「シャンプーが、あの男を守るなど……」
「監督しているだけだ」
シャンプーは言った。
「乱馬が私の夫に決まったわけではない。だが、村の客人をおまえが勝手に襲うことは許さない」
ムースが箱から顔を出す。
「では、まだおらにも機会がある」
「ない」
「なぜだ!」
「私がおまえを選んでいないからだ」
ムースは胸を押さえた。
拳で殴られたときよりも、明らかに深く傷ついた顔をする。
乱馬が横から口を挟んだ。
「そりゃ、何度断られても話を聞かねえからだろ」
「きさまに言われる筋合いはない!」
「俺は結婚しろって追い回してねえよ!」
「シャンプーに接吻された!」
「俺が頼んだんじゃねえ!」
二人の声が再び大きくなる。
シャンプーは先に歩き出した。
「宗家へ戻る」
乱馬が自分の身体を見る。
「そういや、湯をかぶったから戻ってたな」
「忘れていたのか」
「あいつがうるせえからだ!」
乱馬はシャンプーを追う。
数歩進んだところで、乱馬が尋ねた。
「ムースも、おまえと結婚したいんだろ」
「昔から言っている」
「おまえはどう思ってんだ」
「弱い男とは結婚しない」
「それだけか」
「変な奴だと思っている。しつこい。話を聞かない」
乱馬が横目でシャンプーを見た。
「それ、おまえもじゃねえか」
シャンプーの足が止まった。
「私とムースを一緒にするな」
「どっちも相手が嫌だって言ってんのに、結婚の話を押しつけてるだろ」
シャンプーは言い返そうとした。
だが、言葉が出なかった。
ムースは自分へ求婚を繰り返している。
自分が何度拒絶しても、諦めようとしない。
自分にとって、それは迷惑だった。
では。
求婚の接吻を理由に、乱馬へ夫になれと迫る自分は。
乱馬にとって、どのように見えているのか。
「どうした」
先を歩いていた乱馬が振り返る。
「何でもない」
「だったら行くぞ」
「分かっている」
シャンプーは追いつき、乱馬の半歩前を進んだ。
その後ろから、屋根を蹴る音が聞こえる。
振り返ると、ムースが屋根の上を追ってきていた。
両手には、いつの間に用意したのか、長い布を広げている。
――男乱馬、婿候補反対。
ムースが布を裏返す。
――女乱馬、一時休戦。
乱馬のこめかみに青筋が浮かんだ。
「シャンプー」
「何だ」
「あいつ、殴っていいか」
「好きにしろ」
「待て! なぜシャンプーまで認める!」
ムースが逃げる。
乱馬が追う。
二人は村の中央を走り抜けていった。
シャンプーは、その後ろ姿を眺めた。
男でも女でも自分は自分だと言い続ける乱馬だけが、いちばん単純だった。
「朝から騒がしいね」
杖の上に乗ったコロンが、いつの間にか隣にいた。
「ひいばあちゃん」
「ムースは乱馬を理解したかい」
シャンプーは、屋根の向こうへ消えた二人を見る。
「同じ一人だというところまでは」
「その先は?」
「男の乱馬を恋敵にして、女の乱馬とは一時休戦すると言いました」
コロンが喉を鳴らして笑う。
「長老たちと、あまり変わらないね」
「はい」
シャンプーはすぐに答えた。
「男には求婚の接吻。女には死の接吻。同じ乱馬へ、姿ごとに別の掟を当てはめようとしている」
「お前もそうだっただろう」
シャンプーは黙った。
昨日までの自分は、男の乱馬と女の乱馬を、頭では同じだと理解しながら、心の中では別々に見ていた。
「いまは違うのかい」
コロンが尋ねる。
「まだ、同じようには見えません」
シャンプーは正直に答えた。
「男の乱馬を見れば、求婚の接吻を思い出します。女の乱馬を見れば、死の接吻を思い出す。感じるものは、まだ違います」
「それなら何が変わった」
シャンプーは少し考えた。
「二人だとは思いません」
コロンの細い目が、わずかに開く。
「乱馬は最初から、同じことしか言っていません。男でも女でも、自分は自分だと」
「ようやく聞く気になったかい」
「理解できるかは、まだ分かりません」
シャンプーは、乱馬が消えた方向を見る。
「でも、姿が変わるたびに別の相手として扱うのは、違うと思います」
コロンはしばらく何も言わなかった。
やがて、杖の先を村の中央へ向ける。
「なら、まずはあの二人を止めてきな。朝の市場が壊されるよ」
遠くで大きな音がした。
「待ちやがれ、ムース!」
「男乱馬との休戦は認めていない!」
「さっき同じ一人だって認めただろ!」
シャンプーは額へ手を当てた。
「分かりました」
錘を持ってこなかったことを、少しだけ後悔しながら走り出す。
乱馬を二人に分けようとしているのは、ムースだけではない。
長老たちも。
昨日までのシャンプーも。
だが、乱馬は一人だった。
その一人をどう扱うのか。
答えを出すための時間は、まだ始まったばかりだった。