王妃の仕事は愛人には無理だそうですので、国ごと元夫へお返しいたします ~離縁後に「戻ってきて」と言われても、もう隣国の宰相です~ 作:DeDee
冬の大広間は、光まで冷えている。
高窓から落ちる朝の光が磨き込まれた床に薄く伸びて、玉座までの長い道を白く照らしていた。歩くたび、裾の擦れる音だけが従いてくる。張りつめた空気の、香の匂いの底に、雪の匂いが混じっている。この床を、わたくしは十年歩いてきた。歩幅も、息の継ぎ方も、体が覚えている道である。
纏っているドレスも、耳元の真珠も、王家のものである。わたくし自身のものは、この体と、頭の中の帳簿だけ――そんな勘定を、歩きながらしている自分に気づいて、胸の内で苦く笑った。
玉座の段の上で、夫――カレンドラ国王エメリクが、こちらを見下ろしている。傍らに、若い令嬢がひとり。子爵家のファビエンヌ様である。頬が上気して、指先が落ち着かない。悪い方でないことは、看病の席で幾度か見かけて知っている。
「妃よ」
妃、という呼び名で、もう十年になる。この方がわたくしの名を口になさったのは、輿入れの式の誓いの文言、あの一度きりである。それきりわたくしは、「妃」か「そなた」であった。
今日も、そうである。
「そなたには感謝している。この十年、よく国を支えてくれた。だが――余は、真実の愛を見つけてしまったのだ」
大広間が、静かにざわめく。
わたくしの胸の内で真っ先に動いたのは、心ではなく帳簿だった。ぱらり、と頁のめくれる音がする。離縁。王妃領の返還。借款の保証。冬至までに片づけるべき手続きが、頭の中で勝手に列を作っていく。頭のどこかに住んでいる几帳面な司書が、棚から次々に綴りを下ろしてくるのだ。恋の一大事の場で、わたくしの頭は今日も勤勉である。
怒りは、来ない。
来ないことのほうに、わたくしは薄く狼狽える。十年を注いだ席を取り上げられて、真っ先に段取りを数え始める女――それがわたくしという人間なのだと、こんな朝に思い知らされる。悲しみはたぶん、あとから来る。あの感情はいつも、支払いの期日を少し遅らせてやって来るのだ。
「離縁、ということでございますね?」
「そうだ。そなたは何も悪くない。だが……」
「承知いたしました」
言葉は、驚くほど滑らかに出た。陛下が目を見開く。隣で、ファビエンヌ様がまばたきをして、それから花のほころぶように笑った。
「王妃さま、ありがとうございます! わたくし、精いっぱい務めますわ。大丈夫です――王妃のお仕事なんて、陛下を愛していれば務まりますもの」
悪意の欠片もない声である。だからこそ、大広間の空気がわずかに揺れる。年かさの官僚がふたり、目を伏せるのが見えた。
わたくしは、その明るい目を見返す。本気で信じている目である。羨ましさに似た何かが、胸の浅いところをちり、と掠めた。何かを疑いもせずに信じられることは、それだけで、ひとつの若さである。
愛していれば、務まる。
そう、と胸の内でだけ返す。ならば十年のわたくしが何で務めてきたのか――その問いは、いまは開けない箱にしまう。箱は胸の奥で、ことりと音を立てて閉まった。蓋の内で、何かが小さく軋んでいる。開ける日は、わたくしが決める。
「二点だけ、事務のご確認をいたします」
わたくしは声を平らに保つ。声を平らにするのは得意である。十年、そればかりしてきた。
「離縁の効力は、書面の成立をもって。王妃領は王家へお返しし、今年度の穀物借款の残りは、王妃領の収益から精算いたします。それから、借款の保証人の更改を、債権者の組合へ申請いたします」
「……ああ。よきに計らえ」
陛下は、もう書面のほうを見ていない。この方は、わたくしの書いたものを一度も最後まで読まなかった――七年前のあの夜から、ずっと。
七年前。落馬なさった陛下の病床に、わたくしは徹夜で仕上げた治水の案を持って行った。春の増水の前に東の堰を直す、その段取りである。蝋燭を三本使い切り、指にインクの染みを作って書いた紙の束は、両腕に抱えるとほんのり重い。陛下は表紙だけをご覧になり、微笑んで、仰った。
「そなたに任せる」
頁は、一枚もめくられなかった。
長い廊下を戻りながら、抱えた紙の束が行きよりも重いことを、わたくしは不思議に思ったものである。
協定の写しの欄外に小さく検算を書き込む癖は、輿入れの年の最初の協定からある。けれどあの夜を境に、癖の意味が変わった。誰かが読むと思って書くのではない。読まれない字は書いたそばから消えていく気がして――せめて数字だけは、正しいまま紙に残しておきたいのだ。
書記官が、離縁の書面を運んでくる。
王妃の書き物に、わたくし個人の名を書く欄はない。決裁は印璽、協定の署名でさえ、書くのは「カレンドラ王妃」という肩書きである。名を書く書類は、十年ぶり――輿入れの誓約書以来である。この名は嫁いできた日のまま、十年、どこにも出かけていない。
オディール。
ペン先が紙を滑る。自分の名前は、思っていたより短い。書き終えた手が、ふ、と軽くなる。その軽さが、少しだけ怖かった。
一礼して、玉座へ背を向ける。長い床を戻り、扉の手前で、一度だけ足を止めた。
「陛下。ひとつ、お伝え忘れがございます」
振り返らず、声だけを広間へ置く。
「では――国も、お返しいたしましょう」
ざわめきが、途切れる。陛下が眉を寄せる気配がして、ファビエンヌ様が小さく首を傾げるのが、扉の硝子に映った。意味の分かる顔は、広間のどこにもない。それでよいのだ。宣言は、受け取られなくても宣言である。意味は明日から、手続きが順番に教えて差し上げる。
扉が、背中で閉まった。
その日の夕、わたくしは自室の文机で、ヴェルトラム穀物商組合への更改申請を書き上げ、封蝋を捺して急使に託す。保証人が王妃の身分を失うときは、債権者の承認する更改か、精算か。契約の条文どおりの、ただの事務である。窓の外で、雪が音もなく積もり始めていた。急使の馬蹄の音が、雪に吸われて遠ざかっていく。この国でわたくしが動かす、最後の早馬である。
明日から三日で、わたくし名義の帳簿を、すべて畳む。