王妃の仕事は愛人には無理だそうですので、国ごと元夫へお返しいたします ~離縁後に「戻ってきて」と言われても、もう隣国の宰相です~   作:DeDee

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2. 返却の目録

 離縁の成立まで、三日ある。

 

 わたくしはその三日を、返却に使うと決めた。

 

 王妃の名で借りたもの、王妃の名で人に委ねたもの。目録にすれば、二種きりである。ヴェルトラム穀物商組合からの年次の借款がひとつ。各省の官僚へ発行した、決裁の委任状が三十八通。

 

 一日目は、委任状の解除に費やした。

 

 委任状は、七年前に陛下から大委任をいただいたわたくしが、実務を回すために各省へ発行したものである。財務に六通、内務に五通、営繕に四通……名簿の順に、同じ文面の解除通知を三十八通、書いていく。中指の腹には、十年ものの、インクの胼胝(たこ)がある。ペンを持ち直すたび、その硬い皮が紙に触れて、小さな音を立てる。

 

 書きながら、顔が浮かぶ。橋の修繕を委ねた営繕の次官、俸給簿を任せた財務の書記官。実直な人たちである。この紙が届いた朝から、あの人たちの手は止まる。それが分かっていて、わたくしは書く。

 

 ――それでも、返すのだ。

 

 王妃でない者の委任状は、ただの紙である。紙のふりをした偽物を、机に残して行くわけにはいかない。誠実であろうとすればするほど、誰かの朝を止める。この噛み合わせの悪さを、噛みしめる夜だった。

 

 三十八通目を書き終えたのは、蝋燭の二本目が尽きるころである。指の付け根が鈍く痛む。考えてみればこの三十八通が、わたくしがこの国で書く、最後のまとまった書き物になる。別れの手紙を書かない代わりに、解除通知を三十八通。まったく、わたくしらしい。中指の胼胝の上に、インクの染みが、またひとつ増えている。

 

 二日目、借款の更改書類を持って、陛下の執務室へ上がる。

 

 保証人をわたくしから陛下ご本人へ改める書面である。債権者の承認はこれから、効力は承認の日から。要点を三行の付箋にして貼り、声に出して読み上げもする。執務室の大机は、綺麗に片づいていた。この机が働いているところを、わたくしは久しく見ていない。

 

「ここに、御自署を」

 

「ん」

 

 陛下は羽根ペンを取り、書面の下端に流れるような字で署名なさる。目は、一度も文面に落ちなかった。

 

 ――ぱらり。

 

 胸の奥で、また頁がめくれる。七年前の夜と、同じ音である。答え合わせなら、とうに済んでいる。済んでいるのに、同じ場所で、同じ音が鳴る。古傷というものは、治ってからのほうが、天気に敏いのだ。

 

 部屋の隅で、財務卿のロベール様だけが、書面とわたくしの顔とを順に見比べて、色を失っていた。

 

「陛下。最後にひとつ、口頭でも申し上げます。ヴェルトラムとの穀物協定は、冬至で切れます。更新は毎年の再交渉でございます。数量と関税の検算のできる方に、信任状のご用意を」

 

「そのようなことより、式の日取りが――」

 

「同じものを書面にして、財務卿へお預けしてございます」

 

 それ以上は、申し上げなかった。警告は、二度で足りる。三度目からは、未練と呼ばれるのだ。

 

 三日目の朝、離縁が成立する。今年度の借款の残りが王妃領の収益から精算された旨、組合の受け付けの写しも届いた。これで、わたくしの名前に借りはひとつもない。

 

 最後に、印璽を返した。

 

 天鵞絨(びろうど)の小箱に納め、両手で書記官長へ渡す。十年、公文書の末尾に捺し続けた王妃の印である。手のひらから重さが消えた瞬間、指が勝手に、失くした形を探した。体のほうが、役目を覚えているのである。

 

 軽くなった手を、しばらく見下ろす。

 

 軽い。軽いことが、こんなに寂しい。十年重かったのだから、降ろせば清々するはずだと思っていた。それなのに指はまだ、消えた重さの輪郭をなぞっている。矛盾している、と自分でも思う。それでもどちらも、本当の気持ちなのである。重さは疎ましい。それでも重さだけが、わたくしの居場所の証でもあった。

 

 荷物は、鞄ひとつに納まる。ドレスは王妃のもの、宝石も王妃のもの。わたくしのものは、書き癖のついたペンと、数冊の手控えと、それだけである。十年が鞄ひとつに納まることを、悲しいと呼ぶべきか、身軽と呼ぶべきか、まだ決められない。

 

 通用門を出ると、雪がちらついている。

 

 振り返らない。振り返らないために、門を出る前に一度だけ、心の中で城の全部の部屋を歩いておいた。台所、書庫、あの執務室。歩き納めは、済んでいる。十年の礼は、十年をくれた場所に。恨みは、置いていく。

 

 門までは、ロベール様が送ってくださった。何も仰らず、雪の中で深く一礼をなさる。わたくしも、同じ深さの礼を返す。言葉にすれば未練になるものを、老臣は知っておられるのだ。見送りとは、振り返らずに済む向きを、作って差し上げることでもある。いつかわたくしも、誰かにそうする側になるのだろう。

 

 門前に、見慣れない馬車が停まっていた。扉に、麦の穂を束ねた紋章――ヴェルトラム王家の紋である。降り立った使者が深く一礼して、封書を差し出す。何も言わない使者である。言葉は、すべて封の中ということらしい。

 

 受け取った封書の表書きに、目が留まる。差出はヴェルトラム国王アルデリック。宛名は、「オディール殿」。

 

 肩書きではなく、名前があった。

 

 わたくしは封書を受け取り、まだ開けずに胸元へ抱えて、馬車に乗り込む。開けてしまうのが、なぜか惜しかったのである。

 

       ◇

 

 カレンドラ財務卿ロベールの手控え。冬至まで二十三日。

 

 王妃陛下より、委任状三十八通の解除通知が各省へ届く。以後の決裁は、すべて御自署を要する。協定失効の警告書一通、当職預かり。信任状の発行を上申せしも、御裁可なし。明朝、重ねて上申の心づもりである。財務の決裁箱、夕刻を待たず、蓋の閉まらぬほどに満ちる。書類は雪と同じで、夜のうちにも積もるのである。

 

 箱は満ちた。開ける鍵が、ない。

 

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