王妃の仕事は愛人には無理だそうですので、国ごと元夫へお返しいたします ~離縁後に「戻ってきて」と言われても、もう隣国の宰相です~ 作:DeDee
国境までの街道は、雪に白く均されていた。
国境の標柱を過ぎる瞬間、体のどこも痛まない。国をひとつ出るというのは、もっと音のするものだと思っていた。車輪の下で雪が軋む、それだけである。
馬車の中で、わたくしはようやく封書を開く。封蝋の割れる乾いた音が、静かな車内にやけに大きく響いた。
招聘の状である。ヴェルトラムの宰相の席が一年空いていること。枢密院の同意を得る用意があること。文面は短く、条件は明瞭で、誇張がひとつもない。そして末尾に、こうあった。
「貴殿が親署した協定は、十年、一度も破られたことがない。毎年、貴国側の写しの欄外には、小さな検算の筆跡がある。余はそれを、十年、読んできた」
指が、その一行の上で止まる。
見間違いかと、雪明かりのほうへ紙を傾けた。文字は、動かない。
読んで、いた。
誰にも求められず、誰も読まないと思いながら書き続けた欄外の数字を――国境の向こうで、読んでいた人が、いたのだ。
わたくしは手袋を外し、素の指でその行に触れる。紙の上の文字は、指先に何も答えない。答えないのに、十年分の夜が、順番に胸へ帰ってくる。蝋燭の匂い。乾く前のインクの艶。読まれないと知りながら、それでも正しく書いた数字たち。あれは、無駄ではなかったのだ。
三度、読み返す。雪明かりの車内で、息だけが白い。白い息の向こうで、新しい国が近づいてくる。近づいてくるものを、今日は逃げずに見ている。
ヴェルトラムの王都は、粉雪の下でも活気があった。穀物倉の並ぶ川沿いに、
謁見の間は、カレンドラのそれより小さく、そして暖かかった。
アルデリック陛下は、玉座ではなく書見台の脇に立っている。三十半ばの、静かな目をした方である。挨拶は短い。
「よく来られた。単刀直入に申す。宰相を、やってもらいたい」
「わたくしは、外つ国の生まれでございます」
「先々代の宰相は、山向こうの生まれだ。この国は、血ではなく帳簿で人を選ぶ。それに――余は妃を招いたのではない。帳簿を書いた人を招いた」
即答は、できなかった。
光栄である、と頭では分かる。分かるのに、心が追いつかない。わたくしは七年、代理として働いてきた。陛下の代わりに読み、代わりに数え、代わりに判を捺してきたのである。代理でない席に自分が座る絵が、どうしても、うまく描けない。絵筆を持つ手が、椅子の手前で止まってしまう。
「三日、考えられよ。期日はそれ以上に延ばせぬが、急かしはせぬ」
三日間、わたくしは城下を歩いた。
川湊では、荷揚げの人足が声を揃えて麦袋を積み替えている。秤の目盛りを覗き込み、帳場では若い書き手の綴りを見せてもらう。癖のない、良い楷書である。思わずそう伝えると、若者は耳まで赤くして、帳面を抱え直した。読まれると知った字は、ああいう顔をするのだ。
宿への帰り道、橋の上から川を見る。凍り残りの流れが、倉の灯りを細かく割って運んでいく。働く水である。眺めているだけで、指の先が、帳面のほうへ動きたがる。
市場で焼き栗を買う。焼き栗は、両手を温めた。カレンドラの王都では、市場を歩く王妃は行儀が悪いとされていた――ここでは、誰もわたくしを知らない。肩がぶつかって、詫びられて、それきり忘れられる。その名もなさが、心地よくて、少しだけ寂しい。名前とは、つくづく厄介なものである。
三日目の夜、宿の文机で、自分に問いを立てた。恩に報いるためか。行き場がないからか。どちらも、少し違う気がする。
本当のところを言えば、怖いのだ。欲しがることが怖い。この席が欲しいと認めて、手に入れて、それからまた取り上げられたら――その日のわたくしを、想像したくない。箱にしまった問いのほかに、しまってきた欲までが、蓋を押し上げてくる。
紙に、一行だけ書いてみる。
「わたくしが、そうしたいから」
書いた字を、しばらく眺めた。十年で初めて書く種類の、理由である。理由が自分のものだと、字は、こんな顔をするのだ。少し傾いで、少し大きくて、行儀が悪い。行儀の悪い自分の字を、わたくしは嫌いになれそうにない。
冬至の十日前、枢密院の同意を経て、宣誓の式が行われた。
誓いはふたつ。ヴェルトラムの国益に忠実であること。旧国カレンドラへ、便宜も敵意も、どちらも向けないこと。誓約の文言は、今朝わたくしが一字ずつ検めたものである。自分の口で読む誓いは、自分の字と同じ顔をしている。石造りの広間に、枢密院の年寄りたちの咳払いがひとつふたつ落ちて、それから静まる。
羊皮紙に誓約の自署を置くと、陛下が初めて、少しだけ表情を緩めた。
「では――励まれよ、宰相オディール殿」
名前が、石の壁に響く。石は、よい。名前を長く抱えて、響かせてくれる。
指先が、細かく震えた。泣いてなど、いない。ただ、十年ぶりに人の声に乗った自分の名前は、思っていたよりずっと大きく聞こえるのである。名前とは、呼ばれるたびに少しずつ、その人のものになっていくらしい。
◇
ロベールの手控え。冬至まで十日。
隣国にて新宰相の宣誓の報。名は、記すことを控える。関所の商人らは既に知っていた。当方、交渉団の信任状は本日も御裁可なし。上申二度目、却下も二度目である。読み合わせの支度は当職の一存で進めるも、署名権者なくば、それはただの紙の束にすぎぬ。紙は揃い、席は空のまま、日ばかりが暮れる。
冬至の朝日は、待ってはくれぬ。