王妃の仕事は愛人には無理だそうですので、国ごと元夫へお返しいたします ~離縁後に「戻ってきて」と言われても、もう隣国の宰相です~   作:DeDee

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4. 冬至の帳尻

 冬至の朝、ヴェルトラムの王都に、季の鐘が九つ鳴った。

 

 一年でいちばん昼の短い日を告げる、ただの鐘である。けれどわたくしの耳は、九つ目の残響の底に、別の音を聞いていた。十年、毎年この日に結び直してきた協定が、どこの広間の調印もないまま、静かに息を止めた音である。

 

 去年までの冬至を、思い出す。読み合わせの卓、双方の書記官の筆音、燭台の火が数字の列を舐める光。わたくしはあの卓で、十回、親署をした。十一回目の卓は、今年はどこにも立たない。宰相府の窓辺で、湯気の消えた茶を前に、わたくしは鐘の音の終わりまで動けずにいた。

 

 鐘が鳴り終わっても、街の音は変わらない。荷橇は走り、粉屋は粉を挽く。国がひとつ約束を失くした朝も、パンは焼かれるのである。それがせめてもの、救いに思えた。

 

 執務室に戻ると、係官が事務的に告げる。

 

「本日より、カレンドラ向けの穀物は、無協定国の税則に切り替わります」

 

「ええ。規定どおりに」

 

 係官は税率表を一枚差し替え、一礼して下がる。それだけである。剣は抜かれず、布告も出ない。条約というものは、結ぶときは祝祭で、切れるときは無音なのだ。無音のほうが、よほど重い。

 

 三日後、カレンドラから急使が来た。

 

 救援を請う書状である。長旅の泥をつけた封筒に、封蝋が斜めに垂れている。国境の関所に穀物の隊列が滞留していること。決裁が滞り、関税の付け替えも代金の支払いも、命じる者がいないこと。文面の下半分は、ほとんど悲鳴に近い。署名は外務の次官――あの三十八通のうちの一通を、わたくしが返した相手である。几帳面な楷書が、行の後半で崩れて斜めに流れていた。あの実直な人が、崩れた字を寄越すまでの朝と夜を、思わずにはいられない。

 

 急使は、返書を待つあいだに白湯を三杯おかわりしたという。関所からの道の寒さが、その三杯に見える気がして、わたくしは四杯目を言いつけた。白湯の一杯は、便宜のうちに入らない。それくらいの融通は、誓いも許すはずである。

 

 返書の草稿は、自分の手で書く。

 

「ご窮状は承りました。しかしながら、決裁の再建も交渉団の任命も、貴国の王権に属する事柄でございます。それは――貴国の内政問題でございます」

 

 ペンを持つ手が、指先から冷えていく。

 

 嘘は、一文字もない。冷たいのは、正しいからである。正しさがこんなに冷たいことを、わたくしは十年前から知っている。知っていて、それでも書く。

 

 書き終えて、助言をひとつ、書き足しかけた。読み上げ式のこと、信任状のこと。ペンは三文字で止まる。求められていない助言は、届かない紙になる。読まれない字の行き先なら、わたくしがいちばんよく知っている。三文字を、丁寧に塗り潰した。

 

 目を閉じると、顔が浮かぶ。王都の市場で香草を売る腰の曲がった婆。籠から立つ、揉まれた薄荷(はっか)の匂い。あの薄荷はいつも少し湿気ていて、それでも王都でいちばん香りがよかった。関所の外で荷に(むしろ)をかけ、雪空を見上げる隊商。あの人たちは、誰の判も待たずに腹が減る。

 

 ――同情で戻れば、楽になれる。

 

 戻って、また王妃の印を預かって、すべてを元通りに回して差し上げればいい。感謝もされるだろう。そうすればわたくしは、また名前のない便利な手に戻る。手は、便利であるほど、顔を見られなくなる。

 

 それだけは、しない。しないと決めた自分の薄情を、わたくしは自分で引き受ける。薄情の分だけ、別の形で返す。それが、わたくしの帳尻の合わせ方である。

 

 その晩、宰相の机で、商いをひとつ設計した。

 

 穀物商組合への、前払い・港渡しの現金取引の紹介である。信用のいらない、いちばん古い形の商い。前払いの原資には、カレンドラ王家の美術品と王領の材木をヴェルトラムの競売商で売った代金を充てる――その段取りの提案書を、返書に添えた。こちらの商人の儲けになる正規の商談であるから、誓いの枠は踏み越えていない。蝋燭が一本、燃え尽きるまでかかった。組み上がった段取りを、欄外でもう一度検算する。癖というものは、国を越えても付いてくるのである。数字を組んでいるあいだだけは、指先の冷えを忘れていられた。

 

 翌朝、草稿を陛下の書見台へ持って上がる。

 

 アルデリック陛下は最後の一行まで目を通し、頁を戻して提案書の数字をもう一度確かめ、それから顔を上げた。

 

「材木の値は、春には下がるであろう?」

 

「はい。ですから雪のあるうちに伐り出して、川開きと同時に流します。競売の期日も、そのように」

 

「よい。これでよい。……して、宰相。眠っておられるか?」

 

「検算は、夜が静かなほど捗りますので」

 

「ほどほどにせよ」

 

 読まれてから返ってくる「よい」は、読まれずに渡される「任せる」と、こんなにも重さが違う。その重さにわたくしはまだ慣れず、受け取るたび、少しだけたじろぐ。たじろいで、それから、じんわりと温かい。温かさに慣れる日が来るのか、まだ分からない。

 

 帰りの廊下で、窓の外の雪をしばらく見る。カレンドラの空も、同じ雲の下にあるのだ。雲は国境を知らない。麦も、本当は知らない。知っているのは、人間の帳簿だけである。

 

       ◇

 

 ロベールの手控え。冬至より三日。

 

 救援の書状への返書、写しが当方にも届く。内政問題、の一句、城の内外にあまねく回覧される。恨む声あり、恥じる声あり。当職は後者である。併せて、前払いの商談の案一式。売立の目録づくりに本日より着手する。大広間の垂れ幕、燭台、先々代の狩りの絵。国庫は絵を食えぬが、絵は麦に化ける。先々代も、お許しくださるであろう。

 

 陛下は、国境へ向かうと仰せ。

 

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