王妃の仕事は愛人には無理だそうですので、国ごと元夫へお返しいたします ~離縁後に「戻ってきて」と言われても、もう隣国の宰相です~ 作:DeDee
年が明けて、雪解けにはまだ遠いころ、カレンドラ国王が国境まで出てこられた。会いたい、という書状が、外交の形式を踏んで届く。
前の夜、わたくしは眠れなかった。
会えば揺れるのではないか、という怯えだけは、どう畳んでも平らにならない。憎んで別れたのではないから、なおのことである。十年は、憎むには長すぎ、忘れるには近すぎる。天井の梁を数えながら、明け方近くにようやく分かった。わたくしが怖いのは、揺れることではない。揺れなかったと知ることのほうが、たぶんずっと怖いのだ。十年をまるごと、なかったことにしてしまいそうで。
鏡の中の朝の顔は、王妃の顔ではなく、眠り損ねた宰相の顔である。それで、よいのだ。宰相の顔で行き、宰相の顔で帰ってくる。それだけを、鏡の中の自分と約束する。
出立の間際、アルデリック陛下が短く仰った。
「宰相の職務ではない。行かずともよい」
「いいえ、参ります。わたくしの帳尻でございますから」
「そうか」
それだけで、送り出してくださる。帰りの刻限も問われない。問われないことが、こんなに歩きやすい。信じられているとは、待たれ方が静かだということなのだと、馬車の中で思う。
国境までの二日、窓の外は白一色である。雪原の果てにカレンドラの山影が薄く見えたとき、胸の奥で、ことりとあの箱の鳴る音がした。
国境の館は、石の壁に雪の匂いがする。門衛が、わたくしに向かって槍を立てた。十年、王家の紋に向けられるのを隣で見てきた礼が、今日は、わたくしひとりに向けられている。
ひと月半ぶりのエメリク様は、ひとまわり痩せて見えた。手の甲の白い、ペンだこには遠い手が、膝の上で所在なく組まれている。玉座も廷臣もない小さな部屋で、暖炉の火だけがぱちぱちと鳴る。あの方は、王ではない声で仰った。
「戻ってきてくれ。頼む」
「わたくしは、もう隣国の宰相です」
「分かっている。分かっているのだ。だが……国が、回らぬ」
それから、あの方はぽつぽつと話された。落馬の後の痛みは、いまも本当であること。ただ、いつからか、痛みを盾にして書類から逃げるようになったこと。医師の言葉を、都合のよいところだけ借りて、読まない日の言い訳にしてきたこと。読めば決めねばならず、決めれば、間違いが自分のものになる。それが、怖かったこと。
話すあいだ、あの方は一度もこちらを見なかった。見ないでいてくれることのほうが、かえって正直に思える。
「そなたが有能であるほど、余は、王でいられなかった」
沈黙が、雪の音より静かに積もる。
憎しみは、湧かなかった。湧いてきたのは、もっと始末の悪いもの――この声を十年前に聞きたかった、という遅すぎた悲しみである。この告白があの夜にあれば、わたくしたちは、夫婦になれたのかもしれない。読まない王と、読まれない妃ではなく、下手でも同じ卓で頁をめくる、ただの夫婦に。
息をひとつ、整える。十年、箱にしまってきた言葉がある。開けるなら、怒りの日ではなく、今日のような静かな日だと決めていた。
「陛下。わたくしは、愛されたかったのではございません」
声は、思ったより静かに出た。開けてみれば、言葉は、こんなに短い。
「読んでほしかったのです。わたくしの書いたものを。表紙の先を、一頁でも」
エメリク様が、目を見開く。それから、とても長く、うつむかれた。暖炉の火が爆ぜて、影が揺れる。
わたくしは鞄から支援協定の条件書を出し、卓の上に置いた。
「戻ることは、できません。代わりに、宰相として、これを」
条件は三つ。国法の読み上げ式を行い、信任状と委任状の決裁の網を建て直すこと。毎朝二刻、御自身で書類を読むこと。そして、ファビエンヌ様の処遇を罰にも盾にもせず、ご本人の選択に委ねること。
「三つ目は……そなたが、それを言うのか?」
「あの方は、わたくしから何も奪っておりません。奪われるより前から、わたくしは持っていなかったのですもの」
エメリク様は、条件書を手に取った。
一枚。二枚。三枚目の裏まで。指先で行を追い、ときどき前へ戻り、最後の一行まで――わたくしは、頁のめくれる音を数えていた。この方の指が紙をめくる音を、わたくしは十年間で、はじめて聞いたのである。
「……受ける」
顔を上げたその目は、疲れて、赤くて、それでも初めて、書いた者の顔をまっすぐ見ていた。それから条件書の欄外に、その場で覚え書きを入れられる。曲がった、不慣れな字である。それでも、書き込みである。読む人は、いつか書き込む人になるのだ。
胸の奥で、長く合わなかった勘定が、小さな音を立てて合う。赦した、というのとは違う。ただ、貸し借りの欄が、十年ぶりに揃ったのである。揃った帳簿は、静かに閉じるものだ。音を立てずに、わたくしは胸の中で表紙を閉じる。
別れ際、あの方は「達者で」とだけ仰った。十年で、いちばん短くて、いちばん嘘のない言葉だった気がする。達者で。ええ、達者でおりますとも。誰よりも。帰りの馬車で、わたくしは久しぶりに、夢も見ずに眠った。
◇
ロベールの手控え。年明けて十二日。
陛下、国境より戻られる。支援協定の条件書は御自ら読み了えられた由、随行の書記官の証言あり。当職、仕えて二十九年、初めて聞く類の報である。読み上げ式の日取りは勅により七日後と定まる。大臣の一同、半信半疑のまま式服の支度を始める。当職は信じる側に立つ。二十九年目にして、初めての賭けである。
陛下は本日、初めて書類を最後まで読まれた。