王妃の仕事は愛人には無理だそうですので、国ごと元夫へお返しいたします ~離縁後に「戻ってきて」と言われても、もう隣国の宰相です~ 作:DeDee
次の冬至まで、あと七日。
ヴェルトラムの宰相府は、朝から紙とインクの匂いがする。一年経って、わたくしはこの匂いを、自分の家の匂いのように吸っている。窓の外を、川湊へ向かう荷橇の鈴が過ぎていく。秋の検地の綴りが棚に並び、夏の川止めの裁定書には枢密院の追認印が並び、川湊の新しい秤の検定簿が机の端で乾く。
どの頁の欄外にも、わたくしの小さな検算がある。ここでは誰かが、それを読むのだ。読まれると知って書く字は、我ながら、少し胸を張っている。朝いちばんに、川止め明けの通航願いへ判を置いた。わたくし自身の判である。押すたびに、まだ少し、背筋が伸びる。
取り次ぎが、来客を告げた。
「カレンドラ王妃、ファビエンヌ様」
応接の間に入ってきたその方は、一年前より少し痩せて、ずっと大人の顔になっていた。目の下にうっすらと隈があり、右の中指の腹に、見覚えのある染みがある。インクの染みである。わたくしのそれと、同じ場所に。
挨拶もそこそこに、あの方は深く、頭を下げた。
「教えてくださいませ。あの方の国の、回し方を」
「……お顔を、お上げください」
「わたくし、申しましたわね。愛していれば務まると」
顔を上げたファビエンヌ様は、笑おうとして、少しだけ失敗なさった。
「愛だけでは、務まりませんでした。紙の山を初めて見た日に、分かりましたの。あなたさまが七年も、あの山をおひとりで崩していらしたことも」
読み上げ式の朝のことを、あの方は話された。陛下が国法の条文を、つかえながら最後まで音読なさったこと。委任状三十八通が、新しい日付で発行し直されたこと。財務卿が式のあいだじゅう、瞬きを忘れていたこと。いまは頭痛の重い日でも、音読を短くして、その分を翌朝に必ず足していらっしゃること。話しながら、あの方は二度、言葉に詰まった。詰まるたび、指のインクの染みを、袖の中へ隠すようにする。隠さなくてよいのに、と思う。その染みは、恥ではない。
「それでも、まだ足りないのです。わたくしが、読めませんの。帳簿が」
「最初は、誰でも読めません」
「……あなたさまも、ですの?」
「わたくしは、読めるふりから始めました。ふりを十年続けると、本物になります」
ファビエンヌ様が、初めて小さく声を立てて笑う。笑うと、年相応の顔になる方である。
わたくしは、棚から薄い綴りを下ろした。この一年、手すさびに書き溜めた、帳簿の読み方の覚えと、王妃の一年の暦である。冬至の前に何を検め、春の増水の前に何を命じるか。誰の目も当てにせず、それでも書かずにいられなかった紙の束である。表紙には、まだ何も書いていない。題は、渡った先で付けばよいのだ。
かつてのわたくしは、これを誰にも渡せなかった。渡す相手も、訊きに来る人も、いなかったのだから――。
この方は、訊きに来てくれた。国境を越えて、頭を下げに来たのである。それだけで、この紙の束は初めて意味を持つ。
「差し上げます。分からないところは、文でお訊きなさいませ。宰相府気付、わたくし宛てに」
「……よろしいのですか?」
「ええ。ただし、条文の検算は、ご自分でなさること」
ファビエンヌ様は綴りを両手で抱え、もう一度深く頭を下げた。この方を奪った人だと思っていた時期が、わたくしにもなかったとは言わない。いまは、違う。同じ場所に立たされて、逃げずに立つほうを選んだ人である。同じ山を崩す人である。
わたくしの十年の孤独を、この方には渡さずに済むかもしれない。一年前のわたくしに、教えてやりたい。あなたの書いたものは、いつか国境を越えて、あなたを送り出した国を、支えに行くのだと。
午後には、新しい年次協定の調印式が待っている。
調印の広間には、枢密院の年寄りたちと商組合の頭たちが並んだ。麦を商う人々の顔は、冬でも、どこか日に焼けている。よい顔である。帳簿の外で麦を運ぶ人々こそ、条文の本当の読み手である。読み手のいる紙は、幸いなのだ。
カレンドラ側の署名権者は、読み上げ式で信任を得た外務卿。あの崩れた楷書の人である。卓の向こうで条文を読み上げるその字も声も、もう崩れていない。ヴェルトラム側の署名権者は、宰相――わたくしである。
去年、無音で切れた約束が、今年は双方の声で読み合わされて、新しい日付を得る。数字の列を、両国の声が順に読んでいく。わたくしが欄外に書いてきた検算は、今年は欄外ではなく、条文の中に清書されている。切れた縁の結び直しは、こういう手順でよいのだと思う。国も、人も。
読み合わせを終えると、係官が羊皮紙をわたくしの前へ滑らせる。署名の欄には肩書きと、名を書く場所があった。
ペンを、浸す。
オディール。
ペン先の走る音が、静かな広間に思いのほか高く響く。十年、印璽の中に封じられていた名は、書いてみれば、こんなにも軽く、こんなにも、わたくしのものである。
インクの乾くのを待つあいだに、アルデリック陛下が隣で短く仰った。
「次の十年も、その名で頼む」
「――かしこまりました」
式のあと、外務卿が歩み寄って、深く一礼をなさった。あの折の返書には、いまは感謝している、と小さく仰る。内政問題の一句に頬を打たれた気がして、以来毎朝、自分の判は自分で捺しているのだそうだ。
窓の外は、今年も雪である。
降っては積もり、積もっては、春に融ける。国と国との約束は毎年結び直され、帳簿は毎年繰り越され、そのどの頁の端にも、わたくしの小さな検算が残っていくのだろう。
わたくしの名は、もう、紙の外にもある。