原作未履修の人は、一度、一話の補足を見直すことを推奨します。
あんなとみくるがゴウエモンの方へと駆けていき、その場には俺とくれあだけが残された。先ほどまでどこか情趣を感じさせた夕焼けも、今はとにかく虚しく感じられた。
「……ねえ、ロイくん」
さっきからずっと摘まれていた服の裾が、きゅっと引かれる。
振り向いて見れば、真っ先にくれあの顔が目に入った。
その目は赤く腫れていて、でも、彼女は俺と目を合わせてきた。体を寄せてきて、そして俺の手を掴もうとして、はっとしたように己の手を確認した。その手がまだ血で汚れていることに気づき、唇を噛みながら、悔しそうに手を引っ込めた。
「──っ」
「……気にすんなよ、それくらい」
今度は俺の方から手を取った。引っ込められた手を、握った。血がついているからなんだというのか。そんなこと、どうでもいい。
「……私って、無力なんだなぁって」
ふと、くれあが俺の胸に顔を
「ロイくんは、さっき真っ先に動こうとしてくれて、あんなちゃんやみくるちゃんも協力してくれているのに、さ。私には何もできない」
「……そんなことは、」
「ない? 嘘だよね。そんな、束の間の慰めとかいらないから。誰が見ても一目瞭然。私は、無力よ」
吹っ切れでもしたのか、あるいは冷静さに欠いても仕方ないと自覚しているのか、彼女は実に淡々と独白を続ける。たぶん、後者だ。
「あんなことがあっても、動く勇気もない。プレゼントを奪われて、呆然と立ち尽くすことしかできなかったわ。悔しくて手に血を握ることしかできなかった」
くれあの声には苛立ちがあった。自分自身への苛立ちだろう。
ああ、でも、そりゃあ、そうなるよな。だって彼女の絶望は、
「……わからない、わからないの、なんだか、この無力感はね。気持ち悪い感じはね、ずっと前にも、」
──前にも、あった。
……そうだろうな。
そして、その、君の無力から脱却したいという強い意志が、結果的に他でもない君自身を傷つけたんだ。ならば、
「いいだろ、無力だって。無力でなにが悪いんだ。無力なら頼ればいいだろ、無力なりに、俺も、あの探偵さんたちもいるんだ。君には君の良さがあるじゃないか」
ならば、そんなものはいらない。無力でいいのだ。無力なら無力なりに誰かを頼ればいい。無力なのに、戦おうとしなくていい。無力であることを、自責のきっかけになんてしなくていい。
「……そういうものなの」
「頼れる人がいるんなら、頼ればいいじゃないか」
まあ、これは今回──二度目に言えることだ。
一度目の彼女に、そんなことは言えなかった。
だって当時は、一度目は、頼れる人なんて碌にいなかったんだよな。あの時の俺もまた、同時に弱かった。るるか一人では限界があった。俺がるるかくらいしっかりしていれば、くれあは自身の力など引き出さずに済んだわけだ。
だから、俺は強くなったのに、
「結局、あの子達に任せちゃったなぁ」
合理的な判断だ。でも、やるせないものは、ある。
「ねえ、ロイくん。……ロイくん。あの、さ。ロイくん、聞いてほしいの。聞いてほしい。もう、怖いの。ダメなの。無力を自覚してしまったのに、一人で不安になるのは嫌なの。ねえ、ロイくん。……頼っても、いいんでしょ?」
くれあの抱擁が強くなった。震えている。これは恐怖だろう。何に対しての、恐怖なのか。察しがついてしまった。
「…………。……ああ、そうくるかい」
「……ダメ?」
「…………」
もはや突き放すことはできなかった。
俺には察しがついてしまった。
そっちの流れに、行ってしまうか? なにを間違えた? 今、俺は掛ける言葉を間違えたのか? 今彼女に、ここで言わせてしまうのか? いや、それは、
「なあ、くれあ。あの、やっぱり、」
「もう誤魔化さないで。躱さないで。しっかり私に言わせてよ。それで答えて。応えなくてもいいから。答えだけでも、教えてよ。……怖いの。こんな曖昧な関係は、無力な私にとっては怖いのよ。こんなんじゃ、いつか消えてしまいそうで」
つまり、曖昧ではなくそうとしている。
でも、そうか、なるほど。結局長々と誤魔化すのが一番悪手だったわけか。のらりくらりが、一番彼女を苦しめていたわけか。
「ロイくん」
くれあが俺から離れ、まっすぐに向き合った。その目には既に涙なんてなくって、覚悟の光だけがきらめいていた。
──嫌だ。
その瞬間、切実にそう思った。言わないでくれ。やめてくれ。お願いだから。
「くれあ、それは、」
「蓮堂ロイくん!」
くれあは大きく声を上げた。なにか宣言でもするように、なにか大切なことを「告白」でもするように。
ああ、ダメだ。ダメだ。もう誤魔化せない。もう躱せない。もう、聞くしかない。受け止めるしかない。嫌だ。それは嫌だ。でも、どうすれば、
「あのっ、くれあっ──……」
しかし、俺の足掻きなど虚しく、
「蓮堂ロイくん。私、帆羽くれあは、」
俺がかつて、誰よりも何よりも望んだその光景は、その言葉は、こうして、俺が一番望まない形で、
「──貴方のことが好きです。一人の男性として、好きです。大好きです。私と、お付き合いしてください」
まっすぐに、投げられた。
「……っ」
言った。言われた。くれあに言われた。「好き」だと。友達としてじゃない。一人の男性として「大好き」だと。夢じゃない。現実だ。
途端に顔が熱くなる。胸が高鳴る。体温が上昇する。目の前が覚束なくなって、幸福感が俺の中に溢れ出す。ずっと聴きたかった言葉。ずっと、欲していた言葉。今度こそ俺と彼女を繋ぐ、運命の言葉。
気がつけば、涙が溢れていた。
これは嬉しさゆえか、あるいは──苦しさゆえか。前者なら、どれほど良かったことか。
「……くれ、あ」
ああ、やっぱり、こうなってしまうのか。こうなってしまうのは避けられなかった。やっぱり、今の彼女と関わったのが間違いだったのだろうか。放置しておくべきだったのだろうか。
いつどこで戻してしまったのか。いつの間に、それを俺に向けさせてしまったのか。彼女の
ああ、これにて、これまでの対策も水の泡だ。のらりくらり適当言って、安売りした「好き」という言葉も、軽くした「愛してる」も、結局本物の重さには、本物の「好き」には敵わない。
つまり、俺は今まで無駄に彼女を傷つけただけになってしまった。
──もう、いいじゃないか。
そんな言葉が俺の頭をよぎった。
別に、躱さなくてもいいじゃないか。ここで付き合ってもいいじゃないか。告白を受け入れてもいいじゃないか。
……でも、やっぱり頷けない。思い浮かぶはかつての懸念。
──寿命。
いや、いや。そもそも俺が将来孤独になるのは平気なのだ。独りには慣れてる。彼女の寿命が許す限りでも、八十年でも九十年でも、たったそれだけでも、共に添い遂げられればさ。それが叶えばさ、二百年後も三百年後も、俺は幸せでいられるはずさ。
だから、
だから、
だから、だから──
『──ごめんね、ロイくんとはお付き合いできない。私では、あなたを幸せにすることができないから』
だから、……やっぱりダメ、だよな。
ああ、そうだよな、くれあ。俺はここで頷いてはいけない。ここで君の手を取ってしまうことは、他でもない君の願いに反するから。
そもそも、さ。事情を話したら、今のくれあでも俺を振りそうだ。くれあは自分の幸せより俺の幸せを望むんだからさ。二百年後や三百年後に俺が独りになってしまうことを、くれあは許さないだろう。
なら、答えはやっぱり決まってる。
「──悪いな、くれあ。君と付き合うことはできない」
俺は一分ほどの沈黙を、こうして打ち破った。
思いの外に、潔く断れた。うん。潔かったはずだ。
再び二人の間に静寂が訪れる。だが、くれあの二の句は早かった。
「そう、だよね」
彼女はどこか案の定とでも言うように、諦観の笑みを浮かべていた。強がらんとした作り笑いから、涙が溢れていた。
「……あはは、あのね、私、わかってたの。いつからか、あなたに恋をしたんだって気づく前から、多分あなたと恋人になることはできないなって、なんとなくわかってた。わかってたの。確かに私のことを大切に思ってくれているのに、私からの愛にはどうしても居心地悪そうにしてたのも、わかってた。私、からのっ、告白なんて望んでなかったんだって、全部っ、わかってたの。……それ、でもっ、ね。それでもっ」
くれあが再び抱きついてきた。だから俺も抱きしめ──返せなかった。
「……それ、でも、あなたのことが大好きなの」
それから五分ほど、その状態のままに沈黙が続いた。道ゆく人々はそれを不思議そうに見ていきながらも、立ち止まることはなかった。海の見える夕焼けを前にして、俺たちも風景のようになっていた。
やがて、
「……ロイくん」
くれあが顔を上げた。もう泣き腫らしてぐちゃぐちゃだったが、彼女は気にした様子も見せない。その目には覚悟があった。さっきの、告白直前の覚悟とは違うものだった。
「……行って。プレゼント、取り返してくれるんでしょ。無力な私と違って、ロイくんには力があるんでしょ。……なら、頼らせて。行ってあげて。あんなちゃんとみくるちゃんだけに、任せるわけにはいかないから」
「……ん。分かった」
五分続いた密着は、そうしてあっさりと解かれた。
俺はもう振り返らず、ゴウエモンたちのいる方へ歩き出す。
歩いてくうちに、くれあからはもう見えないところまできた。
──ロイタン……どうしてでシュ……
さっき、そんな声が聞こえたような気がした。
気がした、じゃないんだろう。確かに聞こえたんだ。
……ま、お前は前向きなやつだもんな。くれあが俺を振っても、これだけは譲らなかったお前だもんな。くれあが俺を振ったあの日、珍しく怒っていたのはお前だったよな。マシュタンに頼んで何度も占いをしては、俺とくれあに結果を突きつけてきたお前だもんな。お前はこれをどうにかしようと、まだ手を打つかもしれないな。でもな──
「……悪いな
唱えれば、それは俺の『追憶』より顕現した。右手にはティアアルカナロッド。左手にはプリキットグロス。
「……さて、ぶっ殺すか。ゴウエモン」
一旦、蓮堂ロイとはおさらばだ。ここからは、俺の実力の見せ所である。
次回!『偽アルカナ・シャドウ現る!』デュエルスタンバイ!