「波の国?」
玄関先で、シカマルが珍しくはっきりと眉を寄せた。
「うん」
カゲマルは忍具袋の紐を締め直しながら答える。
火影邸を出たあと、一度だけ帰宅を許された。
着替えと忍具の補充。必要最低限の荷物をまとめ、家族へ事情を伝えるためだ。
一時間後には東門へ集合し、そのまま出発する。
「第七班の増援だって」
「ナルトたちの?」
「そう」
シカマルの視線が、カゲマルの腰に下がる忍具袋へ向いた。
いつものDランクとは違う。それくらいは説明されなくても察したのだろう。
「何かあったのか?」
カゲマルは少し迷ってから答えた。
「道中で襲撃を受けた」
「……忍に?」
「霧の抜け忍」
シカマルの表情から眠たげな色が消える。
「それ、Cランクじゃねぇだろ」
「多分ね」
「多分って」
「だから増援が出る」
なるべく軽く言ったつもりだったが、シカマルはじっとこちらを見ている。
面倒くさがりのくせに、こういう時だけ妙に鋭い。
「兄貴」
「ん?」
「無茶すんなよ」
カゲマルは目を瞬いた。
「何、その顔」
「いや、シカマルに言われると思わなかった」
「俺だって言う時は言う」
「そうだな」
思わず笑ったところで、奥から足音が聞こえた。
吉乃が小さな布包みを手に現れる。
「カゲマル、これ」
受け取って開けば、中には握り飯がいくつか入っていた。
「道中で食べなさい」
「ありがとう」
吉乃はそれ以上何も言わず、息子の額当てを見たあと、僅かに乱れていた襟元を直した。
「怪我はしないで、なんて言えない仕事なのは分かってる」
声はいつものように強い。
ただ、襟を整える指先だけが少しゆっくりだった。
「でも帰ってきなさい」
「うん」
カゲマルが頷くと、居間からシカクも歩いてきた。
「担当はゲンマだったな」
「うん」
「なら、まず先生の判断に従え」
「分かってる」
「分かってる奴が勝手に動いてミズキの所へ行ったんだがな」
「……」
カゲマルが視線を逸らす。
横でシカマルが吹き出した。
「兄貴、何も言えねぇじゃん」
「うるさい」
シカクの口元にも僅かな笑みが浮かんだが、すぐに表情を戻した。
「一つだけ覚えとけ」
「何?」
「里の外じゃ、知らないことが増える。地形も、人間も、敵もな」
シカクはカゲマルの額を指で軽く叩いた。
「頭の中で答えを作りすぎるな」
カゲマルは一瞬、言葉を失った。
まるで自分の秘密を知っているかのような言葉。
もちろん、そんなはずはない。
それでも、前世の記憶を頼りにこの先を考え続けていた自分には妙に刺さる。
「現場で見たもんを信じろ」
「……はい」
今度は素直に答えた。
---
東門へ着くと、すでにスズが待っていた。
背負い袋に忍具袋。普段より少しだけ装備が多い。
「早いね」
「カゲマルも」
「レンは?」
「まだ」
「珍しい」
そう言った直後、遠くから声が響いた。
「待ったぁぁぁ!」
振り返ると、レンが妙に大きな荷物を背負って走ってくる。
「……何それ」
スズが尋ねる。
レンは息を切らしながらも胸を張った。
「遠征用!」
「何入ってるの?」
「着替え! 食料! 毛布! 予備の靴!」
そこで一度息を吸い。
「あと鍋!」
沈黙。
カゲマルが聞く。
「なんで鍋?」
「必要かもしれないだろ!」
「何に?」
「料理!」
スズが額を押さえた。
「旅行じゃない」
「遠出だぞ!?」
「任務」
「遠出する任務!」
「同じじゃない」
「違うの!?」
「朝倉」
低い声に、三人が同時に振り返る。
門柱の横にゲンマが立っていた。
「先生!」
ゲンマはレンの荷物を一瞥する。
「半分置いてこい」
「えぇ!?」
「五分」
「今から!?」
「四分」
「行ってきます!」
レンが来た道を全力で戻っていった。
カゲマルが苦笑する。
「先生、いつからいたんですか?」
「鍋の辺り」
「全部聞いてた」
スズが呟く。
ゲンマは残った二人の装備も順番に確認した。
「水」
「あります」
「兵糧丸」
「はい」
「包帯」
「あります」
「予備の苦無」
カゲマルが忍具袋を軽く叩く。
「大丈夫です」
「よし」
確認を終えたゲンマは門の外へ目を向けた。
そこから先は、もう木ノ葉ではない。
カゲマルも改めて門の向こうを見る。
ここまで来たことなら何度もある。
だが、忍として任務で里を出るのは初めてだった。
胸の奥に、高揚と緊張が入り混じる。
「先生」
スズが尋ねる。
「波の国までどれくらいですか?」
「普通に歩けば数日」
「走ります?」
「最初はな」
「最初?」
「お前らの体力を見る」
カゲマルが眉を上げる。
「任務中に?」
「任務中だからだ」
そこへ、レンが戻ってきた。
「間に合ったぁ!」
確かに荷物は半分ほどになっている。
「鍋は?」
カゲマルが聞く。
「置いてきた」
「偉い」
「なんで褒められてんの俺?」
ゲンマは三人を見回す。
「じゃ、行くぞ」
その一言で空気が引き締まった。
カゲマルは門の外へ足を踏み出した。
わずか一歩。
それだけなのに、里の中とは何かが違って感じられた。
---
最初の一時間、レンは元気だった。
「意外と余裕だな!」
木々の枝を飛び移りながら、先頭を走るゲンマへ声を飛ばす。
「もっと速くてもいいんじゃないですか!」
「いいぞ」
「マジですか!」
「じゃあ速度上げる」
次の瞬間、ゲンマの背中が一気に遠ざかった。
「え――ちょ、速っ!」
カゲマルとスズもすぐに速度を上げる。
十分後。
「先生ぇ! 待って!」
すでにレンの声から元気が消えていた。
「自分で速くしろって言ったろ」
「限度があります!」
「敵は限度聞いてくれないぞ」
「そういう話!?」
カゲマルは走りながら苦笑した。
もちろん、自分にも余裕があるわけではない。
ゲンマは明らかに三人へ合わせている。それでも速かった。
足場になる枝を選び、次の着地点と周囲の状況まで確認しながら移動する。
アカデミーの訓練とは違い、足を滑らせれば本当に怪我をする。
「スズ、大丈夫?」
「まだ」
呼吸は乱れているが、走りは安定している。
レンも文句こそ多いものの遅れてはいない。
(やっぱり体力あるな)
純粋な走力なら、自分よりレンの方が上かもしれない。
やがてゲンマが片手を上げた。
「止まれ」
三人が着地すると、レンはすぐ木へ手をついた。
「休憩……?」
「三分」
「短っ!」
「二分」
「三分で!」
カゲマルが水筒を取り出したところで、ゲンマが言う。
「走った直後に一気に飲むなよ」
「はい」
少量だけ口に含む。
スズもそれに倣う中、レンだけが水筒を大きく傾けかけて慌てて止めた。
「……危な」
「今言われたばっかり」
「反射だよ!」
そのやり取りを流し、ゲンマが三人を見る。
「今のうちに言っとく。里の外じゃ、俺が全部教えると思うな」
レンが顔を上げた。
「え?」
「俺が気付いた罠や気配を、毎回お前らに教えるとは限らない」
スズが少し眉を寄せる。
「自分で気付けってことですか」
「そういうこと」
ゲンマは口元の千本を揺らした。
「俺はお前らの先生だが、任務中はお前らも忍だ」
その言葉に三人の表情が引き締まる。
「ただし、気付いたからって勝手に動くな」
まずレンを見る。
「……なんで俺見るんです?」
「心当たりない?」
「……ちょっとだけある」
「あるんだな」
次にカゲマル。
「一人で残ろうとするのも禁止」
「……分かりました」
最後にスズへ視線を向ける。
「情報を拾ったら、小さいことでも共有しろ」
「はい」
「以上」
レンが首を傾げた。
「先生は?」
「何が」
「先生の禁止事項」
「ない」
「ずるくないですか?」
「俺が班長だから」
「権力!」
スズがぼそりと呟く。
「理不尽」
ゲンマは少し笑った。
「休憩終わり」
「もう!?」
---
それから数時間。
休憩を挟みながら四人は東へ進み、見慣れた木ノ葉周辺の景色は少しずつ知らないものへ変わっていった。
途中で小さな村を通った。
畑仕事をする人。
荷車を引く商人。
旅人。
中には、四人の額当てを見てさりげなく道を空ける者もいる。
カゲマルにはそれが少し不思議だった。
里の中では、忍は珍しくない。
だが外の人間から見れば、依頼を受けて戦う者であり、護衛でもあり、時には恐れる対象にもなる。
「見すぎ」
隣のスズが小声で言った。
「え?」
「周り」
「ああ」
「珍しい?」
「ちょっと」
前を走っていたレンが振り返る。
「俺も!」
「前見て」
「大丈夫だって」
直後。
ゴン。
低い枝へ額をぶつけた。
「痛っ!」
スズがため息をつく。
「だから言った」
カゲマルは笑った。
---
夕方近く。
ゲンマが速度を落とした。
「今日はここまで」
小さな川が流れる、森の中の開けた場所だった。
レンがその場へ座り込む。
「やっと……」
スズも木へ背を預けた。
「ここで野営ですか?」
カゲマルが尋ねる。
「ああ」
「宿じゃないんですね」
「近くにない」
ゲンマは疲れた様子の三人を見る。
「で、何してる」
レンが首を傾げた。
「休憩?」
「野営準備」
「俺たちが?」
「誰がやるんだ」
「先生?」
「寝るぞ、俺」
「まだ夕方ですよ!?」
「じゃあ朝まで頑張れ」
「やります!」
カゲマルは笑いながら荷物を下ろした。
「役割決めよう」
「俺、薪集め!」
レンが即座に立ち上がる。
スズが見る。
「何でそんな嬉しそうなの」
「こういうの忍っぽい!」
「基準が分からない」
「じゃあレンは薪。スズは水お願いしていい?」
「うん」
「俺は寝る場所作る」
そこでゲンマが尋ねた。
「俺は?」
三人の視線が集まる。
カゲマルは少し考えてから答えた。
「周囲の警戒?」
ゲンマの眉が僅かに上がる。
「正解」
「ずるい!」
レンが叫ぶ。
「一番大事だぞ」
「そう言われると何も言えない!」
---
日が落ちた頃には、野営の準備も一通り整っていた。
焚き火を囲み、簡単な食事を取る。
吉乃にもらった握り飯を取り出すと、レンの目が輝いた。
「うまそう!」
「食べる?」
「いいの!?」
「あるから」
一つ渡し、スズにも差し出す。
「私は半分でいい」
「じゃあ半分」
三人で分ける横で、ゲンマは火へ小枝を投げ入れていた。
「先生も食べます?」
「いい」
「持ってるんですか?」
「兵糧丸」
レンが顔をしかめる。
「味ないじゃないですか」
「腹に入れば同じ」
「人生損してる」
「お前に言われたくない」
穏やかな時間だった。
ただ、周囲を囲む暗い森を意識すると、里の中と同じように気を抜くことはできない。
カゲマルも無意識に何度か闇へ視線を向けていた。
その時。
スズが顔を上げた。
「……」
すぐにゲンマも彼女を見る。
「どうした?」
カゲマルが小声で聞くと、スズは人差し指を立てて耳を澄ませた。
「人じゃない。獣」
レンの身体が僅かに強張る。
「どっち?」
「向こう。一匹……小さいと思う」
森の奥を示す。
ゲンマが尋ねた。
「距離は?」
「……五十、いや、もう少し遠い」
「そうか。こっちには来てない。気にしなくていい」
そしてスズを見る。
「今のは良かった」
「……はい」
僅かに表情が緩んだ。
まだ彼女の耳は、あくまで人より優れた聴覚だ。
それでも、こうして情報へ変換できるようになれば、班にとって大きな武器になる。
「じゃあ、見張り決めるぞ」
ゲンマが言う。
レンの顔が固まった。
「寝られないんですか?」
「交代」
「あ、よかった」
「お前最初」
「よくなかった!」
---
翌朝。
日の出と共に出発した。
眠そうなレン。
いつも通りのスズ。
そして、いつ休んだのか分からないほど普段と変わらないゲンマ。
「先生、寝ました?」
「寝た」
「いつ?」
「お前が見張りで寝そうになってた時」
「見てたんですか!?」
「班長だから」
「便利だな、その言葉!」
カゲマルは笑った。
昨日より四人の空気は軽くなっていたが、第七班との距離が縮まるほど、カゲマルの胸には再び緊張が戻ってくる。
---
昼前。
街道を進んでいたゲンマが突然足を止めた。
「先生?」
「静かに」
三人もすぐに動きを止める。
ゲンマが街道の端へしゃがみ込んだ。
土が不自然に抉れ、近くの木には鋭い傷が残っている。
「これ……」
レンも跡を見る。
「戦った跡?」
「多分な」
スズは周囲を警戒したまま視線を巡らせる。
少し先には踏み荒らされた土。
さらに街道脇の草の中で、何かが光った。
カゲマルが近づく。
落ちていたのは、先端に鋭い爪の付いた鎖の一部。
見覚えがあった。
(鬼兄弟)
原作で、鬼兄弟が使っていた特殊な鎖。
ゲンマが拾い上げ、形状を確認する。
「霧の忍具だな」
「ここで第七班が襲われた?」
スズが尋ねる。
「可能性は高い」
ゲンマの声音が低くなった。
レンも黙り込む。
つい昨日まで野営や荷物のことで騒いでいた。
だが今、目の前にあるのは、本当に忍同士が殺し合った痕跡だ。
ゲンマは鎖を置いて立ち上がる。
「ここから先、昨日までのつもりで動くな」
三人が頷いた。
「隊列を変える。俺が先頭。奈良、朝倉、水無瀬の順だ」
そして一人ずつ確認する。
「水無瀬。耳を使え。ただし頼りきるな」
「はい」
「朝倉。勝手に前へ出るな」
「……はい」
「奈良」
「はい」
「考えすぎるな」
カゲマルは一瞬だけ黙った。
家を出る前に父からも似たようなことを言われたばかりだ。
少しだけ笑う。
「はい」
ゲンマが前を向く。
「急ぐぞ」
四人は再び走り出した。
第七班は、この先にいる。
そして、その先には桃地再不斬がいる。
鬼兄弟の鎖と、街道に残された戦闘の跡。
それを目にしたことで、カゲマルはようやく実感していた。
これから向かう場所にあるのは、前世で読んだ物語ではない。
判断を誤れば、本当に人が死ぬ。
カゲマルは忍具袋へ一度触れ、先頭を走るゲンマの背中を追った。