翌朝。
波の国は、薄い霧に包まれていた。
窓の外を見ながら、カゲマルは忍具袋の中身を確認する。苦無、手裏剣、ワイヤー、起爆札。それからゲンマに渡された信号弾。
昨日までと同じ装備。それなのに、手に取った時の重さが違って感じる。
「三回目」
後ろから声がした。
カゲマルが振り返る。
スズが見ていた。
「何が?」
「忍具の確認」
「見てた?」
「見えるから」
「念のためだよ」
「二回で十分じゃない?」
「……そうかも」
カゲマルは忍具袋を閉じた。
すると隣でレンが慌てて自分の袋を開く。
「俺も確認しよ」
「今?」
「カゲマルが三回やってるなら、俺一回しかしてない」
「回数の問題じゃないよ」
「苦無よし。手裏剣よし。包帯よし」
スズが覗き込む。
「兵糧丸は?」
レンの動きが止まった。
「……あ」
「忘れてる」
「まだ家の中だから!」
「一回の確認もできてない」
「今気づいたからいいだろ!」
レンが荷物へ走っていく。
カゲマルは苦笑した。
緊張しているのは自分だけではない。
昨日の夜、三人とも認めた。
怖い。
だからこそ、いつも通りでいようとしている。
「カゲマル」
スズが呼ぶ。
「何?」
「今日は考えすぎないでね」
「……そんなに分かりやすい?」
「最近は」
「気をつけます」
「あと、一人で何とかしようとしない」
「分かってる」
「本当に?」
「本当に」
スズは数秒見つめたあと、ようやく頷いた。
信用がない。
いや、これまでの行動を考えれば仕方ないか。
---
朝食を終える頃には、全員の準備が整っていた。
カカシも忍装束を身につけている。昨日までの弱々しい歩き方は消えていた。
完全回復とまではいかないのだろうが、少なくとも見た目だけなら、いつものカカシに戻っている。
「先生、本当に大丈夫なの?」
サクラが心配そうに聞く。
「大丈夫、大丈夫」
「昨日まで寝てたじゃないですか」
「人間、寝れば治るもんだよ」
「そんな適当な……」
カカシは笑っている。
だがゲンマは違った。
「写輪眼は?」
「必要なら使う」
「聞きたいのは、使った後だ」
「前回ほど無茶はしないよ」
「信用していい?」
「たぶん」
「信用できねぇな」
二人の会話を聞いていたレンが、カゲマルへ小声で聞く。
「仲いいよな?」
「多分」
「本人たちは否定しそう」
スズが言う。
聞こえていたらしい。
「そこ、聞こえてるぞ」
ゲンマが振り返る。
三人とも黙った。
タズナが立ち上がる。
「そろそろ行くぞ」
その声で空気が変わった。
今日はタズナの護衛。そして、再不斬が再び現れる可能性がある。
カカシが床へ簡単な地図を広げた。
「出る前に配置を確認するよ」
タズナの家。
建設途中の橋。
その間を結ぶ道。
カカシが橋を指す。
「俺と第七班は、昨日まで通りタズナさんについて橋へ行く」
ナルトが拳を握る。
「今度こそあいつが来てもぶっ飛ばしてやるってばよ!」
「話聞いてた?」
カカシが見る。
「再不斬が来た場合、正面から相手をするのは俺」
「分かってるってばよ」
「本当に?」
「分かってる!」
サクラがため息をついた。
カゲマルは地図を見る。
そこまでは当然だ。
タズナは依頼人。
再不斬の標的でもある。
戦力として最も高いカカシが直接護衛につくのは自然だった。
では。
ゲンマと第十一班は。
「俺たちはここだ」
ゲンマが指したのは橋ではない。
タズナの家。
レンが少し意外そうな顔をする。
「家に残るんですか?」
「ああ」
「でも再不斬はタズナさんを狙ってるんですよね?」
「だからカカシが行く」
ゲンマは淡々と答えた。
「俺まで橋に行ってどうする」
レンが口を閉じる。
ゲンマは地図を指で叩いた。
「相手は再不斬一人じゃない。あの仮面の奴もいる。それに、ガトーには忍以外の手下もいる」
カゲマルの目が僅かに動く。
「家族……」
ゲンマがこちらを見る。
「そういうことだ」
カカシが続ける。
「タズナさん本人を殺せないなら、家族を人質にして橋を止めさせる方法もある。俺たちが全員橋に集まったら、こっちは無防備になるからね」
原作を知っているカゲマルには、その言葉が重かった。
ツナミとイナリは実際に狙われる。
だが。
今の判断は。
自分の未来知識から出たものではない。
カカシとゲンマが、現状の情報から普通に導き出した。
それが少し嬉しかった。
「第十一班は俺と一緒に家を守る」
ゲンマが三人を見る。
「ただし、家の中に四人で座って待つわけじゃない」
指が地図の周囲をなぞる。
「水無瀬」
「はい」
「お前は家を中心に周囲の音を拾え。ただし、耳だけに頼るな」
「はい」
「朝倉」
「はい!」
「何か見つけても一人で突っ込むな」
「……はい」
返事が少し遅い。
「奈良」
「はい」
「全体を見ろ」
カゲマルは一瞬だけ目を瞬いた。
「指示を出していいんですか?」
「必要ならな。ただし、全部自分でやろうとするな」
「分かりました」
ゲンマは最後に三人を見る。
「俺がいる以上、忍が来た時にお前らだけで相手する必要はない。まず知らせろ。勝手に戦闘を始めるな」
レンが少しだけ残念そうな顔をする。
ゲンマが見逃さなかった。
「朝倉」
「はい」
「今、ちょっと戦ってみたいと思っただろ」
「……ちょっとだけ」
「正直でよろしい」
「駄目ですか?」
「駄目」
即答だった。
レンが肩を落とす。
カカシが苦笑する。
「初めての実戦前はそんなもんだよ」
「カカシ」
ゲンマが見る。
「煽るな」
「煽ってないよ」
「うちの馬鹿がその気になる」
「馬鹿って言いました!?」
「聞こえてたか」
「聞こえる距離ですよ!」
スズが小さく言う。
「私じゃなくても聞こえる」
少しだけ空気が緩む。
それでも。
カゲマルには分かっていた。
この配置は正しい。
そして。
だからこそ。
原作とは大きく変わる。
自分たちは。
橋へ行かない。
---
出発前。
ナルトが玄関で振り返った。
「カゲマルたち来ねぇの?」
「俺たちはこっちの護衛」
カゲマルが答える。
「そっか」
少し残念そうだった。
レンが笑う。
「俺いないからって修行サボんなよ!」
「サボらねぇってばよ!」
「木登り俺より遅かったしな」
「もうできる!」
「俺の方が先だった!」
「一日だけだろ!」
「一日は一日だ!」
サスケが外から言う。
「置いてくぞ、ウスラトンカチ」
「待てサスケェ!」
ナルトが慌てて走り出す。
途中で。
もう一度振り返った。
「じゃあな、カゲマル!」
カゲマルは手を上げる。
「うん。また後で」
「おう!」
第七班とタズナが歩いていく。
カゲマルはその背中を見送った。
知っている。
この先。
橋で何が起こるのか。
白。
魔鏡氷晶。
サスケ。
ナルト。
再不斬。
カカシ。
胸の奥がざわつく。
今からでも。
言おうと思えば言える。
白の術を。
再不斬の戦い方を。
知っていることを。
だが。
「カゲマル」
スズの声。
「ん?」
「また考えてる」
カゲマルは少し黙ったあと、息を吐いた。
「……うん」
「先生が言ってた」
「全体を見ろ?」
「それ」
スズは家の周囲へ目を向ける。
「今、私たちが見るのはこっち」
その言葉に。
カゲマルは目を瞬いた。
それから笑う。
「そうだね」
今。
自分には役目がある。
未来の記憶だけを見て。
目の前を疎かにするな。
父にも。
ゲンマにも。
何度も教えられたことだ。
カゲマルは第七班の背中から視線を外した。
「じゃあ始めようか」
レンが拳を打ち合わせる。
「おう!」
スズも頷いた。
「配置は?」
カゲマルは家と周囲を見る。
正面には道。
裏には林。
少し離れたところに別の民家。
「最初は三人で一周しよう。死角と逃げ道を確認する」
「分かった」
「了解!」
ゲンマは何も言わない。
少し離れた場所で、三人を見ている。
指示を出さない。
まず自分たちで考えろ。
そういうことなのだろう。
三人は動き始めた。
---
一方。
カカシたちは橋へ向かっていた。
霧は朝より少し濃くなっている。
「今日は霧濃いな」
タズナが言う。
ナルトが周囲を見る。
「波の国っていつもこんな感じなのか?」
「珍しくはない」
「ふーん」
カカシは何も言わない。
ただ。
視線だけは周囲を見ていた。
サスケが気づく。
「……先生」
「何?」
「何かいるのか」
「今のところは」
その答えで。
サスケの表情が引き締まる。
サクラもタズナの近くへ寄った。
ナルトだけが少し遅れて気づく。
「え? 何? 敵か!?」
「だから今のところはいないって」
「紛らわしいってばよ!」
いつもの声。
だが。
カカシの目は笑っていなかった。
橋が見える。
建設途中の巨大な橋。
霧の中に、その姿が浮かんでいた。
タズナが足を止める。
「……おかしい」
カカシの目が細くなる。
「どうしました?」
「人がおらん」
いつもなら、橋の上には何人もの作業員がいる。
だが今日は。
静かだった。
風の音しかない。
「止まって」
カカシの声が低くなる。
全員が止まる。
橋の奥。
霧の向こう。
倒れている人影が見えた。
「!」
サクラが息を呑む。
タズナが走り出しかける。
カカシが腕を出して止めた。
「俺が先に見る」
近づく。
一人。
二人。
作業員たちが倒れている。
カカシが首元へ指を当てる。
「生きてる。気絶してるだけだ」
タズナが安堵する。
その瞬間。
霧が。
さらに濃くなった。
ナルトの顔から表情が消える。
サスケの手が忍具袋へ向かう。
サクラはタズナの前へ出た。
「全員、タズナさんから離れるな」
カカシが額当てへ手をかける。
赤い瞳。
写輪眼が現れる。
「来るよ」
低い声が。
霧の中から響いた。
「久しぶりだなぁ……カカシ」
ナルトの拳が強く握られる。
「この声……!」
サスケの目が鋭くなる。
霧の向こう。
巨大な影が現れる。
首斬り包丁。
包帯。
そして。
桃地再不斬。
「やっぱり生きてやがったか!」
ナルトが叫ぶ。
再不斬が笑う。
「少しは頭が回ったみてぇだな」
カカシは写輪眼で再不斬を見る。
「そっちの追い忍が親切だったからね」
その言葉に。
別の影が現れる。
橋の鉄骨。
仮面をつけた細身の人物。
ナルトが見上げる。
「こいつ……!」
あの時。
再不斬の身体を持ち去った追い忍。
白。
もちろん。
ナルトはまだ知らない。
その仮面の下にいるのが。
森で自分を起こしてくれた人物だとは。
「ナルト、サスケ」
カカシが言う。
「そいつから目を離すな」
二人の表情が変わる。
「サクラはタズナさんを守って」
「はい!」
再不斬が首斬り包丁を肩へ担ぐ。
「増援が来たって聞いたが」
周囲を見る。
「いねぇじゃねぇか」
カカシの目が僅かに細くなる。
「残念だった?」
「いや」
再不斬が笑った。
「好都合だ」
次の瞬間。
霧が一気に濃くなる。
「散るな!」
カカシの声。
ナルトとサスケが構える。
白も。
静かに鉄骨から降りた。
橋で。
二度目の戦いが始まろうとしていた。
---
同じ頃。
タズナの家。
スズが突然、足を止めた。
カゲマルが振り返る。
「どうした?」
スズは答えない。
目を閉じる。
耳を澄ます。
風。
波。
木々。
遠くの人の声。
その中に。
別の音。
複数。
「……人が来る」
レンの顔から笑みが消える。
「何人?」
「まだ分からない」
「方向は?」
スズが顔を向ける。
林。
家の裏手。
「向こう」
カゲマルも見る。
何も見えない。
だが。
スズは続けた。
「一人じゃない。かなりいる」
ゲンマが初めて動いた。
口元から千本を抜く。
「距離」
「まだ遠い。でも、こっちに向かってる」
「足音は?」
スズが集中する。
「……忍みたいに静かじゃない」
ゲンマの目が細くなる。
カゲマルの胸が強く鳴った。
知っている。
この展開。
原作では。
ガトーの手下が。
ツナミとイナリを狙う。
だが。
違う。
原作では。
ここにゲンマはいない。
第十一班もいない。
「レン」
カゲマルが呼ぶ。
「おう」
「まだ出るな」
レンが踏み出しかけていた足を止める。
「分かってる」
カゲマルはスズを見る。
「人数、分かったら教えて」
「うん」
ゲンマは三人を見た。
「奈良」
「はい」
「どうする」
一瞬。
カゲマルはゲンマを見る。
答えを。
教えてはくれないらしい。
なら。
考える。
守るのは。
ツナミとイナリ。
敵を倒すことではない。
「まず二人を家の奥へ」
カゲマルが答える。
「スズは敵の位置と人数を確認。レンは玄関じゃなく、俺と裏手を見る」
「理由は?」
「敵がそのまま正面から来るとは限らないから」
「それから?」
カゲマルは少し考える。
「相手が普通のごろつきなら、先生はすぐに出ないでください」
レンが驚く。
「え?」
ゲンマは表情を変えない。
「続けろ」
「俺たち三人で対応します」
スズがカゲマルを見る。
カゲマルは続けた。
「危なくなったら先生が止める。忍が混じってたら最初から先生に任せます」
少し沈黙。
ゲンマが千本を口元へ戻した。
「悪くない」
レンの顔が明るくなる。
「じゃあ俺たちで戦っていいんですか?」
「条件付きだ」
「よし!」
「喜ぶな」
ゲンマの声が低くなる。
レンの表情が引き締まった。
「これは訓練じゃない」
「……はい」
「相手が弱そうに見えても、武器を持ってお前らを殺しに来るなら敵だ」
カゲマルの喉が僅かに動く。
初めて。
本当に。
自分たちへ向けられる敵意と戦う。
ゲンマは三人を見る。
「ただし忘れるな」
昨日と同じ言葉。
「戦うことが任務じゃない」
カゲマルが答える。
「守ることが任務」
「そういうことだ」
その時。
家の中からツナミが出てきた。
「どうしたんですか?」
カゲマルが振り返る。
「ツナミさん」
できるだけ。
普通の声で言う。
「イナリ君と一緒に、家の奥にいてください」
ツナミの顔が強張る。
「敵が?」
「まだ分かりません」
嘘ではない。
「でも、念のため」
ツナミは少し迷ったあと、頷いた。
「分かりました」
家の中へ戻る。
スズが再び耳を澄ます。
数秒。
そして。
目を開けた。
「見えてくる」
林の奥。
木々の間。
人影が現れる。
一人。
三人。
五人。
さらに後ろ。
刃物。
棒。
武器を持った男たち。
忍ではない。
だが、明らかに散歩に来た人間ではなかった。
レンが拳を握る。
カゲマルは苦無を抜く。
自分の影を見る。
朝の光。
十分に使える。
心臓が速い。怖い。
昨日。
そう認めた。
でも足は動く。
スズが左。
レンが右。
カゲマルが中央。
後ろには守るべき家。
ゲンマはさらに後方。手を出さない。
ただしいつでも出られる位置。
男たちが近づく。
先頭の一人が下卑た笑みを浮かべた。
「ここだな」
別の男が答える。
「ああ」
「橋造ってる爺の家」
カゲマルの目が細くなる。
男が刃物を肩へ乗せる。
「女とガキを連れてこいってよ」
その言葉で、レンの表情が変わった。
スズの目も冷たくなる。
カゲマルは静かに息を吐いた。
知っていた。
来ることは。
でも
知っているのと。
実際に聞くのは。
全く違う。
男たちがこちらへ歩いてくる。
カゲマルは苦無を構えた。
今度こそ物語の中ではない自分たちの最初の実戦だった。