夕暮れの木ノ葉隠れ。
空は茜色に染まり、里には仕事を終えた忍たちが戻り始めていた。
その中を、一人の男がゆっくり歩いている。
猿飛アスマ。
まだ若き上忍であり、猿飛一族の一員。
口には火のついていない煙草。
難しい顔のまま、奈良家へ向かっていた。
「珍しいな。」
奈良家の庭先で、鹿の世話をしていたシカクが顔を上げる。
「お前から来るなんて。」
「少し気になることがあってな。」
アスマは苦笑しながら門をくぐった。
「酒でも飲みながら話すか。」
「今日は仕事だ。」
「真面目だな。」
「誰かさんのせいでな。」
シカクは縁側へ腰を下ろし、お茶を二つ用意する。
「で?」
「何があった。」
アスマは一拍置いてから口を開いた。
「今日、市場の近くでお前の息子を見た。」
「カゲマルか。」
「ああ。」
「それで?」
「ナルトが木から落ちた。」
シカクの眉が僅かに動く。
「……続けろ。」
「カゲマルは印を結んでいない。」
「チャクラを練る素振りもなかった。」
「だが。」
アスマは思い出すように空を見た。
「あいつの影が動いた。」
「しかも。」
「支えた。」
沈黙。
風が庭を抜ける。
鹿の鈴だけが、小さく鳴った。
「……そうか。」
シカクは静かに湯呑みを置く。
驚きはしない。
いや。
驚けなかった。
もう何度も見てきたからだ。
生まれた日。
森。
庭。
そして今日。
影は少しずつ変化している。
「お前。」
アスマが尋ねる。
「知ってたな?」
「ああ。」
「いつから。」
「五年前。」
「……は?」
シカクは苦笑した。
「産まれた日からだ。」
アスマは絶句した。
「冗談だろ。」
「俺もそう思いたかった。」
シカクは空を見上げる。
「影ってのはな。」
「奈良一族にとっちゃ道具じゃねぇ。」
「相棒みたいなもんだ。」
「長年付き合ってりゃ。」
「ほんの少し違うだけでも分かる。」
アスマは腕を組む。
「それでも。」
「勝手に動く影なんて聞いたことがねぇ。」
「俺も聞いたことはない。」
シカクは静かに笑う。
「だから困ってる。」
⸻
その頃。
家の裏庭では。
「兄貴。」
「何?」
「もう一回やって。」
シカマルが木の枝を投げる。
カゲマルは深く息を吸った。
(助けたい。)
そう思う。
しかし。
何も起きない。
枝は普通に地面へ落ちた。
「駄目か。」
「駄目だな。」
シカマルは首を傾げる。
「昨日はできたのに。」
「分からない。」
カゲマルも困っていた。
意識してやろうとすると。
影は何も応えてくれない。
昨日。
ナルトが落ちた時だけ。
影は自分から動いた。
(……まるで。)
(本当に意思があるみたいだ。)
その考えが頭をよぎる。
だが。
すぐに振り払った。
そんなはずはない。
影は自分自身だ。
そうシカクも言っていた。
「もう一回。」
シカマルが枝を投げる。
今度も駄目。
十回。
二十回。
三十回。
一度も動かない。
「めんどくせぇ。」
シカマルは芝生へ寝転んだ。
「兄貴。」
「ん?」
「考えすぎ。」
「え?」
「昨日は何も考えてなかっただろ。」
「助けたいって思っただけ。」
その言葉に、カゲマルはハッとする。
そうだ。
術を使おうとは思っていなかった。
影を動かそうとも思っていなかった。
ただ。
ナルトを助けたい。
その気持ちだけだった。
(気持ち……。)
(感情……。)
カゲマルは足元の影を見る。
「お前。」
「何を見て動いてるんだ。」
影は答えない。
しかし。
夕日に照らされた影が。
ほんの僅かだけ揺れた。
⸻
その夜。
火影岩を見上げる建物。
火影執務室。
「ほう。」
猿飛ヒルゼンは煙管を置いた。
「面白い話じゃ。」
向かいにはアスマ。
その隣にシカク。
「本当ならば。」
「奈良一族の歴史が変わる。」
シカクは静かに頷く。
「まだ断言はできません。」
「ですが。」
「あの力は影真似ではありません。」
ヒルゼンは窓の外を見る。
里の灯が一つ、また一つと灯っていく。
「……六道仙人は。」
突然だった。
アスマが首を傾げる。
「親父?」
「古い文献にはな。」
ヒルゼンはゆっくり立ち上がる。
「世界は陰と陽から生まれたと記されておる。」
「陰は。」
「無を形にする力。」
「陽は。」
「命を宿す力。」
シカクは黙って聞いていた。
「奈良一族の影は。」
「昔から陰遁に近いと言われておる。」
「じゃが。」
ヒルゼンは首を横に振る。
「近いだけじゃ。」
「本物の陰遁ではない。」
「では……。」
シカクが問う。
「もし。」
ヒルゼンは静かに笑った。
「もし、本物に限りなく近い者がおるとしたら。」
部屋が静まり返る。
誰も答えられなかった。
その可能性は。
あまりにも大きすぎた。
⸻
同じ頃。
奈良家。
眠るシカマル。
眠るヨシノ。
眠るシカク。
月明かりだけが部屋を照らしている。
その中で。
一人だけ。
カゲマルは目を開けた。
眠れなかった。
理由は分からない。
ただ。
胸騒ぎがした。
縁側へ出る。
夜風が心地いい。
「……。」
ふと。
足元を見る。
月明かりでできた自分の影。
黒く。
静かで。
何も動かない。
そう思った、その瞬間。
影がゆっくりと立ち上がった。
「――っ!?」
カゲマルは息を呑む。
影は人の形をしていた。
だが輪郭はぼやけている。
顔もない。
声もない。
数秒後。
影は何事もなかったように地面へ戻った。
夢だったのか。
現実だったのか。
判断もできない。
カゲマルは知らない。
今見た現象は。
これまでとは決定的に違う意味を持つことを。
影は初めて。
“形”ではなく、
“存在”になろうとしていた。