朝靄が、奈良家の庭を白く包んでいた。
草の先には小さな露が光り、鹿たちはまだ眠そうに身を寄せ合っている。
カゲマルは一人、庭の中央に立っていた。
足元には、自分の影。
「……。」
アスマから渡された課題。
影を観察すること。
動かそうとしない。
命令しない。
ただ知る。
その言葉を胸に、カゲマルは静かに目を閉じた。
(焦るな。)
(術を使うんじゃない。)
(昨日も、一昨日も……影は俺の意思で動いたわけじゃない。)
深く息を吸う。
吐く。
鳥のさえずり。
木々を揺らす風。
遠くで鹿が鳴く声。
そして、自分の鼓動。
すべてを感じながら立ち尽くす。
その様子を、縁側からシカクが見つめていた。
「親父。」
隣に腰を下ろしたシカマルが、小声で尋ねる。
「兄貴、何してる?」
「待ってる。」
「何を?」
「自分の影を、だ。」
シカマルは首を傾げる。
「影なんて待たなくても付いてくるじゃん。」
「普通はな。」
シカクは苦笑する。
「だが、あいつの影は少し違う。」
「だから、急がせちゃいけねぇ。」
シカマルは兄の背中を見つめた。
いつもなら一緒に将棋を指している時間。
兄貴は、一人で影と向き合っている。
「……頑張れ。」
その声は小さく、カゲマルには届かなかった。
────────
それから数日。
影は動かない。
朝も。
昼も。
夕方も。
何も起きない。
帳面だけが少しずつ埋まっていく。
『今日は何も起きなかった。』
『焦った。』
『焦ると余計に駄目だった。』
『シカマルに将棋で負けた。悔しい。』
『母さんに怒られた。』
『ナルトが笑っていた。少し安心した。』
毎日書き続けた。
そして五日目。
アスマが再び奈良家を訪れる。
「見せてみろ。」
カゲマルは少し照れながら帳面を差し出した。
アスマは一枚ずつ丁寧に目を通す。
「……なるほど。」
「何か分かりましたか?」
「一つだけ。」
帳面を閉じる。
「お前、自分のことを書いてないな。」
「え?」
「全部、誰かの話だ。」
ナルト。
シカマル。
父。
母。
鹿。
自分自身については、ほとんど書かれていない。
「それが悪いんですか?」
「悪いとは言わねぇ。」
アスマは腕を組む。
「でも、お前は自分を後回しにしすぎる。」
その言葉に、カゲマルは黙った。
前世でもそうだった。
誰かの役に立てれば、それでいい。
そう思って生きてきた。
「兄貴。」
横で聞いていたシカマルが口を開く。
「自分が腹減って倒れたら、誰も助けられないぞ。」
「……。」
思わず笑ってしまう。
「お前に言われるとは思わなかった。」
「俺、結構いいこと言う。」
「調子に乗るな。」
兄弟は顔を見合わせ、小さく笑った。
その光景を見ていたアスマも、口元を緩める。
(似てるようで、全然違う。)
(だからこそ、お互いを支えられるんだろうな。)
────────
その日の夕方。
ナルトが奈良家へ遊びに来た。
「カゲ兄ー!」
元気いっぱいの声。
「今日も来たのか。」
「だって暇なんだってばよ!」
シカマルは面倒そうに寝転びながらも、小さく笑う。
三人で木切れを積み上げたり、鬼ごっこをしたり。
日が傾き始めた頃。
ナルトが勢いよく走った拍子に、小さな子鹿へぶつかりそうになる。
「あっ!」
ナルトは咄嗟に体をひねる。
だが、間に合わない。
子鹿は驚き、足をもつれさせる。
(危ない!)
カゲマルの身体が動く。
助けたい。
傷ついてほしくない。
その一心だった。
次の瞬間――
足元の影が音もなく伸びる。
黒い線が地面を滑り、子鹿の前へ回り込む。
影はまるで柔らかな壁のように広がり、子鹿の身体をそっと受け止めた。
ドサッ。
衝撃はほとんどなかった。
子鹿は目を丸くしたまま、すぐに立ち上がる。
「え……?」
ナルトが固まる。
シカマルも起き上がった。
「兄貴……今。」
カゲマル自身も、自分の手を見つめていた。
印は結んでいない。
チャクラを練った感覚もない。
それでも。
今度は確かに、自分の”願い”に影が応えた。
縁側から見守っていたシカクは、静かに目を細める。
その隣でアスマが、小さく息を吐いた。
「偶然じゃない。」
その声には確信があった。
「今のは……」
シカクはゆっくり頷く。
「ああ。」
「一歩、前へ進んだ。」
夕日に照らされた影は、何事もなかったように元の形へ戻る。
しかし、その日から。
カゲマルは初めて思う。
“影は、怖いものじゃない。”
“俺と一緒に、誰かを守ろうとしてくれる。”
その小さな確信こそが。
未来へ続く道の、本当の始まりだった。