ルーデウス視点
最後に覚えているのは、道路へ飛び出した三人の若者と、こちらへ迫ってくる大型車両だった。
三十四年間の人生の大半を、前世の自分は狭い部屋の中で費やしていた。学校での挫折をきっかけに他人を恐れ、努力する姿を笑われるくらいなら何もしない方がいいと考え、家族から差し伸べられた手さえ払いのけ続けた。両親が死んでも葬儀には出ず、とうとう兄弟から家を追い出された時にも、これからどう生きていくべきなのかを考えることすらできなかった。
そんな自分が、どうしてあの瞬間だけ他人を助けようとしたのかは、今となっても分からない。
道路の上にいる若者たちへ大型車両が迫っていると気づいた時、考えるよりも先に身体が動いた。全員を救うことはできなかったかもしれないが、少なくとも一人は力いっぱい押し退けた。その直後、耳をつんざく警笛とともに視界が巨大な車体に覆われ、全身を砕くような衝撃を受けたところで、長く停滞していた人生は唐突に途切れた。
次に意識を取り戻した時、若い金髪の女性が、心配そうにこちらの顔を覗き込んでいた。
女性は何かを語りかけていたものの、言葉の意味はまるで理解できなかった。耳そのものが聞こえていないわけではない。柔らかな声も、近くを歩く者の足音も聞こえているのに、話されている言葉だけが輪郭のない音の連なりとして頭を通り過ぎていく。
周囲の景色も、事故の後に運び込まれた病院とは到底思えなかった。天井や壁には電灯がなく、寝台も棚もすべて木で作られている。金髪の女性が身につけている衣服にも、前世の日本で見慣れたものとは異なる古風な意匠が施されていた。
何が起きたのか尋ねようとして口を開いたが、喉から出たのは意味を持たない弱々しい声だけだった。
「あぅ……」
舌は思うように動かず、首さえ満足に持ち上げられない。手足へ命令を送っても、小さく震えるばかりで、自分の意思どおりには動かなかった。
事故の影響で全身に重い障害が残ったのかもしれない。
一瞬、胸の奥を強烈な恐怖が貫いたものの、近くにいた茶色い髪の男に抱き上げられたことで、その考えは別の驚きに塗り替えられた。視界に入った自分の腕は異様に短く、手のひらも指も信じられないほど小さい。男の両腕の中へすっぽり収まってしまう身体は、どう考えても成人男性のものではなかった。
最初は現実を受け入れられなかったが、金髪の女性から乳を与えられ、柔らかな布へ包まれ、排泄の世話までされる日々が続けば、いつまでも否定しているわけにはいかなかった。
自分は、赤ん坊になっていた。
死んだ後、別の人間として生まれ直したらしい。しかも、三十四歳まで生きた前世の記憶も、引きこもっていた頃の惨めな感情も、その最後に道路へ飛び出した時の恐怖も、すべて失われずに残っていた。
金髪の女性は、おそらく今世の母親なのだろう。茶髪の男が父親であり、家の中で家事と育児を担っている黒に近い髪の女性は、使用人か侍女だと思われた。
三人の名前も、自分が何と呼ばれているのかも、まだ分からない。大人としての思考を持っていたところで、入ってくる情報がなければ、目の前の人物がどのような立場なのかさえ推測することしかできなかった。
それでも、前世よりは遥かに希望があるように思えた。
母親らしい女性は、自分を抱き上げるたびに嬉しそうに笑い、父親らしい男も手つきこそ危なっかしいものの、大切に扱おうとしていることだけは伝わってきた。黒髪の侍女は時折こちらへ妙な視線を送っていたが、世話そのものは丁寧であり、敵意があるようには見えない。
もっとも、中身が三十四歳の男であっても、身体は正真正銘の赤ん坊だった。眠気や空腹へ逆らうことはできず、少し長く起きているだけで意識がぼんやりとする。周囲を観察しようと決意しても、乳を飲めばすぐ眠くなり、泣くまいと我慢していても、不快感が強くなれば身体が勝手に声を上げた。
前世の記憶があるからといって、最初から何でもできるわけではないらしい。
それでも、今度こそ失敗しないと決めた。
前世では、努力して失敗することを恐れた結果、最初から何もしないという選択を続けてしまった。学校からも、人間関係からも、家族からも逃げた末に、最後まで何一つ成し遂げられないまま死んだ。
もう一度人生を与えられたのなら、今度は逃げない。言葉を覚え、文字を覚え、この世界で生きていくために必要なことを一つずつ身につけていく。
今の身体でできることは限られているため、当面は周囲の音を聞き、人々の表情や動きを観察しながら、少しでも多くの情報を集めるしかなかった。
その日も、母親らしい女性の腕の中で、落ちてくる瞼へ必死に抗いながら居間を眺めていた。
やがて、玄関の扉を叩く音が聞こえてきた。乱暴に連打するのではなく、一定の間隔を置いて控えめに鳴らされた音だった。
黒髪の侍女が手を止め、玄関へ向かっていく。扉が開いた後に聞こえてきたのは、これまで家の中では耳にしたことのない、高く澄んだ少女の声だった。
声そのものは幼い。
しかし、その話し方には、子供らしい迷いや勢いがほとんど感じられなかった。
リーリャ視点
玄関の扉を開けたリーリャは、門の外に立っている少女を見て、一瞬だけ言葉を失った。
年齢だけを外見から判断するなら、七歳ほどだろう。背丈は低く、身体つきにも幼さが残っており、保護者や同行者の姿は周囲のどこにも見当たらない。小さな旅鞄を肩から提げた少女は、たった一人でグレイラット家を訪ねてきたらしい。
雪のように白い髪は背中まで伸び、その下にある瞳は鮮やかな赤色をしていた。人族には珍しい色彩ではあったものの、額や耳、肌には魔族特有の器官は見当たらない。
幼い輪郭の中に収まった顔立ちは、驚くほど整っていた。城塞都市ロアを歩けば、その白い髪や赤い瞳を抜きにしても、多くの者が振り返るに違いない。
けれど、少女自身は自分の容姿を意識している様子を見せず、相手の反応を確かめようと不用意に顔を上げることもなかった。
身につけているのは旅人の平服ではなく、装飾を抑えた実用的な侍女服だった。袖や裾には何度も繕われた跡があり、長く使われてきた衣服だと分かる。それでも白い襟や濃い色の布地には目立った汚れがなく、旅の途中でも手入れを欠かさなかったらしい。
リーリャが姿を見せると、少女は両手を身体の前で重ね、背筋を伸ばしたまま丁寧に頭を下げた。
「突然お訪ねしましたことを、お詫び申し上げます。こちらは、パウロ・グレイラット様のお宅で間違いございませんでしょうか」
外見相応に声は高かったが、発音は明瞭で、言葉遣いにも乱れがない。
「間違いございません。旦那様に、どのようなご用件でしょうか」
「住み込みで働かせていただける場所を探しております」
少女は、許可を得る前に門の内側へ踏み込むことなく、一定の距離を保ったまま話を続けた。
「ロアの宿で、ブエナ村の騎士であるパウロ・グレイラット様が、侍女を募集しておられたと伺いました。すでに募集が終わっている可能性が高いことは承知しております」
その募集を見てグレイラット家を訪ねてきたのが、ほかならぬリーリャだった。
パウロが侍女を求めていたのは、ゼニスの出産に備えるためであり、リーリャの採用が決まった時点で募集は取り下げられている。ただし、ロアの宿や仕事を仲介する者たちの間に、古い話が残っていても不思議ではなかった。
「奥様が無事にご出産なさったことも、道中で伺っております。すでに人手が足りているようでしたら、すぐに立ち去ります。ただ、出産後の御屋敷でもう一人働き手を必要としておられるようでしたら、一日だけでも仕事をご覧いただけないかと思い、失礼を承知で参りました」
募集が古いことを理解したうえで、出産直後なら追加の人手を求めているかもしれないと判断したのだろう。少なくとも、ここを訪ねてきた理由には筋が通っていた。
「お名前と、ご年齢を伺ってもよろしいでしょうか」
「レイネと申します。姓はございません。年齢は十四歳です」
リーリャは、思わず少女の顔を見直した。
聞き間違いではないらしい。
レイネは同じ反応を受けることに慣れているのか、少し困ったように眉を下げた。
「幼い頃から身体の成長が遅く、実際の年齢よりも下に見られます。年齢を証明できる書類は持ち合わせておりませんので、お疑いになるのも当然かと存じます」
「十四歳には見えませんね」
「七歳ほどに間違われることが多くございます」
本人の申告を裏づけるものはない。十四歳と七歳では差が大きすぎるが、発育の遅い人間が絶対に存在しないとも言い切れず、何らかの病気や魔術の影響である可能性も考えられる。
もっとも、今のリーリャに、それを見分ける手段はなかった。
「人族で間違いございませんか」
「はい。中央大陸北部にある人族の集落で生まれました。この髪と瞳も、生まれつきのものです」
「ご家族は?」
「すでに亡くなっております」
答えるまでに、ほんの僅かな間があった。
しかし、家族を失った過去へ触れられたのであれば、それぐらいの反応は不自然ではない。
「以前は、どちらで働いていたのですか」
「宿や商家、個人のお屋敷などを転々としておりました。最後に仕えていた方が亡くなられ、お屋敷が解散することになりましたので、新しい勤め先を探しております」
「紹介状はお持ちですか」
「ございません」
「身元を保証できる方は?」
「現在は、おりません」
レイネは自分に不利な質問を受けても動揺せず、余計な弁明を加えることなく事実だけを答えた。
紹介状も保証人も持たない流れ者を、住み込みの使用人として迎えることには当然ながら危険が伴う。相手が幼く見える少女だからといって、警戒を解く理由にはならなかった。
ただし、リーリャが抱いた疑念は、あくまで雇用主側として当然のものだった。レイネの内面を見抜いたわけでも、優れた演技を疑ったわけでもない。
「侍女として、何ができますか」
「料理、掃除、洗濯、裁縫、買い出し、薪割り、帳簿の整理ができます。専門の職人を必要としない程度でしたら、衣服や家具の修繕も可能です。また、乳幼児のお世話を任された経験もございます」
「剣術は?」
「護身のために構えを教わったことはございますが、剣士を名乗れるほどではありません。危険があれば、戦うより逃げるよう教えられております」
「魔術は使えますか」
「火を起こす、水を出すといった生活用の初級魔術と、軽い傷へ使う治癒魔術を少々。本格的な戦いや治療には役立たない程度でございます」
できることばかりを並べて自分を大きく見せるのではなく、任せられない仕事についても明確に答えている。その点については、使用人として好ましい態度に思えた。
しかし、リーリャには別の疑問が残った。
「正式な侍女教育を受けたことは?」
「ございません。働いた先で、その都度教えていただきました」
「その割には、礼の仕方も言葉遣いも随分と整っていますね」
リーリャは、かつて王宮で近衛侍女を務めていた。レイネの立ち方、視線の置き方、頭を下げる角度、両手の位置には、指摘すべき乱れがほとんどない。十四歳という申告が事実であったとしても、働いた先で少しずつ覚えただけとは考えにくい水準だった。
レイネは動揺した様子を見せなかったが、それまで浮かべていた柔らかな微笑を僅かに弱め、静かな声で答えた。
「生きていくために、命がけで覚えました」
その言葉は、幼い外見から発せられたものとは思えないほど重かった。
「一度の失敗で仕事を失えば、その日の食事も、次に眠る場所もなくなります。注意されたことは二度と間違えないよう、必死に覚えてまいりました」
王宮での教育も、決して甘いものではなかった。生きる場所そのものが仕事の出来にかかっていたのであれば、少女が必死に礼儀や技術を身につけたという説明にも、一定の説得力がある。
その時、家の奥から足音が近づいてきた。
「誰か来ているのか?」
姿を見せたのは、家の主人であるパウロだった。リーリャの肩越しに門の外を覗き、小さなレイネを見つけると、露骨に首を傾げる。
「こちらの方が、以前の募集を聞いて、使用人として働きたいと訪ねてきたそうです」
「この子が?」
レイネはパウロへ向き直ると、相手の反応を気にした様子もなく、改めて丁寧に頭を下げた。
「レイネと申します。パウロ・グレイラット様でいらっしゃいますね」
「ああ。どうして俺の名前を?」
「ブエナ村の騎士を務めておられ、以前は冒険者として活動なさっていたと伺いました。道中でも、剣の腕が立つ方だと聞いております」
パウロは照れたように鼻の下を指で擦った。
お世辞に弱いところは、リーリャもすでに知っている。
「まあ、腕が立つかどうかはともかく、俺がパウロだ。それで、君はいくつなんだ?」
「十四歳でございます」
「十四歳?」
パウロは、レイネを上から下まで眺めた。
「どう見ても七歳ぐらいだろ」
「よく同じように言われます」
気を悪くした様子もなく答えたレイネに対し、パウロは一通り事情を聞いた後、少し困ったように腕を組んだ。
「悪いが、募集はもう終わっている。リーリャが来てくれたからな。今のところ、家事も子供の世話も足りているんだ」
「承知いたしました」
レイネは反論も懇願もせず、深く頭を下げた。
「お時間をいただき、ありがとうございました」
そのまま立ち去ろうとした時、家の奥からゼニスの声が聞こえてきた。
「あなた、誰か来ているの?」
ゼニスは、生まれたばかりの息子を抱いていた。産後の身体を気遣いながら、以前よりもゆっくりとした歩みで玄関へ近づき、門前に立つレイネを見つけると、その白い髪と赤い瞳、幼い外見に驚いたようだった。
「昔の募集を聞いて、働きたいと訪ねてきたそうだ」
パウロの説明を受け、ゼニスは改めてレイネの姿を眺めた。
「まあ、随分きれいな子ね」
「恐れ入ります」
「一人でここまで来たの?」
「ロアまでは隊商へ同行させていただきました。そこからは、ブエナ村へ向かう荷車へ乗せていただき、村の入口から歩いてまいりました」
十四歳だとしても、一人で働き口を探して旅をしてきた少女である。ゼニスは警戒するよりも先に、その境遇を心配したようだった。
「この子が、息子のルーデウスよ」
そう言いながら、腕の中の赤子が見えるように抱き直す。
レイネは、そこで初めてルーデウスへ視線を向けた。
その瞬間だけ、先ほどまで一定だった呼吸が僅かに止まったように、リーリャには見えた。
しかし、それはほんの一瞬のことであり、すぐに穏やかな表情へ戻る。赤い瞳は布に包まれた赤子へ向けられ、初めて見る子供の顔を確かめるにしては、僅かに長く留まっていた。
もっとも、見知らぬ家の子供を紹介されたのだから、顔をよく見ること自体は不自然ではない。
やがてレイネは、相手が言葉を理解できない乳児であることを理由に礼を省くことなく、丁寧に頭を下げた。
「お初にお目にかかります、ルーデウス様。レイネと申します」
「真面目な子ね」
ゼニスが微笑ましそうに笑う。
リーリャも、それ以上の意味があるとは考えなかった。幼い主人に対しても礼儀を崩さない、よくできた使用人志望者。それだけのことに見えた。
「せっかく遠くから来たのに、このまま帰すのは可哀想だわ」
ゼニスがパウロを見上げる。
「一日だけ、仕事を見てから決めてもいいんじゃない?」
「リーリャ一人で足りているだろ」
「今はそうだけど、私がまた村の治療を手伝うようになったら、ルディを任せられる人がもう一人いても困らないでしょう?」
パウロは、判断を求めるようにリーリャへ目を向けた。
身元についての懸念は残っている。しかし、一日だけなら、リーリャが常に近くで監督すればよい。仕事ぶりに問題があるか、危険な行動を取るようなら、その時点で断れば済む。
「試用だけでしたら、問題ございません。ただし、すべて私の指示に従っていただきます」
「承知いたしました。機会をいただき、ありがとうございます」
レイネは深く頭を下げた。
リーリャ視点
試用を始めて間もなく、リーリャは、レイネが自分の技能を誇張していなかったことを知った。
厨房へ案内し、食材や調味料の位置を教えると、レイネは使用してよい量を一つずつ確認してから作業へ入った。フィットア領でよく使われる香草については知らなかったらしく、知ったふりをせず、香りと形を確かめたうえで用途を尋ねてきた。
一度説明すれば、同じことを聞き返すことはない。
複数の料理を並行して進めながら、空いた時間で使い終えた器具を洗い、残った食材は傷まない形で保存していく。調理が終わる頃には、厨房は使う前とほとんど変わらない状態へ戻っていた。
洗濯を任せれば、布地や汚れ方に応じて洗い方を変え、古くなった衣服の傷みを見つけても、勝手に手を加えることなくリーリャへ確認してから繕った。
掃除でも同じだった。
以前の職場で行っていた手順を押しつけず、この家では何をどこへ収納し、住人がどの順番を好むのかを細かく確認する。技術を見せつけようとはせず、先任者であるリーリャの領分へ無断で踏み込むこともなかった。
「この棚は、奥様が頻繁にお使いになる物を手前へ置く形でよろしいでしょうか」
「はい。ただし、薬草だけは種類ごとに分けてください」
「承知いたしました」
一度返事をした後は、次から完璧に同じ形へ戻した。
昼を過ぎる頃には、使用人としての能力だけなら、疑う余地がなくなっていた。
さらに意外だったのは、乳児の扱いである。
ゼニスが休んでいる間だけ、リーリャの監督下でルーデウスを任せることになったが、レイネは赤子を抱き上げる前に手を洗い、衣服へ尖った部分がないかを確認した。首の支え方も、寝台へ下ろす際の動きも安定しており、必要以上に揺らしたり、高い声を出して無理にあやしたりすることもない。
泣けばすぐに抱き上げるのではなく、最初に布の状態と室温を確認し、それから空腹か、眠気か、身体のどこかに痛みがあるのかを順番に調べた。
「随分と慣れていますね」
リーリャが尋ねると、レイネは眠りかけたルーデウスの背中をゆっくり撫でながら答えた。
「以前の勤め先で、奥様のお子様を任されておりました」
「おいくつまで?」
「生まれた直後から、三歳になる頃まででございます」
答え方に不自然なところはなかった。
ただ、レイネは時折、眠るルーデウスの顔を確かめるように見つめていた。可愛がっているというよりも、ごく小さな変化さえ見逃さないよう観察しているように思える。
雇用初日の使用人としては、少し慎重すぎるかもしれない。
しかし、赤子の世話を任された以上、慎重であること自体は何の問題にもならなかった。
ルーデウス視点
白髪の少女は、変わった人間だった。
周囲の会話をまだ理解できないルーデウスにも、黒髪の侍女が指示を出し、白髪の少女がそれに従っていることぐらいは分かった。どうやら、新しくこの家で働くことになったらしい。
見た目は幼いが、動きには迷いがない。
自分を抱く時も、両親のような危なっかしさはなく、首と背中をしっかり支え、こちらの呼吸を妨げない角度で身体を傾けていた。赤ん坊の扱いに慣れているのだろう。
それ以上に気になったのは、彼女の視線だった。
赤子を可愛いと眺める目とは、どこか違う。かといって、不快そうでも警戒しているようでもない。何かを確かめるために、慎重に観察しているような目だった。
まるで、自分が本当にここに存在しているのかを確認しているように見える。
――まさか、中身が大人だと気づいているのか?
そんな考えが一瞬頭をよぎったものの、根拠は何もない。
前世で人間関係を避け続けた自分に、他人の表情を正確に読み取る能力があるとも思えなかった。単に、仕事へ真面目で、預かった赤子に異常がないか注意深く見ているだけかもしれない。
白髪の少女は、眠りかけたルーデウスの額へ手を当て、熱を確かめた後、近くにいる黒髪の侍女へ何かを報告した。
話している内容は分からない。
それでも、自分の名前だけは、何度も聞くうちに音として覚え始めていた。
ルーデウス。
どうやら、それが今世の自分へ与えられた名前らしい。
「ルーデウス様」
白髪の少女も同じ音を口にした。
その声は穏やかだったが、ほかの者が自分の名を呼ぶ時とは、ほんの僅かに響きが違うような気がした。
初めて知った名前を呼んでいるというより、長く探していたものを、ようやく目の前で確かめるような声音だった。
もちろん、それも赤ん坊の耳と、勝手な想像にすぎない。
ルーデウスが相手を見つめたまま考え込んでいると、少女は小さく首を傾けた。それから、こちらが言葉を理解しているかのように、特別に幼児へ合わせることもなく、静かな声で話しかけた。
「お眠りください。目を覚まされた時にも、私はここにおります」
言葉の意味は分からなかったが、不思議と落ち着く声音だった。
ルーデウスは眠気に逆らうことをやめ、ゆっくりと瞼を閉じた。意識が沈む直前まで、赤い瞳がこちらへ向けられていたような気がした。
リーリャ視点
夕食後、レイネを正式に雇うかどうかについて、家の者たちの話し合いが行われた。
「仕事については、問題ございません」
リーリャが率直に評価を伝えると、ゼニスは嬉しそうに頷き、パウロは腕を組んだまま少し考え込んだ。
「むしろ、こちらが想定していた以上です。少なくとも、家事と育児を任せる技量はございます」
「仕事に不満はないんだ」
パウロはそう前置きしたうえで、言いにくそうに続けた。
「ただ、もう一人使用人を雇うだけの余裕が、十分にあるわけじゃない。リーリャにも給金を払っているし、同じ額を毎月増やすとなると、家計には少し厳しい」
「住む場所と食事をいただけるのでしたら、当面の給金は必要ございません」
レイネがそう申し出ると、リーリャはすぐに首を横へ振った。
「それはいけません。仕事として雇う以上、無給というわけにはまいりません。後から認識の違いが生じる原因となります」
レイネは反論せず、僅かに考えた後で、別の案を口にした。
「では、給金は通常どおり帳簿へ記録してください。実際のお支払いは、パウロ様が今よりご出世なさり、家計に余裕ができてからで構いません」
パウロが眉を上げた。
「出世払いということか?」
「そのようにお考えください」
「俺が出世しなかったら、どうするんだ」
冗談めかして尋ねられたレイネは、困ったように微笑んだ。
「パウロ様のお噂を信じて、遠くから参りました。私の見込み違いでないことを願っております」
その答えに、ゼニスが楽しそうに笑った。
「あなた、随分と期待されているみたいよ」
「村の外まで俺の名が知られているなら、悪い気はしないな」
パウロも満更ではなさそうだったが、最後には少し真面目な顔へ戻った。
「ただし、本当に出世できるかは保証しないぞ」
「承知しております。その際は、その時に改めてご相談させてください」
最終的に、レイネの給金は通常どおり帳簿へ記録し、実際の支払いだけを延期することになった。
試用期間は一か月。その間、レイネはリーリャの指示に従い、金銭や重要書類の管理には携わらない。問題が起きず、仕事ぶりにも変化がなければ、そのまま正式な侍女として雇う。
身元を保証する者がいない以上、必要最低限の警戒は続ける。
提示された条件を最後まで聞き終えたレイネは、異議を唱えることなく、丁寧に頭を下げた。
「よろしくお願いします、レイネ」
ゼニスが手を差し出す。
レイネは、その手を両手でそっと受けた。
「ありがとうございます。精いっぱい務めさせていただきます」
雇用が決まると、パウロは早くも夕食で気に入った料理の作り方を尋ね始め、ゼニスは産後の身体が回復した後、村の治療へ戻る時期について話し始めた。リーリャも、翌朝からレイネへ任せる仕事の順序を考えながら、必要な説明を加えていく。
その会話の合間に、レイネは居間の隅へ一度だけ目を向けた。
そこには、ルーデウスの眠る揺り籠が置かれている。
赤い瞳が、穏やかな寝息を立てる赤子の顔へほんの短いあいだ留まったものの、誰かがその意味を考えるよりも早く、レイネは食卓へ向き直った。
「明朝の仕事について、ご指示をいただいてもよろしいでしょうか」
「ああ。まずは私と一緒に朝食の準備をしてください。その後、洗濯と寝室の掃除をお願いする予定です」
「承知いたしました」
声も表情も、それまでと変わらない。
今日この家へやって来たばかりの、小さな侍女。少なくとも、今のリーリャには、それ以上の何者にも見えなかった。
こうしてレイネは、すでに募集の終わっていたグレイラット家で、一か月の試用期間を過ごすことになった。