ルーデウス視点
七歳になった。
同じ日に生まれたノルンとアイシャも一歳を迎え、グレイラット家は以前とは比較にならないほど騒がしくなっていた。
二人とも自分の足で立つことはまだできないが、床を這って好きな場所へ移動するようになっている。目を離した隙に家具の下へ入り込み、手にした物を何でも口へ運び、取り上げられれば家中へ響く声で泣いた。
ノルンは感情が表へ出やすく、少しでも不満があればすぐ声を上げる。反対にアイシャは比較的静かだったが、こちらは大人しくしていると思った時ほど、何かを観察しているような目で周囲を見ていた。
先日は、アイシャが低い棚の扉を開け、中に入っていた布を一枚ずつ引きずり出している横で、ノルンがその布へ身体を埋めて泣いていた。
何が起きているのか、本人たち以外には分からない。
ゼニスとパウロは、早くも二人分の育児に疲れ始めていた。
特にパウロは、剣を振るう時にはあれほど自在に身体を動かせるにもかかわらず、赤子を抱く時だけは手足の動きが不自然になる。ノルンが泣くたびに高く抱き上げて揺らし、泣き声をさらに大きくしては、ゼニスから叱られていた。
「もっと優しく抱いてあげて。そんなに揺らしたら怖がるでしょう?」
「ルディの時は、これで笑ったんだ」
「ルディはあなたが変な声を出していたから笑ったのよ」
「つまり、今回も変な声を出せばいいんだな」
「そういう話ではないわ!」
夫婦のやり取りを聞きながら、ルーデウスはアイシャの衣服を着替えさせていた。
前世の記憶があるため、赤子の扱いについてまったく知識がないわけではない。弟が幼かった頃、親から世話を押しつけられた経験もあった。
しかし、だからといって自分が何でも正しくできると思い込まないよう、気をつけている。
先日、ノルンが泣いていた時には、空腹だと決めつけてゼニスのもとへ運ぼうとした。だがレイネに止められて確認すると、衣服の内側へ小さな木屑が入り込んでいた。
「以前の経験が役立つことはございますが、目の前のお子様が、以前と同じ理由で泣いておられるとは限りません」
その時、レイネからそう言われた。
知識があるからこそ、確認を省いてしまうことがある。
シルフィとの騒動や家族会議を経て、ルーデウスは自分の善意や経験が、必ずしも正しい結果を生むわけではないと理解し始めていた。
今では妹たちが泣いていても、すぐに原因を決めつけず、まず身体や周囲の状態を確かめる。抱き上げる必要がある時にも、ゼニスやリーリャへ一声かけるようにしていた。
「アイシャ様の着替えは終わりましたか?」
レイネが洗濯物を抱えて部屋へ入ってくる。
現在の実年齢は二十一歳。
身体の成長は相変わらず遅く、外見は十歳か十一歳ほどにしか見えない。それでも、初めてグレイラット家を訪れた頃の幼い輪郭は少しずつ薄れ、背丈や手足も僅かに伸びていた。
「終わりました。紐もきつくないと思います」
レイネはアイシャの腹部へ指を入れ、衣服の締まり方を確認した。
「問題ございません。随分とお上手になられましたね」
「何度もやっていますから」
「ノルン様もお願いいたします」
パウロの腕の中では、ノルンが先ほどより大きな声で泣いている。
「俺が着替えさせる」
「旦那様は、まずノルン様を落ち着かせてくださいませ」
「だから、今そうしているだろ」
「ノルン様のお顔は、先ほどより赤くなっております」
「なぜだ……」
パウロは心底不思議そうだった。
剣術だけなら、今も届く気がしないほど強いというのに、家の中では相変わらず頼りない。
◇
妹たちの世話を終えた後、ルーデウスは庭へ出た。
すでにパウロが木剣を持って待っている。
家事では頼りなくても、剣を握れば別人だった。
剣神流、水神流、北神流。その三流派を上級まで修めたパウロは、七歳のルーデウスから見れば、未だに越え方の分からない巨大な壁である。
「今日は魔術なしだ」
「最近、魔術を使わせてくれませんね」
「魔術を使った時のお前の動きは、もう分かっている。今は剣そのものを鍛える時期だ」
パウロは木剣を正眼に構えた。
「それとも、剣だけでは俺と戦えないか?」
「戦えます。勝てないだけです」
「素直でよろしい」
合図もなく、パウロが踏み込んできた。
以前であれば、地面を蹴る瞬間に生まれる僅かな変化を見つけ、攻撃の方向を予測していた。
今は、考えるより先に足が動く。
右上から振り下ろされた木剣へ対し、半歩だけ斜め後ろへ下がる。剣の腹を自分の木剣で押し、正面から受け止めずに軌道を外側へ流した。
そのままパウロの右側へ回り込み、空いた脇腹へ木剣を伸ばす。
パウロは身体を捻り、柄の端でルーデウスの剣を受け止めた。
受け止められることは予想していた。
ルーデウスは剣を引かず、相手の柄へ押しつけたまま、前足をパウロの外側へ運ぶ。
力では勝てない。
ならば身体の向きと位置を変え、相手が強く押し返せない角度へ移ればよい。
一年前であれば、そこまで考える間に転がされていた。
しかし今は、訓練によって足が自然に動く。
パウロが僅かに重心を下げた。
次の瞬間、押し合っていた力が突然消える。
ルーデウスの身体が前へ傾いたところへ、パウロの足が引っかかり、そのまま地面へ転がされた。
背中へ衝撃が走る。
起き上がろうとするより先に、木剣の先端が喉元へ置かれた。
「そこまでだ」
「ありがとうございました」
差し出された手を取り、立ち上がる。
負けた。
だが、以前より長く戦えるようにはなっている。
剣神流中級の型は、ほぼすべて身についた。水神流も初級の受けと流しだけでなく、中級の基本へ入り始めている。北神流についても、転倒した状態から立ち直る動きや、周囲の物を利用した位置取りを教わっていた。
同年代の子供どころか、訓練を受けていない大人を相手にしても、簡単には負けないだろう。
しかし、ここ数か月は、以前ほど上達を実感できなくなっていた。
パウロの動きを理解できる。
何をされたのかも分かる。
レイネの補足を受ければ、失敗した原因も説明できる。
それでも、身体が追いつかない。
「今の受け流しは悪くなかった」
パウロは木剣を肩へ載せた。
「だが、俺の剣を外へ流すことに集中しすぎたな。お前は最初から反撃まで考えていた。だから、想定した形が崩れた後も、そのまま予定どおり動こうとした」
「途中で止めるべきでしたか?」
「止めるか、別の動きへ変えるべきだった。戦いは、お前の考えた順番どおりには進まない」
「分かりました」
頭では理解できる。
だが、次に同じ状況が訪れた時、瞬時に判断を変えられるかは分からない。
訓練後、レイネから水を受け取りながら、ルーデウスは自分の手を見つめた。
「伸びていない気がします」
「何がでございますか?」
「剣術です。以前は、練習するたびに新しいことができました。でも、最近は同じところで負けています」
レイネはすぐに慰めなかった。
パウロと打ち合った跡を確認するように庭へ目を向け、それからルーデウスの木剣を受け取る。
「三年前のルーデウス様は、旦那様の最初の一撃を見ることもできませんでした」
「今も勝てません」
「一年前は、旦那様の攻撃を避けた後、必ず正面へ残っておられました。本日は自ら側面へ移動し、反撃まで行いました」
「でも、最後には転ばされました」
「結果だけをご覧になれば、毎日同じでございます。旦那様に敗北なさっているのですから」
あまりに率直な言葉に、ルーデウスは顔をしかめた。
「厳しいですね」
「ですが、敗北へ至るまでの内容は変わっております。以前より多くの判断を行い、そのうち一つを誤ったために負けるようになりました」
レイネは木剣の土を布で拭いながら続けた。
「上達が止まったのではなく、すぐには身につかない段階へ進んだのでしょう」
「続ければ強くなれますか?」
「必ずとは申し上げられません」
期待していた答えではなかった。
「技術には、身体の成長を待たなければならない部分もございます。ルーデウス様は、理解したことを身体へ覚えさせる速度が非常にお早い。ですが、筋力や骨格まで一日で成長させることはできません」
ルーデウスの剣には、型の正確さがある。
一方で、パウロのように踏み込みだけで地面を抉り、一撃で大人を吹き飛ばすほどの力はない。身体の大きさが違う以上、当然の話だった。
「では、今できることは?」
「同じ動きを、疲れている時でも、驚いた時でも行えるよう繰り返してください。それから、旦那様に勝つことだけを基準になさらないことです」
「父様より弱い相手へ勝っても、仕方がないと思います」
「強い方へ挑み続けることは大切でしょう。しかし、一人の相手だけを見ていれば、その方に通用する技術ばかりを選ぶようになります」
レイネはルーデウスへ木剣を返した。
「旦那様に通用しない動きであっても、別の相手には有効かもしれません。反対に、旦那様へ有効な動きが、ほかの方にも通じるとは限りません」
正しいのだろう。
ただ、パウロ以外に剣術の相手はいない。
村の子供を練習相手にするわけにもいかず、シルフィへ本格的な剣術を教えることも考えていなかった。
「もっと、いろいろな人から学べればいいのですが」
「いずれ、その機会もございます」
レイネは、ごく自然にそう答えた。
未来を知っているような断言ではない。
七歳の子供が、今後も一生この村から出ないとは限らないという、当然の話にも聞こえた。
それでも、その言葉には妙な確信があるように感じられた。
◇
剣術訓練を終えた後、パウロが何気なく口にした。
「そういえば、お前ぐらいの年になると、普通は学校へ通い始めるんだが……」
そこで言葉を止める。
「何ですか、学校というのは」
「ロアにある、子供へ読み書きや算術、歴史、礼儀作法を教える場所だ」
「僕にも必要でしょうか」
「必要ないだろう。読み書きも算術もできるし、魔術に至っては並の教師より上だ。礼儀作法も、レイネに散々教えられているしな」
「まだ散々というほどではございません」
庭の端で訓練道具を片づけていたレイネが、静かに訂正した。
「旦那様の前では問題ございませんが、正式な場へ出るには不十分でございます」
「七歳の子供なら十分だろう」
「貴族の前で、旦那様と同じ態度を取られては困ります」
「俺の態度の何が悪い」
「今すぐ申し上げる必要がございますか?」
パウロが黙った。
学校へ通う必要があるかはともかく、同年代の子供が大勢いる場所には興味があった。
シルフィ以外の友人を作ることも、自分にとって必要なのかもしれない。
「学校では、僕が知らないことも学べますか?」
「もちろんだ。歴史や地理については、俺より詳しい教師もいるだろう。ただ、お前なら魔法大学の方が合っているかもしれないな」
「魔法大学?」
パウロはラノア王国にある魔法大学について、知っている範囲で説明してくれた。
さまざまな種族の魔術師が集まり、攻撃魔術だけでなく、治癒、解毒、結界、召喚、魔道具など、多くの分野を研究している場所だという。
ロキシーも、その大学を卒業している。
話を聞くほど、興味が湧いた。
自分の魔術は、攻撃系統に偏っている。
治癒魔術は詠唱を省略できず、召喚魔術については教本さえ持っていない。魔道具にも興味はあるが、仕組みを調べる手段がなかった。
一人で続ける魔術研究にも、剣術と同じく限界を感じ始めている。
「いつか、行ってみたいです」
「成人してからなら好きにしろ。俺が止める話じゃない」
「すぐには駄目ですか?」
「七歳児を外国へ放り出せるか」
予想どおりの返事だった。
それでも、いつか行ける場所が存在すると知っただけで、目標が一つ増えた。
◇
午後、丘の大木へ向かうと、シルフィが魔術教本を広げて待っていた。
最近のシルフィは、ルーデウスが教える前に、自分で次の練習内容を考えることが増えている。
以前は、何をすればよいか必ず尋ねてきた。
今では教本を読み、分からないところへ印をつけ、ルーデウスが到着すれば、最初に自分の考えを説明する。
「今日は、土の壁を薄く作って、それを何枚も重ねてみたいの」
「一枚の厚い壁ではなく、薄い壁を重ねるのですか?」
「うん。厚い壁を一度に作ると魔力をたくさん使うけど、薄い壁なら早く作れるでしょう? 何枚か重ねれば、同じぐらい固くなるかもしれないと思って」
よい発想だった。
シルフィは自分より魔力量が少ないため、強い術を一度使うより、弱い術を効率よく組み合わせる方法が向いている。
「試してみましょう。ただし、最初は二枚までにしてください」
「どうして?」
「重ねた壁が倒れた時、シルフィの方へ来るかもしれません。まず安全な厚さと距離を確かめます」
以前なら、シルフィが考えた方法であっても、ルーデウスが主導して形を決めていただろう。
今は、本人の発想を変えず、危険な部分だけを補うよう意識している。
二人で何度か試した結果、薄い壁を少し間隔を空けて並べることで、一枚目を壊した力が弱まり、二枚目で止まりやすくなることが分かった。
「できた!」
シルフィが嬉しそうに笑う。
その笑顔を見て、ルーデウスも自然に嬉しくなった。
同時に、少しだけ不安にもなる。
シルフィは成長している。
しかし、その成長の多くが、ルーデウスと一緒にいることを前提としていた。
ほかの子供と話すことは以前より増えたものの、遊びへ誘われても、まずルーデウスの予定を確認する。何か新しいことを始める際にも、自分一人で決めるより先に「ルディはどう思う?」と尋ねる。
それは信頼なのかもしれない。
けれど、自分がいなければ何も選べない状態へ近づいているのではないか。
以前のルーデウスなら、これほど懐かれることを無条件に喜んでいたかもしれない。
誰かに必要とされる経験が少なかったからこそ、自分だけを頼ってくれる相手を、離したくないと思ったはずだ。
今でも、その気持ちがないわけではない。
だが、家族会議でレイネから言われた言葉を思い出す。
善意であっても、他人の人生を自分が決めてよいわけではない。
「シルフィ」
「何?」
「魔法大学という場所を知っていますか?」
首を横へ振ったため、パウロから聞いた内容を説明した。
攻撃魔術以外の分野を学べること。
さまざまな種族の生徒が集まること。
ロキシーも卒業していること。
話を聞くうちに、シルフィの目が輝いていった。
「行ってみたい!」
すぐに返ってきた答えに、ルーデウスは少し安堵した。
「僕も行きたいと思っています」
「じゃあ、一緒に行こうよ」
当然のように言われ、胸の奥が温かくなる。
けれど、そのまま頷く前に尋ねた。
「僕が行かなくても、シルフィは行きたいですか?」
笑顔が止まった。
「ルディは行かないの?」
「仮の話です。僕が剣術を続けることになったり、別の場所へ行くことになったりした時でも、シルフィ自身が魔法大学へ行きたいのかを聞いています」
シルフィは、すぐには答えなかった。
膝の上で両手を握り、教本へ視線を落とす。
「一人は、怖い」
「はい」
「知らない人がいっぱいいる場所も怖いし、また髪を見て嫌なことを言われるかもしれない」
無理もない。
過去のいじめが、簡単に消えたわけではない。
「でも、もっと魔術を知りたい。ルディが知らない魔術も、自分で使えるようになりたい」
小さな声だったが、自分で考えた答えだった。
「だから、ルディが行かなくても……たぶん、行きたい」
「そうですか」
ルーデウスは笑った。
「では、いつか二人とも行けるように準備しましょう。一緒に行ければ嬉しいですが、どちらかが行けなくても、もう一人まで諦める必要はありません」
「ルディは、ボクと行きたくないの?」
「行きたいです」
そこだけは即答した。
「ですが、約束を理由に、シルフィがほかの道を選べなくなるのは嫌です。僕も同じです」
シルフィは少し難しそうな顔をした。
七歳の子供へ話す内容としては、回りくどかったかもしれない。
「よく分からない」
「僕も、全部分かっているわけではありません」
「じゃあ、今は一緒に行くために頑張ってもいい?」
「もちろんです」
ようやく笑顔が戻った。
その日、家へ帰ったルーデウスは、レイネへ魔法大学の話をした。
レイネ視点
「二人で魔法大学へ行きたい、ということでございますか」
夕食の準備を進めながら尋ねると、ルーデウスは頷いた。
「ただ、シルフィが僕と一緒でなければ何もできない状態にはしたくありません」
「そのことへ、ご自分でお気づきになったのですね」
レイネは野菜を切る手を止めなかった。
「前から、少し気になっていました。シルフィは僕の予定を先に聞きます。魔術の練習も、僕がいない日はほとんどしません」
「以前よりは、ご自分で考えておられます」
「それでも、僕に頼りすぎていると思います」
レイネは切り終えた野菜を鍋へ移した。
「では、ルーデウス様はどうなさるおつもりですか?」
「僕が決める回数を減らします。練習の内容も、シルフィに考えてもらいます。それから、ほかの人と話す機会も増やしたいです」
「よいと思います」
すぐに肯定されたことで、ルーデウスは僅かに安堵した。
だが、話はそこで終わらない。
「ただし、シルフィエット様を自立させようとして、急に距離を置くことはお勧めしません」
「なぜですか?」
「理由を知らされずに態度だけを変えられれば、ご自分が嫌われたと思われるでしょう」
「では、説明した方がいいですか?」
「必要になれば。ただ、今のルーデウス様は、相手のためという理由で、ご自分が何をすべきか決めようとなさっています」
指摘された意味を考える。
シルフィが自分へ依存している。
だから、自立させなければならない。
一見すると正しい。
けれど、そこでもシルフィ本人の意思を置き去りにすれば、以前と同じことになる。
「僕が、シルフィの成長を管理してはいけないということですね」
「はい。お手伝いはできます。ですが、どのように成長するかを決めるのは、シルフィエット様ご自身です」
レイネはそこで一度手を洗い、棚から帳簿を取り出した。
「それから、魔法大学へお二人で通う場合、学費だけでなく、旅費と滞在費も必要となります」
「どれぐらいかかりますか?」
「正確な金額は存じません。ただ、この家からラノア王国までは非常に遠く、今すぐお二人を通わせられる金額ではないでしょう」
現実的な問題だった。
グレイラット家は貧しいわけではない。
しかし、二人の使用人を雇い、三人の子供を育てている。ノルンとアイシャが生まれたことで、以前より支出も増えていた。
レイネの給金についても、帳簿には未払いの金額が積み上がっている。
「レイネの給金を、まだ払っていませんよね」
「私の件は、今回のお話とは関係ございません」
「関係あります。この家に余裕がない理由の一つでしょう」
「私の給金は、旦那様の出世払いでございます」
「父様は出世していますか?」
「村人からの信頼は、年々増しております」
答えを逸らされた。
「レイネは、本当に受け取るつもりがあるのですか?」
「ございます」
「いつですか?」
「旦那様が、ご出世なされた時に」
聞くたびに同じ返事だった。
本当に全額を受け取るつもりなのかは怪しい。
それでも、本人が決めた契約をルーデウスが勝手に変えることはできなかった。
ならば、自分で金を稼ぐ方法を考えるべきだろう。
読み書き、算術、魔術。
七歳児ではあるが、他人へ教えられるものはある。
シルフィの学費をすべて自分が払うことが正しいかは分からない。
けれど、選択肢を増やすために資金を貯めることは、無意味ではないはずだった。
◇
数日後、グレイラット家へ一通の手紙が届いた。
差出人はロキシーだった。
旅立ってから二年。
現在はシーローン王国の王都で、王子の家庭教師を務めているという。冒険者として活動していた頃に名が知られ、その腕を買われて宮廷へ招かれたらしい。
さらに、シーローン王国の書庫で学び、水王級魔術を習得したと記されていた。
聖級へ到達した時には、これ以上は無理かもしれないと思った。
それでも努力を続けた結果、さらに上へ進むことができた。
手紙の中には、そうした意味の言葉が書かれていた。
ルーデウスは何度も読み返した。
最近、自分は伸び悩んでいると感じていた。
魔術も剣術も、以前のように短期間で成果が出ない。
しかしロキシーも、聖級へ到達した後に壁を感じ、それでも学ぶ場所を変え、新しい知識を得ることで王級へ進んだ。
自分も、今の環境ですぐに結果が出ないからといって、限界だと決めつけるべきではない。
ロキシーは手紙の最後に、ルーデウスがどのような道を選んでも、学ぶことをやめなければ必ず前へ進めると記していた。
剣士になっていても構わない。
治癒魔術や召喚術を学んでいてもよい。
自分と同じ道を進む必要はない。
教師として弟子の未来を決めるのではなく、どの道を選んでも応援するという内容だった。
レイネの言葉と、どこか重なる。
「返事を書きます」
手紙を読み終えたルーデウスが言うと、レイネは便箋と筆記具を用意した。
「何とお書きになりますか?」
「水王級への昇格を祝います。それから、僕は今も魔術と剣術の両方を続けていること、シルフィへ魔術を教えていること、妹が二人生まれたことを書きます」
「魔法大学へ行きたいことも、お書きになりますか?」
「はい。師匠なら、大学について詳しいでしょうから」
書き始めた後、ルーデウスは一度筆を止めた。
「レイネのことも書いてよいですか?」
「私の何をお書きになるのでしょう」
「剣術の補足をしてくれていることや、ノルンとアイシャの出産を助けたことです」
「侍女として当然のことをしただけでございます」
「ロキシー先生は、レイネが元気か気にすると思います」
二年間を共に過ごしていた。
別れの際にも手紙を送ると約束している。
「では、元気にしておりますとだけ、お伝えくださいませ」
「それだけですか?」
「十分でございます」
これ以上を求めても、答えは変わらないだろう。
ルーデウスはレイネが元気に働いており、相変わらず自分や家族が無理をすれば止めてくれる、と書き加えた。
◇
その日の夕食後、ルーデウスは家族へ話を切り出した。
パウロ、ゼニス、リーリャ、レイネの全員が揃っている。ノルンとアイシャは食事を終え、近くに置かれた寝台で眠っていた。
「父様。お願いがございます」
「金か?」
「まだ何も言っていません」
「お前が改まって頼むことなんて、金か、家を壊した時の弁償ぐらいだろう」
「最近は壊していません」
「最近は、な」
ゼニスとリーリャがパウロの左右から肘で脇腹を突いた。
「最後まで聞いてあげなさい」
「旦那様の甲斐性が試される場面でございます」
パウロは痛そうに身体を縮めた後、椅子へ座り直した。
「分かった。言ってみろ」
「いつか、ラノアの魔法大学へ通いたいと思っています」
パウロの表情が少し真剣になる。
「シルフィも魔術を学びたいと思っているため、可能なら一緒に通えるよう準備したいです」
「二人分の学費を出せという話か?」
「最初は、そのつもりでした」
「最初は?」
「シルフィの人生を、僕が勝手に決めるべきではないと気づきました。彼女が本当に大学へ行くかは、これから本人とロールズさんが決めることです」
ルーデウスは一度言葉を区切った。
「ですが、行きたいと決めた時に、お金がないという理由だけで諦めることになるのは避けたいと思っています」
「なるほど」
「そのため、まず僕一人分の学費を援助していただけないでしょうか。シルフィの分については、僕も働いて貯めたいです。ただし、僕が全額を出して彼女へ恩を負わせるのではなく、足りない時に選択肢を増やせる程度にしたいと思っています」
パウロはすぐには答えなかった。
以前のルーデウスなら、二人分の学費を当然のように親へ求め、断られれば、条件を崩すための理屈を並べていたかもしれない。
今は、シルフィ本人の意思も、家の事情も考えたうえで話している。
少なくとも自分では、そのつもりだった。
「駄目だ」
それでも、答えは変わらなかった。
「理由を聞いてもよろしいですか?」
「三つある」
パウロは指を一本立てた。
「一つ目。剣術が途中だ。お前は原則どおりに動くだけなら、同年代どころか並の大人より上だ。だが、想定外の動きに弱い。今離れれば、その弱点を抱えたまま、魔術だけに戻る可能性がある」
二本目の指を立てる。
「二つ目。金だ。お前一人なら、何年か準備すればどうにかなる。だが、シルフィの将来まで我が家で保証する余裕はない。お前が稼ぐとしても、七歳の子供に必要な金額を背負わせるつもりはない」
三本目。
「三つ目。年齢だ。お前は賢いし、同年代より強い。だが、知らないことの方が多い。人に教える経験はあっても、金を稼ぎ、契約を結び、失敗の責任を取った経験はない。今すぐ外国へ出すのは、親として認められない」
どれも感情だけの反対ではなかった。
ルーデウスが何を言うか予想し、事前に考えていたようにも聞こえる。
「何歳になれば、認めていただけますか?」
「十二歳までは、この家にいろ」
「理由は?」
「俺が家を出た年齢だ」
急に個人的な理由となった。
しかし、パウロにとって十二歳は、自分の判断で生き始めた区切りなのだろう。
「分かりました。魔法大学へ行くのは、十二歳以降にします」
素直に受け入れると、パウロが僅かに驚いた。
「それでいいのか?」
「父様が、理由を説明してくださいましたから。今すぐ行かなければならないわけでもありません」
ロキシーの手紙を読んだことで、焦りも薄れていた。
すぐに上達しなくても、続けていればよい。
「ただし、仕事を探していただけませんか」
「まだ働くつもりなのか?」
「はい。読み書き、算術、初歩的な魔術なら教えられます。仕事を通じて、父様が仰った経験も得られると思います」
パウロの目が鋭くなった。
「シルフィの学費のためか?」
「それだけではありません」
ルーデウスはレイネから言われたことを思い出し、慎重に答えた。
「自分がどれほど他人へ教えられるのか、家族以外の方とどのように働けばよいのかを知りたいです。そのうえでお金を貯められれば、将来自分や家族、友人が何かを選ぶ時に役立てられます」
「シルフィのためだけではない、と?」
「シルフィのためでもあります。でも、彼女だけを理由にすれば、僕が働くことまで彼女へ背負わせることになります」
パウロは腕を組み、長いあいだルーデウスを見つめた。
やがて、レイネへ視線を向ける。
「お前が教えたのか?」
「考える際の注意点を、少々申し上げました」
「少々で、七歳児がこんな答えを出すか?」
「旦那様と奥様のご子息でございますので」
パウロは満更でもない顔になった。
「分かった。すぐに見つかるとは限らないが、仕事を探してみる」
「ありがとうございます」
ルーデウスが頭を下げる。
その時、ノルンが寝台の中で泣き始めた。
続いてアイシャも目を覚ます。
家族会議は、二人の泣き声によって終わりとなった。
パウロ視点
ルーデウスが仕事を求めた日の夜、パウロは食堂に残り、一人で酒を飲んでいた。
七歳になった息子は、幼い頃から変わらず異常なほど優秀だった。
無詠唱魔術を操り、ロキシーが去った後も自分で研究を続けている。剣術に関しても、魔術ほど圧倒的な才能はないと思っていたが、ここ二年ほどで急速に伸び始めた。
型だけなら剣神流と水神流の中級に達している。
身体の小ささと筋力不足を補うため、相手の動きを先に読み、真正面から力を受けず、足運びで有利な位置へ回る。さらに風や土の魔術を最小限だけ使い、剣士の呼吸や重心を崩そうとする。
パウロ自身、少し前までは、何をされても簡単に対応できた。
今でも負けるつもりはない。
だが、一瞬でも油断すれば、木剣を当てられるかもしれないところまで来ていた。
それだけ強くなっても、ルーデウスには子供らしい危うさが残っている。
頭がよく、相手の事情を理解しようとするからこそ、自分の考えた解決策が正しいと思えば、無意識のうちに周囲をその方向へ導こうとする。
以前ほど露骨ではない。
リーリャの件で自分の嘘が何を引き起こすかを知り、シルフィとの関係でも、相手の意思を尊重しようと努力している。
それでも、努力していることと、問題がなくなったことは別だった。
シルフィはルーデウスを頼りすぎている。
ルーデウスもまた、シルフィに必要とされることを喜びすぎていた。
本人たちも気づき始めてはいる。
だが、毎日会える距離にいながら、自分たちの意思だけで完全に関係を変えるのは難しいだろう。
だから、離す。
少なくとも一度は、互いのいない環境で生活させる。
パウロは、すでにボレアス家へ手紙を書き始めていた。
城塞都市ロアで、ルーデウスを家庭教師として雇ってもらう。相手は、従兄弟であるフィリップの娘だ。
相当に気性の激しい子供らしく、学校からも受け入れを断られ、これまで雇われた家庭教師も長続きしていない。
普通の七歳児へ任せる仕事ではない。
だが、普通の仕事では、ルーデウスはほとんど苦労しないだろう。
知らない相手へ教え、拒絶され、失敗し、そこから関係を作り直す。
家族やシルフィ、レイネのように、最初から自分を理解してくれる者がいない環境へ置く必要がある。
さらに、ボレアス家には剣王ギレーヌがいる。
剣術の上達が伸び悩んでいる息子にとって、パウロとはまったく違う剣士から学べることは大きい。
五年間働かせ、帰宅も文通も禁じる。
十二歳になって戻る頃には、ルーデウスもシルフィも、互いに依存せず自分の道を選べるようになっているはずだ。
問題は、本人へどのように伝えるかだった。
普通に説明すれば、ルーデウスは必ず反論する。
シルフィとの関係を改善する方法をいくつも提案し、五年間も離す必要はないと主張するだろう。
その案のいくつかは、恐らく正しい。
正しいからこそ厄介だった。
言い合いになれば、パウロが勝てる自信はない。
ならば、剣で倒してしまえばいい。
いつもの稽古だと思わせておき、不意を打って気絶させる。そのままギレーヌの馬車へ積み込み、目を覚ました後に手紙を読ませる。
卑怯ではある。
だが、息子のためだ。
そう考えながら便箋へ筆を走らせていると、閉じていた扉が静かに叩かれた。
「旦那様。少々よろしいでしょうか」
レイネだった。
「入れ」
扉が開き、白髪の侍女が室内へ入る。
グレイラット家へ来てから七年が過ぎ、レイネの実年齢は二十一歳になっている。外見は十歳から十一歳ほどまでしか成長していないが、家族の中で彼女を見た目どおりの子供として扱う者はいなかった。
レイネの視線が、机の上にある便箋へ向けられる。
「ボレアス家へのお手紙でございますか」
「ああ」
「ルーデウス様を家庭教師としてお送りになるのですね」
「相変わらず話が早いな」
パウロは筆を置いた。
「お前にも同行してもらう。ルディは頭はいいが、貴族の家での働き方は知らん。生活面でも、あいつ一人じゃ何をやらかすか分からない」
「同行については承知いたしました」
反対されると思っていたため、パウロは僅かに眉を上げた。
「ただし、送り出す方法には賛成できません」
「まだ何も言ってないだろ」
「旦那様は、ルーデウス様へ事前に説明せず、剣術の稽古中に気絶させ、そのまま馬車へ乗せるおつもりではございませんか」
パウロは答えなかった。
答えないこと自体が、肯定になっていた。
「何で分かった」
「旦那様は、ルーデウス様と正面から話し合えば、ご自分が言い負かされると考えておられます。そのうえで、ご自身が確実に勝てる方法を選ぶのであれば、剣術以外にはございません」
「俺は父親だ。必要だと思えば、嫌がることでもさせなきゃならない」
「その点は否定いたしません」
レイネはパウロの向かいへ立った。
「ルーデウス様とシルフィエット様が、一度離れて生活することにも意味はあると考えております。ロアで家庭教師として働き、ギレーヌ様から剣を学ぶことも、ルーデウス様にとって有益でしょう」
「なら、何が不満なんだ」
「理由を説明せず、力で意識を奪い、大切な方へ別れを告げる機会まで奪うことです」
その言葉を聞き、パウロは顔をしかめた。
「別れを言わせたら、二人で逃げるかもしれないだろ」
「ルーデウス様は、現在のシルフィエット様との関係に問題があることを、すでに理解なさっています」
「理解していたって、五年間会えないと言えば反対する」
「反対はなさるでしょう」
「なら同じじゃねえか」
「反対されることと、説明する必要がないことは同じではございません」
レイネの声は穏やかだった。
しかし、普段のように主人の決定を補佐する態度ではない。
「旦那様は、以前の家族会議で、ルーデウス様が目的のために他者の人生を左右する嘘をついたことを問題となさいました」
「ああ」
「あの後、私もルーデウス様へ、結果がよかったとしても、相手の意思を無視する方法を繰り返してはならないと申し上げました」
「そうか」
「その私が、今度はルーデウス様の意思を完全に無視し、力で押さえつける方法へ協力することはできません」
パウロは苛立ちを感じた。
息子が自分へ向けてくる正論と、よく似ている。
「じゃあ、どうしろっていうんだ。本人に決めさせたら、村に残ると言うに決まっている」
「ロアへ行くこと自体は、親として旦那様がお決めになればよろしいかと存じます」
「それじゃ、意思を無視することには変わらんだろ」
「すべての決定を子供へ委ねることと、何も説明しないことの間には、大きな違いがございます」
レイネは一歩も退かなかった。
「ロアへ行く理由を、旦那様ご自身の言葉でお話しください。そのうえで、シルフィエット様へ別れを告げる時間を一日お与えください」
「逃げたら?」
「私も同行いたします。出発時刻までにお戻りにならなければ、私がお迎えに参ります」
「お前がルディを捕まえるのか?」
「説得いたします」
「説得で戻らなかったらどうする」
「それでも、眠っている間に縛り上げるよりは、ほかに方法がございます」
「甘いな」
パウロは鼻を鳴らした。
「世の中には、話して分かることばかりじゃない。最後は力で決めなきゃならないこともある」
「そうでございますね」
あっさり肯定され、パウロは拍子抜けした。
「でしたら、旦那様のお考えが正しいか、今から確かめましょう」
「何をする気だ」
「庭へお越しくださいませ」
「今からか?」
「ほかの皆様が眠っておられる今の方が、都合がよろしいかと存じます」
レイネはそれだけ告げると、先に部屋を出た。
パウロはしばらく椅子に座ったまま、その意味を考えていた。
やがて酒杯を置き、壁へ立てかけていた木剣を持つ。
侍女が自分へ剣術の勝負を挑む。
冗談にしては、レイネの表情は真剣だった。
◇
屋敷の裏庭には、月明かりが差し込んでいた。
レイネは普段の侍女服のまま、中央へ立っている。
手には武器を持っていない。
「まさか、素手で俺と戦うつもりか?」
「旦那様は、木剣をお使いください」
「お前を怪我させるぞ」
「魔術は使用いたしません。身体能力も、旦那様へ大きな怪我をさせない範囲に抑えます」
妙な言い方だった。
まるで、本来ならもっと大きな力を使えるとでも言っているように聞こえる。
「俺は手加減するぞ」
「ご自由に」
レイネは構えを取らなかった。
両腕を自然に下ろし、片足を僅かに後ろへ置いているだけだ。
剣神流でも、水神流でも、北神流でもない。
戦う人間の姿には見えなかった。
「始めてよろしいか」
「はい」
パウロは、まず様子を見るため、軽く踏み込んだ。
木剣を右上から振り下ろす。
子供のような外見をしたレイネへ当てるつもりはない。反応を見て、寸前で止めるつもりだった。
しかし、止める必要はなかった。
レイネは木剣が振り下ろされるより先に、半歩だけ前へ出た。
後ろへ避けるのではない。
剣の威力が十分に乗る前に懐へ入り、パウロの右肘へ指先を添える。
強く押された感覚はない。
それなのに、振り下ろそうとした腕の軌道が外れた。
「なっ――」
驚いた瞬間、足首へ何かが触れた。
レイネの踵だった。
蹴られたわけではない。パウロが踏み込んだ足の横へ置かれ、次に足を運ぶ場所だけを塞がれた。
上半身の勢いを逃がすことができず、身体が前へ傾く。
転倒する直前に地面へ手をつき、すぐに距離を取った。
「今のは何だ」
「続けてくださいませ」
説明するつもりはないらしい。
パウロは木剣を構え直した。
今度は最初から手加減を減らす。
剣神流の踏み込みで一気に間合いを詰め、横薙ぎを放つ。
レイネは後方へ跳ばなかった。
頭を僅かに下げ、剣が髪の上を通過する間に、パウロの左肩へ手を触れる。
肩を押された。
力そのものは弱い。
だが、木剣を振り抜こうとする方向へ、ほんの少しだけ力を加えられたことで、身体が必要以上に回転した。
視界からレイネが消える。
背後を取られたと理解し、北神流の要領で振り向きざまに肘を打ち込む。
肘は空を切った。
脇の下へレイネの腕が入り、反対の手が手首へ触れる。
次の瞬間、天地が逆さまになった。
背中から地面へ落ちる。
衝撃を逃がすため受け身を取ったが、起き上がるより先に、右手首を地面へ押さえられた。
木剣が手から離れる。
レイネは奪った木剣の先を、パウロの喉元へ置いた。
「一度目です」
「……一度?」
「旦那様が納得なさるまで、何度でもお願いいたします」
レイネは木剣を返し、数歩離れた。
パウロはすぐに立ち上がった。
偶然ではない。
今の動きは、こちらの力と勢いを利用したものだ。
レイネ自身は、ほとんど力を使っていない。
「護身術程度じゃなかったのか」
「自分の身を守るために覚えた技術でございます」
「程度という言葉の意味を知っているか?」
「存じております」
悪びれる様子はなかった。
パウロは木剣を握り直す。
今度は剣神流だけではない。
正面から斬り込むと見せかけ、途中で踏み込みを止める。相手が前へ出れば、北神流の足払いへ移る。
だが、レイネは動かなかった。
誘いへ乗らない。
パウロが本当に足を踏み込ませた瞬間だけ、身体をずらす。
木剣が外れたところへ手首を押され、握りが緩む。
手放さずに耐えると、今度は柄尻を自分の胸元へ押し込まれた。
剣を持つ腕が折り畳まれ、自分の木剣によって姿勢を崩される。
膝裏へ足を差し入れられ、再び地面へ倒された。
「二度目です」
「もう一度だ」
パウロは即座に立ち上がった。
三度目は、最初から実戦を想定した。
木剣を途中で手放し、レイネが武器へ意識を向けた隙に蹴りを放つ。
しかし、レイネは落ちた木剣を見なかった。
蹴り足の内側へ入り、膝を支えるように手を添える。足が伸び切る前に腰の向きを変えられ、パウロは自分から横へ倒れ込む形になった。
地面へ手をつき、四足の姿勢から反撃する。
北神流の変則的な動き。
普通の剣士なら、予想できずに足を払われる。
レイネは一歩だけ下がり、パウロが起き上がるために必要な場所へ先に足を置いた。
進路を塞がれた。
無理に立ち上がろうとした瞬間、首の後ろへ掌を添えられ、顔を地面へ伏せる形に押し倒される。
腕を背中へ回され、肩と肘を同時に固定された。
「三度目です」
レイネの呼吸は乱れていなかった。
パウロは本気に近い速度で動いている。
それなのに、相手は力で対抗せず、すべての攻撃を始まる前か、力が乗り切る前に処理していた。
「まだ続けますか?」
「……いや」
パウロが答えると、腕の拘束が解かれた。
立ち上がろうとしたが、すぐには動かなかった。
技術で負けた。
それも、ほとんど何もさせてもらえないほど完全に。
剣王のギレーヌを相手にした時でさえ、何度か剣を交えることはできた。
レイネには、一度もまともに触れることさえできなかった。
「お前、何者だ」
「グレイラット家の侍女でございます」
「ふざけるな」
パウロは地面へ座り込んだまま、レイネを睨み上げた。
「今の動きは、護身術を少し習った人間のものじゃない。剣聖どころの話でもねえ。ギレーヌより強いんじゃないのか」
「今夜は、旦那様が七年間お見せくださった動きを利用しただけでございます」
「それだけで、俺を三回も転がせるか」
「それだけではございません」
レイネは否定しなかった。
「私には、皆様へお話ししていない過去と技術がございます」
「なぜ隠した」
「侍女として働くうえで、必要がなかったためです」
「俺たちを騙していたのか」
「はい」
あまりにあっさり認められ、パウロは言葉を失った。
「ですが、旦那様」
レイネは木剣を地面へ置いた。
「私がこの家へ来てから七年が過ぎました。その間、奥様やお子様方へ害を与えたことがございましたか」
「……ない」
「家の財産を奪い、逃げようとしたことは?」
「ない」
「ルーデウス様を、旦那様や奥様から引き離そうとしたことは?」
「それも、ない」
「でしたら、今夜お見せしたことを含め、今後も私を信頼できるかは、旦那様ご自身がお決めください」
レイネはパウロの前へ膝をついた。
「ただし、ルーデウス様を何も知らないまま倒し、意識のない身体を縛り上げるのであれば、私はお止めします」
声は静かだった。
脅しではない。
実際に止められると、すでに証明されている。
「……これを俺に教えるために、戦ったのか」
「はい」
「俺が負ければ、ルディをロアへ送るのをやめると思ったか?」
「いいえ。旦那様は、その程度で目的を変える方ではございません」
「よく分かってるじゃねえか」
「ですから、手段を変えていただきたいのです」
レイネは、先ほどまでパウロの腕を押さえつけていた自分の手へ視線を落とした。
「旦那様には、ロアへ送り出す理由がございます。私はその理由を理解しております。それでも、何も説明されず、抵抗する機会さえ奪われ、力だけで意思を押し潰されれば、最初に残るのは目的への理解ではありません」
パウロは、地面へ押さえ込まれていた時の感覚を思い出した。
どこを動かしても先回りされる。
何をしても無駄だと、身体で分からされる。
相手に悪意がないと分かっていても、腹立たしかった。
自分の技量も、意思も、誇りも、すべて無意味だと扱われたように感じた。
「これが、力で無理やり押さえつけられた者の気持ちです」
レイネが告げる。
「旦那様がルーデウス様の将来を思っていたとしても、意識を奪われたルーデウス様へ最初に伝わるのは、父親と私に裏切られたという事実でしょう」
「だが、話せば反対する」
「反対させてくださいませ」
「親の決定に従わないと言ったら?」
「その時は、旦那様が父親として決定をお伝えください。ただし、別れを告げる時間だけは、お与えください」
「逃げるかもしれん」
「ルーデウス様は、逃げた場合にシルフィエット様へ何を背負わせるかを考えられる方です」
「絶対とは言えないだろ」
「絶対ではございません。ですが、信じる機会さえ与えずに力を使うことと、信じたうえで裏切られた時に対応することは違います」
パウロは顔を覆った。
面倒だった。
心底、面倒である。
剣で倒して馬車へ積む方が、どれほど簡単か分からない。
けれど、今の自分は、その簡単な方法を使われた側の不快感を知ってしまった。
しかも、レイネは自分より遥かに強いにもかかわらず、七年間、一度もその力で家族を従わせようとはしなかった。
力を持っているからこそ、使わない選択をしていた。
「分かった」
ようやく口にすると、レイネが顔を上げた。
「ルディへ話す。ロアへ行く理由も、五年間帰れないことも、手紙を禁じることもだ」
「ありがとうございます」
「だが、行くかどうかは選ばせない」
「はい」
「親としての決定だ。あいつが何を言っても、ロアへは行かせる」
「承知しております」
「シルフィとの別れは、一日だけだ」
「十分でございます」
「もし逃げたら、お前が連れ戻せ」
「最初に説得いたします」
「それでも戻らなかったら?」
レイネは少し考えた後、答えた。
「その時には、ルーデウス様ご自身へ、約束を破った結果を選んでいただきます」
「相変わらず、面倒な言い方をするな」
「旦那様よりは、説明しているつもりでございます」
パウロは大きく息を吐いた。
「それと、お前のことは後で詳しく聞くからな」
「お話しできる範囲であれば」
「全部話せ」
「それはお約束できません」
「本当に、使用人らしくない侍女だな」
「七年間、今さらでございます」
月明かりの中で、レイネはいつもの穏やかな微笑を浮かべた。
パウロは地面へ落ちた木剣を拾い上げる。
身体に怪我はない。
それでも、自分の誇りには、これまで受けたどの一撃よりも深い傷がついていた。
だが、その傷のおかげで、息子へ同じものを残さずに済むのなら、負けた意味はあったのかもしれない。