白髪の侍女   作:MトK

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第十一話 離別

ルーデウス視点

 

翌朝の剣術稽古は、いつもより早く終わった。

 

パウロの踏み込みには、普段より僅かな硬さがあった。

 

動きが鈍いというほどではない。剣を振る速度も、こちらの攻撃へ反応する鋭さも変わっていなかった。それでも、腰を捻る際に一瞬だけ動作が遅れ、普段なら絶対に見せない隙が生まれている。

 

ルーデウスはパウロの振り下ろしを木剣で外へ流し、そのまま右側面へ回り込んだ。

 

いつもなら、そこへ入るより先に足を止められる。だが、その日はパウロの反応が僅かに遅れた。

 

木剣を脇腹へ伸ばす。

 

初めて一本を取れるかもしれない。

 

そう思った直後、パウロは強引に上体を捻り、柄元で木剣を受け止めた。そのままルーデウスの剣を下へ押し落とし、前足を払う。

 

視界が傾いた。

 

背中へ風を作って衝撃を弱めたものの、立ち直るより先に、木剣の先端が喉元へ置かれた。

 

「そこまでだ」

 

勝つことはできなかった。

 

それでも、明らかな隙はあった。

 

「今日の父様は、少し動きが硬いですね」

 

起き上がりながら指摘すると、パウロは露骨に顔をしかめた。

 

「うるさい」

 

「どこか痛めましたか?」

 

「少し疲れているだけだ」

 

「それなら、今日は休んだ方がよいのではありませんか?」

 

「お前に心配されるほど弱ってねえよ」

 

パウロは木剣を肩へ担いだ。

 

普段なら、ここからもう一度構え直し、今の攻防でルーデウスが失敗した箇所を説明する。しかし、その日は木剣を片づけると、先に屋敷へ向かった。

 

「今日の稽古は終わりだ。身体を拭いたら食堂へ来い」

 

「まだ、いつもの半分ほどですが」

 

「話がある」

 

振り返らずに告げられた声は、普段より重かった。

 

ルーデウスは庭の端へ目を向けた。

 

レイネが、訓練に使用した杭と木人を片づけている。

 

「何の話か知っていますか?」

 

「はい」

 

レイネは否定しなかった。

 

「先に教えてもらうことはできますか?」

 

「旦那様ご自身がお話しになるべきことです」

 

それ以上を尋ねても、答えるつもりはないらしい。

 

ルーデウスは渡された布で汗を拭い、パウロの後を追って屋敷へ入った。

 

 

食堂には、家族全員が揃っていた。

 

パウロとゼニスが食卓の一方へ座り、リーリャは隣室で眠っているノルンとアイシャの様子を確認できる位置に立っている。

 

レイネも普段のように壁際へ控えるのではなく、食卓の端に立っていた。

 

家族全員に関係する話なのだろう。

 

ルーデウスが椅子へ座ると、パウロは組んでいた両手を開き、意を決したように口を開いた。

 

「ルディ。お前の仕事が決まった」

 

ルーデウスは思わず身を乗り出した。

 

「本当ですか?」

 

「ああ。城塞都市ロアにあるボレアス・グレイラット家で、そこの一人娘へ読み書きと算術、魔術を教える」

 

ボレアス家。

 

パウロと同じグレイラット一族であり、フィットア領の政治を担っている家だったはずだ。

 

当主のフィリップはパウロの従兄に当たり、その屋敷には剣王ギレーヌが仕えていると聞いている。

 

貴族の令嬢を教えられれば、家庭教師として十分な経験を積める。さらに、ギレーヌから剣術を学ぶ機会も得られるかもしれない。

 

仕事としては申し分なかった。

 

「期間は五年間だ」

 

喜びかけた気持ちが止まった。

 

「五年間、ロアで暮らすということですか?」

 

「そうだ」

 

「いつからでしょうか」

 

「明後日の朝に出る」

 

ルーデウスは、すぐには言葉を返せなかった。

 

五年間にわたる仕事を、出発の二日前に知らされたのである。

 

「随分と急ですね」

 

「ああ」

 

「馬車や護衛が、急に決まったのですか?」

 

「いや。仕事の話自体は、少し前から進めていた」

 

「それを今日まで、僕には話さなかったのですね」

 

パウロは視線を逸らさなかった。

 

「そうだ。それについては悪かった」

 

謝罪されたことに、かえって驚いた。

 

パウロなら、父親が決めたのだから従えと言い切る可能性もあると思っていた。

 

少なくとも、今日のパウロは、自分が一方的に話を進めたことを理解している。

 

「なぜ、もっと早く教えてくれなかったのですか?」

 

「お前をロアへ送る目的には、仕事や剣術だけじゃなく、シルフィと離すことも含まれているからだ」

 

ルーデウスの表情が固まった。

 

まったく予想していなかった話ではない。

 

最近のルーデウスは、シルフィとの関係に問題があることへ気づき始めていた。

 

彼女は何かを決めるたび、自分へ答えを求める。

 

自分もまた、シルフィから必要とされることを心地よく感じ、本人が考え終えるより早く手を貸してしまう。

 

その状態を変えようと、二人で少しずつ努力していた。

 

「僕たちは、すでに改善しようとしています」

 

「知っている」

 

「シルフィは自分で練習内容を決めるようになりました。僕がいない日にも、少しずつほかの子供と話しています」

 

「それも知っている」

 

「それなら、五年間も引き離す必要はないでしょう」

 

ルーデウスは、できるだけ感情的にならないように言葉を続けた。

 

「会う日を減らすこともできます。僕が何でも教えるのではなく、シルフィが自分で考える時間をさらに増やすこともできます。完全に離れなくても、方法はあるはずです」

 

「お前が、ちゃんと考えていることは分かっている」

 

パウロの声音は、思っていたより穏やかだった。

 

「以前のお前なら、シルフィが自分だけを頼ってくることを、何の問題もなく喜んでいただろう。今は、それがあいつのためにならないかもしれないと考えている」

 

「では――」

 

「だが、問題へ気づいたことと、問題がなくなったことは違う」

 

ルーデウスは口を閉じた。

 

「シルフィが困れば、お前は自分の予定を変えてでも助けに行く。魔法大学の話を聞いた時も、最初に考えたのは、あいつと一緒に行く方法だった。仕事を探した理由にも、シルフィの学費が入っていた」

 

「友達を助けようとすることが、悪いのですか?」

 

「悪いとは言っていない」

 

パウロは首を横へ振った。

 

「ただ、お前は自分の人生とシルフィの人生を、近づけすぎている。あいつの選択が、お前の選択になっている。お前の選択も、あいつの選択になり始めている」

 

反論しようとしたが、すぐには言葉が出なかった。

 

魔法大学へ行きたいのは、自分自身の意思である。

 

攻撃魔術以外の分野を知りたい。

 

ロキシーが学んだ場所を見てみたい。

 

さまざまな種族の魔術師と出会いたい。

 

それでも、シルフィと一緒に通う未来を思い描かなかったかと問われれば、否定はできない。

 

シルフィが行かないと言えば、自分も迷ったかもしれない。

 

「それでも、五年間は長すぎます」

 

「俺も、短いとは思っていない」

 

「なら、期間を短くしてください」

 

「お前が十二歳になるまでは、本来なら俺の手元で育てるつもりだった。その五年間を、仕事と修行へ使わせる」

 

「仕事は、僕もしてみたいと思っています」

 

「剣王ギレーヌからも、剣術を教わることができる」

 

その言葉には、強く惹かれた。

 

最近のルーデウスは、剣術の伸び悩みを感じている。

 

パウロの動きを理解できるようになった反面、同じ相手との稽古では、自分の考え方も偏り始めていた。

 

異なる剣士から学ぶ必要があることは、レイネからも指摘されている。

 

ロアへ行くことそのものには、大きな価値があった。

 

だからこそ、何も知らされないまま話を進められていたことが、余計に腹立たしかった。

 

「シルフィへは、何も言わずに行けというのですか?」

 

「そのつもりはない」

 

パウロは短く答えた。

 

「明日一日、シルフィと話せ」

 

「一日だけですか?」

 

「出発は明後日だ。馬車と護衛の都合もある。そこは変えられない」

 

「手紙は書けますか?」

 

パウロの表情が僅かに険しくなった。

 

「五年間、文通は禁止する」

 

「そこまでする必要はありません」

 

「必要だ」

 

「月に一度、近況だけを報告する程度であれば、依存が続くとは思いません」

 

「お前なら、近況報告だけで終わらせない」

 

「決めつけないでください」

 

「決めつけじゃない。これまでのお前を見て言っている」

 

パウロは食卓へ片手を置いた。

 

「シルフィが魔術で困っていると書けば、お前は何頁も解決方法を書く。あいつも、お前から返事が来るまで、自分で答えを出さずに待つかもしれない」

 

「なら、内容や枚数を制限すれば――」

 

「半端につながっていれば、お前たちは相手からの手紙を基準に生活する」

 

乱暴な考えに聞こえた。

 

だが、完全には否定できない。

 

シルフィから手紙が届けば、何をしていても優先して返事を書くだろう。魔術の相談があれば、答えを教えずにいられる自信はなかった。

 

ルーデウスは拳を握った。

 

「僕の意見を聞くつもりはありますか?」

 

「ああ。聞く」

 

「そのうえで、決定は変えないのですね」

 

「ロアへ行かせることと、五年間の文通禁止は変えない」

 

「それは、話し合いとは呼べません」

 

「分かっている」

 

パウロは、逃げずに認めた。

 

「俺は父親だ。お前が自分で決めるには早いと判断したことは、俺が決める」

 

「僕が納得しなくても?」

 

「納得してほしいとは思っている。だが、納得できなくても行かせる」

 

胸の奥から、強い怒りが込み上げてきた。

 

自分は、問題から目を逸らしていたわけではない。

 

シルフィとの関係を見直し、自分が何でも決めないよう努力していた。相手のためと称して人生を支配しないよう、レイネから学んだことを実践しようとしていた。

 

その努力が十分かどうかまで、父親に一方的に決められている。

 

「僕が変わろうとしていることを知りながら、それでも信用しないのですね」

 

「信用していないわけじゃない」

 

パウロは即座に否定した。

 

「お前が変わろうとしていることも、以前より周囲を見られるようになったことも分かっている。だからこそ、今日こうして話している」

 

パウロは一度言葉を切った。

 

「それに、努力しているお前なら、環境を変えても成長できると思っている」

 

「環境を変える必要があるかどうかまで、父様が決めるのですか?」

 

「ああ」

 

迷いのない返事だった。

 

「お前とシルフィが変わろうとしているからこそ、一度、互いのいない場所でも同じことができるか確かめてこい。今のお前なら、この五年間を無駄にはしないと思っている」

 

「それでも、僕たちの意思を無視していることに変わりはありません」

 

「ああ」

 

「父様の判断が、間違っている可能性もあります」

 

「あるだろうな」

 

「それでも行かせるのですね」

 

「行かせる」

 

腹は立つ。

 

納得もできない。

 

しかしパウロは、自分の判断を絶対に正しいと言っているわけではなかった。

 

間違っているかもしれないと認めたうえで、それでも親として決定し、その結果へ責任を負うつもりなのだろう。

 

正しいかどうかは、今の時点では誰にも分からない。

 

「分かりました」

 

諦めたわけではない。

 

「ロアへ行きます」

 

ゼニスが静かに息を吐いた。

 

リーリャも僅かに肩の力を抜く。

 

パウロは一瞬、驚いたように目を開いた。

 

「本当にいいのか?」

 

「よくはありません」

 

ルーデウスは正面から答えた。

 

「父様の決め方にも、五年間も手紙を禁止することにも、今は納得していません」

 

「ああ」

 

「それでも、仕事をすることと、ギレーヌから剣を学ぶことには意味があると思います。父様に命令されたからではなく、その部分については、自分でも行くと決めます」

 

パウロはしばらく息子を見つめた。

 

やがて、僅かに口元を緩める。

 

「そうか」

 

「ただし、五年後に、父様が間違っていたと証明するかもしれません」

 

「お前が一人でも問題なく成長して、シルフィも自分の道を歩けたなら、俺が心配しすぎていたことになる」

 

「その時は謝ってください」

 

「分かった。その時は謝る」

 

「急に話を決めたことについては、今謝ってください」

 

パウロの笑みが引きつった。

 

「そこは悪かった」

 

「文通禁止については?」

 

「それは謝らん」

 

「頑固ですね」

 

「親だからな」

 

理由になっているようで、なっていない。

 

それでも、先ほどまでよりは話が前へ進んだように感じられた。

 

ルーデウスは、次にレイネへ視線を向けた。

 

彼女は話し合いが始まってから、一度も口を挟んでいない。

 

「レイネも同行するのですか?」

 

「はい」

 

「いつから知っていましたか?」

 

「旦那様が、ボレアス家へお手紙を出すと決められた時からでございます」

 

「僕より先に知っていたのですね」

 

「はい」

 

その事実にも、怒りはあった。

 

レイネは以前、相手の意思を無視して人生を決めてはいけないと、自分へ教えた。

 

それなのに今回、ルーデウスへ相談せず、ロアへ送る計画そのものには賛成している。

 

「父様へ、僕に説明するよう求めたのはレイネですか?」

 

「はい」

 

「なぜですか?」

 

「ルーデウス様へ理由をお伝えし、シルフィエット様とお別れをなさる時間を設けるべきだと考えました」

 

「ロアへ行くこと自体には、賛成したのですね」

 

「はい」

 

「僕の意見を聞かずに?」

 

「はい」

 

レイネは言い訳をしなかった。

 

「ルーデウス様とシルフィエット様が、離れた場所でそれぞれの生活を経験することには意味があると判断いたしました。ただし、何も説明せず、お二人から別れの機会まで奪う方法には賛成できませんでした」

 

「僕へ相談すれば、反対すると分かっていたから、先に決めたのですか?」

 

「そのとおりでございます」

 

ルーデウスは唇を引き結んだ。

 

「以前、僕には、他人の意思を無視して人生を決めるなと言いましたよね」

 

「はい」

 

「今回のレイネは、それと同じことをしています」

 

「否定いたしません」

 

「僕が怒っても?」

 

「当然のことと存じます」

 

「では、今は怒っています」

 

「承知いたしました」

 

レイネは、許してほしいとも、将来理解できるとも言わなかった。

 

怒りを表明しても、関係が壊れるわけではない。

 

以前のルーデウスなら、相手から嫌われることを恐れ、納得していなくてもすぐに許したかもしれない。

 

今は、怒っている自分を無理に隠さなくてよいと分かっている。

 

同時に、怒っているからといって、相手のすべてを拒絶する必要もない。

 

「それでも、説明する時間を作ってくれたことには感謝します」

 

「お礼をいただくことではございません」

 

「感謝することと、怒っていることは別です」

 

レイネの赤い瞳が僅かに細められた。

 

「はい」

 

「明日、シルフィへ自分で話します」

 

「ご自分のお言葉でお伝えくださいませ」

 

パウロが口を挟む。

 

「逃げるなよ」

 

「僕だけで逃げれば、シルフィへ迷惑がかかります」

 

「ならいい」

 

「ただし、逃げないことと、父様へ納得したことは別です」

 

「分かっている」

 

パウロは疲れたように答えた。

 

話し合いは終わった。

 

ロアへ行くことは、もう変わらない。

 

残された時間は一日。

 

その一日で、シルフィへ何を伝えるべきか。

 

食堂を出た後も、ルーデウスの頭からそのことが離れなかった。

 

 

翌朝、ルーデウスは普段より早く丘へ向かった。

 

大木の下には、まだ誰もいない。

 

いつもなら、シルフィが来るまで魔術の練習をする。しかし、その日は教本を開いても、文字が頭へ入ってこなかった。

 

どのように話せばよいのか。

 

五年間会えない。

 

手紙も送れない。

 

しかも、それは二人で話し合って決めたことではない。

 

大人たちが、二人の関係を危ういと判断した結果である。

 

一方で、ロアでの仕事そのものには期待していた。

 

知らない相手へ教えること。

 

貴族の家で働くこと。

 

剣王ギレーヌから、パウロとは異なる剣術を学ぶこと。

 

その事実を隠せば、シルフィへ嘘をつくことになる。

 

だからといって、楽しみだとだけ告げれば、自分から離れたがっていると思われるかもしれない。

 

考えがまとまらないまま、草を踏む足音が聞こえた。

 

「ルディ、今日は早いね」

 

丘を登ってきたシルフィは、いつもと同じ笑顔を浮かべていた。

 

その笑顔を見た瞬間、胸の奥が痛んだ。

 

「シルフィ。今日は話があります」

 

声の違いに気づいたのか、シルフィの表情から笑みが消えた。

 

二人は大木の根元へ並んで座った。

 

ルーデウスは、隠さず順番に説明した。

 

城塞都市ロアで、貴族の令嬢へ読み書きや魔術を教えること。

 

出発は明日の朝であること。

 

仕事の期間は五年間で、その間は村へ戻れないこと。

 

手紙も認められていないこと。

 

そして、二人が互いに頼りすぎていると、パウロが判断したこと。

 

シルフィは途中で口を挟まなかった。

 

最後まで聞き終えると、膝の上で両手を強く握った。

 

「ルディも、ボクたちが離れた方がいいと思ってるの?」

 

最初に尋ねられたのは、そこだった。

 

「僕たちが、互いに頼りすぎているところはあると思います」

 

シルフィの顔が曇った。

 

「でも、五年間も会わないことが必要なのかは分かりません。手紙まで禁止することには、今も反対しています」

 

「行きたくない?」

 

簡単には答えられない問いだった。

 

「シルフィと離れたくはありません」

 

そこだけは迷わず言えた。

 

「ですが、仕事はしてみたいです。知らない人へ教えることも、ギレーヌという剣王から剣を学ぶことも、僕に必要だと思っています」

 

「じゃあ、ボクといるより、そっちの方が大事なの?」

 

「比べるものではありません」

 

「ボクは、ルディと一緒にいたい」

 

シルフィの目から涙がこぼれた。

 

以前なら、すぐに抱きしめていたかもしれない。

 

今は、まず尋ねる。

 

「隣へ近づいてもいいですか?」

 

シルフィは泣きながら頷いた。

 

ルーデウスは少しだけ距離を縮め、肩が触れる位置へ座った。

 

「パウロさんに、行かないって言って」

 

「それはできません」

 

「どうして?」

 

「仕事へ行くことについては、僕自身も意味があると思ったからです」

 

パウロに命令されたからだけではない。

 

最後には、自分でも行くと決めた。

 

そこを曖昧にすれば、責任をすべて父親へ押しつけることになる。

 

「ボクを置いていくことになっても?」

 

「はい」

 

答えるのは苦しかった。

 

けれど、嫌われたくないからと嘘をつくことはできない。

 

「僕は今まで、シルフィのためと言いながら、シルフィが僕を必要としてくれることを、自分のためにも使っていました」

 

「どういうこと?」

 

「シルフィが僕を頼ってくれれば、自分が大切な人間になれたように感じられたんです」

 

前世では、誰からも必要とされない時間が長かった。

 

その記憶があるからこそ、頼られることを失いたくなかった。

 

「でも、シルフィが僕なしでは何もできないままになることは、友達として望んでいることではありません」

 

「ボクは、何もできなくないよ」

 

「はい。最近は、自分で練習内容を考えています。僕がいない日にも、ほかの人と話せるようになりました」

 

「だったら、離れなくてもいいでしょう?」

 

「僕も、そう思う部分はあります」

 

ルーデウスは正直に答えた。

 

「父様の判断が正しいかは、今の僕には分かりません。ですが、離れている間に、僕もシルフィのいない場所で何ができるのか、確かめたいと思っています」

 

シルフィは涙を拭わず、しばらく俯いていた。

 

「五年後、帰ってくる?」

 

「帰るつもりです」

 

「絶対?」

 

安易に頷くことはできなかった。

 

五年は長い。

 

病気や事故が起こる可能性もある。この世界では、旅をするだけでも命を落とすことがある。

 

「帰るために努力します」

 

「絶対って言ってよ」

 

「守れるか分からない約束は、したくありません」

 

シルフィの表情が歪んだ。

 

傷つけたことは分かった。

 

それでも、安心させるためだけに絶対という言葉を使えば、その約束がシルフィの五年間を縛ってしまうかもしれない。

 

「ですが、生きていて、帰れる状況であれば、必ず戻ります」

 

シルフィはしばらく泣いた。

 

ルーデウスは言葉で泣き止ませようとせず、ただ隣へ座っていた。

 

やがて、シルフィが自分から口を開く。

 

「手紙も書けないなら、ルディが何をしてるか分からない」

 

「僕も、シルフィが何をしているか分かりません」

 

「寂しくないの?」

 

「寂しいです」

 

「ボクだけじゃない?」

 

「もちろんです」

 

シルフィはルーデウスの袖を掴んだ。

 

「ボク、魔術を続ける」

 

「はい」

 

「ルディがいなくても、自分で練習する。分からない時は、お父さんやゼニスさんにも聞く」

 

「よいと思います」

 

「ほかの子とも話す」

 

「無理に仲良くする必要はありません。話したいと思った人からで十分です」

 

「五年後、ルディが知らない魔術を使えるようになる」

 

声には、少しずつ力が戻っていた。

 

「その時は、僕へ教えてください」

 

「ルディより強くなるかもしれないよ」

 

「楽しみにしています」

 

「剣術も?」

 

「それは、かなり頑張らないと難しいと思います」

 

「ルディの意地悪」

 

涙を流したまま、シルフィは少しだけ笑った。

 

その日は、魔術の練習をしなかった。

 

二人で村の周囲を歩き、初めて会った畑や、ロールズへ弁当を届けた見張り櫓、何度も植物を探した森の手前を巡った。

 

特別なことは何もしない。

 

ただ、これまで二人で歩いた場所を、もう一度ゆっくりと確かめた。

 

ルーデウスは、シルフィが何を話している時に笑うのかを見た。

 

シルフィは、ルーデウスが植物辞典の説明を間違えた時、以前より遠慮なく指摘するようになっていた。

 

二人の関係は、すでに出会った頃とは違う。

 

ルーデウスが一方的に守り、教えるだけの相手ではなくなっている。

 

だからこそ、離れている間にも、シルフィは成長できるのかもしれない。

 

夕方になり、大木へ戻った。

 

別れの時刻が近づいている。

 

「明日の朝、見送りに行ってもいい?」

 

シルフィが尋ねた。

 

「来てくれると嬉しいです」

 

「泣かないから」

 

「泣いてもいいと思います」

 

「ルディも泣く?」

 

「たぶん」

 

正直に答えると、シルフィはまた少し笑った。

 

別れる前、二人は手を握った。

 

待つとも、忘れないとも、ほかの誰とも親しくしないとも約束しなかった。

 

五年間、互いの人生を止める約束はしない。

 

それでも、再会できた時には、もう一度友達として話したい。

 

そのことだけを確かめた。

 

丘を下りる途中、道の先にはレイネが立っていた。

 

二人の声が聞こえない距離で待っていたらしい。

 

「お話は終わりましたか?」

 

「はい」

 

ルーデウスが答える。

 

シルフィはレイネを見上げた。

 

「レイネも一緒に行くんだよね」

 

「はい」

 

「ルディが何でもレイネにやってもらわないようにして」

 

「必要以上にはお手伝いいたしません」

 

「でも、本当に困ってたら助けて」

 

「承知いたしました」

 

「それから、レイネも帰ってきて」

 

レイネは、ほんの一瞬だけ目を見開いた。

 

「はい。ルーデウス様とともに帰れるよう努めます」

 

三人で村へ戻った。

 

寂しさが消えたわけではない。

 

けれど、何も告げられずに別れるのではない。

 

傷ついたことも、離れたくないことも、それでも互いに進もうとしていることも伝えられた。

 

その違いは、これから始まる五年間において、決して小さなものではなかった。

 

 

パウロ視点

 

出発の朝。

 

グレイラット家の前には、城塞都市ロアへ向かう馬車が停められていた。

 

御者台の近くには、褐色の肌と獣の耳を持つ女剣士が立っている。

 

剣王ギレーヌ・デドルディア。

 

かつてパウロと同じ冒険者一行に所属していた仲間であり、現在はボレアス家に仕えている。

 

「久しぶりだな、パウロ」

 

「ああ。ルディのことを頼む」

 

「聞いている。剣術も教える」

 

「甘やかすなよ」

 

「お前よりは厳しくする」

 

「俺も相当厳しくしてきたぞ」

 

「だが、お前がボレアス家へ送った手紙には、レイネが稽古を見て、ルーデウスへ動きを言葉で説明していると書いてあった」

 

「……あれは、俺の教えを分かりやすく言い直しているだけだ。剣を教えたのは俺だからな」

 

「分かっている。お前が教え、レイネが理解を助けた。だから、七歳であれだけ動けるのだろう」

 

少し離れた場所では、レイネが馬車へ荷物を積み込んでいる。

 

いつもと変わらない、無駄のない動きだった。

 

パウロは昨夜、彼女に一度もまともに触れることができなかった。

 

正面から木剣を振るい、北神流の変則的な動きまで使った。それでも、力で受け止められたことは一度もない。踏み込む場所を塞がれ、重心をずらされ、自分の勢いだけで地面へ転がされた。

 

三度挑み、三度とも完全に押さえ込まれた。

 

あれほどの技術を持ちながら、レイネは七年間、一度もその力で家族を従わせようとはしなかった。

 

必要がない限り使わない。

 

相手の意思を力だけで潰さない。

 

昨夜、言葉と身体の両方で突きつけられたことを思い出す。

 

パウロが説明と別れの時間を与えたのは、レイネに命令されたからではない。

 

最後に決めたのは自分だ。

 

だが、彼女に何もさせてもらえず地面へ押さえ込まれなければ、ルーデウスの気持ちを具体的に想像することはできなかっただろう。

 

「パウロ?」

 

ギレーヌに呼ばれ、パウロは意識を戻した。

 

「何だ」

 

「ぼんやりしている」

 

「息子を五年間も送り出すんだ。少しぐらい考え事もする」

 

「寂しいのか」

 

「悪いかよ」

 

「悪くない」

 

ギレーヌはそれ以上追及しなかった。

 

屋敷から家族が出てくる。

 

ゼニスはノルンを抱き、リーリャはアイシャを抱いている。

 

その後ろから、旅装を整えたルーデウスが歩いてきた。

 

腰にはロキシーから贈られた杖と、パウロから贈られた木剣。

 

肩には旅用の鞄。

 

七歳の身体には、少し大きすぎる荷物だった。

 

レイネが鞄へ手を伸ばしかけたが、ルーデウスは首を横へ振る。

 

「自分で持ちます」

 

「承知いたしました」

 

レイネは無理に取り上げず、鞄の紐が正しく肩へ掛かっているかだけを確認した。

 

村の道から、シルフィが走ってくる。

 

目の周囲は赤い。

 

ほとんど眠れなかったのだろう。

 

それでもルーデウスの前へ来ると、精いっぱい笑顔を作った。

 

二人は小さな声で言葉を交わした。

 

パウロは内容を聞こうとしなかった。

 

あの時間は二人のものである。

 

やがて、ルーデウスが馬車へ乗ろうとする。

 

「ルディ」

 

パウロは息子を呼び止めた。

 

「何ですか、父様」

 

「五年間、しっかり働け」

 

「はい」

 

「相手は相当に気性の激しい娘だと聞いている。お前の思いどおりにはならんぞ」

 

「教える相手が思いどおりになるとは、最初から考えていません」

 

「ならいい」

 

パウロは一度、ギレーヌへ目を向ける。

 

「剣も習え。今のお前は、型を覚えるのは早いが、予定が崩れた時に考えすぎる。実戦なら、その一瞬で死ぬ」

 

「分かっています」

 

「十二歳になって戻ってきたら、もう一度勝負だ」

 

「その時は、正面から一本を取ります」

 

一瞬、昨夜のレイネの姿が脳裏へ浮かんだ。

 

正面に立ち、技術だけで自分を完封した白髪の侍女。

 

ルーデウスも、いつかあの領域へ届くのだろうか。

 

「やってみろ」

 

パウロは笑った。

 

「今のお前に負けるつもりはない。五年後もな」

 

「父様も、僕がいない間に練習してください」

 

「余計なお世話だ」

 

「レイネに、身体の使い方を見てもらえばよいのではありませんか?」

 

パウロの頬が僅かに引きつった。

 

「……あいつには、家の仕事がある」

 

「僕と一緒にロアへ行きますよ」

 

「とにかく、俺には俺のやり方がある」

 

ルーデウスは少し首を傾げたが、それ以上は追及しなかった。

 

パウロは胸の内で安堵した。

 

昨夜の敗北を息子へ知られるつもりはない。

 

少なくとも、今はまだ。

 

ルーデウスは馬車へ片足をかけた後、もう一度振り返った。

 

「父様」

 

「まだ何かあるのか」

 

「説明してくれたことには、感謝しています」

 

予想していなかった言葉だった。

 

「ですが、五年間の文通禁止には、今も納得していません」

 

「分かっている」

 

「五年後、必要なかったと証明するかもしれません」

 

「やってみろ」

 

「父様も、それまで少しは話し合いが上手くなっていてください」

 

「余計なお世話だ」

 

ルーデウスが僅かに笑った。

 

パウロは息子の頭へ手を伸ばしかけた。

 

以前なら、そのまま乱暴に髪を撫でていただろう。

 

だが、シルフィとの一件以来、ルーデウスが他人へ触れる前に許可を求めるようになったことを思い出す。

 

一度手を止め、息子の顔を見る。

 

ルーデウスは少し驚いた後、僅かに頭を下げた。

 

パウロは今度こそ、その髪へ静かに触れた。

 

「行ってこい」

 

「行ってきます」

 

ルーデウスが馬車へ乗り込む。

 

続いてレイネも乗ったが、彼の隣ではなく、向かい側の席を選んだ。

 

近くにはいる。

 

けれど、最初から寄りかからせるつもりはないという距離だった。

 

馬車がゆっくりと動き始める。

 

ゼニスとリーリャが手を振り、パウロも腕を上げた。

 

シルフィは最初、両手を胸の前で強く握ったまま、声を出せずに立っていた。

 

馬車が少しずつ離れていく。

 

やがて、堪えきれなくなったように走り出した。

 

「ルディ!」

 

窓が開き、ルーデウスが顔を出す。

 

「シルフィ!」

 

「絶対に、すごい魔術師になるから!」

 

「僕も、立派な家庭教師になります!」

 

「剣士にもなって!」

 

「それは師匠次第です!」

 

「自分でも頑張って!」

 

「はい!」

 

馬車の速度が上がり、シルフィの足では追いつけなくなる。

 

それでも、姿が見えなくなるまで手を振り続けていた。

 

パウロは、走る少女と、窓から身体を乗り出す息子を見ながら考えた。

 

別れの時間を与えなければ、この光景はなかった。

 

ルーデウスは自分の怒りを伝えることも、シルフィへ本心を話すこともできないまま、村から引き離されていただろう。

 

その方が簡単だった。

 

反論を聞かずに済む。

 

息子の怒りを正面から受け止める必要もない。

 

けれど、簡単な方法が正しいとは限らない。

 

ルーデウスは怒った。

 

反対した。

 

それでも、仕事と修行には意味があると考え、最後には自分の意思で馬車へ乗った。

 

その違いは大きい。

 

「パウロ」

 

隣に立つゼニスから呼ばれ、パウロは顔を向けた。

 

「どうしたの?」

 

「何でもない」

 

「随分と静かね」

 

「息子が五年間も家を出るんだ。少しぐらい考え事もする」

 

「寂しいの?」

 

「当然だろ」

 

素直に答えると、ゼニスは少し驚いた後、柔らかく笑った。

 

ノルンが腕の中でもぞもぞと動く。

 

パウロは娘を抱き直した。

 

次にルーデウスと会う時、息子は十二歳になっている。

 

自分より遥かに強くなっているかもしれない。

 

父親の判断が間違っていたと、正面から突きつけてくるかもしれない。

 

それでもいい。

 

自分へ怒りを向けられるほど、自分の考えを持つ人間になって戻ってくればいい。

 

「強くなって帰ってこい、ルディ」

 

誰にも聞こえない声で呟いた。

 

道の向こうでは、すでに馬車の姿が見えなくなっていた。

 

 

ルーデウス視点

 

村の姿が完全に見えなくなってからも、ルーデウスはしばらく窓の外を眺めていた。

 

道の両側には、見慣れない畑や森が続いている。

 

ブエナ村から離れるのは、ロキシーとの卒業試験以来だった。

 

あの日は、ロキシーの後ろで馬へ乗り、外の景色を見るだけで精いっぱいだった。

 

今は、自分の足で家を出た。

 

納得できないことは残っている。

 

父親への怒りもある。

 

シルフィと離れる寂しさは、胸の奥へ重く沈んだままだ。

 

それでも、自分で馬車へ乗った。

 

その違いは大きい。

 

「窓を閉めるか」

 

向かい側から、低い声がかけられた。

 

話したのはギレーヌだった。

 

「風が強くなる。長く顔を出していると、目に砂が入るぞ」

 

ルーデウスは窓から身体を戻し、自分で扉を閉めた。

 

「改めまして。ルーデウス・グレイラットと申します」

 

「ギレーヌ・デドルディアだ」

 

褐色の肌を持つ女剣士は、腕を組んだまま名乗った。

 

頭には獣族特有の耳があり、腰の後ろから太い尻尾が伸びている。右目は眼帯で覆われているが、残る左目だけでも、相手の全身を正確に見ていることが分かった。

 

「父様から、剣王だと伺っています」

 

「そうだ」

 

「僕へ剣術を教えていただけるのでしょうか」

 

「そのために来た」

 

「僕は剣神流と水神流を中級まで、北神流を初級まで学んでいます」

 

ギレーヌは、ルーデウスの手、肩、腰、足へ順番に視線を向けた。

 

「構えと足運びは見れば分かる。パウロだけに習った動きではないな」

 

ルーデウスは、向かいに座るレイネを見た。

 

「父様の動きを、レイネに理解しやすく説明してもらいました」

 

「そうか」

 

ギレーヌはレイネを一度見た。

 

「剣術を教えられるのか?」

 

「旦那様の稽古を長く拝見しておりましたので、ルーデウス様が理解できていない部分を言葉へ直していただけでございます」

 

レイネは、普段と同じように答えた。

 

「教えるのが上手いのだな」

 

ギレーヌはそれだけ言うと、再びルーデウスへ視線を戻した。

 

「七歳にしては、よく鍛えている」

 

「ありがとうございます」

 

「だが、まだお前が戦うところを見ていない」

 

ギレーヌは腕を組んだまま、ルーデウスの手と足をもう一度見た。

 

「構えや身体の使い方だけなら、馬車の中でも分かる。だが、実際に剣を向けられた時にどう動くかは、見なければ分からない」

 

「では、ロアへ着いてから確認するのですか?」

 

「ああ」

 

「そこで稽古を?」

 

「まず、お前が普段どおりに戦うところを見る」

 

「その後で、直すべきところを教えていただけますか?」

 

「見つかれば教える」

 

「見つからなければ?」

 

「もっと戦う」

 

どうやら、パウロと似た種類の教師らしい。

 

以前のルーデウスであれば、不安を感じただろう。

 

しかし今回は、レイネがいる。

 

そう考えた直後、自分の思考へ気づいた。

 

分からないことがあれば、レイネが言葉へ直してくれる。

 

生活で問題が起きれば、彼女が先回りして整えてくれる。

 

シルフィと離すことだけが、パウロの目的ではなかったのかもしれない。

 

自分はレイネにも、無意識のうちに頼りすぎている。

 

ルーデウスは座り直し、レイネと向き合った。

 

「レイネ」

 

「はい」

 

「ロアでは、仕事の準備も、相手へ教える内容も、最初は自分で考えます」

 

「承知いたしました」

 

「失敗しても、すぐには答えを教えないでください」

 

「はい」

 

「ですが、自分で考えた後に、どこが悪かったのか相談することはできますか?」

 

レイネは、ほんの僅かに表情を和らげた。

 

「もちろんでございます」

 

「それから、まだ怒っています」

 

「承知しております」

 

「父様へ説明するよう求めてくれたことには感謝しています。でも、僕へ相談せず、ロアへ送ることへ賛成したことは、まだ許していません」

 

「はい」

 

「すぐに普通に話せない時があるかもしれません」

 

「それも、当然のことと存じます」

 

言い訳をしない返事だった。

 

ルーデウスは、胸の奥に残る怒りを無理に消そうとはしなかった。

 

怒りながらでも、必要な相談はできる。

 

信頼が傷ついても、すべてが失われたわけではない。

 

そのことを確かめるように、小さく息を吐いた。

 

「僕が怒っている間も、普段どおりに仕事をするのですか?」

 

「必要な務めは果たします。ただし、ルーデウス様が距離を置くことを望まれるのであれば、必要以上には近づきません」

 

「僕が何も話さなければ?」

 

「お待ちします」

 

「いつまで?」

 

「ルーデウス様が、ご自身のお気持ちを整理なさるまで」

 

急かさない。

 

許しを求めない。

 

それは、これまでと変わらないレイネの態度だった。

 

ルーデウスは窓の外へ視線を向けた。

 

これから五年間。

 

知らない相手へ教え、知らない場所で働き、剣王から剣を学ぶ。

 

失敗するだろう。

 

相手に拒絶されるかもしれない。

 

レイネにも、家族にも頼れない問題へ直面するかもしれない。

 

それでも、始める前から逃げるつもりはなかった。

 

「絶対に、ただ働くだけでは終わらせません」

 

ルーデウスが呟くと、ギレーヌの耳が僅かに動いた。

 

「どうするつもりだ」

 

「家庭教師として、相手が僕なしでも学べるようにします。剣術では、父様へ正面から一本取れるぐらい強くなります。報酬も貯めて、将来の選択肢を増やします」

 

「欲張りだな」

 

「五年間も使うのですから、それぐらいは達成したいです」

 

ギレーヌは、僅かに口元を上げた。

 

「いい。明日から剣を振る」

 

「馬車の中では駄目ですか?」

 

「狭い」

 

「足運びの練習ならできます」

 

「馬車を壊すな」

 

レイネの声が横から入る。

 

「ルーデウス様は、以前にも練習中に壁を破壊なさっております」

 

「一度だけです」

 

「木を折ったこともございます」

 

「それはロキシー先生です」

 

「二本目はルーデウス様でございます」

 

ギレーヌが小さく笑った。

 

それを見て、ルーデウスも僅かに口元を緩める。

 

シルフィとの別れの痛みは、まだ消えていない。

 

家族の姿を思い出せば、すぐにでも胸が苦しくなる。

 

それでも、前へ進むことと、寂しさを感じることは両立できる。

 

馬車は城塞都市ロアへ向けて進み続けた。

 

ルーデウスの初めての仕事と、これまでとは異なる修行の日々が始まろうとしていた。

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