ルーデウス視点
城塞都市ロアへ到着したのは、ブエナ村を出発してから数日後の夕方だった。
馬車の窓から最初に見えたのは、街道の先に横たわる巨大な城壁である。
ブエナ村を囲んでいた木製の柵とは、比べることさえ馬鹿らしい。高く積み上げられた石壁の上には兵士が立ち、正門の左右には見張り台が設けられている。門へ続く街道には、旅人や商人、荷馬車が長い列を作っていた。
「大きいですね」
ルーデウスが窓の外を眺めながら呟くと、向かいに座っていたギレーヌの耳が僅かに動いた。
「ああ。フィットア領で最も大きな町だ」
「門を通るだけでも、かなり時間がかかりそうです」
「商人は荷物を調べられる。あたしたちはボレアス家の馬車だから、すぐに通れる」
実際、馬車は列の横を進み、正門の近くで一度止まっただけだった。
御者が門兵へ書類を見せると、荷台を調べられることもなく通行を許される。
門の内側へ入った瞬間、ルーデウスの視界に、これまで見たこともない数の人間が飛び込んできた。
街路の両側には、宿、食堂、武具店、雑貨店が並んでいる。通りを歩く者の中には、人族だけでなく、耳や尻尾を持つ獣族や、小柄で筋肉質な炭鉱族らしい者もいた。
冒険者と思われる武装した集団も珍しくない。
大通りの一角では、多くの旅人が荷物を抱えて集まっていた。
「ギレーヌ。あそこに集まっている人たちは、何を待っているのですか?」
「あれは乗合馬車の発着場だ。自分の馬や馬車を持たない者が、金を払って乗る」
「目的地ごとに馬車が分かれているのでしょうか」
「そうだ。近くの村へ行く馬車もあれば、何日もかけて別の町へ行く馬車もある」
「道の途中で魔物に襲われることは?」
「ある。だから、護衛を雇う。料金が安い馬車は、護衛も弱い」
金額だけでなく、安全性まで自分で判断しなければならないらしい。
旅をするというだけでも、学ぶべきことは多い。
馬車が町の中心へ進むにつれ、街並みも少しずつ変化していった。
正門の周辺では、旅人や冒険者向けの店が多かった。そこから離れると、食料品店や衣料品店、職人の工房が目立つようになる。
さらに奥へ進めば、通りは広くなり、建物も石造りの立派なものへ変わっていった。
通行人の衣服も上質になり、使用人や護衛を伴う者が増えている。
「町の中でも、住む人の身分で区域が分かれているのですね」
「大体はそうだ」
ギレーヌが答える。
「外側には旅人や冒険者が多い。内側には金持ちや貴族が住んでいる」
「敵が町へ侵入した場合、外側から戦場になるということでもありますか?」
「そうなる」
城塞都市は、ただ町全体を壁で囲っているだけではない。
外から敵が入り込んだ際にも、町の中心まで簡単には進めないよう設計されているのだろう。
ルーデウスが興味深く窓の外を見ていると、隣からレイネの声がした。
「ルーデウス様。もう少しお身体を内側へお戻しくださいませ」
気づけば、頭だけでなく肩まで窓の外へ出ていた。
「すみません」
「興味を持たれることは結構ですが、到着前に馬車から転落なさっては、先方へどのように説明するべきか困ります」
「風魔術を使えば、着地はできます」
「落ちない方が簡単でございます」
正論だった。
ギレーヌが小さく鼻を鳴らす。笑ったのかもしれない。
やがて馬車は、町の中央にそびえる巨大な館へ近づいていった。
高い塀に囲まれ、正門の前には武装した兵士が立っている。敷地の奥には複数の建物が並び、そのさらに向こうには、城のような本館が見えた。
「ここが、ボレアス家の屋敷ですか?」
「ああ」
「僕が教える方は、領主の娘なのですか?」
「フィリップの娘だ」
ギレーヌはそれだけ答えた。
馬車は正門で止められず、そのまま敷地内へ入っていく。
前庭だけでも、ブエナ村の家が何軒も建てられそうな広さがあった。庭師、使用人、兵士、厩務員が、それぞれの仕事をしながら行き交っている。
建物の正面へ到着すると、馬車の扉が開かれた。
ルーデウスは自分の鞄を持ち、地面へ降りる。
レイネがその後へ続き、最後にギレーヌが降りた。
屋敷の入り口では、痩せた中年の男性が待っていた。
撫でつけられた髪と、皺一つない執事服。立っているだけで、長く使用人を務めてきた人物だと分かる。
「お待ちしておりました。ルーデウス・グレイラット様」
男性は胸へ手を当て、丁寧に頭を下げた。
「当家で執事を務めております、トーマスと申します」
ルーデウスも、レイネから教わった範囲で礼を返す。
「ルーデウス・グレイラットです。本日からお世話になります」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
トーマスの視線が、ルーデウスの後ろに立つレイネへ向けられた。
「こちらの方が、パウロ様のお手紙に記されていた侍女の方でしょうか」
「はい」
レイネは一歩前へ出た。
「レイネと申します。ルーデウス様の身の回りのお世話と、生活上の補佐を務めさせていただきます」
「失礼ながら、ご年齢を伺ってもよろしいでしょうか」
「二十一歳でございます」
トーマスの眉が、ほんの僅かに動いた。
見た目だけなら、十歳か十一歳ほどの少女である。驚かない方が難しい。
それでも、トーマスはすぐに表情を戻した。
「承知いたしました。お二人のお部屋につきましては、若旦那様のご判断をいただいた後でご用意いたします」
「ありがとうございます」
屋敷へ通される。
玄関だけでも、ブエナ村の家の居間より広い。
磨かれた床。
壁に飾られた絵画。
天井から下がる装飾品。
どれも高価なのだろうが、ルーデウスには詳しい価値までは分からなかった。
応接間へ案内されると、トーマスが紅茶を用意した。
ルーデウスには柔らかな長椅子が勧められ、ギレーヌは部屋の隅へ立つ。レイネも使用人として壁際へ控えようとした。
「レイネも座ってよいのではありませんか?」
「こちらはルーデウス様のお仕事に関する面談でございます。私は必要になるまで控えております」
「レイネの滞在条件についても話すと思います」
「その際には、お声がけがあるでしょう」
レイネは立ったまま動かなかった。
ルーデウスは一人で長椅子へ腰を下ろし、出された紅茶を飲む。
香りが強く、これまで家で飲んでいた物とは明らかに違う。高級なのだろうが、具体的に何が違うのかまでは説明できない。
カップを戻した直後、廊下から重い足音が近づいてきた。
扉が勢いよく開く。
「パウロの息子が来たというのは、ここか!」
部屋へ入ってきたのは、五十歳ほどの大柄な男性だった。
厚い胸板と太い腕を持ち、豪華な衣服の上からでも、鍛えられた身体つきが分かる。白髪の混じる髪と、顔を覆う髭。人を威圧することに慣れた立ち姿だった。
ルーデウスはすぐに立ち上がり、先ほどトーマスへ行ったものと同じ挨拶をする。
「初めまして。ルーデウス・グレイラットと申します」
男性はルーデウスを見下ろし、大きく鼻を鳴らした。
「挨拶がなっとらん!」
部屋全体が震えるような声だった。
ルーデウスの肩が反射的に強張る。
「申し訳ありません。正式な作法を学んでおりません」
「貴様は、それで済ませるつもりか!」
「いいえ」
怒鳴り声へ負けないよう、声を整える。
「分からないまま来たことは僕の不足です。正しい方法を教えていただければ、覚えます」
男性の眉が上がった。
「ならば覚えろ! 知らんこと自体は仕方がない! 知らぬと分かった後も学ばぬ者が愚か者なのだ!」
「はい」
「だが!」
さらに声が大きくなる。
「逃げずに答えたことはよい! この館への滞在を許す!」
叱られているのか、認められたのか分からない。
恐らく、両方なのだろう。
「ありがとうございます」
ルーデウスが頭を下げる。
男性は続いてレイネへ顔を向けた。
「貴様が、ルーデウス付きの侍女か!」
「はい。レイネと申します」
「小さいな!」
「よく言われます」
「仕事はできるのか!」
「必要な務めは果たします」
「ルーデウスを甘やかすな!」
「ご本人がなすべきことを、私が代わるつもりはございません」
「よし!」
何が気に入ったのか、男性は大きく頷いた。
そのまま踵を返し、入ってきた時と同じ勢いで部屋を出ていく。
開け放たれた扉の向こうから、遠ざかっていく足音が響いた。
ルーデウスは数秒黙った後、トーマスへ尋ねる。
「今の方は?」
「サウロス・ボレアス・グレイラット様でございます」
フィットア領を治める、ボレアス家の当主。
エリスの祖父に当たる人物らしい。
「父様とは、かなり性格が違いますね」
「旦那様にも、似た部分はあるかと存じます」
レイネが静かに言う。
「どこがですか?」
「勢いで話を進められるところなど」
否定はできなかった。
しばらくすると、今度は落ち着いた足音が近づいてきた。
扉から入ってきたのは、三十歳前後の細身の男性だった。
柔らかな茶髪を整え、穏やかな笑みを浮かべている。表情は親しみやすいが、目だけは部屋にいる者たちを注意深く観察していた。
男性はルーデウスの向かいへ立ち、右手を胸へ当てて頭を下げる。
「フィリップ・ボレアス・グレイラットだ」
ルーデウスは立ち上がり、相手の動きを真似て挨拶を返した。
「ルーデウス・グレイラットです。よろしくお願いいたします」
フィリップは僅かに目を細めた。
「初めてにしては、よくできている」
「ありがとうございます」
相手と自分の立場に応じて細かな違いはあるのだろうが、少なくとも大きく外してはいないらしい。
「座ってくれ。レイネも、今回は君の滞在条件に関する話がある。そちらへ」
「ありがとうございます」
レイネは、ルーデウスから一つ離れた椅子へ腰を下ろした。
ギレーヌは変わらず、部屋の隅へ立っている。
フィリップが長椅子へ座り、足を組んだ。
「パウロからは、どこまで聞いている?」
「五年間、こちらのお嬢様へ読み書き、算術、魔術を教えること。その報酬を、将来の魔法大学への学費として受け取ること。ギレーヌから剣術を教わることです」
「エリスについては?」
「相当に気性が激しく、今までの家庭教師が長続きしなかったとは聞いています」
「それだけか」
フィリップは苦笑した。
「パウロは、面倒な部分の説明をこちらへ任せたらしい」
「父様らしいと思います」
「同感だ」
フィリップは腕を組んだ。
「娘の名は、エリス・ボレアス・グレイラット。君より二歳上の九歳だ。これまで複数の家庭教師を追い出している」
「追い出したというのは?」
「気に入らないことを言われれば殴る。叱られれば物を投げる。追いかけ回して、教師が自分から辞めるまで続ける」
想像していた以上だった。
「学校へも通っていないのですか?」
「入学を断られた。教師だけでなく、同年代の子供とも頻繁に問題を起こすからね」
「現在、教えられている方は?」
「礼儀作法のエドナと、剣術のギレーヌだ。気に入った者の言うことなら、多少は聞く」
ルーデウスは、部屋の隅に立つギレーヌを見た。
「ギレーヌの言葉を聞くのは、強いからですか?」
「それもある」
ギレーヌ自身が答える。
「エリスは、強い者を尊敬する」
「では、僕が教師として認められるためにも、強さを見せる必要がありますか?」
「剣術で戦えば、お前が勝つ」
ギレーヌは迷わず答えた。
「だが、それだけで授業を受けるかは分からない」
今のルーデウスは、剣神流と水神流を中級まで学んでいる。体格や筋力では九歳のエリスに劣っていても、技術と魔術を使えば負けるとは思えない。
しかし、勝つことと教えることは別だった。
「まず、本人と話してみたいです」
ルーデウスはフィリップへ向き直った。
「勉強そのものが嫌いなのか。命令されることが嫌なのか。それとも、これまでの教師が本人の興味を無視していたのか。実際に会わなければ、教え方も決められません」
「随分と教師らしいことを言うね」
「一人だけですが、以前から魔術と読み書きを教えていました」
「シルフィエットという幼馴染だね」
「父様の手紙に書かれていましたか?」
「ああ。君が熱心に魔術を教えていたと」
どのような表現をしたのか、少し気になった。
「最初は僕が練習内容を決めていました。ですが、それでは僕がいなければ何をすればよいか分からなくなると気づきました。最近は、本人に次の課題を考えてもらうようにしています」
「なるほど」
フィリップは興味深そうにルーデウスを見る。
「パウロが君を村から出した理由も、少し分かった気がする」
「その決め方には、今も納得していません」
「直接そう言える関係なら、パウロも昔よりは父親らしくなったのだろう」
その言葉には、親しさだけではない何かが含まれていた。
フィリップとパウロの間にも、昔から複雑な事情があるのかもしれない。
「次に、レイネの立場を確認しよう」
フィリップが視線を移す。
「パウロの手紙には、ルーデウスの身の回りを整え、生活上の補助をするが、家庭教師としての判断は本人へ任せるとあった」
「その認識で問題ございません」
「君は当家の使用人として雇われるのではなく、ルーデウス付きの侍女として滞在する。館の規則には従ってもらうが、当家の通常業務へ加わる必要はない」
「承知いたしました」
「部屋と食事はこちらで用意する。ルーデウスが病気や怪我をした場合には、君が対応して構わない。必要なら屋敷の使用人へ協力を求めてもいい」
「ありがとうございます」
レイネは静かに頭を下げた。
「それでは、エリス様との顔合わせには、私は同席しない方がよろしいでしょうか」
フィリップは少し考えた。
「最初は、ルーデウス一人で会わせたい。トーマスには室内へ残ってもらい、ギレーヌには廊下で待機してもらう。教師となる者が侍女を後ろへ立たせた状態では、エリスは余計に反発するだろう」
「僕も、一人で話したいと思います」
ルーデウスが答える。
レイネは、すぐに反対しなかった。
「エリス様が暴力を振るわれる可能性があることは、承知なさっていますね」
「はい」
「危険と判断された場合には、トーマス様かギレーヌ様をお呼びくださいませ」
「分かりました」
それだけだった。
ルーデウスの剣術と、危険を避ける判断力を知っている。相手が九歳の少女であり、トーマスが同席し、ギレーヌも近くにいる以上、過度に心配する必要はないと判断しているのだろう。
「では、エリスの部屋へ案内しよう」
フィリップが立ち上がる。
ルーデウスも席を立った。
家庭教師としての、最初の仕事が始まる。
◇
エリスの部屋は、館の二階にあった。
トーマスが扉の前へ立ち、軽く叩く。
「エリス様。新しい家庭教師をお連れしました」
中から返事はなかった。
トーマスが扉を開ける。
広い部屋の中央に、一人の少女が立っていた。
ルーデウスより頭一つほど背が高い。
鮮やかな赤い髪は長く、緩やかに波打っている。強くつり上がった目と、気の強さを隠そうともしない表情。
豪華な衣服を身につけているが、立ち方にはギレーヌから剣術を習っている者らしい安定感があった。
トーマスは扉の脇へ控え、二人を見守る位置に立った。
「初めまして」
ルーデウスは右手を胸へ当て、挨拶する。
「ルーデウス・グレイラットです。本日から、読み書きと算術、魔術を教えさせていただく予定です」
エリスは、ルーデウスを頭から足まで眺めた。
「何よ。私より小さいじゃない」
「七歳です」
「私は九歳よ!」
エリスは胸を張る。
「どうして私が、年下の子供から教わらなきゃいけないのよ!」
予想どおりの反応だった。
「年下から教わることが嫌なのですね」
「当たり前でしょう!」
「では、年齢以外に、僕が教師に向いていない理由はありますか?」
「子供だからよ!」
「それは年齢と同じ理由です」
「口答えするんじゃないわよ!」
エリスの声が一段高くなる。
言い方が正面からすぎたかもしれない。
「失礼しました。馬鹿にするつもりはありません」
「じゃあ、何をしに来たのよ!」
「エリス様が、今どこまで読み書きや算術を学んでいるのか確かめたいと思っています」
「そんなの知らないわよ!」
「ご自分のお名前は書けますか?」
「書けるに決まってるでしょう!」
「一桁の足し算は?」
「できるわ!」
「では、それより先から始められます」
できないことを責めるつもりはなかった。
現在できる範囲を確かめ、続きから教える。それだけの話である。
しかし、エリスには試されていると聞こえたらしい。
「私を馬鹿にしてるのね!」
「していません」
エリスの右肩が僅かに後ろへ引かれた。
続いて腰が回り、右手が動く。
平手打ち。
ルーデウスは、腕が伸びるより先に半歩後ろへ下がった。
エリスの手が、顔の前を通り過ぎる。
「何で避けるのよ!」
「殴られたくないからです」
「私が殴ろうとしたら、黙って殴られなさい!」
「それはできません」
「何でよ!」
「痛いからです」
エリスの顔が赤くなった。
「家庭教師のくせに、私へ逆らうの!?」
「家庭教師であっても、殴られる理由にはならないと思います」
「生意気よ!」
今度は拳だった。
肩と腰の動きを見れば、軌道は分かる。
ルーデウスは顔を僅かに横へ動かし、拳を避ける。そのままエリスの右側へ回り込もうとはせず、正面から二歩分の距離を取った。
エリスが踏み込む。
ギレーヌから習った剣神流の足運びが混ざっている。
年齢の割には速い。
けれど、パウロの踏み込みと比べれば、動き出す前の兆候がはっきり見えた。
拳。
蹴り。
掴みかかる手。
ルーデウスはすべてを、最小限の動きで避けた。
大きく後ろへ逃げれば、部屋の中を追い回される。
その場で身体をずらし、半歩だけ位置を変え、エリスの勢いが空へ抜けるようにする。
エリスの攻撃は一度も当たらなかった。
「逃げるな!」
「攻撃をやめていただければ、逃げません」
「偉そうに命令するんじゃないわよ!」
エリスが椅子の背へ手をかけた。
持ち上げて投げるのかと思ったが、そのまま押し出すようにルーデウスへぶつけてくる。
ルーデウスは横へ移動して避けた。
椅子は床を滑り、壁へ衝突する前に、ルーデウスが風魔術で速度を落とす。
大きな音を立てずに止まった。
「魔術を使ったわね!」
「椅子が壊れそうだったので」
「卑怯よ!」
「エリス様も椅子を使いました」
「私が使うのはいいのよ!」
「どうしてですか?」
「ここは私の家だからよ!」
自分の家なら、物を壊してよい。
自分の身分が高ければ、相手を殴ってよい。
エリスは本気でそう思っているらしい。
エリスが再び距離を詰める。
今度は、最初から腰を低くしている。
掴みかかって押し倒すつもりだろう。
ルーデウスは後ろへ下がらず、相手の踏み込みに合わせて斜め前へ出た。
右腕の外側へ身体を置き、肩へ触れないまま通り抜ける。
エリスは勢いを止められず、そのまま数歩前へ進んだ。
「止まりなさい!」
「止まっています」
ルーデウスは、すでに部屋の反対側に立っている。
「何で捕まらないのよ!」
「剣術を習っていますから」
「私だって習ってるわよ!」
「知っています。足運びは速いと思います」
褒めたつもりだった。
だが、エリスはさらに顔を赤くした。
「上から言うな!」
拳が飛んでくる。
避ける。
蹴りが続く。
軸足と腰の向きから予測し、範囲の外へ出る。
方向を変えて飛びかかってくる。
床へ手をつくように身体を低くし、その横を通り過ぎる。
何度攻撃しても当たらないことで、エリスの動きは次第に大きくなっていった。
大振りになれば、さらに避けやすい。
ただし、疲れ始めたことで足運びも乱れ、転倒する可能性が高くなる。
エリスがもう一度踏み込んだ。
床へ置かれていた小さな足台に踵が触れる。
体勢が崩れた。
ルーデウスは反射的に風を送り、倒れる勢いを弱める。
エリスは両手を床へつき、転倒を免れた。
「今、何をしたのよ!」
「転びそうだったので、風で支えました」
「余計なことしないで!」
「怪我をしてもよかったのですか?」
「私が転ぶわけないでしょう!」
実際には転びかけていた。
だが、今それを指摘しても意味はない。
ルーデウスは一度息を吐いた。
「今日は、ここまでにした方がよいと思います」
「勝手に終わらせるな!」
「今の状態では、読み書きの話を始めても聞いていただけないでしょう」
「聞くわけないじゃない!」
「では、今日は授業ができません」
「だったら、もう来るな!」
「それを決めるのは、僕を雇ったフィリップ様です」
「私が来るなって言ってるのよ!」
「フィリップ様へ相談してください。僕も、明日までに別の教え方を考えます」
「待ちなさい!」
ルーデウスは扉へ向かう。
エリスが背後から追いかけてきた。
今度は、振り向かずに横へ避ける。
エリスの手が服の端を掴みかけたが、指先が布を掠めただけで終わった。
ルーデウスはそのまま部屋を出る。
廊下では、ギレーヌとレイネが待っていた。
レイネはルーデウスの姿を確認する。
衣服は多少乱れているが、歩き方に異常はなく、目立った怪我もない。
「お怪我はございますか?」
「ありません」
その返答を聞き、レイネは静かに頷いた。
エリスがルーデウスを追って部屋から出てくる。
ギレーヌが扉の前へ立った。
「エリス。今日は終わりだ」
「どきなさい、ギレーヌ!」
「ルーデウスは、明日また来ると言った」
「来なくていいわよ!」
「それはフィリップが決める」
エリスはギレーヌを睨みつけた。
ギレーヌは動かない。
剣術で一度も勝てない相手へ無理に手を出すほど、エリスも無謀ではないらしい。
「次に来たら、絶対に殴ってやるんだから!」
「今日も一度も当たりませんでした」
ルーデウスが事実を口にすると、エリスの顔がさらに赤くなった。
「うるさあああい!」
扉が勢いよく閉められる。
廊下へ大きな音が響いた。
「最後の一言は必要だったか?」
ギレーヌが尋ねる。
「必要ありませんでした」
素直に認める。
勝ったことを誇示するような言い方になっていた。
「少し、腹が立っていたようです」
「そうか」
ギレーヌはそれ以上責めなかった。
レイネは、乱れたルーデウスの襟元を整える。
「中では、どのようなお話をなさったのでしょうか」
「ほとんど話になりませんでした。何度か殴られそうになりましたが、全部避けました。椅子を押しつけられたので、それも避けています」
「室内の物に被害は?」
トーマスが答える。
「椅子が壁へ当たりそうになりましたが、ルーデウス様が風魔術で止められました。そのほかには、壊れた物はございません」
レイネはそこで初めて、室内で起きたことを把握した。
「承知いたしました」
「何か言わないのですか?」
ルーデウスが尋ねる。
「詳しいお話は、若旦那様へのご報告を伺ってから申し上げます」
室内にいなかった以上、断片的な説明だけで判断するつもりはないらしい。
「では、応接間へ戻りましょう」
◇
フィリップは応接間で待っていた。
ルーデウスたちが戻ると、まだ短い時間しか経っていないことに気づき、僅かに眉を上げた。
「随分と早かったね」
「授業を始める前に、拒否されました」
「殴られたかい?」
「何度か攻撃されましたが、すべて避けました」
フィリップの視線が、室内へ同席していたトーマスへ向く。
「そのとおりでございます」
トーマスが答えた。
「エリス様は平手、拳、蹴りで攻撃なさいましたが、一度も当たっておりません。椅子を押し出された際にも、ルーデウス様は避けたうえで、壁へ衝突する前に風魔術で止められました」
「反撃は?」
「なさっておりません」
「それは意外だ」
フィリップがルーデウスを見る。
「なぜですか?」
「パウロの息子なら、最初の一発を避けた後、そのまま殴り返すと思っていた」
「父様と同じ方法を選ぶ必要はありません」
ルーデウスは長椅子へ座った。
レイネは先ほどと同じく、少し離れた場所へ控える。
「それで、もう辞めたいかい?」
「いいえ」
ルーデウスは即答した。
「まだ、エリス様が勉強を嫌う理由も、何に興味を持っているのかも分かっていません」
「今の会話から、何か分かったことは?」
「自分より年下の相手から教わることを、屈辱だと感じています。自分の家では、自分の命令が優先されるとも考えています。それから、剣術には自信を持っています」
「大体合っている」
フィリップは面白そうに頷いた。
「では、どうする?」
ルーデウスは少し考えた。
机へ座らせようとしても、今のエリスは話を聞かない。
読み書きや算術が何の役に立つかを理解していないのに、覚えろと命令しても反発するだけだろう。
「エリス様が必要だと思える形で、読み書きや算術を使います」
「具体的には?」
「剣術に使う道具を、自分で買ってもらいます」
フィリップが目を細める。
「買い物かい?」
「はい。店の看板を読み、品物の値段を比べ、決められた金額の中で必要な物を選びます。文字と算術を知らなければ、自分で望む物を選ぶことも難しいと分かるはずです」
「机へ座らせず、町へ連れ出すのか」
「最初は、その方が話を聞く理由を作れると思います」
「エリスが、君の説明を聞くかな?」
「町や道具については、僕よりエリス様の方が詳しい可能性があります」
ルーデウスは答える。
「僕が一方的に教えるのではなく、エリス様にも町や剣術の道具について教えてもらいます。その中で、僕が文字や計算を補います」
フィリップはしばらく黙り、ルーデウスの顔を眺めていた。
「年下の教師に教えられる、という形を弱めるわけか」
「はい。僕も、エリス様から学べることはあると思います」
「面白い考えだ」
フィリップは背もたれへ身体を預けた。
「ただ、エリスが町へ行くと言うかな?」
「ギレーヌから、剣術に使う手袋や道具を買うと伝えてもらいます。それでも嫌だと言われた場合は、明日は別の方法を考えます」
「無理に連れていかないのかい?」
「無理に連れ出しても、道中で逃げるか暴れるだけです」
フィリップは小さく笑った。
「そのとおりだね」
トーマスが呼ばれる。
「明日、エリスが町へ出られるよう準備してくれ。剣術用の手袋と、訓練に使う物を購入することにしよう」
「かしこまりました。護衛はいかがいたしましょう」
「ギレーヌを付ける」
フィリップはレイネへ視線を移す。
「レイネも行くかい?」
「はい。町での安全と、ルーデウス様の身の回りの補助をいたします。ただし、授業の内容には必要以上に口を挟みません」
「それで構わない」
話が決まった。
家庭教師としての最初の顔合わせは、授業を始めることすらできずに終わった。
だが、失敗したからこそ分かったこともある。
ルーデウスは、明日行うべきことを頭の中で整理し始めた。
◇
レイネ視点
面談が終わると、ルーデウスには客間が与えられた。
レイネの部屋は、その隣にある使用人用の個室である。
フィリップからは客室を使っても構わないと言われたが、レイネ自身が断った。
必要な設備は揃っている。
ルーデウスの部屋にも近い。
侍女として滞在する以上、それで十分だった。
荷物を片づけた後、レイネは隣室の扉を叩いた。
「ルーデウス様。失礼してもよろしいでしょうか」
「どうぞ」
部屋へ入ると、ルーデウスは机へ向かっていた。
紙の上には、明日の買い物について思いついたことが書き並べられている。
購入する物。
予算。
立ち寄る店。
エリスへ尋ねること。
教える数字と文字。
まだ順序は整っていない。
だが、レイネへ最初から答えを求めず、自分で考えた形跡はあった。
「一度、見てもらえますか?」
「ルーデウス様は、どの部分に問題があるとお考えでしょうか」
レイネはすぐに紙を受け取らず、問い返した。
ルーデウスは僅かに困った顔をする。
「エリス様が、店へ行くことには興味を持っても、僕の説明を聞くとは限りません」
「はい」
「自分が間違っていると指摘されれば、また怒ると思います」
「その可能性は高いでしょう」
「ですから、最初から正しい答えを教えるのではなく、複数の品物を見せて、どれを選ぶか聞きます」
ルーデウスは紙へ新しい線を書き込む。
「たとえば、手袋が三種類あるとします。値段と丈夫さが違う。全部は買えない。そこで、エリス様自身に選んでもらいます」
「よろしいと思います」
「ただ、店の人と喧嘩になった場合が問題です」
「ギレーヌ様が同行なさいます。ルーデウス様が、すべてを止める必要はございません」
「僕の授業なのに?」
「授業であることと、護衛の仕事まで行うことは別でございます」
ルーデウスは少し考えた後、頷いた。
「分かりました」
自分で何もかも解決しようとしない。
必要な役割を、その役割を持つ者へ任せる。
それもまた、今のルーデウスが学び始めていることだった。
「今日の顔合わせは、どう思いましたか?」
ルーデウスが尋ねる。
レイネはすぐには答えなかった。
「まず、ルーデウス様ご自身は、どのようにお考えでしょうか」
「攻撃はすべて避けられました。室内の物も壊さずに済みました。ただ、最後に一言、余計なことを言いました」
「エリス様へ、攻撃が一度も当たらなかったとお伝えした件でございますね」
その内容は、応接間へ戻るまでの間に、ルーデウス自身から聞いていた。
「はい。腹が立っていたので、言い返してしまいました」
「次回、同じことをなさらなければよろしいかと存じます」
「それだけですか?」
「ご自身で問題を理解なさっていますので、長く申し上げる必要はございません」
「攻撃を避け続けたことについては?」
「実際に拝見しておりませんので、トーマス様のご報告と、ルーデウス様のお話から判断することになります」
レイネは淡々と答えた。
「少なくとも、お怪我をなさらず、相手にも怪我をさせずに部屋を出られたことは、よかったと思います」
「殴り返せば、すぐに終わったと思います」
「争いは終わったでしょう」
「授業は始まらない」
「はい」
レイネは机の上の計画書へ目を落とす。
「ただし、いつでも避けるだけでよいとは限りません」
「今日のエリス様なら、すべて避けられます」
「今後、武器を使用なさる場合や、ほかの方へ攻撃なさる場合もございます」
「その時は止めます」
「どの程度まで?」
ルーデウスは少し考えた。
「怪我をさせない範囲で、動きを止めます」
「それでも止まらない場合は?」
「必要なら、軽い怪我をさせてでも止めます」
以前のルーデウスなら、相手を傷つけないことだけを考えたかもしれない。
だが、加害者を止めないことは、被害を受ける者だけでなく、取り返しのつかない行為をした相手の人生まで損なう。
「その判断でよろしいかと存じます」
レイネは静かに答えた。
「力を持っていることと、常に力を使うことは違います。しかし、必要な時に使わないことが、必ずしも優しさになるわけではございません」
「はい」
ルーデウスは計画書へ再び目を落とした。
「一つだけ、よろしいでしょうか」
「お願いします」
「明日は、エリス様が何をご存じなのかも、お確かめくださいませ」
「町や武器についてですか?」
「はい。ルーデウス様が教師であっても、すべてにおいて教える側である必要はございません」
「エリス様から、町のことを教えてもらう」
「その方が、年下の相手から一方的に教えられているという感覚は、薄くなるかもしれません」
ルーデウスは紙へ新しい項目を書き加えた。
――エリス様に、町と剣術道具について聞く。
「これでどうでしょう」
「明日の授業を考えられるのは、ルーデウス様でございます」
「それは分かっています。そのうえで、意見を聞いています」
「では、一つ」
レイネは計画書の端を指した。
「一日に教える内容が多すぎます」
そこには、文字、足し算、引き算、品物の比較、交渉、予算の管理まで書かれている。
「買い物へ行けば、全部必要になると思いました」
「必要になることと、一日で覚えられることは別でございます」
ルーデウスは黙って項目を見る。
確かに、自分が教えたいことを詰め込みすぎている。
「最初は、値札を読むことと、合計金額の計算だけにします」
「よろしいと思います」
ルーデウスは不要な項目へ線を引いた。
最初の顔合わせでは、エリスの話を聞く前に、自分の質問を続けて怒らせた。
明日は、教えたいことを急ぐのではなく、本人が何を見て何を選ぶのかを待つ必要がある。
「レイネ」
「はい」
「僕が部屋へ入っている間、心配ではありませんでしたか?」
「しておりました」
「それでも、入ってこなかった」
「トーマス様が同席なさり、ギレーヌ様も扉の近くにおられました。ルーデウス様ご自身も、エリス様の攻撃を避けられると判断しておられました」
「一度でも殴られたら、入るつもりでしたか?」
「いいえ」
予想よりあっさり否定された。
「軽い打撲一つで、ルーデウス様のお命が危険になるとは考えておりません」
「かなり現実的ですね」
「ルーデウス様も、幼い頃より随分と頑丈になられましたので」
過保護に守られているわけではない。
レイネは危険の大きさを見極め、必要な時だけ手を出す。
それは、パウロとの剣術訓練でも同じだった。
転ぶたびに助け起こすことはなく、怪我の程度を確認してから、必要な場合にだけ治療する。
「では、本当に危険な時だけお願いします」
「承知いたしました」
「それ以外は、自分で対応します」
「はい」
ルーデウスは再び机へ向かう。
最初の顔合わせは、成功とは呼べなかった。
授業を始めることさえできなかったのだから、失敗と判断するべきだろう。
だが、何も得られなかったわけではない。
エリスは剣術が好きである。
自分の家と身分に強い誇りを持っている。
年下から一方的に教えられることを嫌う。
怒れば、言葉より先に手が出る。
そして、今のルーデウスなら、その攻撃を避け続けることができる。
次に必要なのは、勝つことではない。
殴っても追い出せず、殴らなくても話を聞ける相手だと理解してもらうことである。
ルーデウスは、計画書の最上部へ一つの目標を書き加えた。
――エリス様が、自分から必要だと思えることを一つ教える。
すぐに教師として認められる必要はない。
一日で性格を変える必要もない。
まずは、次も話してよい相手だと思ってもらう。
家庭教師としての最初の一歩は、魔術を覚えるよりも、剣術の型を身につけるよりも難しそうだった。