白髪の侍女   作:MトK

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第十三話 町で学ぶ

ルーデウス視点

 

翌朝、食堂へ入ったルーデウスは、長い食卓の向こうに座る赤髪の少女と目が合った。

 

エリスは朝食のパンを片手に持ったまま、露骨に顔をしかめる。

 

「何であんたがいるのよ」

 

「こちらで働くことになったからです」

 

「私は認めてないわ!」

 

「昨日、フィリップ様へ相談するようお願いしましたが、何かお話しになりましたか?」

 

「したわよ!」

 

エリスは持っていたパンを皿へ叩きつけた。

 

「そしたら、お父様は笑って、今日もあんたの言うことを聞けって言ったのよ!」

 

「それは残念でしたね」

 

「誰のせいだと思ってるの!」

 

エリスが立ち上がりかける。

 

その隣に座っていたギレーヌが、肉を噛みながら一言だけ告げた。

 

「食事中だ」

 

エリスは動きを止めた。

 

「でも、こいつが……!」

 

「食べ終わってからにしろ」

 

「食べ終わったら殴っていいの?」

 

「ルーデウスが避けるなら構わない」

 

「構わないのですか?」

 

思わず尋ねると、ギレーヌはルーデウスへ顔を向けた。

 

「訓練になる」

 

「僕は家庭教師として来たのですが」

 

「剣の訓練もする」

 

間違ってはいない。

 

それでも、朝食後に殴られる予定を組まれるのは困る。

 

ルーデウスは給仕の邪魔にならない位置へ控えているレイネを見たが、彼女は何も口を挟まなかった。

 

エリスが素手で襲いかかってきても、今のルーデウスなら問題なく避けられる。危険な状況ではないと判断しているのだろう。

 

「本日は、町へ買い物に出ると伺っています」

 

レイネが食卓の空気を変えるように言った。

 

エリスが眉を寄せる。

 

「買い物?」

 

「剣術用の手袋と、訓練に必要な道具を購入する」

 

ギレーヌが答えた。

 

「新しい手袋!?」

 

先ほどまでの怒りが、目に見えて薄くなった。

 

「今の物は、もう指のところが硬くなっているでしょう?」

 

「そうなのよ! お祖父様に言っても、まだ使えるって言うの!」

 

エリスは両手を食卓へ置いた。

 

掌には、剣を握ることでできた硬い部分がある。指の付け根には擦れた跡も見えた。

 

ただ遊びで剣を振っているわけではないらしい。

 

「予算は、フィリップ様から決められています」

 

ルーデウスが言う。

 

「買う物は、エリス様に選んでいただきます」

 

「当たり前でしょう。私の手袋なんだから」

 

「ただし、決められた金額を超える物は買えません」

 

「足りなかったら、もっと持ってくればいいじゃない」

 

「本日の授業では、決められた金額の中から選ぶことになっています」

 

「授業?」

 

エリスの目が険しくなる。

 

「買い物だって言ったでしょう!」

 

「買い物をしながら、値段の読み方と計算を勉強します」

 

「嫌よ!」

 

「では、手袋は買えません」

 

「何でよ!」

 

「僕が預かったお金を、エリス様へそのまま渡すことは許されていないからです」

 

ルーデウスは、フィリップから預かった小さな革袋を見せた。

 

硬貨同士が触れ、軽い音を立てる。

 

エリスの視線が袋へ吸い寄せられた。

 

「それを寄越しなさい」

 

「自分で予算を管理できると分かれば、お渡しします」

 

「できるわよ!」

 

「では、町で確かめましょう」

 

エリスはしばらくルーデウスを睨んでいた。

 

昨日と同じように手が出るかと思ったが、革袋を見て思いとどまったらしい。

 

「絶対に、一番いい手袋を買うんだから」

 

「予算に収まる物であれば」

 

「収まらせなさい!」

 

「僕ではなく、店の方へ交渉してください」

 

「なら、あんたはいらないじゃない!」

 

「値段が読めるので、少しは役に立つと思います」

 

エリスは鼻を鳴らした。

 

「ついてきたければ、勝手についてきなさい!」

 

どうやら、買い物へ出ること自体は受け入れたらしい。

 

ルーデウスはギレーヌと目を合わせた。

 

ギレーヌが小さく頷く。

 

最初の段階は突破できたようだった。

 

 

町へは馬車を使わず、歩いて向かった。

 

エリスが歩きたいと言ったためである。

 

先頭を歩くのはエリス。その斜め後ろをルーデウスが進み、さらに後方をギレーヌとレイネがついてくる。

 

護衛として周囲へ目を配るギレーヌとは異なり、レイネは買い物用の空の鞄を持っているだけだった。

 

授業へ必要以上に口を挟まないという約束どおり、ルーデウスとエリスの会話にも加わらない。

 

屋敷を出てしばらくすると、エリスが足を止めた。

 

道は三つに分かれている。

 

「武具店は、どちらですか?」

 

ルーデウスが尋ねる。

 

「知らないの?」

 

「昨日、ロアへ来たばかりですから」

 

「そんなことも知らないくせに、私へ勉強を教えるつもりなの?」

 

「町のことは、エリス様の方が詳しいようですね」

 

エリスは得意そうに胸を張った。

 

「当然よ。こっち!」

 

右側の道へ進んでいく。

 

ルーデウスは少し後ろから、通りの様子を観察した。

 

貴族街を離れるにつれて、道幅が狭くなる。馬車は通れるが、二台がすれ違うには少し窮屈だ。店の数が増え、人の声も大きくなっていく。

 

エリスは迷わず歩いている。

 

少なくとも、目的の店までの道は知っているらしい。

 

「この先には、どのような店がありますか?」

 

「たくさんあるわよ」

 

「たとえば?」

 

「肉を売ってる店と、服の店と、馬具の店。あと、甘い焼き菓子を売ってる店もあるわ」

 

「よく覚えていますね」

 

「何度も来たもの」

 

「一人で?」

 

「ギレーヌと一緒よ。私が欲しい物を選んで、ギレーヌが持つの」

 

後方からギレーヌが言う。

 

「金を払うのは、店の者と執事がやる」

 

「ギレーヌは、値段を確認しないのですか?」

 

「読めない」

 

あまりに自然な返事だった。

 

エリスが振り返る。

 

「ギレーヌ、数字も読めないの?」

 

「少しなら分かる。複雑なのは分からない」

 

「でも、ギレーヌは剣王でしょう?」

 

「剣と文字は別だ」

 

エリスは驚いたようにギレーヌを見ていた。

 

強い者なら何でもできると思っていたのかもしれない。

 

「読めなくても、困らないの?」

 

「昔は困らなかった。今は困る」

 

「何で?」

 

「給金を数えられない。契約書も読めない。偽物を渡されても分からない」

 

エリスが黙る。

 

ギレーヌほど強くても、文字や数字が必要になる。

 

ルーデウスが説明するより、本人の言葉の方が説得力を持っているようだった。

 

「今回の買い物では、ギレーヌも一緒に値段を確認しませんか?」

 

ルーデウスが提案する。

 

「分かった」

 

「私が教えるのよ!」

 

エリスが割り込んだ。

 

「エリス様は、値段を読めるのですか?」

 

「読めるわよ!」

 

「それなら、お願いします」

 

正面から疑えば、また怒る。

 

まずは本人にやってもらえばよい。

 

エリスは勢いよく頷き、再び先頭を歩き始めた。

 

 

武具店の中には、革と油、鉄の混じった匂いが満ちていた。

 

壁には剣や槍、盾が飾られ、棚には手袋や革帯、手入れ用の布が並んでいる。

 

店主はエリスの赤い髪と衣服を見るなり、店の奥から飛び出してきた。

 

「これはこれは、エリスお嬢様! 本日はどのようなご用件で?」

 

「一番いい剣術用の手袋を出しなさい!」

 

「かしこまりました!」

 

店主は値段も用途も尋ねず、最も装飾の多い手袋を持ってきた。

 

濃い赤色の革に、金色の糸で模様が縫われている。見た目だけなら、確かに高級そうだった。

 

「これがいいわ!」

 

「試着してから決めましょう」

 

ルーデウスが言う。

 

「見れば分かるでしょう! 一番きれいだもの!」

 

「剣を握りにくければ、訓練には使えません」

 

「握りやすいに決まってるわ!」

 

エリスは手袋を奪い取るように受け取り、両手にはめた。

 

そして、店内に置かれている練習用の木剣を握る。

 

最初は満足そうだった。

 

しかし、何度か柄を握り直すうちに眉が寄っていった。

 

「硬いわ」

 

「新品ですので、使えば馴染みますよ」

 

店主がすかさず答える。

 

「指の曲がる位置が合っていない」

 

ギレーヌが言った。

 

エリスが木剣を持ったまま、指を動かす。

 

「本当だわ。ここが当たる」

 

店主の笑顔が僅かに固まった。

 

「そちらは乗馬や儀礼用にも使える品でございまして、見栄えを重視した作りになっております」

 

「剣術用って言ったでしょう!」

 

エリスが怒鳴る。

 

「も、申し訳ございません!」

 

ルーデウスは店主へ同情した。

 

最初から用途を確認しなかった店主にも問題はあるが、目の前の相手がボレアス家の令嬢なら、機嫌を損ねない品を最初に出したくなる気持ちも分からなくはない。

 

「ほかの手袋も見せていただけますか?」

 

ルーデウスが頼む。

 

店主はすぐに三組の手袋を並べた。

 

一つは薄い革で作られ、指を動かしやすい。

 

一つは掌の部分が厚く、丈夫そうだ。

 

最後の一つは、その中間に見える。

 

それぞれの前へ、価格が書かれた小さな板が置かれた。

 

「エリス様。こちらの値段を読んでください」

 

ルーデウスが最初の板を指す。

 

エリスは即座に答えた。

 

「二十二枚!」

 

「十二枚です」

 

「同じようなものでしょう!」

 

「十枚違います」

 

「細かいわね!」

 

「本日の予算では、かなり大きな違いです」

 

革袋からアスラ銅貨を取り出し、卓の上へ並べる。

 

十枚を一列。

 

残りを、その下へ置く。

 

「こちらが本日の予算です」

 

エリスは硬貨を数え始めた。

 

途中でどこまで数えたか分からなくなり、最初からやり直す。

 

三度目で、ようやく合計へたどり着いた。

 

「二十枚」

 

「はい」

 

「なら、二十二枚の物は買えないわね」

 

「最初の値札は十二枚です」

 

「だから分かってるわよ!」

 

分かっていなかった。

 

だが、わざわざ指摘する必要はない。

 

ルーデウスは値札を二枚並べた。

 

十二。

 

二十一。

 

数字の位置を指で示す。

 

「こちらは十が一つと、二が一つです。こちらは十が二つと、一が一つになります」

 

エリスは値札と硬貨を交互に見た。

 

「数字の順番が違うだけで、そんなに変わるの?」

 

「変わります」

 

「面倒ね」

 

「間違えると、買えると思った物が買えなくなります」

 

「それは困るわ」

 

困る理由が分かれば、話は聞く。

 

ルーデウスは同じ説明をギレーヌにも行った。

 

ギレーヌは、硬貨を十枚ずつ分ける方法をすぐに理解した。文字としての数字には慣れていないが、実物と結びつければ覚えられるらしい。

 

「それで、どれが一番いいの?」

 

エリスが尋ねる。

 

「僕は、剣術用の手袋に詳しくありません」

 

「教師のくせに知らないの?」

 

「エリス様は、どの手袋が使いやすいと思いますか?」

 

「私に聞くの?」

 

「実際に剣を振るのは、エリス様ですから」

 

エリスは三組を順番に試した。

 

薄い革の物は、指を動かしやすいが、掌が擦れやすそうだった。

 

最も厚い物は丈夫だが、柄の感触が分かりにくい。

 

中間の物をつけると、エリスは何度か木剣を振り、掌を開閉した。

 

「これがいいわ」

 

「理由は?」

 

「指が動くし、掌も痛くならなそう。縫ってある場所も、剣を握った時に当たらないわ」

 

先ほどの装飾用の手袋を選んだ時とは違い、自分で使い勝手を確かめている。

 

「ギレーヌは、どう思いますか?」

 

「悪くない」

 

エリスは嬉しそうに笑った。

 

「これにする!」

 

ルーデウスは値札を見る。

 

アスラ銅貨十六枚。

 

予算内である。

 

「手袋を買うと、残りはいくらですか?」

 

「え?」

 

「二十枚から、十六枚を使います」

 

エリスは卓に並んだ硬貨を見た。

 

十六枚を手袋の側へ移し、残りを数える。

 

「四枚!」

 

「正解です」

 

「当たり前でしょう!」

 

大きな声だったが、今までとは少し響きが違った。

 

怒りではなく、得意になっている。

 

残った四枚で、剣の手入れに使う布を買うことになった。

 

布は一枚につき銅貨一枚。

 

エリスは自分で四枚取ろうとした後、手を止めた。

 

「全部買ったら、残りは?」

 

「エリス様が計算してください」

 

「ゼロでしょう?」

 

「はい」

 

「じゃあ、三枚にするわ」

 

「なぜですか?」

 

「少しは残しておいた方がいいんでしょう?」

 

誰かから教えられたわけではない。

 

予算を使い切れば何も残らないと、自分で考えたらしい。

 

「よい判断だと思います」

 

「私が選んだんだから、いいに決まってるわ!」

 

エリスは店主へ手袋と布を渡した。

 

硬貨を支払う際にも、店主任せにはせず、一枚ずつ自分で数えた。

 

時間はかかった。

 

二度数え直した。

 

それでも、最後までルーデウスへ渡さなかった。

 

店を出る時、エリスは新しい手袋を抱え、満足そうに歩いていた。

 

「エリス様」

 

「何よ」

 

「先ほど、手袋の縫い目が手へ当たるか確認していましたね。僕には、そこまで見ることができませんでした」

 

エリスがルーデウスを見る。

 

「そんなの、剣を振ってれば分かるわよ」

 

「次に道具を買う時も、教えてください」

 

「仕方ないわね。あんたは何も知らないもの」

 

「はい。剣術道具については、エリス様の方が詳しいです」

 

エリスは得意そうに鼻を高くした。

 

ルーデウスは少しだけ笑った。

 

教師だからといって、すべてを知っている必要はない。

 

相手が知っていることを認め、自分が知らないことを尋ねる。

 

シルフィとの間でも、少しずつ覚えたことだった。

 

「それで、次はどこへ行くの?」

 

エリスが尋ねた。

 

「本日の目的は終わりました」

 

「もう終わり?」

 

「値札を読み、予算の中から品物を選べましたから」

 

「全然勉強してないじゃない」

 

エリス自身が口にした言葉に、ルーデウスは目を瞬かせた。

 

本人も気づいたらしい。

 

「今のが、勉強なの?」

 

「はい」

 

「ただ買い物をしただけよ」

 

「そのために数字を読み、引き算を使いました」

 

エリスはしばらく黙った。

 

「勉強って、机に座って本を読むものじゃないの?」

 

「そういう勉強もあります。ですが、覚えたことを使う場所は、机の外にもあります」

 

「ふうん」

 

嫌そうではなかった。

 

少なくとも、昨日のように「聞くわけがない」と言われることはない。

 

小さな変化だった。

 

けれど、昨日は始めることさえできなかった授業が、今日は最後まで続いた。

 

それで十分だと思った。

 

 

帰り道、エリスは新しい手袋を何度も眺めていた。

 

途中、焼き菓子を売る店の前で足を止める。

 

甘い匂いが通りへ流れている。

 

「食べたいのですか?」

 

「別に」

 

視線は焼き菓子から動かない。

 

「残りの銅貨一枚で買えますか?」

 

エリスが尋ねた。

 

店頭の板には、焼き菓子一つの値段が書かれている。

 

ルーデウスは答えず、板を指した。

 

エリスが目を細める。

 

「二枚……?」

 

「はい」

 

「一枚じゃ足りないじゃない!」

 

「本日の予算では買えません」

 

「あと一枚ぐらい出しなさいよ」

 

「持っていません」

 

実際には、ルーデウス個人の小銭が少しある。

 

だが、ここで出せば、予算を考えて買うという授業の意味が薄れる。

 

エリスは不満そうに焼き菓子を見つめた。

 

「布を二枚にしておけばよかったわ」

 

「次からは、買う前にほかに欲しい物がないか考えるとよいかもしれません」

 

「先に言いなさいよ!」

 

「買う物を決めたのは、エリス様です」

 

「教師なら教えなさい!」

 

「僕がすべて決めれば、エリス様が自分で選んだことになりません」

 

エリスは頬を膨らませた。

 

殴りかかってはこなかった。

 

それだけでも、昨日とは大きく違う。

 

しばらく焼き菓子を睨んだ後、エリスは店へ背を向けた。

 

「次は絶対に買うわ」

 

「そのためには?」

 

「先に値段を見る!」

 

「はい」

 

エリスは勢いよく歩き出した。

 

その後ろで、ギレーヌが小さく呟く。

 

「私も食べたかった」

 

「ギレーヌもお金を持っていないの?」

 

エリスが振り返る。

 

「持っている。だが、いくらあるか分からない」

 

「帰ったら一緒に数えるわよ!」

 

「分かった」

 

教師はルーデウスである。

 

それでも、エリスが自分から誰かへ数字を教えようとしている。

 

ルーデウスは口を挟まず、二人の会話を聞いていた。

 

後ろを歩くレイネと目が合う。

 

レイネは何も言わなかったが、目元だけを僅かに和らげた。

 

 

その日から、授業は少しずつ形を持ち始めた。

 

最初から長時間机へ座らせることはしなかった。

 

朝の剣術訓練が始まる前に、十五分だけ数字を教える。

 

値段の書かれた札を読み、硬貨を十枚ずつ分け、簡単な足し算と引き算を行う。

 

エリスは何度も間違えた。

 

間違いを指摘されれば、最初は机を叩いた。

 

二日目には紙を丸めてルーデウスへ投げた。

 

三日目には拳を振り上げたものの、ルーデウスが席を立とうとすると、ぎりぎりで手を止めた。

 

「間違えたからって、勝手に終わらせるんじゃないわよ!」

 

「殴られる状態では授業を続けられません」

 

「まだ殴ってないでしょう!」

 

「では、続けます」

 

ルーデウスが席へ戻ると、エリスは不機嫌そうに腕を組んだ。

 

それでも、もう一度問題へ目を向けた。

 

一週間が過ぎる頃には、二桁の数字を見間違えることが減っていた。

 

ギレーヌも授業へ加わるようになった。

 

剣王であるギレーヌが、自分より遅い速度で数字を覚えていることを知ると、エリスは急に張り切り始めた。

 

「ギレーヌ、これは十二よ! 二十一じゃないわ!」

 

「分かった」

 

「さっきも間違えてたでしょう!」

 

「エリスも三日前に間違えていた」

 

「私はもう覚えたの!」

 

互いに教え合うことで、エリス自身の理解も深まっている。

 

ルーデウスは二人の間違いをすぐに訂正せず、どちらかが気づくまで待つようにした。

 

レイネは授業の前に紙や筆記具を用意するが、始まれば離れた場所で自分の仕事をしている。

 

ルーデウスが説明に困っても、答えを出すことはない。

 

授業が終わった後、本人が相談した時にだけ、問題点を指摘した。

 

「エリス様が理解できない時、同じ説明を繰り返しすぎておられます」

 

「言葉を変えた方がいいということですか?」

 

「言葉だけではなく、実物を使う方法もございます」

 

翌日から、ルーデウスは硬貨や木片を使った。

 

エリスは紙の上だけで数字を見るより、実際に物を動かす方が早く理解した。

 

魔術の授業は、まだ始めていない。

 

エリスが興味を持つまでは、無理に教えないつもりだった。

 

だが、ある日、ルーデウスが水差しを倒しかけた時、無詠唱で水を宙へ止めた。

 

エリスは目を見開いた。

 

「今の、もう一回やりなさい」

 

「魔術に興味があるのですか?」

 

「別にないわ! でも、もう一回やりなさい!」

 

「明日の数字の問題が全部できたら、お見せします」

 

「今やりなさいよ!」

 

「明日です」

 

エリスは拳を握った。

 

ルーデウスは席を立つ準備をした。

 

数秒の睨み合いの後、エリスは拳を下ろした。

 

「絶対に見せなさいよ」

 

「約束します」

 

その翌日、エリスは初めて、授業が始まる前から椅子へ座っていた。

 

 

買い物へ出た日から十日ほどが過ぎた。

 

その日の授業は、町にある店の看板を読む練習だった。

 

エリスが再び焼き菓子を買いたいと言い出したため、実際に町へ出て、自分で店を探すことになった。

 

今回はレイネは同行しなかった。

 

屋敷でルーデウスの雇用に関する帳簿を確認し、今後必要になる教材や衣服について、トーマスと相談する予定が入っていたためである。

 

「本当に、私が行かなくてもよろしいのですか?」

 

出発前、レイネが尋ねた。

 

「ギレーヌがいます。それに、町までの道も覚えました」

 

ルーデウスが答える。

 

「授業についても、前回よりは進められると思います」

 

「承知いたしました」

 

レイネは無理に同行しようとはしなかった。

 

「帰宅予定は、昼過ぎでございますね」

 

「はい」

 

「遅れる場合は、ボレアス家の方を通じてご連絡くださいませ」

 

「分かりました」

 

エリスはすでに門の前で待っていた。

 

腰には木剣を差し、新しい手袋を身につけている。

 

「遅いわよ!」

 

「予定の時間より前です」

 

「私が待ってたんだから遅いの!」

 

相変わらず理屈は乱暴だった。

 

それでも、拳は飛んでこない。

 

三人は屋敷を出た。

 

 

目的の焼き菓子店へは、エリスが案内した。

 

前回と同じ道を通ったため、迷うことはない。

 

店先の看板を前に、エリスは書かれた文字を一つずつ読んだ。

 

まだ数字ほどは覚えていない。

 

途中で詰まり、ルーデウスへ視線を向ける。

 

以前なら、分からないと言う代わりに怒鳴っていただろう。

 

今は何も言わず、答えを待っている。

 

「最初の文字は、昨日覚えた物です」

 

ルーデウスがヒントを出す。

 

エリスは何度か口の中で音を繰り返した。

 

「焼き……菓子」

 

「はい」

 

「読めたわ!」

 

「残りの部分も読んでください」

 

「今は褒めるところでしょう!」

 

「よくできました。続きをお願いします」

 

「褒め方が足りないわ!」

 

文句を言いながらも、エリスは看板へ戻った。

 

焼き菓子を三つ購入する。

 

エリス、ルーデウス、ギレーヌの分である。

 

「レイネの分は?」

 

ルーデウスが尋ねた。

 

エリスは硬貨を数えた。

 

予算には、まだ少し余裕がある。

 

「一つ増やしても足りるわ」

 

「では、四つですね」

 

「私が持って帰るわよ。あんたが食べないように」

 

「食べません」

 

「本当でしょうね?」

 

「レイネの物を勝手に食べる理由がありません」

 

エリスは焼き菓子の入った包みを、自分の鞄へ入れた。

 

店を出たところで、ボレアス家の紋章をつけた男が駆け寄ってきた。

 

若い兵士だった。

 

ルーデウスも、屋敷の門付近で何度か見かけたことがある。

 

「ギレーヌ様!」

 

兵士は息を切らし、片膝をついた。

 

「サウロス様から、至急西の訓練場へ来るようにとのご命令です!」

 

ギレーヌの耳が立つ。

 

「理由は?」

 

「運び込まれた魔物が檻を破り、兵士が負傷しております。剣士では手に負えないと」

 

兵士は、封蝋のついた紙を差し出した。

 

ギレーヌは文字を読めない。

 

代わりに、ルーデウスが封蝋を見る。

 

ボレアス家の紋章である。

 

紙を開くと、短い文が書かれていた。

 

ギレーヌを西の訓練場へ向かわせること。

 

エリスとルーデウスは、迎えの馬車で屋敷へ戻すこと。

 

署名はサウロスとなっていた。

 

「本物ですか?」

 

ルーデウスが兵士へ尋ねる。

 

「私は大旦那様の執務室から直接受け取りました」

 

ほどなくして、道の向こうからボレアス家の馬車がやってきた。

 

御者台には見覚えのある男が座り、その左右には屋敷の兵士が一人ずつついている。

 

ギレーヌは馬車と兵士の匂いを確かめるように鼻を動かした。

 

「屋敷の者だ」

 

「私は子供ではないわ。一人でも帰れるわよ!」

 

エリスが不満そうに言う。

 

「馬車で戻れ」

 

ギレーヌは短く命じた。

 

「ルーデウス。エリスから離れるな」

 

「分かりました」

 

「エリス。ルーデウスの言うことも聞け」

 

「何でよ!」

 

「危険があれば、二人で対応しろ。屋敷の兵士もいる」

 

エリスは納得していなかったが、ギレーヌの真剣な表情を見て口を閉じた。

 

「終わったら、すぐ帰ってきなさいよ」

 

「ああ」

 

ギレーヌは兵士とともに、西側の道へ走っていった。

 

一瞬で人混みの向こうへ消える。

 

ルーデウスとエリスは、迎えの馬車へ乗り込んだ。

 

向かい合わせの席へ座り、扉が閉められる。

 

馬車が動き出した。

 

「魔物って、何かしら」

 

エリスが尋ねる。

 

「分かりません。ギレーヌを呼ぶほどですから、かなり強いのかもしれません」

 

「私も見たかったわ」

 

「危険です」

 

「ギレーヌがいるなら平気よ」

 

「ギレーヌが戦っている近くにいれば、邪魔になる可能性があります」

 

「私は邪魔にならないわ!」

 

「では、戦っているギレーヌを助けられますか?」

 

エリスは口を閉じた。

 

剣神流初級と剣王。

 

実力の違いは、本人も理解している。

 

「もっと強くなれば、邪魔にならないわ」

 

「そのためにも、まず屋敷へ戻りましょう」

 

馬車は石畳の上を進んでいく。

 

ルーデウスは窓の外を眺めた。

 

しばらくして、僅かな違和感を覚えた。

 

行きに通った大通りではない。

 

建物の間隔が狭くなり、人の数も減っている。

 

「この道は、屋敷へ戻る道ですか?」

 

御者から返事はなかった。

 

「ねえ、どこへ向かってるのよ!」

 

エリスが扉を叩く。

 

やはり答えはない。

 

ルーデウスは窓から太陽の位置を確かめた。

 

屋敷は町の中央から北寄りにある。

 

だが、馬車は南西へ進んでいる。

 

「エリス様。僕の側へ来てください」

 

声を低くする。

 

エリスも異常に気づいたらしい。

 

文句を言わず、すぐに席を移動した。

 

ルーデウスは扉へ手をかける。

 

外から固定されている。

 

窓は小さく、子供なら身体を通せるかもしれないが、走る馬車から飛び降りれば怪我をする。

 

風魔術で速度を落とすことはできる。

 

だが、外には少なくとも三人の大人がいる。

 

まずは相手の反応を確かめる必要があった。

 

「御者の方。止まってください。止まらなければ、魔術で馬車を止めます」

 

返事はない。

 

馬車の速度が上がった。

 

エリスが立ち上がる。

 

「だったら止めなさい!」

 

「急に止めれば、馬車が横転します」

 

「じゃあ、どうするのよ!」

 

「少しずつ速度を落とします。エリス様は、座席へ掴まっていてください」

 

ルーデウスは床へ手を当てた。

 

車輪の周囲へ泥を作り、回転を鈍らせる。

 

同時に風を前方から当て、馬車全体へ抵抗をかけた。

 

速度が少し下がる。

 

御者が何かを叫んだ。

 

直後、天井から強い音が響いた。

 

後方の扉が開かれ、布で顔を隠した男が飛び込んでくる。

 

手には短い棍棒。

 

ルーデウスは振り下ろされた一撃を横へ避けた。

 

狭い馬車の中では、相手の実力が低くても動ける範囲が限られる。

 

男の手首へ風を当て、棍棒の軌道を天井へ逸らす。

 

木材が砕けた。

 

「このガキ、魔術を使うぞ!」

 

男が叫ぶ。

 

エリスが男の脇腹へ蹴りを入れた。

 

新しい手袋をつけた拳を、そのまま顎へ振り上げる。

 

だが、体格差が大きい。

 

男はよろめきながらも倒れず、反対の手でエリスの髪を掴もうとした。

 

ルーデウスは足元へ泥を作る。

 

男の靴が沈み、姿勢が崩れた。

 

「エリス様、窓から出られますか!」

 

「やってみる!」

 

エリスが窓へ身体を乗り出す。

 

その瞬間、外を走る馬から別の男が手を伸ばした。

 

エリスの肩を掴む。

 

「離しなさい!」

 

エリスが暴れる。

 

ルーデウスは石砲弾を作りかけ、止めた。

 

走る馬の上にいる男へ撃てば、命中した時に落馬して死ぬ可能性が高い。外れれば、通りにいる者へ当たる。

 

代わりに水球を男の顔へ叩きつける。

 

男が手を離した。

 

エリスを車内へ引き戻す。

 

しかし、その一瞬で、最初の男が泥から足を抜いていた。

 

棍棒が横から迫る。

 

ルーデウスは身体を沈めて避ける。

 

二撃目も、座席へ足をかけて後方へ逃がす。

 

三撃目が来る前に、男の腹へ圧縮した風を撃ち込んだ。

 

男の身体が扉の外へ押し出される。

 

落ちる直前、別の男が腕を掴んだ。

 

「今です!」

 

ルーデウスはエリスの手を取り、開いた扉へ向かう。

 

馬車の速度は十分に落ちている。

 

風を使えば、二人とも着地できる。

 

先にエリスを飛ばし、自分も続く。

 

そう判断した瞬間、エリスの首へ刃が当てられた。

 

窓の外から、別の男が剣を差し込んでいる。

 

「動くな」

 

低い声だった。

 

「次に魔術を使ったら、こいつの喉を切る」

 

エリスの顔から血の気が引いた。

 

それでも、声を上げずに男を睨んでいる。

 

ルーデウスの頭の中で、いくつもの方法が浮かんだ。

 

剣を土で挟む。

 

男の腕へ水を当てる。

 

馬車の壁を壊し、外へ回り込む。

 

どれも、失敗すればエリスの首が切られる。

 

無詠唱であることは、相手に知られている。

 

不用意に動くことはできなかった。

 

「エリス様を放してください」

 

「両手を見える場所へ出せ」

 

ルーデウスはゆっくり両手を上げた。

 

「ルーデウス!」

 

エリスが叫ぶ。

 

「今は動かないでください」

 

「でも……!」

 

「僕が考えます」

 

そう言った直後、背後から甘い匂いがした。

 

振り返る。

 

座席の下に、小さな壺が転がっている。

 

白い煙が噴き出していた。

 

ルーデウスはすぐに風を起こした。

 

煙を扉の外へ押し出す。

 

だが、すでに一度吸い込んでいる。

 

視界が揺れた。

 

エリスも咳き込み、身体から力が抜けていく。

 

「煙を吸うな……!」

 

袖で口を覆う。

 

もう一度風を作ろうとした時、後頭部へ衝撃が走った。

 

外へ押し出したはずの男が、馬車へ戻っている。

 

倒れながら、ルーデウスは男の足へ泥を絡ませた。

 

完全には止められない。

 

意識が暗く沈む。

 

最後に見えたのは、必死にこちらへ手を伸ばすエリスの姿だった。

 

 

レイネ視点

 

昼を過ぎても、ルーデウスたちは戻らなかった。

 

多少の遅れであれば、珍しいことではない。

 

エリスが別の店へ立ち寄りたがることもあれば、授業が予定より長引くこともある。しかし、帰宅が遅れる場合には、ボレアス家の者を通じて知らせるよう、ルーデウスへ伝えていた。

 

その連絡がない。

 

レイネは確認していた帳簿を閉じた。

 

普段なら、紙の端を揃えてから静かに脇へ置く。

 

その日は閉じた帳簿を、そのまま机へ残した。

 

「トーマス様」

 

「はい」

 

「町へ人を出してください。ルーデウス様方の現在地を確認していただきます」

 

「ギレーヌ様が同行なさっています。多少遅れても、危険はないと思われますが……」

 

「危険がないかを確かめるために、お願いいたします」

 

声音は穏やかだった。

 

だが、普段なら添えられるはずの柔らかな言葉がなかった。

 

トーマスが一瞬だけ黙る。

 

「……承知いたしました」

 

彼が近くの使用人へ声をかけようとした時、廊下の向こうから、硬い足音が近づいてきた。

 

「ルーデウスとエリスは戻っているか!」

 

ギレーヌだった。

 

一人である。

 

レイネはすぐに立ち上がった。

 

走り込んできたギレーヌの衣服には土埃が付着している。呼吸は乱れていないが、耳は鋭く立ち、尻尾が激しく左右へ揺れていた。

 

「お二人は、まだお戻りではございません」

 

レイネが答える。

 

ギレーヌの表情が変わった。

 

トーマスは困惑したようにギレーヌを見る。

 

「ギレーヌ様、エリス様とルーデウス様はご一緒ではなかったのですか?」

 

「途中で別れた」

 

「なぜでございますか?」

 

「サウロスからの命令書を持った兵士が来た」

 

ギレーヌは、町で起きたことを順番に説明した。

 

ボレアス家の兵士が、サウロスの命令書を持って現れたこと。

 

西の訓練場で、檻を破った魔物が暴れていると告げられたこと。

 

エリスとルーデウスを屋敷へ戻すため、ボレアス家の馬車まで用意されていたこと。

 

そして、西の訓練場へ向かったものの、そこには魔物も、負傷した兵士も、騒ぎの痕跡もなかったこと。

 

「屋敷へ戻った後、大旦那様には直接確認した」

 

ギレーヌの声が低くなる。

 

「サウロスは、あたしを西の訓練場へ呼んでいない。魔物が檻を破ったという報告も受けていなかった」

 

トーマスの顔から血の気が引いた。

 

「では、ギレーヌ様を呼び出した兵士も、渡された命令書も……」

 

「偽物だ」

 

ギレーヌは短く言い切った。

 

「誰かがサウロスの名を使い、あたしをエリスたちから引き離した」

 

偽の命令でギレーヌを別の場所へ向かわせた。

 

その直後、ボレアス家の馬車と兵士を使い、エリスとルーデウスを連れ去った。

 

偶然であるはずがない。

 

レイネの赤い瞳が、ゆっくりと細められた。

 

「トーマス様」

 

「はい」

 

「本日、屋敷から出た馬車をすべて確認してください。御者、護衛、出発時刻、届け出られた目的地もです」

 

「すぐに確認いたします」

 

「門の警備記録も。持ち場を離れている者がいれば、その名と行き先を確認してください」

 

淡々とした指示だった。

 

けれど、一つ一つの言葉が普段より短い。

 

「一人も漏らさないでください」

 

トーマスは、その視線を受けて背筋を伸ばした。

 

「かしこまりました」

 

「若旦那様と大旦那様へも、すぐにお知らせください。ただし、屋敷内の者を無制限に外へ出さないようお願いいたします」

 

「屋敷の者が関わっていると?」

 

「その可能性があります」

 

ボレアス家の紋章を使った封蝋。

 

サウロスの名を記した命令書。

 

ギレーヌが顔と匂いを知っている兵士と御者。

 

外部の人間だけで用意できるものではない。

 

「不用意に人を動かせば、こちらの動きが相手へ伝わります」

 

レイネは卓上へロアの地図を広げた。

 

紙を押さえる指先に、僅かに力が入る。

 

薄い紙の端が、指の下で小さく歪んだ。

 

「ギレーヌ様。ルーデウス様方と別れた場所を」

 

ギレーヌが地図上の大通りを指した。

 

「この菓子屋の前だ」

 

「呼びに来た兵士は?」

 

「屋敷の門を守っている男だ。名も知っている」

 

「馬車に乗っていた者も、全員ボレアス家の人間でしたか?」

 

「御者は厩舎の男だ。護衛も見たことがある」

 

「三名とも、間違いございませんか」

 

「ああ。匂いも同じだった」

 

レイネは地図へ視線を落とした。

 

屋敷へ戻るなら北東。

 

西の訓練場は反対方向。

 

二組を分断した後、馬車を人目の少ない道へ入れた可能性が高い。

 

「ルーデウス様は、町の道をどの程度把握なさっていますか?」

 

「前回通った道は覚えているはずだ」

 

「進路が違えば、気づかれますね」

 

「ああ。ルーデウスは黙って連れていかれない」

 

ギレーヌの拳が強く握られる。

 

「ならば、抵抗できない手段も用意していたのでしょう」

 

レイネの声から、僅かに温度が消えた。

 

ルーデウスは弱くない。

 

素手の大人が数人程度であれば、エリスを守りながらでも逃げる方法を考える。ましてや進路が違うと気づけば、何もせず目的地まで運ばれるはずがない。

 

それでも戻っていない。

 

犯人は、ルーデウスが魔術師であることを知っていた。

 

そのうえで、対策を用意していたのだろう。

 

レイネの指が、地図の上を南西へ滑る。

 

正規の帰路から外れ、人通りの少ない路地と倉庫街へ続く道で止まった。

 

「ギレーヌ様は、最後に別れた場所から匂いを追ってくださいませ」

 

「お前はどうする」

 

「別の経路を調べます」

 

「一人でか?」

 

「はい。その方が早いでしょう」

 

ギレーヌが眉を寄せた。

 

「危険だ」

 

レイネは顔を上げた。

 

いつもの穏やかな微笑みはなかった。

 

眉間には薄く皺が寄り、赤い瞳には隠しきれない苛立ちが浮かんでいる。それでも、口調だけは普段と変わらず丁寧だった。

 

「ルーデウス様を連れ去った者が、この町に残っているのであれば、私にとっては大変都合がよろしいかと存じます」

 

声量は変わらない。

 

それでも、近くにいたトーマスの喉が小さく鳴った。

 

「レイネ」

 

「護身の心得はございます。ギレーヌ様は、ご自身にしか追えない痕跡をお願いいたします」

 

頼んでいる言葉だった。

 

しかし、その目は反論を求めていなかった。

 

今この瞬間にも、ルーデウスが危険に晒されているかもしれない。説得や相談へ使う時間など、一秒も残っていないと言わんばかりである。

 

「分かった。見つけたら合図を出す」

 

「お願いいたします」

 

「お前も、見つけても一人で踏み込むな」

 

レイネは一拍だけ黙った。

 

「状況を確認したうえで、適切に判断いたします」

 

「踏み込まないとは言わないんだな」

 

「ルーデウス様が危険な状況にあると判断した場合、待つ理由がございませんので」

 

丁寧な口調のまま、きっぱりと言い切った。

 

ギレーヌはしばらくレイネを見つめた後、それ以上止めることはしなかった。

 

「必ず見つける」

 

「当然でございます」

 

返答には、希望も慰めも含まれていない。

 

見つけることは願いではなく、これから実行する事実である。

 

ギレーヌは屋敷を飛び出し、ルーデウスたちと別れた焼き菓子店へ向かった。

 

レイネはその背中を見送ると、トーマスへ顔を向けた。

 

「先ほど申し上げた確認を、急いでくださいませ」

 

「かしこまりました」

 

「急いで、では不足でしたね」

 

レイネの指先が、地図の端を一度だけ叩いた。

 

乾いた音が室内へ響く。

 

「今すぐお願いいたします」

 

「は、はい」

 

トーマスは慌てて走り出した。

 

レイネは使用人用のエプロンを外し、近くの椅子へ置いた。

 

普段なら、皺を伸ばしてから丁寧に畳むところだった。

 

その日は、置かれた布の端が僅かに床へ垂れていても、直そうとはしなかった。

 

廊下へ向かおうとしたところで、フィリップが部屋へ入ってくる。

 

「状況は聞いた。どこへ行くつもりだい?」

 

「馬車の進路を調べます」

 

「護衛を付けよう」

 

「必要ございません」

 

「一人で町を探すつもりかい?」

 

「人数を増やせば、犯人にもこちらの動きが伝わります。また、ボレアス家の者が関与している可能性を考えれば、誰を同行させるか確認する時間も必要になります」

 

フィリップの表情が僅かに硬くなった。

 

「私も疑っているのかい?」

 

「若旦那様が関与しているとは考えておりません」

 

答えは早かった。

 

「ですが、現在の屋敷内に、犯人へ情報を渡した者がいる可能性は否定できません。誰が潔白であるかを一人ずつ確認してから出発する時間はございませんので、単独で行動いたします」

 

「随分と余裕がないように見えるね」

 

フィリップは、レイネの顔を注意深く見た。

 

普段の彼女は、どのような時にも一定の穏やかさを保っている。誰かへ指示を出す際にも、相手が不快にならない言葉を自然に選ぶ。

 

今も礼節は崩れていない。

 

だが、表情には明らかな苛立ちがあった。

 

わずかに寄った眉。

 

固く結ばれた唇。

 

普段より速い呼吸。

 

何より、言葉から相手を和らげるための余白が消えている。

 

「ルーデウス様が連れ去られておりますので」

 

レイネは、ただそれだけを答えた。

 

「失礼いたします」

 

深く一礼し、部屋を出る。

 

礼の角度も、所作の美しさも普段と変わらない。

 

ただし、頭を上げた瞬間には、すでに次の行動へ意識を移していた。

 

レイネは屋敷の正門を出たところで、門番の一人へ声をかけた。

 

「本日、正午までに外出した馬車について伺います」

 

「トーマス様から確認を受けていますが……」

 

「同じ内容でも構いません。お答えください」

 

門番は戸惑いながら、出入りした馬車を説明した。

 

レイネは一度も遮らず、最後まで聞いた。

 

しかし、曖昧な箇所へ差しかかるたび、赤い瞳が細くなる。

 

「時刻は覚えておられないのですか?」

 

「正確には……」

 

「では、鐘が鳴る前か後かだけでも結構です」

 

「前だったと思います」

 

「思います、ではなく、どちらですか」

 

口調は丁寧だった。

 

責めるような声でもない。

 

それでも門番は額へ汗を浮かべ、記憶を必死に掘り起こした。

 

「前です。間違いありません」

 

「ありがとうございます」

 

礼を告げた後、レイネはすぐに次の質問へ移る。

 

「御者は普段と異なる服装や荷物を持っておりませんでしたか。馬の脚、車輪、荷台にも気づいたことがあれば、すべてお話しください」

 

必要な情報を聞き終えると、レイネは町へ出た。

 

向かったのは、馬車が最後に確認された南門ではない。

 

荷馬車が通れる裏道と、空き倉庫の集まる区域へ続く道だった。

 

正規の門から子供を連れ出せば、記録に残る。

 

ならば、町の中で別の馬車へ乗せ替えるか、追跡が落ち着くまで身を隠す場所が必要となる。

 

レイネは通りの店主や荷運び人へ、一人ずつ馬車について尋ねていった。

 

「恐れ入ります。こちらを、ボレアス家の馬車が通りませんでしたか」

 

声は変わらず丁寧だった。

 

しかし、「見ていない」と曖昧に答えた男が、レイネの視線を受けて慌てて言い直した。

 

「ま、待ってくれ。紋章を布で隠した馬車なら見た」

 

レイネの足が止まる。

 

「どちらへ向かいましたか?」

 

「南の倉庫街だ。そっちへ曲がっていったのを見ただけで、それ以上は知らない」

 

「南の倉庫街ですね」

 

「あ、ああ」

 

レイネは一度だけ頭を下げた。

 

「ありがとうございます」

 

男が何かを言い足すより先に、レイネは踵を返していた。

 

南の倉庫街。

 

必要な情報は、それだけで十分だった。

 

歩調が一気に速くなる。

 

その表情には、もはや普段の穏やかさは残っていない。眉間には深い皺が寄り、固く結ばれた唇からは、抑え込まれた苛立ちがはっきりと滲んでいた。

 

それでも、人波を抜ける際には相手へぶつからないよう身をかわし、道を塞ぐ者には短く声をかける。

 

「恐れ入ります」

 

口調も所作も、最後まで丁寧だった。

 

だが、振り返る者はいなかった。

 

白髪の小柄な侍女から放たれる張り詰めた気配に、誰もが無意識に道を空けていた。

 

レイネは南の倉庫街へ続く道を見据えた。

 

ルーデウスがいる。

 

その可能性を得た以上、これ以上の聞き込みに時間を使う理由はなかった。

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