白髪の侍女   作:MトK

14 / 15
第十四話 白髪の侍女は笑わない

ルーデウス視点

 

倉庫の外で、鍵の回る音がした。

 

ルーデウスはすぐに目を閉じ、身体から力を抜いた。

 

エリスにも倒れたふりをしてほしかったが、彼女は扉を睨みつけたまま動こうとしない。

 

扉が開く。

 

薄暗い室内へ入ってきたのは、馬車で襲ってきた者とは別の男だった。

 

禿げ上がった頭に無精髭を生やし、汚れた衣服を身につけている。右手には短い棍棒を持っていた。

 

男は二人が目を覚ましていることを確かめると、顔を歪めて笑った。

 

「起きてたか」

 

「私を誰だと思ってるのよ!」

 

エリスが声を張り上げる。

 

「今すぐ縄を解きなさい! こんなことをして、ただで済むと思ってるの!?」

 

まずい。

 

ルーデウスが止めるより先に、男の足が動いた。

 

エリスの腹へ蹴りが入る。

 

「ぐっ……!」

 

後ろ手に縛られているため、受け身も取れない。

 

エリスの身体は床を滑り、横向きに倒れた。

 

「エリス様!」

 

「うるせえぞ!」

 

ルーデウスの顔へ棍棒が振り下ろされる。

 

床へ身体を倒し、辛うじて避けた。

 

棍棒の先端が、ルーデウスの耳のすぐ横で床を叩く。

 

男が僅かに目を見開いた。

 

「避けるんじゃねえよ」

 

もう一度、今度は横薙ぎに棍棒が振られる。

 

両手と両足を縛られていては、普段のようには動けない。身体を捻って直撃だけは避けたものの、棍棒の先端が肩へ掠った。

 

鈍い痛みが腕まで走る。

 

「お前たちの目的は、身代金ですか?」

 

ルーデウスは痛みを堪えながら尋ねた。

 

男の注意を、エリスから自分へ向けなければならない。

 

「それとも、僕たちを誰かに売るつもりですか?」

 

「ガキが余計なことを聞くんじゃねえ」

 

男がルーデウスの腹を蹴った。

 

息が詰まる。

 

肺から空気が押し出され、喉の奥から声にならない音が漏れた。

 

それでも、エリスへの攻撃は止まった。

 

「ルーデウス……!」

 

「大丈夫、です」

 

まったく大丈夫ではない。

 

しかし、ここでエリスが騒げば、また男の標的になる。

 

「エリス様。今は、静かに」

 

「でも……」

 

「お願いします」

 

エリスは唇を噛んだ。

 

男は二人を見下ろし、床へ唾を吐く。

 

「最初からそうやって大人しくしてりゃいいんだ。次に騒いだら、今度は腹じゃ済まさねえからな」

 

そう言い残し、男は倉庫から出ていった。

 

扉が閉まり、再び鍵がかけられる。

 

ルーデウスはすぐには動かなかった。

 

扉の向こうから聞こえる足音が遠ざかるまで待つ。

 

男たちの声が、壁越しに小さく聞こえてきた。

 

「ガキどもは起きてたぞ」

 

「魔術師の方は?」

 

「縛ってありゃ何もできねえよ」

 

「油断すんな。馬車じゃ三人がかりでも手こずったんだろ」

 

「夜になったら移すぞ。それまでに、売るか身代金を取るか決めろ」

 

「娘の方は傷つけすぎるなよ。買い手がうるせえ」

 

声が遠ざかる。

 

ルーデウスは頭の中で三百まで数えた。

 

別の男が戻ってくる気配はない。

 

「エリス様」

 

「何よ……」

 

「どこか、強く痛むところはありますか?」

 

「お腹と、頬が痛いわ」

 

声は弱い。

 

けれど意識ははっきりしている。

 

「骨が折れている感じは?」

 

「分からないわよ、そんなの」

 

「息を吸った時に、胸が痛みますか?」

 

エリスは何度か浅く呼吸した。

 

「少し痛い。でも、息はできる」

 

肋骨に罅が入っている可能性はある。

 

まずは縄を解かなければならない。

 

ルーデウスは指先へ魔力を集めた。

 

手首へ巻かれた縄の一部分だけを、ゆっくりと加熱する。火を大きくすれば、自分の皮膚まで焼いてしまう。

 

焦げた匂いが広がらないよう、細く、弱く、時間をかける。

 

縄の一本が切れた。

 

そこから指を差し込み、力を込めて残りを引き千切る。

 

両手が自由になる。

 

続いて足の縄を外し、エリスの側へ移動した。

 

「今、解きます」

 

「早くしなさいよ」

 

いつもの命令口調だった。

 

だが、その声は僅かに震えている。

 

ルーデウスはエリスの手首へ巻かれた縄を火で焼き切った。足の縄も外し、まずは頬へ触れる。

 

エリスの肩が大きく跳ねた。

 

「申し訳ありません。怪我を調べます」

 

「……触るなら、先に言いなさい」

 

「今後はそうします」

 

頬は腫れているが、顎の骨は折れていない。

 

腹部にも触れ、痛む場所を確認する。

 

蹴られた部分には大きな痣ができていた。肋骨の一本にも、傷があるように感じられる。

 

「治癒魔術を使います」

 

「早く治しなさい」

 

ルーデウスは腫れた頬と脇腹へ手を当て、中級治癒魔術を使った。

 

無詠唱でも発動できるが、治癒魔術については、詠唱した方が術式を安定させやすい。

 

小声で詠唱を終えると、掌から淡い光が広がった。

 

頬の腫れが引き、腹部の痣も薄くなっていく。

 

「もう一度、息を吸ってください」

 

エリスが深く息を吸う。

 

「痛くないわ」

 

「ほかには?」

 

「ない」

 

「歩けますか?」

 

「当たり前でしょう」

 

立ち上がろうとしたエリスの膝が揺れた。

 

ルーデウスはすぐに腕を支える。

 

「触らないで!」

 

「転びます」

 

「転ばないわよ!」

 

言葉とは裏腹に、エリスはルーデウスの肩を振り払わなかった。

 

痛みは治っている。

 

それでも、縛られて殴られた恐怖まで消えたわけではない。

 

「これから逃げます」

 

ルーデウスは鉄格子のついた窓を見た。

 

「扉から出れば、男たちがいます。窓を使います」

 

「小さくない?」

 

「鉄格子を外せば、僕たちなら通れます」

 

「どうやって外すのよ」

 

「壁ごと崩します」

 

ルーデウスは扉へ向かい、取っ手の周囲へ土魔術を使った。

 

扉と壁の隙間を埋め、取っ手の内部を変形させる。これで外から鍵を開けても、すぐには扉を動かせない。

 

完全に破壊を防げるわけではない。

 

時間を稼ぐだけだ。

 

次に窓へ近づく。

 

鉄格子そのものを切断するより、周囲の壁を崩す方が早い。

 

土魔術で石材を柔らかくし、鉄格子を固定している部分だけを少しずつ削り取っていく。

 

「エリス様。格子を支えてください」

 

「私が?」

 

「落ちれば大きな音がします」

 

エリスは窓へ近づき、両手で鉄格子を掴んだ。

 

買ったばかりの革手袋が、錆びた鉄から掌を守っている。

 

「重いわよ!」

 

「あと少しです」

 

「早くしなさい!」

 

最後の固定部分が外れる。

 

鉄格子が壁から離れた。

 

エリスは身体を揺らしながらも、床へ落とさずに支え切った。

 

二人でゆっくりと床へ置く。

 

「できたわ」

 

「助かりました」

 

「私がいなかったら、大きな音を立ててたわね」

 

「はい」

 

「やっぱり、あんた一人じゃ駄目じゃない」

 

こんな状況でも、少しだけ得意そうだった。

 

ルーデウスは窓の外を確認した。

 

一階である。

 

地面までの高さは、子供の身長より少し高い程度だ。

 

外には積み上げられた木箱があり、その向こうには同じような倉庫が並んでいる。

 

見張りの姿はない。

 

「僕が先に出ます。その後、エリス様を受け止めます」

 

「私が先よ」

 

「外に人がいた場合、僕の方が対応できます」

 

エリスが反論しようとする。

 

だが、窓の外を一度見た後、口を閉じた。

 

「……分かったわ」

 

ルーデウスは窓枠へ足をかけた。

 

その時、扉の外から鍵の回る音がした。

 

「おい、何か焦げ臭くねえか?」

 

取っ手が回される。

 

しかし、扉は開かない。

 

「何だこれ。開かねえぞ!」

 

激しく扉が叩かれた。

 

エリスの顔から血の気が引く。

 

「ルーデウス!」

 

「先に出ます!」

 

窓を潜り、木箱の上へ降りる。

 

振り返り、両腕を伸ばした。

 

「エリス様、来てください!」

 

「ちゃんと受け止めなさいよ!」

 

エリスが窓枠を越える。

 

扉の向こうから、複数の男の怒声が聞こえる。

 

「ガキが何かしやがった!」

 

「扉を壊せ!」

 

エリスが飛び降りた。

 

ルーデウスは身体全体で受け止め、風魔術で落下の勢いを弱める。

 

二人で木箱から地面へ降りた。

 

「どちらへ行くの?」

 

「まず、倉庫から離れます」

 

「屋敷はどっちよ!」

 

「分かりません」

 

「分からないの!?」

 

「ここがロアのどの辺りかも分かりません」

 

背後で、扉が蹴破られる音がした。

 

迷っている時間はない。

 

「こちらです」

 

静かな声が、二人のすぐ近くから聞こえた。

 

ルーデウスは反射的に振り向いた。

 

木箱の陰から、一人の少女が姿を現す。

 

白い髪。

 

赤い瞳。

 

普段と同じ、地味で実用的な侍女服。

 

「レイネ……?」

 

「はい」

 

レイネは二人の前まで歩いてきた。

 

呼吸は乱れていない。

 

衣服にも目立った汚れはない。

 

けれど、その表情だけが、普段とは明らかに違っていた。

 

眉間には深い皺が寄り、唇は固く結ばれている。

 

「お迎えに上がりました、ルーデウス様。エリス様」

 

言葉遣いは普段と変わらない。

 

それでも、声の端には、隠しきれない苛立ちが滲んでいた。

 

ルーデウスは一瞬、言葉を失った。

 

レイネは同行していなかった。

 

誘拐に気づき、行き先を調べ、この倉庫までたどり着かなければならない。

 

いくら何でも早すぎる。

 

「どうして、ここが……」

 

「お話は後にいたしましょう」

 

返答が短い。

 

レイネの視線が、ルーデウスの後頭部へ向けられる。

 

棍棒で殴られた場所には、乾いた血が付着していた。

 

続いて肩の汚れと、腹を庇う僅かな姿勢を見る。

 

最後に、エリスの衣服へ視線を移した。

 

治癒魔術で腫れや痣は消してある。

 

それでも、床へ蹴り倒された際についた埃までは消えていない。

 

レイネの指先が、僅かに震えた。

 

「ルーデウス様」

 

「はい」

 

「殴られましたか」

 

口調は丁寧だった。

 

しかし、その声には、これまでルーデウスが聞いたことのないほど明確な苛立ちが含まれている。

 

「僕は棍棒で肩を殴られて、腹も蹴られました。エリス様も蹴られましたが、怪我は治しました」

 

「どなたに?」

 

「禿げた頭の、棍棒を持った男です」

 

「承知いたしました」

 

レイネは一度だけ目を閉じた。

 

「遅くなり、申し訳ございません」

 

「早すぎるくらいです」

 

「いいえ」

 

レイネは即座に否定した。

 

「私が同行していれば、そもそもこのようなことにはなっておりませんでした」

 

その言葉で、ルーデウスはようやく理解した。

 

レイネが怒っているのは、誘拐犯だけではない。

 

自分自身にも怒っているのだ。

 

ギレーヌが同行しているなら問題ないと判断し、屋敷へ残った。

 

結果として、ギレーヌは偽の命令で引き離され、ルーデウスとエリスは連れ去られた。

 

レイネは、その判断を自分で許せずにいる。

 

「レイネのせいではありません」

 

「判断したのは私でございます」

 

「でも、偽の命令を用意したのは犯人です」

 

「その程度の細工へ気づく機会を、私は自ら手放しました」

 

静かな返事だった。

 

だが、一つ一つの言葉が硬い。

 

いつもなら、自分の感情を会話へ持ち込むことなどない。

 

今は、それを完全には抑えられていなかった。

 

「レイネ」

 

エリスが小さな声で呼んだ。

 

普段の勢いはない。

 

「はい、エリス様」

 

「私たち、帰れるの?」

 

「帰ります」

 

即答だった。

 

「すでに決まっていることでございます」

 

エリスはレイネの顔を見上げた。

 

そして何も言わず、その侍女服の袖を掴んだ。

 

レイネは袖を振り払わなかった。

 

「お二人とも、私の後ろへお下がりくださいませ」

 

倉庫の窓から、男の顔が覗いた。

 

「いたぞ! 外だ!」

 

大声が響く。

 

別の扉が開き、男たちが次々と倉庫から飛び出してきた。

 

棍棒を持つ者。

 

短剣を持つ者。

 

剣を抜いた者。

 

倉庫街の出口側からも、二人の男が姿を現す。

 

一人は肩幅の広い大男。

 

もう一人は、立ち方の整った細身の剣士だった。

 

前後を合わせて、七人。

 

その中には、先ほどルーデウスとエリスを殴った禿頭の男もいる。

 

「逃がすな!」

 

「白髪の女は殺せ! 子供二人は生け捕りだ!」

 

細身の剣士が、腰の剣を抜いた。

 

ほかの男たちとは、明らかに動きが違う。

 

剣を構える姿に無駄がない。

 

少なくとも、ただのごろつきではない。

 

「レイネ」

 

ルーデウスは彼女の背中へ呼びかけた。

 

「はい」

 

「剣を持っている人は強いです。僕が魔術で援護します」

 

レイネは答えなかった。

 

その代わり、誘拐犯たちを一人ずつ見た。

 

最後に、禿頭の男へ視線を止める。

 

「あの方で間違いございませんか」

 

「はい。あの男です」

 

「エリス様を蹴られたのも?」

 

「同じ男です」

 

レイネは小さく息を吐いた。

 

「承知いたしました」

 

その声は、恐ろしいほど静かだった。

 

「ルーデウス様、エリス様。その場から動かないでくださいませ」

 

「レイネ一人では――」

 

危険だ。

 

そう言おうとした。

 

しかし、その言葉は最後まで続かなかった。

 

ルーデウスの目の前から、レイネの姿が消えた。

 

風が鳴ったわけではない。

 

地面が砕けたわけでもない。

 

魔術が発動した気配も感じなかった。

 

ただ、そこにいたはずの白髪の少女が、一瞬のうちにいなくなった。

 

次の瞬間。

 

ぼとり、と重いものが地面へ落ちた。

 

一つ。

 

二つ。

 

三つ。

 

四つ。

 

五つ。

 

六つ。

 

ルーデウスは、それが何なのか理解するまで数秒を要した。

 

人間の頭だった。

 

剣を持っていた男。

 

短剣を構えていた男。

 

出口を塞いでいた大男。

 

細身の剣士。

 

禿頭の男を除く、六人全員の首が、胴体から離れていた。

 

何が起きたのか、見えなかった。

 

剣閃はない。

 

魔術の光もない。

 

攻撃の音さえ、ほとんど聞こえなかった。

 

遅れて、首を失った身体が次々と崩れ落ちる。

 

地面へ血が広がった。

 

エリスが息を呑む。

 

ルーデウスも、身体を動かすことができなかった。

 

レイネは、禿頭の男の背後に立っていた。

 

武器は持っていない。

 

右手に、薄く血が付着している。

 

それだけだった。

 

禿頭の男は、自分以外の全員が倒れたことさえ理解できていないらしい。棍棒を構えたまま、目を見開いていた。

 

「な……」

 

喉から掠れた声が漏れる。

 

レイネが男の前へ回る。

 

その歩調は、普段と変わらない。

 

「先ほど、ルーデウス様を殴られましたね」

 

「ま、待て……」

 

「エリス様を蹴られたことも、確認しております」

 

「俺は命令されただけだ! 殺せとは言われてねえ!」

 

男は棍棒を捨て、後ずさった。

 

「金が欲しかっただけだ! 俺は、そのガキを殺してねえ!」

 

「はい」

 

レイネは丁寧に頷いた。

 

「ですので、あなたは生かします」

 

男の顔に、僅かな安堵が浮かぶ。

 

その直後、レイネの右手が動いた。

 

ルーデウスには、やはり何をしたのか見えなかった。

 

男の身体が一度だけ跳ね、糸が切れたように地面へ崩れ落ちる。

 

死んではいない。

 

胸は上下している。

 

ただ、完全に意識を失っていた。

 

レイネは倒れた男を一瞥した後、ルーデウスたちの前へ戻ってきた。

 

「お待たせいたしました」

 

まるで、少し離れた場所へ荷物を取りに行っていただけのような言葉だった。

 

ルーデウスは返事ができなかった。

 

レイネの動きを、一度も見ることができなかった。

 

パウロとの剣術訓練では、どれほど速く動かれても、少なくとも身体の動きを追うことはできた。

 

ギレーヌが普段の訓練で見せる動きも、ルーデウスの目には、速いなりに人間の動作として映っていた。

 

今のレイネには、それすらなかった。

 

輪郭がぼやけたわけでも、残像が見えたわけでもない。

 

目の前に立っていたはずのレイネが消えたと思った時には、すべてが終わっていた。

 

護身術。

 

生活魔術。

 

初歩的な治癒魔術。

 

それが、レイネから聞かされていた実力である。

 

目の前で起きたことは、その言葉では到底説明できない。

 

「レイネ……今のは……」

 

「ルーデウス様」

 

レイネが言葉を遮った。

 

「まずは、お怪我を確認いたします」

 

「でも――」

 

「後ほど、必要な範囲でご説明いたします」

 

普段なら、ルーデウスの質問を完全に遮ることは少ない。

 

今は違った。

 

自分自身への苛立ちを抑えるだけで精いっぱいなのだと、その硬い声から察することができた。

 

レイネはルーデウスの後頭部へ手を伸ばす。

 

「触れます」

 

一言断ってから、傷を確認する。

 

掌から淡い光が広がり、残っていた痛みが消えていった。

 

「ありがとうございます」

 

「申し訳ございません」

 

「何がですか?」

 

「傷を負われる前に、間に合いませんでした」

 

レイネの声は硬い。

 

男たちを殺したことへの動揺は見えなかった。

 

むしろ、自分が同行しなかったことの方を、強く悔やんでいる。

 

「僕たちは生きています」

 

「結果として、でございます」

 

「自分たちで倉庫からも出られました」

 

「はい。大変よく対応なさいました」

 

レイネはそれを否定しなかった。

 

それでも、自分への苛立ちは消えていない。

 

「ですが、それと私の判断が適切であったかは、別の問題でございます」

 

ルーデウスは何も返せなかった。

 

レイネは、誘拐犯だけに怒っているのではない。

 

ギレーヌが同行しているから問題はないと判断し、自分が屋敷へ残ったことにも怒っている。

 

その判断によって、ルーデウスとエリスが殴られ、殺されかねない状況へ置かれた。

 

誰かの責任を挙げることで、自分の判断を軽くするつもりがないのだ。

 

「レイネ」

 

エリスの声がした。

 

「はい」

 

「もう、誰も来ない?」

 

「現時点で、この場にいる敵はすべて排除いたしました」

 

エリスの視線が、地面へ落ちた六つの首へ向きそうになる。

 

レイネはすぐに身体を移動させ、その視界を遮った。

 

「こちらをご覧くださいませ」

 

「でも……」

 

「見る必要はございません」

 

口調は丁寧だったが、拒否を許さない声だった。

 

エリスはレイネの侍女服を強く掴む。

 

ルーデウスも、遅れて押し寄せてきた血の匂いに吐き気を覚えた。

 

死体は以前にも見たことがある。

 

それでも、今の出来事は違う。

 

つい数秒前まで話し、動いていた大人たちの首が、一瞬で失われた。

 

しかも、それを行ったのは、幼い頃から身近にいた侍女である。

 

「ルーデウス様」

 

レイネが目の前へ立つ。

 

「私をご覧くださいませ」

 

赤い瞳と目が合った。

 

普段の穏やかさはない。

 

怒りと苛立ち。

 

それを抑え込もうとしている強い意志。

 

ルーデウスは、言われたとおりレイネの顔だけを見る。

 

「ゆっくりと呼吸してください」

 

「はい」

 

「吸ってくださいませ」

 

息を吸う。

 

「吐いてください」

 

ゆっくりと吐く。

 

何度か繰り返すうちに、吐き気が少しずつ弱くなった。

 

遠くから、地面を強く蹴る音が近づいてくる。

 

レイネが顔を上げた。

 

「ギレーヌ様です」

 

数秒後、倉庫の屋根を越えて茶褐色の影が飛び込んできた。

 

ギレーヌは剣を抜いたまま着地し、すぐに周囲へ視線を走らせる。

 

エリス。

 

ルーデウス。

 

レイネ。

 

倒れている七人の男。

 

そのうち六人は、首を失っている。

 

残る一人だけが、気を失った状態で呼吸を続けていた。

 

ギレーヌの動きが止まる。

 

「……これは」

 

鼻を動かす。

 

血の匂い。

 

死体の位置。

 

地面に残った足跡。

 

そして、レイネの右手についた血。

 

「お前がやったのか」

 

「はい」

 

レイネは否定しなかった。

 

「ルーデウス様とエリス様の安全を確保するため、排除いたしました」

 

ギレーヌの目が細くなる。

 

「剣は?」

 

「使用しておりません」

 

ギレーヌは、首を失った男たちを見る。

 

切断面は鋭い。

 

剣で斬られたようにも見える。

 

しかし、レイネは武器を持っていない。

 

男たち自身が持っていた剣にも、血は付着していなかった。

 

「素手でやったのか」

 

「はい」

 

ルーデウスは、その会話を聞いて改めて背筋が冷たくなった。

 

見間違いではなかった。

 

レイネは本当に、素手で六人の首を落としたのだ。

 

ギレーヌはしばらくレイネを見つめた。

 

何かを問いただそうとしているように見えた。

 

だが、エリスがレイネの袖を離さず、ルーデウスの衣服にも血と埃がついていることを確認すると、剣を収めた。

 

「話は後だ」

 

「お願いいたします」

 

「エリス」

 

ギレーヌが声をかける。

 

エリスはレイネの袖を掴んだまま、顔だけを向けた。

 

「怪我は?」

 

「ルーデウスが治したわ」

 

「そうか」

 

ギレーヌの肩から、僅かに力が抜ける。

 

「ルーデウスも無事か」

 

「はい。レイネにも治してもらいました」

 

「よく二人で逃げた」

 

短い言葉だった。

 

それでも、ルーデウスの胸に重く届いた。

 

レイネが、地面に倒れた禿頭の男へ視線を向ける。

 

「この方は、ルーデウス様とエリス様を殴った人物でございます」

 

ギレーヌの耳が動く。

 

「なぜ生かした」

 

「事情を伺う必要がございます」

 

「分かった。あたしが運ぶ」

 

ギレーヌは男を担ぎ上げた。

 

「ほかの敵は?」

 

「こちらにいた者ですべてでございます」

 

ギレーヌが鼻を動かす。

 

「近くに、ほかの匂いはない」

 

レイネはルーデウスとエリスへ向き直った。

 

「屋敷へ戻りましょう」

 

「レイネ」

 

ルーデウスが呼び止める。

 

「はい」

 

「どうして、今まで力を隠していたのですか?」

 

レイネはすぐには答えなかった。

 

赤い瞳が、僅かに伏せられる。

 

「私の過去と技能について、すべてをお話しすることはできません」

 

「では、護身術しか使えないというのは、嘘だったのですか?」

 

「はい」

 

否定しなかった。

 

「申し訳ございません」

 

「僕たちを騙していたのですか?」

 

問いながら、自分の声が少し震えていることに気づく。

 

怖い。

 

人を一瞬で殺したことだけではない。

 

今まで知っていると思っていた相手の中に、まったく知らない部分があったことが怖かった。

 

レイネはその感情も察したらしい。

 

一歩近づこうとして、途中で止まる。

 

「必要であれば、距離を取っていただいて構いません」

 

その言葉に、ルーデウスは胸を突かれた。

 

レイネは自分から触れようとしない。

 

嫌がるなら、無理に安心させようともしない。

 

いつもどおり、ルーデウス自身の意思を待っている。

 

「怖がらせることは、承知しておりました」

 

レイネは続ける。

 

「それでも、お二人の命が危険に晒されている状況で、力を隠すことを優先するつもりはございません」

 

ルーデウスは、地面へ倒れた男たちを見ないようにしながら、レイネの右手へ視線を向けた。

 

今見せられたものが、彼女の力のどこまでなのかは分からない。

 

問いかけたところで、レイネは答えないだろう。

 

けれど、少なくとも一つだけは分かった。

 

レイネは、自分の秘密を守るために、ルーデウスやエリスの命を見捨てることはしなかった。

 

「僕は、距離を取りたくありません」

 

しばらくして、ルーデウスは答えた。

 

レイネの目が僅かに見開かれる。

 

「怖くないわけではありません。でも、レイネが助けに来てくれたことも事実です」

 

「ありがとうございます」

 

「ただ、いつか話せることは話してください」

 

「お約束できる範囲であれば」

 

すべてを話すとは言わない。

 

安心させるためだけの約束もしない。

 

それも、レイネらしかった。

 

「私も!」

 

エリスが声を上げた。

 

「私も、レイネから離れないわよ!」

 

「エリス様」

 

「だって、助けに来たでしょう! それに、悪い奴を倒しただけじゃない!」

 

地面の死体を見ないようにしながら、強い声で言う。

 

「でも、次からはもっと早く来なさい!」

 

「申し訳ございません」

 

「絶対よ!」

 

レイネは一瞬だけ目を伏せた。

 

「今後、同じ判断はいたしません」

 

自分への戒めを込めた声だった。

 

 

帰りの馬車では、誰もほとんど話さなかった。

 

エリスはレイネの隣へ座り、その袖を掴んだまま離さなかった。

 

反対側にはルーデウス。

 

ギレーヌは御者台へ座り、気絶した男を足元へ転がしている。

 

馬車が揺れるたび、エリスの肩が僅かに跳ねた。

 

レイネはそのたびに、何も言わず身体を支える。

 

右手についた血は、倉庫街を出る前に布で拭い取っていた。

 

けれど、ルーデウスの目には、まだ赤いものが残っているように見えた。

 

しばらくして、エリスが自分の鞄へ手を入れた。

 

中から、潰れた紙包みを取り出す。

 

「これ」

 

「何でございましょうか」

 

「焼き菓子よ」

 

誘拐される前に買った物だった。

 

馬車の中で争ったため、四つとも形が崩れている。紙には油が染み、角の部分は破れていた。

 

「レイネの分も買ったの」

 

「私に、でございますか」

 

「ルーデウスが買えって言ったからよ!」

 

「エリスご自身が、予算を計算してお決めになりました」

 

ルーデウスが訂正する。

 

「うるさいわね!」

 

エリスがルーデウスを睨む。

 

けれど、拳は飛んでこなかった。

 

「潰れちゃったけど、食べられるでしょう」

 

レイネは両手で紙包みを受け取った。

 

「ありがとうございます。大切にいただきます」

 

「今食べなさいよ」

 

「屋敷へ戻ってからではいけませんか」

 

「駄目よ。私が買ったんだから、今食べなさい」

 

レイネは包みを開いた。

 

焼き菓子は互いに押し潰され、ほとんど一つの塊になっている。

 

それでも、小さな一部分を割り、口へ運んだ。

 

「大変おいしゅうございます」

 

「本当に?」

 

「はい」

 

エリスはようやく、少しだけ表情を緩めた。

 

ルーデウスは、その二人を見ながら考える。

 

レイネの力は分からない。

 

過去も分からない。

 

何を隠しているのかも分からない。

 

しかし、焼き菓子を受け取る時の表情は、これまでと同じだった。

 

少なくとも、今この場にいるレイネまで、別人になったわけではない。

 

 

屋敷へ到着すると、門の前にはサウロスとフィリップが待っていた。

 

エリスが馬車から降りる。

 

地面へ足をつけた瞬間、張り詰めていた力が抜けたのか、その場へ座り込みそうになった。

 

サウロスが駆け寄る。

 

「エリス!」

 

「お祖父様……」

 

サウロスは孫娘を強く抱きしめた。

 

普段なら、苦しいと怒鳴って振り払うところだろう。

 

エリスは何も言わず、その大きな身体へ顔を埋めた。

 

フィリップは娘の無事を確認した後、ルーデウスへ目を向ける。

 

「ルーデウス。怪我は?」

 

「エリスの怪我は僕が治しました。僕の怪我は、レイネに治してもらいました。今は大丈夫です」

 

「そうか」

 

フィリップの表情から、僅かに緊張が抜けた。

 

続いて、ギレーヌが担いでいる男を見る。

 

「その男は?」

 

「誘拐犯だ」

 

ギレーヌが答える。

 

「ルーデウスとエリスを殴った。こいつだけ生きている」

 

「ほかの者は?」

 

ギレーヌは答えず、レイネへ視線を向けた。

 

レイネが一歩前へ出る。

 

「すべて死亡しております」

 

フィリップの目が細くなる。

 

「ギレーヌが?」

 

「いいえ。私が処理いたしました」

 

周囲の使用人たちが、僅かにざわめいた。

 

レイネは気にせず、一礼する。

 

「事情につきましては、後ほどご説明いたします。まずは、ルーデウス様とエリス様をお休ませいただけますでしょうか」

 

フィリップはレイネとギレーヌを交互に見る。

 

ギレーヌが無言で頷いた。

 

「分かった。詳しい話は後で聞く」

 

「ありがとうございます」

 

ルーデウスが屋敷へ入ろうとすると、背後から声が飛んできた。

 

「待ちなさい!」

 

振り返る。

 

エリスがサウロスの腕から離れ、こちらを指さしていた。

 

顔には疲れが残っている。

 

足も少し震えている。

 

それでも、いつもの強い目をしていた。

 

「ルーデウス!」

 

「はい」

 

「今日、あんたは……その……」

 

エリスは何度か口を開き、閉じた。

 

礼を言うことに慣れていないのだろう。

 

「私を置いて逃げなかったわね」

 

「一緒に帰ると言いましたから」

 

「鉄格子も外したし、私の怪我も治した」

 

「エリスにも手伝ってもらいました」

 

「それは当然よ!」

 

少しだけ、いつもの調子が戻る。

 

「だから、あんたを家庭教師にしてあげる!」

 

「ありがとうございます」

 

「それから!」

 

エリスは息を大きく吸った。

 

「特別に、エリスって呼ぶことを許してあげるわ!」

 

ルーデウスは目を瞬かせた。

 

昨日までなら、名前を呼び捨てにしただけで殴られていたかもしれない。

 

「では、エリス様」

 

「様はいらないって言ってるでしょう!」

 

「エリス」

 

呼んでみる。

 

エリスは満足そうに胸を張った。

 

「そうよ。それでいいの!」

 

その直後、足元が揺れる。

 

サウロスが慌てて身体を支えた。

 

「もう限界ではないか!」

 

「限界じゃないわよ! ちょっと疲れただけ!」

 

「ならば休め! 今すぐ休め!」

 

「お祖父様の声がうるさくて休めないのよ!」

 

無事に帰ってきた実感が、ようやく湧いてくる。

 

ルーデウスは小さく息を吐いた。

 

その隣で、レイネは柔らかな表情を作ろうとしていた。

 

だが、いつものようには笑えていない。

 

僅かに寄った眉。

 

固い唇。

 

自分の判断への苛立ちは、まだ消えていなかった。

 

レイネは気絶した男が運び込まれるのを見ると、赤い瞳を冷たく細めた。

 

事件は終わっていない。

 

誰が命令書を偽造したのか。

 

誰がボレアス家の兵士と馬車を動かしたのか。

 

誰がルーデウスとエリスの情報を犯人へ渡したのか。

 

聞くべきことは、まだ残っている。

 

レイネは乱れのない所作でフィリップへ一礼した。

 

「若旦那様」

 

「何だい」

 

「事情聴取には、私も同席させていただけますでしょうか」

 

口調は、最後まで丁寧だった。

 

フィリップはレイネの表情を見て、ほんの僅かに沈黙した。

 

「……構わない。ただし、尋問は私の指示に従ってもらう」

 

「もちろんでございます」

 

レイネは深く頭を下げた。

 

ルーデウスは、その横顔を見る。

 

誘拐犯を一瞬で殺した力よりも、自分をみすみす誘拐させたと、今も自分自身を責め続けているその顔の方が、ずっと強く心へ残った。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。