レイネ視点
屋敷の地下には、普段ほとんど使用されていない石造りの部屋があった。
窓はなく、出入口は鉄で補強された扉が一つだけ。倉庫として作られた場所らしいが、現在は物がすべて運び出され、中央へ粗末な椅子が一脚置かれている。
その椅子へ、誘拐犯の男が縛りつけられていた。
ルーデウスとエリスを殴った男である。
両手は背もたれの後ろへ回され、足首も椅子の脚へ固定されている。念のため口には布が噛ませてあったが、まだ意識は戻っていなかった。
部屋にいるのは、フィリップ、サウロス、ギレーヌ、レイネ。
そして、ボレアス家の執事を長く務めているアルフォンスである。
レイネは壁際に立ち、椅子の男を見ていた。
倉庫街で付着した血は、屋敷へ戻ってすぐに洗い落としている。侍女服も着替えたため、表面上は事件前とほとんど変わらなかった。
それでも、眉間へ刻まれた薄い皺だけは消えていない。
「レイネ」
フィリップが静かに呼ぶ。
「はい」
「先ほども言ったが、質問は私が行う。この男へ勝手に手を出すことは認めない」
「承知しております」
レイネは丁寧に頭を下げた。
「生かして連れ帰ったのは、事情を聞くためでございます。お答えいただけるのであれば、私から何かをする必要もございません」
言葉そのものは穏当だった。
しかし、意識を失っている男を見つめる赤い瞳には、普段の柔らかさがない。
サウロスが太い腕を組んだ。
「答えんのなら、儂が口を割らせる!」
「父上が殴れば、口を割る前に死にます」
フィリップが即座に止めた。
「加減くらいできるわ!」
「今日、門の柱を一つ壊したことをお忘れですか」
「あれは儂のせいではない! 柱が脆かったのだ!」
「築三年です」
「ならば建てた職人の腕が悪い!」
父子のやり取りにも、レイネは反応しなかった。
普段なら場を和らげるために、何か一言を添えていただろう。
今は男が目を覚ますのを待ちながら、時間だけを数えていた。
ルーデウスは自室で休ませている。
怪我そのものは治療したが、身体へ受けた衝撃と、誘拐された恐怖まで消えるわけではない。
エリスも同様である。
二人が休んでいる間に、可能な限り事件の全容を明らかにしなければならない。
男の瞼が動いた。
呻き声を漏らし、頭を持ち上げる。
最初にフィリップを見た。
次にサウロスとギレーヌ。
最後に、壁際にいるレイネへ目を向けた瞬間、顔から血の気が引いた。
男は椅子ごと後ろへ下がろうとした。
固定された脚が石床を擦り、不快な音を立てる。
「目を覚ましたようだね」
フィリップは男の前へ立った。
「今から口の布を外す。大声を上げず、尋ねたことへ素直に答えるなら、すぐに危害を加えることはない」
男が何度も頷く。
アルフォンスが口の布を外した。
男は荒い息を吐きながら、レイネから目を逸らした。
「名前は?」
フィリップが尋ねる。
「バ、バルト……」
「所属は」
「何もねえ。ただの用心棒だ」
「誰からエリスの誘拐を依頼された?」
「知らねえ。俺は、雇われただけだ」
「誰に雇われた」
「酒場で声をかけられた。名前は聞いてねえ」
フィリップの表情は変わらなかった。
「では、ボレアス家の馬車をどうやって用意した?」
「そ、それも知らねえ。集合場所に来てたんだ」
「御者と兵士は、この屋敷の人間だった」
「俺は知らねえって言ってるだろ!」
男の声が大きくなる。
その瞬間、レイネの指先が小さく動いた。
ただ手を握っただけである。
それでも、男は全身を震わせて口を閉じた。
フィリップはその様子を横目で確認し、質問を続ける。
「サウロスの名で作られた命令書については?」
「知らねえ」
「ギレーヌを引き離す計画は?」
「知らねえ」
「ルーデウスが魔術を使えることは、誰から聞いた?」
「そ、それは……」
男の返答が止まった。
フィリップが椅子へ腰を下ろす。
「君たちは、最初からルーデウスを魔術師として警戒していた。眠り薬を用意し、無詠唱魔術を使う可能性まで把握していた。それは、酒場で偶然雇われただけの者が知り得る情報ではない」
男は目を泳がせた。
「僕は、同じ質問を何度もするつもりはない」
フィリップの声音は穏やかだった。
「今、素直に話すか。君を依頼した者が、口封じのために迎えを送ってくるまで待つか。好きな方を選ぶといい」
「迎えなんか来ねえ」
「どうしてそう言い切れる?」
男の唇が動きを止める。
自分の言葉で矛盾を作ったことに気づいたのだろう。
フィリップは追及を急がなかった。
沈黙が長くなる。
男の視線が、再びレイネへ向いた。
白髪の小柄な侍女。
武器を持っているようには見えない。
けれど、倉庫街にいた仲間は、この少女が何かをしたと理解する前に首を失った。
男は乾いた唾を飲み込んだ。
「……トーマスだ」
小さな声だった。
室内の空気が変わる。
サウロスの腕へ力が入り、ギレーヌの耳が鋭く立った。
フィリップだけが表情を変えない。
「もう一度、はっきりと言ってもらおうか」
「この屋敷の執事だ。トーマスって男が、俺たちを雇った」
「トーマスが、直接君へ依頼したのか?」
「ああ。あいつが馬車と御者を用意した。兵士の勤務も入れ替えた。剣王を引き離す命令書も、あいつが持ってきた」
アルフォンスの顔が僅かに硬くなった。
「報酬は?」
「最初に銀貨を五枚。娘を引き渡したら、残りを払うって話だった」
「誰へ引き渡す予定だった?」
「知らねえよ。本当だ。夜になったら別の連中が倉庫へ来ることになってた。俺たちは、それまでガキどもを逃がさなきゃよかった」
「エリスを売るという話は、誰から聞いた?」
男は答えようとしなかった。
レイネの視線が、僅かに細くなる。
「お答えくださいませ」
初めて、レイネが直接言葉をかけた。
丁寧な声音である。
男は、殴られたわけでもないのに肩を跳ねさせた。
「ト、トーマスだ! 貴族の娘を欲しがってる奴がいるって言ってた!」
「その方のお名前は?」
「知らねえ! 本当に聞いてねえんだ!」
「紋章や服装は」
「会ってねえんだ! トーマスから聞いただけだ!」
「そうですか」
レイネはそれ以上尋ねなかった。
男の息が一瞬だけ緩む。
その時、部屋の扉が叩かれた。
「入れ」
フィリップが許可すると、若い使用人が飛び込んでくる。
「若旦那様、申し上げます!」
「どうした」
「トーマス様のお姿が見当たりません!」
フィリップが立ち上がった。
「いつからだ」
「ギレーヌ様とレイネ様が屋敷を出た後、厩舎と門の記録を調べるとおっしゃっていました。その後、誰も姿を見ておりません」
レイネが使用人へ顔を向ける。
「トーマス様を最後に見た方は?」
「西の通用門の者です。外へ確認に出るとおっしゃって、一人で……」
「何分前でしょうか」
「半刻ほど前かと」
「服装は」
「執事服の上へ、外套を羽織っていたそうです」
「馬は?」
「使用しておりません」
レイネはフィリップへ向き直った。
「若旦那様」
「一人で追うつもりかい?」
「はい」
「ギレーヌも連れていけ」
「ギレーヌ様には、こちらの方とエリス様方の護衛をお願いいたします」
レイネの返答には迷いがなかった。
「トーマス様が徒歩で半刻前に出たのであれば、まだ町を出ておりません」
「どうして言い切れる?」
「町の門を抜けるには、外出の理由と身分の確認が必要です。事件が発覚した後であれば、門番も執事一人を無条件には通さないでしょう」
「別の出口を使うかもしれない」
「その場合も含めて確認いたします」
フィリップは数秒、レイネを見た。
「捕らえるだけだ」
「承知いたしました」
「殺すな」
「命令に従います」
一礼し、レイネは部屋を出た。
扉が閉まる。
フィリップが椅子の男へ視線を戻した時、男は安堵するどころか、さらに顔を青くしていた。
「あの女は……何者なんだ」
「ルーデウス付きの侍女だよ」
「侍女が、あんな……」
「君が知る必要はない」
フィリップは淡々と答えた。
◇
レイネが地下の部屋へ戻ってきたのは、それから二十分ほど後だった。
右手で、トーマスの外套の襟を掴んでいる。
トーマスは意識を失っていた。
身体に目立った傷はなく、服装もほとんど乱れていない。ただ、両手は背中側へ回され、本人が使っていた革帯で縛られていた。
レイネはトーマスを石床へ横たえる。
「お待たせいたしました」
フィリップが壁の時計へ目を向けた。
「どこにいた?」
「北西の商業区で、荷馬車へ乗ろうとなさっていました」
「徒歩で、ここから北西まで?」
「はい」
フィリップは何かを尋ねようとしたが、やめた。
今のレイネへ力の詳細を聞いたところで、まともな答えは返ってこないと判断したらしい。
「抵抗は?」
「なさいました」
「怪我は」
「ございません」
レイネの返答は正確だった。
トーマスに怪我はない。
意識を失わせただけである。
「起こせ」
サウロスが低く言った。
アルフォンスが水差しを持ち、トーマスの顔へ水をかける。
トーマスが激しく咳き込み、目を覚ました。
最初は何が起きたのか分からない様子だった。
やがてフィリップとサウロスを見つけ、隣の椅子へ縛られたバルトを見た。
最後にレイネへ気づく。
「なぜ……」
「お目覚めでございますか」
レイネは丁寧に一礼した。
「突然お連れして、申し訳ございません」
トーマスの頬が引き攣った。
「レイネ……これは、どういうつもりだ」
「若旦那様から、あなたを捕らえる許可をいただきました」
「私が何をしたというのだ!」
「それを今から確認する」
フィリップが会話へ割り込んだ。
「トーマス。君が屋敷の馬車と兵士を使い、父上の命令書を偽造し、エリスを誘拐させたという証言が出ている」
「でたらめです!」
トーマスは即座に否定した。
「その男が、自分の罪を軽くするために嘘をついているのでしょう!」
椅子へ縛られたバルトが顔を上げる。
「ふざけんな! 全部あんたが用意したんだろうが!」
「黙れ! 私はお前など知らん!」
「最初に銀貨五枚を渡しただろ! 袋にボレアス家の印まで入ってた!」
「盗んだ物に決まっている!」
「トーマス様」
レイネが静かに呼んだ。
「な、何だ」
「外套の内側へ隠しておられた銀貨について、ご説明いただけますでしょうか」
トーマスの顔から、僅かに血の気が引いた。
レイネは一つの革袋を取り出し、フィリップへ渡す。
袋の中には、まとまった銀貨が入っている。
さらに、小さく折り畳まれた紙が二枚。
一枚には金額と受け渡し場所。
もう一枚には、エリスの外出予定と、ギレーヌを引き離すための手順が書かれていた。
「なぜ、それを……」
「逃走される方が、何も持たずに屋敷を出るとは考えにくかったため、所持品を確認いたしました」
「それは私の物ではない!」
「では、どなたの物でしょうか」
「知らん! お前が入れたのだろう!」
レイネは少しだけ首を傾げた。
「私は、トーマス様が事件へ関与されたという証拠を作る必要がございません」
穏やかな言葉だった。
「すでに、直接事情を伺える方を一名確保しておりますので」
レイネの視線が、隣のバルトへ向かう。
「また、あなたが屋敷を出られた時刻、通用門を使用された記録、北西の商業区で荷馬車の御者へ銀貨を渡された事実も確認済みでございます」
トーマスの呼吸が速くなる。
「今ここで事実をお話しになるか、関係者と記録を一つずつ照合した後でお話しになるか。お選びいただけます」
「私は……」
「どちらでも結構でございます」
レイネの口調は最後まで丁寧だった。
「時間がかかるだけですので」
トーマスは周囲を見回した。
フィリップは冷たい目を向けている。
サウロスの顔は怒りで赤く染まっていた。
ギレーヌは剣の柄へ手を置いている。
アルフォンスの表情には、長く同じ屋敷へ仕えた者に対する失望が浮かんでいた。
そしてレイネは、何の感情も見せずに立っている。
その無表情が、誰よりも恐ろしかった。
「……金が必要だった」
やがて、トーマスが俯いた。
「借金があった。返さなければ、家族に危害を加えると言われた」
「誰に?」
フィリップが尋ねる。
トーマスは、ある上級貴族の名を口にした。
ボレアス家とは異なる派閥に属し、ロアにも複数の商会を持つ男だった。
以前から、エリスの容貌と気性へ異常な関心を示していたという。
「その貴族から、エリスを差し出せと命じられたのか?」
「直接ではございません。仲介人を通じて……」
「ルーデウスについては?」
「邪魔をするなら、一緒に連れ去れと。魔術を使えることは伝えてありましたが、あれほど抵抗するとは……」
レイネの瞳が細くなる。
トーマスが言葉を止めた。
「続けてくださいませ」
「……殺すつもりはなかった」
「その言葉は先ほども伺いました」
レイネの声は低い。
「ルーデウス様は棍棒で殴られ、腹部を蹴られております。エリス様も同様です。夜になれば、さらに別の方々へ引き渡される予定でした」
「私は、乱暴に扱えとは命じていない!」
「誘拐を依頼された時点で、その後に何が起きるか予想できなかったとおっしゃるのですか?」
トーマスは答えなかった。
レイネは一歩も近づかない。
声も荒らげない。
それでも、その沈黙には逃げ道がなかった。
「子供を攫い、縛り、見知らぬ者へ引き渡す計画へ加担なさいました」
一語ずつ、明確に告げる。
「その結果がどのようなものになるか、ご存じだったはずです」
「……はい」
かすかな返答だった。
サウロスが立ち上がった。
「この場で首を刎ねる!」
「父上」
「止めるな、フィリップ! 儂の孫を売ろうとしたのだぞ!」
「処分には手順があります」
「身内を売った者へ手順など必要あるか!」
「だからこそ、です。感情のまま処刑すれば、この男を雇った貴族へ責任を追及できなくなります」
サウロスは拳を握り締めた。
今にも壁を殴りそうだったが、どうにか踏みとどまる。
「その貴族も潰せ!」
「トーマスと、この男の証言だけでは不十分です。仲介人を捕らえ、金の流れを確認する必要があります」
「ならば、今すぐ捕らえろ!」
「動けば、証拠を消されます。先に逃げ道を塞ぎます」
フィリップは父親の怒りを正面から受け止めながら、淡々と説明した。
レイネは、名前の出た貴族を記憶した。
今すぐ殺すことは容易い。
だが、その貴族が突然死ねば、事件を知る別の者が警戒し、証拠を消す可能性がある。ボレアス家が暗殺を疑われれば、ルーデウスとエリスの周囲に新たな危険を生むことにもなる。
今は、フィリップへ任せる方がよい。
少なくとも、現時点では。
「トーマスとバルトを別々に監禁しろ」
フィリップがアルフォンスへ命じた。
「食事と水は与える。勝手に傷つけるな。接触する者の名をすべて記録しろ」
「承知いたしました」
「父上も、手を出さないでください」
「儂を何だと思っておる!」
「衝動的で力の強い父親です」
「貴様、言うようになったな!」
サウロスが怒鳴る。
だが、否定はできないらしい。
「レイネ」
フィリップが呼ぶ。
「はい」
「君もだ」
「私は若旦那様のご指示に従います」
「本当だね?」
「はい」
レイネは静かに頭を下げた。
「ただし、ルーデウス様とエリス様へ再び危害を加える動きが確認された場合は、その限りではございません」
フィリップは額へ手を当てた。
「それは事前に私へ知らせてくれ」
「可能であれば」
「可能にしてほしいんだが」
レイネは返答をしなかった。
◇
ルーデウス視点
目を覚ますと、窓の外はすでに暗くなっていた。
いつ眠ったのか、はっきりとは覚えていない。
屋敷へ戻り、フィリップたちと話した後、自室へ案内された。横になった直後までは記憶がある。
それから先は、途切れていた。
身体を起こす。
腹や肩に痛みはない。
後頭部にも傷は残っていなかった。
治癒魔術は便利である。
けれど、目を閉じれば倉庫の光景が浮かんでくる。
地面へ落ちた六つの頭。
首を失った身体。
右手に血をつけたレイネ。
思い出した瞬間、胸が速く上下した。
「落ち着け」
自分へ言い聞かせる。
すでに屋敷へ戻っている。
扉の外にはボレアス家の使用人がいる。
ギレーヌもいる。
レイネもいる。
安全だ。
分かっているのに、扉の向こうから足音が聞こえるたび、身体が強張った。
やがて扉が二度、静かに叩かれた。
「ルーデウス様。レイネでございます」
その声を聞き、安堵と緊張が同時に生まれる。
「どうぞ」
扉が開く。
レイネは水差しと軽い食事を載せた盆を持っていた。
すでに普段どおりの侍女服へ着替えている。白い髪も整えられ、右手に血の跡はない。
ただ、表情には疲労が残っていた。
「ご気分はいかがでしょうか」
「身体は大丈夫です」
「頭痛や吐き気は?」
「ありません」
「お食事は召し上がれそうですか?」
「少しなら」
レイネは机へ盆を置き、椅子を引いた。
いつもと変わらない所作だった。
しかし、ルーデウスは、彼女の手が完全に止まる瞬間がないことに気づいた。
皿の位置を直す。
布を畳み直す。
水差しの向きを整える。
必要のない細かな作業を続けている。
「レイネ」
「はい」
「まだ、怒っていますか?」
レイネの手が止まった。
数秒の沈黙の後、ルーデウスへ顔を向ける。
「はい」
誤魔化さなかった。
「犯人へ?」
「それもございます」
「自分にも?」
「はい」
短い返答だった。
レイネはルーデウスの向かいへ座ろうとはしない。いつものように、少し離れた位置へ控えている。
「座ってもらえますか」
「ですが」
「話しにくいです」
レイネは僅かに迷った後、向かいの椅子へ腰を下ろした。
背筋を伸ばし、両手を膝の上へ重ねる。
「僕は、レイネを責めていません」
「承知しております」
「それでも、自分を責めるのですか?」
「ルーデウス様に責められなければ、私の判断が正しくなるわけではございません」
予想していた答えだった。
「僕が外出した時、レイネには仕事がありました。ギレーヌも一緒でした。残る判断がおかしかったとは思いません」
「通常であれば、問題のない判断でございます」
「なら――」
「通常ではない事情が存在する可能性を、私は考慮できました」
レイネの指が、膝の上で僅かに握られる。
「この屋敷では、私は部外者に近い立場です。誰がどの派閥に属し、誰が金銭的な問題を抱え、誰がエリス様へ害意を持つ方と接触しているのか、十分には把握しておりません」
「来たばかりですから、当たり前でしょう」
「だからこそ、安心できる状況だと決めつけるべきではございませんでした」
ルーデウスは返す言葉を探した。
レイネの考えは、間違ってはいないのかもしれない。
けれど、すべての危険を事前に予測することなどできるのだろうか。
「これから、ずっと僕についてくるつもりですか?」
「必要がある間は」
「授業中も、買い物中も?」
「妨げにならない距離で控えます」
「僕が一人で何かをする時も?」
「ルーデウス様がご自身で対応できる状況へ、必要以上に介入するつもりはございません」
レイネは、そこで一度言葉を区切った。
「ただし、今回のように命へ関わる危険が生じた場合は、遠慮いたしません」
「……はい」
命の危険があるのに、力を隠す。
その方が不自然である。
実際、レイネが普段どおり護身術だけで戦おうとしていれば、ルーデウスやエリスが再び人質に取られていたかもしれない。
「男たちを殺したのは、怒っていたからですか?」
尋ねると、レイネはすぐには答えなかった。
「怒っていたことは否定いたしません」
やがて、静かに口を開く。
「ですが、怒りだけで判断したわけではございません。あの方々は武器を持ち、私を殺し、お二人を再び捕らえると明言しておりました」
「全員を殺さなければ、止められなかったのですか?」
「より時間をかければ、生かしたまま制圧する方法もございました」
レイネは事実だけを答えた。
「ですが、一人でもお二人へ近づき、人質に取られる可能性を残すべきではないと判断いたしました。事情を聞くために必要な一名のみを残し、ほかの方々を最も早く、確実に排除いたしました」
「怖くはなかったのですか?」
「何がでしょうか」
「人を殺すことが」
レイネの赤い瞳が、僅かに伏せられる。
「今の私には、迷う理由がございませんでした」
答えは、それだけだった。
人を殺した経験がある。
一度や二度ではないのかもしれない。
そう思わせる返答だった。
「私が恐ろしくなりましたか?」
レイネが尋ねる。
「少し」
正直に答えた。
「そうでございますか」
レイネは否定も弁解もしなかった。
「ですが、いなくなってほしいとは思いません」
「ありがとうございます」
「レイネが、僕たちを助けるために力を使ったことは分かっています」
「はい」
「ただ……僕が知っているレイネと、今日見たレイネが、うまく繋がりません」
それが一番近い表現だった。
幼い頃からそばにいた。
食事を作り、文字を教え、魔術の練習を見守ってくれた。
シルフィとの喧嘩では、答えを与えずに考えさせてくれた。
父親と話し合う時にも、必要以上に口を出さなかった。
そのレイネが、一瞬で六人を殺した。
どちらも同じ人物であると、頭では分かっている。
感情が追いついていない。
「今日ご覧になったものも、私の一部でございます」
レイネは静かに答えた。
「これまでお仕えしてきた私が偽物だったわけではございません」
「では、どうして力を隠していたのですか?」
「必要がなかったからです」
「それだけですか?」
「私の技能や過去が知られれば、ルーデウス様の生活へ余計な問題を持ち込む可能性がございます」
「誰かに狙われるということですか?」
「その可能性もございます」
「レイネ自身が?」
「私だけとは限りません」
そこで、レイネは口を閉じた。
これ以上は話さないという意思が伝わってくる。
ルーデウスも追及をやめた。
以前の自分なら、知りたいという欲求のまま質問を続けていたかもしれない。
だが、誰にでも話したくないことはある。
自分にも、前世のことがある。
レイネが話せないと言うのなら、今は待つべきだろう。
「分かりました」
「申し訳ございません」
「謝らなくてもいいです。ただし、危険なことがあるなら、話せる範囲で教えてください」
「承知いたしました」
レイネの表情が、ほんの僅かに緩んだ。
完全な微笑みではない。
それでも、部屋へ入ってきた時よりは柔らかい。
「エリスはどうしていますか?」
「お休みになっております」
「一人で?」
「ギレーヌ様が近くへ控えておられます。眠られるまでは、私の袖を離してくださいませんでした」
「怖かったでしょうね」
「はい」
ルーデウスは俯いた。
誘拐されたことも。
殴られたことも。
目の前で人が死んだことも。
エリスにとって、すべてが初めての経験だったはずである。
「明日から、普通に授業をするべきでしょうか」
「明日のエリス様をご覧になってから、お決めになるのがよろしいかと存じます」
「休ませるべきなら、休ませます」
「それをルーデウス様だけで決めず、エリス様ご本人にもお尋ねくださいませ」
「あ……はい」
危うく、本人の意思を聞かずに決めるところだった。
心配することと、選択を奪うことは違う。
「レイネ」
「はい」
「ありがとうございます。助けに来てくれて」
レイネは一瞬だけ目を見開いた。
やがて椅子から立ち上がり、深く頭を下げる。
「間に合って、何よりでございました」
声にはまだ、自分を許せない硬さが残っていた。
それでも今度は、「遅くなった」とは言わなかった。
◇
翌朝、ルーデウスはフィリップから応接間へ呼ばれた。
部屋にはフィリップとレイネのほかに、アルフォンスが控えている。
ギレーヌとエリスの姿はない。
「身体の具合はどうだい?」
フィリップが尋ねる。
「問題ありません」
「眠れたかい?」
「少しは」
「それならよかった」
フィリップは卓上へ置かれた紙へ視線を落とした。
「事件について、分かったことを説明する」
ルーデウスは向かいの椅子へ座った。
レイネはその斜め後ろへ立っている。
「屋敷の執事であるトーマスが、誘拐犯へ情報を流していた」
「トーマスさんが?」
驚きながら、同時に納得もした。
ギレーヌを偽の命令で引き離し、ボレアス家の馬車と兵士を用意する。
内部の人間でなければ難しい。
「借金を理由にしているが、かなり以前から外部の貴族と接触していた記録が見つかった。金を受け取った回数も、一度ではない」
「その貴族は捕まるのですか?」
「難しい」
「なぜですか?」
「トーマスは仲介人を通じて指示を受けていた。本人と直接会った証拠がない。金も複数の商会を経由している」
「でも、トーマスさんは名前を知っているのでしょう?」
「知っていることと、法的に責任を問えることは別だ」
フィリップの表情には、僅かな苛立ちがあった。
「相手も貴族だ。証言だけで屋敷へ踏み込めば、こちらが政敵を排除するために事件を利用したと言われる」
「エリスを誘拐させたのに?」
「それが政治というものだよ」
ルーデウスは納得できなかった。
悪事を働いた者が、立場と証拠の不足を利用して逃げる。
前世にも、似たようなことはあった。
この世界でも変わらないらしい。
「何もしないのですか?」
「表向きはね」
フィリップの口元へ薄い笑みが浮かんだ。
「関連する商会への監査を始める。金の流れを止め、仲介人を一人ずつ切り離す。相手が手を引くなら、今回の件を貸しとして残す。さらに動くなら、今度は逃げられない証拠を揃える」
淡々と話している。
けれど、娘を攫われた父親が何もしないはずがない。
フィリップは怒鳴らない。
剣も振るわない。
その代わり、相手が長い時間をかけて築いたものを一つずつ奪うつもりなのだろう。
「トーマスさんは?」
「処罰される。君が気にする必要はない」
どのような処罰かは、説明されなかった。
聞かない方がよいのかもしれない。
「それから、今回の事件について、外部へ公表する内容を決めた」
フィリップは紙を一枚、ルーデウスの前へ置いた。
「エリスと君を誘拐した者たちは、剣王ギレーヌによって討伐された。内部の協力者も発見され、処分された。今後、同様の事件が起きないよう、警備を強化する」
「レイネのことは?」
「公表しない」
ルーデウスは後ろを振り返った。
レイネは表情を変えない。
「どうしてですか?」
「君は、昨日のレイネの動きを説明できるかい?」
「できません」
「私にもできない」
フィリップは指を組んだ。
「正体の分からない者が、素手で武装した男たちの首を一瞬で落とした。そんな話が広まれば、彼女が何者なのかを調べようとする者が現れる」
「それは、困ります」
「君も巻き込まれる。レイネは君付きの侍女だからね」
フィリップはレイネを見る。
「君も異論はないね?」
「ございません」
「ギレーヌの功績にすることについても?」
「ギレーヌ様が到着されなければ、その後の安全確認や犯人の移送が難しくなっておりました。功績をお譲りするという認識はございません」
フィリップが小さく笑う。
「便利な答え方をするね」
「事実でございます」
「それで、ルーデウス。外部の者から聞かれた場合は、ギレーヌに助けられたと答えてほしい」
「分かりました」
レイネの秘密を守るためでもある。
嘘をつくことに抵抗はあるが、今回の情報を誰へでも正直に話す方が危険だ。
「ただし、パウロには事情を伝える」
「父様に?」
「息子が誘拐されたんだ。黙っているわけにはいかないだろう」
レイネが僅かに視線を動かした。
「私の件も、お伝えになりますか?」
「どこまで書くべきかな?」
「私が救出に加わったことは、そのままお伝えくださいませ。技能の詳細につきましては、目撃者の推測以上のことは書かないようお願いいたします」
「パウロは君の実力を知らないのかい?」
「一部はご存じです」
「一部ね」
フィリップは深く追及しなかった。
「手紙の内容は、送る前に確認してもらおう」
「ありがとうございます」
その時、応接間の扉が勢いよく開いた。
「ルーデウス!」
サウロスだった。
一度もノックをしていない。
後ろでアルフォンスが、慣れた様子で扉を押さえている。
「聞いたぞ! 昨日はエリスを守ったそうだな!」
サウロスは大股で近づき、ルーデウスの頭を大きな手で掴んだ。
そのまま激しく髪を掻き回す。
「痛い、痛いです!」
「よくやった!」
「僕だけではありません! エリスも逃げるのを手伝いましたし、レイネとギレーヌも――」
「無論、全員褒める!」
サウロスが大声で言い切る。
そしてレイネへ顔を向けた。
「レイネ!」
「はい、大旦那様」
「エリスを救ったこと、礼を言う!」
「私はルーデウス様をお迎えに上がっただけでございます。エリス様も一緒にお戻りいただくのは当然のことでございます」
「謙遜するな!」
「謙遜ではございません」
「では、何か褒美を取らせる!」
「必要ございません」
「なぜだ!」
「ルーデウス様とエリス様が無事であれば、ほかにいただく物はございませんので」
サウロスは数秒、レイネを見つめた。
「欲のない女だな!」
「必要な給金は、パウロ様へ出世払いでお願いしております」
「給金すら今は受け取っておらんのか!」
「はい」
サウロスがフィリップへ向き直る。
「フィリップ! この者へ金を払え!」
「レイネは我が家の使用人ではありません」
「ならば雇え!」
「本人が断っています」
「もう一度頼め!」
「先ほど断られました」
「頼み方が悪い!」
大声で言い切った後、サウロスは再びレイネへ顔を向ける。
腕を組み、顎を上げる。
「レイネ! 儂の家で働け!」
頼み方が改善されていない。
レイネは丁寧に一礼した。
「大変光栄なお話ではございますが、私はルーデウス様へお仕えしておりますので、お受けできません」
「ならば仕方ない!」
サウロスは一瞬で納得した。
その切り替えの速さだけは見習うべきかもしれない。
「それより、ルーデウス!」
「はい」
「エリスが貴様に頼みたいことがあるそうだ!」
「エリスが?」
「だが、自分で頼むのは嫌だと言っておる!」
「それでは、僕からは何もできません」
ルーデウスが答えると、サウロスの眉が跳ね上がった。
「何だと!」
「頼みたいことがあるのなら、本人が話すべきです」
「儂が頼んでいるではないか!」
「サウロス様が望んでいることと、エリスが望んでいることが同じか、僕には分かりません」
「同じだ!」
「本人から聞くまでは分かりません」
サウロスの拳が持ち上がる。
ルーデウスは反射的に両腕で顔を守った。
レイネの足が、僅かに前へ出る。
けれど、サウロスは拳を振り下ろさなかった。
代わりに膝を強く叩く。
「その通りだ!」
急に納得した。
「エリィィス! 今すぐ来なさぁい!」
屋敷全体を揺らすような声が響く。
ルーデウスは耳を押さえた。
「呼びに行かせればよいのでは?」
「この方が早い!」
実際、少しすると廊下から足音が聞こえてきた。
扉が勢いよく開く。
「お祖父様! あんな大声を出さなくても聞こえてるわよ!」
エリスが入ってきた。
顔色は昨日よりよい。
歩き方にも問題はない。
ただし、扉が勢いよく閉じた瞬間だけ、肩が小さく跳ねた。
本人は何事もなかったように胸を張る。
レイネはその反応を見逃さなかったが、すぐには声をかけなかった。
「エリス!」
サウロスが腕を組む。
「ルーデウスへ頼みたいことがあるのなら、自分で頼め!」
「お祖父様が頼んでくれるって言ったでしょう!」
「気が変わった!」
「何でよ!」
「ルーデウスの言うことが正しいからだ!」
エリスは顔を赤くし、ルーデウスを睨んだ。
「何を言ったのよ!」
「本人が頼むべきだと話しただけです」
「余計なことを言わないでよ!」
「頼まなくてよいなら、話は終わりです」
「終わらせるんじゃないわよ!」
エリスが拳を握った。
ルーデウスは席を立とうとする。
エリスはその動きを見て、ぎりぎりで拳を下ろした。
「……魔術」
「はい?」
「私にも、魔術を教えなさい」
命令だった。
ルーデウスは少し考える。
以前なら、言い方を直すよう求めただろう。
だが、今は本人がここへ来て、自分の口で望みを伝えた。それ自体は大きな進歩である。
「どうして、魔術を学びたいのですか?」
「昨日、あんたが魔術で縄を切ったからよ」
エリスは目を逸らさずに答えた。
「鉄格子も外した。馬車を止めようとした時も使ってた。私も使えれば、次はもっと戦えるわ」
次を想定している。
二度と怖い思いをしたくない。
誰かに助けられるだけではなく、自分でも抗いたい。
その気持ちは理解できた。
「分かりました。魔術も授業へ加えます」
「本当!?」
エリスの顔が明るくなる。
「ただし、読み書きと算術の授業も続けます」
すぐに顔をしかめた。
「魔術だけでいいわよ!」
「魔術書を読むには文字が必要です。買い物と同じように、材料や魔力の量を考えるには数字も使います」
「ルーデウスが読めばいいでしょう!」
「僕がずっと隣にいるとは限りません」
その言葉を口にした瞬間、エリスの表情が強張った。
昨日の誘拐を思い出させてしまったのかもしれない。
ルーデウスは言葉を選び直す。
「エリスが一人でも魔術を学び続けられるようにするためです」
エリスはしばらく黙っていた。
やがて、不満そうに唇を尖らせる。
「……数字も文字もやるわ」
「はい」
「その代わり、魔術も絶対に教えなさい」
「約束します」
「剣術も減らさないわよ!」
「ギレーヌと相談します」
「全部やるの!」
「時間を決めましょう」
エリスは完全には納得していないようだったが、以前のように拳を振るうことはなかった。
サウロスが満足そうに笑う。
「話は決まったな!」
「エリス」
フィリップが声をかけた。
「何よ、お父様」
「人へ頼み事をしたのだから、最後に言うことがあるだろう?」
エリスは固まった。
ルーデウスとフィリップを交互に見る。
次にサウロスへ助けを求めるような視線を向けたが、祖父は大きく頷いているだけだった。
「くっ……」
エリスの顔が赤くなる。
「お、お願い……します」
小さな声だった。
「はい。こちらこそ、よろしくお願いします」
ルーデウスが頭を下げる。
エリスはすぐに顔を背けた。
「言ったんだから、ちゃんと教えなさいよ!」
「分かっています」
「明日からよ!」
「体調は大丈夫ですか?」
「大丈夫に決まってるでしょう!」
即答だった。
だが、扉へ向かおうとした時、足を止める。
閉じた扉を、しばらく見つめた。
昨日、閉じ込められた倉庫の扉を思い出しているのだろう。
手を伸ばしかけ、引っ込める。
レイネが静かに扉へ近づいた。
「開けてもよろしいでしょうか」
「自分で開けられるわよ!」
エリスは強く答え、自分で取っ手を掴んだ。
少しだけ呼吸を整え、一気に扉を開く。
廊下には誰もいない。
エリスは振り返らず、そのまま部屋を出ていった。
レイネは後を追おうとしたが、すぐには動かなかった。
エリスが、自分で最初の一歩を踏み出すのを待ったのである。
廊下の先から声が飛んでくる。
「レイネ! 何してるのよ、早く来なさい!」
「ただいま参ります」
レイネはようやく歩き出した。
部屋を出る直前、ルーデウスへ顔を向ける。
今度は、ほんの僅かではあるが、普段どおりの笑みを浮かべていた。
◇
翌日の朝。
授業を行う部屋へ入ると、エリスはすでに席へ座っていた。
机の上には、数字を練習するための板と筆記具。
その隣には、屋敷の書庫から持ち出してきたらしい魔術書が積まれている。
「遅いわよ!」
「予定の時間より少し前です」
「私が待ってたんだから遅いの!」
以前と同じ理屈だった。
けれど、聞こえ方は少し違う。
エリスは魔術書の表紙を叩く。
「今日はこれをやるわよ!」
「先に昨日の計算問題です」
「魔術が先!」
「数字が終わったら魔術です」
「半分だけ!」
「全部です」
エリスが拳を持ち上げる。
ルーデウスは黙って扉へ視線を向けた。
数秒の睨み合い。
エリスは拳を机へ置いた。
叩きつけるのではなく、ただ置いた。
「……早く問題を出しなさい」
「はい」
ルーデウスは向かいの席へ座った。
ギレーヌも数字を学ぶため、少し遅れて部屋へ入ってくる。
レイネは筆記具と水を用意した後、壁際へ控えた。
昨日までとは違い、彼女がどれほどの力を隠しているのかを、ルーデウスは知っている。
それでも、授業が始まれば、レイネは答えを教えない。
エリスが間違えても、すぐには口を挟まない。
必要な時にだけ助言し、決めるべきことは本人たちへ任せる。
今までと何も変わらなかった。
違うのは、ルーデウスの見方だけである。
レイネには、知らない部分がある。
それは怖い。
けれど、知らない部分があるからといって、これまで一緒に過ごした時間まで嘘になるわけではない。
「ルーデウス!」
エリスの声で、思考が途切れた。
「これで合ってるでしょう!」
板には、二十から十六を引いた答えが書かれている。
数字は少し歪んでいるが、答えは正しい。
「はい。四です」
「できたわ! 魔術を教えなさい!」
「まだ問題は二つ残っています」
「聞いてないわよ!」
「今、伝えました」
「卑怯者!」
怒鳴りながらも、エリスは次の問題へ目を向けた。
ギレーヌも自分の板へ数字を書いている。
レイネは壁際で、その様子を静かに見守っていた。
やがてエリスが二問目の答えを間違え、ギレーヌが正解する。
「何でギレーヌが分かるのよ!」
「昨日、覚えた」
「私も覚えたわよ!」
「なら、もう一度考えろ」
「分かってるわよ!」
いつものような声が部屋へ響く。
レイネの眉間に残っていた皺が、ようやく消えた。
誘拐事件は、すべてが元どおりになったわけではない。
エリスは閉じた扉を恐れるようになった。
ルーデウスも、足音や甘い匂いに過敏になっている。
レイネの秘密も、一部が知られた。
それでも、時間は止まらない。
怖かったことをなかったことにはせず、その先へ進んでいく。
ルーデウスはエリスの計算板を指した。
「ここで、十枚の硬貨を一度分けて考えてみましょう」
「前にもやったわね」
「はい。できるようになった方法を、もう一度使います」
エリスは硬貨を並べ始めた。
その向こうで、レイネが静かに目を細める。
彼女が何を考えているのか、ルーデウスには分からなかった。
ただ、その赤い瞳は以前よりも長く、ルーデウスとエリスの姿へ向けられている。
二人が問題へ取り組んでいる間も、レイネが視線を外すことはなかった。
まるで、今度こそ最後まで見守ろうとしているかのように、ルーデウスには見えた。