ルーデウス視点
翌朝。
ルーデウスが訓練場へ向かうと、エリスはすでに木剣を振っていた。
まだ日の光も弱く、空気には夜の冷たさが残っている。それでもエリスの額には薄く汗が浮かび、足元の土には何度も踏み込んだ跡が刻まれていた。
昨日の十本勝負で使われた動きを確認しているのだろう。
剣を振り下ろす。
途中で止める。
足を入れ替え、身体を半分だけ回す。
ルーデウスに背後を取られた時の動きを再現し、左肩と腰の位置を何度も変えている。
ギレーヌは訓練場の端に立ち、腕を組んでその様子を見ていた。
「おはようございます」
「遅いわよ!」
エリスは素振りを止めずに答えた。
「いつもと同じ時間です」
「私はもっと前からやってるの!」
「それなら、エリスが早いのでは?」
「私が先に来たんだから、あんたが遅いのよ!」
いつもの理屈だった。
しかし、声に昨日ほどの苛立ちはない。
寝て少しは疲労が取れたのかもしれない。
ただし、完全に休めたようには見えなかった。
剣を振る速度には勢いがあるものの、動きを止めた時、右手の指を何度か開閉している。昨日の疲労がまだ残っている証拠だった。
「今日は、訓練を始める前に話があります」
ルーデウスが言うと、エリスの木剣が止まった。
「話?」
「はい。昨日、先生たちで今後の予定について話し合いました」
「私に黙って?」
目つきが鋭くなる。
「まず先生たちの間で意見をまとめる必要がありました。その上で、本人であるエリスにも相談します」
「もう決めたんじゃないでしょうね」
「完全には決めていません。エリスがどう考えるかも聞きます」
そこは明確にしておかなければならない。
教師たちだけで決めた予定を一方的に押しつければ、以前パウロがルーデウスを無理やり送り出した時と同じになる。
目的が正しくても、本人の意思を無視してよいことにはならない。
「それで、何の話よ」
エリスは木剣を肩へ担いだ。
警戒している。
ルーデウスは言葉を選んだ。
「七日に一日、剣術も勉強も魔術も、何の授業も行わない日を作ろうと思っています」
「嫌よ」
即答だった。
説明を始める前に拒否された。
「まだ理由を話していません」
「聞かなくても分かるわ。私が昨日、計算を間違えたからでしょう!」
「それだけが理由ではありません」
「私が疲れてると思ったのね!」
声が大きくなる。
図星ではある。
しかし、ここで曖昧に否定すれば、説明が嘘になる。
「はい。疲れていると思いました」
エリスの顔が赤くなった。
「疲れてないわよ!」
「昨日、十本勝負の後も一人で訓練を続けました。その後、算術の授業を行い、普段なら解ける問題を何度も間違えました」
「あれは、ちょっと調子が悪かっただけよ!」
「礼儀作法の授業でも、最近は後半になると集中が切れているそうです。朝食を残すことも増えていると聞きました」
「誰が言ったのよ!」
エリスの視線が、ルーデウスの少し後ろへ立つレイネへ向いた。
レイネは逃げずに視線を受け止めた。
「私でございます」
「レイネ!」
「エリス様のご様子について、事実をお伝えいたしました」
「余計なことを言わないで!」
「申し訳ございません」
レイネは頭を下げた。
しかし、伝えたこと自体を撤回する様子はない。
「ですが、エリス様の体調をお守りすることも、私の務めの一部と考えております」
「私は元気よ!」
「はい。現在、病気ではございません」
「なら問題ないでしょう!」
「病気になってから休まれる必要はございません」
エリスが言葉に詰まった。
レイネはエリスを弱いとは言わない。
訓練をやめろとも言わない。
病気になる前に休めばよいと、当然のことを言っているだけである。
それでも、エリスは納得できないようだった。
「ルーデウスが四本取ったから?」
低い声で尋ねる。
「私が、ルーデウスに追いつかれそうだから、休ませるの?」
そこに一番の不安があるらしい。
休みを作ることで、さらに差を詰められる。
あるいは、自分が焦っていると知られたことが恥ずかしい。
「違います」
ルーデウスははっきり答えた。
「僕も同じ日に休みます」
「何でよ」
「僕にも休みがなかったからです」
教える側である自分は、疲れていないつもりだった。
だが、朝はエリスと剣を振り、昼には授業を行い、夜には翌日の教材を考える。その合間に自分の魔術や語学の勉強も続けている。
エリスほど身体を酷使してはいないが、休みが不要というわけではない。
「ギレーヌも、エドナ先生も、その日は授業をしません」
「ギレーヌも?」
「ああ」
ギレーヌが答えた。
「七日に一度は、私から訓練を命じない」
「剣を振っちゃ駄目なの?」
「自分で振りたいなら振ってよい。ただし、勝敗はつけない」
ギレーヌがそう言うと、エリスはさらに不満そうな顔をした。
「勝たないなら、剣を振る意味がないじゃない」
「楽しいから振ることもある」
「楽しいけど、勝った方がもっと楽しいわよ!」
「それも分かる」
ギレーヌは否定しなかった。
「だが、昨日は楽しいから振っていたのではない。負けた四本を消そうとしていた」
「消してないわよ! 次は取られないようにしてただけ!」
「同じだ」
「違うわ!」
「では、昨日の素振りは楽しかったか」
エリスが口を開く。
すぐには答えなかった。
「……楽しかったわよ」
勢いが弱い。
自分でも、純粋に楽しかったわけではないと分かっているのだろう。
「休息日は、何もするなという日ではありません」
ルーデウスが続ける。
「剣を振っても構いません。本を読んでも、町へ出てもいい。昼寝をしてもいいです。ただし、僕たちから課題は出しません」
「町へ行っていいの?」
反応する場所はそこだった。
「護衛と一緒であれば」
「何を買ってもいい?」
「自分で使えるお金の範囲なら」
「持ってないわよ!」
「それについては、フィリップ様へ相談する必要があります」
エリスは少し考えた。
完全には納得していないものの、町へ出られるという部分には興味を引かれている。
「それで、休んだ次の日は?」
「普段どおりです」
「昨日休んだ分もやるんでしょう?」
「やりません」
エリスが目を見開いた。
「何でよ。休んだら遅れるじゃない」
「一日休むことを予定に入れるので、遅れではありません」
「でも、剣を振らなかったら弱くなるわ!」
「一日では弱くならない」
ギレーヌが即座に答えた。
「本当に?」
「ああ」
「じゃあ、ルーデウスも強くならない?」
「同じ条件です」
ルーデウスが答える。
「僕もその日は訓練をしません」
厳密には、自主的に軽く身体を動かす可能性はある。
だが、エリスを休ませて自分だけ集中的に剣術を練習すれば、彼女が休息日を受け入れるはずがない。
「……ずるをしない?」
「しません」
「レイネと隠れて反省会もしない?」
「しません」
レイネが静かに頷いた。
「休息日の剣術に関する反省会は行いません」
「本当に?」
「はい」
エリスは木剣を地面へ立て、両手を柄の上へ置いた。
眉間へ皺を寄せながら考えている。
休みを嫌がっているというより、休んでも置いていかれないという確信を得ようとしているようだった。
「七日に一回だけなのね」
「はい」
「次の日に二倍やらないのね」
「普段と同じです」
「私が町へ行きたいって言ったら、連れていくの?」
「予定が合えば」
「曖昧ね!」
「護衛や屋敷の都合もあります。僕一人では決められません」
エリスは不満そうに鼻を鳴らした。
「分かったわ」
ようやく答える。
「試してあげる」
「ありがとうございます」
「でも、つまらなかったらやめるわよ!」
「一度過ごしてみてから、また話し合いましょう」
永久に変更できない決まりにする必要はない。
本人に合わなければ、形を変えればよい。
「話は終わり?」
「はい」
「じゃあ、今日の訓練を始めるわよ!」
エリスは木剣を構えた。
「昨日と同じ十本勝負よ!」
「通常の訓練を先に行います」
「十本勝負が通常の訓練よ!」
「昨日からでしょう」
「昨日からずっと続いてるんだから通常よ!」
結局、その朝も十本勝負を行った。
結果はエリスの七勝、ルーデウスの三勝だった。
昨日使った誘いは、ほとんど通用しなかった。
エリスはルーデウスが懐へ踏み込むことを警戒し、木剣を大きく振り切らない。服を掴む際も、逆に自分の腕を利用されないよう、すぐに離せる位置だけを掴んだ。
昨日のうちに、負けた理由をギレーヌと確認した成果である。
「七対三!」
エリスは勝ち誇った。
「昨日より強くなったわ!」
「対応が早いですね」
「当然よ!」
ルーデウスは負けた。
しかし、悪い気分ではない。
エリスが昨日の失敗を修正したように、こちらも今日の動きを反省すればよい。
休息日を挟んでも、この競争がなくなるわけではない。
◇
六日後。
最初の休息日が訪れた。
ルーデウスは、普段とほとんど同じ時刻に目を覚ました。
身体が習慣を覚えているため、誰かに起こされなくても目が開く。
寝台の上でしばらく天井を見つめる。
剣術へ行く必要はない。
授業の準備もいらない。
エリスへ出す問題を考える必要もない。
自由である。
そう思った瞬間、何をすればよいのか分からなくなった。
前世では、自由な時間だけは腐るほどあった。
それを何かへ使うこともなく、ただ消費していた。
今世では逆に、やることを詰め込みすぎている。
極端だった。
「とりあえず、町へ行こう」
以前から、ロアの物価を詳しく調べたいと思っていた。
魔法大学へ通う資金を用意するには、学費だけではなく、旅費や生活費、教材費も考えなければならない。
フィリップとの契約では、エリスへ五年間勉強を教えれば、ルーデウスとシルフィの学費を出してもらえることになっている。
だが、何から何まで無制限に負担してもらえるとは考えない方がよい。
町で物を見て回り、必要な金額を把握しておく。
授業ではない。
自分のための調査だ。
外出用の服へ着替え、筆記具と板を鞄へ入れる。
部屋を出ると、レイネが廊下で待っていた。
外出着へ着替え、白い髪を後ろでまとめている。
「おはようございます、ルーデウス様」
「おはようございます。どうして、出かけると分かったのですか?」
「昨晩、筆記具と外出用の鞄をご準備なさっておりましたので」
見られていたらしい。
「町へ行く予定です。商業区の値段を調べようと思いまして」
「本日は休息日でございますが」
「授業ではありません。僕が自分で知りたいことを調べるだけです」
レイネは僅かにルーデウスを見つめた。
休息日にまで勉強を始めるのではないかと疑っているのだろう。
「無理をしているわけではありません」
「承知いたしました」
完全には納得していない顔だったが、止めはしなかった。
誘拐事件以来、レイネはルーデウスが屋敷の外へ出る時には必ず同行している。
姿が見えない場所から見守るという提案もされたが、ルーデウスがそれを断った。
どこにいるか分からない方が、かえって落ち着かない。
護衛としてついてくるのなら、普通にそばにいてほしいと頼んだのだ。
「どこに行くのよ!」
玄関へ向かう途中、背後から大きな声が聞こえた。
振り向く。
エリスが階段の上に立っている。
普段の訓練着ではなく、寝間着の上へ羽織をかけただけだった。赤い髪も整えられておらず、ところどころ跳ねている。
「町です」
「今日は何もしない日でしょう!」
「授業をしない日です。出かけてはいけない日ではありません」
「私には何も言わなかったじゃない!」
「昨晩の時点では、はっきり決めていませんでした」
「ずるいわ!」
エリスは階段を駆け下りてきた。
「私も行く!」
「構いませんが、朝食と着替えを済ませてください」
「すぐに終わらせるわ! 勝手に行ったら許さないから!」
そう言い残し、今度は階段を駆け上がっていく。
朝から元気だった。
「休息日を楽しんでおられるようですね」
レイネが言う。
「まだ何も始まっていません」
「予定をご自身で決めることも、楽しみの一つかと存じます」
確かに、誰かから言われたのではなく、自分から町へ行くと決めた。
それだけでも以前とは違う。
◇
朝食を終えたエリスは、外出用の衣服へ着替えて戻ってきた。
深い赤を基調とした上着に、動きやすい膝丈のスカート。足元には丈夫な革靴を履いている。
髪も綺麗に整えられ、先ほどまでの寝起きの姿は残っていない。
「待たせたわね!」
「予定より早いくらいです」
「もっと褒めるところがあるでしょう!」
エリスは両腕を広げた。
何を求めているのかは明らかだった。
以前、服装を褒めた時には、照れ隠しなのか殴られたことがある。
かといって黙れば、今のように要求される。
難しい。
「よく似合っています」
「そうでしょう!」
今日は殴られなかった。
正解だったらしい。
「ギレーヌも来るわよ!」
エリスの後ろから、ギレーヌが姿を現した。
普段と同じ軽装で、腰には剣を下げている。
「護衛だ」
「今日は休みでは?」
「護衛は仕事だ」
「ギレーヌの休息日は別に設けた方がよいのでは?」
ルーデウスが尋ねると、ギレーヌは少し考えた。
「私は剣を持って歩くことでは疲れない」
「それは休みがいらない理由にはなりません」
「エリスと外へ出る方が、屋敷にいるより楽しい」
本人がそう思っているなら、今日に限ってはよいのかもしれない。
いずれギレーヌ自身の勤務についても、フィリップへ相談する必要はあるだろう。
「それで、どこへ行くの?」
エリスが尋ねる。
「商業区です。旅に必要な物や本の値段を調べます」
「休みなのに勉強するの?」
「エリスに教えるためではありません」
「私も値段を見るの?」
「見たければ」
「計算問題を出さない?」
「出しません」
「間違えても怒らない?」
「危険な買い物をしない限りは」
エリスは疑うようにルーデウスを見た。
本当に授業へ変えないか確認しているらしい。
「なら行くわ!」
こうして、ルーデウス、エリス、ギレーヌ、レイネの四人で町へ出ることになった。
◇
ロアの貴族街を抜け、商業区へ向かう。
道には朝から多くの馬車が行き交っていた。
領内の農村から作物を運んできた荷馬車。
職人街へ材料を届ける車。
貴族の紋章を掲げた箱馬車。
誘拐事件から半年が経ち、普通の馬車を見ただけで身体が動かなくなることはなくなった。
それでも、紋章を布で隠した馬車や、御者が深く顔を隠している車を見ると、無意識に肩へ力が入る。
道の先から、一台の箱馬車が近づいてきた。
紋章は隠されていない。
御者も顔を出している。
何の変哲もない馬車である。
分かっている。
しかし、車輪の音が近づくほど、あの日の甘い匂いと、狭い車内の感覚が蘇ってきた。
ルーデウスの足が、僅かに遅くなる。
「ルーデウス様」
半歩後ろから、レイネが声をかけた。
「道を変えますか?」
大丈夫かとは聞かない。
立ち止まるなとも言わない。
選択だけを渡してくる。
ルーデウスは近づく馬車を見た。
道を変えてもよい。
それで何かに負けるわけではない。
けれど、目的の商業区はこの先にある。
「このまま進みます」
「承知いたしました」
レイネは前へ出なかった。
ルーデウスの手を引くこともしない。
すぐ後ろから、普段と同じ距離でついてくる。
隣を見る。
エリスも馬車を見つめていた。
口元が固くなり、右手が無意識に左腕を掴んでいる。
「エリス」
「何よ」
「道を変えますか?」
「変えないわよ!」
返答は強い。
けれど、足は動いていなかった。
ルーデウスは先に一歩踏み出した。
「では、行きましょう」
エリスも少し遅れて歩き出す。
二人で馬車の横を通り過ぎる。
御者は軽く会釈をしただけだった。
馬車はそのまま貴族街の方角へ進んでいく。
何も起きない。
当然である。
それでも、通り過ぎた後には、胸の奥が少し軽くなった。
「別に、怖くなかったわ」
エリスが前を向いたまま言った。
「僕は少し怖かったです」
「弱虫ね!」
「エリスも止まっていました」
「道を確認してただけよ!」
「真っ直ぐな道でしたが」
エリスが睨んでくる。
それ以上追及すると殴られそうだった。
もっとも、今なら拳を上げた後で止めるかもしれない。
「でも……」
エリスが小さな声で続けた。
「一人だったら、別の道にしたかもしれないわ」
「僕もです」
それは弱さではない。
一人ではできないことを、二人ならできた。
ただ、それだけのことだった。
エリスは何も言わず、ルーデウスとの距離を少し詰めた。
◇
商業区へ入ると、ルーデウスは店頭の商品と値段を書き留め始めた。
保存食。
衣服。
革靴。
毛布。
水筒。
薬草。
鍋や火打ち石。
旅に必要になりそうな物を中心に確認する。
店によって同じ品物でも値段が異なる。
品質の差もある。
安ければよいわけではなく、長い旅で使用するなら耐久性も必要になる。
「何をしているの?」
エリスが板を覗き込んだ。
「値段を記録しています」
「買わないのに?」
「今は買いません。必要になった時、どの程度のお金を用意すればよいか分かるようにしているのです」
「欲しくなったら、お祖父様へ言えばいいじゃない」
「僕のお祖父様ではありません」
「なら、お父様に言えばいいわ」
「すべて人に出してもらっていては、自分でお金を使えるようになりません」
エリスは不思議そうな顔をした。
欲しい物があれば、サウロスかフィリップへ頼む。
これまで、それで困ったことがないのだろう。
「エリスは、今いくら持っていますか?」
「持ってないわ」
「では、今ほしい物を見つけたら?」
「買ってもらうわよ」
「誰に?」
「お祖父様かお父様」
「誰かへ贈り物をしたい時も?」
「買ってもらえばいいでしょう」
「そのお金を出したのは、サウロス様かフィリップ様です。贈り物をしたのは誰になるのでしょう」
エリスの足が止まった。
眉間へ皺を寄せて考える。
「私が選んだなら、私でしょう?」
「選んだのはエリスです。ですが、お金を用意したのは別の人です」
「じゃあ、どうすればいいのよ」
「自分のお金を持つことです」
「どうやって?」
「働いて報酬をもらうか、一定のお小遣いを受け取り、その範囲で管理します」
「私も働けばいいの?」
「何ができますか?」
「剣術!」
迷いのない返答だった。
「誰がエリスを雇うのですか?」
「ギレーヌ!」
ギレーヌは首を横へ振った。
「私は金を払わない」
「何でよ!」
「私も雇われている」
「じゃあ、お父様に雇ってもらうわ!」
それは悪くない考えだった。
貴族の娘としてできる簡単な仕事を与えてもらい、その対価として少額を受け取る。
ただ金を渡されるより、自分の仕事と報酬が結びつく。
「帰ったら、フィリップ様へ相談してみましょう」
「ルーデウスが、何をすればいいか決めなさいよ」
「雇うのは僕ではありません」
「家庭教師でしょう!」
「家庭教師は仕事を与えて給料を払う役目ではありません」
エリスは不満そうに唇を尖らせた。
だが、すぐに答えを押しつけようとはしなかった。
自分で考え、必要な相手へ相談するという流れにも、少しずつ慣れてきている。
◇
しばらく歩くと、本屋を見つけた。
外から見る限り、棚に並ぶ本の数は多くない。
一冊ずつが高価なため、一般の商店ほど大量に仕入れることができないのだろう。
店へ入る。
紙と革の匂いがした。
物語。
魔物の図鑑。
薬草の本。
歴史書。
魔術の理論書。
召喚魔術に関する古い書籍。
どれも興味深い。
値札を見る。
興味が薄れる。
「高い……」
植物辞典一冊でも、ルーデウスの給金なら何か月分にもなる。
フィリップへ頼めば、教材として購入してくれるかもしれない。
だが、自分の興味だけで読む本まで買わせるのは違う。
「何を見てるのよ」
エリスが隣へ来る。
「面白そうな本がないかと思いまして」
「欲しいなら買えばいいでしょう」
「お金が足りません」
「私が買ってあげるわ!」
「エリスもお金を持っていません」
「お祖父様に出してもらうのよ!」
先ほどの話が、すでにどこかへ行っている。
「それでは、サウロス様から僕への贈り物になります」
エリスは口を開きかけ、止まった。
先ほどの会話を思い出したらしい。
「……じゃあ、私が働いたら買ってあげるわ」
「エリスが自分で欲しい物を買った方がよいのでは?」
「私がルーデウスへ買いたいのよ!」
大きな声が店内へ響いた。
店主と、奥にいた客がこちらを見る。
エリスは周囲の視線に気づき、少しだけ声を落とした。
「助けてもらったお礼も、まだちゃんとしてないもの」
誘拐された時のことだろう。
「家庭教師として認めてもらいました。それで十分です」
「それはお礼じゃないわ。あんたが役に立つから、先生にしただけよ」
エリスらしい言い方だった。
「では、エリスが自分で稼げるようになった時に、改めて考えてください」
「約束よ!」
「高い物でなくても構いません」
「私が決めるの!」
これ以上は言っても聞かない。
だが、いつか自分で得た金から何かを贈りたいと思ってくれている。
その気持ちは素直に嬉しかった。
「楽しみにしています」
エリスは満足そうに頷いた。
少し離れた棚では、レイネが一冊の古い書物を見ていた。
表紙には、複数の龍と人間らしき影が描かれている。
「レイネも本が欲しいのですか?」
ルーデウスが近づくと、レイネは静かに本を棚へ戻した。
「いいえ。題名を確認していただけでございます」
「読んだことがあるのですか?」
「似た内容の書物を、以前拝見したことがございます」
「どこで?」
「昔お仕えしていた場所でございます」
それ以上は語らなかった。
誘拐事件の後、ルーデウスはレイネの過去を無理に尋ねないと決めている。
話せる時が来れば、話す。
その時を待てばよい。
「面白かったですか?」
質問を変える。
レイネは少し考えた。
「記録としては、興味深い内容でございました」
「物語としては?」
「誇張が多すぎました」
どの部分が誇張なのか分かるほど、元の出来事を知っているのだろうか。
気になったが、やはり尋ねなかった。
◇
本屋を出た後、広場へ向かった。
肉を焼く匂いに気づき、エリスが足を止める。
「お腹が空いたわ!」
「昼食には少し早いです」
「休みの日は好きなことをしていいんでしょう!」
「食事の時間まで無制限になるわけではありません」
そう答えたものの、朝から歩いているため、ルーデウスも少し空腹だった。
屋敷から渡された外出用の金の中から、買い食いへ使える額を確認する。
以前の買い物授業と同じく、エリス本人に支払わせることにした。
ただし今日は問題を出さない。
「四本買うわ」
エリスは硬貨を一枚ずつ数え、店主へ渡した。
途中で一枚多く渡しかける。
ルーデウスは何も言わなかった。
今日は授業ではない。
危険な額でもない。
エリスは店主の手へ硬貨を置く寸前で、数が多いことへ自分で気づいた。
「あっ」
一枚を戻す。
店主は笑って串焼きを四本渡した。
一本をギレーヌへ。
一本をルーデウスへ。
一本をレイネへ。
残る一本を自分で持つ。
「レイネ、これ」
「私にも、でございますか」
「四本あるんだから当然でしょう!」
「ありがとうございます」
レイネは両手で受け取った。
「前の焼き菓子より、潰れてないわよ」
「はい。大変美しい形でございます」
「食べなさい」
「ただいま」
レイネが一口食べる。
エリスは感想を待つように、その顔を見つめている。
「とてもおいしゅうございます」
「そうでしょう!」
自分で焼いたわけではない。
それでも、自分で選び、自分で硬貨を数えて買った物だ。
以前の焼き菓子より、贈ったという実感が強いのだろう。
ルーデウスも串焼きへ口をつけた。
肉は少し硬い。
香辛料も薄い。
けれど、不思議とおいしく感じられた。
「おいしいです」
「当然よ。私が選んだんだから!」
「残った硬貨は――」
言いかけて、止める。
今日は授業ではない。
「何よ」
「いいえ。何でもありません」
エリスは残った硬貨を袋へ戻した。
数え直してはいない。
次の授業で、必要なら確認すればよい。
今は串焼きを食べればよい。
◇
帰り道。
ルーデウスは何気なく空を見上げた。
青空に、雲が流れている。
その雲の間へ、不自然な黒い影が浮かんでいた。
最初は巨大な鳥かと思った。
違う。
建物である。
塔。
城壁。
いくつもの尖塔を持つ巨大な城が、空に浮かんでいた。
「え……」
思わず足が止まる。
周囲の人々は誰も驚いていない。
見慣れたものなのだろうか。
城は雲を押し分けるように、音もなく進んでいる。
「ギレーヌ。あれは何ですか?」
ルーデウスが空を指す。
ギレーヌも顔を上げた。
「あれは甲龍王ペルギウスの空中城塞だ」
「城が空を飛ぶのですか?」
「飛んでいる」
見れば分かる。
「ペルギウスを知らないの?」
エリスが驚いたように振り返った。
「名前は聞いたことがあるような気がします」
「仕方ないわね。私が教えてあげる!」
エリスは串を持っていない方の手を腰へ当て、胸を張った。
「甲龍王ペルギウスは、魔神ラプラスを倒した三英雄の一人なのよ!」
「三英雄」
「十二人の使い魔を率いて、あの城で世界中を移動するの! とても強くて、偉くて、王様よりもすごい人なのよ!」
最後の部分はかなり曖昧だった。
「王よりも上なのですか?」
「だって、空に城を持ってるのよ! 地面にいる王様より上でしょう!」
物理的な意味らしい。
「よく知っていますね」
「当然よ!」
エリスは満足そうに笑った。
授業で歴史を教わる時には、興味がない内容をすぐ忘れる。
しかし、自分が好きな英雄の話はよく覚えている。
教え方を工夫すれば、歴史の授業にも使えるかもしれない。
そう考えかける。
今日は休息日だった。
今は教材にする方法を考えなくてよい。
ただ、空に城が浮いている光景を楽しめばよい。
ルーデウスは改めて空中城塞を見上げた。
あれほど巨大な物を、どのような魔術で浮かせているのか。
十二人の使い魔とは何者なのか。
いつか中へ入る機会もあるのだろうか。
「レイネは、ペルギウスを知っていますか?」
何気なく尋ねる。
レイネも空を見上げていた。
表情は普段と変わらない。
ただ、城が雲へ隠れ始めても、赤い瞳はその姿を追い続けている。
「書物で拝見した程度でございます」
「実際に会ったことは?」
「ございません」
今回は即答だった。
嘘をついているようには見えない。
しかし、何かを知っているようにも感じる。
「帰ったら、本を探してみます」
「よろしいかと存じます」
「私に聞きなさいよ!」
エリスがルーデウスの袖を引いた。
「私が先に教えたんだから、分からないことは私に聞くの!」
「では、空中城塞は何の魔術で飛んでいるのですか?」
「それは……」
エリスが固まる。
「ペルギウスのすごい魔術よ!」
「使い魔の名前は?」
「十二人いるのよ!」
「名前です」
「細かいことを気にしすぎなのよ!」
知らないらしい。
「帰ってから一緒に調べますか?」
「私が教えるのに、何で一緒に調べるのよ!」
「エリスも知らないことがあったからです」
「知らないんじゃないわ! 今、ちょっと思い出せないだけよ!」
「では、思い出すために調べましょう」
エリスは悔しそうだったが、最後には頷いた。
「仕方ないわね。ルーデウス一人じゃ分からないでしょうから、一緒に調べてあげるわ」
結局、休息日にも本を開くことになりそうだった。
ただし、課題だからではない。
空に浮かぶ城を見て、自分たちで知りたいと思ったから調べる。
同じ本を読むにしても、意味は違う。
◇
屋敷へ戻る頃には、エリスの表情は朝より明るくなっていた。
町で見た商品。
自分で買った串焼き。
空に浮かぶ城。
歩きながら、それらの話を途切れることなく続けている。
「次の休みは、もっと遠くへ行くわよ!」
「護衛とフィリップ様の許可が必要です」
「お父様には私から言うわ!」
「行き先を決めてからにしてください」
「森!」
「広すぎます」
「じゃあ、山!」
「さらに広くなりました」
「ルーデウスが決めなさいよ!」
休息日の予定まで教師へ投げようとしている。
「エリスが行きたい場所を、いくつか考えてください。その中から、安全に行ける場所を一緒に選びましょう」
「面倒ね!」
そう言いながらも、エリスは次の候補を考え始めた。
少し前を、エリスとギレーヌが歩いている。
エリスは空中城塞について、知っている限りの話を大声で続けていた。
ルーデウスはその後ろを歩く。
レイネは、いつものように半歩後ろへ控えている。
誘拐事件の直後は、通り過ぎる者すべてを警戒し、曲がり角へ差しかかるたびに、先の気配を確認していた。
今も警戒を怠ってはいない。
けれど、周囲ばかりを見ているわけでもなかった。
時折、エリスの話を聞き、ルーデウスが無理をしていないか確認する。
二人が自分の足で歩いている限り、前へ出ようとはしない。
守ることと、すべてを先回りして取り除くことは違う。
レイネは、それを理解している。
だからこそ、半歩後ろにいるのだろう。
「レイネ」
ルーデウスは前を向いたまま呼んだ。
「はい」
「今日、休めましたか?」
少し間が空いた。
「私でございますか?」
「僕たちだけ休んで、レイネは一日中護衛をしていました」
「私にとって、ルーデウス様のおそばにいることは負担ではございません」
「負担ではなくても、仕事ではあります」
レイネはすぐには答えなかった。
「次の休息日は、レイネがしたいことも一つ入れましょう」
「私の希望は必要ございません」
「必要かどうかではなく、聞いています」
以前なら、そこで引き下がっていたかもしれない。
レイネは自分の希望をほとんど口にしない。
ルーデウスの世話ができればよいと答える。
だが、それではレイネ自身に休息日はない。
「何かありませんか?」
「……皆様と、穏やかに一日を過ごせれば、それで十分でございます」
「それは、今日もできましたね」
「はい」
返事は短い。
けれど、その声には、半年前まで残っていた硬さがなかった。
「なら、次も穏やかに過ごしましょう」
「承知いたしました」
七日に一度。
その日だけは、何かができるようになることを求めない。
剣で勝たなくてよい。
計算を間違えてもよい。
知らないことを、知らないまま楽しんでもよい。
立ち止まりたければ、立ち止まる。
歩きたくなれば、また進む。
休むということは、何もしないことではない。
次の日も、自分の意思で続けるための時間なのだ。
ルーデウスは前を歩くエリスの背中を見た。
今日一日で、剣術が強くなったわけではない。
計算が速くなったわけでもない。
それでも、朝よりずっと軽い足取りで歩いている。
最初の休息日は、それだけで十分な成果だった。