ルーデウス視点
最初の休息日を設けてから、さらに半年が過ぎた。
ルーデウスがボレアス家へ家庭教師として雇われてから、もうすぐ一年になる。
最初の休息日には、エリス、ギレーヌ、レイネとともにロアの町を歩いた。
商業区で品物の値段を見て回り、エリスが自分で串焼きを買い、帰り道には雲の間を進む空中城塞を見上げた。
屋敷へ戻る途中、エリスは早くも次の休息日に出かける場所を考え始めていた。
それ以降も、休息日は七日ごとに続けられている。
町へ出る日。
ギレーヌと森を歩く日。
屋敷の中庭で軽く剣を振り、疲れる前に切り上げる日。
空中城塞を見た日に興味を持った甲龍王ペルギウスについて、ルーデウスと一緒に本で調べたこともある。
ただし、休息日に本を開いたからといって、後から問題を出すことはない。
知らない言葉があっても、必ずその日のうちに覚えさせようとはしない。
興味を持った内容を調べ、別のことをしたくなれば本を閉じる。
それだけだった。
以前のエリスであれば、授業でもないのに本を読む意味が分からないと怒っていただろう。
今では、自分が知りたい内容であれば、自分から本を開くことも珍しくなくなった。
読み書きは、かなり上達している。
簡単な物語や手紙であれば、一人でも最後まで読めるようになった。知らない単語が出た時にも、すぐ本を投げ出すのではなく、近くにいる者へ意味を尋ねる。
一度説明されても分からなければ怒ることはある。
それでも、本を破ることはなくなった。
算術は、読み書きほど順調ではない。
足し算と引き算は、日常生活で困らない程度には身についている。掛け算へ入ると途端に嫌そうな顔をするが、実際の買い物や剣術の勝敗へ置き換えれば、理解は早かった。
十本勝負でエリスが六本、ルーデウスが四本を取った。
合わせて何本か。
その種の問題だけは、一度も間違えない。
「私が六本勝った」という部分を、決して忘れないからである。
魔術についても、以前に確認した適性に合わせて訓練を続けていた。
エリスは、初級魔術であれば四属性すべてを発動できる。
ただし、魔力を必要以上に勢いよく流し込む癖が残っており、特に土魔術では形を細かく整えることを苦手としている。
小さな石を作らせれば、妙に尖った形になる。
地面を僅かに盛り上げるはずが、勢い余って土を周囲へ飛ばすこともあった。
それでも、一度失敗しただけで杖を投げることはなくなった。
「もう一回よ!」
そう叫び、成功するまで続けようとする。
むしろ、止めなければ魔力が尽きるまで繰り返しかねないため、ルーデウスが回数を管理しなければならなかった。
ギレーヌは、既に判明している火魔術への適性を中心に、実用的な訓練を行っている。
焚き火へ火をつける。
弱くなった火を戻す。
離れた標的へ、小さな火球を当てる。
旅先での使用を想定した内容である。
水、風、土の訓練も完全にやめたわけではないが、不得意な属性を無理に伸ばすより、得意な火魔術を確実に使えるようにする方針となっていた。
無詠唱魔術についても、以前の授業ですでに試している。
エリスもギレーヌも成功しなかった。
現在は詠唱魔術の安定を優先し、無詠唱については、時折感覚を確認する程度に留めている。
使えないからといって、学んだ魔術の価値がなくなるわけではない。
水を作る。
火を起こす。
風で煙を散らす。
土で簡単な障害物を作る。
剣士がそうした手段を持っているだけでも、旅や戦闘での生存率は大きく変わる。
そして、剣術。
この一年で、エリスは著しく成長していた。
もともと剣神流への適性が高く、身体能力もルーデウスを上回っている。
その上、ギレーヌの指導を受け、毎日のように剣を振り続けている。
少し前の朝。
普段どおり訓練を終えた後、ギレーヌはエリスを自分の前へ立たせた。
「今日から、剣神流中級を名乗っていい」
「……本当に?」
エリスは、木剣を持ったまま目を瞬かせた。
「ああ」
「私、中級なの?」
「そう言った」
「普通の騎士にも勝てる?」
「相手による。中級だから、必ず勝てるわけではない」
「でも、中級なのね!」
「ああ」
次の瞬間、エリスは木剣を頭上へ掲げ、訓練場を駆け出した。
「私、中級よ! 剣神流中級になったわ!」
ギレーヌへ何度も確認した後、屋敷へ駆け込み、サウロス、フィリップ、ヒルダ、使用人たちへ片端から報告して回った。
しばらくすると、屋敷の奥からサウロスの大声が響いた。
「さすが儂の孫だぁぁぁ!」
窓が僅かに震えた。
エリスはその日一日、顔を合わせる相手すべてへ、自分が中級になったことを説明して回った。
そして最後には、ルーデウスの前へ戻ってきた。
「私も中級になったわ!」
「おめでとうございます」
「これで、位階はルーデウスと同じね!」
「そうですね」
ルーデウスは、ブエナ村を離れる前に、すでにパウロから剣神流中級を名乗ることを許されていた。
最初は、パウロの初撃を見ることすらできなかった。
剣先ばかりを見て足を払われ、距離を取れば追いつかれ、正面から受ければ力で押し切られた。
それでも、レイネから助言を受けながら、剣先以外も見るようになった。
肩。
腰。
足。
重心。
相手が次に何をしようとしているのか。
一度成功した避け方へ固執せず、その場で相手を見て判断を変えること。
そうした積み重ねにより、ブエナ村を離れる頃には、パウロから中級を認められるまでになっていた。
ロアへ来てから、中級へ上がったわけではない。
ギレーヌとエリスとの訓練によって、すでに持っていた中級の技量をさらに磨いているのだ。
「でも、剣で勝つのは私よ!」
エリスが、ルーデウスへ木剣の先を向けた。
「純粋な剣術なら、エリスの方が勝ち越していますからね」
十本勝負をすれば、エリスが六本か七本を取ることが多い。
ルーデウスの調子がよい日には、五本ずつになることもある。
反対に、エリスがルーデウスの誘いへ上手く対応した日は、七対三まで差が広がる。
完全な互角ではない。
それでも、ロアへ来た直後と比べれば、実力差は明らかに縮まっていた。
ルーデウスには、パウロとの訓練で身につけた基礎がある。
そこへ、ギレーヌから教わった姿勢や足運び、力を外へ逃がす受け方が加わった。
さらに、エリスという予測しづらい相手と繰り返し戦い、訓練後にはレイネと動きを振り返っている。
何を見落としたのか。
なぜ、その場面で先に動いたのか。
相手の本当の狙いは、どこにあったのか。
レイネは、答えを直接教えない。
質問を重ね、ルーデウス自身に動きを思い出させる。
その結果、ルーデウスは一度受けた攻撃へ、その日のうちに対応を変えられるようになっていた。
一方、エリスも同じ場所へ留まってはいない。
ルーデウスが前へ踏み込むようになれば、大きく剣を振り切らなくなる。
誘いを使えば、同じ動きへ二度は乗らない。
魔術を含めた模擬戦では、ルーデウスの視線や指先を警戒する。
互いに勝ち方を覚えれば、相手もその勝ち方を潰してくる。
その繰り返しによって、二人とも成長していた。
「同じ中級になったんだから、もう先輩みたいな顔をするんじゃないわよ!」
「僕の方が先に中級を認められていますが」
「年上なのは私よ!」
「位階に年齢は関係ないのでは?」
「あるのよ!」
「ギレーヌ。あるのですか?」
「ない」
即答だった。
エリスの頬が膨らむ。
「なら、今日の十本勝負で勝った方が先輩よ!」
「位階は勝負のたびに変わるものではありません」
「細かいことを気にしない!」
結局、その日の十本勝負は、エリスが六本、ルーデウスが四本を取った。
エリスは勝ち誇り、その後三日ほど、自分を「中級の先輩」と呼ぶようルーデウスへ要求した。
ギレーヌから、そのような制度はないと何度説明されても聞かなかった。
教育は、おおむね順調だった。
少なくとも、ルーデウスはそう思っていた。
新たな問題が判明したのは、月に一度行っている教師たちの話し合いでのことだった。
◇
会議には、ルーデウス、ギレーヌ、エドナ、レイネが参加していた。
この日は予定が空いていたため、フィリップも席へ着いている。
机の上には、それぞれが記録した報告が並べられていた。
剣術の進み。
読み書きと算術。
魔術。
礼儀作法。
食事と睡眠。
休息日の過ごし方。
以前のように、それぞれの教師が自分の授業だけを見て、エリスへ負担を積み重ねないよう、生活全体を確認するためのものである。
「剣術は問題ない」
ギレーヌが簡潔に報告した。
「エリスは中級になった。ルーデウスも、以前より動きが安定している」
「僕の位階そのものは、ブエナ村にいた頃から変わっていませんが」
「同じ中級でも、差はある」
ギレーヌが答えた。
「パウロから認められた頃より、対応できる動きが増えた。エリスの速さにも慣れてきている」
位階は同じでも、その中身まで同じではない。
中級へ上がった時点と現在では、戦える相手も、使える技術も変わっている。
「魔術も、今の方針で問題ありません」
ルーデウスが続けた。
「以前に確認した適性へ合わせ、エリスには四属性の基礎を、ギレーヌには火魔術を中心に教えています。二人とも、詠唱魔術の安定性は上がっています」
「読み書きも順調でございます」
エドナが報告書へ視線を落とした。
「簡単な文書であれば、一人で読むことができます。算術は予定より僅かに遅れておりますが、日常生活に必要となる範囲は身についております」
「食事と睡眠も、休息日を導入してから安定しております」
レイネも続けた。
「以前のように朝食を残されたり、授業中に眠そうになさったりすることは、ほとんどございません」
すべて順調に聞こえる。
しかし、エドナは報告書を閉じなかった。
柔らかな笑みを保ったまま、小さく息を吸う。
「一つ、早急に対応しなければならない問題がございます」
「問題ですか?」
ルーデウスが尋ねる。
「もうすぐ、エリス様は十歳のお誕生日を迎えられます」
それは知っている。
アスラ王国の貴族にとって、五歳、十歳、十五歳の誕生日は、特別な節目である。
屋敷では、すでに宴の準備が始まっていた。
料理人は食材の手配を進め、使用人たちは大広間と中庭を整えている。
「父上は最初、酒と肉を大量に並べればよいと主張していたのだけれどね」
フィリップが苦笑した。
「近隣の貴族も招待する以上、それだけでは済まない。正式な舞踏会を開くことになった」
「舞踏会、ですか」
「エリスが主役の舞踏会だ」
嫌な予感がした。
エドナが一枚の紙を、ルーデウスの前へ差し出す。
礼儀作法の項目が並んでいる。
挨拶。
食事。
来客との会話。
立ち方。
歩き方。
そして、舞踏。
ほかの項目には印がついている。
舞踏だけが空欄だった。
「まさか」
「エリス様は、踊ることができません」
エドナは穏やかな口調で言い切った。
「一番簡単なステップであっても、御相手と速度を合わせて踏むことができないのでございます」
「足の置き方を覚えられないのですか?」
「足を置く場所も、順番も理解なさっています」
「では、何が問題なのでしょう」
「すべてが速すぎるのでございます」
容易に想像できた。
「音楽へ合わせるより先に、御自身の判断で次の動きへ入ってしまわれます。御相手が遅れれば、腕を引いて追いつかせようとなさいます」
剣神流では長所となる勢いと速度が、舞踏では完全に裏目へ出ているらしい。
「五歳の誕生日では、踊らなかったのですか?」
「貴族の子供が、本格的に舞踏会へ参加するのは十歳頃からだ」
フィリップが答えた。
「誕生日の主役が、一曲も踊れないわけにはいかない。今後、エリスが社交の場へ出る際にも必要になる」
その時、会議室の扉が勢いよく開いた。
「剣ならできるわ!」
全員が振り向く。
エリスが立っていた。
廊下で話を聞いていたらしい。
「踊れなくても、剣なら誰にも負けないわ!」
「エリス」
フィリップが静かに娘の名を呼んだ。
「部屋へ入る時には、ノックをしなさい」
「今はそんな話じゃないでしょう!」
「舞踏会で、同じように扉を開けるつもりかい?」
エリスは口を閉じた。
不満そうに一度外へ出る。
扉を閉め、三度叩いた。
「入っていいわね!」
返事を待たず、再び入ってきた。
完全ではないが、やり直しただけ以前よりよい。
「ダンスなんて必要ないわ。剣が強ければいいでしょう」
「貴族として生きるのであれば、必要だ」
フィリップは譲らなかった。
「戦いだけで物事が決まるわけではない。相手へ敵意がないことを示し、同じ場へ参加する意思を見せる。そのための作法もある」
「普通に話せばいいじゃない」
「言葉だけでは足りない場があるんだよ」
エリスは不満そうに眉を寄せた。
「踊れないからって、私が弱いわけじゃないわ」
「誰も弱いとは言っていません」
ルーデウスが言う。
「なら、どうして私ばかり無理にやらされるのよ!」
「十歳の誕生日を迎える主役だからです」
「ルーデウスは踊れるの?」
矛先がこちらへ向く。
「いいえ」
正直に答えた。
エリスの顔が明るくなる。
「なら、ルーデウスもやりなさい!」
なぜそうなるのか。
「それはよい考えでございます」
エドナが即座に賛成した。
「ルーデウス様にも、舞踏の授業へ参加していただきましょう」
「僕は誕生日の主役ではありませんが」
「舞踏会へ出席なさるのでしょう?」
フィリップを見る。
「もちろんだ」
逃げ道はなかった。
「最初の一曲では、エリスの相手を務めてもらおう」
「今、初めて聞きました」
「今、決めたからね」
エリスは満足そうに胸を張った。
「ルーデウスもできないなら、同じね!」
「現時点では」
「何よ、その言い方!」
「練習すれば、できるようになるかもしれません」
「私だってできるわよ!」
「では、一緒に練習しましょう」
こうして、誕生日までの間、舞踏の授業が追加されることになった。
ただし、休息日は潰さない。
以前決めた方針どおり、別の授業時間を一部調整し、礼儀作法の中で舞踏へ割り当てる。
剣術も魔術も完全には止めない。
一日中舞踏だけを繰り返せば、エリスが苛立ち、かえって動きを崩すことは分かっていた。
問題は、練習時間ではない。
教え方だった。
◇
舞踏の練習が始まった。
エドナが見本を示す。
背筋を伸ばす。
相手の手を取る。
曲に合わせて一歩進む。
足を揃える。
横へ移動する。
再び足を揃える。
一つ一つの動きは複雑ではない。
エリスも、順番は覚えている。
しかし、実際に曲が始まると、まったく別のものになった。
「せいっ!」
床を強く踏み込む。
「エリス様、もう少し柔らかくお願いいたします」
「柔らかくしてるわよ!」
次の一歩も速い。
音楽が二つ目の拍子へ入る前に、エリスは三つ目の動きを始めている。
「曲に合わせてくださいませ」
「合わせてるでしょう!」
「先へ進んでおられます」
「曲が遅いのよ!」
ついには楽団へ文句を言い始めた。
エリスは、足を置く場所を間違えているわけではない。
動く順番も覚えている。
ただ、待てないのだ。
自分が次に何をするか分かっているため、音楽や相手を待たず、先へ進んでしまう。
数人の使用人が相手を務めたが、足を踏まれたり、腕を引かれて体勢を崩したりした。
「次は僕が相手をします」
ルーデウスが前へ出た。
舞踏の練習を始めて数日。
ルーデウスは、基本のステップであれば、ある程度踏めるようになっていた。
ブエナ村でパウロから教わった足運び。
ギレーヌから繰り返し直された重心。
エリスとの剣術で身につけた、相手の動きへ合わせて位置を変える感覚。
それらが舞踏にも応用できた。
「どうしてルーデウスはできるのよ!」
エリスが不機嫌そうに言う。
「剣術で習った足の運び方が役に立っています」
「私も剣術をやってるわよ!」
「エリスは、自分の足だけを動かしています」
「当たり前でしょう!」
「舞踏では、相手の足も見なければなりません」
エリスは納得していない顔をした。
ルーデウスが手を差し出す。
「踏んだら怒るからね」
「誰が誰の足をですか?」
「ルーデウスが私の足をよ!」
「努力します」
曲が始まる。
一歩目。
やはりエリスが速い。
ルーデウスは予測して合わせる。
二歩目。
さらに速度が上がる。
三歩目では、エリスがルーデウスの腕を引き、強引に回転しようとした。
ルーデウスも動きを合わせる。
転びはしない。
形も大きくは崩れない。
だが、音楽からは完全に外れていた。
一曲が終わる。
「踊れたじゃない!」
エリスは得意そうに言った。
「ルーデウス様が、エリス様の速度へすべて合わせておられただけでございます」
エドナが静かに告げる。
「何が悪いのよ。相手が合わせればいいでしょう!」
「舞踏は、御二人で合わせるものでございます」
「私は動きを間違えてないわ!」
そこが問題だった。
エリスにとっては、自分の動きが正しいなら、ついてこられない相手が悪い。
剣術なら、それでよい。
自分の速度を押しつけ、相手へ何もさせずに勝つ。
しかし、舞踏では相手を置き去りにした時点で失敗である。
休憩へ入った後、ルーデウスは壁際へ控えていたレイネへ声をかけた。
「レイネは、舞踏ができますか?」
「基本的なものであれば」
「少し、相手をしてもらえますか」
レイネはエドナへ許可を求め、ルーデウスの前へ立った。
背筋を伸ばし、片手を差し出す。
「失礼いたします」
手を取る。
曲が始まった。
レイネの動きは正確だった。
速すぎず、遅すぎない。
ルーデウスが僅かに足をずらせば、それへ合わせる。
かといって、すべてをルーデウスへ任せているわけではない。
次に進む方向が、触れた手と身体の向きから自然に伝わってくる。
「上手ですね」
「侍女として必要になる可能性を考え、一通り教わっております」
「僕の動きは、どうですか?」
「基本的な舞踏であれば、問題ございません」
一曲が終わる。
レイネは静かに手を離した。
「ルーデウス様は、エリス様へ合わせすぎておられます」
「合わせなければ、ぶつかります」
「はい。エリス様が速度を落とされなければ、どちらかが無理をしなければ成立いたしません」
「やはり、待つことを覚えてもらう必要がありますね」
「ただ待つよう申し上げても、エリス様には理解しづらいかと存じます」
ルーデウスは、剣術の訓練を思い出した。
エリスは、いつでも何も考えずに突進してくるわけではない。
以前はそうだった。
しかし、ルーデウスが誘いやフェイントを使うようになってからは、最初の動きへ飛びつかず、本命が来るまで一瞬待つことを覚えている。
一度誘いへ乗れば、次は警戒する。
相手を見て待つこと自体は、すでにできているのだ。
舞踏へ結びついていないだけである。
「剣術と同じだと説明してみます」
「よろしいかと存じます」
◇
「エリス。目を閉じてください」
「嫌よ」
即答だった。
「何をするつもり?」
「剣術の練習です」
その一言で、エリスの態度が変わった。
「最初からそう言いなさいよ!」
すぐに目を閉じる。
ルーデウスは、エリスの正面へ立った。
「僕が手を二回叩きます。一度目は誘い。二度目が本命です」
「剣術の時と同じね」
「はい。一度目には反応せず、二度目で足を動かしてください」
手を叩く。
一度目。
エリスの肩が僅かに動く。
だが、足は止めた。
二度目。
右足を前へ出す。
「もう一度です」
一度目と二度目の間隔を変える。
エリスは待つ。
二度目で動く。
何度か繰り返す。
途中から、ルーデウスは手だけでなく、視線や身体の向きも使った。
足を踏み込むように見せる。
肩を僅かに動かす。
剣術で使用する誘いと同じである。
エリスは最初の動きへ反応しそうになりながら、本命まで待った。
「そのまま、舞踏の足へ変えます」
レイネが拍子板を鳴らす。
一度目。
待つ。
二度目。
足を進める。
三度目。
揃える。
四度目。
横へ移動する。
速度はまだ僅かに速い。
それでも、拍子からは外れていない。
「できております」
エドナが目を見開いた。
「エリス様、そのままでございます!」
「本当!?」
エリスが目を開けようとする。
「まだ開けないでください」
「できてるんでしょう!?」
「今の感覚を覚えるまで続けます」
「分かったわ!」
今度は文句を言わなかった。
ルーデウスが手を取る。
二人で曲へ合わせて動く。
最初の拍子で、次の動きを考える。
次の拍子で進む。
エリスは、剣術で相手の本命を待つ時と同じように、ルーデウスの身体を感じている。
強引に腕を引かない。
一人で先へ進まない。
触れた手から、ルーデウスがどちらへ動くかを読み取る。
「そうです」
ルーデウスが小さな声で伝える。
「僕の本当の攻撃を待つつもりで」
「ダンスでしょう!」
「感覚の話です」
「分かってるわよ!」
怒鳴りながらも、足は乱れない。
一曲が終わった。
エリスが目を開く。
「踊れた?」
「はい」
ルーデウスは頷いた。
「基本の曲なら、最後まで踏めました」
「やった!」
エリスが勢いよく抱きついてくる。
そのまま押し倒されそうになり、ルーデウスはどうにか踏みとどまった。
「苦しいです」
「私、踊れたわ!」
「まだ練習は必要です」
「分かってるわよ!」
そう言いながら、しばらく離れなかった。
エドナが目元へ手を添えている。
「剣術で身につけられた感覚を、舞踏へつなげるとは……私には思いつきませんでした」
「エリスは、動けないわけではありません」
むしろ、動きすぎる。
「すでにできることから、別の動きへつなげればよいと思っただけです」
それからの上達は早かった。
剣術の訓練でも、合図まで待つ練習を取り入れた。
舞踏では、音楽と相手の動きを、本命を見極める時と同じように捉える。
休息日は潰さない。
本人が自分から軽く足を動かすことはあっても、課題は出さない。
休んだ翌日は、足の動きが明らかに軽くなった。
誕生日を迎える頃には、基本的な曲であれば、相手の足を踏まずに最後まで踊れるようになっていた。
◇
十歳の誕生日当日。
朝から、ボレアス家の屋敷全体が慌ただしかった。
大広間には豪華な布が飾られ、中庭には料理と飲み物を並べるための長い卓が設置されている。
領内から届いた贈り物は、別室へ山のように積まれていた。
衣服。
宝石。
剣。
高価な酒。
珍しい果実。
贈り主の多くは、エリス個人というより、ボレアス家とのつながりを求めているのだろう。
ルーデウスも、正式な衣服へ着替えさせられた。
普段の服より襟が詰まり、肩が僅かに動かしにくい。
「剣術をなさるわけではございません」
背後で襟を直しながら、レイネが言った。
「分かっています」
「先ほどから、何度も肩を回しておられます」
「動きにくいので」
「正式な場の衣装は、そのようなものでございます」
レイネ自身も、普段より上質な侍女服を身につけていた。
形は控えめである。
だが、白い髪も丁寧にまとめられ、遠目には貴族の令嬢にも見えそうだった。
本人はあくまで、ルーデウス付きの侍女として会場へ控える。
「エリスの様子は?」
「大変緊張なさっております」
「逃げようとはしていませんか」
「窓を何度かご覧になっておられましたので、念のため閉めさせていただきました」
本当に逃げるつもりだったのかもしれない。
しばらくすると、廊下の奥から足音が聞こえてきた。
最初に現れたのはヒルダだった。
その隣を、エリスが歩いている。
深い緑を基調としたドレス。
赤い髪は上へまとめられ、花と小さな宝石を使った髪飾りが添えられている。
歩幅も、エドナから教わったとおり小さく保たれていた。
ただし、表情だけは明らかに不機嫌である。
「何を見てるのよ」
「よく似合っています」
以前の経験を踏まえ、要求される前に褒める。
エリスの口元が僅かに緩んだ。
「当然でしょう」
「走りにくそうですね」
「今日は走らないわよ!」
「剣も振りにくそうです」
「振らないって言ってるでしょう!」
そう言いながら、腰へ剣がないことを確認するように手を動かしている。
落ち着かないらしい。
「ルーデウス」
ヒルダが穏やかに呼ぶ。
「最初の舞踏は、あなたが相手をするのね」
「はい」
「この子をお願いするわ」
「お母様、私は一人でも踊れるわよ!」
「舞踏は一人でするものではないでしょう」
「そうだけど!」
ヒルダは娘の肩へ手を置いた。
厳しい表情が、一瞬だけ柔らかくなる。
「十歳のお誕生日、おめでとう。完璧に振る舞う必要はありません。ただ、途中で逃げるのはやめなさい」
「逃げないわよ!」
「なら、胸を張りなさい」
エリスが大きく息を吸い、胸を張る。
力が入りすぎた。
エドナがすぐに姿勢を直す。
「もう少し力を抜いてくださいませ」
「抜いてるわよ!」
前途多難だった。
◇
舞踏会には、ロアとその周辺から大勢の貴族が招かれていた。
フィリップとヒルダは、来客一人一人へ丁寧に応対している。
サウロスは、相手が長い賛辞を口にしていても、途中で肩を叩き、大声で言った。
「よく来た!」
それだけで会話を終わらせる。
取り入ろうとしていた貴族たちは困惑していたが、サウロス本人はまったく気にしていなかった。
エリスも、次々に声をかけられている。
年上の貴族。
同年代の子供。
息子や孫を紹介する大人。
エリスは、教えられた挨拶を繰り返し、どうにか怒鳴らずに応対していた。
時折、助けを求めるようにルーデウスを見る。
だが、ここで毎回助ければ、覚えた作法を使う機会を奪う。
危険な発言をしそうになった時だけ、フィリップかヒルダが自然に会話へ入った。
レイネは、会場の端へ控えている。
給仕の手伝いをしながら、ルーデウスとエリスの位置を常に確認していた。
誘拐事件以来、屋敷の警備は強化されている。
招待客と使用人の身元も、事前に調べられていた。
それでも、レイネが完全に警戒を解くことはない。
ただ、周囲から見れば、主人へよく気を配る小柄な侍女にしか見えなかった。
やがて、楽団の演奏が変わった。
舞踏の時間である。
ルーデウスはエリスの前へ立った。
周囲の視線が集まる。
「エリス」
「何よ」
声が硬い。
「一曲、踊っていただけますか」
教わったとおり、手を差し出す。
エリスは何度か瞬きをした。
練習では、何度も繰り返した動作である。
しかし、大勢の貴族に見られている今は、まるで別物らしい。
「し、仕方ないわね」
差し出された手が、僅かに震えていた。
ルーデウスは強く握らず、離れない程度に支える。
二人で広間の中央へ進む。
曲が始まった。
一歩目。
エリスの身体が固まる。
足が動かない。
一度失敗すれば笑われる。
自分が主役なのに、踊れなければ恥をかく。
そう考えているのだろう。
ルーデウスは、視線を僅かに右へ動かした。
踏み込むように肩を動かす。
剣術で何度も使った、小さな誘いである。
エリスの赤い瞳が反応した。
「何よ」
小さな声が漏れる。
普段の調子が少し戻った。
ルーデウスは、今度こそ曲の拍子に合わせて足を進めた。
エリスもついてくる。
一歩。
待つ。
次の音で進む。
練習と同じである。
最初の動きへ飛びつかず、相手の本命を待つ。
数歩進む頃には、エリスの肩から余計な力が抜けていた。
足を踏まない。
腕を引かない。
音楽とルーデウスへ合わせ、同じ速度で進んでいる。
回転する。
ドレスの裾が広がる。
赤い髪の飾りが、会場の光を反射した。
エリスの口元へ、少しずつ笑みが浮かぶ。
一曲が終わった。
二人で礼をする。
僅かな静寂の後、大きな拍手が起こった。
最も大きな音を立てているのは、もちろんサウロスだった。
「見たかぁぁぁ! 儂の孫だぞぉぉぉ!」
会場中へ声が響く。
エリスは顔を赤くしながらも、誇らしそうに胸を張った。
エドナは会場の端で、両手を胸元へ重ねている。
普段よりも、ずっと嬉しそうな笑顔だった。
レイネと目が合う。
彼女は静かに頭を下げた。
まるで、自分のことのように喜んでいるように見えた。
◇
最初の役目を終え、ルーデウスは会場の端へ移動した。
並べられた料理には、見たことのないものが多い。
果実を使った焼き菓子。
香草を詰めた肉料理。
魚を薄く切り、酸味のある汁へ漬けたもの。
ギレーヌは警備のため、会場の外周へ立っている。
料理へ視線を向けないよう努力しているが、鼻だけは何度も動いていた。
ルーデウスは皿へ料理を取り、近くの使用人へ頼んで別室へ運んでもらった。
後で、ギレーヌとレイネにも渡すためである。
「ルーデウス様」
背後から声をかけられた。
振り返ると、同年代らしい少女が立っている。
丁寧に名乗り、家名を口にした。
聞いた直後は覚えていたはずだが、緊張と料理のことで頭がいっぱいだったため、すぐに曖昧になった。
「一曲、踊っていただけませんか」
断る理由を探す。
しかし、先ほどエリスと踊ったばかりで、踊れないとは言えない。
「簡単な曲でよろしければ」
一人目と踊る。
戻ると、別の少女が待っていた。
その次にも、さらに別の相手が現れる。
中には、ルーデウスより年上の女性もいた。
全員の相手をする必要はない。
そう思いながらも、一人目を受けた後では、次を断りにくい。
何人目かを終えた頃には、剣術の十本勝負より疲れていた。
「ずいぶん人気者だね」
フィリップが近づいてきた。
「何が起きているのですか」
「父上が、君の姓を話した」
「隠す予定では?」
「酒が入って、機嫌がよくなったらしい」
サウロスを見る。
大きな杯を持ち、豪快に笑っている。
「あの子は誰かと尋ねられ、グレイラット家の子供だと自慢したようだ」
「それで、皆さんが?」
「君は幼いながら魔術を使い、エリスへ勉強を教え、舞踏でも助けた。将来性のあるグレイラット家の少年だと思われている」
つまり、今のうちに娘との接点を作っておきたいらしい。
「どう対応すればいいですか」
「失礼のない範囲で相手をすればいい。今すぐ何かを約束する必要はないよ」
フィリップは僅かに目を細めた。
「ただし、パウロのように片端から手を出すのはやめてくれ」
「しません」
即答した。
今の年齢で、そんなことをするつもりはない。
それに、少し離れた場所から強い視線を感じる。
エリスがこちらを睨んでいた。
周囲に貴族がいるため、怒鳴りはしない。
だが、明らかに機嫌が悪い。
やがて、エリスが静かな足取りで歩いてきた。
動きだけは、エドナから教わった淑女のものだった。
ルーデウスの前で立ち止まり、ドレスの裾を軽く摘む。
「わたくしと、もう一曲踊っていただけませんか」
声音まで、淑女らしく整えられている。
しかし、目だけは「断ったら許さない」と言っていた。
「喜んで」
もう一度、手を取る。
今度の曲は、練習していたものより少し速かった。
途中で拍子も変化する。
エリスの顔が強張った。
「知らない曲よ」
「僕も知りません」
「どうするのよ」
「剣術と同じです」
ルーデウスは曲に合わせ、決められた型から少し外れて動いた。
一歩進む。
急に止まる。
エリスが動きを読む。
横へ移る。
今度は、エリスが先に進む方向を示す。
正式な舞踏として正しいかは分からない。
エドナに見られれば、後で注意されるかもしれない。
それでも、音楽からは外れていない。
互いに手を取り、剣を持たずに、いつもの訓練と同じように相手の動きを読む。
エリスの緊張が消えていく。
やがて、大きな笑い声を上げた。
「何よ、これ!」
「舞踏です」
「絶対違うわよ!」
「音楽には合っています」
「ならいいわ!」
二人で回る。
周囲の貴族たちは、少し驚いた顔をしていた。
それでも、主役であるエリスが楽しそうに笑っている。
曲が終わる頃には、自然な拍手が会場から起こっていた。
エリスは息を弾ませ、頬を赤くしている。
「ルーデウス」
「はい」
「今日は、まあまあ役に立ったわ」
「ありがとうございます」
「明日からも、ちゃんと教えなさいよ!」
「明日は休息日の予定です」
「誕生日の次の日ぐらい、休んでもいいでしょう!」
最初は休息日の導入へ反発していた者の発言とは思えない。
「はい。ゆっくり休みましょう」
その時、サウロスが大股で近づいてきた。
「見事だったぞぉぉぉ!」
嫌な予感がした。
次の瞬間、ルーデウスとエリスは、二人まとめてサウロスの肩へ担ぎ上げられていた。
「高いです! 下ろしてください!」
「お祖父様、もっと走りなさい!」
エリスは喜んでいる。
サウロスは二人を乗せたまま、中庭を走り回った。
会場の者たちが笑う。
格式ある舞踏会が、一瞬でいつものボレアス家らしい騒がしさへ変わった。
◇
宴が終わった後。
ルーデウスは、エリス、ギレーヌ、レイネを自室へ招いた。
昼間に取り分けておいた料理が、卓の上へ並んでいる。
エリスは宴の主役だったにもかかわらず、挨拶と緊張で、ほとんど食事を取れなかったらしい。
椅子へ座ると、すぐに肉料理へ手を伸ばした。
「おいしいわ!」
「会場で食べればよかったのでは?」
「食べようとするたびに、誰かが話しかけてきたのよ!」
ギレーヌも無言で料理を食べている。
相当に空腹だったらしい。
レイネは、最初は給仕へ回ろうとした。
しかし、今日は彼女にも食べてもらうために呼んでいる。
「レイネも座ってください」
「ですが」
「誕生日のお祝いです」
エリスも口を挟む。
「座りなさいよ。今日の主役は私なんだから、私がいいって言ったらいいのよ!」
「本日の主役からのご命令でございますか」
「そうよ!」
「では、失礼いたします」
レイネはようやく椅子へ腰を下ろした。
全員が一通り食べたところで、ルーデウスは寝台の横へ隠していた細長い包みを二つ取り出した。
「エリス。ギレーヌ」
「何よ、これ」
「贈り物です」
包みを開く。
中には、小ぶりな杖が一本ずつ入っていた。
高価な宝石を使った物ではない。
ルーデウスが土魔術で何度も試作品を作り、使いやすい長さと太さを決め、町の職人へ依頼して木材から削り出してもらった。
先端には、小さな魔石が取りつけられている。
「魔術の師匠は、弟子へ杖を贈ることがあるそうです」
ロキシーから受け取った杖を思い出す。
「あの杖ほど立派ではありませんが、初級魔術を使う際の補助にはなります」
ギレーヌが立ち上がった。
その場で片膝をつく。
剣神流の門弟が、師へ敬意を示す時の姿勢である。
「ルーデウス師匠。ありがたく受け取る」
そこまで畏まられるとは思っていなかった。
「どうぞ」
ギレーヌは両手で杖を受け取り、珍しく嬉しそうに眺めた。
エリスは、その様子を見て慌てて姿勢を正した。
「ありがとうございます、ルーデウス師匠」
言葉遣いだけは、エドナから教わった正式なものだった。
「大切に使ってください」
エリスは杖を受け取り、何度も角度を変えて眺める。
「私の方が、ギレーヌのより格好いいわね!」
「形は同じです」
「木の模様が違うわ!」
どうしても自分の方が特別だと思いたいらしい。
ギレーヌも、自分の指から古い木製の指輪を外した。
表面には多くの傷がついている。
「エリス。私は贈り物を用意していなかった」
「何でよ!」
「従者から主人へ贈る習慣は、私の一族にはない」
エリスの顔が分かりやすく落ち込む。
「だが、これをやる」
ギレーヌが指輪を差し出した。
「一族に伝わる魔除けだ。悪い狼から身を守ると言われている」
「いいの?」
「ああ。私には効果がなかった」
何があったのかは、聞かない方がよさそうだった。
エリスは指輪を受け取り、指へはめようとする。
少し大きく、すぐに抜けそうになった。
「こちらをお使いくださいませ」
レイネが、小さな包みを取り出した。
中には、深い赤色の組紐が入っている。
細い糸を何本も編み、一本の丈夫な紐にした物だった。
「私からのお祝いでございます」
「レイネも、何かくれるの?」
「はい」
「これは何?」
「指輪を通し、首へかけることができます。髪をまとめる際や、荷物を縛る際にもお使いいただけます」
「何でそんなに何でも使えるのよ」
「エリス様は、実用的な物を好まれるかと考えました」
組紐の先端には、小さな白い糸で、剣に似た模様が刺繍されている。
遠目には目立たない。
近くで見れば分かる程度の装飾だった。
エリスはしばらく模様を眺めた後、ギレーヌの指輪を組紐へ通した。
首へかける。
「似合う?」
「大変よくお似合いでございます」
「そうでしょう!」
エリスは右手へ杖を持ち、左手で首元の指輪を握った。
今日、舞踏会で何度も見せた笑顔とは違う。
誰かに見せるためではない。
心から満足している表情だった。
その後も四人で料理を食べ、舞踏会の話をした。
エリスは、自分がどれほど上手く踊ったかを何度も説明した。
途中で型を外れた二曲目まで、正式な舞踏だったことにしようとしている。
エドナには聞かせられない話だった。
夜も遅くなり、エリスは椅子へ座ったまま眠り始めた。
一日中、緊張し続けていたのだろう。
レイネが立ち上がり、エリスの身体を抱き上げる。
外見はエリスより幼く見える。
それでも、危なげなく支えていた。
「お部屋へお連れいたします」
「僕も手伝います」
「では、扉をお願いいたします」
エリスの部屋まで運ぶ。
寝台へ横たえられたエリスは、眠ったまま杖を離そうとしなかった。
首には、レイネの組紐へ通されたギレーヌの指輪がかかっている。
レイネが毛布をかけた。
「今日は、楽しそうでしたね」
ルーデウスが小さな声で言う。
「はい」
「最初は、舞踏など必要ないと言っていたのに」
「できるようになれば、楽しまれる方でございますから」
レイネは、眠るエリスの髪を整えた。
「ルーデウス様が、エリス様に理解できる方法を見つけられたからでございます」
「剣術の考え方を使っただけです」
「すでにできることから、できないことへ道をつなげられました」
できないことを責めるのではない。
すでに持っているものを利用し、別の形へ変える。
それは、この一年間でルーデウス自身も学んできたことだった。
エリスの寝顔は、普段の激しさが嘘のように穏やかだった。
剣神流中級。
読み書き。
簡単な算術。
初級魔術。
舞踏会でも、途中で逃げずに役目を果たした。
だが、この一年の成長は、位階や知識だけではない。
殴る前に拳を止められるようになった。
頼み事をする時、ぎこちなくても頭を下げられるようになった。
休むことを、負けだと思わなくなった。
怖い道も、誰かと一緒なら歩けるようになった。
完璧ではない。
今も怒鳴る。
物へ当たることもある。
算術を間違えれば、答えの方がおかしいと言い張る。
それでも、一年前とは明らかに違っていた。
ルーデウスは部屋を出る前に、眠るエリスをもう一度見た。
杖を胸へ抱き、指輪を握っている。
口元には、小さな笑みが残っていた。
「十歳のお誕生日、おめでとうございます。エリス」
返事はない。
二人は音を立てないよう扉を閉め、十歳になった少女を部屋へ残した。