白髪の侍女   作:MトK

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第十八話 お嬢様は十歳

ルーデウス視点

 

最初の休息日を設けてから、さらに半年が過ぎた。

 

ルーデウスがボレアス家へ家庭教師として雇われてから、もうすぐ一年になる。

 

最初の休息日には、エリス、ギレーヌ、レイネとともにロアの町を歩いた。

 

商業区で品物の値段を見て回り、エリスが自分で串焼きを買い、帰り道には雲の間を進む空中城塞を見上げた。

 

屋敷へ戻る途中、エリスは早くも次の休息日に出かける場所を考え始めていた。

 

それ以降も、休息日は七日ごとに続けられている。

 

町へ出る日。

 

ギレーヌと森を歩く日。

 

屋敷の中庭で軽く剣を振り、疲れる前に切り上げる日。

 

空中城塞を見た日に興味を持った甲龍王ペルギウスについて、ルーデウスと一緒に本で調べたこともある。

 

ただし、休息日に本を開いたからといって、後から問題を出すことはない。

 

知らない言葉があっても、必ずその日のうちに覚えさせようとはしない。

 

興味を持った内容を調べ、別のことをしたくなれば本を閉じる。

 

それだけだった。

 

以前のエリスであれば、授業でもないのに本を読む意味が分からないと怒っていただろう。

 

今では、自分が知りたい内容であれば、自分から本を開くことも珍しくなくなった。

 

読み書きは、かなり上達している。

 

簡単な物語や手紙であれば、一人でも最後まで読めるようになった。知らない単語が出た時にも、すぐ本を投げ出すのではなく、近くにいる者へ意味を尋ねる。

 

一度説明されても分からなければ怒ることはある。

 

それでも、本を破ることはなくなった。

 

算術は、読み書きほど順調ではない。

 

足し算と引き算は、日常生活で困らない程度には身についている。掛け算へ入ると途端に嫌そうな顔をするが、実際の買い物や剣術の勝敗へ置き換えれば、理解は早かった。

 

十本勝負でエリスが六本、ルーデウスが四本を取った。

 

合わせて何本か。

 

その種の問題だけは、一度も間違えない。

 

「私が六本勝った」という部分を、決して忘れないからである。

 

魔術についても、以前に確認した適性に合わせて訓練を続けていた。

 

エリスは、初級魔術であれば四属性すべてを発動できる。

 

ただし、魔力を必要以上に勢いよく流し込む癖が残っており、特に土魔術では形を細かく整えることを苦手としている。

 

小さな石を作らせれば、妙に尖った形になる。

 

地面を僅かに盛り上げるはずが、勢い余って土を周囲へ飛ばすこともあった。

 

それでも、一度失敗しただけで杖を投げることはなくなった。

 

「もう一回よ!」

 

そう叫び、成功するまで続けようとする。

 

むしろ、止めなければ魔力が尽きるまで繰り返しかねないため、ルーデウスが回数を管理しなければならなかった。

 

ギレーヌは、既に判明している火魔術への適性を中心に、実用的な訓練を行っている。

 

焚き火へ火をつける。

 

弱くなった火を戻す。

 

離れた標的へ、小さな火球を当てる。

 

旅先での使用を想定した内容である。

 

水、風、土の訓練も完全にやめたわけではないが、不得意な属性を無理に伸ばすより、得意な火魔術を確実に使えるようにする方針となっていた。

 

無詠唱魔術についても、以前の授業ですでに試している。

 

エリスもギレーヌも成功しなかった。

 

現在は詠唱魔術の安定を優先し、無詠唱については、時折感覚を確認する程度に留めている。

 

使えないからといって、学んだ魔術の価値がなくなるわけではない。

 

水を作る。

 

火を起こす。

 

風で煙を散らす。

 

土で簡単な障害物を作る。

 

剣士がそうした手段を持っているだけでも、旅や戦闘での生存率は大きく変わる。

 

そして、剣術。

 

この一年で、エリスは著しく成長していた。

 

もともと剣神流への適性が高く、身体能力もルーデウスを上回っている。

 

その上、ギレーヌの指導を受け、毎日のように剣を振り続けている。

 

少し前の朝。

 

普段どおり訓練を終えた後、ギレーヌはエリスを自分の前へ立たせた。

 

「今日から、剣神流中級を名乗っていい」

 

「……本当に?」

 

エリスは、木剣を持ったまま目を瞬かせた。

 

「ああ」

 

「私、中級なの?」

 

「そう言った」

 

「普通の騎士にも勝てる?」

 

「相手による。中級だから、必ず勝てるわけではない」

 

「でも、中級なのね!」

 

「ああ」

 

次の瞬間、エリスは木剣を頭上へ掲げ、訓練場を駆け出した。

 

「私、中級よ! 剣神流中級になったわ!」

 

ギレーヌへ何度も確認した後、屋敷へ駆け込み、サウロス、フィリップ、ヒルダ、使用人たちへ片端から報告して回った。

 

しばらくすると、屋敷の奥からサウロスの大声が響いた。

 

「さすが儂の孫だぁぁぁ!」

 

窓が僅かに震えた。

 

エリスはその日一日、顔を合わせる相手すべてへ、自分が中級になったことを説明して回った。

 

そして最後には、ルーデウスの前へ戻ってきた。

 

「私も中級になったわ!」

 

「おめでとうございます」

 

「これで、位階はルーデウスと同じね!」

 

「そうですね」

 

ルーデウスは、ブエナ村を離れる前に、すでにパウロから剣神流中級を名乗ることを許されていた。

 

最初は、パウロの初撃を見ることすらできなかった。

 

剣先ばかりを見て足を払われ、距離を取れば追いつかれ、正面から受ければ力で押し切られた。

 

それでも、レイネから助言を受けながら、剣先以外も見るようになった。

 

肩。

 

腰。

 

足。

 

重心。

 

相手が次に何をしようとしているのか。

 

一度成功した避け方へ固執せず、その場で相手を見て判断を変えること。

 

そうした積み重ねにより、ブエナ村を離れる頃には、パウロから中級を認められるまでになっていた。

 

ロアへ来てから、中級へ上がったわけではない。

 

ギレーヌとエリスとの訓練によって、すでに持っていた中級の技量をさらに磨いているのだ。

 

「でも、剣で勝つのは私よ!」

 

エリスが、ルーデウスへ木剣の先を向けた。

 

「純粋な剣術なら、エリスの方が勝ち越していますからね」

 

十本勝負をすれば、エリスが六本か七本を取ることが多い。

 

ルーデウスの調子がよい日には、五本ずつになることもある。

 

反対に、エリスがルーデウスの誘いへ上手く対応した日は、七対三まで差が広がる。

 

完全な互角ではない。

 

それでも、ロアへ来た直後と比べれば、実力差は明らかに縮まっていた。

 

ルーデウスには、パウロとの訓練で身につけた基礎がある。

 

そこへ、ギレーヌから教わった姿勢や足運び、力を外へ逃がす受け方が加わった。

 

さらに、エリスという予測しづらい相手と繰り返し戦い、訓練後にはレイネと動きを振り返っている。

 

何を見落としたのか。

 

なぜ、その場面で先に動いたのか。

 

相手の本当の狙いは、どこにあったのか。

 

レイネは、答えを直接教えない。

 

質問を重ね、ルーデウス自身に動きを思い出させる。

 

その結果、ルーデウスは一度受けた攻撃へ、その日のうちに対応を変えられるようになっていた。

 

一方、エリスも同じ場所へ留まってはいない。

 

ルーデウスが前へ踏み込むようになれば、大きく剣を振り切らなくなる。

 

誘いを使えば、同じ動きへ二度は乗らない。

 

魔術を含めた模擬戦では、ルーデウスの視線や指先を警戒する。

 

互いに勝ち方を覚えれば、相手もその勝ち方を潰してくる。

 

その繰り返しによって、二人とも成長していた。

 

「同じ中級になったんだから、もう先輩みたいな顔をするんじゃないわよ!」

 

「僕の方が先に中級を認められていますが」

 

「年上なのは私よ!」

 

「位階に年齢は関係ないのでは?」

 

「あるのよ!」

 

「ギレーヌ。あるのですか?」

 

「ない」

 

即答だった。

 

エリスの頬が膨らむ。

 

「なら、今日の十本勝負で勝った方が先輩よ!」

 

「位階は勝負のたびに変わるものではありません」

 

「細かいことを気にしない!」

 

結局、その日の十本勝負は、エリスが六本、ルーデウスが四本を取った。

 

エリスは勝ち誇り、その後三日ほど、自分を「中級の先輩」と呼ぶようルーデウスへ要求した。

 

ギレーヌから、そのような制度はないと何度説明されても聞かなかった。

 

教育は、おおむね順調だった。

 

少なくとも、ルーデウスはそう思っていた。

 

新たな問題が判明したのは、月に一度行っている教師たちの話し合いでのことだった。

 

 

会議には、ルーデウス、ギレーヌ、エドナ、レイネが参加していた。

 

この日は予定が空いていたため、フィリップも席へ着いている。

 

机の上には、それぞれが記録した報告が並べられていた。

 

剣術の進み。

 

読み書きと算術。

 

魔術。

 

礼儀作法。

 

食事と睡眠。

 

休息日の過ごし方。

 

以前のように、それぞれの教師が自分の授業だけを見て、エリスへ負担を積み重ねないよう、生活全体を確認するためのものである。

 

「剣術は問題ない」

 

ギレーヌが簡潔に報告した。

 

「エリスは中級になった。ルーデウスも、以前より動きが安定している」

 

「僕の位階そのものは、ブエナ村にいた頃から変わっていませんが」

 

「同じ中級でも、差はある」

 

ギレーヌが答えた。

 

「パウロから認められた頃より、対応できる動きが増えた。エリスの速さにも慣れてきている」

 

位階は同じでも、その中身まで同じではない。

 

中級へ上がった時点と現在では、戦える相手も、使える技術も変わっている。

 

「魔術も、今の方針で問題ありません」

 

ルーデウスが続けた。

 

「以前に確認した適性へ合わせ、エリスには四属性の基礎を、ギレーヌには火魔術を中心に教えています。二人とも、詠唱魔術の安定性は上がっています」

 

「読み書きも順調でございます」

 

エドナが報告書へ視線を落とした。

 

「簡単な文書であれば、一人で読むことができます。算術は予定より僅かに遅れておりますが、日常生活に必要となる範囲は身についております」

 

「食事と睡眠も、休息日を導入してから安定しております」

 

レイネも続けた。

 

「以前のように朝食を残されたり、授業中に眠そうになさったりすることは、ほとんどございません」

 

すべて順調に聞こえる。

 

しかし、エドナは報告書を閉じなかった。

 

柔らかな笑みを保ったまま、小さく息を吸う。

 

「一つ、早急に対応しなければならない問題がございます」

 

「問題ですか?」

 

ルーデウスが尋ねる。

 

「もうすぐ、エリス様は十歳のお誕生日を迎えられます」

 

それは知っている。

 

アスラ王国の貴族にとって、五歳、十歳、十五歳の誕生日は、特別な節目である。

 

屋敷では、すでに宴の準備が始まっていた。

 

料理人は食材の手配を進め、使用人たちは大広間と中庭を整えている。

 

「父上は最初、酒と肉を大量に並べればよいと主張していたのだけれどね」

 

フィリップが苦笑した。

 

「近隣の貴族も招待する以上、それだけでは済まない。正式な舞踏会を開くことになった」

 

「舞踏会、ですか」

 

「エリスが主役の舞踏会だ」

 

嫌な予感がした。

 

エドナが一枚の紙を、ルーデウスの前へ差し出す。

 

礼儀作法の項目が並んでいる。

 

挨拶。

 

食事。

 

来客との会話。

 

立ち方。

 

歩き方。

 

そして、舞踏。

 

ほかの項目には印がついている。

 

舞踏だけが空欄だった。

 

「まさか」

 

「エリス様は、踊ることができません」

 

エドナは穏やかな口調で言い切った。

 

「一番簡単なステップであっても、御相手と速度を合わせて踏むことができないのでございます」

 

「足の置き方を覚えられないのですか?」

 

「足を置く場所も、順番も理解なさっています」

 

「では、何が問題なのでしょう」

 

「すべてが速すぎるのでございます」

 

容易に想像できた。

 

「音楽へ合わせるより先に、御自身の判断で次の動きへ入ってしまわれます。御相手が遅れれば、腕を引いて追いつかせようとなさいます」

 

剣神流では長所となる勢いと速度が、舞踏では完全に裏目へ出ているらしい。

 

「五歳の誕生日では、踊らなかったのですか?」

 

「貴族の子供が、本格的に舞踏会へ参加するのは十歳頃からだ」

 

フィリップが答えた。

 

「誕生日の主役が、一曲も踊れないわけにはいかない。今後、エリスが社交の場へ出る際にも必要になる」

 

その時、会議室の扉が勢いよく開いた。

 

「剣ならできるわ!」

 

全員が振り向く。

 

エリスが立っていた。

 

廊下で話を聞いていたらしい。

 

「踊れなくても、剣なら誰にも負けないわ!」

 

「エリス」

 

フィリップが静かに娘の名を呼んだ。

 

「部屋へ入る時には、ノックをしなさい」

 

「今はそんな話じゃないでしょう!」

 

「舞踏会で、同じように扉を開けるつもりかい?」

 

エリスは口を閉じた。

 

不満そうに一度外へ出る。

 

扉を閉め、三度叩いた。

 

「入っていいわね!」

 

返事を待たず、再び入ってきた。

 

完全ではないが、やり直しただけ以前よりよい。

 

「ダンスなんて必要ないわ。剣が強ければいいでしょう」

 

「貴族として生きるのであれば、必要だ」

 

フィリップは譲らなかった。

 

「戦いだけで物事が決まるわけではない。相手へ敵意がないことを示し、同じ場へ参加する意思を見せる。そのための作法もある」

 

「普通に話せばいいじゃない」

 

「言葉だけでは足りない場があるんだよ」

 

エリスは不満そうに眉を寄せた。

 

「踊れないからって、私が弱いわけじゃないわ」

 

「誰も弱いとは言っていません」

 

ルーデウスが言う。

 

「なら、どうして私ばかり無理にやらされるのよ!」

 

「十歳の誕生日を迎える主役だからです」

 

「ルーデウスは踊れるの?」

 

矛先がこちらへ向く。

 

「いいえ」

 

正直に答えた。

 

エリスの顔が明るくなる。

 

「なら、ルーデウスもやりなさい!」

 

なぜそうなるのか。

 

「それはよい考えでございます」

 

エドナが即座に賛成した。

 

「ルーデウス様にも、舞踏の授業へ参加していただきましょう」

 

「僕は誕生日の主役ではありませんが」

 

「舞踏会へ出席なさるのでしょう?」

 

フィリップを見る。

 

「もちろんだ」

 

逃げ道はなかった。

 

「最初の一曲では、エリスの相手を務めてもらおう」

 

「今、初めて聞きました」

 

「今、決めたからね」

 

エリスは満足そうに胸を張った。

 

「ルーデウスもできないなら、同じね!」

 

「現時点では」

 

「何よ、その言い方!」

 

「練習すれば、できるようになるかもしれません」

 

「私だってできるわよ!」

 

「では、一緒に練習しましょう」

 

こうして、誕生日までの間、舞踏の授業が追加されることになった。

 

ただし、休息日は潰さない。

 

以前決めた方針どおり、別の授業時間を一部調整し、礼儀作法の中で舞踏へ割り当てる。

 

剣術も魔術も完全には止めない。

 

一日中舞踏だけを繰り返せば、エリスが苛立ち、かえって動きを崩すことは分かっていた。

 

問題は、練習時間ではない。

 

教え方だった。

 

 

舞踏の練習が始まった。

 

エドナが見本を示す。

 

背筋を伸ばす。

 

相手の手を取る。

 

曲に合わせて一歩進む。

 

足を揃える。

 

横へ移動する。

 

再び足を揃える。

 

一つ一つの動きは複雑ではない。

 

エリスも、順番は覚えている。

 

しかし、実際に曲が始まると、まったく別のものになった。

 

「せいっ!」

 

床を強く踏み込む。

 

「エリス様、もう少し柔らかくお願いいたします」

 

「柔らかくしてるわよ!」

 

次の一歩も速い。

 

音楽が二つ目の拍子へ入る前に、エリスは三つ目の動きを始めている。

 

「曲に合わせてくださいませ」

 

「合わせてるでしょう!」

 

「先へ進んでおられます」

 

「曲が遅いのよ!」

 

ついには楽団へ文句を言い始めた。

 

エリスは、足を置く場所を間違えているわけではない。

 

動く順番も覚えている。

 

ただ、待てないのだ。

 

自分が次に何をするか分かっているため、音楽や相手を待たず、先へ進んでしまう。

 

数人の使用人が相手を務めたが、足を踏まれたり、腕を引かれて体勢を崩したりした。

 

「次は僕が相手をします」

 

ルーデウスが前へ出た。

 

舞踏の練習を始めて数日。

 

ルーデウスは、基本のステップであれば、ある程度踏めるようになっていた。

 

ブエナ村でパウロから教わった足運び。

 

ギレーヌから繰り返し直された重心。

 

エリスとの剣術で身につけた、相手の動きへ合わせて位置を変える感覚。

 

それらが舞踏にも応用できた。

 

「どうしてルーデウスはできるのよ!」

 

エリスが不機嫌そうに言う。

 

「剣術で習った足の運び方が役に立っています」

 

「私も剣術をやってるわよ!」

 

「エリスは、自分の足だけを動かしています」

 

「当たり前でしょう!」

 

「舞踏では、相手の足も見なければなりません」

 

エリスは納得していない顔をした。

 

ルーデウスが手を差し出す。

 

「踏んだら怒るからね」

 

「誰が誰の足をですか?」

 

「ルーデウスが私の足をよ!」

 

「努力します」

 

曲が始まる。

 

一歩目。

 

やはりエリスが速い。

 

ルーデウスは予測して合わせる。

 

二歩目。

 

さらに速度が上がる。

 

三歩目では、エリスがルーデウスの腕を引き、強引に回転しようとした。

 

ルーデウスも動きを合わせる。

 

転びはしない。

 

形も大きくは崩れない。

 

だが、音楽からは完全に外れていた。

 

一曲が終わる。

 

「踊れたじゃない!」

 

エリスは得意そうに言った。

 

「ルーデウス様が、エリス様の速度へすべて合わせておられただけでございます」

 

エドナが静かに告げる。

 

「何が悪いのよ。相手が合わせればいいでしょう!」

 

「舞踏は、御二人で合わせるものでございます」

 

「私は動きを間違えてないわ!」

 

そこが問題だった。

 

エリスにとっては、自分の動きが正しいなら、ついてこられない相手が悪い。

 

剣術なら、それでよい。

 

自分の速度を押しつけ、相手へ何もさせずに勝つ。

 

しかし、舞踏では相手を置き去りにした時点で失敗である。

 

休憩へ入った後、ルーデウスは壁際へ控えていたレイネへ声をかけた。

 

「レイネは、舞踏ができますか?」

 

「基本的なものであれば」

 

「少し、相手をしてもらえますか」

 

レイネはエドナへ許可を求め、ルーデウスの前へ立った。

 

背筋を伸ばし、片手を差し出す。

 

「失礼いたします」

 

手を取る。

 

曲が始まった。

 

レイネの動きは正確だった。

 

速すぎず、遅すぎない。

 

ルーデウスが僅かに足をずらせば、それへ合わせる。

 

かといって、すべてをルーデウスへ任せているわけではない。

 

次に進む方向が、触れた手と身体の向きから自然に伝わってくる。

 

「上手ですね」

 

「侍女として必要になる可能性を考え、一通り教わっております」

 

「僕の動きは、どうですか?」

 

「基本的な舞踏であれば、問題ございません」

 

一曲が終わる。

 

レイネは静かに手を離した。

 

「ルーデウス様は、エリス様へ合わせすぎておられます」

 

「合わせなければ、ぶつかります」

 

「はい。エリス様が速度を落とされなければ、どちらかが無理をしなければ成立いたしません」

 

「やはり、待つことを覚えてもらう必要がありますね」

 

「ただ待つよう申し上げても、エリス様には理解しづらいかと存じます」

 

ルーデウスは、剣術の訓練を思い出した。

 

エリスは、いつでも何も考えずに突進してくるわけではない。

 

以前はそうだった。

 

しかし、ルーデウスが誘いやフェイントを使うようになってからは、最初の動きへ飛びつかず、本命が来るまで一瞬待つことを覚えている。

 

一度誘いへ乗れば、次は警戒する。

 

相手を見て待つこと自体は、すでにできているのだ。

 

舞踏へ結びついていないだけである。

 

「剣術と同じだと説明してみます」

 

「よろしいかと存じます」

 

 

「エリス。目を閉じてください」

 

「嫌よ」

 

即答だった。

 

「何をするつもり?」

 

「剣術の練習です」

 

その一言で、エリスの態度が変わった。

 

「最初からそう言いなさいよ!」

 

すぐに目を閉じる。

 

ルーデウスは、エリスの正面へ立った。

 

「僕が手を二回叩きます。一度目は誘い。二度目が本命です」

 

「剣術の時と同じね」

 

「はい。一度目には反応せず、二度目で足を動かしてください」

 

手を叩く。

 

一度目。

 

エリスの肩が僅かに動く。

 

だが、足は止めた。

 

二度目。

 

右足を前へ出す。

 

「もう一度です」

 

一度目と二度目の間隔を変える。

 

エリスは待つ。

 

二度目で動く。

 

何度か繰り返す。

 

途中から、ルーデウスは手だけでなく、視線や身体の向きも使った。

 

足を踏み込むように見せる。

 

肩を僅かに動かす。

 

剣術で使用する誘いと同じである。

 

エリスは最初の動きへ反応しそうになりながら、本命まで待った。

 

「そのまま、舞踏の足へ変えます」

 

レイネが拍子板を鳴らす。

 

一度目。

 

待つ。

 

二度目。

 

足を進める。

 

三度目。

 

揃える。

 

四度目。

 

横へ移動する。

 

速度はまだ僅かに速い。

 

それでも、拍子からは外れていない。

 

「できております」

 

エドナが目を見開いた。

 

「エリス様、そのままでございます!」

 

「本当!?」

 

エリスが目を開けようとする。

 

「まだ開けないでください」

 

「できてるんでしょう!?」

 

「今の感覚を覚えるまで続けます」

 

「分かったわ!」

 

今度は文句を言わなかった。

 

ルーデウスが手を取る。

 

二人で曲へ合わせて動く。

 

最初の拍子で、次の動きを考える。

 

次の拍子で進む。

 

エリスは、剣術で相手の本命を待つ時と同じように、ルーデウスの身体を感じている。

 

強引に腕を引かない。

 

一人で先へ進まない。

 

触れた手から、ルーデウスがどちらへ動くかを読み取る。

 

「そうです」

 

ルーデウスが小さな声で伝える。

 

「僕の本当の攻撃を待つつもりで」

 

「ダンスでしょう!」

 

「感覚の話です」

 

「分かってるわよ!」

 

怒鳴りながらも、足は乱れない。

 

一曲が終わった。

 

エリスが目を開く。

 

「踊れた?」

 

「はい」

 

ルーデウスは頷いた。

 

「基本の曲なら、最後まで踏めました」

 

「やった!」

 

エリスが勢いよく抱きついてくる。

 

そのまま押し倒されそうになり、ルーデウスはどうにか踏みとどまった。

 

「苦しいです」

 

「私、踊れたわ!」

 

「まだ練習は必要です」

 

「分かってるわよ!」

 

そう言いながら、しばらく離れなかった。

 

エドナが目元へ手を添えている。

 

「剣術で身につけられた感覚を、舞踏へつなげるとは……私には思いつきませんでした」

 

「エリスは、動けないわけではありません」

 

むしろ、動きすぎる。

 

「すでにできることから、別の動きへつなげればよいと思っただけです」

 

それからの上達は早かった。

 

剣術の訓練でも、合図まで待つ練習を取り入れた。

 

舞踏では、音楽と相手の動きを、本命を見極める時と同じように捉える。

 

休息日は潰さない。

 

本人が自分から軽く足を動かすことはあっても、課題は出さない。

 

休んだ翌日は、足の動きが明らかに軽くなった。

 

誕生日を迎える頃には、基本的な曲であれば、相手の足を踏まずに最後まで踊れるようになっていた。

 

 

十歳の誕生日当日。

 

朝から、ボレアス家の屋敷全体が慌ただしかった。

 

大広間には豪華な布が飾られ、中庭には料理と飲み物を並べるための長い卓が設置されている。

 

領内から届いた贈り物は、別室へ山のように積まれていた。

 

衣服。

 

宝石。

 

剣。

 

高価な酒。

 

珍しい果実。

 

贈り主の多くは、エリス個人というより、ボレアス家とのつながりを求めているのだろう。

 

ルーデウスも、正式な衣服へ着替えさせられた。

 

普段の服より襟が詰まり、肩が僅かに動かしにくい。

 

「剣術をなさるわけではございません」

 

背後で襟を直しながら、レイネが言った。

 

「分かっています」

 

「先ほどから、何度も肩を回しておられます」

 

「動きにくいので」

 

「正式な場の衣装は、そのようなものでございます」

 

レイネ自身も、普段より上質な侍女服を身につけていた。

 

形は控えめである。

 

だが、白い髪も丁寧にまとめられ、遠目には貴族の令嬢にも見えそうだった。

 

本人はあくまで、ルーデウス付きの侍女として会場へ控える。

 

「エリスの様子は?」

 

「大変緊張なさっております」

 

「逃げようとはしていませんか」

 

「窓を何度かご覧になっておられましたので、念のため閉めさせていただきました」

 

本当に逃げるつもりだったのかもしれない。

 

しばらくすると、廊下の奥から足音が聞こえてきた。

 

最初に現れたのはヒルダだった。

 

その隣を、エリスが歩いている。

 

深い緑を基調としたドレス。

 

赤い髪は上へまとめられ、花と小さな宝石を使った髪飾りが添えられている。

 

歩幅も、エドナから教わったとおり小さく保たれていた。

 

ただし、表情だけは明らかに不機嫌である。

 

「何を見てるのよ」

 

「よく似合っています」

 

以前の経験を踏まえ、要求される前に褒める。

 

エリスの口元が僅かに緩んだ。

 

「当然でしょう」

 

「走りにくそうですね」

 

「今日は走らないわよ!」

 

「剣も振りにくそうです」

 

「振らないって言ってるでしょう!」

 

そう言いながら、腰へ剣がないことを確認するように手を動かしている。

 

落ち着かないらしい。

 

「ルーデウス」

 

ヒルダが穏やかに呼ぶ。

 

「最初の舞踏は、あなたが相手をするのね」

 

「はい」

 

「この子をお願いするわ」

 

「お母様、私は一人でも踊れるわよ!」

 

「舞踏は一人でするものではないでしょう」

 

「そうだけど!」

 

ヒルダは娘の肩へ手を置いた。

 

厳しい表情が、一瞬だけ柔らかくなる。

 

「十歳のお誕生日、おめでとう。完璧に振る舞う必要はありません。ただ、途中で逃げるのはやめなさい」

 

「逃げないわよ!」

 

「なら、胸を張りなさい」

 

エリスが大きく息を吸い、胸を張る。

 

力が入りすぎた。

 

エドナがすぐに姿勢を直す。

 

「もう少し力を抜いてくださいませ」

 

「抜いてるわよ!」

 

前途多難だった。

 

 

舞踏会には、ロアとその周辺から大勢の貴族が招かれていた。

 

フィリップとヒルダは、来客一人一人へ丁寧に応対している。

 

サウロスは、相手が長い賛辞を口にしていても、途中で肩を叩き、大声で言った。

 

「よく来た!」

 

それだけで会話を終わらせる。

 

取り入ろうとしていた貴族たちは困惑していたが、サウロス本人はまったく気にしていなかった。

 

エリスも、次々に声をかけられている。

 

年上の貴族。

 

同年代の子供。

 

息子や孫を紹介する大人。

 

エリスは、教えられた挨拶を繰り返し、どうにか怒鳴らずに応対していた。

 

時折、助けを求めるようにルーデウスを見る。

 

だが、ここで毎回助ければ、覚えた作法を使う機会を奪う。

 

危険な発言をしそうになった時だけ、フィリップかヒルダが自然に会話へ入った。

 

レイネは、会場の端へ控えている。

 

給仕の手伝いをしながら、ルーデウスとエリスの位置を常に確認していた。

 

誘拐事件以来、屋敷の警備は強化されている。

 

招待客と使用人の身元も、事前に調べられていた。

 

それでも、レイネが完全に警戒を解くことはない。

 

ただ、周囲から見れば、主人へよく気を配る小柄な侍女にしか見えなかった。

 

やがて、楽団の演奏が変わった。

 

舞踏の時間である。

 

ルーデウスはエリスの前へ立った。

 

周囲の視線が集まる。

 

「エリス」

 

「何よ」

 

声が硬い。

 

「一曲、踊っていただけますか」

 

教わったとおり、手を差し出す。

 

エリスは何度か瞬きをした。

 

練習では、何度も繰り返した動作である。

 

しかし、大勢の貴族に見られている今は、まるで別物らしい。

 

「し、仕方ないわね」

 

差し出された手が、僅かに震えていた。

 

ルーデウスは強く握らず、離れない程度に支える。

 

二人で広間の中央へ進む。

 

曲が始まった。

 

一歩目。

 

エリスの身体が固まる。

 

足が動かない。

 

一度失敗すれば笑われる。

 

自分が主役なのに、踊れなければ恥をかく。

 

そう考えているのだろう。

 

ルーデウスは、視線を僅かに右へ動かした。

 

踏み込むように肩を動かす。

 

剣術で何度も使った、小さな誘いである。

 

エリスの赤い瞳が反応した。

 

「何よ」

 

小さな声が漏れる。

 

普段の調子が少し戻った。

 

ルーデウスは、今度こそ曲の拍子に合わせて足を進めた。

 

エリスもついてくる。

 

一歩。

 

待つ。

 

次の音で進む。

 

練習と同じである。

 

最初の動きへ飛びつかず、相手の本命を待つ。

 

数歩進む頃には、エリスの肩から余計な力が抜けていた。

 

足を踏まない。

 

腕を引かない。

 

音楽とルーデウスへ合わせ、同じ速度で進んでいる。

 

回転する。

 

ドレスの裾が広がる。

 

赤い髪の飾りが、会場の光を反射した。

 

エリスの口元へ、少しずつ笑みが浮かぶ。

 

一曲が終わった。

 

二人で礼をする。

 

僅かな静寂の後、大きな拍手が起こった。

 

最も大きな音を立てているのは、もちろんサウロスだった。

 

「見たかぁぁぁ! 儂の孫だぞぉぉぉ!」

 

会場中へ声が響く。

 

エリスは顔を赤くしながらも、誇らしそうに胸を張った。

 

エドナは会場の端で、両手を胸元へ重ねている。

 

普段よりも、ずっと嬉しそうな笑顔だった。

 

レイネと目が合う。

 

彼女は静かに頭を下げた。

 

まるで、自分のことのように喜んでいるように見えた。

 

 

最初の役目を終え、ルーデウスは会場の端へ移動した。

 

並べられた料理には、見たことのないものが多い。

 

果実を使った焼き菓子。

 

香草を詰めた肉料理。

 

魚を薄く切り、酸味のある汁へ漬けたもの。

 

ギレーヌは警備のため、会場の外周へ立っている。

 

料理へ視線を向けないよう努力しているが、鼻だけは何度も動いていた。

 

ルーデウスは皿へ料理を取り、近くの使用人へ頼んで別室へ運んでもらった。

 

後で、ギレーヌとレイネにも渡すためである。

 

「ルーデウス様」

 

背後から声をかけられた。

 

振り返ると、同年代らしい少女が立っている。

 

丁寧に名乗り、家名を口にした。

 

聞いた直後は覚えていたはずだが、緊張と料理のことで頭がいっぱいだったため、すぐに曖昧になった。

 

「一曲、踊っていただけませんか」

 

断る理由を探す。

 

しかし、先ほどエリスと踊ったばかりで、踊れないとは言えない。

 

「簡単な曲でよろしければ」

 

一人目と踊る。

 

戻ると、別の少女が待っていた。

 

その次にも、さらに別の相手が現れる。

 

中には、ルーデウスより年上の女性もいた。

 

全員の相手をする必要はない。

 

そう思いながらも、一人目を受けた後では、次を断りにくい。

 

何人目かを終えた頃には、剣術の十本勝負より疲れていた。

 

「ずいぶん人気者だね」

 

フィリップが近づいてきた。

 

「何が起きているのですか」

 

「父上が、君の姓を話した」

 

「隠す予定では?」

 

「酒が入って、機嫌がよくなったらしい」

 

サウロスを見る。

 

大きな杯を持ち、豪快に笑っている。

 

「あの子は誰かと尋ねられ、グレイラット家の子供だと自慢したようだ」

 

「それで、皆さんが?」

 

「君は幼いながら魔術を使い、エリスへ勉強を教え、舞踏でも助けた。将来性のあるグレイラット家の少年だと思われている」

 

つまり、今のうちに娘との接点を作っておきたいらしい。

 

「どう対応すればいいですか」

 

「失礼のない範囲で相手をすればいい。今すぐ何かを約束する必要はないよ」

 

フィリップは僅かに目を細めた。

 

「ただし、パウロのように片端から手を出すのはやめてくれ」

 

「しません」

 

即答した。

 

今の年齢で、そんなことをするつもりはない。

 

それに、少し離れた場所から強い視線を感じる。

 

エリスがこちらを睨んでいた。

 

周囲に貴族がいるため、怒鳴りはしない。

 

だが、明らかに機嫌が悪い。

 

やがて、エリスが静かな足取りで歩いてきた。

 

動きだけは、エドナから教わった淑女のものだった。

 

ルーデウスの前で立ち止まり、ドレスの裾を軽く摘む。

 

「わたくしと、もう一曲踊っていただけませんか」

 

声音まで、淑女らしく整えられている。

 

しかし、目だけは「断ったら許さない」と言っていた。

 

「喜んで」

 

もう一度、手を取る。

 

今度の曲は、練習していたものより少し速かった。

 

途中で拍子も変化する。

 

エリスの顔が強張った。

 

「知らない曲よ」

 

「僕も知りません」

 

「どうするのよ」

 

「剣術と同じです」

 

ルーデウスは曲に合わせ、決められた型から少し外れて動いた。

 

一歩進む。

 

急に止まる。

 

エリスが動きを読む。

 

横へ移る。

 

今度は、エリスが先に進む方向を示す。

 

正式な舞踏として正しいかは分からない。

 

エドナに見られれば、後で注意されるかもしれない。

 

それでも、音楽からは外れていない。

 

互いに手を取り、剣を持たずに、いつもの訓練と同じように相手の動きを読む。

 

エリスの緊張が消えていく。

 

やがて、大きな笑い声を上げた。

 

「何よ、これ!」

 

「舞踏です」

 

「絶対違うわよ!」

 

「音楽には合っています」

 

「ならいいわ!」

 

二人で回る。

 

周囲の貴族たちは、少し驚いた顔をしていた。

 

それでも、主役であるエリスが楽しそうに笑っている。

 

曲が終わる頃には、自然な拍手が会場から起こっていた。

 

エリスは息を弾ませ、頬を赤くしている。

 

「ルーデウス」

 

「はい」

 

「今日は、まあまあ役に立ったわ」

 

「ありがとうございます」

 

「明日からも、ちゃんと教えなさいよ!」

 

「明日は休息日の予定です」

 

「誕生日の次の日ぐらい、休んでもいいでしょう!」

 

最初は休息日の導入へ反発していた者の発言とは思えない。

 

「はい。ゆっくり休みましょう」

 

その時、サウロスが大股で近づいてきた。

 

「見事だったぞぉぉぉ!」

 

嫌な予感がした。

 

次の瞬間、ルーデウスとエリスは、二人まとめてサウロスの肩へ担ぎ上げられていた。

 

「高いです! 下ろしてください!」

 

「お祖父様、もっと走りなさい!」

 

エリスは喜んでいる。

 

サウロスは二人を乗せたまま、中庭を走り回った。

 

会場の者たちが笑う。

 

格式ある舞踏会が、一瞬でいつものボレアス家らしい騒がしさへ変わった。

 

 

宴が終わった後。

 

ルーデウスは、エリス、ギレーヌ、レイネを自室へ招いた。

 

昼間に取り分けておいた料理が、卓の上へ並んでいる。

 

エリスは宴の主役だったにもかかわらず、挨拶と緊張で、ほとんど食事を取れなかったらしい。

 

椅子へ座ると、すぐに肉料理へ手を伸ばした。

 

「おいしいわ!」

 

「会場で食べればよかったのでは?」

 

「食べようとするたびに、誰かが話しかけてきたのよ!」

 

ギレーヌも無言で料理を食べている。

 

相当に空腹だったらしい。

 

レイネは、最初は給仕へ回ろうとした。

 

しかし、今日は彼女にも食べてもらうために呼んでいる。

 

「レイネも座ってください」

 

「ですが」

 

「誕生日のお祝いです」

 

エリスも口を挟む。

 

「座りなさいよ。今日の主役は私なんだから、私がいいって言ったらいいのよ!」

 

「本日の主役からのご命令でございますか」

 

「そうよ!」

 

「では、失礼いたします」

 

レイネはようやく椅子へ腰を下ろした。

 

全員が一通り食べたところで、ルーデウスは寝台の横へ隠していた細長い包みを二つ取り出した。

 

「エリス。ギレーヌ」

 

「何よ、これ」

 

「贈り物です」

 

包みを開く。

 

中には、小ぶりな杖が一本ずつ入っていた。

 

高価な宝石を使った物ではない。

 

ルーデウスが土魔術で何度も試作品を作り、使いやすい長さと太さを決め、町の職人へ依頼して木材から削り出してもらった。

 

先端には、小さな魔石が取りつけられている。

 

「魔術の師匠は、弟子へ杖を贈ることがあるそうです」

 

ロキシーから受け取った杖を思い出す。

 

「あの杖ほど立派ではありませんが、初級魔術を使う際の補助にはなります」

 

ギレーヌが立ち上がった。

 

その場で片膝をつく。

 

剣神流の門弟が、師へ敬意を示す時の姿勢である。

 

「ルーデウス師匠。ありがたく受け取る」

 

そこまで畏まられるとは思っていなかった。

 

「どうぞ」

 

ギレーヌは両手で杖を受け取り、珍しく嬉しそうに眺めた。

 

エリスは、その様子を見て慌てて姿勢を正した。

 

「ありがとうございます、ルーデウス師匠」

 

言葉遣いだけは、エドナから教わった正式なものだった。

 

「大切に使ってください」

 

エリスは杖を受け取り、何度も角度を変えて眺める。

 

「私の方が、ギレーヌのより格好いいわね!」

 

「形は同じです」

 

「木の模様が違うわ!」

 

どうしても自分の方が特別だと思いたいらしい。

 

ギレーヌも、自分の指から古い木製の指輪を外した。

 

表面には多くの傷がついている。

 

「エリス。私は贈り物を用意していなかった」

 

「何でよ!」

 

「従者から主人へ贈る習慣は、私の一族にはない」

 

エリスの顔が分かりやすく落ち込む。

 

「だが、これをやる」

 

ギレーヌが指輪を差し出した。

 

「一族に伝わる魔除けだ。悪い狼から身を守ると言われている」

 

「いいの?」

 

「ああ。私には効果がなかった」

 

何があったのかは、聞かない方がよさそうだった。

 

エリスは指輪を受け取り、指へはめようとする。

 

少し大きく、すぐに抜けそうになった。

 

「こちらをお使いくださいませ」

 

レイネが、小さな包みを取り出した。

 

中には、深い赤色の組紐が入っている。

 

細い糸を何本も編み、一本の丈夫な紐にした物だった。

 

「私からのお祝いでございます」

 

「レイネも、何かくれるの?」

 

「はい」

 

「これは何?」

 

「指輪を通し、首へかけることができます。髪をまとめる際や、荷物を縛る際にもお使いいただけます」

 

「何でそんなに何でも使えるのよ」

 

「エリス様は、実用的な物を好まれるかと考えました」

 

組紐の先端には、小さな白い糸で、剣に似た模様が刺繍されている。

 

遠目には目立たない。

 

近くで見れば分かる程度の装飾だった。

 

エリスはしばらく模様を眺めた後、ギレーヌの指輪を組紐へ通した。

 

首へかける。

 

「似合う?」

 

「大変よくお似合いでございます」

 

「そうでしょう!」

 

エリスは右手へ杖を持ち、左手で首元の指輪を握った。

 

今日、舞踏会で何度も見せた笑顔とは違う。

 

誰かに見せるためではない。

 

心から満足している表情だった。

 

その後も四人で料理を食べ、舞踏会の話をした。

 

エリスは、自分がどれほど上手く踊ったかを何度も説明した。

 

途中で型を外れた二曲目まで、正式な舞踏だったことにしようとしている。

 

エドナには聞かせられない話だった。

 

夜も遅くなり、エリスは椅子へ座ったまま眠り始めた。

 

一日中、緊張し続けていたのだろう。

 

レイネが立ち上がり、エリスの身体を抱き上げる。

 

外見はエリスより幼く見える。

 

それでも、危なげなく支えていた。

 

「お部屋へお連れいたします」

 

「僕も手伝います」

 

「では、扉をお願いいたします」

 

エリスの部屋まで運ぶ。

 

寝台へ横たえられたエリスは、眠ったまま杖を離そうとしなかった。

 

首には、レイネの組紐へ通されたギレーヌの指輪がかかっている。

 

レイネが毛布をかけた。

 

「今日は、楽しそうでしたね」

 

ルーデウスが小さな声で言う。

 

「はい」

 

「最初は、舞踏など必要ないと言っていたのに」

 

「できるようになれば、楽しまれる方でございますから」

 

レイネは、眠るエリスの髪を整えた。

 

「ルーデウス様が、エリス様に理解できる方法を見つけられたからでございます」

 

「剣術の考え方を使っただけです」

 

「すでにできることから、できないことへ道をつなげられました」

 

できないことを責めるのではない。

 

すでに持っているものを利用し、別の形へ変える。

 

それは、この一年間でルーデウス自身も学んできたことだった。

 

エリスの寝顔は、普段の激しさが嘘のように穏やかだった。

 

剣神流中級。

 

読み書き。

 

簡単な算術。

 

初級魔術。

 

舞踏会でも、途中で逃げずに役目を果たした。

 

だが、この一年の成長は、位階や知識だけではない。

 

殴る前に拳を止められるようになった。

 

頼み事をする時、ぎこちなくても頭を下げられるようになった。

 

休むことを、負けだと思わなくなった。

 

怖い道も、誰かと一緒なら歩けるようになった。

 

完璧ではない。

 

今も怒鳴る。

 

物へ当たることもある。

 

算術を間違えれば、答えの方がおかしいと言い張る。

 

それでも、一年前とは明らかに違っていた。

 

ルーデウスは部屋を出る前に、眠るエリスをもう一度見た。

 

杖を胸へ抱き、指輪を握っている。

 

口元には、小さな笑みが残っていた。

 

「十歳のお誕生日、おめでとうございます。エリス」

 

返事はない。

 

二人は音を立てないよう扉を閉め、十歳になった少女を部屋へ残した。

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