白髪の侍女   作:MトK

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第十九話 言語学習

ルーデウス視点

 

エリスの十歳の誕生日が終わってから、屋敷での生活には僅かな変化が生まれた。

 

誕生日を境に、エリスが別人のように素直になったわけではない。

 

朝になれば大声で訓練へ誘い、算術で答えを間違えれば、問題の出し方が悪いと主張する。

 

礼儀作法の授業では、エドナの目を盗んで欠伸をすることもあった。

 

ただ、以前との違いは確かに存在していた。

 

分からないことがあれば、怒って席を立つ前に質問する。

 

納得できない説明を受けても、拳を上げるのではなく、どこが納得できないのかを言葉にしようとする。

 

失敗した時にも、ただ同じ動きを繰り返すのではなく、何が悪かったのかを尋ねるようになった。

 

特に舞踏会以降、エリスはルーデウスの教え方を以前より信頼するようになったらしい。

 

できないと思っていた舞踏を、すでに身につけていた剣術の感覚から覚えられたことが大きかったのだろう。

 

「これ、前にやった計算と同じ?」

 

ある日の算術で、エリスは問題を見ながら尋ねた。

 

品物を複数買い、残った硬貨を求める問題である。

 

「似ています。以前は引き算だけでしたが、今回は先に掛け算を使います」

 

「じゃあ、串焼きを三本ずつ、四人に配るのと同じね」

 

「そうです。まず、全部で何本必要かを求めます」

 

「なら、先に十二本ね!」

 

エリスは木片を並べ始めた。

 

頭の中だけで解こうとして失敗し、苛立っていた頃とは違う。

 

自分が理解できる形へ問題を置き換え、必要なら道具を使う。

 

そうした姿勢が身についたことで、授業は以前よりも進めやすくなった。

 

エリスが自分で問題へ取り組む時間も増えたため、ルーデウスにも僅かな余裕が生まれた。

 

そこで、自分自身の勉強を再開することにした。

 

最初に選んだのは、世界の歴史だった。

 

以前、ロアの町で甲龍王ペルギウスの空中城塞を目にして以来、気になっていたのである。

 

書庫から何冊かの歴史書を借り、自室へ運ぶ。

 

古い本は革の表紙が傷み、紙も黄ばんでいた。

 

同じ出来事を扱っている本でも、書かれた時代や著者によって内容が違う。

 

ある本では、人族の英雄が勇敢な交渉によって獣族の協力を得たと書かれている。

 

別の本では、獣族の有力者の子供を連れ出し、半ば人質として協力を迫ったと記されていた。

 

魔族についても同じである。

 

魔大陸へ追いやられた過程を、平和を守るためのやむを得ない判断とする本がある一方、人族による長期的な排斥だったと批判する記録もあった。

 

「同じ出来事なのに、随分と違いますね」

 

ルーデウスは、机の向かいにいるレイネへ言った。

 

レイネは傷んだ本を補修しているところだった。

 

破れかけた頁の端へ薄い紙を当て、少量の糊を丁寧に塗っている。

 

「歴史書とは、そのようなものでございます」

 

「起きた事実を記録するものではないのですか?」

 

「起きた出来事を記録するものではございます。ただし、何を記し、何を記さないかを決めるのは人でございます」

 

レイネは、補修した頁を慎重に閉じた。

 

「戦いに勝利した者が、自らを卑劣な侵略者として記録することは、あまりございません」

 

「では、どの本を信じればよいのでしょう」

 

「一冊だけを完全に信じる必要はないかと存じます」

 

レイネは、机へ積まれた本を見た。

 

「複数の記録を読み、共通している部分を探す。記述が異なる部分については、なぜ違うのかを考える。それでも分からないことは、分からないまま残しておくべきでしょう」

 

「分からないままですか」

 

「推測と事実を混同するよりは、安全でございます」

 

その考え方は、剣術の反省会にも通じていた。

 

相手がなぜ動いたのか。

 

自分には、そう見えただけかもしれない。

 

一つの答えを思いついても、それだけが正しいと決めつけない。

 

誘拐事件の時にも、ルーデウスは目の前にある情報だけで、自分が状況を制御できていると思い込んだ。

 

結果として、予想していなかった人間に計画を利用された。

 

知っていることと、知っているつもりになることは違う。

 

「人族の書いた歴史だけを読んでも、人族から見たことしか分からないのですね」

 

「おそらくは」

 

「魔族や獣族が書いた本も読めれば、別の見方が分かるかもしれません」

 

ルーデウスは、書庫や町の本屋で見かけた、読めない文字の本を思い出した。

 

人間語の本よりも随分と安かった。

 

内容を理解できる者が、この地域にはほとんどいないためだろう。

 

「別の言語を覚えます」

 

「獣神語や魔神語でございますか?」

 

「はい。まずは、教えてくれる人がいる獣神語から始めます」

 

レイネは僅かに目を細めた。

 

「よろしい選択かと存じます」

 

「レイネは、獣神語を知っていますか?」

 

「旅先で耳にしたことはございます」

 

「話せるのですか?」

 

「ルーデウス様へ正確にお教えできるほどではございません」

 

回答は慎重だった。

 

発音を少し知っているだけなのか。

 

それとも、何かを隠しているのか。

 

以前のルーデウスなら、気になったまま質問を重ねていたかもしれない。

 

しかし、レイネが話さないと決めていることを、無理に聞き出しても仕方がない。

 

「では、ギレーヌに頼んでみます」

 

「はい。獣神語を母語となさるギレーヌ様であれば、言葉だけでなく、獣族の習慣についてもお教えいただけるでしょう」

 

 

「私が、ルーデウスへ教えるのか」

 

夕食後。

 

ルーデウスから相談を受けたギレーヌは、珍しく不安そうな顔をした。

 

「はい。獣神語を教えてください」

 

「話すことはできる」

 

「書くこともできますか?」

 

「できる」

 

「では、問題ありません」

 

「問題はある」

 

ギレーヌは腕を組んだ。

 

「私は教えるのが上手くない」

 

剣術の指導では、身体を動かして見本を示す。

 

魔術や算術の授業では、ルーデウスから教わる側である。

 

言葉を体系立てて誰かへ教えた経験はないのだろう。

 

「最初から上手く教える必要はありません」

 

「だが、間違って教えたら困る」

 

「分からないことは、分からないと言ってください。一緒に方法を考えます」

 

「私は先生ではない」

 

「剣術では先生でしょう?」

 

「あれは、剣を振ればいい」

 

「獣神語では、言葉を話してもらえればよいのです」

 

「そんなに簡単ではない」

 

珍しく、ギレーヌが弱気だった。

 

ルーデウスは、自分が初めてエリスへ算術を教えた時を思い出した。

 

自分には簡単にできることでも、できない相手が何につまずくのかは分からない。

 

ギレーヌにとって獣神語は、物心がつく前から使ってきた言葉だ。

 

なぜその順番で単語を並べるのか。

 

どうして、その場面では音が変化するのか。

 

普段は意識していないはずである。

 

「僕が質問します。ギレーヌは、正しい言い方を教えてください」

 

「それだけでいいのか」

 

「最初は、それだけで十分です」

 

ギレーヌはしばらく考えた後、頷いた。

 

「分かった。やってみる」

 

「ありがとうございます、ギレーヌ先生」

 

「先生……」

 

ギレーヌの耳が、ぴくりと動いた。

 

少しだけ嬉しそうだった。

 

 

最初の授業では、簡単な挨拶から始めた。

 

朝の挨拶。

 

感謝。

 

謝罪。

 

自分の名前を伝える言葉。

 

相手の名前を尋ねる言葉。

 

ギレーヌが一度発音し、ルーデウスが繰り返す。

 

「違う」

 

「どこが違いましたか?」

 

「耳の後ろから出す音が足りない」

 

「耳の後ろからは音を出せません」

 

「獣族は出せる」

 

身体構造が違うのだろうか。

 

ギレーヌが同じ言葉を、ゆっくり発音する。

 

ルーデウスは口と舌の動きを確認し、何度か繰り返した。

 

「今のは?」

 

「少し違う」

 

「意味は通じますか?」

 

「通じる。だが、子供のような話し方だ」

 

最初は、それでよい。

 

発音の違いを気にしすぎて、一言も話せなければ意味がない。

 

「私もやるわ!」

 

途中から、エリスが授業へ入ってきた。

 

「今日はエリスの授業ではありません」

 

「ギレーヌが先生をするなら、私も習うのよ!」

 

「構いませんが、無理に覚えなくてもいいですよ」

 

「ルーデウスにできて、私にできないと思ってるの?」

 

そういう話ではない。

 

しかし、エリスはルーデウスの隣へ座り、同じ挨拶を繰り返し始めた。

 

発音は、ルーデウスより上手かった。

 

ギレーヌの声を聞く機会が長く、獣族特有の音へ耳が慣れているのかもしれない。

 

「上手い」

 

ギレーヌから褒められると、エリスは胸を張った。

 

「当然よ!」

 

「意味は覚えていますか?」

 

ルーデウスが尋ねる。

 

「朝に言う言葉でしょう!」

 

「正確には?」

 

「朝にギレーヌへ言えば、ギレーヌが喜ぶ言葉よ!」

 

使い方は合っている。

 

意味を理解しているかは怪しい。

 

翌日、エリスは朝の訓練場へ入るなり、覚えた挨拶を大声で叫んだ。

 

ギレーヌは少し驚いた後、同じ言葉を返した。

 

その時、普段は動きの少ないギレーヌの表情が、僅かに柔らかくなった。

 

エリスは本格的に獣神語を学び続けたわけではない。

 

それでも、ギレーヌにとっては、自分の故郷で使われている言葉へエリスが興味を示し、実際に挨拶まで覚えてくれたことが嬉しかったのだろう。

 

その後も、エリスはいくつかの日常的な言葉だけは忘れずに使っていた。

 

ルーデウスの勉強も続いた。

 

最初は単語を一つずつ覚える。

 

次に、短い文章を作る。

 

ギレーヌが故郷の話をする時には、できるだけ獣神語を使ってもらう。

 

理解できなかった部分を書き出し、後から意味を確認する。

 

レイネは教師として授業へ参加しなかったが、ルーデウスが作った単語帳を整理し、復習する順番について助言した。

 

「一度に多く覚えるより、忘れかけた頃に、もう一度確認なさる方がよろしいかと存じます」

 

「今日覚えた言葉を、明日すべて繰り返すのではなく?」

 

「すでに覚えておられる言葉へ同じ時間を使い続ければ、新しい言葉を学ぶ時間が減ってしまいます」

 

そこで、単語をいくつかの箱へ分けた。

 

間違えた言葉は翌日。

 

一度正解した言葉は三日後。

 

何度も正解できたものは、さらに先へ回す。

 

忘れたものは、最初の箱へ戻す。

 

単純な方法だが、効果はあった。

 

ギレーヌも、毎日長時間教える必要はない。

 

食事中や剣術の後に短い会話を交わすだけでも、発音と聞き取りの練習になる。

 

「今日は、何をした」

 

ギレーヌが獣神語で尋ねる。

 

「エリスへ、掛け算を教えました」

 

ルーデウスも獣神語で答える。

 

「エリスは、怒ったか」

 

「三回怒りました。一回は、問題を書いた板へ」

 

「いつもより少ない」

 

会話の内容はともかく、少しずつ言葉がつながるようになった。

 

 

エリスの十歳の誕生日から一年。

 

ルーデウスは九歳になった。

 

ボレアス家へ来てから、二年が過ぎたことになる。

 

獣神語は、日常会話であれば大きな不自由なく使えるようになっていた。

 

難しい比喩や、集落ごとに異なる言い回しは分からない。

 

それでも、ギレーヌと獣神語だけで一日を過ごすことはできる。

 

簡単な本も、時間をかければ読めるようになった。

 

ある朝、ルーデウスは訓練場へ入り、獣神語で挨拶した。

 

ギレーヌも同じ言葉を返す。

 

続けて、昨夜読んだ獣族の英雄譚について質問する。

 

ギレーヌは最初、普段どおり短く答えていた。

 

だが、話が故郷の大森林へ移ると、少しずつ言葉が増えていった。

 

雨季。

 

集落。

 

戦士の儀式。

 

子供の頃に登った大きな木。

 

人間語では上手く説明できなかったものを、獣神語では滑らかに語る。

 

表情も、普段より豊かだった。

 

「ギレーヌ」

 

ルーデウスは話の途中で呼びかけた。

 

「何だ」

 

「教えてくれて、ありがとうございました」

 

獣神語で伝える。

 

「ギレーヌがいなければ、ここまで覚えられませんでした」

 

ギレーヌは黙った。

 

尻尾が、一度だけ大きく動く。

 

「私は、言葉を話しただけだ」

 

「それを一年間続けてくれました」

 

「ルーデウスが、勝手に覚えた」

 

「それでも、先生はギレーヌです」

 

ギレーヌは顔を背けた。

 

「訓練を始める」

 

「はい」

 

声はいつもと同じだったが、耳の先が僅かに赤くなっていた。

 

 

獣神語の次は、魔神語を学ぶことにした。

 

以前、ロキシーへ手紙を送り、基本的な魔神語を教えてほしいと頼んでいる。

 

だが、手紙を送ってから長い間、返事はなかった。

 

ロキシーはシーローン王国で王子の家庭教師をしている。

 

忙しいのかもしれない。

 

あるいは、途中で手紙が失われた可能性もある。

 

返事を待っている間にも、できることはある。

 

ルーデウスは町の本屋で、魔神語らしい文字の本を一冊購入した。

 

人間語を読める者から見れば、内容を確認することすらできない。

 

そのため、紙と革の量に比べれば随分と安かった。

 

ただし、安いからといって、読めなければ役には立たない。

 

「分かりません」

 

購入から三か月後。

 

ルーデウスは机へ額をつけていた。

 

同じ形の文字を探し、出てくる回数を数える。

 

文の区切りらしい場所を見つける。

 

繰り返される短い文字列を、人名や助詞ではないかと推測する。

 

いくつもの仮説を立てた。

 

だが、最初の一文すら正確に読めない。

 

獣神語を学んだ時には、ギレーヌという話者がいた。

 

内容の近い人間語の本もあったため、文章同士を比較できた。

 

魔神語には、そのどちらもない。

 

どこからどこまでが一つの単語なのかすら分からなかった。

 

「暗号より難しいですね」

 

「暗号には、正しい文章を隠すという目的がございます」

 

レイネは、ルーデウスが書いた文字の一覧を見ていた。

 

「魔神語は、最初から魔神語として成立しております。人間語の規則を当てはめても、同じ形にはならないでしょう」

 

「この繰り返される文字が、何か重要な単語だと思うのですが」

 

「同じ単語とは限りません」

 

「同じ文字列なのに?」

 

「人間語でも、一つの言葉が複数の意味を持つことはございます。また、前後の言葉によって役割が変わる場合もございます」

 

正しい指摘だった。

 

「レイネは、この文字を見たことがありますか?」

 

ルーデウスは本を見せた。

 

レイネの赤い瞳が、頁の上をゆっくり移動する。

 

一瞬だけ、読む者の目に見えた。

 

文字を形として確認しているのではない。

 

文章の流れを追っているような動きだった。

 

しかし、すぐに本を閉じる。

 

「似た文字を、旅先で目にしたことはございます」

 

「読めますか?」

 

「私がルーデウス様の教師を務めることはできません」

 

読めるとも、読めないとも言わなかった。

 

「理由を聞いても?」

 

「正しくお教えできると証明できない知識を、確かなものとしてお渡しするべきではございません」

 

慎重すぎる答えだった。

 

何かを隠している。

 

そう感じた。

 

それでも、ルーデウスは追及しなかった。

 

レイネは、教えられることを何でも先に与えるのではなく、ルーデウス自身が考える余地を残している。

 

剣術でも、生活でも、ずっとそうだった。

 

魔神語についても、同じなのかもしれない。

 

「ロキシーからの返事を待ちます」

 

「それがよろしいかと存じます」

 

「その間も、考えるだけは考えます」

 

「はい。ただし、休息日まで机へ向かい続けることはお勧めいたしません」

 

「最近、そこまでしていましたか?」

 

「昨日は、夕食後から夜半まで同じ頁をご覧になっておりました」

 

見られていた。

 

「次から気をつけます」

 

「お願いいたします」

 

 

ロキシーからの荷物が届いたのは、それからしばらく後だった。

 

手紙ではない。

 

小さな木箱だった。

 

持ち上げると、見た目よりも重い。

 

ルーデウスは自室へ運び、机の上へ置いた。

 

紐を解く。

 

蓋を開ける。

 

中には、一通の手紙と、革張りの分厚い本が入っていた。

 

本に題名はない。

 

何度も開かれた辞書を写したのか、文字の濃さには僅かな違いがある。

 

最初の頁を開く。

 

人間語と魔神語が、左右へ並べて書かれていた。

 

単語。

 

簡単な文章。

 

発音。

 

語順。

 

地域による違い。

 

後半には、ロキシーが知っている魔族の種族や習慣までまとめられている。

 

挿絵は、上手いとは言い難い。

 

だが、特徴を伝えようと、何本もの矢印と説明が書き込まれていた。

 

「これは……」

 

辞書であり、教科書であり、ロキシー自身の知識をまとめた記録だった。

 

既存の本を一冊送ったのではない。

 

ルーデウスが学べるように、人間語で一つずつ書き直したのだろう。

 

これを作るために、どれほどの時間を使ったのか。

 

手紙を開く。

 

そこには、フィットア領で家庭教師になったことへの驚きと、ギレーヌへ魔術を教えていることへの感想が書かれていた。

 

魔神語を学ぼうとする姿勢を褒めながらも、発音を直接確認できないため、間違った癖をつけないよう注意すること。

 

魔族には、人族とは異なる習慣を持つ種族が多いこと。

 

言葉だけでなく、相手が何を嫌うのかも学ぶべきだという助言もあった。

 

最後には、短い一文が添えられていた。

 

次に会った時には、魔神語で話してみたい。

 

そう書かれていた。

 

胸の奥が温かくなった。

 

「ロキシー様らしいお品ですね」

 

いつの間にか、レイネが机の横へ立っていた。

 

「はい」

 

ルーデウスは、分厚い教材を撫でた。

 

「僕が返事を待っている間、ずっとこれを書いてくれていたのでしょうか」

 

「その可能性は高いかと存じます」

 

「一年以上、返事がなかったので、忘れられたのかと思いました」

 

「忘れておられた方が、これほどの物をご用意なさることはないでしょう」

 

確かにそうだ。

 

返事が遅いことと、相手が自分を軽く扱っていることは同じではない。

 

目に見えないところで、ロキシーは必要な物を作ってくれていた。

 

「大切に使います」

 

「はい」

 

「ロキシーに返事も書かないと」

 

「本日は、まず中身をご確認なさるのでしょう?」

 

「もちろんです」

 

「夕食の時間までにしてくださいませ」

 

先回りされた。

 

「分かっています」

 

教材を開く。

 

これまで意味不明だった本の文字と見比べる。

 

最初に何度も現れていた短い文字列は、予想していた助詞ではなかった。

 

魔族の一部で使われる、書き手自身を表す言葉だった。

 

「最初から間違っていました」

 

「仮説が間違っていたと確認できたのであれば、前進でございます」

 

「それも、レイネが以前言っていましたね」

 

「そうでございましたか?」

 

知らないふりをしているように見えた。

 

ルーデウスは笑い、改めて教材へ向き直った。

 

 

「これが、前に話していたロキシーって人から届いたの?」

 

夕方。

 

エリスが自室へ入ってくるなり、机の上の本を見つけた。

 

エリスには以前、無詠唱魔術について説明した際、ルーデウスが幼い頃にロキシーという魔術師から教わったことを話している。

 

名前と、以前の魔術教師であることは知っている。

 

ただし、直接会ったことはない。

 

「はい。魔神語の教材を作ってくれました」

 

「ルーデウスへ最初に魔術を教えた先生でしょう?」

 

「そうです」

 

「これを全部、その人が書いたの?」

 

エリスは本を持ち上げようとし、予想よりも重かったのか、両手で抱え直した。

 

「おそらくは。既存の本を写した部分もあると思いますが、僕が学べるように説明を書き加えてくれています」

 

「随分と時間がかかりそうね」

 

「だから、返事が届くまで時間がかかったのでしょう」

 

エリスは数頁をめくった。

 

読めない魔神語を見て、すぐに眉を寄せる。

 

「ルーデウスは、これも覚えるの?」

 

「そのつもりです」

 

「獣神語も覚えたのに?」

 

「別の場所へ行けば、別の言葉が使われていますから」

 

「そんなにいろいろ覚えて、どこへ行くつもりよ」

 

何気ない質問だった。

 

しかし、エリスの声には僅かな不安が混じっていた。

 

家庭教師の契約には期限がある。

 

五年。

 

その後、ルーデウスは魔法大学へ行く予定である。

 

エリスも、それを理解している。

 

「今すぐ、どこかへ行くわけではありません」

 

「でも、いつかは行くんでしょう」

 

「はい」

 

嘘をついて安心させることはできない。

 

「その時、エリスが一緒に行きたいと思えば、行く方法を考えることもできます」

 

エリスが顔を上げた。

 

「私も?」

 

「フィリップ様やサウロス様の許可は必要ですが」

 

「私が行くって言ったら、ルーデウスは嫌じゃないの?」

 

「嫌ではありません」

 

即答すると、エリスはしばらく黙った。

 

やがて、ロキシーの教材を机へ戻す。

 

「なら、魔神語をちゃんと覚えなさい」

 

「なぜですか?」

 

「私が魔大陸へ行きたいって言った時、言葉が通じないと困るでしょう!」

 

「僕が案内することまで決まったのですか」

 

「今、決めたのよ!」

 

いつもの理屈だった。

 

しかし、エリスの顔から不安は消えていた。

 

「では、勉強します」

 

「私の授業も忘れるんじゃないわよ!」

 

「もちろんです」

 

「剣術もよ!」

 

「それも忘れません」

 

「休息日も!」

 

最後だけ、内容が違う。

 

「はい。休むことも忘れません」

 

満足したらしく、エリスは頷いた。

 

「ならいいわ!」

 

 

ギレーヌ視点

 

ルーデウスが、また新しい言葉を学び始めた。

 

獣神語の次は、魔神語らしい。

 

あの少年は、いつも先のことを考えている。

 

何の役に立つか、今は分からない。

 

それでも、必要になる可能性があるなら、少しずつ準備を始める。

 

以前のあたしには、理解できない考え方だった。

 

必要になった時に剣を振ればいい。

 

敵が出たら斬ればいい。

 

腹が減ったら仕事を探せばいい。

 

そう考えて生きてきた。

 

その結果、相場を知らずに金を騙し取られ、文字を読めずに契約で損をし、仕事を探すための金すらなくなった。

 

サウロス様に拾われなければ、どこかで死んでいただろう。

 

ルーデウスから算術を習い、文字を教えられた。

 

初級魔術も使えるようになった。

 

今では、店で釣り銭を誤魔化されても気づける。

 

簡単な契約なら、自分で読める。

 

故郷へ手紙を書くこともできる。

 

そして今度は、あたしがルーデウスへ獣神語を教えた。

 

最初に頼まれた時は、自分にはできないと思った。

 

言葉など、子供の頃から話している。

 

どうやって覚えたかも分からない。

 

だが、ルーデウスは、あたしに上手い説明を求めなかった。

 

正しい言葉を話す。

 

間違っていれば直す。

 

分からなければ一緒に考える。

 

それだけでよいと言った。

 

いつの間にか、あの少年は、あたしの故郷の言葉を話せるようになっていた。

 

あたしが人間語では上手く語れなかった話も、獣神語なら理解してくれた。

 

あたしは、ルーデウスを先生だと思っている。

 

だが、ルーデウスもまた、あたしを先生と呼んだ。

 

悪い気分ではなかった。

 

剣術についても、ルーデウスは成長を続けている。

 

パウロから中級を認められていたというだけあって、ロアへ来た時点で基礎はできていた。

 

今は、そこへ経験が加わっている。

 

相手の剣だけを見ない。

 

肩、腰、足を見る。

 

力を正面から受けず、外へ逃がす。

 

不利な間合いから離れるだけではなく、時には懐へ入り、相手が剣を振れない場所を取る。

 

エリスお嬢様との勝負では、今もお嬢様が勝ち越している。

 

十本戦えば、お嬢様が七本。

 

ルーデウスが三本。

 

ルーデウスの調子がよく、お嬢様が誘いへ乗れば六対四。

 

反対に、お嬢様がルーデウスの狙いを早く読めば、八対二になる日もある。

 

一年前より差が開いたように見える日もある。

 

ルーデウスが弱くなったのではない。

 

エリスお嬢様の成長が速いのだ。

 

お嬢様は剣神流中級になってからも、勢いを増している。

 

踏み込みへ、僅かに闘気が乗り始めていた。

 

まだ自分で操ってはいない。

 

怒りや集中によって、自然に身体へ現れているだけだ。

 

それでも、剣の速さと重さは以前とは違う。

 

ルーデウスは闘気を使えない。

 

身体能力だけを比べれば、年齢を重ねるほど差が広がる可能性がある。

 

だが、ルーデウスはそれを理解した上で、別の部分を伸ばしている。

 

一度負けた後、レイネと話す。

 

レイネは剣の技を教えない。

 

少なくとも、あたしが見ている場所では教えていない。

 

何を見ていたのか。

 

なぜ動いたのか。

 

ほかに何ができたのか。

 

それだけを尋ねる。

 

ルーデウスは答えを考え、次の訓練では違う動きを試す。

 

だから、お嬢様が成長しても、一方的な勝負には戻らない。

 

あたしは剣神流しか教えられない。

 

剣神流は、相手より速く踏み込み、一撃で勝負を決める流派だ。

 

ルーデウスは考えすぎる。

 

相手を見て、多くの選択肢を比べ、最も被害の少ない方法を選ぼうとする。

 

剣神流には向いていない。

 

だが、戦いに向いていないわけではない。

 

むしろ、魔術も使う実戦では、非常に厄介な相手になる。

 

足場を変える。

 

視界を塞ぐ。

 

風で姿勢を崩す。

 

相手が対処した先へ、次の魔術を置く。

 

そのすべてを、剣を持ちながら行う。

 

剣神流より、北神流の方が合うだろう。

 

使える手段を選ばず、状況へ合わせて勝ち方を変える。

 

あいにく、あたしは北神流を教えられない。

 

今は、剣神流の基礎を繰り返すしかない。

 

基礎があれば、別の流派を習う時にも役立つ。

 

「ギレーヌ!」

 

中庭から、エリスお嬢様の声が響いた。

 

「何だ」

 

「ルーデウスが、また本を読んでるわ!」

 

「そうか」

 

「だから、今のうちに剣術をするわよ!」

 

ルーデウスが勉強している間に、自分は剣を伸ばすつもりらしい。

 

「今日は休息日だ」

 

「軽く動くだけよ!」

 

お嬢様は最近、休息日の意味を理解している。

 

軽く動くと言った日には、本当に疲れる前にやめる。

 

それでも、剣を持たずにはいられない。

 

「分かった」

 

あたしが答えると、お嬢様は嬉しそうに木剣を二本持ち上げた。

 

「レイネもやる?」

 

庭の端にいたレイネへ、エリスお嬢様が声をかける。

 

レイネは首を横へ振った。

 

「私は見学させていただきます」

 

「いつも見てるだけじゃない」

 

「お二人の訓練を拝見することも、私には大切でございますので」

 

レイネは笑っていた。

 

穏やかな笑みだ。

 

あたしは、この少女が普通の侍女ではないことを知っている。

 

あの誘拐事件で何かが起きたことも理解している。

 

だが、レイネが何者で、どこまで強いのかは分からない。

 

本人も語らない。

 

サウロス様やフィリップ様へも、必要以上のことは伝えていない。

 

最初は警戒した。

 

今も完全に警戒を解いたわけではない。

 

しかし、レイネがルーデウスやエリスお嬢様へ害を与えるつもりがないことだけは分かる。

 

強すぎる力を持ちながら、二人の前へ立ち続けようとはしない。

 

危険がなければ、半歩後ろにいる。

 

答えを知っているように見えても、ルーデウスが自分で考えるまで待つ。

 

それは、あたしにはできない教え方だった。

 

「始めるわよ、ギレーヌ!」

 

「分かった」

 

エリスお嬢様が構える。

 

一年前よりも、姿勢が安定している。

 

踏み込みも速い。

 

ルーデウスへ負けた動きを直すためだけではない。

 

自分がどこまで強くなれるのかを知りたくて、剣を振っている。

 

ルーデウスは書物を開き、まだ見たことのない土地の言葉を学んでいる。

 

エリスお嬢様は剣を振り、まだ届かない強さを追いかけている。

 

レイネは二人を見守りながら、必要な時だけ手を差し出す。

 

あたしも、自分にできることを続けよう。

 

まずは、目の前の剣へ向き合う。

 

「来い、エリス」

 

「言われなくても!」

 

赤い髪が揺れる。

 

次の瞬間、鋭い踏み込みとともに、木剣があたしの肩口へ迫ってきた。

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