ルーデウス視点
グレイラット家へ白髪の侍女が加わってから、しばらくのあいだ、ルーデウスの生活には目立った変化がなかった。
赤ん坊である以上、一日の大半を眠って過ごし、目を覚ませば乳を飲み、身体を拭かれ、眠気が訪れれば再び意識を手放す。前世で三十四年間を生きた記憶があっても、未成熟な身体が要求する生活の周期には逆らえず、何かを考えている途中でも空腹や眠気によって思考を中断させられた。
それでも、周囲を観察する時間が少しずつ増えるにつれ、この家に暮らす者たちの関係は見えてきた。
金髪の女性はゼニス。
茶色い髪の男はパウロ。
黒に近い髪を持つ侍女はリーリャ。
そして、雪のような白髪と赤い瞳を持つ小さな侍女が、レイネだった。
最初に理解できたのは、人の名前である。
ゼニスは夫を「パウロ」と呼び、パウロは妻を「ゼニス」と呼ぶ。二人とも、黒髪の侍女へ話しかける時には「リーリャ」という音を使い、新しく加わった白髪の少女へは「レイネ」と呼びかけていた。
そして、自分へ向けて最も頻繁に使われる音が、「ルーデウス」だった。
家族からは短く「ルディ」と呼ばれることも多い。
どうやら、それが今世における自分の名前らしい。
言葉そのものは、すぐに理解できるようになったわけではない。最初のうちは、同じ音がどの場面で使われているのかを記憶し、表情や動作と結びつけることから始めた。
ゼニスが器を示しながら「水」と言う。
パウロが剣を持ちながら「剣」と言う。
リーリャが寝台を整えながら「眠る」と語りかける。
同じ状況で同じ言葉が使われるたびに、曖昧だった音へ意味が与えられていった。
その過程で、最も助けになったのはレイネだった。
レイネは赤ん坊へ話しかける時にも、必要以上に語尾を崩したり、意味のない幼児語へ置き換えたりしなかった。物を手に取れば名前を告げ、動作を始める前には何をするのかを短く説明し、終えた後には結果を言葉へする。
「窓を開けます。朝の空気を入れましょう」
「お身体を拭きます。少し冷たく感じるかもしれません」
「こちらは新しい衣服です。昨日のものより厚手でございます」
言葉を理解できない赤ん坊を相手にしているというより、いずれ理解することを前提に、日常の一つ一つへ名前を与えているようだった。
その話し方が意識的な教育なのか、単にレイネの性格なのかは分からない。
少なくとも、ルーデウスにとっては非常にありがたかった。
前世の記憶を持っているとはいえ、まったく知らない言語を音だけから覚えるのは簡単ではない。だが、レイネが物と動作を明確に対応させてくれるおかげで、言葉の輪郭を掴む速度は、他の者から学ぶ時よりも早かった。
生後半年を過ぎる頃には、家の中で交わされる簡単な会話なら、おおよその意味を理解できるようになっていた。
もっとも、理解できることと、自分で話せることは別である。
口や舌はまだ十分に発達しておらず、頭の中にある言葉をそのまま発音することは難しかった。下手に流暢な言葉を口にすれば、赤ん坊として不自然に思われる可能性もある。
そのためルーデウスは、周囲の子供がどの程度の時期に、どのような言葉を使い始めるのかを観察しながら、少しずつ発音を増やしていった。
最初に口にしたのは、「母様」でも「父様」でもなかった。
寝台から抱き上げられた時、いつものようにレイネが「おはようございます、ルーデウス様」と挨拶したので、つい反射的に名前を呼ぼうとしてしまったのである。
「れ……い、ね」
発音は不明瞭だった。
けれど、名前として聞き取れる程度には形になっていた。
レイネの動きが止まった。
普段なら、どのような仕事をしている最中でも、次に必要な動作へ迷いなく移る。そんな彼女が、ルーデウスを抱いたまま、珍しく何もせずにこちらを見つめていた。
「……もう一度、お願いできますか」
柔らかな声だったが、普段より僅かに低い。
ルーデウスは、一度目よりも慎重に口を動かした。
「レイネ」
今度は、はっきりと言えた。
レイネは目を見開くことも、大げさに喜ぶこともしなかった。ただ、その赤い瞳がほんの少しだけ細められ、いつも整っている微笑が、わずかに崩れた。
「はい。レイネでございます」
それだけ答えると、レイネはルーデウスを抱き直した。
間もなく、声を聞きつけたゼニスが部屋へ入ってきた。
「今、ルディが何か言わなかった?」
「私の名前を呼んでくださいました」
「本当に?」
ゼニスは喜びながら駆け寄り、ルーデウスの顔を覗き込んだ。
「ルディ。母様よ。母様って言ってみて」
期待に満ちた顔を向けられたルーデウスは、少しだけ罪悪感を覚えた。
最初の言葉が母親の呼び名ではなかったのは、決してゼニスよりレイネを好んでいるからではない。ただ、毎朝同じ言葉で挨拶され、名前を聞く機会が多かったため、口から出しやすかっただけである。
そう説明することもできず、ルーデウスはゼニスの期待へ応えるように口を開いた。
「かあ、さま」
多少つかえたが、意味は通じた。
ゼニスは歓声を上げ、ルーデウスをレイネの腕から受け取ると、何度も頬へ口づけた。
その日の夕食では、パウロが自分の呼び名も言わせようとして何度も挑戦し、ルーデウスが「父様」と発音できるようになるまで諦めなかった。リーリャはその騒ぎを少し離れた場所から見守っていたものの、ルーデウスが彼女の名も呼ぶと、いつもの無表情を保ちながら僅かに目を伏せた。
言葉を使えるようになると、家族との距離は急速に縮まった。
それまでは泣くことでしか伝えられなかった要求を、短い言葉で表せる。水が欲しい、眠い、暑い、痛いといった簡単な内容でも、自分の意志が相手へ届くことは、ルーデウスにとって新鮮だった。
前世では、言葉を使える身体を持ちながら、他人と話すことを拒んだ。
今世では、言葉を一つ覚えるたびに、誰かとの関係が広がっていく。
その違いを感じるたびに、前世で捨ててきたものの大きさを思い知らされた。
やがて自力で座れるようになり、家具につかまりながら立ち上がれるようになると、ルーデウスの行動範囲は寝台の周囲から部屋全体へ広がった。
歩く練習についても、レイネは過剰に手を貸そうとはしなかった。
転びそうになればすぐ支えられる距離にはいるが、最初から両手を持って歩かせるのではなく、ルーデウスが自分の足で重心を探るのを待った。何度か尻餅をつき、それでも立ち上がろうとすると、必要な時だけ家具の位置を少し変え、次に手を伸ばせる場所を用意してくれる。
「随分と慎重なのね」
ある日、その様子を見ていたゼニスが言った。
「抱えて歩かせた方が早く覚えるんじゃない?」
「歩くことを覚えるのは、ルーデウス様のお身体でございます。支えすぎれば、ご自身で釣り合いを取る機会を失ってしまいますので」
「そういうものなの?」
「以前お世話をしたお子様も、初めは同じように練習なさいました」
レイネの説明を聞きながら、ルーデウスは椅子の脚につかまり、慎重に片足を前へ出した。
前世では、立って歩くことなど意識する必要もなかった。
ところが赤ん坊の身体では、片足を持ち上げるだけで全身の釣り合いが崩れる。腕、腰、足のすべてを使い、倒れないように重心を移動させなければならない。
人間が当たり前に行っている動作が、いかに複雑なものなのかを、今さらになって理解した。
一歩。
次に、もう一歩。
椅子から手を離し、レイネの方へ進む。
三歩目で身体が傾いたが、床へ倒れる前に、レイネの腕が胸元を支えた。
「よくできました」
大げさな拍手も歓声もなかった。
ただ、落ち着いた声で認められたことが、妙に嬉しかった。
◇
リーリャ視点
試用期間として定められた一か月が過ぎた後も、レイネの仕事ぶりに乱れが生じることはなかった。
最初の数日は丁寧に働いていた者が、雇われる見込みが立った途端に手を抜くという話は珍しくない。だがレイネは、正式な雇用が決まる前と後で、仕事の質も態度も変えなかった。
むしろ日数が経つほど、この家に合った働き方を覚え、無駄な確認が減っていった。
朝食の好み一つを取っても、パウロは訓練や巡回がある日には量を多めに必要とし、ゼニスは村人の治療へ向かう朝には、時間をかけず食べられる物を好む。リーリャは朝から油の多い料理を避けるが、疲れている日には温かい飲み物を多く取る。
レイネは、そのような小さな違いを一度見れば記憶し、誰かが求める前に準備していた。
それでいて、主人の好みを知っていることを誇示しない。
相手が自分の仕事を意識しなくても、生活が滞りなく進むよう整える。それが彼女の働き方だった。
「正式にうちで働いてくれるか?」
一か月後、パウロが改めて尋ねた時にも、レイネは過剰に喜ぶことなく、しかし形式的な礼だけで済ませることもなく、深く頭を下げた。
「ありがとうございます。今後とも、よろしくお願いいたします」
それ以降、レイネはグレイラット家の二人目の侍女として生活することになった。
リーリャが家全体の管理と主人夫婦の身の回りを中心に担い、レイネは料理、修繕、ルーデウスの世話を多く受け持つ。もちろん厳密に仕事を分けたわけではなく、忙しい方をもう一人が補う形だった。
二人の間に大きな衝突はなかった。
レイネはリーリャを先任者として立て、家の決まりについて勝手な変更を行わない。リーリャもまた、能力のある相手を無用に抑えつけるつもりはなく、任せられる仕事は任せた。
ただし、リーリャがレイネを完全に理解したわけではなかった。
彼女はよく働き、礼儀正しく、住人の誰に対しても穏やかである。それにもかかわらず、疲労や不満を表へ出すことがほとんどない。
朝から夜まで働いても、呼吸を乱すことさえ滅多になかった。
薪を運ぶ際には無理のない量へ分け、重い物を一度に持ち上げるような真似はしない。外見に似合わない怪力を見せるわけでもないため、身体能力そのものが異常だとは思えなかった。
単に、動作の一つ一つに無駄がないのだろう。
そう考えれば説明はつく。
乳児の世話についても同様だった。
レイネはルーデウスを可愛がっているように見えるが、甘やかしてはいない。泣けば何でも与えるのではなく、必要なものを見極め、できることは本人へ任せている。
言葉を覚える速度が速いことにも驚いていたはずだが、神童だと騒ぎ立てたり、ゼニスやパウロへ過剰な期待を煽ったりはしなかった。
その慎重さは、リーリャには好ましく思えた。
パウロとゼニスは、ルーデウスが少し早く言葉を覚えただけでも大喜びし、この子は天才かもしれないと話し合うことがある。親として自然な反応ではあるが、幼い子供へ期待を押しつけすぎることには危うさもあった。
レイネだけは、ルーデウスが何かできるようになるたびに、才能ではなく、その行為自体を静かに認めた。
「歩けたことは喜ばしいことですが、明日も同じように歩けるとは限りません。今日はお疲れでしょうから、十分に休んでいただきましょう」
「言葉を覚えるのがお早いのは確かですが、まだお身体は幼くございます。長く起きていれば、体調を崩してしまいます」
浮かれた主人夫婦に対し、レイネが現実的な言葉を添える。
それによって家の中の均衡が保たれている部分もあった。
リーリャにとってレイネは、相変わらず素性のよく分からない少女だった。
けれど少なくとも、グレイラット家へ害を与えるために入り込んだ者には見えない。
家の一員と呼ぶには、まだ多少の距離がある。
それでも、もはや一時的に雇われた流れ者ではなかった。
◇
ルーデウス視点
一歳を過ぎた頃には、ルーデウスは家の中の会話をほとんど理解できるようになっていた。
パウロはブエナ村に配属された下級騎士であり、この周辺の治安維持や魔物の討伐を任されている。若い頃には冒険者として各地を旅しており、剣術についてはかなりの腕を持っているらしい。
ゼニスも以前は冒険者で、治癒術士としてパウロと同じ一行に所属していた。結婚後はブエナ村で暮らしながら、病気や怪我に苦しむ村人を治療している。
リーリャは家事全般を取り仕切る侍女であり、以前はアスラ王国の王宮に勤めていたらしい。詳しい経緯は語られなかったが、身体を傷めて辞職した後、パウロが出した募集を見てこの家へ来たという。
レイネについて分かったのは、初日に本人が話していたことと大きく変わらなかった。
中央大陸北部の出身。
家族はすでにいない。
宿や商家、個人の屋敷で働きながら各地を転々とし、以前の雇い主が亡くなったため新しい仕事を探していた。
実年齢は十四歳だが、身体の成長が極端に遅く、七歳ほどにしか見えない。
料理、掃除、洗濯、裁縫、帳簿の整理まで何でもそつなくこなす一方で、剣術や魔術については、ごく簡単な護身と生活魔術しか使えないという。
今のところ、その説明を疑う明確な理由はなかった。
レイネが自分を観察するような視線も、最初に比べれば減っている。
最近では、家族の中で誰よりも話が通じる相手になりつつあった。
もちろん、ルーデウスは前世のことを話していない。自分が三十四歳まで生きた記憶を持つ転生者だと明かすつもりもなかった。
それでも、レイネは子供だからといって、ルーデウスの疑問を適当に扱わなかった。
「父様は、どうして毎日剣を振るのですか?」
「お仕事で必要になるためと、旦那様ご自身が剣術をお好きだからだと思われます」
「母様が使っている光は何ですか?」
「治癒魔術でございます。傷ついた身体の回復を助ける魔術だと伺っております」
「魔術は、誰でも使えるのですか?」
「魔力を持つ方であれば、多くの場合は使えるようになります。ただし、扱える量や適性には個人差がございます」
魔術。
その言葉を理解した時、ルーデウスは胸が高鳴るのを感じた。
剣を持つ者がいる時点で、中世に似た世界なのだろうとは思っていた。しかし、ゼニスが傷へ手をかざした時に生まれる淡い光は、薬や技術ではなく、本物の魔術によるものらしい。
前世では、物語やゲームの中にしか存在しなかった力である。
自分にも使えるのだろうか。
どうすれば覚えられるのか。
質問を重ねたかったが、あまりにも強く興味を示せば不自然に思われるかもしれない。まだ一歳を過ぎたばかりの子供なのだから、焦る必要はなかった。
まずは文字を覚える。
魔術について書かれた本があるなら、自分で読めるようになればよい。
そう考えて以降、ルーデウスは家の中に置かれた本へ関心を向けるようになった。
この世界の文字は、前世の日本語とはまったく異なる。
会話は意味を理解できるようになったが、棚に並ぶ本を開いても、頁に書かれているのは見覚えのない記号ばかりだった。
パウロが書類へ署名する時、ゼニスが薬草の記録をつける時、リーリャが帳簿を確認する時、ルーデウスはそれとなく手元を覗き込み、音と文字を結びつけようとした。
その様子へ最初に気づいたのも、レイネだった。
ある日の午後、ルーデウスが居間の棚から一冊の本を引き出そうと背伸びしていると、背後から小さな手が伸び、本が落下する前に支えた。
「こちらをお読みになりたいのですか?」
ルーデウスは、素直に頷いた。
「でも、字が分かりません」
「では、少しずつ覚えましょう」
レイネは本を取り上げて遠ざけるのではなく、床へ座ったルーデウスの隣に腰を下ろし、最初の頁を開いた。
それは難しい専門書ではなく、子供へ文字を教えるための簡単な読み物だったらしい。大きな挿絵の下に、短い単語が書かれている。
レイネは最初の文字を指先で示し、ゆっくり発音した。
「これは、『ア』と読みます」
ルーデウスは、その形を目へ焼きつけるように見つめた。
「ア」
「はい。次は、こちらです」
こうして、ルーデウスは今世で初めて、文字を学び始めた。
教師となったのは、家族の誰でもなく、募集が終わった後に現れた、小さな白髪の侍女だった。