白髪の侍女   作:MトK

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第二十話 確約

ルーデウス視点

 

エリスが十歳の誕生日を迎えてから、さらに二年が過ぎた。

 

俺も、もうすぐ十歳になる。

 

この二年間は、家庭教師としてエリスの教育を続けながら、自分自身の勉強にも時間を使ってきた。

 

獣神語については、すでに日常会話で困らない程度まで習得している。ギレーヌと故郷の話をし、簡単な書物を読み、発音や地域ごとの言い回しを少しずつ修正してきた。

 

ロキシーから教材が届いてからは、魔神語の学習も本格的に始めた。

 

人間語とは語順も音の作り方も異なり、最初の頃は短い文章を読むだけでも苦労した。ロキシーが作ってくれた教材には、単語と文法だけでなく、魔族の種族ごとの習慣や、同じ言葉でも相手によって意味が変わる例まで記されていた。

 

あれがなければ、今も最初の一文を前に唸っていたことだろう。

 

現在では、簡単な日常会話と文章なら理解できる。

 

実際に魔神語を母語とする相手と話したことがないため、発音にどれほど癖がついているかは分からない。それでも、ロキシーへ魔神語で短い手紙を書き、内容が通じるという返事はもらっている。

 

さらに、闘神語にも手を出した。

 

こちらは人間語と文法の基礎が似ており、違うのは単語と一部の言い回しが中心だった。資料の数も比較的多かったため、魔神語より短期間で身につけることができた。

 

獣神語。

 

魔神語。

 

闘神語。

 

人間語を加えれば、四つの言語を扱えることになる。

 

世界のすべてを理解したわけではない。

 

天神語や海神語については、ロアの書庫にも資料がほとんどなく、話者も見つからなかった。

 

学びたくても、手がかりそのものがない。

 

それでも、以前より読める本が増えた。

 

人族の歴史書だけでは分からなかった出来事も、魔族や獣族の記録と比較できるようになった。

 

同じ戦争が、ある本では英雄の勝利として、別の本では故郷を奪われた悲劇として書かれている。

 

どちらか片方だけが嘘なのではない。

 

立場が違えば、同じ出来事の見え方も変わる。

 

レイネから教えられたとおり、複数の記録を比べ、共通している部分と食い違っている部分を分ける。分からないところは、推測だけで埋めずに残しておく。

 

そうした読み方も、少しずつ身についてきた。

 

一方、剣術に使える時間は、以前より僅かに減っていた。

 

だからといって、訓練そのものを止めたわけではない。

 

朝の訓練は毎日続けている。

 

休息日にも、身体が固まらない程度の軽い素振りや足運びをすることはある。

 

訓練後には、レイネとの反省会も欠かさなかった。

 

それでも、エリスとの実力差は、再び開き始めていた。

 

原因は明確である。

 

エリスの成長が速すぎるのだ。

 

「もう一度よ!」

 

朝の訓練場に、エリスの声が響いた。

 

二年前より背が伸び、身体つきも少しずつ大人へ近づいている。

 

木剣を構えた姿には、以前の荒々しさだけではなく、剣士としての安定感があった。

 

構えに無駄がない。

 

踵を浮かせすぎず、いつでも前へ出られる位置へ重心を置いている。

 

俺も木剣を構え直した。

 

すでに八本を終えている。

 

結果は、エリスの六勝、俺の二勝。

 

「残り二本です」

 

「両方取れば、八対二ね!」

 

「僕が取れば六対四です」

 

「取らせないわよ!」

 

ギレーヌが手を上げる。

 

「始め」

 

エリスが踏み込んだ。

 

以前とは、明らかに速度が違う。

 

踏み込みと同時に全身が前へ運ばれ、木剣が最短の軌道で俺の肩口へ迫る。

 

闘気。

 

ギレーヌによれば、エリスはすでに意識して身体へ纏い始めているらしい。

 

完全に使いこなしているわけではない。

 

それでも、筋力だけでは説明できない速さと重さが、一撃へ加わっている。

 

まともに受ければ押し切られる。

 

俺は木剣を合わせず、右へ身をずらした。

 

同時に左手を僅かに上げる。

 

魔術使用禁止の訓練である。

 

魔術を使うつもりはない。

 

だが、エリスは俺の指先を見た。

 

魔術を含めた模擬戦で、何度も足元を崩された経験があるからだ。

 

視線が左手へ向いた一瞬、俺は前へ踏み込んだ。

 

エリスの剣が振り切られる前に懐へ入り、柄で腕を押さえる。

 

以前なら、これで動きを止められた。

 

だが、今のエリスには通じない。

 

「それは知ってるわ!」

 

エリスは剣を戻そうとしなかった。

 

押さえられた右腕を軸に身体を回し、左肩から体当たりしてくる。

 

俺は受けず、後ろへ跳んだ。

 

ほんの一歩。

 

それだけでよいと思った。

 

甘かった。

 

エリスは着地より早く、次の踏み込みへ入っていた。

 

視界の中で木剣が消える。

 

肩へ衝撃が走った。

 

「一本!」

 

ギレーヌの声が飛ぶ。

 

俺は数歩よろめき、どうにか倒れずに踏みとどまった。

 

「七対二!」

 

エリスが木剣を掲げた。

 

「あと一本ね!」

 

「今の踏み込み、前より速くなっていませんか?」

 

「なってるわよ!」

 

自分でも分かっているらしい。

 

「ルーデウスが左手を動かすのも知ってたもの。魔術を使えない時でも、私が警戒すると思ったんでしょう?」

 

「はい」

 

「だから、途中から左手を見ないようにしたのよ!」

 

完全に見なかったわけではない。

 

最初の一瞬だけ確認し、俺が魔力を動かしていないと判断した後は、剣と身体へ意識を戻したのだろう。

 

以前なら、同じ誘いへ二度か三度は反応した。

 

今は、一度見せた動きなら、次の勝負までに対応を考えてくる。

 

「次で終わりだ」

 

ギレーヌが言う。

 

「来なさい、ルーデウス!」

 

「まだ負けると決まったわけではありません」

 

最後の一本は、俺が取った。

 

エリスの踏み込みを正面から止めるのではなく、最初から大きく横へ回る。

 

追ってくると分かっていたため、逃げながら足元へ木剣を差し入れた。

 

エリスはそれを跳んで避けた。

 

着地地点へ先回りし、首筋へ木剣を当てる。

 

エリスは最後まで身体を捻り、相打ちへ持ち込もうとした。

 

だが、僅かに俺の方が早かった。

 

「一本、ルーデウス」

 

最終結果は、七対三。

 

「三本も取られたわ!」

 

エリスは、自分が勝ったにもかかわらず不満そうだった。

 

「七本勝ったことを喜んだらどうですか」

 

「昨日は八本だったもの!」

 

「昨日の僕は、魔神語の勉強で寝るのが遅くなりましたから」

 

「言い訳ね!」

 

「事実です」

 

「次は九本取るわよ!」

 

エリスはすでに、次の勝負のことを考えている。

 

俺も同じだった。

 

最後の一本で使った動きは、もう次には通じない。

 

どのように変えるか。

 

エリスなら、着地地点を読まれないよう空中で身体を捻るかもしれない。

 

あるいは、跳ばずに木剣を払う。

 

そこまで考えたところで、ギレーヌが俺たちを呼んだ。

 

「二人とも、話がある」

 

ギレーヌは、まずエリスを見た。

 

「エリス。今日から剣神流上級を名乗れ」

 

エリスの目が大きく開く。

 

「上級?」

 

「ああ」

 

「私が?」

 

「そうだ」

 

数秒の沈黙。

 

次の瞬間、エリスの歓声が訓練場へ響いた。

 

「上級よ! 私、上級になったわ!」

 

木剣を掲げたまま、俺の周囲を走る。

 

「聞いた、ルーデウス!?」

 

「聞きました。おめでとうございます」

 

「私、上級よ!」

 

「先ほども聞きました」

 

「上級なんだから、もっと驚きなさいよ!」

 

十分に驚いている。

 

十二歳で剣神流上級。

 

一般的な剣士が、長い年月をかけても届かない位階だ。

 

才能があるだけではない。

 

エリスは毎日の訓練を続けた。

 

休息日を設けてからは、無理に身体を壊すことも減った。

 

休む時は休み、訓練する時には全力で剣を振る。

 

その積み重ねが、結果として表れたのだ。

 

「ルーデウスは?」

 

エリスがギレーヌへ尋ねる。

 

「僕は、すでに中級です」

 

「そうじゃないわ。上級にならないの?」

 

ギレーヌは少し考えた。

 

「今のルーデウスを、上級とは呼べない」

 

予想していた答えだった。

 

「何でよ。私から三本取ったわよ!」

 

「勝敗だけで位階は決まらない」

 

ギレーヌは俺を見る。

 

「ルーデウスは、中級の中では強い。判断も速くなった。相手を誘い、動きを読み、力を使わずに崩すこともできる」

 

一度言葉を切る。

 

「だが、剣神流上級に必要な踏み込みと決定力がない。闘気も使えない」

 

「でも、私から三本取ったわ!」

 

エリスは納得していない。

 

俺の代わりに怒っているようだった。

 

「ルーデウスは、剣神流だけで戦っていない」

 

ギレーヌは静かに答えた。

 

「魔術を使わなくても、考え方が違う。剣神流なら、最初の一撃で勝つところを、ルーデウスは相手を何度も動かし、失敗させてから勝つ」

 

「勝てるなら同じでしょう!」

 

「強いことと、剣神流上級であることは違う」

 

エリスはまだ不満そうだったが、俺には納得できた。

 

位階は、あらゆる戦闘能力をまとめた強さではない。

 

その流派の技術へ、どこまで到達したかを表すものだ。

 

俺は剣神流の基本を使っている。

 

しかし、勝ち方そのものは、すでに剣神流から離れ始めている。

 

「僕は中級のままで構いません」

 

「構いなさいよ!」

 

「位階だけ上がっても、実際に強くなるわけではありません」

 

「でも、私だけ上級だと、差がついたみたいでしょう!」

 

「実際、差はついています」

 

十本勝負は、以前なら六対四か七対三だった。

 

今では七対三が通常で、エリスの調子がよければ八対二。

 

俺が何も考えず正面から戦えば、十本すべて取られる可能性すらある。

 

俺も成長している。

 

パウロと戦っていた頃とは比べものにならない。

 

だが、エリスはそれ以上の速度で強くなっていた。

 

「魔術を使えば、僕が勝ちます」

 

「近くからなら私が勝つわ!」

 

「十歩以上離れて始めれば、僕です」

 

「五歩!」

 

「条件を自分に有利にしすぎでは?」

 

「実戦では、いつも遠くから始まるとは限らないでしょう!」

 

そのとおりである。

 

純粋な剣術なら、エリスが明確に上。

 

魔術を含め、十分な距離があるなら俺が上。

 

近距離から始まれば、どちらが先に自分の得意な状況を作れるかで変わる。

 

同じ「強さ」でも、条件によって結果は異なる。

 

「次の模擬戦は五歩からよ!」

 

「その次は五十歩から行いましょう」

 

「遠すぎるわよ!」

 

「実戦では、いつも近くから始まるとは限りません」

 

エリスが言った言葉を、そのまま返す。

 

しばらく睨み合った後、エリスは大きく笑った。

 

「いいわ! 両方やりましょう!」

 

上級になったことより、次の勝負の方が楽しみになったらしい。

 

そんなエリスを見ながら、ギレーヌも僅かに笑っていた。

 

 

その日の訓練後。

 

いつものように、レイネとの反省会を行った。

 

「最後の一本は、うまく取れたと思います」

 

「はい。エリス様が、必ず追ってこられることを利用なさいました」

 

レイネは、俺の肩へできた痣を濡れた布で冷やしている。

 

治癒魔術を使うほどではない。

 

だが、エリスの一撃は、木剣であっても無視できない重さになっていた。

 

「ただ、最初の一本で使った左手の誘いは、もう通用しませんでした」

 

「エリス様が、ルーデウス様の動きを学ばれたためでございます」

 

「僕も学んでいるつもりなのですが」

 

「はい」

 

「それでも、差が開きました」

 

レイネは、すぐには否定しなかった。

 

慰めるために事実を変える人物ではない。

 

「身体能力と闘気の差が、以前より大きくなっております」

 

「やはり、そこですか」

 

「それだけではございません。エリス様は、ルーデウス様から三年間追われ続けたことで、考えて戦うことも覚えられました」

 

俺がエリスとの差を縮めようとした結果、エリスも俺の戦い方へ適応した。

 

以前のエリスは、速さと力で押し切ろうとする場面が多かった。

 

今は、俺が何を狙っているのかを考える。

 

同じ誘いへ何度も乗らない。

 

自分の長所を残したまま、弱点を減らしている。

 

「僕がエリスを強くしたのでしょうか」

 

「ギレーヌ様のご指導と、エリス様ご自身の努力が第一でございます」

 

レイネは穏やかに答えた。

 

「ですが、ルーデウス様が追い続けたことも、成長の一因でしょう」

 

「結果として、僕が勝てなくなっています」

 

「それを後悔なさいますか?」

 

考える。

 

エリスへ勝てないのは悔しい。

 

以前は取れた動きが通じなくなり、一度の判断の遅れで打ち倒される。

 

負けるたびに、自分の限界を突きつけられる。

 

それでも。

 

「いいえ」

 

答えは決まっていた。

 

「エリスが弱いまま、僕だけが勝てるよりは、ずっといいです」

 

「はい」

 

レイネの目元が柔らかくなる。

 

「それでこそ、ルーデウス様でございます」

 

「ただ、勝つことは諦めません」

 

「もちろんでございます」

 

「次の五歩からの模擬戦ですが、どうすればよいと思いますか?」

 

「まず、ご自身でお考えくださいませ」

 

やはり答えは教えてくれない。

 

「五歩では、最初の踏み込みで間合いへ入られます」

 

「はい」

 

「土壁を正面へ作っても、エリスなら斬るか避けます。足元を泥にするのも、以前より早く気づかれる」

 

「では、何をなさいますか?」

 

「……僕自身を後ろへ動かすのではなく、エリスと僕の間の地面を動かす?」

 

レイネは答えず、僅かに微笑んだ。

 

悪い案ではないらしい。

 

剣術で追いつけないなら、魔術を含めた自分の戦い方を磨けばよい。

 

中級のままでも構わない。

 

肩書きではなく、実際に生き残り、守り、勝てる方が重要なのだから。

 

 

十歳の誕生日が近づくにつれ、屋敷の空気が少しずつ不自然になった。

 

使用人たちは、俺が近づくと会話を止める。

 

エリスは、普段なら授業が終わった後も部屋へ残るのに、最近は何かを思い出したように飛び出していく。

 

ギレーヌも、訓練後に台所の方角を気にすることが増えた。

 

レイネに至っては、俺が予定を尋ねても、時折曖昧な返答をする。

 

「本日の午後は、少しお時間をいただきます」

 

「何をするのですか?」

 

「屋敷内の用事でございます」

 

「僕付きの侍女なのに?」

 

「ルーデウス様に関係する用事でございます」

 

「僕に関係するのに、内容は教えられない?」

 

「申し訳ございません」

 

表情は普段と変わらない。

 

しかし、明らかに何かを隠している。

 

一か月ほど前。

 

廊下を歩いていると、台所からエリスの声が聞こえた。

 

「これ、本当に食べられるの?」

 

「お嬢様が前回作られた物よりは、格段に進歩しております」

 

使用人の声が返る。

 

「前のだって食べられたわよ!」

 

「サウロス様は召し上がっておられました」

 

「ルーデウスも食べるわよね?」

 

「ルーデウス様でしたら、お嬢様がお作りになったと聞けば、多少焦げていても召し上がるでしょう」

 

「多少じゃないみたいに言わないで!」

 

何か料理を作っているらしい。

 

さらに耳を澄ませる。

 

「手紙は?」

 

エリスが尋ねる。

 

「昨日、すべて届きました」

 

今度はレイネの声だった。

 

「本当にルーデウスには見せてないでしょうね?」

 

「はい。御本人へお渡しする通常のお手紙とは別に、アルフォンス様がお預かりになっております」

 

「よし!」

 

「声が大きゅうございます」

 

「分かってるわよ!」

 

ここまで聞けば、だいたい分かる。

 

俺の誕生日を祝う準備だろう。

 

十歳の誕生日は、この世界の貴族にとって特別な節目である。

 

しかし、俺は表立ってノトス・グレイラット家の人間だと名乗れない。

 

パウロはノトス家を出ている。

 

現在の当主から見れば、ボレアス家の庇護下にいるパウロの息子は、政治的な火種になり得る。

 

俺にそのつもりがなくても、周囲がどう見るかは別だ。

 

そのため、エリスの誕生日のように、多くの貴族を招いた宴を開くことはできない。

 

おそらく、屋敷の者だけで内々に祝うつもりなのだろう。

 

エリスが俺を驚かせようとしている。

 

なら、気づいていないふりをするべきだ。

 

「レイネ」

 

台所から十分に離れた後、俺は隣を歩くレイネへ声をかけた。

 

「はい」

 

「僕の誕生日に、何か予定はありますか?」

 

レイネの歩みが、ほんの僅かに遅れた。

 

「通常どおりと伺っております」

 

「そうですか」

 

「はい」

 

嘘が下手ではない。

 

表情も声も変わらなかった。

 

しかし、俺は先ほど全部聞いている。

 

「楽しみですね」

 

「何がでございますか?」

 

「十歳になることがです」

 

「……左様でございますか」

 

レイネの返答が、僅かに遅れた。

 

少しだけ勝った気分になった。

 

 

誕生日当日。

 

昼の授業を終えると、ギレーヌが俺の部屋へやってきた。

 

尻尾が不自然なほど真っ直ぐ立っている。

 

「ルーデウス」

 

「何でしょう」

 

「魔術について、聞きたいことがある」

 

「珍しいですね」

 

ギレーヌから魔術について質問されること自体はある。

 

しかし、大抵は火を起こす方法や、詠唱を間違えた理由についてだ。

 

今日のように、わざわざ俺の部屋まで来ることはない。

 

「聖級魔術を見せてほしい」

 

「今からですか?」

 

「ああ」

 

「町の近くでは使えません」

 

「そうなのか」

 

「水聖級魔術は、天候そのものへ影響します。少なくとも、ここからかなり離れる必要がありますね」

 

ギレーヌの尻尾が揺れた。

 

「では、移動しよう」

 

「本当に?」

 

「ああ」

 

意外だった。

 

俺を部屋へ引き留めるための口実だと思ったのだが。

 

「二時間ほど馬で移動し、魔術を使って、帰ってくる頃には夜になりますよ」

 

「……今日は、夜道が危険だ」

 

「ギレーヌがいれば問題ないのでは?」

 

「過信はよくない」

 

「では、レイネにも来てもらいましょう」

 

「レイネは駄目だ!」

 

珍しく即答だった。

 

「なぜですか?」

 

「用事がある」

 

「僕に関係する用事ですか?」

 

ギレーヌの尻尾が大きく動いた。

 

分かりやすい。

 

「では、聖級魔術は次の休息日にしましょう」

 

「ああ。それがいい」

 

ギレーヌは、明らかに安心した。

 

そのまま部屋から出さないよう、剣術の話や獣神語の話を始める。

 

俺は素直に付き合った。

 

途中、喉が渇いたと言って廊下へ出ようとすると、ギレーヌが立ち上がった。

 

「水なら、私が持ってくる」

 

「自分で魔術を使えます」

 

「今日は、私が持ってくる」

 

「では、お願いします」

 

ギレーヌは部屋を出た。

 

扉の外で、誰かと小声で話している。

 

少しして、水差しを持って戻ってきた。

 

「ギレーヌ」

 

「何だ」

 

「もう少し自然にした方がよいと思います」

 

「何の話だ」

 

「いいえ。何でもありません」

 

これ以上からかうと、尻尾だけでなく顔にも出そうだった。

 

夕方。

 

レイネが部屋へ来た。

 

普段よりも、僅かに上質な侍女服へ着替えている。

 

「ルーデウス様。夕食のご用意が整いました」

 

「分かりました」

 

俺は何も知らない顔で立ち上がった。

 

食堂の扉を開く。

 

その瞬間、大きな拍手が響いた。

 

サウロス。

 

フィリップ。

 

ヒルダ。

 

アルフォンス。

 

ギレーヌ。

 

レイネ。

 

屋敷で何度も顔を合わせた使用人たち。

 

全員が、食堂へ集まっていた。

 

中央には、赤い衣装を身につけたエリスが立っている。

 

両腕には、大きな花束を抱えていた。

 

「ルーデウス!」

 

エリスが一歩前へ出る。

 

「十歳の誕生日、おめでとう!」

 

花束を差し出される。

 

俺は驚いた表情を作ろうとした。

 

事前に気づいていたことを悟られないよう、少し目を見開き、周囲を見回す。

 

「これは……」

 

「驚いたでしょう!」

 

エリスが得意そうに笑う。

 

「はい。まったく知りませんでした」

 

レイネの視線が、一瞬だけ俺へ向いた。

 

嘘だと気づいている。

 

当然である。

 

「全部、私が考えたのよ!」

 

「エリス様だけではございません」

 

アルフォンスが訂正する。

 

「私が最初に言い出したのよ!」

 

「それは事実でございます」

 

「なら私が考えたのでいいでしょう!」

 

エリスらしい。

 

花束を受け取る。

 

その時、レイネが小さな箱を持って進み出た。

 

「こちらも、お預かりしております」

 

「何ですか?」

 

「ブエナ村から届いたお手紙でございます」

 

胸が、僅かに止まった。

 

「家族から?」

 

「はい」

 

箱の中には、数通の手紙が入っていた。

 

一番上は、パウロの字だった。

 

以前より少し丁寧に書こうとした形跡がある。

 

封を開く。

 

十歳の誕生日を祝う言葉。

 

自分は村周辺の魔物の対応があり、離れることができないこと。

 

ゼニスも、幼いノルンとアイシャを連れて長旅をすることが難しく、今回は行けないこと。

 

そして最後に、短い一文があった。

 

――剣を続けていると聞いた。今度会った時には、どれだけ強くなったか見てやる。

 

相変わらずのパウロだった。

 

その次はゼニス。

 

離れている間も、毎年俺の誕生日を祝っていたこと。

 

ノルンとアイシャが元気に育っていること。

 

手紙だけでは伝えきれないほど話したいことがあること。

 

必ず無事に帰ってきてほしいこと。

 

リーリャの手紙には、村の暮らしと妹たちの様子が細かく記されていた。

 

最後には、文字とは呼べない線が二つ並んでいる。

 

ノルンとアイシャが、それぞれ自分で書いたものらしい。

 

「……これは」

 

声が震えた。

 

演技ではない。

 

三年間、会っていない。

 

手紙のやり取りはしてきた。

 

けれど、十歳の誕生日へ向けて、家族全員が自分のために言葉を残してくれた。

 

俺がいない場所でも、家族は俺のことを覚えている。

 

その事実が、思った以上に胸へ響いた。

 

「ルーデウス?」

 

エリスが不安そうに顔を覗き込む。

 

「どうしたの?」

 

「少し……」

 

言葉を続けようとしたが、うまく声にならなかった。

 

目元を押さえる。

 

涙が滲む。

 

水魔術など使っていない。

 

「嬉しかっただけです」

 

「本当に?」

 

「はい」

 

エリスは、どう反応すればよいのか分からないようだった。

 

周囲を見る。

 

ギレーヌ。

 

アルフォンス。

 

レイネ。

 

最後にはヒルダを見る。

 

「ど、どうすればいいの?」

 

「そばにいてあげなさい」

 

ヒルダが答えた。

 

エリスは花束ごと俺を抱きしめた。

 

「泣かなくていいわよ!」

 

「嬉しくて泣いているのですが」

 

「嬉しくても泣かないで! どうすればいいか分からないでしょう!」

 

無茶な要求である。

 

それでも、抱きしめる腕には力が入っていた。

 

「手紙を頼んでくれたのは、エリスですか?」

 

「そうよ!」

 

エリスは胸を張ろうとしたが、俺を抱いているため、うまく動けなかった。

 

「ルーデウスが一番喜ぶものを考えたの。レイネに聞いたら、家族からの手紙がいいって言ったから、お父様に頼んだのよ!」

 

エリスが始め、レイネが助言し、フィリップとアルフォンスが手配した。

 

誰か一人だけが用意したものではない。

 

全員が、俺を喜ばせるために動いてくれた。

 

「ありがとうございます」

 

エリスへ。

 

レイネへ。

 

フィリップへ。

 

ここにいる全員へ向けて、頭を下げる。

 

「本当に、ありがとうございます」

 

サウロスが突然、拳を卓へ叩きつけた。

 

「許せん!」

 

「お祖父様?」

 

「十歳の祝いに親が来られぬとは、ノトスの連中がパウロを追い出したせいではないか!」

 

話が飛躍している。

 

「兵を集めろ! ノトスを滅ぼし、ルーデウスを当主に据える!」

 

「父上、落ち着いてください」

 

フィリップが即座にサウロスの腕を取った。

 

「今日は誕生日です。戦争を始める日ではありません」

 

「ならば明日だ!」

 

「明日も駄目です」

 

「なぜだ!」

 

「ほかのグレイラット家まで敵に回ります」

 

「まとめて倒せばよい!」

 

サウロスは本気だった。

 

フィリップとアルフォンスが、どうにか食堂の外へ連れ出していく。

 

廊下からも「兵を集めろ」という声が聞こえていた。

 

「お祖父様は、ルーデウスのことを気に入ってるのよ」

 

エリスが言う。

 

「気に入り方が、少し危険では?」

 

「いつもああよ!」

 

それで済ませてよいのだろうか。

 

今度はヒルダが俺の前へ来た。

 

以前は、俺を見る目に複雑なものが混じっていた。

 

自分の息子たちは王都へ取られたのに、他家の子供である俺がこの屋敷で暮らしている。

 

後になって事情を知った今なら、最初の頃の距離も理解できる。

 

ヒルダは俺を強く抱きしめた。

 

「家族が来られなくても、あなたは一人ではありません」

 

「ヒルダ様」

 

「この屋敷にいる間は、あなたも私たちの家族です」

 

エリスがすぐに口を挟む。

 

「この屋敷を出た後もよ!」

 

ヒルダは少し驚き、すぐに微笑んだ。

 

「そうね。エリスがそう言うなら、そうなのでしょう」

 

「私が決めることなの?」

 

「あなたが始めたお祝いでしょう?」

 

「そうだけど!」

 

ヒルダの抱擁から解放されると、エリスが咳払いをした。

 

「まだ終わりじゃないわよ!」

 

指を鳴らそうとする。

 

一度目は、音が出なかった。

 

エリスの顔が赤くなる。

 

二度目も、少し擦れただけだった。

 

「アルフォンス!」

 

最初から呼べばよかったのではないだろうか。

 

戻ってきたアルフォンスが、長い布に包まれた物を運んでくる。

 

布を解く。

 

現れたのは、一本の杖だった。

 

節のある長い木製の柄。

 

先端には、拳ほどもある青い魔石が取りつけられている。

 

見ただけで分かる。

 

高価だ。

 

以前、エリスとギレーヌへ贈った杖に使った魔石とは、比べものにならない。

 

透明度。

 

大きさ。

 

内側に揺らめく魔力。

 

どれを取っても、一般の店へ置かれるような品ではなかった。

 

「アルフォンス、説明して!」

 

「承知いたしました」

 

アルフォンスは杖の素材を説明した。

 

柄には、大森林に生息する高位の樹木系魔物の一部が使われている。

 

先端の魔石は、ベガリット大陸で討伐された海竜から採れた水属性の品。

 

製作したのは、アスラ王国でも名の知られた杖職人。

 

水魔術の威力と制御を補助するため、俺に合わせて調整されているという。

 

「銘は、アクアハーティアでございます」

 

「アクアハーティア……」

 

名前は少し大げさに感じる。

 

しかし、杖そのものは本物だ。

 

「受け取りなさい!」

 

エリスが両手で差し出す。

 

「ルーデウスはすごい魔術師なのに、まともな杖を持ってないでしょう! だから、お父様とお祖父様に頼んで作ってもらったのよ!」

 

「僕は無詠唱ですし、杖がなくても魔術は使えます」

 

「知ってるわよ!」

 

エリスが怒鳴る。

 

「使えるかどうかじゃないの! あった方が強くなるんでしょう!?」

 

「それは、そうですが」

 

「なら持ちなさい!」

 

拒否する理由はなかった。

 

高価すぎることは気になる。

 

だが、金額を理由に受け取らなければ、エリスがどれほど傷つくか分かっている。

 

俺は両手で杖を受け取った。

 

見た目より軽い。

 

重心も、自然に構えられる位置へ整えられている。

 

魔石へ僅かに魔力を流す。

 

先端の青が淡く光り、普段よりも少ない操作で魔力がまとまった。

 

「すごい……」

 

思わず声が漏れる。

 

エリスの顔が明るくなった。

 

「そうでしょう!」

 

「ありがとうございます。大切に使います」

 

「当然よ!」

 

杖。

 

家族からの手紙。

 

屋敷の者たちによる祝い。

 

事前に何かが準備されていることには気づいていたはずなのに、実際に受け取ったものは、どれも想像していた以上だった。

 

驚いたふりをする必要など、もうなかった。

 

「ルーデウス様」

 

皆がアクアハーティアを囲み、その造りについて話している中、レイネが静かに前へ進み出た。

 

両手には、掌へ収まるほどの小さな箱を持っている。

 

先ほど家族からの手紙を渡した箱とは違う。

 

装飾のない濃紺の箱で、表面には屋敷や商会を示す紋章も刻まれていなかった。

 

「レイネ?」

 

「私からも、十歳のお祝いをお渡ししてよろしいでしょうか」

 

「もちろんです」

 

レイネは俺の前へ立ち、箱の蓋を開いた。

 

中に入っていたのは、小さな魔石を使った首飾りだった。

 

魔石は親指の爪より少し大きい程度で、ほとんど色がない。光へかざせば、透明な石の奥に、銀色の細い筋が幾重にも走っている。

 

縁を覆う金属にも派手な装飾はなく、細い鎖と合わせて、貴族の祝いに贈られる宝飾品というより、旅人が身につける護符に近い外見だった。

 

アクアハーティアの直後に見れば、随分と慎ましい贈り物である。

 

けれど、レイネが用意した物なら、見た目だけで価値を判断するべきではない。

 

「魔石ですよね?」

 

「はい」

 

「何の魔石ですか?」

 

「お守りでございます」

 

答えになっているようで、何も説明していない。

 

俺は箱の中へ手を伸ばし、魔石を摘まみ上げた。

 

軽い。

 

僅かに魔力を流してみる。

 

しかし、石はほとんど反応しなかった。

 

魔力を受けつけないわけではない。

 

流し込んだ魔力が表面を滑り、どこにも引っかからず消えていくような、奇妙な感覚があった。

 

「魔術を補助する道具ではないのですか?」

 

「魔術を強くするための物ではございません」

 

「毒や病気を防ぐ物ですか?」

 

「詳しい効能を気になさる必要はございません」

 

レイネは穏やかに答えた。

 

しかし、その声は普段より僅かに硬かった。

 

「ただ、一つだけ、お約束いただきたいことがございます」

 

「約束ですか?」

 

「こちらを、常に肌身離さずお持ちくださいませ」

 

食堂の空気が僅かに静まった。

 

レイネは周囲を気にすることなく、俺だけを見ている。

 

「外出する時だけではございません。お休みになる時も、屋敷の中で過ごされる時も、できる限りお身体から離さないでください」

 

「入浴中もですか?」

 

「はい。水に浸かっても問題はございません」

 

「そこまで厳重に持つ必要があるのですか?」

 

「ございます」

 

即答だった。

 

レイネが、これほど強い口調で何かを求めることは珍しい。

 

俺が何を学ぶか。

 

どのような方法で戦うか。

 

誰と関わるか。

 

レイネは助言こそするが、最後には俺の判断へ委ねる。

 

そのレイネが、今回だけは選択肢を与えなかった。

 

「誰かへ貸すことも、おやめくださいませ。壊れたように見えた場合も、捨てずに私へお渡しください」

 

「分かりました」

 

俺は首飾りを持ち上げた。

 

「肌身離さず持っていればいいのですね」

 

「はい」

 

「ですが、どうして効能を教えてくれないのですか?」

 

レイネの赤い瞳が、ほんの僅かに揺れた。

 

「効能を知れば、ルーデウス様は御自身で確かめようとなさるかもしれません」

 

「危険な物なのですか?」

 

「ルーデウス様へ危害を及ぼす物では、決してございません」

 

そこだけは、はっきりと言い切った。

 

「では、レイネが僕を守るために作った物ですか?」

 

レイネは、すぐには答えなかった。

 

周囲の音が遠ざかったように感じるほど、短い沈黙だった。

 

やがて、レイネはいつものように静かに頭を下げた。

 

「私が、すぐにおそばへ駆けつけられない時のためのお守りでございます」

 

誘拐事件のことが頭をよぎった。

 

あの時、レイネは自分が同行しなかったことを、長く責めていた。

 

今では屋敷の外へ出る時、必ず俺の近くにいる。

 

それでも、いついかなる時も、同じ場所にいられるとは限らない。

 

この首飾りは、その不安から用意したのかもしれない。

 

「分かりました。約束します」

 

俺は鎖を首へかけた。

 

魔石が衣服の上へ落ちる。

 

レイネは手を伸ばし、魔石を襟元の内側へ入れた。

 

冷たい石が、胸元の肌へ触れる。

 

「衣服の内側へお入れくださいませ」

 

「見せない方がよいのですか?」

 

「盗難を防ぐためでございます」

 

「そんなに高価なの?」

 

エリスが横から首飾りを覗き込んだ。

 

「見たことのない魔石ね」

 

「金銭的な価値は、それほど高くございません」

 

レイネはエリスへ答えた。

 

「ですが、同じ物をもう一つ用意することは困難でございます」

 

「なら、絶対になくしちゃ駄目じゃない!」

 

エリスは俺の胸元を指差した。

 

「レイネがそこまで言ってるんだから、ちゃんと持ってなさいよ!」

 

「そのつもりです」

 

「お風呂でも外しちゃ駄目なのよ!」

 

「先ほど聞きました」

 

「寝る時も!」

 

「それも聞きました」

 

「ならいいわ!」

 

エリスは満足そうに頷いた。

 

レイネも、ようやく僅かに表情を緩めた。

 

「レイネ」

 

「はい」

 

「ありがとうございます」

 

俺は衣服の上から魔石へ触れた。

 

アクアハーティアのような力強い魔力は感じない。

 

温かくもない。

 

何かの声が聞こえるわけでもない。

 

ただ、肌へ触れた小さな石は、不思議なほど静かだった。

 

「大切にします」

 

「大切に保管するのではなく、お持ちくださいませ」

 

すぐに訂正された。

 

「では、ずっと身につけておきます」

 

「お願いいたします」

 

その返事を聞いたレイネは、深く頭を下げた。

 

いつもの礼より、少しだけ長かった。

 

まるで贈り物を受け取ってもらったことではなく、約束そのものに安堵しているように見えた。

 

 

その後、料理が運び込まれた。

 

卓の中央には、大きな焼き菓子が置かれている。

 

形は少し歪み、一部は焼けすぎていた。

 

「私も作ったのよ!」

 

エリスが得意そうに言う。

 

なるほど。

 

以前、台所から聞こえていた会話は、これのことだったらしい。

 

一口食べる。

 

甘い。

 

場所によっては、少し苦い。

 

それでも、食べられないほどではなかった。

 

「おいしいです」

 

「本当に?」

 

「はい」

 

「焦げてるところも?」

 

「そこは、少し苦いです」

 

正直に答えると、エリスは頬を膨らませた。

 

レイネが隣から静かに言う。

 

「次にお作りになる際は、火から下ろす時刻を少し早めれば、さらにおいしくなるかと存じます」

 

「次って、十五歳の時?」

 

エリスが尋ねた。

 

この世界で盛大に誕生日を祝うのは、五歳、十歳、十五歳の節目である。

 

次に正式な祝いを行うのは、成人となる十五歳の誕生日だった。

 

「五年後ですね」

 

俺が答えると、エリスは少しだけ迷うように視線を動かした。

 

「……十五歳の祝いでも、私が作ったものを食べる?」

 

「もちろんです」

 

「本当に?」

 

「はい。楽しみにしています」

 

エリスは、しばらく俺の顔を見つめた。

 

五年後も、同じ屋敷にいるとは限らない。

 

家庭教師としての契約も、ちょうどその頃に終わる。

 

それでも俺が迷わず答えたことで、エリスの顔から不安が消えた。

 

「なら、次は全部おいしくするわ!」

 

「五年間、ずっと焼き菓子を練習するのですか?」

 

「ずっと焼き菓子だけ作るわけじゃないわよ!」

 

「それは安心しました」

 

「どうして安心するのよ!」

 

エリスが怒鳴り、周囲から笑い声が上がった。

 

十五歳の誕生日にも、また同じように食卓を囲む。

 

それが実現するかは、誰にも分からない。

 

けれど、その場にいた誰もが、一瞬だけ五年後の光景を思い描いていた。

 

 

宴が終わる頃には、エリスは椅子へ座ったまま眠っていた。

 

朝から準備へ動き、俺の反応を気にして、緊張が解けた後は食事をしながら話し続けていた。

 

疲れたのだろう。

 

ギレーヌが抱き上げ、部屋へ運んでいく。

 

サウロスも、途中で酒を飲みすぎ、ヒルダと使用人たちに連れられて退出した。

 

レイネは、俺へ休むよう勧めた後、使用人たちと片づけに加わった。

 

最後には、俺とフィリップだけが食堂へ残った。

 

フィリップは、杯へ注がれた酒を静かに口へ運んでいる。

 

「よい誕生日だったかい?」

 

「はい」

 

俺は手紙の入った箱を抱えていた。

 

胸元にはレイネから贈られた魔石が触れている。

 

壁際には、アクアハーティアが立てかけられていた。

 

「皆さんに、感謝しています」

 

「一番頑張ったのはエリスだよ」

 

「分かっています」

 

「レイネ君にも、何度も相談していた。何を贈れば君が喜ぶか。家族へ手紙を頼むなら、どれほど前に送るべきか。料理は何を作ればよいか」

 

想像できる。

 

エリスは、自分一人で決めたと言い張っていた。

 

実際には、分からないことを何人もの大人へ聞いて回ったのだろう。

 

以前なら、誰かへ頭を下げて助けを求めること自体を嫌がった。

 

それも成長の一つだ。

 

フィリップの視線が、俺の襟元へ向いた。

 

「レイネ君からは、何をもらったんだい?」

 

「お守りだそうです」

 

「効能は?」

 

「教えてもらえませんでした。肌身離さず持つようにとだけ」

 

「彼女がそこまで言うなら、守った方がよいだろうね」

 

「フィリップ様も、何なのか分からないのですか?」

 

「私にも事前の相談はなかったよ」

 

フィリップは興味深そうに目を細めた。

 

「彼女が個人的に用意した物なのだろう。少なくとも、害のある物を君へ渡すとは思えない」

 

「僕も、そう思います」

 

フィリップが杯を置いた。

 

「少し、家の話をしよう」

 

声の調子が変わる。

 

祝いの席で話す父親ではなく、ボレアス家の一員としての顔だった。

 

「君は、エリスに兄弟がいないことを不思議に思わなかったかい?」

 

「少しは」

 

「正確には、いないわけではない。兄と弟が一人ずついる」

 

初めて聞く話だった。

 

「どこに?」

 

「王都だ。私の兄であり、ボレアス家の次期当主であるジェイムズの家で育てられている」

 

フィリップは、ボレアス家の跡目争いについて語った。

 

サウロスには多くの息子がいる。

 

その中で、後継者候補となった者たちが争い、フィリップは敗れた。

 

王都から離れたロアの町長という役目を与えられ、兄の支配する領地を管理している。

 

さらに、敗れた者が次代へ息子を使って争いを続けないよう、男児は次期当主の家へ預けるという伝統がある。

 

フィリップも、その伝統に従った。

 

息子たちは、物心がつく前から王都へ送られた。

 

「ヒルダ様が、最初の頃に僕を避けていたのは」

 

「自分の息子たちは、この屋敷にいない。それなのに、他家の少年がここで暮らし、娘と家族のように接している。理屈で納得できることではなかったのだろうね」

 

責める気にはなれなかった。

 

自分の子供を奪われた母親の前で、別の子供が自由に屋敷を歩いている。

 

複雑な感情を抱くのは当然である。

 

「今日、君が本当に泣いたのを見て、完全に気持ちが変わったようだ」

 

「泣くつもりではなかったのですが」

 

「演技ではなかったのかい?」

 

「最初は、驚いたふりをするつもりでした」

 

フィリップが小さく笑う。

 

「やはり気づいていたか」

 

「屋敷中が不自然でしたから」

 

「レイネ君は、隠し通せると思っていたようだけれど」

 

「レイネは隠せていました。エリスとギレーヌが分かりやすすぎました」

 

「なるほど」

 

フィリップは、しばらく杯の中を見つめた。

 

「君のおかげで、エリスは変わった」

 

「僕だけのおかげではありません」

 

「もちろんだ。ギレーヌ、エドナ、レイネ君。そしてエリス自身の努力もある」

 

それでも、とフィリップは続けた。

 

「君が来る前の私は、エリスを貴族として育てることを、ほとんど諦めていた」

 

今なら、その意味が分かる。

 

九歳当時のエリスは、授業を始めることすら困難だった。

 

嫌なことがあれば殴る。

 

教師を追い出す。

 

話を聞く前に怒鳴る。

 

剣士や冒険者として生きさせる方がよいと考えても、おかしくない。

 

「だが、今のエリスは文字を読み、簡単な計算をし、魔術を使い、社交の場でも最低限の役目を果たせる。そして剣神流上級だ」

 

「最後だけ、貴族の令嬢へ必要な範囲を越えていますね」

 

「ボレアス家では、強いことも立派な資質だよ」

 

フィリップは静かに笑う。

 

「それで、提案がある」

 

嫌な予感がした。

 

「将来、エリスと結婚する気はないかい?」

 

やはり。

 

「今日、ヒルダ様も同じことをおっしゃっていました」

 

「母親と父親では、意味が少し違う」

 

「どちらにせよ、十歳の僕へ持ちかける話ではないと思います」

 

「成人まで待ってもいい」

 

「僕の意思だけで決めることでもありません」

 

フィリップの眉が僅かに動いた。

 

「エリスの意思も必要です」

 

「エリスは、君を嫌ってはいない」

 

「嫌っていないことと、結婚したいことは違います」

 

舞踏会で一緒に踊った。

 

剣術で競い合う。

 

俺がどこかへ行くことを不安がる。

 

それらが、結婚を望んでいる証拠になるとは限らない。

 

相手の内心を、都合よく決めつけるべきではない。

 

「それに、結婚がボレアス家の権力争いと結びつくのであれば、なおさら慎重に考えます」

 

フィリップは、杯から手を離した。

 

「君は、本当にパウロの息子なのか疑いたくなるね」

 

「どういう意味ですか?」

 

「パウロなら、最後まで話を聞く前に頷いていただろう」

 

否定できないのが悲しい。

 

「君がエリスと結婚すれば、ノトス家の血とボレアス家の血がつながる。君を利用して、王都の兄へ対抗しようと考える者も出てくるだろう」

 

「フィリップ様も、その一人ですか?」

 

「可能性として考えたことはある」

 

あっさり認めた。

 

「けれど、今日の君を見て、少し考えを変えた」

 

「どのように?」

 

「私が結婚を命じるのではなく、二人が自分たちで選ぶべきなのだろう、とね」

 

完全に政治を諦めた顔ではない。

 

二人が結婚すると選んだなら、それを最大限利用するつもりだろう。

 

それでも、最初から娘を道具として差し出すよりはよい。

 

「今夜の話は、提案として覚えておきます」

 

「断らないのかい?」

 

「今すぐ受けることもしません」

 

「慎重だね」

 

「レイネに、推測と事実を混同するなと教えられていますので」

 

フィリップは声を上げて笑った。

 

「彼女は、よい侍女だ」

 

「はい」

 

「少し、出来すぎているけれどね」

 

一瞬だけ、フィリップの目が鋭くなる。

 

レイネが普通の侍女ではないことを、どこまで疑っているのか。

 

だが、それ以上の追及はなかった。

 

「そろそろ休みなさい。今日は疲れただろう」

 

「はい。おやすみなさい」

 

アクアハーティアと手紙の箱を持ち、食堂を後にした。

 

 

自室へ戻ると、扉の前にレイネが立っていた。

 

「お帰りなさいませ」

 

「片づけは終わったのですか?」

 

「はい」

 

レイネは、俺が抱えている箱と杖を見た。

 

その後、俺の襟元へ一瞬だけ視線を移す。

 

首飾りを外していないことを確認したのだろう。

 

「お運びいたしましょうか」

 

「自分で持ちます」

 

「承知いたしました」

 

扉を開けようとすると、レイネが僅かに視線を横へ動かした。

 

廊下の角。

 

誰かが隠れている。

 

赤い髪が少しだけ見えた。

 

「エリス?」

 

「な、何で分かったのよ!」

 

エリスが姿を現した。

 

すでに宴の衣装から、普段の寝間着と上着へ着替えている。

 

顔は少し赤い。

 

「隠れるなら、髪も隠してください」

 

「うるさいわね!」

 

大声を出しかけ、すぐに自分で口を押さえた。

 

夜であることを思い出したらしい。

 

「話があるのよ」

 

「僕に?」

 

「そうよ」

 

エリスはレイネを見る。

 

「二人で話したいんだけど」

 

レイネは俺へ確認するように視線を向けた。

 

「大丈夫です」

 

「では、私は少し離れております」

 

完全に立ち去るのではなく、何かあればすぐ戻れる位置へ移動する。

 

誘拐事件以来、そこは変わらない。

 

エリスとともに部屋へ入った。

 

俺はアクアハーティアを壁際へ立てかけ、手紙の箱を机へ置いた。

 

「それで、話とは?」

 

エリスはすぐには答えなかった。

 

寝台へ座るわけでもなく、部屋の中央へ立ったまま、何度か口を開きかける。

 

「今日、家族が来なくて、寂しかった?」

 

「会いたかったとは思いました」

 

正直に答える。

 

「でも、手紙が届きました。それに、皆さんが祝ってくれたので、一人だとは思っていません」

 

「本当に?」

 

「はい」

 

エリスは安心したように息を吐いた。

 

「ならいいわ」

 

「それを確認するために来たのですか?」

 

「それだけじゃないわよ!」

 

エリスは勢いよく顔を上げた。

 

「お父様と、何を話してたの?」

 

聞かれていたのだろうか。

 

「ボレアス家の事情です」

 

「それから?」

 

「エリスとの結婚を勧められました」

 

隠しても仕方がない。

 

エリスの顔が一瞬で赤くなった。

 

「お、お父様!」

 

「断定はしていませんが」

 

「ルーデウスは、何て言ったの?」

 

「今すぐ決めることではないと答えました」

 

エリスの表情が曇った。

 

「嫌なの?」

 

「そういう意味ではありません」

 

「なら、どういう意味よ」

 

俺は言葉を選んだ。

 

「僕たちは、まだ十歳と十二歳です。これから考え方も、やりたいことも変わるかもしれません」

 

「私は変わらないわよ!」

 

「エリスは、二年前には舞踏なんて必要ないと言っていました」

 

「それとこれは違うわ!」

 

「変わること自体が悪いとは言っていません」

 

エリスは黙った。

 

「それに、フィリップ様が望んだから結婚するのではなく、エリス自身が選ぶべきです」

 

「私が?」

 

「はい。ボレアス家のためでも、ノトス家のためでもなく、自分で決めるべきです」

 

エリスは視線を落とした。

 

首元には、十歳の誕生日にギレーヌから贈られた指輪が、レイネの組紐へ通されている。

 

今も大切に使っていた。

 

「ルーデウスは、五年後に成人するのよね」

 

「はい」

 

「その時には、魔法大学へ行くの?」

 

「おそらくは」

 

家庭教師の契約が終われば、シルフィとともに魔法大学へ通うための計画へ戻る。

 

ただ、今の俺には、以前より多くの選択肢がある。

 

言語を学んだ。

 

魔術も磨いた。

 

旅へ出ることもできる。

 

どの道を選ぶかは、その時にならなければ分からない。

 

「なら、五年後」

 

エリスが言った。

 

「ルーデウスが十五歳になった時、もう一度聞きなさい」

 

「何をですか?」

 

「私が、ルーデウスと結婚したいかよ!」

 

声が大きくなり、エリスは慌てて口を押さえた。

 

廊下から、レイネが動く気配はない。

 

聞こえていても、入ってくるつもりはないらしい。

 

「今ではなく?」

 

「今聞かれても……その……」

 

エリスは指輪を握った。

 

「まだ、よく分からないもの」

 

素直な答えだった。

 

嫌ではない。

 

だが、結婚が何を意味するのか、自分でも理解しきれていない。

 

「でも、五年後までルーデウスが逃げないなら、私もちゃんと考えるわ」

 

「逃げるとは?」

 

「勝手に魔法大学へ行って、帰ってこないとかよ!」

 

「連絡もなく消えるつもりはありません」

 

「なら約束しなさい!」

 

エリスが右手を差し出した。

 

剣を握る手。

 

何度も俺を打ち倒し、同時に何度も引き起こしてくれた手である。

 

「五年後、ルーデウスが成人した時に、もう一度ちゃんと話す。その時は、お父様やお祖父様が決めるんじゃなくて、私とルーデウスで決めるの」

 

政治でも。

 

家同士の都合でも。

 

周囲から与えられた答えでもなく。

 

二人で選ぶ。

 

「分かりました」

 

俺はエリスの手を取った。

 

「約束します」

 

「絶対よ!」

 

「はい」

 

「破ったら斬るわよ!」

 

「それは約束を守っても、別の理由で斬られそうですが」

 

「うるさい!」

 

エリスは俺の手を強く握った後、すぐに離した。

 

顔はまだ赤い。

 

「それから」

 

「まだありますか?」

 

「魔法大学へ行く時、私も行きたいって言ったら、ちゃんと考えなさいよ」

 

「以前も同じ話をしましたね」

 

「今度は約束よ!」

 

「フィリップ様たちの許可は必要です」

 

「取るわよ!」

 

「その時まで、勉強も続けてください」

 

「分かってるわ!」

 

「算術もです」

 

「それは別でしょう!」

 

「魔法大学でも、お金の計算は必要です」

 

エリスは嫌そうな顔をした。

 

それでも、以前のように拒否はしなかった。

 

「やればいいんでしょう!」

 

「はい」

 

「なら、明日からもっと難しい問題を出しなさい!」

 

「明日は休息日ですが」

 

「誕生日の次の日なんだから、休むわよ!」

 

当然のように言う。

 

休息日を作った当初、あれほど反発していた人物とは思えない。

 

「では、明後日から」

 

「そうしなさい!」

 

話を終えたエリスは、扉へ向かう。

 

途中で足を止め、振り返った。

 

「ルーデウス」

 

「はい」

 

「誕生日、おめでとう」

 

宴の最中にも言われた。

 

けれど、今の声は、誰かに聞かせるためのものではなかった。

 

「ありがとうございます、エリス」

 

エリスは満足そうに頷き、部屋を出ていった。

 

廊下の向こうから、レイネの声が聞こえる。

 

「お部屋までお送りいたします」

 

「一人で帰れるわよ!」

 

「夜も遅うございますので」

 

「同じ屋敷でしょう!」

 

言い争う声が、少しずつ遠ざかっていく。

 

俺は扉を閉め、壁際へ立てかけたアクアハーティアを見た。

 

机の上には家族からの手紙がある。

 

胸元には、レイネから贈られた名もない魔石が触れている。

 

五年後。

 

今の俺には、長い時間だ。

 

その間に、何が起きるかは分からない。

 

俺も変わる。

 

エリスも変わる。

 

約束したからといって、未来が決まったわけではない。

 

五年後に必ず結婚するという約束でもない。

 

その時に、互いの意思を確認する。

 

周囲へ決められるのではなく、自分たちで選ぶ。

 

それだけだ。

 

けれど、今の俺には十分だった。

 

誰かと将来の話をする。

 

五年後にも一緒にいる可能性を、当然のように考えてもらえる。

 

前世の俺には、一度もなかったことだ。

 

扉が小さく叩かれた。

 

「ルーデウス様」

 

レイネだった。

 

「どうぞ」

 

レイネが入ってくる。

 

エリスを部屋まで送ってきたのだろう。

 

「お話は終わられましたか?」

 

「はい」

 

「差し支えなければ、どのようなお話を?」

 

「五年後に、もう一度将来について話す約束をしました」

 

レイネの赤い瞳が、僅かに細められた。

 

「左様でございますか」

 

「驚かないのですか?」

 

「エリス様が、ルーデウス様の将来を気にしておられることは存じておりましたので」

 

「レイネは何でも知っていますね」

 

「すべてを知っているわけではございません」

 

その言葉だけは、少し重く聞こえた。

 

「五年後も、レイネはそばにいてくれますか?」

 

尋ねると、レイネはすぐに答えなかった。

 

普段なら、迷わず肯定するはずの問いだった。

 

ほんの僅かな沈黙。

 

やがて、いつもの穏やかな表情へ戻る。

 

「ルーデウス様がお許しくださる限り、私はおそばにおります」

 

「僕が追い出すことはありません」

 

「では、五年後も」

 

レイネは静かに頭を下げた。

 

「お二人が御自身の意思で答えを選ばれるところを、見届けさせていただきます」

 

家族からの手紙。

 

エリスの贈った杖。

 

五年後の約束。

 

そして、そばにいると言ってくれるレイネ。

 

十歳の誕生日に受け取ったものは、高価な杖だけではなかった。

 

俺は椅子へ座り、もう一度パウロの手紙を開いた。

 

今度会った時には、どれだけ強くなったか見てやる。

 

その一文を読み返す。

 

剣だけなら、エリスとの差は開いた。

 

それでも、俺は以前より強くなっている。

 

魔術。

 

言葉。

 

判断。

 

人との関わり方。

 

強さには、いくつもの形がある。

 

五年後に、どのような自分になっているかは分からない。

 

だからこそ、今日の約束を忘れずに進もう。

 

次に家族と会う時。

 

エリスと将来を話す時。

 

その時に、胸を張って自分の選択を口にできるように。

 

十歳になった夜。

 

俺は初めて、五年後の自分を、少しだけ楽しみに思った。

 

 

レイネ視点

 

ルーデウスが眠りについた後、レイネは音を立てずに寝台のそばへ立った。

 

規則正しい寝息が聞こえる。

 

胸元には、昼間に贈った魔石が触れていた。

 

寝返りを打っても外れないよう、鎖の長さと留め具は調整してある。

 

レイネは指先を近づけ、魔石の内部へ組み込んだ術式を確認した。

 

正常。

 

破損なし。

 

起動条件にも異常はない。

 

ルーデウスの生命活動が停止した時。

 

あるいは、回復しなければ死に至るほど生命力が低下した時。

 

魔石は持ち主の意思を待たず、自動的に術式を発動する。

 

最初に展開されるのは、外部からの攻撃や妨害を遮断する防護壁。

 

魔石を中心としてルーデウスの全身を覆い、内部の治療が完了するまで解除されない。

 

次に、停止した生命活動を再開させる蘇生術式。

 

肉体の損傷を修復し、失われた血液と魔力を補い、魂と肉体の結びつきを固定する。

 

最後に、傷一つ残らない状態まで完全な回復を続ける。

 

その全工程が終わるまで、外から防護壁を破ることはできない。

 

今の世界に存在する一般的な魔道具とは、比較することすらできない代物だった。

 

術式の存在を知れば、ルーデウスは必ず仕組みを調べようとする。

 

自分へ危険がないと分かれば、実際に発動する条件を試そうとする可能性すらある。

 

だから、教えなかった。

 

ただのお守りとして、肌身離さず持つよう頼んだ。

 

それでよい。

 

レイネは魔石から指を離した。

 

眠っているルーデウスの髪が、僅かに額へかかっている。

 

それを静かに整える。

 

誘拐事件の時。

 

自分がそばにいなかった間に、ルーデウスは命を奪われかけた。

 

二度と同じことは起こさせない。

 

普段は可能な限り、すぐそばにいる。

 

危険が迫れば、自分の力で排除する。

 

それでも、世界にはレイネの予測を越える出来事が存在する。

 

一瞬だけ離れることもある。

 

手が届かない場所へ引き離されることもある。

 

その時のための魔石だった。

 

「私の手が届かない場所であっても」

 

眠っているルーデウスへ届かないほど、小さな声で呟く。

 

「あなたを死なせはいたしません」

 

魔石は、何の光も放たなかった。

 

ただ静かに、ルーデウスの胸元で起動の時を待っている。

 

レイネは毛布を整えると、寝台の横に置かれた椅子へ腰を下ろした。

 

十歳の誕生日。

 

ルーデウスは五年後の未来を、楽しみに思った。

 

その未来へ必ず辿り着かせる。

 

それが、レイネから贈った本当の約束だった。

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