白髪の侍女   作:MトK

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第二十一話 ターニングポイント

レイネ視点

 

異変は、空に色が現れるよりも先に始まっていた。

 

ルーデウスが十歳の誕生日を迎えてから数日後。

 

夜明け前の屋敷は、まだ眠りの中にある。

 

暖炉の火は小さくなり、窓の外には薄い霧が漂っていた。

 

レイネは、寝台のそばに置かれた椅子へ腰掛けている。

 

眠る必要はない。

 

それでも、ルーデウスの生活へ合わせ、夜は静かに身体を休めることにしていた。

 

寝台では、ルーデウスが規則正しい寝息を立てている。

 

胸元には、十歳の誕生日にレイネが贈った魔石があった。

 

外から見れば、何の変哲もない首飾りである。

 

装着者の生命が停止した時。

 

あるいは、このまま放置すれば確実に死へ至るほど衰弱した時。

 

魔石は、本人の意思を待たずに発動する。

 

周囲へ防護壁を張り、治療への妨害を遮断した上で、装着者の生命を呼び戻す。肉体の損傷を修復し、完全な状態へ戻るまで術式を止めない。

 

ルーデウスには、ただのお守りだとしか伝えていない。

 

機能を説明すれば、自分で確かめようとする可能性がある。

 

ルーデウスは慎重だが、未知の魔術や魔道具に対する好奇心も強い。

 

命に関わる術式を、実験の対象にさせるわけにはいかなかった。

 

その魔石へ異常が起きたわけではない。

 

先に変化したのは、屋敷の外を満たす魔力だった。

 

レイネは閉じていた目を開く。

 

周囲に存在する魔力が、少しずつ上空へ吸い上げられている。

 

一度に大きく動いているわけではない。

 

あまりにも緩やかなため、普通の魔術師なら気づかなかっただろう。

 

しかし、流れは一日ごとに強くなっていた。

 

何かが、フィットア領の上空で形を作ろうとしている。

 

レイネは立ち上がり、窓辺へ移動した。

 

まだ暗い空に、目立った異常はない。

 

だが、魔力の流れを辿れば、広い範囲を覆う術式が少しずつ組み上がっていることが分かった。

 

攻撃魔術とは異なる。

 

熱や冷気を生み出す流れでもない。

 

空間へ干渉するための術式に近い。

 

ただし、あまりにも規模が大きい。

 

誰か一人を呼び寄せるための召喚とは考えにくかった。

 

領内に存在するものを、一度に別の場所へ移す。

 

そのような目的でなければ、これほど広い範囲へ魔力を巡らせる必要はない。

 

レイネは数日間、異変を観察した。

 

まずは、見えている魔力だけから判断する。

 

術式はまだ発動していない。

 

しかし、すでに領内の土地や建物、人々の存在を、転移対象として取り込み始めている。

 

この段階で強引に破壊すれば、術式へ接続された者が空間の途中へ取り残される危険があった。

 

止めること自体はできるかもしれない。

 

けれど、止めた結果として、領内の人々がどうなるかを保証できない。

 

それでは意味がない。

 

レイネは寝台へ戻り、眠るルーデウスを見下ろした。

 

今のお守りは、死や致命傷への備えとしては十分である。

 

しかし、転移先の環境までは保証していない。

 

高空へ放り出されれば、地面へ到達する前に身体が壊れる。

 

雪原や氷山であれば、凍死する。

 

砂漠や火山地帯なら、体温が上がりすぎる。

 

海中や深い地底であれば、呼吸できない。

 

毒に満ちた沼地。

 

瘴気の濃い魔物の巣。

 

人が口にできる水も食料も存在しない場所。

 

転移した瞬間に死ななくても、その後数時間で命を失う環境はいくらでもある。

 

レイネが必ず一緒に転移できるとは限らない。

 

手を握っていたとしても、術式が一人ずつ別の座標へ分ける可能性がある。

 

ならば、自分がいない時間にも、ルーデウスが生き延びられるようにする必要があった。

 

少なくとも一週間。

 

それだけの猶予があれば、どこへ転移しても、必ず見つけ出せる。

 

レイネは眠るルーデウスの胸元へ視線を落とした。

 

「少し、お借りいたします」

 

返事はない。

 

だが、勝手に外すつもりはなかった。

 

朝になってから、事情を伏せたまま借りることにする。

 

 

ルーデウスが目を覚ますと、いつものようにレイネが身支度を整えた。

 

衣服を用意し、髪を整える。

 

その後、首元へ手を伸ばす。

 

「ルーデウス様」

 

「はい」

 

「お守りを、半日ほどお預かりしてもよろしいでしょうか」

 

ルーデウスは胸元から首飾りを取り出した。

 

透明な魔石の中に、銀色の筋が走っている。

 

「何か問題がありましたか?」

 

「念のため、術式の状態を確認したく存じます」

 

「術式が入っているのですね」

 

ルーデウスの目に、僅かな興味が浮かぶ。

 

レイネは表情を変えなかった。

 

「魔石をお守りとして機能させるための、簡単なものでございます」

 

完全な嘘ではない。

 

簡単という部分だけは、見る者によって評価が変わるだろう。

 

「昨日までは問題なかったのでは?」

 

「問題が起きてからでは遅うございますので」

 

「それは、そうですね」

 

ルーデウスは鎖を外し、レイネの掌へ置いた。

 

「いつ頃戻りますか?」

 

「夕食までには、必ず」

 

「分かりました」

 

ルーデウスは手を離しかけ、もう一度魔石を見た。

 

「レイネが持っている間なら、肌身離さずという約束には違反しませんよね?」

 

「はい。私が責任を持ってお預かりいたします」

 

「なら、お願いします」

 

「確かにお預かりいたしました」

 

レイネは魔石を両手で包んだ。

 

普段と変わらない礼をする。

 

ルーデウスは、それ以上疑わなかった。

 

 

授業が始まった後、レイネはフィリップへ断りを入れ、使われていない小部屋へ入った。

 

古い家具がいくつか置かれているだけの部屋である。

 

扉を閉める。

 

外から魔力の動きを察知されないよう、部屋の内側へ遮断を施す。

 

厚い結界ではない。

 

魔力の気配を、部屋の外から感じ取りにくくするためのものだった。

 

机の上へ魔石を置く。

 

誕生日の時点で組み込んだ術式は、すべて正常に保たれている。

 

自動蘇生。

 

完全治癒。

 

治療が終わるまで外敵を遮断する防護壁。

 

肉体と魂をつなぎ止めるための固定。

 

そこへ、転移後の環境へ対応する機能を追加する。

 

既存の中核へ触れれば、蘇生術式そのものに不具合が生じる恐れがある。

 

そのため、新たな術式は外側へ重ね、必要な時だけ独立して作動する構造にする。

 

最初に、落下への対策。

 

装着者が制御できない速度で落下している場合、地面へ衝突する前に周囲の風と重力へ干渉し、速度を落とす。

 

完全に空中で停止させるのではない。

 

急激な減速によって身体を痛めないよう、何段階かに分けて速度を削る。

 

次に、気温。

 

装着者の体温が危険なほど下がれば、体内と衣服の内側へ熱を供給する。

 

反対に、熱がこもりすぎれば外へ逃がす。

 

外気温を変えるのではなく、ルーデウスの身体だけを一定の範囲に保つ。

 

毒や瘴気には、別の術式を使う。

 

呼吸から入る毒は、口や鼻へ届く前に分解する。

 

食事や傷口から入った毒についても、体内へ広がる前に中和する。

 

水中や空気の薄い場所では、顔の周囲へ呼吸に必要な空気を作る。

 

深い水底へ転移した場合に備え、急激な水圧の変化から身体を守る機能も加えた。

 

食料と水がない場合には、魔石へ蓄えた魔力を生命維持へ回す。

 

空腹を完全に消すわけではない。

 

しかし、身体が衰弱せず、判断力と魔術を使える状態を一週間保てるようにする。

 

長く維持しすぎれば、お守りの中核に蓄えた力まで消費してしまう。

 

それでは蘇生が必要になった時に困る。

 

環境維持は七日間で停止するよう、明確な制限を設けた。

 

七日を過ぎても、蘇生と治癒の術式だけは残る。

 

最後に、索敵のための目印を作る。

 

常に位置を発信させれば、感知能力を持つ者へ魔石の存在を悟られる可能性がある。

 

普段は何も発しない。

 

レイネが決められた方法で探した時だけ、短い反応を返す。

 

それで十分だった。

 

術式の形が完成する。

 

残るのは、それらを一週間動かすための魔力を魔石へ収める作業だった。

 

レイネは、現在保有している魔力の量を確かめる。

 

転移が起きる可能性を考えれば、自分の力を削りすぎるべきではない。

 

術式の発動後、すぐにルーデウスを探しに向かえるだけの余力が必要である。

 

一割では多すぎる。

 

今後、どのような敵や障害が現れるか分からない状態で、それほどの量を先に失うのは適切ではない。

 

反対に、一%程度では、極端な環境が続いた場合に余裕がない。

 

一つの機能だけが動くとは限らない。

 

極寒の海中へ転移すれば、体温維持、呼吸、水圧保護、栄養供給を同時に使うことになる。

 

レイネが選んだのは、三%だった。

 

七日間の環境維持へ十分な余裕を持たせながら、自身の行動を妨げない範囲。

 

失っても動ける。

 

しかし、何度も気軽に作り直せるほど軽い消費ではない。

 

レイネは魔石へ指を添えた。

 

魔力を、急がず流し込む。

 

一度に押し込めば、内部の術式が歪む。

 

落下制御。

 

温度維持。

 

防毒。

 

呼吸。

 

圧力への耐性。

 

水分と栄養の補給。

 

一つずつ、必要な量を割り当てていく。

 

最後に、ごく小さな余裕を残す。

 

想定外の環境が一つ加わった場合に、既存の機能を組み替えて対応するための魔力である。

 

魔石の内部にある銀色の筋が、ゆっくり増えた。

 

外見上の変化は、それだけだった。

 

強い光も出ない。

 

部屋が揺れることもない。

 

作業を知らない者が見れば、レイネが机の上の首飾りへ触れているだけに見えただろう。

 

すべての魔力を収め終える。

 

三%。

 

身体が僅かに重く感じられる。

 

戦えなくなるほどではない。

 

通常の生活にも影響はない。

 

ただ、失った魔力が完全に戻るまでには時間がかかる。

 

それでも必要な消費だった。

 

「これで、七日間」

 

その間に必ず見つける。

 

それ以上、ルーデウスを一人で危険な場所へ置くつもりはない。

 

レイネは魔石の動作を一つずつ確認し、首飾りを小箱へ戻した。

 

 

ルーデウス視点

 

夕食を終えて自室へ戻ると、レイネが小さな箱を差し出した。

 

「お預かりしていたお守りでございます」

 

「問題はありましたか?」

 

「致命的な不具合はございませんでした。ただ、念のため一部を調整しております」

 

箱を開く。

 

首飾りの外見は、朝とほとんど変わっていない。

 

透明な魔石。

 

細い鎖。

 

石の中にある銀色の筋が、僅かに増えたようには見えた。

 

「どこを変えたのですか?」

 

「外部から予期せぬ影響を受けた場合にも、機能を保てるようにいたしました」

 

「外部からの影響?」

 

「強い衝撃や、急激な環境の変化などでございます」

 

やや具体的になった。

 

しかし、お守りが何をする物なのかは、依然として分からない。

 

俺は魔石を手に取り、少しだけ魔力を流してみた。

 

以前と同じだ。

 

送り込んだ魔力が内部へ入らず、表面を滑るように消えていく。

 

「僕の魔力では動かないのですね」

 

「ルーデウス様が動かす必要はございません」

 

「自動で動く?」

 

レイネは少しだけ間を置いた。

 

「必要な状況になれば」

 

「何が起きると必要になるのですか?」

 

「今は、お話しできません」

 

穏やかな声だった。

 

それでも、追及を拒む意思ははっきりしている。

 

「僕が知ることで、何か問題がありますか?」

 

「ルーデウス様は、仕組みを知れば、確かめたくなる方でございます」

 

否定できなかった。

 

「危険な実験はしませんよ」

 

「危険かどうかを判断するためにも、最初は仕組みを確認なさるでしょう」

 

「それは、まあ……」

 

そのとおりだった。

 

「ですが、レイネが何かを隠していることは気になります」

 

「申し訳ございません」

 

レイネは頭を下げた。

 

「こちらについては、私を信じていただけませんでしょうか」

 

そこまで言われては、これ以上聞けない。

 

レイネが俺へ害を与えるとは思わない。

 

誘拐事件でも、それ以前でも、何度も助けられてきた。

 

秘密があることと、敵であることは同じではない。

 

「分かりました」

 

俺は首飾りを身につけた。

 

レイネが魔石を襟元の内側へ入れる。

 

冷たい石が肌に触れる。

 

「肌身離さず、ですね」

 

「はい」

 

「入浴中も、眠る時も外さない」

 

「はい」

 

「壊れたように見えても捨てず、レイネへ渡す」

 

「覚えていてくださったのですね」

 

「あれほど真剣に言われれば、忘れません」

 

レイネは、少しだけ安心したように目を細めた。

 

「ありがとうございます」

 

俺は衣服の上から魔石へ触れた。

 

「レイネ」

 

「はい」

 

「少し疲れていますか?」

 

普段と比べれば、ごく僅かな違いだった。

 

呼吸は乱れていない。

 

姿勢も変わらない。

 

それでも、いつもより動作が慎重に見える。

 

「お守りの調整に、少々魔力を使いました」

 

「どれくらいですか?」

 

「行動へ支障が出るほどではございません」

 

具体的な量は言わない。

 

「僕のために、無理をしていませんか?」

 

「必要な備えを行っただけでございます」

 

「何に備えたのですか?」

 

「空の異変にございます」

 

俺は窓を見る。

 

日が落ちた後でも、空の一部が僅かに濁って見える。

 

数日前までは、気のせいだと思っていた。

 

だが今では、町でも噂になっている。

 

「やはり、危険なのですか?」

 

「危険ではないと断言できません」

 

「何が起きるかは?」

 

「確かなことは、まだ申し上げられません」

 

レイネは、不確かな推測を事実のように語らない。

 

その姿勢は、以前から変わらない。

 

ただ、今のお守りの調整が空の異変への備えだということは、何かが起こる可能性を相当に高く見積もっているのだろう。

 

「フィリップ様たちには?」

 

「周辺の警戒を強めるよう、お伝えしております」

 

「避難はしないのですか?」

 

「どこへ避難すれば安全なのか、分かっておりません」

 

正しい。

 

異変はフィットア領の上空に広がっている。

 

町の外へ出れば安全だという保証はない。

 

「分かりました」

 

俺はもう一度、胸元の魔石へ触れた。

 

「絶対に外しません」

 

「お願いいたします」

 

レイネは深く頭を下げた。

 

 

ロキシー視点

 

シーローン王宮の窓から見える西の空は、日に日に濃い色へ変わっていた。

 

紫と茶色の混ざった光が、雲のように広がっている。

 

だが、風に流されることはない。

 

一か所へ集まりながら、ゆっくりと明滅を繰り返していた。

 

「何なのでしょうか……」

 

ロキシーは窓辺に立ち、空を見上げた。

 

膨大な魔力。

 

召喚魔術に似た空間への干渉。

 

しかし、その対象も、術者の姿も分からない。

 

異変が見える方角は、アスラ王国。

 

ルーデウスがいるフィットア領も、同じ方向にある。

 

もちろん、正確な距離も位置も、この場所からは判断できない。

 

それでも、胸騒ぎが消えなかった。

 

「ロキシー!」

 

背後から、パックスの声が飛ぶ。

 

「余がいるのに、また窓の外を見ているのか!」

 

「申し訳ございません」

 

「口では謝りながら、まるで反省しておらんではないか!」

 

パックスは苛立った様子で机を叩いた。

 

「今日は上級魔術を教えろと言っただろう!」

 

「まだ殿下には早いと、昨日も申し上げました」

 

「余は王子だぞ!」

 

「王族であることと、魔術の習熟度には関係がございません」

 

「関係ある! 余が使いたいと言っているのだ!」

 

以前なら、どう教えればパックスが理解してくれるかを考えた。

 

今では、本人に学ぶ意思がないのだと理解している。

 

ロキシーが一つ教えれば、ルーデウスは自分で先へ進んだ。

 

パックスは、教えられた手順を一度試し、失敗すれば教師が悪いと怒る。

 

比較するべきではないと分かっていても、かつての弟子を思い出してしまう。

 

「殿下」

 

「何だ!」

 

「わたしは、近いうちにシーローンを離れます」

 

パックスの表情が止まった。

 

「何を言っている」

 

「契約期間は、すでに満了しております」

 

「余は認めていないぞ!」

 

「契約は、殿下の許可がなくても終了いたします」

 

「許さん!」

 

パックスが叫ぶ。

 

「余の教師を辞めることなど許さん! 衛兵を呼んで閉じ込めてやる!」

 

ロキシーは小さく息を吐いた。

 

この国を離れる決意自体は、以前からしていた。

 

西の空の異変は、その時期を早める理由になっただけである。

 

「わたしには、確認したいことがあります」

 

「余より大切なことか!」

 

「はい」

 

即答した。

 

パックスの顔が怒りで歪む。

 

ロキシーは窓の外を見た。

 

遠く離れた場所にいる弟子。

 

手紙を交わすだけになってから、すでに何年も経っている。

 

元気にしていると書かれていた。

 

家庭教師として苦労しながらも、剣術や言語を学び続けていると。

 

けれど、手紙は過去の無事しか伝えてくれない。

 

今、この瞬間に何が起きているかは分からない。

 

「ルーデウス……」

 

名前を、小さく呟く。

 

無事でいてほしい。

 

できることなら、あの異変とは無関係な場所にいてほしい。

 

だが、悪い予感だけが、胸の奥へ残り続けていた。

 

 

ルーデウス視点

 

数日後。

 

ロアの上空は、肉眼でも異常だと分かるほど濁った光に覆われていた。

 

紫色と茶色。

 

時折、その中へ白い筋が走る。

 

町では、魔族の攻撃だという者もいれば、神の怒りだと叫ぶ者もいた。

 

新しい王宮魔術の実験。

 

魔界大帝の復活。

 

龍神と魔神の戦い。

 

噂だけは増え続ける。

 

確かな情報は一つもない。

 

フィリップとアルフォンスは屋敷の警備を強化した。

 

使用人たちには、不用意に遠出しないよう命じている。

 

しかし、町全体を避難させることはできなかった。

 

どこが安全なのか、誰にも分からないからである。

 

その日は休息日だった。

 

以前から、ギレーヌへアクアハーティアを使った水聖級魔術を見せる約束をしている。

 

町の近くで使うわけにはいかないため、郊外へ出る予定だった。

 

俺は出発前に、レイネへ尋ねた。

 

「今日は、屋敷から出ない方がよいでしょうか」

 

レイネは、窓から空を見上げた。

 

「屋敷の中が安全であるとも限りません」

 

「郊外の方が安全ですか?」

 

「それも断言できません」

 

「どちらにいても変わらない?」

 

「少なくとも、現在分かっている範囲では」

 

頼りない返答に聞こえる。

 

だが、分からないことを分かったふりで答えられるよりはよい。

 

「では、予定どおり出発しましょう。何か変化があれば、すぐに戻ります」

 

「承知いたしました」

 

俺。

 

エリス。

 

ギレーヌ。

 

レイネ。

 

四人で屋敷を出た。

 

レイネは、いつも以上に俺の近くを歩いている。

 

馬へ乗っている間も、離れようとはしなかった。

 

「本当に、何も分からないのですか?」

 

移動の途中で尋ねる。

 

「空間へ干渉する魔術に似ているとは考えております」

 

「召喚魔術ですか?」

 

「可能性の一つでございます」

 

「何かが出てくる?」

 

「反対に、何かが移動させられる可能性もございます」

 

そこまで言ったところで、レイネは口を閉じた。

 

確証のない情報を、それ以上与えないつもりらしい。

 

「敵が出るの?」

 

エリスが前から振り返った。

 

「まだ、敵がいるとは決まっていません」

 

「出たら斬ればいいわ!」

 

「空そのものは斬れませんよ」

 

「そんなの分かってるわよ!」

 

今のエリスなら、本当に斬ろうとしかねない。

 

 

ロアの郊外にある丘へ到着する。

 

人家も畑も近くにはない。

 

水聖級魔術を使うには、まだ町に近すぎる気もしたが、今日は完全に発動させる前に、杖の増幅率を調べるだけである。

 

最初は、小さな水弾から試した。

 

アクアハーティアを構える。

 

普段と同じ量の魔力を流す。

 

先端の青い魔石が光り、俺の頭より大きな水球が現れた。

 

「大きいわね!」

 

エリスが声を上げる。

 

「大きすぎます」

 

魔力を減らし、もう一度作る。

 

今度は掌ほどの水球になった。

 

ただし、内部が強く圧縮されている。

 

離れた岩へ撃ち込む。

 

轟音。

 

水弾は岩の表面を削るのではなく、中心へ深い穴を開けた。

 

「すごいじゃない!」

 

エリスが得意そうに胸を張る。

 

「私が選んだ杖なんだから、当然ね!」

 

実際に素材を選んだのは職人やアルフォンスだろう。

 

それでも、俺のために贈ってくれたことには違いない。

 

「非常に使いやすいです。慣れれば、少ない魔力でも十分な威力を出せます」

 

「そうでしょう!」

 

その後、火、風、土も試す。

 

水ほどではないが、どの属性も威力が上がっている。

 

ギレーヌは眼帯を外し、魔眼で魔力の流れを見ていた。

 

エリスは俺が魔術を使うたび、杖がどれほど役に立ったかを聞いてくる。

 

レイネだけは、何度も空へ視線を向けていた。

 

「レイネ」

 

「はい」

 

「先ほどより、光が強くなっていませんか?」

 

「はい」

 

返事が短い。

 

レイネの赤い瞳が、俺の肩越しへ動いた。

 

次の瞬間、襟を掴まれた。

 

身体が強く後ろへ引かれる。

 

銀色の刃が、俺の首があった場所を通り過ぎた。

 

風切り音が、遅れて聞こえる。

 

目の前に、黄色い仮面をつけた男がいた。

 

いつ現れたのか分からない。

 

白を基調とした衣服。

 

片手には短剣。

 

ギレーヌが俺たちの前へ飛び出した。

 

剣を抜く音と、刃同士がぶつかる音が重なる。

 

「何者だ!」

 

「光輝のアルマンフィ」

 

聞き覚えがある名前だった。

 

甲龍王ペルギウスが従える、十二人の使い魔の一人。

 

光の姿へ変わり、視界に入る場所なら一瞬で移動すると伝えられている。

 

「異変の原因を排除する」

 

黄色い仮面が、俺へ向いた。

 

「異常な魔力を持つ術師が、異変の直下で大規模魔術を使おうとしている。無関係とは考えにくい」

 

「僕は原因ではありません」

 

「証拠は」

 

「この空の魔力は、僕が動かしているものではありません」

 

「術者本人の言葉を、証拠とは呼ばない」

 

アルマンフィの姿が光へ変わる。

 

白い線が視界を横切った。

 

ギレーヌの剣が、光を迎え撃つ。

 

一度。

 

二度。

 

三度。

 

俺の目では追えない。

 

火花と金属音だけが、空中へ連続して現れる。

 

エリスが剣へ手をかけた。

 

レイネが腕を押さえる。

 

「今はお動きにならないでください」

 

「でも、ギレーヌが戦ってるのよ!」

 

「加われば、ギレーヌ様の動きを妨げます」

 

エリスは歯を食いしばった。

 

それでも剣を抜かなかった。

 

やがてアルマンフィが、最初にいた場所へ戻る。

 

ギレーヌも、俺たちの前に立っていた。

 

二人とも傷はない。

 

「あたしは剣王ギレーヌ・デドルディア」

 

ギレーヌが剣を構えたまま言う。

 

「師と一族の名誉に懸けて誓う。ルーデウスは、この異変とは無関係だ」

 

「剣王が保証するか」

 

「ああ」

 

アルマンフィは、しばらくギレーヌを見ていた。

 

やがて短剣を下げる。

 

「よかろう。虚偽であれば、後にペルギウス様が裁く」

 

「構わん」

 

緊張が僅かに緩んだ。

 

「最初から話を聞くつもりはなかったのですか?」

 

俺が尋ねる。

 

「原因である可能性の高い者を、放置する理由はない」

 

謝罪する気はないらしい。

 

アルマンフィが空を見上げた。

 

同時に、レイネの指が俺の腕へ食い込んだ。

 

「ルーデウス様」

 

声は静かだった。

 

「お守りは、身につけておられますか?」

 

「はい」

 

「決して外さないでください」

 

「今、確認することですか?」

 

「今だからこそでございます」

 

胸元へ手を当てる。

 

魔石は、いつもと変わらず冷たい。

 

その瞬間。

 

ロアの上空から、白い光が落ちた。

 

音はない。

 

爆発もない。

 

空と地面をつなぐ、巨大な光の柱。

 

光が町へ触れる。

 

屋敷。

 

城壁。

 

建物。

 

そのすべてが崩れることなく、光の中へ消えていく。

 

燃えたのではない。

 

壊されたのでもない。

 

最初から何も存在しなかったかのように、土地の上から抜き取られていく。

 

「何よ、あれ……」

 

エリスの声が震えた。

 

アルマンフィは光へ変わり、ロアの方向へ消えた。

 

ギレーヌが叫ぶ。

 

「屋敷へ戻る!」

 

「間に合いません」

 

レイネが答えた。

 

光は、すでにロア全体を覆っている。

 

白い壁となって、丘へ迫ってきていた。

 

馬よりも速い。

 

走って逃げられるものではない。

 

「何が起きているんですか!」

 

俺はレイネを見る。

 

レイネは、白い光を見たまま答えた。

 

「空間系の魔術である可能性がございます」

 

「転移ですか?」

 

「その可能性が高いかと」

 

断定はしない。

 

だが、レイネが今まで口にしなかった推測を、この段階で初めて明かした。

 

「どこへ飛ばされるのですか?」

 

「分かりません」

 

エリスが俺の腕へしがみつく。

 

「どうすればいいのよ!」

 

「互いに離れないでくださいませ」

 

レイネが、俺とエリスの肩へ手を置いた。

 

ギレーヌも近づいてくる。

 

「レイネは?」

 

俺は尋ねた。

 

「私も、可能な限りおそばにおります」

 

可能な限り。

 

普段なら、必ずそばにいると言う。

 

その違いが、ひどく不安だった。

 

「同じ場所へ転移できないかもしれないのですか?」

 

レイネは答えなかった。

 

光が丘の麓へ到達する。

 

木々が消える。

 

地面が消える。

 

音もなく、白い壁が迫ってくる。

 

「エリス、ルーデウスを離すな!」

 

ギレーヌが叫ぶ。

 

「分かってるわよ!」

 

エリスが俺へ両腕を回した。

 

俺もエリスの身体を抱く。

 

レイネが胸元の魔石へ触れた。

 

その瞬間、初めて魔石が温かくなった。

 

「ルーデウス様」

 

レイネの赤い瞳が、真っ直ぐ俺を見ている。

 

「もし、見知らぬ場所へ到着された場合は、すぐに動かないでくださいませ」

 

「どうして、そんな話を」

 

「周囲の空気、足場、気温、敵の有無をご確認ください。その後で、安全な方向をお選びください」

 

完全に、離れ離れになることを想定している。

 

「お守りが、最低限の危険からはお守りいたします」

 

「何ができるのですか?」

 

「今は、説明している時間がございません」

 

最後まで教えるつもりはないらしい。

 

「レイネも一緒に来てください」

 

俺は、胸元へ触れていたレイネの手首を掴んだ。

 

「こうしていれば、同じ場所へ行けますよね?」

 

「保証はできません」

 

「それでも離さないでください」

 

レイネは、俺の手を振り払わなかった。

 

反対の手で、俺の指を包む。

 

「可能な限り」

 

白い光が、俺たちへ到達した。

 

上下の感覚がなくなる。

 

身体が無数の方向へ引かれた。

 

皮膚。

 

骨。

 

内臓。

 

それぞれが別の場所へ運ばれようとしているような、不快な感覚。

 

胸元の魔石が熱を帯びる。

 

俺の身体を薄い膜が覆った。

 

引き裂かれるような感覚が弱まる。

 

エリスの腕は、まだ俺の身体へ回されている。

 

「エリス!」

 

「離さないわよ!」

 

声が聞こえる。

 

姿も見える。

 

俺たちは、同じ方向へ引かれているらしい。

 

ギレーヌの姿は、白い光の向こうへ遠ざかっていく。

 

「ギレーヌ!」

 

エリスが手を伸ばそうとする。

 

俺を抱く腕が緩む。

 

「離さないでください!」

 

俺が叫ぶ。

 

エリスは歯を食いしばり、もう一度俺へしがみついた。

 

レイネの手も、まだ握っている。

 

しかし、レイネの身体だけが、俺たちとは別の方向へ引かれていた。

 

指先が滑る。

 

「レイネ!」

 

力を込める。

 

レイネも握り返す。

 

それでも、空間そのものが俺たちの間へ入り込み、距離を広げていく。

 

「離さないでください!」

 

「ルーデウス様」

 

レイネの声は、最後まで静かだった。

 

「必ず、お迎えに参ります」

 

「一緒に――」

 

言葉を最後まで発することはできなかった。

 

白い光が視界を覆う。

 

レイネの白い髪。

 

赤い瞳。

 

伸ばされた指。

 

そのすべてが遠ざかり、最後には見えなくなった。

 

 

レイネ視点

 

転移の流れへ取り込まれながら、レイネは最後までルーデウスの状態を確認していた。

 

魔石は正常に作動している。

 

肉体と魂の固定。

 

転移中の損傷防止。

 

環境維持機能の待機。

 

自動蘇生。

 

すべてに異常はない。

 

エリスの気配は、ルーデウスと同じ流れに残っている。

 

二人は同じ場所へ送られる。

 

少なくとも、ルーデウスが一人で見知らぬ土地へ放り出されることはなかった。

 

ギレーヌの気配は別の方向へ遠ざかっている。

 

レイネ自身も、ルーデウスとは異なる流れへ取り込まれていた。

 

無理に接続を固定すれば、ルーデウスの転移へ異常が生じる可能性がある。

 

自分が一緒に行くことより、ルーデウスを無傷で到着させる方が優先だった。

 

レイネは、握っていた手が離れていくのを感じる。

 

ルーデウスが必死に指へ力を込めている。

 

離すつもりはないのだろう。

 

レイネも離したくはなかった。

 

だが、このまま引き合えば、どちらかの身体へ空間の歪みが集中する。

 

レイネは、最後に一度だけ強く握り返した。

 

その後、ゆっくりと指の力を抜く。

 

「必ず、お迎えに参ります」

 

声が届いたかは分からない。

 

ルーデウスの姿が、白い光の向こうへ消える。

 

胸元のお守りには、一週間分の備えを入れた。

 

極端な温度。

 

落下。

 

毒。

 

呼吸できない場所。

 

水と食料のない環境。

 

いずれへ転移しても、即座に命を失うことはない。

 

致命傷を負ったとしても、蘇生術式が起動する。

 

七日間。

 

そのすべてを使わせるつもりはなかった。

 

一日でも早く。

 

可能なら、数時間以内に見つける。

 

レイネは、自分を運ぶ転移の流れへ意識を向けた。

 

到着した瞬間に、自分の位置を確認する。

 

次に、魔石へ組み込んだ目印を探す。

 

距離も、大陸も関係ない。

 

世界のどこへ飛ばされていても、必ず辿り着く。

 

三%の魔力は、そのための時間を作るために使った。

 

残した力は、ルーデウスのもとへ向かうために使う。

 

白い光が閉じていく。

 

「どうか、御無事で」

 

祈るだけでは終わらない。

 

必ず探し出す。

 

その決意を胸に、レイネの意識も光の中へ消えた。

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