レイネ視点
視界を埋め尽くした白い光が消えた時、レイネの足元には何もなかった。
耳元で風が唸り、白い髪と侍女服の裾が激しく上方へ引っ張られている。身体は雲よりも高い空へ放り出され、そのまま地上へ向けて落下していた。
直前まで握っていたはずの、小さな手はない。
「ルーデウス様……」
レイネは名を呼びながらも、取り乱して手足を動かすことはしなかった。
まず身体の回転を止める。
風魔術によって周囲の気流を調整し、落下方向を斜めへ変える。一度に速度を殺せば身体へ余計な負担がかかるため、何度かに分けて勢いを削っていった。
やがて、レイネの身体は空中で静止した。
眼下には、見覚えのない大地が広がっている。
緑に覆われた山々。
その間を流れる大河。
白い街道。
遠方には、高い城壁に囲まれた巨大な都市が見えた。
フィットア領ではない。
中央大陸でもない。
地形と都市の形を、記憶している地図と照らし合わせる。
ミリス神聖国。
遠くに見えているのは、おそらく首都ミリシオンだった。
レイネ自身の現在地を把握した後、すぐに胸元へ手を当てる。
確認しなければならないのは、自分の無事ではなかった。
転移の直前。
レイネはルーデウスへ持たせていたお守りへ、いくつもの術式を加えていた。
落下時の衝撃を軽減するもの。
極端な高温や低温から身体を守るもの。
毒や瘴気を弱めるもの。
重傷を負った際、一度だけ治療を行うもの。
食料や水を得られない時、短期間だけ生命を維持するもの。
そして、ルーデウスが致命的な危険へ陥った時、レイネへ異常を伝えるための術式。
転移そのものを防ぐことはできなかった。
だが、どこへ飛ばされたとしても、助けが届くまで生き残る可能性を少しでも高めることはできた。
レイネはお守りの状態を確かめた。
反応はある。
壊れていない。
緊急治療の術式も、発動した形跡はなかった。
ルーデウスは生きている。
その近くにはエリスもいる。
二人は離れ離れにならず、同じ場所へ転移したらしい。
さらに、二人とともにいるのはルイジェルドだった。
その事実を確認した瞬間、レイネの身体から僅かに力が抜けた。
ルイジェルドが一緒にいる。
ならば、少なくとも今すぐ二人が魔物に食い殺されるような状況ではない。
お守りから分かるのは、生存と重大な異常、大まかな位置だけである。二人が何を話し、何を見て、どのように行動しているのかまで見通せるわけではない。
それでも、生きている。
エリスと一緒にいる。
そして、ルイジェルドがそばにいる。
今のレイネにとっては、それだけで十分だった。
位置は遠い。
海を隔てた北東。
魔大陸である。
人間族の子供が、何の準備もなく放り出されれば数日と持たない土地だ。
レイネは魔大陸の方角へ身体を向けた。
今すぐ飛び立つことはできる。
一人であれば、通常の船や馬車とは比較にならない速度で海を越えられる。魔物に襲われようと、レイネ自身が倒される可能性はほとんどない。
ルーデウスのもとへ向かい。
エリスとともに保護し。
安全な土地まで連れ帰る。
それだけを考えるなら、迷う必要はなかった。
しかし、レイネはその場から動かなかった。
もう一度、眼下の大地を見る。
今回の転移は、ルーデウスとエリスだけを巻き込んだものではない。
フィットア領全体を覆った光。
あれほど大規模な魔力災害である。
ロアの住民。
周辺の村人。
農民。
商人。
使用人。
兵士。
老人や子供。
多くの者が世界各地へ飛ばされたと考えるべきだった。
中には、魔物の縄張りや山中、海上へ転移した者もいるだろう。
運よく人里へ飛ばされたとしても、金も身分証も持っていない。土地の言葉が通じず、盗賊や人買いに狙われる者もいる。
ルーデウスとエリスには、ルイジェルドがいる。
危険な土地にいることは間違いないが、二人を守れるだけの力を持つ者が同行している。
一方で、レイネの近くには、誰にも見つけられずに助けを待っているフィットア領民がいるかもしれない。
お守りに異常が起きたなら、すべてを中断して魔大陸へ向かう。
それだけは決めている。
ルーデウスが重傷を負った時。
エリスがそばから消えた時。
何らかの原因で、二人の生存を確認できなくなった時。
その瞬間には、ほかのすべてを後回しにする。
だが、今は違う。
二人は生きている。
ルイジェルドとともにいる。
だからこそ、時間を使うことができる。
レイネは単にルーデウスを抱えて帰るだけではなく、帰るための基盤を作ることにした。
安全な宿。
食料。
旅費。
各国を通るための信用。
フィットア領民の生存情報を集める仕組み。
身元を証明できない者を保護する場所。
家族同士を再会させるための名簿。
それらがあれば、ルーデウスを迎えた後も、ただ一人だけを連れて帰るのではなくなる。
ルーデウス自身が家族を捜し。
エリスが領民の行方を知り。
途中で保護した者とともに安全な場所へ向かえる。
レイネにしか使えない道ではなく、ほかの者にも使える道を作る。
それが必要だった。
「必ず、お迎えに参ります」
返事は聞こえない。
それでも、レイネは魔大陸の方角へ告げた。
「少々、お時間をいただきます。ですが、決して約束を違えることはございません」
レイネは高度を下げた。
都市の中央へ直接降りれば、大騒ぎになる。
ミリシオンから少し離れた林を選び、木々の間へ静かに着地する。
侍女服の汚れを払い。
白髪を整え。
剣と荷物を確認する。
身分を示すものはない。
金も、現地で通用する紹介状も持っていない。
このままでは、国境を越えるどころか、まともな宿を借りることも難しい。
最も早く身分と信用を得る方法は、冒険者になることだった。
依頼を受ける。
結果を出す。
救助した者を生かして帰す。
それを繰り返せば、外見が幼くとも無視できない実績になる。
いずれSランクまで上がれば、遠方のギルドへ照会を出すことも、国境を越えることも容易になる。
レイネはミリシオンの城壁へ向かって歩き始めた。
胸の奥では、今すぐルーデウスへ向かいたいという感情が消えることなく渦巻いている。
だが、足を止めない。
焦りに任せて飛び立つのではなく、確実に二人を連れ帰る準備をする。
林を抜けると、城門へ続く長い列が見えた。
商人。
旅人。
巡礼者。
農民。
その中に混ざり、順番を待つ。
城門の兵士は、白い侍女服を着た幼い少女を見て眉を寄せた。
「連れはどうした」
「おりません」
「一人か?」
「はい」
兵士はレイネの剣へ目を向ける。
「どこから来た」
「遠方から、事故によってこちらへ参りました」
嘘ではない。
「冒険者登録を希望しております」
「お前が?」
「はい」
若い兵士は困った顔をした。
その隣にいた年長の兵士が、レイネの姿勢と手元を観察する。
「剣は使えるのか」
「護身用程度には」
「妙な騒ぎを起こすなよ。ギルドは大通りを真っ直ぐだ」
「ありがとうございます」
城門を通る。
ミリシオンは人で溢れていた。
鐘の音。
馬車の車輪。
香辛料と焼いた肉の匂い。
神殿へ向かう者。
商売の声を張り上げる者。
武器を持つ冒険者。
この中に、フィットア領から飛ばされた者がいる可能性もある。
だが、今のレイネが一人ずつ尋ねて回っても、得られる情報には限界がある。
まず、自分の名を広める。
信用を得る。
向こうから情報が集まる仕組みを作る。
大通りの先に、冒険者ギルドの看板が見えた。
レイネは扉の前で一度立ち止まり、遠くにあるお守りの状態を確かめた。
異常はない。
ルーデウスもエリスも生きている。
ルイジェルドも一緒にいる。
「どうか、それまでご無事で」
レイネは扉を開いた。
◇
ルーデウス視点
夢を見ていた。
俺はエリスを抱えたまま、凄まじい速度で世界を飛び回っていた。
海。
山。
森。
岩だらけの荒野。
景色は一瞬ごとに変わり、どこか安全な場所へ降りなければならないという焦りだけが、頭の中を満たしている。
気を抜けば落ちる。
いや、気を抜かなくても、いずれ力尽きる。
そんな確信があった。
俺は必死に地上を探した。
海は駄目だ。
山も危険。
森には何がいるか分からない。
やがて、赤茶けた平地が見えた。
ほかよりは安全に見える。
俺は、そこへ向かって身体を押し込んだ。
強い衝撃が来る。
そう思った。
だが、胸元が一瞬だけ温かくなった直後、落下する感覚が不自然なほど緩やかになった。
その理由を考える間もなく、意識が途切れた。
次に目を開けると、俺は真っ白な空間にいた。
身体を見下ろす。
そこにあったのは、十歳のルーデウスの身体ではない。
前世で三十四年間見続けた、太った身体だった。
胸の中が一気に冷える。
今までの十年間が、すべて夢だったのではないか。
家族。
ロキシー。
シルフィ。
エリス。
ギレーヌ。
レイネ。
あの世界で過ごした時間が、自分に都合のよい長い夢だったのではないか。
そう思った時、何もない空間に奇妙な人物が現れた。
顔も。
身体も。
見えているはずなのに、特徴を覚えられない。
その人物は、自分を人神だと名乗った。
こちらの考えを読んでいるらしい。
態度も。
話し方も。
すべてが胡散臭かった。
人神の説明によれば、俺は元の世界へ戻ったわけではない。
今見えている身体は、精神の形にすぎない。
現実の肉体は無事らしい。
安心した。
完全に信用したわけではない。
それでも、この十年間が消えていないという言葉だけは信じたかった。
人神は、俺が大規模な魔力災害へ巻き込まれ、魔大陸へ転移したと告げた。
魔大陸。
ロキシーから、危険な魔物が多く、人族への感情も中央大陸とは異なると教えられた場所である。
エリスも一緒にいるのか。
ギレーヌは。
レイネは。
フィリップたちは。
聞きたいことはいくらでもあった。
しかし、人神は曖昧な答えしか返さなかった。
本当に知らないのか。
知っていて隠しているのか。
判断できない。
ただ、俺が目覚めた時に近くにいる男を頼り、その男を助けるよう助言した。
信用はしない。
だが、話の内容は覚えておく。
人神が勧めたから従うのではなく、自分の目で相手を見て決めればいい。
そう考えたところで、白い空間が消えた。
◇
目を開ける。
最初に見えたのは、星空だった。
空気は乾いている。
背中には、硬い地面の感触がある。
近くで、焚き火の中の枝が弾けた。
俺はすぐには起き上がらなかった。
レイネが転移の直前に言っていたことを思い出す。
到着したら、まず周囲を確認する。
空気。
足場。
気温。
敵の有無。
息はできる。
寒すぎず、暑すぎない。
身体にも痛みはない。
指を動かす。
足も動く。
胸元には、レイネから贈られたお守りが残っていた。
今は冷たい。
けれど、夢の中で地面へ落ちる直前、一度だけ温かくなったような気がする。
お守りが守ったのだろうか。
確かめたい気持ちはある。
だが、それは後回しだ。
俺はゆっくりと顔を動かした。
すぐ近くに、エリスが眠っている。
目立った怪我はない。
呼吸も安定していた。
俺の服の裾を、強く掴んでいる。
アクアハーティアも、手を伸ばせば届く場所に置かれていた。
「よかった……」
声が漏れた。
エリスは無事だ。
ギレーヌとレイネの姿はない。
胸が苦しくなる。
最後に見たのは、白い光の中へ遠ざかる二人だった。
特にレイネは、俺の手を最後まで握っていた。
必ず迎えに行く。
そう言っていた。
レイネは、できないことを軽々しく約束する人物ではない。
なら、生きている。
すぐには来られないとしても、どこかで俺たちを探している。
そう信じるしかない。
俺は、焚き火の向こうへ視線を向けた。
一人の男が座っている。
緑色の髪。
白い肌。
額にある赤い宝石。
顔へ刻まれた傷。
傍らには、三叉の槍。
スペルド族。
ロキシーが、魔大陸で最も警戒するべき種族の一つとして教えてくれた相手だった。
反射的に身体が強張る。
逃げるべきか。
エリスを起こし、魔術を撃つべきか。
だが、男の槍は手の中にない。
俺たちが眠っている間、攻撃する機会はいくらでもあったはずだ。
焚き火を用意したのも。
エリスへ外套を掛けたのも。
アクアハーティアを手の届く場所へ置いたのも、この男だろう。
噂と、目の前の事実を混同してはいけない。
レイネから、何度もそう教えられてきた。
俺は上半身を起こした。
男の額にある赤い宝石が、僅かに動く。
「目が覚めたか」
低い声だった。
魔神語。
ロキシーの教材で学んだ言語である。
発音には多少の違いがあるが、意味は理解できた。
「はい」
俺も魔神語で返す。
「僕たちを助けてくださったのですか?」
男は少し意外そうに俺を見た。
「お前たちは突然、空から現れた。二人とも意識を失っていた」
「それで、火を?」
「ああ」
「ありがとうございます」
男の表情が僅かに固まった。
感謝されるとは思っていなかったらしい。
「俺を見て、恐ろしくないのか」
「驚いてはいます」
正直に答える。
「ですが、僕たちを助けてくれた人を、種族だけで敵だと決めるつもりはありません」
男はしばらく黙っていた。
焚き火の炎が揺れ、白い肌へ赤い光を映す。
「変わった子供だ」
「よく言われます」
俺はエリスを守れる位置へ座り直した。
敵ではないと決めたわけではない。
ただ、今のところ敵意は感じられない。
警戒しながら話せばいい。
「僕はルーデウス・グレイラットです。こちらはエリス・ボレアス・グレイラット」
男が自分の胸元へ手を当てた。
「ルイジェルド・スペルディアだ」
人神の言っていた、近くにいる男。
おそらく、この人物で間違いない。
だからといって、人神を信用する理由にはならない。
ルイジェルド自身の行動を見て判断する。
「ここは、どこですか?」
「魔大陸北東部、ビエゴヤ地方だ」
やはり魔大陸だった。
アスラ王国からは、世界の反対側に近い。
「僕たちは、中央大陸のフィットア領から来ました」
ルイジェルドの眉が僅かに動く。
「遠いな」
「帰るには、どれくらいかかりますか?」
「子供だけでは帰れん」
率直だった。
否定しようとして、やめる。
俺は魔術が使える。
エリスは剣神流上級。
普通の子供とは違う。
しかし、魔大陸の地理も常識も分からない。
金も。
食料も。
移動手段もない。
強さだけで帰れる距離ではなかった。
「俺が送る」
ルイジェルドが言った。
「どこまでですか?」
「お前たちの故郷までだ」
あまりにも迷いがなかった。
「中央大陸まで、ですか?」
「ああ」
「なぜ、そこまで?」
「子供を見捨てることはできん」
それだけだった。
恩を売る様子もない。
報酬を求める言葉もない。
俺たちを利用しようとしているようにも見えなかった。
ルイジェルドは、子供だから助けると言った。
レイネと似ている。
理由は違うかもしれない。
けれど、守ると決めた後の迷いのなさが、少しだけ似ていた。
「ありがとうございます」
俺が頭を下げると、ルイジェルドは居心地が悪そうに顔を背けた。
「礼は帰ってからでいい」
完全に信頼したわけではない。
それでも、一人で何も分からない土地を進むよりはいい。
会話を続けながら、どのような人物なのか確かめよう。
エリスと相談する必要もある。
「明日から、よろしくお願いします」
ルイジェルドは短く頷いた。
「任せろ」
その言葉を聞いた時。
なぜか、誰かに遠くから見守られているような感覚があった。
◇
レイネ視点
レイネは、ミリシオンへ続く街道の脇で足を止めた。
再び遠方の光景を映す。
ちょうど、ルーデウスが目を覚ましたところだった。
周囲を確かめる。
エリスの無事を確認する。
お守りへ触れる。
そして、ルイジェルドの姿を見て身体を強張らせた。
それでも、すぐには攻撃しなかった。
男の行動と、自分たちの状況を見比べている。
やがて、ルーデウスは自分から話しかけた。
声までは聞こえない。
しかし、魔神語で会話していることは口の動きから分かった。
ロキシーから届いた教材で学んだことが、早くも役立っている。
ルイジェルドが名乗る。
ルーデウスも頭を下げた。
しばらく話した後、二人の緊張が僅かに緩む。
「よく、考えられました」
レイネは、小さく呟いた。
安心はしても、遠方を映す術はすぐには消さなかった。
エリスが目を覚ますまで。
三人が明確に同行すると決めるまで。
最低でも、そこまでは見届ける。
ルーデウスの危険を示す反応はない。
ルイジェルドも、二人を害するつもりはない。
なら、今は自分の役目を始めるべきだった。
レイネはミリシオンの城壁を見た。
大きな都市。
冒険者ギルド本部。
世界中から集まる情報。
転移者を捜すためにも。
ルーデウスを迎えに行くためにも。
ここで信用と基盤を得る必要がある。
助けられる人を助けながら、帰還後に必要となるものを整える。
準備を終えた時点で、レイネ自身が魔大陸へ向かう。
ルーデウスたちが旅を始めていても、必ず追いつく。
約束を違えるつもりはなかった。
「少々、お待ちくださいませ」
遠く離れた主人へ向け、静かに告げる。
「お迎えに上がるまでに、すべて整えてまいります」
レイネは遠方の光景を視界の端へ残したまま、ミリシオンの門へ向かって歩き出した。
まずは、冒険者ギルドへ。
名も。
身分も。
信用も。
今は何も持っていない。
ならば、必要なものを一つずつ得ればよい。
後に、パウロ・グレイラットがフィットア領捜索団の拠点を置くことになる国で。
ルーデウスを迎えるための、レイネの新しい生活が始まろうとしていた。