ルーデウス視点
ルイジェルドと話を終えた後も、俺はすぐには眠れなかった。
夜空には、見たこともないほど多くの星が浮かんでいる。
アスラ王国で見上げた空とは、星の並び方が違うように思えた。単に俺が詳しく覚えていないだけかもしれないが、ここが故郷から遠く離れた場所だという事実を、否応なく突きつけられているようだった。
焚き火の向こうでは、ルイジェルドが静かに座っている。
槍には手を触れていない。
しかし、完全に気を抜いているわけでもなかった。
時折、額の赤い感覚器官が僅かに動く。
俺には何も聞こえない。
それでも彼は、遠くの何かを確かめているようだった。
周囲の見張りをしているのだろう。
その事実を理解しても、完全に信用することはできなかった。
俺たちを助けた。
焚き火を用意した。
故郷まで送り届けると申し出た。
今のところ、疑う理由より信用できる理由の方が多い。
それでも、出会って一時間も経っていない相手である。
レイネなら、目の前の事実だけで相手のすべてを判断するなと言うだろう。
善意があることと、判断を誤らないことは違う。
悪意がなくても、価値観の違いから危険な行動を取ることはある。
少なくとも、もう少し話を聞く必要があった。
そう考えていると、隣で眠っていたエリスの指が動いた。
俺の服の裾を掴んでいた手へ力が入る。
「……ルーデウス」
小さな声だった。
「ここにいます」
呼びかけると、エリスの目が開いた。
焦点の定まらない瞳が、夜空から俺の顔へ移る。
次の瞬間、エリスは勢いよく上半身を起こし、両手で俺の肩を掴んだ。
「ルーデウス!」
「はい。無事です」
「ここ、どこなの!? ギレーヌは!? レイネは!?」
一気に尋ねられる。
俺は、エリスの肩へ手を置いた。
「落ち着いてください。僕たちは魔大陸へ転移したようです」
「魔大陸……?」
「ギレーヌとレイネは、ここにはいません」
エリスの顔から血の気が引いた。
「いないって、どういうことよ」
「僕たちとは別の場所へ転移したのでしょう。少なくとも、白い光の中では生きていました」
「でも、今は分からないんでしょう?」
「はい」
安心させるために嘘をつくことはできない。
エリスの指が、俺の肩へ食い込んだ。
「探しに行くわよ」
「行きます」
「今すぐよ!」
「どちらへ行けばいいのか分かりません」
「そんなの、探しながら決めればいいでしょう!」
声が大きくなる。
それでも、エリスは立ち上がらなかった。
以前なら、言葉を口にした瞬間には走り出していたかもしれない。
今は、自分が何も知らない場所にいることを理解している。
怒りと不安を抑えながら、俺の話を聞こうとしていた。
「まず、現在地と周辺の安全を確認します。それから人のいる場所へ行き、フィットア領で起きたことを調べます」
「その間に、ギレーヌたちが危ない目に遭ったらどうするのよ!」
「僕たちが何の準備もなく動いて死んだら、助けることもできません」
エリスの口が閉じる。
納得したわけではない。
けれど、反論できない程度には理解してくれたらしい。
「レイネは、必ず迎えに来ると言いました」
俺は続けた。
「ギレーヌも剣王です。簡単に死ぬ人ではありません。だから、僕たちは僕たちで生きて帰る方法を探しましょう」
「……絶対、生きてるわよね」
「そう信じています」
断言はできなかった。
しかし、信じることはできる。
エリスは唇を強く結び、やがて小さく頷いた。
その時。
焚き火の向こうで枝が爆ぜた。
乾いた音に反応し、エリスの顔がそちらへ向く。
ルイジェルドと目が合った。
エリスの身体が硬直した。
次の瞬間、俺の肩を掴んでいた手が離れ、腰の剣へ伸びる。
立ち上がる動作に迷いはなかった。
鞘から刃が半分ほど抜かれる。
「エリス、待ってください!」
俺は即座に二人の間へ入った。
エリスは剣を抜ききらなかった。
だが、柄から手を離そうともしない。
両足を開き、いつでも踏み込める構えを取っている。
呼吸が浅い。
顔色は悪く、額には汗が浮かんでいた。
「どきなさい、ルーデウス」
「この人は僕たちを助けてくれた人です」
「スペルド族よ」
声が震えている。
それでも、言葉は明瞭だった。
「分かっています」
「分かってるなら、どうして隣に座ってるのよ!」
「話をしたからです」
「話をしたって……!」
エリスの視線が、ルイジェルドの緑色の髪と額の赤い石を往復する。
幼い頃から聞かされてきた恐怖の象徴が、目の前に座っている。
恐ろしいのは当然だ。
エリスの身体は、今すぐ逃げろと訴えているのだろう。
それでも、逃げなかった。
悲鳴を上げることも、考えずに斬りかかることもしない。
剣を構え、俺を自分の後ろへ移そうとしていた。
恐怖の中でも、俺を守ろうとしている。
「エリス」
俺は声を落とした。
「僕たちが眠っている間に殺すことも、持ち物を奪うこともできたはずです。でも、この人はそうしなかった」
「だからって……」
「焚き火を作って、あなたには外套を掛けてくれました。アクアハーティアも、僕の手が届く場所へ置いてありました」
エリスは、自分の肩から落ちかけている外套を見た。
次に、地面へ置かれたアクアハーティアを見る。
「それに、アスラ王国まで送ってくれると言っています」
「信じるの?」
「まだ、すべてを信じたわけではありません」
俺はルイジェルドから目を逸らさずに答えた。
「だから、これから一緒に行動して、信じていい人か確かめます」
ルイジェルドは何も言わない。
剣を向けられても、怒る様子はなかった。
エリスの恐怖を理解しているのだろう。
むしろ、自分が動けば余計に怖がらせると考え、意識的に動かないようにしているようだった。
「ルイジェルドさん」
「何だ」
「エリスへ、自分から説明してもらえますか」
「俺はルイジェルド・スペルディアだ」
ルイジェルドは座ったまま名乗った。
「お前たちが空から落ちてきた。子供を荒野へ放置することはできない。故郷まで送る」
必要なことしか言わない。
飾りも、言い訳もない。
エリスの剣を握る手は、まだ震えていた。
「子供を……食べないの?」
「食べん」
ルイジェルドは真顔で答えた。
「本当に?」
「ああ」
「嘘だったら斬るわよ」
「その時は好きにしろ」
平然としている。
エリスの眉が寄った。
恐怖よりも、相手の態度が気に入らないという感情が少しずつ前へ出てきている。
いつものエリスに戻り始めた証拠だった。
「エリス」
俺が促す。
エリスは一度、深く息を吸った。
剣を鞘へ戻す。
完全に警戒を解いたわけではない。
右手は、柄の近くに残したままである。
それでも、自分の意思で戦闘を終わらせた。
「エリス・ボレアス・グレイラットよ」
胸を張ろうとしたが、声はまだ少し震えていた。
「ルーデウスを助けてくれたことには、礼を言うわ」
「お前も助けた」
「私はついででしょう?」
「子供に、ついでも何もない」
ルイジェルドの返答に、エリスは目を瞬かせた。
「そう」
それだけ言い、俺の隣へ座る。
ルイジェルドから最も遠い位置ではなく、俺を挟んだ反対側だった。
すぐに逃げられる距離を保ちつつ、背中を見せない場所である。
ギレーヌから教えられた位置取りなのだろう。
ルイジェルドはそんなエリスをしばらく見た後、短く言った。
「強いな」
エリスの顔が険しくなる。
「馬鹿にしてるの?」
「怖くても剣を捨てなかった。斬る前に話も聞いた」
「当たり前よ」
「当たり前にできる者は多くない」
ルイジェルドの言葉に、エリスは返事をしなかった。
しかし、剣の柄から手を離した。
◇
夜が明けるまでの間に、俺たちは今後について話し合った。
現在地は、魔大陸北東部のビエゴヤ地方。
アスラ王国からは、地図上でもほとんど反対側に位置している。
俺は地面へ指を向けた。
土魔術で地表を薄く削り、簡単な世界地図を描く。
中央大陸。
魔大陸。
ミリス大陸。
海。
正確な形ではないが、位置関係を理解するには十分だった。
「僕たちがいたのは、ここです」
中央大陸西部を指す。
「今いるのは、この辺りだそうです」
魔大陸の北東を示す。
二つの場所の間には、地図上でも大きな距離があった。
エリスが黙り込む。
「馬で何日?」
「馬だけでは帰れません」
「なら、船は?」
「海族の許可がなければ、通れない海域もあります。どの港から船が出るのかも分かりません」
「じゃあ、どれくらいかかるのよ」
俺はルイジェルドを見る。
「順調に進んでも、一年以上は必要だろう」
エリスの顔から表情が消えた。
「一年……」
「場合によっては、もっとかかります」
「そんなに待てないわ」
「僕も待つつもりはありません。できる限り早く帰ります」
「お父様たちは、私たちが死んだと思うかもしれないじゃない」
「だから、人のいる町へ着いたら、最初に手紙を送る方法を探します」
届くかどうかは分からない。
そもそも、フィットア領がどうなったのかも不明である。
それでも、何もしないよりはいい。
「次に情報を集めます。今回の異変が、僕たちだけに起きたとは思えません。ほかにも転移した人がいるなら、各地で噂になるはずです」
「ギレーヌやレイネの情報も?」
「はい。家族の情報も」
エリスは地面へ描かれた地図を見つめた。
やがて、俺が削った中央大陸の部分へ指を置く。
「絶対に帰るわよ」
「もちろんです」
「私がお父様たちを見つける。ギレーヌも、レイネも」
「僕も一緒に探します」
「ルーデウスは私が守るわ」
「僕もエリスを守ります」
「私の方が強いもの」
「剣だけなら、ですね」
いつもの言い合いだった。
エリスが俺を睨む。
その表情を見て、少し安心した。
不安は消えていない。
家族を心配する気持ちも。
それでも、進むための意思を取り戻している。
「話は終わったか」
ルイジェルドが立ち上がった。
「近くに、俺が世話になっている集落がある。まずはそこへ行く」
「どのくらい離れていますか?」
「近い。だが、この土地では真っ直ぐ歩けない」
周囲を見回す。
背丈を越える岩。
深い亀裂。
見ただけでは道に見えない斜面。
人里がすぐ近くにあったとしても、案内なしで辿り着くのは難しい地形だった。
「出発しましょう」
俺も立ち上がり、アクアハーティアを手に取った。
エリスは外套をルイジェルドへ返そうとした。
「借りておけ」
「寒くないわよ」
「昼になれば暑くなる。頭へ掛けろ」
「そんなに暑いの?」
「人族には厳しい」
エリスは少し迷い、外套を受け取ったままにした。
「返すからね」
「ああ」
それだけの会話だったが、最初よりは随分と自然になっていた。
◇
魔大陸の大地は、見た目以上に歩きにくかった。
平らに見える場所でも、地面には細かな亀裂が走っている。
大きな岩を回り込めば、その先に深い谷がある。
少し進むたびに方向を変えなければならず、どちらへ向かっているのか分からなくなる。
ルイジェルドは迷わない。
立ち止まることもなく、最短に近い道を選んで進んでいく。
エリスも、問題なくついていった。
剣術の訓練で鍛えてきた足腰に加え、闘気を身につけ始めている。
高い段差を一息で登り、足場の悪い斜面でも速度をほとんど落とさない。
ただ前を歩くだけではない。
岩陰へ近づけば、一度速度を落とす。
見通しの悪い場所では、ルイジェルドが確認するまで不用意に先へ出ない。
以前のエリスなら、興味の向くまま走り回っていただろう。
今は、知らない土地で勝手に動く危険を理解していた。
俺も、以前より体力はついている。
毎朝の剣術訓練を続けてきた。
パウロから教わっていた頃より、足運びも姿勢もよくなっている。
それでも、エリスやルイジェルドとは身体の作りが違った。
闘気を使えない俺は、純粋な身体能力では二人についていけない。
一時間ほど進むと、呼吸が乱れ始めた。
ルイジェルドが振り返る。
「休むか」
「まだ大丈夫です」
「無理をするな」
「無理ではありません」
強がりではない。
休む必要があるほどではなかった。
ただし、このまま何時間も進めば、確実に動けなくなる。
俺は杖を地面へ向けた。
道を塞いでいた細かな石を土魔術で端へ寄せ、斜面の一部を階段状に整える。
大規模に地形を変える必要はない。
足を取られやすい場所だけを修正する。
それだけで、必要な体力はかなり減った。
「便利ね」
エリスが整えられた地面を登りながら言う。
「魔力を使いすぎるな」
ルイジェルドが注意した。
「この程度なら問題ありません」
「魔力量の問題ではない。敵に居場所を知らせる」
俺は杖を止めた。
考えていなかった。
魔術を使えば、周囲の魔力が動く。
感知能力のある魔物がいれば、こちらの存在に気づく可能性がある。
「申し訳ありません」
「謝る必要はない。知らないことは覚えればいい」
叱責ではなかった。
事実を教えているだけである。
「必要な場所だけにします」
「ああ。それならいい」
ルイジェルドは再び歩き出す。
エリスが俺の横へ来た。
「知らないことばかりね」
「はい」
「でも、覚えればいいんでしょう?」
「そうですね」
「なら、全部覚えるわ」
簡単に言う。
だが、エリスなら本当に覚えるだろう。
興味のない座学には苦戦するが、自分や他人の命に関わる知識を軽視する人物ではなくなっている。
少し進んだところで、ルイジェルドが突然片手を上げた。
俺とエリスは同時に足を止めた。
エリスは剣へ手をかける。
俺は杖を上げ、視線だけで周囲を確認した。
「動くな」
ルイジェルドが低い声で言う。
風の音。
遠くで砂が崩れる音。
俺には、それ以外何も分からない。
しばらくして、右手の岩陰から大きな影が現れた。
全長は三メートル近い。
四足歩行の獣だが、口元には地面まで届きそうな牙があり、背中には硬そうな突起が並んでいる。
魔物は俺たちの方向へ鼻先を向けた。
エリスの身体が僅かに沈む。
飛び出そうとしたのだろう。
しかし、ルイジェルドが動かないため、その場へ留まった。
魔物は数度空気の匂いを嗅ぎ、やがて別の方向へ歩き去った。
「戦わないの?」
姿が見えなくなってから、エリスが尋ねる。
「必要がない」
「襲ってきたかもしれないでしょう」
「風下にいた。こちらには気づいていない」
「でも、倒せたわ」
「倒した後、血の匂いで別の魔物が集まる」
エリスが口を閉じた。
戦えることと、戦うべきことは違う。
ギレーヌも似た話をしていた。
けれど、屋敷の訓練場では実感しにくかった。
ここでは、一度の不要な戦闘が、次の危険を呼び込む。
「剣は、抜かない方がよい時もある」
ルイジェルドが言った。
エリスは不満そうに剣の柄から手を離す。
「分かったわ」
素直だった。
ルイジェルドが僅かに目を細める。
エリスの返事が意外だったのかもしれない。
「二人とも、よく止まった」
「ギレーヌから、合図に従えと教わっています」
俺が答える。
「剣王ギレーヌか」
ルイジェルドは、その名を知っているらしい。
「エリスの師匠です。僕も教わっていました」
「なるほど」
ルイジェルドはエリスの足運びを見る。
「上級か」
「分かるの?」
エリスが嬉しそうに反応した。
「ああ。子供としては異常に強い」
「子供としては、はいらないわ!」
「では、まだ弱い」
「何ですって!」
エリスが怒鳴る。
ルイジェルドは表情を変えなかった。
「俺には勝てん」
「やってみなきゃ分からないでしょう!」
「今はやめてください」
俺が間へ入る。
「戦うなら、安全な場所に着いてからにしてください」
「戦うこと自体は止めないの?」
「訓練なら、よい経験になるでしょう」
ルイジェルドが、エリスへ視線を向ける。
「集落へ着いたら、動きを見てやる」
「後悔しても知らないわよ!」
明らかに勝てない相手である。
それでも、エリスの恐怖はかなり薄れたようだった。
恐ろしい怪物ではなく、自分より強い戦士として見るようになったのだろう。
俺としても、その方がありがたい。
◇
出発から三時間ほどで、集落が見えた。
十数軒の家を、粗末な柵が取り囲んでいる。
家の形は、中央大陸のものとは大きく違った。
地面を浅く掘り、その上へ巨大な甲羅のようなものを被せている。実際に、何らかの魔物の甲羅を利用しているのかもしれない。
小さな畑も見える。
葉は乾き、枯れかけているように見えた。
しかし、一定の間隔で整然と植えられていることから、あれで正常なのだろう。
柵の前には、一人の少年が立っていた。
青い髪。
小柄な身体。
ロキシーを思い出す外見だった。
「止まれ!」
少年が魔神語で叫ぶ。
「ルイジェルド、その人族は何だ!」
「昨夜の流星とともに現れた子供だ」
「人族が、こんな場所に?」
門番の少年が、俺とエリスを疑うように見る。
「怪しい。村へ入れることはできない」
ルイジェルドの表情が険しくなる。
「子供を荒野へ追い返すつもりか」
声に怒気が混ざった。
門番が一歩下がる。
このままでは話がこじれる。
俺はルイジェルドの前へ一歩出た。
「突然のことで、警戒されるのは理解できます」
魔神語で話す。
門番の少年が目を見開いた。
「僕はルーデウス・グレイラット。こちらはエリス・ボレアス・グレイラットです。中央大陸のアスラ王国から、魔力災害によって転移しました」
「なぜ、人族の子供が魔神語を話せる」
「師匠から学びました」
「そんな話を信用できるか!」
「すぐに信用していただく必要はありません。村の中へ入れられないのであれば、ここで待ちます。責任者の方と話をさせてください」
門番の役目は、怪しい者を止めることである。
相手が仕事をしているだけなら、怒鳴っても意味はない。
門番は俺とルイジェルドを見比べた。
ルイジェルドが力ずくで入ろうとしないことを確認し、僅かに肩の力を抜く。
「……長へ確認する」
そう言うと、少年は目を閉じた。
その場から動かない。
「何をしているのですか?」
俺がルイジェルドへ尋ねる。
「ミグルド族は、近しい者同士なら声を出さずに話せる」
ロキシーから届いた教材に、同じことが書かれていた。
ミグルド族は念話によって意思を伝えられる。
ただし、ロキシー自身には、その能力がなかった。
だから村では周囲の会話へ加われず、孤独を感じていた。
やがて外の世界へ憧れ、故郷を出た。
教材には、そこまで詳しく書かれていなかった。
それでも、自分には使えないと、短い説明が添えられていたことを覚えている。
「ミグルド族……」
ここが、ロキシーと同じ種族の集落なら。
もしかすると、師匠について何か知っている者がいるかもしれない。
エリスが俺の袖を引いた。
「何を話してるの?」
俺たちの会話は魔神語である。
エリスには分からない。
「村へ入れてよいか、責任者の方へ確認しているところです」
「まだ入れないの?」
「突然現れた怪しい旅人ですから」
「私たちのどこが怪しいのよ」
エリスは自分の服装を見る。
剣術訓練用の服。
腰には剣。
俺も旅装ではなく、屋敷から郊外へ出るための普段着だった。
その上、スペルド族を連れている。
十分に怪しい。
「ルイジェルドがいるから?」
エリスが小声で尋ねた。
「それだけではないと思います」
「この村の人たちも、ルイジェルドが怖いの?」
「門番の方は、名前を知っていました。少なくとも、いきなり逃げ出すほどではないようです」
エリスはルイジェルドを見る。
自分が起きた直後の態度を思い出したのか、少しだけ気まずそうな顔になった。
「長が来る」
門番が目を開けた。
しばらく待つと、村の奥から三人が歩いてきた。
先頭にいるのは、杖をついた小柄な男性。
外見だけなら少年にも見える。
しかし、歩き方や表情には、長い年月を生きた者の落ち着きがあった。
後ろには、同じく青い髪の女性が二人ついている。
「その子供たちかね」
男性が尋ねた。
「はい。片方は魔神語を話します」
門番が答える。
「それはそれは。随分と勉強熱心な子供じゃな」
男性は俺の前まで来た。
俺は頭を下げる。
「初めまして。ルーデウス・グレイラットです」
「この集落の長を務める、ロックスです」
穏やかな人物だった。
俺はエリスへ目配せする。
「エリス。挨拶を」
「言葉が分からないわよ」
「僕が訳します」
エリスは一度姿勢を正し、礼儀作法の授業で習ったとおりに頭を下げた。
「お初にお目にかかります。エリス・ボレアス・グレイラットです」
俺が魔神語へ訳す。
ロックスは楽しそうに笑い、エリスの真似をするように頭を下げた。
エリスは驚き、すぐに俺を見る。
「この集落の長、ロックスさんです」
「そう。ちゃんと伝わったのね」
少しだけ誇らしそうだった。
自分が学んだ礼儀が、言葉の通じない土地でも意味を持ったことが嬉しいのだろう。
「それで、僕たちは村へ入れていただけますか?」
俺が尋ねると、ロックスは少し考えた。
「話を聞く必要はあるじゃろう。しかし、人族の子供が魔大陸の北東へ突然現れたというのは、確かに普通ではない」
「師匠から、魔大陸と魔神語について教わっています」
「その師匠とは?」
「ロキシー・ミグルディアです」
名前を口にした瞬間。
門番の少年の顔色が変わった。
「今、ロキシーと言ったか?」
「はい」
少年が勢いよく近づいてくる。
俺の肩を両手で掴もうとした。
その動きに反応し、エリスが半歩前へ出る。
右手が剣の柄へ伸びた。
ルイジェルドも、僅かに重心を移す。
「待ってください」
俺は片手を上げ、二人を止めた。
門番の顔に怒りはない。
焦り。
期待。
恐怖。
それらが混ざっている。
「ロキシーは、今どこにいる!」
「最後に手紙を受け取った時には、シーローン王国にいました」
「生きているのか?」
「はい。少なくとも、その手紙を書いた時点では元気でした」
門番の少年の目に、涙が浮かんだ。
「そうか……」
膝から力が抜ける。
少年は、その場へ座り込んだ。
「生きているのか……ロキシーが……」
俺はロックスを見る。
「この方は?」
「ロイン。ロキシーの父親じゃ」
父親。
どう見ても、ロキシーの兄か弟ほどにしか見えない。
ミグルド族が長命で、外見の変化も人族より遅いことは知識として学んでいた。
しかし、実際に見ると驚く。
「ロキシーは、二十年以上も前に村を出ていった」
ロインが、涙を拭いながら言った。
「何の便りもなかった。生きているのか、死んでいるのかも分からなかった」
「人間語の手紙なら書けます。僕が幼い頃には、アスラ王国で僕の家庭教師をしていました」
「家庭教師……」
「今の僕が魔術を使えるのも、魔神語を学べたのも、ロキシーのおかげです」
ロインは目を閉じた。
父親として、長い間知ることのできなかった娘の人生。
村を出た後。
何をして。
どのように暮らし。
誰と出会ったのか。
俺が話せるのは、その中のごく一部だけである。
それでも、ロキシーが誰かを教え、その人間から尊敬されているという事実は伝えられる。
「立派な先生です」
俺は、はっきりと告げた。
「僕が最も尊敬している魔術師です」
ロインは顔を伏せた。
肩が小さく震える。
「そうか……あの子が、先生に……」
その姿を見て、俺はパウロを思い出した。
今、どこにいるのかは分からない。
俺が生きていることも知らない。
パウロも、ゼニスも。
俺の無事を知れば、同じように泣いてくれるだろうか。
いや。
きっと泣くだろう。
十歳の誕生日に届いた手紙を思い出す。
家族は俺を待っている。
それだけで、帰る理由としては十分だった。
「ロックスさん」
俺は村長へ向き直る。
「僕たちを、村へ入れていただけますか?」
ロックスは深く頷いた。
「無論じゃ。ロキシーの無事を伝えてくれた恩人を、外へ置いておくことはできん」
柵の門が開かれる。
ルイジェルドが先に入り、俺とエリスが続く。
エリスは、泣いているロインを何度も振り返っていた。
「ルーデウス」
「何ですか?」
「家族って、離れるとあんなふうになるのね」
「そうですね」
エリスは少しだけ俯いた。
「早く帰らないと」
「はい」
魔大陸へ転移してから、初めて辿り着いた人里。
そこは偶然にも、俺の師匠が生まれ育った場所だった。
故郷から遥かに遠い土地。
何も知らない世界の端で。
俺たちはようやく、帰還へ向けた最初の一歩を踏み出した。