ルーデウス視点
ミグルド族の集落で過ごした夜は、思っていたよりも静かだった。
この集落では、住民の多くが声を出さずに会話する。
外へ出ても人の話し声はほとんど聞こえず、時折、家畜らしき生き物の鳴き声と、乾いた風が家屋の外壁を擦る音だけが響いていた。
俺たちは、村長であるロックスさんの家へ泊めてもらった。
夕食の席では、ロキシーの両親へ、俺が知っている範囲で彼女の話をした。
ブエナ村へ家庭教師としてやってきたこと。
魔術を教えてくれたこと。
外へ出ることを恐れていた俺を、馬へ乗せて村の外まで連れ出してくれたこと。
今はシーローン王国で、王子の家庭教師をしていること。
魔神語を学びたいと頼んだ俺のために、分厚い教材を自分で作って送ってくれたこと。
ロインさんとロカリーさんは、何度も同じことを尋ねた。
ロキシーは元気だったか。
きちんと食べているか。
誰かに迷惑をかけてはいないか。
友人はいるのか。
どこかで危険な目に遭ってはいないか。
最後の質問にだけは、確かな答えを返せなかった。
シーローン王国での生活について、ロキシーは手紙に詳しく書かなかった。王子の教育に苦労しているらしいことは察せられたが、それ以上は分からない。
それでも、少なくとも手紙を書いた時点では無事だったと伝えると、二人は安心したように微笑んだ。
その夜、俺はロキシーの実家で借りた寝具へ横になりながら、胸元のお守りに触れていた。
冷たい魔石は、何の反応も示さない。
レイネが今どこにいるのかは分からなかった。
けれど、転移の直前に交わした約束を考えれば、俺たちの無事を確認しようとしているはずだ。
ならば、こちらも無事に帰るための行動を始めなければならない。
迎えが来るまで、何もせずに待つわけにはいかないのだ。
◇
翌朝。
村を出ようとすると、門の前でロインさんに呼び止められた。
隣にはロカリーさんもいる。
「本当に、もう行くのか?」
「はい。家族の無事を早く確認したいので」
本当なら、もう少し滞在してもよかった。
ロキシーの幼い頃の話も聞きたいし、魔大陸についても教えてもらいたい。
ただ、俺たちがここで安全に過ごしている間にも、フィットア領では何が起きているか分からない。
ギレーヌ。
レイネ。
家族。
屋敷の人々。
誰が無事で、誰が行方不明になっているのか。
それを確かめるためにも、まず人と情報が集まる町まで進む必要があった。
ロインさんは残念そうだったが、引き止めはしなかった。
代わりに、布袋を二つ差し出す。
一つには、石や金属で作られた魔大陸の貨幣。
もう一つには、干した食料と、携帯しやすい革の水袋が入っていた。
「大した量ではない。最寄りの町までなら足りるはずだ」
「十分です。ありがとうございます」
遠慮している余裕はない。
俺たちは、魔大陸の貨幣を一枚も持っていなかった。
食料についても、現地で何を採取できるのか分からない以上、非常にありがたい。
ロカリーさんからは、短い刃物を渡された。
戦闘用の剣ではなく、料理や解体、枝や革を切るための道具である。
「エリスさんは剣をお持ちのようですから、こちらは旅でお使いください」
「いいの?」
エリスは、腰に下げた自分の剣と渡された刃物を見比べた。
転移の日、剣術訓練のために持ち出していた剣は、俺たちと一緒に魔大陸へ転移していた。
そのため、丸腰というわけではない。
ただし、剣を調理や薪の加工へ使えば刃を傷める。日常作業に使える短刀は、旅に欠かせない道具だった。
「いただきなさい。使う場面は多いと思います」
「分かったわ」
エリスは短刀を受け取り、礼儀作法の授業で身につけた動作で頭を下げた。
「ありがとう。大切に使うわ」
俺が魔神語へ訳すと、ロカリーさんは目を細めた。
以前のエリスなら、受け取った瞬間に鞘から抜き、切れ味を試していただろう。
今は、相手から許可を得るまで抜こうとしない。
見知らぬ土地へ転移し、不安がないはずはないのに、教えられてきたことを守ろうとしている。
その姿を見ていると、俺も冷静さを失ってはいけないと思えた。
「ロキシー先生に会えたら、必ずここへ連絡するよう伝えます」
俺は二人へ約束した。
「可能なら、僕からも手紙を送ります」
「頼む」
ロインさんは深く頭を下げた。
「娘が、自分の弟子からこれほど尊敬されていると知れただけでも、十分だ」
その言葉が少しだけ胸へ刺さった。
パウロたちも、今頃俺がどうなったのか分からずにいるのだろう。
ロキシーの両親のように、ただ一言、無事だと知りたいはずだ。
最寄りの町へ着いたら、手紙を送る方法も探す。
届く場所が残っているかは分からない。
それでも、やらなければならない。
◇
集落を出てしばらくすると、ルイジェルドが俺たちへ旅の基本を教え始めた。
最寄りの町までは、順調に進んで三日。
中央大陸の街道のように、道が整備されているわけではない。岩山と亀裂を避け、魔物の縄張りを迂回しながら進む必要がある。
ルイジェルドがいなければ、三日どころか、方角すら分からないまま荒野をさまよっていただろう。
「最初に決めておきたいことがあります」
出発して一時間ほど進んだところで、俺は二人を呼び止めた。
ルイジェルドが振り返る。
「何だ」
「戦闘になった場合の役割です」
「俺が敵を倒す。お前たちは下がっていろ」
迷いのない返答だった。
子供を守るという彼の考え方からすれば、当然なのだろう。
しかし、それでは困る。
ルイジェルドが常に一緒にいて、あらゆる敵を倒してくれる保証はない。
敵が複数方向から現れるかもしれない。
彼が怪我をする可能性もある。
何より、エリスはすでに剣神流上級であり、俺も魔術師として戦うための訓練を続けてきた。
守られているだけの子供ではない。
「僕たちも戦います」
「駄目だ」
「戦える時に経験を積まなければ、ルイジェルドさんと離れた時に生き残れません」
「離れない」
「それでも、離れる可能性を考えるべきです」
フィットア領で、俺たちは一瞬にしてレイネやギレーヌから引き離された。
絶対に離れないという約束が、本人の意思とは関係なく破られることはある。
ルイジェルドも、俺の言いたいことを理解したらしい。
額の赤い宝石が僅かに動いた。
「お前たちは子供だ」
「子供であることと、何もできないことは違います」
ルイジェルドは俺を見た後、エリスへ視線を移した。
エリスは腰の剣へ手を置き、正面から彼を見返している。
「私は剣神流上級よ」
「知っている」
「なら、戦わせなさい」
「実戦で魔物を相手にした経験は?」
エリスの口が止まった。
誘拐事件で命の危険に晒されたことはある。
しかし、あの時もエリス自身が武器を手に、相手と命を奪い合ったわけではない。
剣術の稽古では、何度もギレーヌや俺と打ち合ってきた。
けれど、木剣での訓練と、真剣を使って生き物を殺すことは同じではない。
これから行うのは、勝敗が決まれば終わる試合ではなかった。
判断を誤れば、自分か仲間が死ぬ。
「ないわ」
エリスは正直に答えた。
それでも、視線は逸らさなかった。
「だから、今のうちに覚えるのよ」
ルイジェルドは、しばらく俺たちを見ていた。
やがて短く息を吐く。
「勝手に飛び出すな。俺の指示に従え」
「分かりました」
「危険だと判断した時は、俺が止める」
「はい」
「エリスもだ」
「分かってるわよ!」
返事だけは威勢がよい。
ただ、以前のエリスなら「私が危険になるわけがない」と言い返したはずだ。
今は、ルイジェルドの方がこの土地を知っていると理解し、指示を受け入れている。
「では、合図を決めます」
俺は地面へ簡単な図を描いた。
魔神語を使えるのは、俺とルイジェルドだけである。
戦闘中に俺がエリスへ翻訳している余裕がない場合もある。
そのため、言葉がなくても最低限の意思を伝えられるよう、いくつかの手信号を決めた。
手を握れば、その場で停止。
指を二本立てれば、敵が複数。
掌を地面へ向ければ、伏せる。
腕を横へ振れば、後退。
俺が杖を上へ掲げた時には、広範囲の魔術を使うため、俺の正面から離れる。
数は少ない。
最初から複雑にしすぎれば、かえって間違える。
「これなら分かりやすいわ」
エリスが、自分でも順番に合図を試す。
ルイジェルドも一度見ただけで覚えた。
「僕は後衛で、エリスが前衛。ルイジェルドさんには、僕たちの死角を補ってもらいます」
「俺が前でいい」
「ルイジェルドさんがすべてを倒したら、僕たちは経験を積めません」
「危険なら、すぐに入る」
「お願いします」
役割は決まった。
後は、実際に動きながら修正していくしかない。
◇
最初の魔物は、ストーントゥレントだった。
ルイジェルドが進行方向の岩を指差した。
俺には、普通の岩にしか見えない。
丸く、表面がでこぼこしていて、周囲にいくらでも転がっている。
「あれが魔物なの?」
エリスが小声で尋ねる。
「ああ。一定の距離へ近づくと姿を変える」
「弱点は?」
「根元にある核だ。火を使えば簡単に倒せるが、今日は薪にする。燃やすな」
単なる討伐ではない。
倒した後に何へ使うかまで考える必要がある。
俺はアクアハーティアを構えた。
ロアでエリスとの模擬戦を重ねる中で、俺は威力で相手を倒すだけではなく、足場や動きを制限する魔術を繰り返し試してきた。
レイネとの反省会でも、必要以上の力を使わず、目的を達成する方法を自分で考えさせられている。
相手を粉々にすれば勝てるとしても、今回は倒した後の木材が必要だ。
核だけを破壊し、幹と枝は可能な限り残す。
「エリス。僕が根元を固定します」
「その後、斬ればいいのね」
「ルイジェルドさん、核の位置が分かったら教えてください」
「ああ」
俺たちは、岩へ近づいた。
十歩。
八歩。
五歩。
ストーントゥレントが動く。
岩だった外殻が一気に割れ、中から細長い幹と複数の枝が飛び出した。
エリスの身体が沈む。
同時に、俺は杖を地面へ向けた。
地面から四本の石杭が伸びる。
幹そのものを破壊するのではなく、広がろうとした根を地面へ縫い止める。
ストーントゥレントの動きが止まった。
枝が俺へ伸びる。
「右下だ!」
ルイジェルドの声。
俺は掌を下へ向けた。
伏せろという合図。
エリスが枝の下へ身体を沈め、そのまま一歩で間合いへ入る。
剣が走った。
太い幹の右下が、斜めに切断される。
内部から、硬い石のような核が転がり落ちた。
ストーントゥレントの枝が力を失い、乾いた音を立てて地面へ倒れる。
数秒の戦闘だった。
エリスは剣を構えたまま、倒れた魔物を見ている。
「終わりです」
俺が言うと、ようやく息を吐いた。
「思ったより、硬かったわ」
「剣は?」
「刃こぼれはない」
エリスは刃を確かめた後、倒した魔物へ視線を戻した。
人間ではない。
血も流れていない。
それでも、自分の一撃で命を断ったという感触は残っているのだろう。
顔色は変わっていないが、剣を握る手に僅かに力が入っていた。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫よ」
すぐに強がるかと思ったが、エリスは少し迷ってから言い直した。
「……気持ちのいいものではないけど、動けなくなるほどじゃないわ」
以前より、正直になった。
「それで十分です」
ルイジェルドが倒れた魔物へ近づき、切断面を確認する。
「初めてにしては、よい動きだった」
「当然よ!」
エリスの声へ、いつもの勢いが戻る。
「ルーデウスの魔術も悪くない」
「ありがとうございます」
「だが、敵が地面の下へ潜る種類なら、同じ方法は使えない」
「次から、敵の性質を聞いてから決めます」
ルイジェルドは小さく頷いた。
初戦は成功した。
ただし、成功した方法を、あらゆる敵へそのまま使えるわけではない。
一つの正解を見つけたことで、すべて分かったつもりになってはいけない。
◇
ストーントゥレントを倒した後は、解体を行った。
死亡した個体は急速に乾燥し、枝や幹をそのまま薪として利用できるらしい。
ルイジェルドが必要な部分を切り分ける。
俺とエリスも、先ほど譲ってもらった短刀を使い、運びやすい長さへ枝を分けた。
「剣で切れば早いわ」
「剣の手入れが増えます。戦闘用の刃を、必要のない作業で使わないでください」
「これくらいで傷まないわよ」
「傷まないことと、使う必要があることは違います」
「レイネみたいなことを言うわね」
言われて、手が止まった。
これまでなら、道具の使い分けや荷物の整理は、レイネが自然に行っていた。
必要な物を、必要な時に手渡してくれる。
俺たちは、それを当たり前のように受け取っていた。
今は、自分たちで考えなければならない。
「レイネがいない間くらい、自分たちでできるようになりましょう」
「そうね」
エリスは短刀で枝を切り始めた。
作業は上手くない。
力を入れすぎ、何度か刃を地面へ当てそうになる。
それでも、投げ出さなかった。
「帰ってきたら驚かせるわ」
「何をですか?」
「レイネがいなくても、ちゃんと旅をできたって」
「それを聞いたら、喜ぶより先に、危険なことをしなかったか確認されそうですね」
「絶対そうね」
エリスが笑った。
不安を忘れたわけではない。
けれど、笑うことはできる。
それだけでも、十分だった。
◇
その日は移動しながら、ほかにも数種類の魔物と遭遇した。
アシッドウルフ。
口から腐食性の液体を吐き出す狼型の魔物である。
ルイジェルドが一匹だけ群れから離れている個体を見つけ、俺たちの訓練に使うことを提案した。
「液体へ触れるな。皮膚だけでなく、剣や衣服も溶ける」
「避ければいいのね」
エリスは簡単に言う。
「正面からは避けないでください。横へ動くか、僕の壁を使ってください」
俺は周囲の地形を確認した。
平地。
大きな障害物はない。
アシッドウルフが吐いた液体を、風で正面から押し返すのは危険だ。飛沫が広がり、どこへ飛ぶか分からなくなる。
そこで、エリスの右前方へ斜めの土壁を作った。
正面から受け止める壁ではない。
液体を横へ流すための傾斜である。
「エリス。壁の左側で待ってください。液体が流れたら前へ」
「分かったわ」
アシッドウルフが俺たちへ気づき、口を開いた。
黄色い液体が吐き出される。
エリスは飛び出さない。
ギリギリまで待ち、液体が傾斜へ当たって右側へ流れた瞬間に踏み込む。
一閃。
アシッドウルフの首が落ちた。
返り血が飛ぶ前に、エリスは剣を引き、後方へ跳んだ。
最初のストーントゥレントよりも、動きに余裕がある。
「今のはどう?」
「よかったです。ただ、僕の壁が間に合わなかった時の動きも考えておきましょう」
「なら、次は壁なしでやるわ」
「次が一匹とは限りません」
「その時は数に合わせるわよ」
会話が成立している。
以前なら、勝てたことだけを喜び、次の条件など考えなかっただろう。
今のエリスは、自分の勝ち方が毎回通用するとは思っていない。
ルイジェルドも、それを感じたらしい。
「剣の腕だけではないな」
「何が?」
「お前は、周りを見ている」
「ギレーヌとルーデウスに、何度も怒られたもの」
不満そうな返答だった。
それでも、教えられたことを実戦で使えている。
「よい師を持った」
ルイジェルドの言葉に、エリスは一瞬だけ黙った。
「ええ。二人とも、絶対に生きてるわ」
「ああ」
ルイジェルドは、余計な慰めを言わなかった。
ただ、エリスの言葉を否定せずに頷いた。
◇
夕方近く。
俺たちは二十匹近いパクスコヨーテの群れと遭遇した。
一体一体は、それほど大きくない。
しかし、群れ全体が一つの意思で動いているように、一定の距離を保ちながら俺たちを包囲しようとしていた。
「数が多いわね」
エリスが剣を抜く。
声に恐怖はない。
ただし、最初の二戦のように、すぐには踏み込まなかった。
「本体を倒しても、別の個体が指揮を引き継ぐ」
ルイジェルドが説明する。
「逃げても追ってくる。ここで倒す」
俺は周囲を見た。
平地で戦えば、四方から襲われる。
エリス一人を前へ出せば、死角を完全に守ることはできない。
ルイジェルドならすべて倒せるだろう。
だが、それでは俺たちがいる意味がない。
かといって、経験のためにエリスを危険へ放り込むのも違う。
「地形を作ります」
俺は杖を掲げた。
広範囲の魔術を使う合図。
エリスが即座に俺の正面から離れ、ルイジェルドも横へ移動する。
地面へ魔力を流す。
俺たちの背後と左右から、低い土壁を半円状に隆起させた。
完全に囲うのではなく、正面だけを広く開ける。
敵が左右へ回り込もうとすれば、壁を越えるために動きが遅くなる。
正面から来る個体だけを相手にすればよい。
「エリスは正面。ルイジェルドさんは壁を越えようとする個体をお願いします」
「お前は?」
「数を減らし、動きを止めます」
パクスコヨーテが一斉に走り出した。
俺は威力を抑えた岩砲弾を連続で撃つ。
頭や胴体は狙わない。
前脚。
地面。
走る方向の少し手前。
一体を確実に殺すより、群れの速度と隊列を崩す。
最初の一発が先頭個体の前脚を折った。
後ろから来た個体が衝突し、二体が転がる。
二発目は地面を砕き、小さな穴を作る。
三体が足を取られた。
隊列が乱れる。
「今です!」
エリスが踏み込んだ。
止まっている相手だけを狙わない。
動ける個体を優先し、正面から迫る牙を最短の剣筋で断つ。
一体。
二体。
三体。
四体目が横から飛びかかる。
エリスは無理に剣を戻さず、身体を沈めて下をくぐった。
その個体の額へ、ルイジェルドの槍の石突きが当たる。
殺してはいない。
エリスが立て直すまでの時間を作ったのだ。
「右から二体!」
俺が叫ぶ。
エリスが剣を正面へ構えたまま、右へ位置をずらす。
俺は左側へ泥を作り、一体の足を沈める。
もう一体はエリスが斬った。
土壁を越えようとした個体は、ルイジェルドが槍で地面へ叩き落とす。
すべてを彼が倒してはいない。
俺たちが対応できる位置へ戻し、危険な攻撃だけを止めている。
やがて、残りの個体が距離を取った。
逃げるのかと思った。
違う。
群れの後方へ回り、もう一度隊列を作ろうとしている。
「指揮を取っている個体は分かりますか?」
俺が尋ねる。
ルイジェルドが群れの中央より少し後ろを指した。
「あれだ」
見た目に大きな違いはない。
けれど、ほかの個体が常にそいつの位置を中心として動いている。
「エリス。道を開けます」
「任せなさい!」
俺は地面から細い土壁を連続で立ち上げた。
群れを左右へ分断する。
壁と壁の間に、一本の狭い通路を作る。
指揮個体は、進路を塞がれたことで一瞬だけ立ち止まった。
そこへ、エリスが走る。
ほかの個体が横から飛び込もうとするが、ルイジェルドが阻止した。
エリスの踏み込みに、僅かな闘気が乗る。
十歳の誕生日以前とは、まるで速度が違う。
剣が振り下ろされる。
指揮個体の身体が、肩口から斜めに切断された。
残った個体が動きを止めた。
一瞬の混乱。
「まだ終わっていない!」
ルイジェルドの声が飛ぶ。
別の一体が頭を上げ、群れの統率を引き継ごうとする。
俺はすぐに岩砲弾を撃ち、その前脚を砕いた。
エリスが駆け寄り、止めを刺す。
二度目の指揮交代が起きる前に、ルイジェルドが群れの中へ入った。
ここから先は速かった。
逃げようとする個体だけを確実に仕留める。
俺とエリスも、動ける相手を一体ずつ減らす。
最後の一体が倒れた時、エリスは剣を振り切った姿勢のまま、大きく息を吐いた。
肩が上下している。
額には汗。
左腕には浅い爪痕があった。
「怪我をしています」
「これくらい平気よ」
「化膿したら困ります」
俺は傷を洗い、治癒魔術を使った。
深い傷ではない。
魔大陸では未知の毒や病原体があるかもしれないため、小さな傷でも放置しない方がよい。
「今日は、僕たちが何体倒しましたか?」
エリスが息を整えながら尋ねる。
「数えていません」
「数えなさいよ!」
「生き残る方が先です」
「次は数えるわ」
まだ余裕はあるらしい。
俺はエリスの顔と手を確認した。
戦闘中は落ち着いていた。
しかし、剣を持つ指が細かく震えている。
疲労だけではない。
一日の間に、何体もの命を斬った。
その感触が、身体に残っているのだろう。
「少し休みましょう」
「まだ歩けるわよ」
「歩けることと、休まなくてよいことは違います」
「またレイネみたいなことを言う」
「無理をして倒れると、移動全体が遅れます」
以前のエリスなら、ここでも強引に先へ進もうとしたかもしれない。
だが、休息を取ることが弱さではないと、ロアで何度も学んだ。
「……分かったわ」
自分から岩へ腰を下ろす。
ルイジェルドが、そんな俺たちを見ていた。
「どうでしたか?」
俺が尋ねる。
「エリスは、すでに強い」
「当然よ!」
休みながらも、エリスが反応する。
「だが、経験が足りない。敵を倒した直後、次の敵から意識が外れることがある」
「最後の方は、ちゃんと見てたわ」
「最初の方は見ていなかった」
「次から直すわよ」
否定せず、改善すると答える。
ルイジェルドは満足したように頷き、今度は俺を見る。
「お前は戦場をよく見ている。魔術の使い方も悪くない」
「ありがとうございます」
「だが、自分へ敵が迫った時の反応が遅い」
心当たりはある。
全体を見て指示することへ集中しすぎ、近くまで来た個体への対応が一度遅れた。
ルイジェルドが止めてくれなければ、俺自身が攻撃されていた。
「剣の間合いへ入られれば、僕はエリスほど動けません」
「だから、近づかれる前に気づけ」
「はい」
良かった部分だけでなく、危険だった部分も教える。
レイネとは教え方が違う。
けれど、答えを曖昧にせず、実戦の中で何が足りないかを伝えてくれる。
ルイジェルドは、よい教師になれるのかもしれない。
本人に言えば、子供を守っているだけだと否定しそうだが。
◇
パクスコヨーテからは、毛皮と食用になる部分を回収した。
俺とエリスも解体を手伝う。
血と内臓の臭いは強い。
前世を含めても、動物を解体した経験などない。
最初は吐き気がした。
それでも、目を背けなかった。
命を奪い、その身体を利用して旅を続けるのであれば、倒す場面だけをきれいなものとして扱うべきではない。
エリスも、眉を寄せながら作業を続けた。
「気持ち悪いわね」
「無理なら、少し離れていてもいいですよ」
「嫌よ。私が倒したんだから、最後までやるわ」
短刀を動かす手つきは不器用だった。
一度、皮へ余計な傷をつけてしまい、ルイジェルドからやり直しを命じられる。
エリスは怒鳴らなかった。
悔しそうに唇を噛み、隣の個体で同じ失敗をしないよう、ルイジェルドの手元をよく見ていた。
ロアで剣術と勉強を続けてきた時間は、無駄ではなかった。
強くなったのは、剣の腕だけではない。
失敗した後に、次の行動へつなげられるようになっている。
◇
日が暮れる前に、野営の準備を始めた。
場所を選んだのはルイジェルドである。
周囲より少し高く、雨が降っても水がたまりにくい。
背後には大きな岩があり、警戒する方向を減らせる。
風上には魔物の死骸や水場がない。
俺には、説明されなければ気づけない条件ばかりだった。
「次から、自分たちで候補を探してみてもいいですか?」
「分かった。明日はお前たちが選べ」
ルイジェルドは、すぐに任せてくれた。
最初から正解を求めるのではなく、危険な場所を選んだ時だけ指摘するつもりなのだろう。
焚き火には、ストーントゥレントを使う。
夕食は、大型の陸亀から切り取った肉だった。
硬く、生臭い。
ルイジェルドは、そのまま火で焼こうとした。
「少し待ってください」
俺は水魔術で肉の表面を洗い、薄く切り分けた。
食料袋の中を確認する。
ミグルド族の集落でもらった乾燥香草があった。
臭みを完全に消せるほどではないが、使わないよりはよい。
土魔術で浅い鍋の形を作り、火で焼き固める。
水と肉、香草を入れ、焼くのではなく煮込むことにした。
「時間がかかる」
ルイジェルドが言う。
「待っている間に、ほかの作業をしましょう」
残った肉を干す準備。
水袋の確認。
剣の手入れ。
翌日の進路。
やることはいくらでもある。
エリスは自分の剣を拭きながら、鍋の中を何度も覗き込んでいた。
「まだ?」
「硬い肉なので、時間がかかります」
「お腹が空いたわ」
「干し肉を少し食べていてください」
「それを食べたら、夕食が入らなくなるでしょう」
随分と普通のことを言う。
食べ物を出せば何でもすぐに口へ入れていた頃とは違う。
しばらく煮込み、肉が多少柔らかくなったところで三人へ分けた。
屋敷で食べていた料理とは比べものにならない。
調味料も足りず、肉の臭みも残っている。
それでも、ただ焼いただけよりは食べやすかった。
「おいしいわ!」
エリスは迷わず食べ始めた。
「本当に?」
「屋外で食べるから、おいしいのよ!」
味そのものより、冒険者らしい食事へ憧れていたらしい。
ルイジェルドも、一口食べた後、静かに頷いた。
「焼くよりよい」
最大級の評価なのかもしれない。
食後。
見張りの話になった。
「俺が一晩見ている。お前たちは眠れ」
ルイジェルドが言う。
「交代にしましょう」
「必要ない」
「必要がなくても、僕たちが覚えるためにやります」
レイネから決められていた休息日は、身体を守るためのものだった。
ただし、旅では安全な屋敷と同じ休み方はできない。
誰か一人へ負担を集中させるのではなく、全員が可能な範囲で役割を担う方がよい。
「僕が最初。次がエリス。最後をルイジェルドさんにお願いします」
「エリスも起こすのか」
「当然よ!」
エリスが先に答えた。
「ただし、今日は疲れています。エリスの時間は短めにします」
「同じでいいわよ!」
「明日の移動中に倒れたら、ルイジェルドさんに背負われますよ」
「それは嫌ね」
即座に折れた。
見張りの間、何を見るべきかも教わった。
音。
風向き。
火の大きさ。
魔物の目が光っていないか。
地面の振動。
急に虫の音が消えた場合も、何かが近づいている可能性がある。
俺は教えられたことを、紙がないため薄い石板へ土魔術で刻んだ。
後で簡単な旅の手引きへまとめるつもりである。
レイネなら、最初からすべて知っていただろう。
けれど、今は自分たちで覚えていくしかない。
◇
二日目。
野営地を選ぶ役目は、俺とエリスが担当した。
最初にエリスが選んだのは、三方向を岩に囲まれた窪地だった。
風を防げる。
敵が来る方向も一つに絞れる。
一見すると、よい場所に見える。
「ここでいいでしょう?」
「駄目だ」
ルイジェルドが即答した。
「何でよ!」
「逃げ道がない。上から毒や火を吐く魔物に見つかれば、全員死ぬ」
エリスは周囲の岩を見た。
確かに、敵が入りにくい代わりに、こちらも外へ出にくい。
「では、こちらは?」
俺が選んだのは、小さな崖の上だった。
周囲を見渡せる。
背後には岩。
近くに水が流れた跡もある。
「そこも駄目だ」
「理由は?」
「風下に、大型魔物の巣がある。夜になれば臭いで気づかれる」
俺たちには、巣の存在すら見えなかった。
結局、少し離れた緩やかな丘へ野営した。
失敗だった。
それでも、なぜ駄目なのかを教えられたことで、次から確認する項目が増える。
レイネが言っていたとおり、一度の失敗から一つずつ修正すればよい。
二日目の戦闘では、俺たちの連携も少しずつ安定した。
俺が敵の足場を崩す。
エリスが止めを刺す。
ルイジェルドは死角を守る。
俺へ接近する敵がいれば、エリスが無理に追わず、まず俺の近くへ戻る。
俺も広範囲の魔術を使う前には、必ず合図を出す。
一度だけ、エリスが敵を追いすぎた。
すぐに自分で気づき、俺との距離が開く前に戻ってきた。
注意しようとしたが、その必要はなかった。
「今のは私が悪かったわ」
自分から認めたのだ。
「次から、倒した後にルーデウスの位置を見る」
「お願いします」
「ルーデウスも、前ばかり見ないでよ。後ろから来てたでしょう」
「はい。そこは僕の失敗です」
互いに責任を押しつけるのではなく、自分の間違いを確認する。
屋敷の訓練場で繰り返してきた反省会が、ここでも役立っていた。
ルイジェルドは口を挟まず、俺たちの会話を聞いていた。
◇
三日目の昼過ぎ。
高い岩場へ登ると、遠方に巨大なクレーターが見えた。
大地が、何かに抉り取られたように大きく陥没している。
その底には、多数の建物が並び、中心部には黒い城のようなものが見えた。
「町よ!」
エリスが声を上げる。
最寄りの町。
リカリス。
魔大陸でも規模の大きい都市の一つであり、かつて魔界大帝キシリカが本拠地としていた場所らしい。
三日間しか歩いていない。
それでも、人の作った町並みを見た瞬間、故郷へ一歩近づけたように感じた。
ここで冒険者として登録する。
路銀を稼ぐ。
情報を集める。
手紙を送る方法を探す。
帰還へ向け、ようやく本格的に動き出せる。
「町へ入ったら、最初に何をするの?」
エリスが尋ねる。
「宿と食料の相場を確認します。その後、冒険者ギルドです」
「手紙は?」
「送れる場所があるかも調べます」
「服も欲しいわ」
俺たちの服は、転移前に着ていたものだ。
三日間の移動で汚れ、ところどころ傷んでいる。
長旅をするなら、現地の気候に合った装備が必要だった。
「お金が足りるか確認してからです」
「稼げばいいでしょう!」
「最初から高額の依頼を受けられるとは限りません」
冒険者には階級がある。
登録したばかりの者が、いきなり危険で報酬の高い依頼を受けられるとは思えない。
けれど、俺たちには実力がある。
エリスは剣神流上級。
俺は魔術を使える。
ルイジェルドに至っては、実力の底が見えない。
問題は、強さをどのように収入へ変え、怪しまれずに旅を続けるかだった。
「ルイジェルドさん」
俺は、町を見ながら尋ねた。
「リカリスへ入ったことはありますか?」
「ない」
「近くまで来たことも?」
「何度もある」
「入らなかったのですか?」
「入れなかった」
ルイジェルドは、何でもないことのように言った。
「町へ近づくと門番が騒ぐ。その後、大勢の冒険者が来て追い払われる」
俺は、緑色の髪と額の赤い宝石を見た。
ミグルド族の集落では、ルイジェルドを知っている者がいた。
それでも、魔大陸全体でスペルド族への恐怖が消えているわけではない。
エリスですら、目覚めた直後には剣を向けた。
都市の門番が、素直に通すとは考えにくい。
「では、そのままでは入れませんね」
「どうするの?」
エリスが尋ねる。
俺はルイジェルドの姿を観察した。
緑の髪。
額の石。
三叉の槍。
スペルド族だと判断される特徴が、あまりにも分かりやすい。
槍は布で隠せる。
額も、頭部を覆えば見えなくなる。
問題は髪の色だった。
「変装しましょう」
「変装?」
ルイジェルドが聞き返す。
「外見を変え、別人に見せることです」
「そのようなことができるのか」
「完全には無理ですが、スペルド族に見えなくすることはできます」
エリスが俺の顔を見る。
「何をするつもり?」
「それは、町の近くでもう一度考えます」
目立つ兜を作って顔全体を隠す案が、一瞬だけ頭へ浮かんだ。
しかし、不自然なほど頑丈な兜で顔を隠した男を連れていけば、別の意味で警戒される可能性がある。
リカリスは大きな都市だ。
どのような種族が出入りしているのか。
門番が旅人の何を確認しているのか。
顔や頭部を隠している者が珍しいのか。
槍のような長い武器を持ち込む際に、何か手続きが必要なのか。
入口へ近づく前に観察した方がよい。
レイネからは、先に答えを決めて現実をそれへ合わせるのではなく、確認した事実から方法を選ぶよう教えられてきた。
「町が見えたからといって、急いで近づくのはやめましょう」
俺は二人へ提案した。
「今日は少し離れた場所で休み、入口を観察します。商人や冒険者がどのように入っているか確認してから、ルイジェルドさんの変装を考えます」
「すぐ入らないの?」
エリスは不満そうだった。
「ここまで三日かかりました。門前で騒ぎになって追い返されたら、その方が時間を失います」
「……それもそうね」
エリスは町を見下ろした後、渋々ながら頷いた。
ルイジェルドも反対しなかった。
「お前が決めろ」
「三人で決めます」
「では、俺は周囲を調べる」
「お願いします」
クレーターの底に広がる町。
リカリス。
故郷への道は、ようやく始まったばかりである。
けれど、この三日間で、俺たちはすでに少し変わっていた。
守られるだけではなく、自分で戦う。
勝つだけではなく、目的に必要な方法を選ぶ。
疲れた時には休み、失敗した時には原因を考える。
ロアで身につけたものが、魔大陸でも通用することは分かった。
もちろん、通用しないものも、これからいくらでも出てくるだろう。
そのたびに考え、覚え、修正すればよい。
俺は胸元のお守りへ、衣服の上から触れた。
今も何の反応もない。
それでも、どこかでレイネが見ているような気がした。
「行きましょう」
俺たちは、町から少し離れた野営地を探すため、岩場を下り始めた。