白髪の侍女   作:MトK

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第三話 魔術教本

ルーデウス視点

 

レイネから文字を教わり始めて以降、ルーデウスの生活には、これまでとは異なる明確な目的が生まれた。

 

前世では、勉強という言葉を聞くだけで嫌気が差していた。机へ向かっても長くは続かず、分からない問題にぶつかれば、自分には才能がないと決めつけて投げ出していた。しかし、今世で一から文字を覚えてみると、知らない記号が少しずつ意味のある言葉へ変わっていく過程は、思っていた以上に面白かった。

 

それは、前世で新しいゲームの操作方法や攻略情報を覚えていく感覚に近かった。

 

最初は、挿絵の下に書かれた簡単な単語を読むだけだったが、文字の形と発音を一通り覚えると、短い文章にも手を伸ばした。レイネはルーデウスが間違えてもすぐに答えを告げず、どの文字を読み違えたのか、自分で気づくまで待ってくれた。

 

「こちらの単語は、先ほども出てまいりました」

 

「……水?」

 

「はい。ただし、その後ろに別の文字がございます」

 

ルーデウスは本へ顔を近づけ、知っている文字を一つずつ拾っていった。

 

「水……車?」

 

「正解でございます」

 

レイネは大げさに褒めることはなかったが、正しく読めれば穏やかに認め、次の頁へ進ませてくれる。簡単すぎる内容を何度も繰り返すことも、反対に年齢を無視して難しい本を押しつけることもなかった。

 

どの程度なら自力で読めるのか、どこから先は助けが必要なのかを、レイネは正確に見極めていた。

 

一方、パウロも息子が本に興味を持っていると知ると、夜の時間を使って読み聞かせをしてくれるようになった。

 

ただし、教師としての分かりやすさでは、レイネとかなりの差があった。

 

「そして三人の剣士は、迷宮の奥で巨大な魔物と遭遇した。そこで剣神流の剣士が、こう、ズバッと前へ出てだな――」

 

「父様、今は何という文字を読んだのですか?」

 

「文字? そんなことより、ここからの戦いが面白いんだ。北神流の奴が壁を蹴って、グルッと回って――」

 

「そこではなくて、今読んだところです」

 

パウロは物語を教えることには熱心だったが、文字を教えるという目的は途中で忘れてしまうらしい。結局、読み聞かせが終わった後に、ルーデウスは同じ箇所をレイネと読み直すことになった。

 

それでも、父親が自分のために時間を使ってくれることは嬉しかった。

 

家にあった本は、わずか五冊だった。

 

各国や大陸の特徴をまとめた旅行記。フィットア領に生息する魔物の生態と弱点を記した実用書。魔術の仕組みと初級から上級までの術をまとめた教本。召喚術師ペルギウスが魔神と戦う物語。そして、異なる流派を修めた三人の剣士が迷宮へ挑む冒険譚である。

 

本が五冊しかないことには驚いたが、この世界では一冊ずつ人の手で写されているらしく、庶民が気軽に買えるものではないという。

 

前世の部屋には、数え切れないほどの漫画や小説が積まれていた。

 

それらを当たり前のものとして扱い、読み終えた本を床へ放置していたことを思えば、一冊の本を家族全員で大切に読む今の環境は新鮮だった。

 

五冊の中でも、ルーデウスが最も強い興味を抱いたのは魔術教本だった。

 

この世界に魔術が存在することは、ゼニスが村人を治療する姿を見て知っている。しかし、どのような仕組みで発動し、何が必要なのかまでは分からなかった。

 

教本によれば、魔術は大きく攻撃、治癒、召喚の三種類へ分けられ、体内の魔力や魔力を含む物質を消費することで発動するらしい。発動方法には詠唱と魔法陣があり、戦闘で素早く使用できる詠唱が、現在の主流となっている。

 

攻撃魔術には、初級、中級、上級、聖級、王級、帝級、神級という段階が存在する。教本に載っているのは、火、水、風、土の四系統について、上級までだった。

 

読めば読むほど、実際に使ってみたいという気持ちが強くなった。

 

問題は、両親へ頼んでよいものかどうかだった。

 

パウロへ相談すれば、魔術より剣を学べと言われるかもしれない。ゼニスならば喜んでくれそうだが、治癒魔術以外をどこまで扱えるのかは分からなかった。

 

何より、今の自分はまだ二歳である。

 

文字を読めることだけでも、両親からは十分に天才扱いされている。ここで魔術まで習いたいと言い出せば、さらに騒がれることは間違いない。

 

まずは、自分一人で試してみる。

 

初級魔術ならば、教本にも詳しい詠唱が書かれている。危険の少ない水魔術を選び、周囲へ被害が出ないよう気をつければよい。

 

そう考えたルーデウスは、昼食後の静かな時間に魔術教本を自室へ持ち込み、床へ座った。

 

ゼニスは村人の治療へ出ており、パウロも巡回中である。リーリャは一階で帳簿を整理し、レイネは裏庭で洗濯物を干しているはずだった。

 

ルーデウスは床へ布を敷き、その中央に小さな木桶を置いた。

 

少なくとも、失敗して水をこぼしても、床が多少濡れる程度で済む。

 

教本を開き、最も基本的な水魔術の頁を確認する。

 

杖は必要ないらしい。

 

ルーデウスは桶へ向けて右手を伸ばすと、書かれている詠唱を慎重に読み上げた。

 

言葉を口にするにつれ、身体の内側で何かが動き始めた。血液とは違う、これまで意識したことのない力が、胸の奥から肩を通り、右腕へ集まっていく。

 

詠唱の最後に術名を告げると、手のひらの先へ拳ほどの水球が生まれた。

 

初めて目の前に現れた本物の魔術に、ルーデウスは思わず息を呑んだ。

 

水球は確かに空中へ浮かんでいる。

 

表面が小さく揺れ、窓から入った光を反射していた。

 

しかし、感動したことで集中が途切れた瞬間、水球はその場から落ち、桶の縁へぶつかって床へ飛び散った。

 

「惜しいですね」

 

背後から聞こえた声に、ルーデウスの身体が跳ねた。

 

振り返ると、扉のところにレイネが立っていた。

 

洗濯物を干し終えたところなのか、両手には空の籠を抱えている。怒っている様子はなかったが、視線は床に置かれた魔術教本と、濡れた布の間を行き来していた。

 

「いつから見ていたのですか?」

 

「詠唱を始められたところからでございます」

 

最初からではないか。

 

ルーデウスは、言い訳を考えようとした。

 

本を読んでいただけだと言うには、床の水と木桶があまりにも分かりやすい。ゼニスの真似をしただけだと言っても、攻撃魔術の詠唱を正確に読み上げたところを見られている。

 

結局、誤魔化すのを諦めた。

 

「魔術を使ってみたかったんです」

 

「そのようですね」

 

「父様と母様には、言いますか?」

 

レイネは、すぐには答えなかった。

 

部屋へ入ると、まず濡れた床を確認し、ルーデウスの手や顔へ傷がないことを確かめる。それから教本を閉じ、木桶の位置を少しだけ前へ動かした。

 

「火魔術を屋内で試されるのであれば、すぐにお伝えいたします」

 

「水なら、いいのですか?」

 

「よいとは申し上げておりません。ただ、何も分からないままお一人で隠れて試されるより、事故を防げる場所を用意した方が安全でございます」

 

レイネは、床へ敷かれた布を指でつまんだ。

 

「こちらの布では、水を吸い切れません。次からは、洗濯に使う大きな桶をお使いください。また、扉へ鍵を掛けてはいけません。お身体に異常を感じた時点で、必ず中止なさってください」

 

叱られると思っていたルーデウスは、意外な返答に戸惑った。

 

「止めないのですか?」

 

「お止めすれば、諦めてくださいますか?」

 

問い返され、ルーデウスは黙り込んだ。

 

恐らく、止められても別の時間を探して試すだろう。魔術を実際に発動できた以上、何もせず諦めることはできそうになかった。

 

レイネは、その沈黙を返答として受け取ったらしい。

 

「攻撃魔術は、人を傷つける力でございます。ご自身に危険があると判断した場合や、御屋敷へ被害が出る可能性がある場合には、旦那様と奥様へお伝えします。それまでは、私が近くにいる時間だけにしてください」

 

「レイネは、魔術が分かるのですか?」

 

「生活魔術を少々使える程度でございます。ですから、術そのものをお教えすることはできません」

 

答えながら、レイネは濡れた布を片づけ、新しい布を持ってくるため部屋を出ていった。

 

何でもできるように見える彼女にも、専門外はあるらしい。

 

それでも、危険だからと本を取り上げるのではなく、続けることを前提に安全な環境を整えてくれたことは、ルーデウスにとってありがたかった。

 

次の練習では、レイネが用意した大きな桶を使った。

 

一度目と同じ詠唱を読み上げ、水球を作り出す。今度は驚かないよう意識し、手の先へ集まる力の流れを、できる限り正確に記憶した。

 

水球は再び生まれたが、射出されることなく桶へ落ちた。

 

教本には、水の弾を飛ばす魔術だと書かれている。

 

生成だけに成功し、その先の工程が足りないのだろう。

 

もう一度試そうとした時、ルーデウスは詠唱を口にする前に、先ほどの感覚を頭の中で再現してみた。

 

身体の中心から腕へ魔力を送り、手のひらの先で水の形を作る。

 

すると、詠唱していないにもかかわらず、小さな水球が現れた。

 

驚きかけたが、今度は集中を切らさなかった。

 

水球は数秒ほど浮かび、やがて静かに桶の中へ落ちた。

 

「今、詠唱なさいませんでしたね」

 

少し離れた場所で衣服を畳んでいたレイネが、手を止めた。

 

ルーデウスは、自分でも信じられない気持ちで頷いた。

 

「さっきの感覚を、そのまま真似したらできました」

 

「もう一度できますか?」

 

試してみると、先ほどよりも小さな水球が生まれた。

 

レイネは、水球そのものよりも、ルーデウスの顔色と呼吸を見ているようだった。

 

「苦しくはございませんか?」

 

「少し疲れました。でも、まだできます」

 

「本日は、あと一度だけにしてください」

 

「もう少し試したいです」

 

「あと一度です。続けたいのであれば、明日も無事に起きられるところでお止めください」

 

柔らかな口調ではあったが、交渉できる雰囲気ではなかった。

 

ルーデウスは不満を覚えながらも、言われたとおり最後の一度だけ水球を作った。

 

その直後、全身から力が抜けた。

 

肩へ重い物を載せられたような疲労が広がり、頭の中が急速にぼんやりしていく。

 

立っていることもできず、身体が横へ倒れかけたところで、レイネの腕に受け止められた。

 

「ですから、あと一度と申し上げました」

 

呆れたような声が、すぐ近くから聞こえる。

 

反論しようとしたが、言葉を作るだけの力が残っていなかった。レイネの腕へ抱えられたまま、ルーデウスは意識を失った。

 

ルーデウスが目を覚ましたのは、それからしばらく経った後だった。

 

寝台の傍らにはレイネが座り、縫い物を進めている。部屋の中には水の入った桶も魔術教本もなく、床もすでに乾いていた。

 

「どのくらい寝ていましたか?」

 

「夕食までには、まだ時間がございます」

 

レイネは縫い針を布へ通したまま答えた。

 

「お身体に痛みや吐き気はございますか?」

 

「ありません。少しだるいだけです」

 

「魔力を使い切ったためでしょう。旦那様と奥様へお伝えするほどの異常はないと判断しましたが、同じことを繰り返されるようでしたら、今後は隠せません」

 

ルーデウスは、魔力切れという言葉に反応した。

 

「今のが、魔力切れなんですか?」

 

「恐らくは。ただし、私は魔術の専門家ではございません」

 

レイネは針を止め、真っすぐにルーデウスを見た。

 

「私に分かるのは、ルーデウス様のお顔から血の気が引き、立つこともできなくなったという事実だけです。何度までなら安全なのかをご自身で確かめるのであれば、必ず余裕を残してください」

 

「はい」

 

叱られていることは分かっていた。

 

それでも、レイネが両親へ何も告げず、自分が目を覚ますまで傍にいてくれたことが嬉しかった。

 

翌日からも、ルーデウスは水魔術の練習を続けた。

 

レイネは魔術を教えなかったが、練習を始める前に桶と布を用意し、顔色が悪くなれば強制的に中断させた。練習の回数や疲労の程度を紙へ記録するよう提案したのも彼女だった。

 

初日は、三度の発動で意識を失った。

 

ところが翌日は、四度使っても倒れなかった。さらに数日が経つと、十度を超えても耐えられるようになり、練習を続けるほど、明らかに魔力を使える回数が増えていった。

 

教本には、個人の魔力量は生まれた時点でほとんど決まっていると書かれている。

 

しかし、自分の身体では、使えば使うほど限界が伸びている。

 

偶然なのか、幼少期だけに起きる成長なのか、それとも自分に特別な性質があるのかは分からない。

 

ただし、前世の失敗を繰り返してはならない。

 

少しできたからといって、自分は特別な存在だと思い込み、他人を見下せば、また同じ場所へ戻ることになる。

 

今は、始めたばかりの初心者である。

 

才能があると決めつけず、毎日少しずつ練習を続けるべきだった。

 

ルーデウスは水魔術を中心に、火、風、土の初級魔術も一度ずつ詠唱し、その感覚を覚えた後は無詠唱で再現していった。

 

ただし、レイネから火魔術だけは屋内で使用しないよう厳しく言われた。

 

「小さな火でも、布や木へ燃え移れば御屋敷が焼けます。火魔術をお試しになる際は、旦那様か奥様へお話しになってからにしてください」

 

「それでは秘密にできません」

 

「秘密と御屋敷のどちらが大切でございますか?」

 

反論の余地はなかった。

 

結局、屋内で練習するのは水と、弱い風、少量の土を動かす魔術だけに限定された。

 

レイネは、ルーデウスがどの術を何度使ったか、毎日記録した。回数が急激に増えても、大げさに驚いたり、天才だと褒めたりはしなかった。

 

ただ、最初に用意した小さな紙では記録しきれなくなった時、少し厚い帳面へ交換した。

 

「増えましたね」

 

「驚かないんですか?」

 

「驚いております」

 

「そうは見えません」

 

「驚いたからといって、今日使える回数が増減するわけではございませんので」

 

いかにもレイネらしい答えだった。

 

練習を始めてから二か月ほど経った頃、ルーデウスはようやく、水球を作るだけでなく、狙った方向へ飛ばすことに成功した。

 

魔術は、単純に物質を生成して終わりではない。

 

水球を作り、その大きさを定め、速度と方向を決めた後、手元から切り離して射出する。それらの工程を順番に行う必要があったのだ。

 

詠唱は、その複雑な手順を自動で進めるための補助なのだろう。

 

無詠唱の場合、術者自身がすべての工程を意識しなければならない代わりに、大きさや速度を自由に調整できる。

 

初めて飛ばした水球は、桶の中央へ命中し、大きな水しぶきを上げた。

 

近くで帳面をつけていたレイネの侍女服まで濡らしてしまい、ルーデウスは慌てて謝った。

 

「ごめんなさい」

 

「次からは、私のいない方向へ飛ばしてくださいませ」

 

レイネは濡れた袖を絞りながら答えた。

 

怒ってはいないようだった。

 

ただし、その日の練習はそこで終わりとなった。

 

それから一年ほどの時間が流れた。

 

三歳になったルーデウスは、初級の四属性魔術をほぼ無詠唱で扱えるようになり、教本に載っている中級魔術へ手を伸ばしていた。

 

レイネは、以前と同じように練習用の桶と布を用意してくれたものの、中級魔術を屋内で試すことには反対した。

 

「初級と同じ威力とは限りません。少なくとも、御屋敷の中で使うべきではございません」

 

「少しだけ威力を抑えます」

 

「初めて使う術の威力を、どうやって正確に抑えるのでございますか?」

 

「……小さく作ります」

 

「それができると確認するための最初の一回が、最も危険なのです」

 

正しい指摘だった。

 

しかし、外へ出て試すとなれば、家族へ知られる可能性が高い。ルーデウスは自分の魔術を、もう少し上達するまで秘密にしておきたかった。

 

レイネが別の仕事へ移った後、ルーデウスは教本を開き、中級水魔術の詠唱を確認した。

 

壁へ向けて使うつもりはない。

 

生成だけを行い、射出せず消せばよい。

 

そう考え、窓の近くで右手を伸ばした。

 

ところが、初級魔術とは比べものにならないほど大量の魔力が一気に腕へ集まり、想定より遥かに大きな水の塊が生まれた。

 

慌てて小さくしようとしたものの、制御が間に合わない。

 

水塊は圧縮され、猛烈な勢いで手元から放たれた。

 

次の瞬間、轟音とともに部屋の壁が吹き飛んだ。

 

木片と水しぶきが外へ弾け、屋敷全体が大きく震える。反動で床へ尻餅をついたルーデウスは、壁に開いた巨大な穴を呆然と見つめた。

 

完全に失敗だった。

 

家族へ隠すどころではない。

 

足音が近づいてくるよりも先に、扉が勢いよく開いた。

 

最初に飛び込んできたのはレイネだった。

 

室内へ入ると同時にルーデウスの身体を抱き上げ、頭や手足に怪我がないかを素早く確かめる。続いて壁の穴と開かれた教本を見た彼女は、何が起きたのかを理解したらしい。

 

「中級魔術をお使いになりましたね」

 

穏やかな口調ではあったが、声には明確な怒りが含まれていた。

 

「射出しないつもりだったんです」

 

「結果として壁を一枚失いました」

 

「はい……」

 

「私がお止めした理由は、ご理解いただけましたか?」

 

「よく分かりました」

 

レイネは深く息を吐いたものの、それ以上叱り続けることはなかった。廊下からパウロとゼニス、リーリャが駆け込んでくると、ルーデウスを床へ下ろし、自分は落下しそうな木片を取り除くため壁際へ移動した。

 

「何があった!」

 

パウロが部屋を見回し、壁の穴へ目を見開く。

 

ゼニスはルーデウスの前へ膝をつき、怪我がないことを確かめた後、開かれた魔術教本へ気づいた。

 

「ルディ、まさか魔術を使ったの?」

 

ここまで来れば、誤魔化す意味はなかった。

 

ルーデウスは素直に頷いた。

 

「中級の水魔術を試しました。失敗して壁を壊しました。ごめんなさい」

 

パウロとゼニスは、しばらく言葉を失っていた。

 

三歳の子供が独学で文字を覚え、魔術教本を読み、中級魔術を発動したのである。怒るべきなのか、驚くべきなのか、判断できていないようだった。

 

先に口を開いたのはゼニスだった。

 

「中級魔術を、本を読んだだけで?」

 

「はい」

 

「詠唱は?」

 

「最初に感覚を覚えれば、詠唱なしでも使えます」

 

ゼニスは目を見開き、パウロへ顔を向けた。

 

パウロも、息子と壁の穴を何度も見比べている。

 

「レイネは、知っていたのか?」

 

パウロに問われ、レイネは作業の手を止めた。

 

「初級の水魔術を練習しておられることは、存じておりました」

 

「どうして黙っていた」

 

「お一人で隠れて続けられるより、近くで安全を確保した方がよいと判断したためです。ただし、中級魔術を屋内で試すことについては、明確にお止めしました」

 

嘘はついていない。

 

レイネが危険な魔術を許可したわけではなく、今回の事故は、ルーデウスが彼女の忠告を無視した結果だった。

 

「悪いのは僕です」

 

ルーデウスは、レイネが責められないよう急いで言葉を重ねた。

 

「レイネには使わないよう言われました。でも、少しなら大丈夫だと思って、勝手に試しました」

 

パウロは叱るような顔を作ろうとしたが、三歳の息子が中級魔術を使ったという事実を、まだ処理しきれていないらしい。

 

ゼニスは壁へ開いた穴を見た後、困ったように額へ手を当てた。

 

「これは、私たちだけでは教えられないわね」

 

「お前が魔術を教えればいいんじゃないか?」

 

「私が使えるのは治癒魔術よ。攻撃魔術をきちんと教えるなら、専門の先生が必要でしょう」

 

二人の会話を聞きながら、レイネは散らばった教本の頁を拾い、濡れない場所へ移していた。

 

その動きには、家庭教師を雇うという話へ反対する様子も、過度に賛成する様子もない。ただ、決定を待つ侍女として、静かに室内を片づけている。

 

やがてパウロは、壊れた壁から外を眺めながら、深く息を吐いた。

 

「分かった。ロアへ連絡して、魔術の家庭教師を探そう。今度は、壁だけで済むとは限らないからな」

 

ルーデウスに異論はなかった。

 

独学で学ぶことは面白かったが、今回の事故で、自分が知らないことの多さも理解できた。威力の調整、安全な練習方法、魔術を人へ向ける際の判断など、教本を読むだけでは身につかないものがある。

 

それに、専門の魔術師から学べるという話には、純粋な期待もあった。

 

どのような人物が来るのか。

 

自分の無詠唱を見た時に、どのような反応をするのか。

 

胸を高鳴らせるルーデウスの横で、レイネは壊れた壁を見上げ、珍しく小さなため息をついた。

 

「次からは、私の忠告をお聞きくださいませ」

 

「はい。本当にごめんなさい」

 

「謝罪は、修理をなさる方へもお願いいたします」

 

もっともな話だった。

 

こうしてルーデウスの秘密の魔術修行は、屋敷の壁を一枚犠牲にして家族へ知られることとなり、グレイラット家では、三歳の子供へ魔術を教えられる家庭教師を探すことが決まった

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