レイネ視点
Sランクに認定されてから四日後。
レイネは、ようやくミリシオンを発つことになった。
救護所の一階で齢の男性と、十代半ばほどの少女。そして、救護所へ入ってからも、付き添いの神官の裾を放そうとしない幼い少年である。
少女は椅子へ座るより先に、受付の机へ身を乗り出した。
「家族を捜してください。父と母と、弟がいるんです。村の名前は――」
切羽詰まった声を、救護所の新たな運営責任者となった女性職員が、静かに受け止めた。
「ええ。必ず記録するわ。だから、まずはお水を飲みましょう」
「でも、早くしないと……」
「焦る気持ちは分かる。でも、あなたが倒れてしまったら、確認したいことも聞けなくなるでしょう?」
少女は何かを言い返そうとしたが、声にはならなかった。唇を震わせながら、差し出された杯を両手で受け取る。
職員は少女の向かいへ腰を下ろし、顔色と受け答えを確かめた後、別の担当者へ寝床の準備を頼んだ。家族について詳しく聞くのは、食事と休息を取らせてからにするらしい。
高齢の男性には、治療の心得がある者がすぐについた。
幼い少年に対しては、誰も出身地を問い詰めなかった。
少年は自分の名前こそ言えたものの、村の名をうまく説明できない。質問を重ねるたびに怯えが強くなると判断した職員は、救護所で子供たちの世話をしている女性へ少年を預けた。
「今は、ここが安全だと分かってもらう方が先ね。村のことは、落ち着いてから少しずつ聞くわ」
レイネは少し離れた場所から、その一連の対応を見守っていた。
口を挟まないと決めていた。
少女の訴えを聞いた瞬間には、すぐに名簿を調べ、周辺支部へ照会を出すべきだと考えた。しかし、職員も同じ結論へ至っている。ただし、少女の体調を確かめ、休ませることを先にした。
少年への対応も同様だった。
今ここで無理に情報を聞き出すより、恐怖を和らげた方が、結果的には正確な証言を得られる。
寄付された衣服は、その場で種類と数を確認され、帳簿へ記された。少女から聞き取れた名前と村名も、本人が眠った後、正式な照会文書へまとめられていく。
レイネが訂正すべきことは、何もなかった。
夕方。
三人の受け入れが一段落したところで、レイネは救護所の鍵を差し出した。
「問題ございません」
「そう」
女性職員は、鍵を見下ろしたまま小さく息を吐いた。
長年、災害救援と物資管理に携わってきた人物である。教会や宿屋組合とも仕事をした経験があり、救護所の運営に必要な人脈も判断力も持っていた。
それでも、その鍵を受け取る手には僅かな緊張があった。
「これで、本当に引き継ぎは終わりね」
「はい。本日と同じ形で続けていただければ、問題はございません。判断に迷われた際には、ギルドと教会の双方へご相談ください。お一人で抱え込む必要は――」
「それは、私がレイネさんへ言いたいことでもあるのよ」
職員は鍵を握り、困ったように笑った。
「この十九日で、白髪の侍女なら何でも解決してくれると思い始めた人が、随分と増えたわ。でも、あなたはこれから大森林を抜けて、ザントポートを目指すのでしょう?」
「はい」
「途中でも、助けを求められるはずよ。そのたびにすべてを引き受けて、町へ居残っていたら、いつまで経ってもご主人のもとへ着けないわ」
「承知しております」
「本当に分かっているの?」
先ほどまでの柔らかさが、声から少しだけ消えていた。
レイネは答える前に、救護所の中を見回した。
受付では、フィットア領出身者の女性が新しい名簿を整理している。厨房では夕食の鍋が火にかけられ、倉庫では届いたばかりの毛布が数えられていた。
泣き疲れた少年は、ほかの子供たちに囲まれている。最初は壁際から動かなかったが、今は差し出された木彫りの玩具へ、恐る恐る手を伸ばしていた。
レイネが手を出さなくても、救護所は動いている。
それを作るために、ここへ残ったのだ。
「私にしかできないことと、ほかの方へお任せできることを、取り違えないようにいたします」
「それならいいわ」
職員は鍵を腰の袋へ収めた。
「ここは任せて。あなたは、ちゃんと迎えに行ってきなさい」
「はい」
レイネは深く頭を下げた。
◇
翌朝。
救護所の前には、まだ日が昇り切っていないにもかかわらず、多くの人が集まっていた。
レイネが直接助けた者ばかりではない。
教会から送られてきた者。
商隊に保護された者。
周辺のギルドから届いた照会によって、家族や同郷の者と再会できた者。
レイネが作った仕組みを通じて、この場所へたどり着いた人々だった。
荷物を背負って玄関へ出たレイネを見て、最初に助けた農夫が眉間へ皺を寄せた。
「本当に行っちまうのか」
「はい。お迎えに行かなければならない方がおりますので」
「戻ってくるんだろうな」
その問いに、レイネはすぐには答えられなかった。
ルーデウスを迎えた後のことは、何一つ決まっていない。
ゼニス。
リーリャ。
アイシャ。
シルフィ。
フィットア領の家族だけでも、捜さなければならない者は多い。
ルーデウスと再会したからといって、すぐにミリシオンへ戻れるとは限らなかった。
「時期までは、お約束できません」
農夫の顔が曇った。
レイネは言葉を続ける。
「ですが、皆様が故郷へ戻るための道が必要となった時には、必ずお力添えいたします」
「そういう固い返事じゃなくてだな……」
農夫は不満そうに頭を掻いたが、やがて大きなため息を吐いた。
「だったら、せめて主人とやらをちゃんと連れて帰ってこい」
「はい」
人々の間から、少年が一人進み出た。
以前、別の町の教会で保護され、救護所で同じ村の農夫と再会した子供だった。
少年は両腕で、小さな布袋を抱えている。
「これ」
「私に、でございますか」
頷いた少年から袋を受け取る。
中には乾燥させた果物と、硬く焼いた携行食が詰められていた。形は不揃いで、中には少し焦げているものもある。
厨房の女性たちだけではない。
救護所の子供たちも、作るのを手伝ったらしい。
「道で食べて」
「ありがとうございます。大切にいただきます」
少年はレイネを見上げたまま、唇を噛んでいた。
言葉にしたいことはある。
だが、うまく声にできない。
やがて少年は一歩踏み込み、レイネの胸へ勢いよく抱きついた。
外見だけなら、二人の年齢はほとんど変わらないように見える。
レイネは驚いて引き離すこともなく、少年の細い背中へ腕を回した。
「また、会える?」
胸元から、掠れた声が聞こえた。
「はい」
レイネは、今度は迷わなかった。
いつになるかは分からない。
しかし、二度と会えないと決まったわけでもない。
「必ず」
少年が鼻を啜りながら離れる。
レイネは救護所を見上げた。
自分がいなくなった後にも、ここは残る。
新たに保護された者の名前が記録され、家族の手がかりが届けば照合される。行き先のない者には、眠る場所と温かい食事が用意される。
この場所だけで、すべての転移被災者を救えるわけではない。
それでも、何もなかった十九日前とは違う。
「行ってまいります」
見送りに集まった人々へ一礼し、レイネは北へ向かって歩き出した。
◇
目的地は、ミリス大陸最北部の港町ザントポート。
ミリシオンから聖剣街道を北上し、大森林を抜けた先にある。そこから海を渡れば、魔大陸最南端の港町ウェンポートへ入れる。
ルーデウスたちは、反対側から南へ進んでいる。
レイネが北へ。
ルーデウスたちが南へ。
互いに止まらなければ、いずれ進路は交わる。
胸元のお守りへ触れる。
分かるのは、生きていること。
命に関わるような異常が起きていないこと。
そして、大まかな方向だけである。
今どの町にいるのか。
何を食べているのか。
どのような依頼を受けているのか。
そこまでは分からない。
それでも、ルーデウスが少しずつ南へ近づいていることだけは感じられた。
本当ならば、ほかのすべてを捨てて走りたかった。
レイネ一人ならば、道が崩れていても進める。
川が増水していれば足場を作ればいい。
橋が落ちていれば、自分だけ向こう岸へ渡る方法はいくらでもある。
しかし、それでは後に何も残らない。
この道を通るのは、レイネだけではなかった。
大森林や北部の町へ転移したフィットア領民が、家族を捜すためにミリシオンへ向かう。その時、彼らが必要とするのは、レイネにしか使えない魔術ではない。
馬車が通れる道。
夜を越せる宿場。
区間ごとの護衛。
食料と治療。
予定どおりに着かなかった時、異変へ気づく仕組み。
レイネは北へ進みながら、保護された者を南へ送り返す経路をつなぐつもりだった。
ただし、全員をミリシオンへ集めるわけではない。
転移先の町で仕事を得て、そこで生きたいと望む者もいる。本人が残ることを選ぶなら、その意思を尊重する。
移送を必要とする者だけを、安全な経路へ乗せる。
その方針を、立ち寄る町ごとに説明していった。
◇
ミリシオンを出て十日目。
レイネは、聖剣街道沿いの鉱山町へ入った。
山肌を削るように建てられた町には、昼間だというのに活気がなかった。鉱石を積むはずの荷車は空のまま並び、酒場の前には仕事を失った鉱夫たちが座り込んでいる。
冒険者ギルドへ入ると、受付職員がSランク札を見た後、白髪と侍女服へ目を移した。
「もしかして……白髪の侍女ですか?」
「そのように呼ばれております」
「ミリシオンから通達が来ています。フィットア領の人を保護した場合の手順と、救護所への連絡先も」
通達が届いている。
それだけで、ミリシオンに残した仕組みが、自分より先へ進んでいることが分かった。
「この町にも、該当する方はいらっしゃいますか」
職員の表情が曇った。
「二十三人います」
町外れの古い宿舎には、フィットア領出身者が身を寄せ合って暮らしていた。
家族ごと飛ばされてきた者。
森で一人だけ発見された者。
怪我が治らず働けない者。
一方で、鉱山や荷運びの仕事を覚え、町へ馴染み始めている者もいる。
レイネは全員と話した。
何者であるかを確認するだけではない。
これから、どうしたいのかを聞く。
二十三人のうち、ミリシオンへ向かうことを望んだのは十四人だった。
残る九人は、この町へ残ると答えた。
「ここにいれば、家族との再会が遅れる可能性がございます」
レイネが確認すると、鉱山で働き始めた青年は頷いた。
「分かってる。でも、今の俺にはここでできる仕事がある。連絡先を残しておけば、家族が見つかった時に知らせてもらえるんだろ?」
「はい」
「なら、俺はここにいる」
その決断を、レイネは否定しなかった。
問題は、南へ行きたい十四人をどう送り出すかだった。
ミリシオンの救護所には、移送支援のための共同会計が設けられている。しかし、各地から発生する費用を、救護所だけで無制限に負担できるわけではない。
現地支部。
教会。
寄付。
依頼の報酬。
複数の資金を組み合わせ、経路を維持する必要がある。
だが、この町には余裕がなかった。
鉱山の一部へ大型魔物が棲みつき、採掘が止まっている。働けない鉱夫が増え、町全体の収入が落ち込んでいた。
十四人の移送費だけをレイネが置いていけば、今回は送り出せる。
しかし、次に誰かが保護された時には、また同じ問題が起きる。
レイネは鉱山の見取り図を、ギルド長と採掘組合の責任者の前へ広げた。
「魔物を討伐し、鉱山を再開できれば、今後の救援費も町側で確保できます」
組合の責任者が、難しい顔で図面を覗き込む。
「討伐隊は二度入った。どちらも坑道の中で暴れられて、死人が出かけたんだ」
「坑道内では戦いません。外へ誘導いたします」
「簡単に言うな。あれは音へ反応すると、支柱ごと掘り崩す」
「ですので、先に坑道の構造と、魔物の行動を確認させてください」
レイネは一人で鉱山へ入るとは言わなかった。
坑道を知る鉱夫。
過去の討伐へ参加した冒険者。
地質に詳しい魔術師。
治療術師。
必要な者を集め、現場で役割を決めた。
鉱夫たちは避難路を示す。
地質に詳しい魔術師は、支柱と岩盤の変化を監視する。
冒険者たちは坑道の入口を確保し、作業員が戻らないよう警戒する。
レイネが担うのは、魔物を外へ出し、周囲へ被害を出さずに仕留めることだった。
鉱山の奥にいた魔物は、硬い甲殻に全身を覆われた、十メートルほどの巨体だった。
正面から刺激すれば、巨大な前脚で坑道を崩しかねない。
レイネは魔物の後方にある岩へ、ごく小さな振動を与えた。
強く怒らせない。
ただ、その場に留まることを不快に感じさせる。
魔物がゆっくりと動き始めた。
横穴へ逸れようとした時だけ、安全を確認してある箇所を狭め、進路を出口へ戻す。
坑道の外では、冒険者たちが採掘場から人を遠ざけていた。
巨大な頭部が入口から現れる。
続いて甲殻に覆われた胴体が、土煙を上げながら外へ這い出した。
全身が採掘場へ出たことを確認し、冒険者たちが距離を取る。
レイネはそこで初めて、剣を抜いた。
魔物がレイネへ向かって突進する。
真正面から受けず、僅かに身体をずらす。
すれ違いざま。
頭部と胴体の間にある、甲殻の重なりへ刃を通した。
抵抗は一瞬だった。
巨大な頭部が地面へ落ち、胴体だけが数歩進んだ後、採掘場の中央へ沈む。
土煙が収まるまで、誰も動かなかった。
「坑道を確認してくれ」
レイネが振り返るより早く、ギルド長が声を上げる。
鉱夫と魔術師が内部へ入り、しばらくして無事を知らせる声が届いた。
支柱に異常はない。
岩盤にも、新たな亀裂は生じていない。
その日のうちに、鉱山の再開が決まった。
討伐報酬と素材の売却金だけではない。
採掘組合も、今後の収益の一部を救援用の共同会計へ拠出することへ同意した。
十四人分の馬車と食料、宿泊費、護衛費が確保される。
出発の日。
護衛を任されたCランク冒険者の一人が、レイネへ尋ねた。
「白髪の侍女本人は、一緒に来ないのか」
「私はザントポートへ向かいます」
「途中まででも来てくれれば、こっちは安心なんだがな」
「私が同行しなければ運べないのであれば、次の方々を送り出せません」
レイネは街道の地図を開いた。
この六人が担当するのは、次の中継町まで。
そこから先は、別の護衛が引き継ぐ。
一つの護衛隊へ、全行程を背負わせない。
「危険を感じた場合には、予定を守ることより、戻ることを優先してください。馬車や荷物を失っても、乗客の命が守られていれば、正当な撤退として扱われます」
「報酬も減らないんだな?」
「はい」
冒険者は仲間たちと顔を見合わせ、やがて真剣な表情で頷いた。
十四人を乗せた馬車が、南へ向かって動き出す。
レイネは町の門に立ち、その姿を見送った。
自分は北へ進む。
彼らは南へ戻っていく。
進む方向は反対でも、道は確かにつながっていた。
◇
旅を始めて三か月目。
レイネは大森林の雨季へ入った。
空は何日も灰色の雲に覆われ、雨音が途切れる時間の方が短い。街道は深い泥へ沈み、川は岸を呑み込むほど膨れ上がっていた。
レイネ一人ならば、進むことはできる。
崩れた斜面には足場を作り、増水した川も自分だけなら越えられる。
だが、南へ送り出す人々は馬車を使う。
その馬車が進めなければ、レイネだけが通過しても経路は完成しない。
大森林北部の宿場には、三十七人のフィットア領出身者が保護されていた。
そのうち二十九人が、ミリシオンへ向かうことを望んでいる。
しかし、橋は流され、街道の一部は土砂に埋まっていた。
雨季が終わるまで待たせるとしても、宿場の食料は減り続けている。
責任者や地元の冒険者、獣族の斥候たちと対策を話し合っている最中、上流から一人の男が駆け込んできた。
泥にまみれ、片足を引きずっている。
「集落が……川に呑まれた!」
室内の空気が一変した。
堤防を越えた水が家々へ流れ込み、住民は屋根や高台へ逃げている。洪水に押し流された魔物まで、集落へ入り込んでいるという。
宿場にいる三十七人は、今すぐ命を失う状態ではない。
上流では、この瞬間にも住民が濁流へ落ちようとしている。
レイネは宿場の警備と物資管理を残る者へ任せ、現地の救助隊へ加わった。
指揮を執るのは、大森林の地形と水害を熟知した獣族の冒険者だった。
レイネは現場へ到着すると、まず集落全体を見た。
川そのものを止めれば、別の場所で水が溢れる。
家々を土壁で囲めば、水圧によって建物が内側へ倒れかねない。
「集落へ入る流れを二つに分けます」
地面へ簡単な図を描き、指揮官へ説明する。
「人が取り残されている区域の水位だけを緩やかに下げます。舟を扱える方は屋根へ。泳ぎと索敵に優れた方々には、流された方の捜索をお願いいたします」
「高台へ魔物が上がっている」
「地上班にお任せします。私は水路を調整し、皆様では対処が難しい個体が現れた場合に動きます」
指揮官が頷いた。
各自が持ち場へ向かう。
レイネは地面へ手を触れ、水の逃げ道を少しずつ作った。
一度に流れを変えない。
建物へかかる圧力と、下流側の水位を見ながら調整する。
屋根へ取り残された家族のもとへ舟が進む。
大木へしがみついていた子供を、獣族の冒険者が抱えて岸へ戻る。
高台へ這い上がろうとする魔物は、地上班が剣と槍で押し返していた。
レイネがすべてを行う必要はない。
自分の持ち場へ集中できるのは、ほかの者が役割を果たしているからだった。
救助が半ばまで進んだ頃。
増水した川の中央で、水面が大きく盛り上がった。
長い背が、濁った水を割る。
硬い鱗。
平たい尾。
開いた口には、人間の腕ほどもある牙が並んでいる。
上流から流されてきた大型の水棲魔物だった。
魔物の進路上には、子供と高齢者を乗せた舟がある。
「舟を右岸へ!」
指揮官の声が飛ぶ。
レイネは水路の調整を、あらかじめ近くへ配置していた魔術師二人へ任せた。
「現在の流量を維持してください」
「任せろ!」
返事を聞き、レイネは水面へ踏み出す。
風と水を足場にして、一息で舟と魔物の間へ入った。
巨大な口が開く。
正面から受ければ、衝突の余波が舟へ届く。
レイネは水中へ沈み、魔物の側面へ回った。
濁流の中でも、あれほど大きな身体の動きは隠せない。
腹部の鱗が薄い箇所へ刃を走らせる。
魔物が苦痛に身体を捩り、水柱が上がった。
舟が大きく傾く。
岸の魔術師が風を送り、転覆する前に姿勢を戻した。
レイネは魔物をその場へ固定しなかった。
暴れる巨体を急停止させれば、水流が乱れ、かえって舟を巻き込む。
傷を与える位置を選び、住民も救助隊もいない下流へ追い立てる。
最後の舟が岸へ着いた。
子供が抱き上げられ、高齢者が担架へ移される。
それを確認してから、レイネは魔物との距離を一気に詰めた。
頭部の後ろへ剣を突き入れる。
刃を通じて圧縮した水流を送り、急所だけを内側から破壊する。
大型魔物は一度だけ水面を叩き、下流の浅瀬へ沈んだ。
救助が終わったのは、日が暮れた後だった。
確認できた住民は、全員が生きている。
しかし、洪水が奪ったものは命だけではない。
橋は流され、家々は泥に埋まり、井戸には汚水が入り込んでいた。住民を助け出しても、帰る場所がなければ救助は終わらない。
それでも、レイネが一人ですべてを直すことはしなかった。
家屋は地元の大工。
井戸は水を扱える魔術師と住民。
食料の管理は宿場の責任者。
橋の再建は、街道を管理する者たち。
レイネは危険な地盤の補強と、遠方から届く物資の輸送、周辺へ残る魔物の警戒を引き受けた。
大型魔物の素材と討伐報酬は、食料と建材へ変わった。
雨季が終わる頃。
仮設の橋を、地元の冒険者たちが馬車で往復した。
問題なく渡れる。
その報告を受けて、ミリシオンへ向かう二十九人を三つの集団へ分けた。
最初の十人が次の中継地へ到着したことを確かめてから、二組目を出す。
最後の九人を乗せた馬車が南へ消えていった翌朝。
レイネは、再び北へ歩き始めた。
胸元のお守りが示す方向は、以前より近い。
それでも、まだ届かない。
急げばよかったのではないか。
時折、そんな思いが胸を刺した。
だが、雨季の街道へ二十九人を無理に送り出していれば、今ごろ何人かは命を落としていたかもしれない。
焦ることと、危険を無視することは違う。
レイネは何度も自分へ言い聞かせ、濡れた街道を北へ進んだ。
◇
旅を始めて九か月目。
移送経路の一つから、予定日に馬車が到着しなかったという報せが届いた。
乗っているのは十二人。
護衛からも連絡がない。
定めていた時刻を過ぎた時点で、中継地のギルドは周辺支部へ確認を出していた。
その知らせを受けたレイネは、一人で馬車を追わなかった。
現地支部へ戻り、先に情報を集める。
出発時刻。
護衛の経歴。
予定していた道。
周辺で起きている犯罪。
調べるうち、同じ時期に不審な商人が救護名簿を見ようとしていたことが分かった。
移送日程を尋ねた者もいる。
救護所の職員を名乗りながら、正式な確認符号を持たない文書を使った者もいた。
制度が広がれば、それを利用しようとする者も現れる。
異国で家族も身分証も持たない転移被災者は、人身売買を行う者にとって狙いやすい。
レイネは地元の斥候、冒険者、衛兵とともに馬車の痕跡を追った。
街道に大きな戦闘跡はない。
轍だけが途中で脇道へ逸れ、森の中で意図的に消されていた。
さらに奥へ進むと、壊された馬車が見つかった。
乗客はいない。
護衛二人が、負傷した状態で木へ縛られていた。
救出された護衛の証言によって、仲間の一人が襲撃者へ合図を送り、馬車を脇道へ誘導したことが判明する。
内部へ入り込まれていた。
現地のギルド長と衛兵隊は、次の移送を停止した。
その上で、組織を誘い出す作戦を立てる。
実際の転移被災者を囮には使わない。
乗客を装った衛兵と冒険者を馬車へ乗せ、レイネが護衛として同行する。別働隊は距離を取って追跡し、逃走経路へ回り込む。
襲撃者を倒すことだけが目的ではない。
攫われた十二人と、組織の拠点を見つけなければならない。
作戦当日。
馬車が森へ差しかかったところで、前方へ倒木が落とされた。
後方からも別の馬車が接近し、木立の間から二十人ほどの男たちが姿を現す。
「荷物と乗っている奴らを置いていけ!」
御者台に座っていたレイネが立ち上がった。
白い侍女服を見た瞬間、男たちの何人かが顔色を変える。
「白髪……」
「まずい、本人だ!」
一人が逃げようとした。
しかし、後方には既に衛兵が回り込んでいる。
矢が放たれた。
冒険者が盾を構え、レイネの風が隙間を抜けた矢の軌道を逸らす。
包囲されていると知った襲撃者たちは、すぐに統率を失った。
レイネは、最も激しく抵抗する一角へ入る。
殺してはならない。
人質の居場所を聞く必要がある。
剣の腹で手首を打ち、武器を落とさせる。肘を外し、膝を崩す。倒れた者には追撃せず、逃げようとする者は衛兵へ任せた。
数分後。
襲撃者全員が拘束された。
尋問は衛兵隊が行う。
レイネが一人で捕虜を脅し、答えを引き出すようなことはしない。
証言。
押収された文書。
偽造印章。
金の流れ。
それらを照合した結果、森の奥に組織の拠点があることが分かった。
突入部隊は、衛兵と冒険者、治療術師で編成された。
レイネは建物を外から破壊せず、逃走路を塞ぐ。火を放たれる可能性に備え、水を扱える魔術師も配置された。
人質がいる以上、力任せにはできない。
一斉に踏み込む。
見張りを制圧し、武器庫を押さえる。
人質のいる地下室へ近づこうとする者だけを、レイネが先回りして無力化した。
救出された中には、行方不明となっていた十二人もいた。
さらに、別の場所から攫われたフィットア領出身者が十四人。
近隣の子供や旅人、行商人も監禁されていた。
全員の生存を確認した時、レイネはようやく剣を鞘へ戻した。
しかし、組織を壊滅させただけでは終わらない。
護衛の選定。
名簿の管理。
移送日程の伝達方法。
偽造文書への対策。
制度そのものへ手を入れる必要があった。
一つの護衛隊へ全行程を知らせない。
移送者の詳しい名簿を、必要のない者へ渡さない。
文書には日付ごとに変わる確認符号を加える。
予定時刻を過ぎた場合は、待つのではなく確認を始める。
白髪の侍女の名だけを記した書類は、正式なものとして認めない。
変更が各支部へ伝わり、停止していた移送が再開されるまで、ほぼ一か月を要した。
その間にも、お守りが示すルーデウスの位置は南へ動き続けた。
追いつけそうで、追いつけない。
それでも、救護網を狙う者がいると知りながら、何もせず北へ進むことはできなかった。
◇
旅を始めて十一か月目。
レイネは、ようやくザントポートへ到着した。
海から吹く風には、これまでの街道では嗅いだことのない塩の匂いが混じっている。
港では荷車が絶えず行き交い、人族と魔族の言葉が入り交じっていた。
海の向こうには、魔大陸最南端のウェンポートがある。
ルーデウスは近い。
お守りが示す大まかな方向から考えても、既にウェンポートへ向かう地域まで南下している可能性が高かった。
今すぐ船へ乗りたい。
その思いを抱えたまま、レイネはザントポートのギルドに登録されたフィットア領出身者を確認した。
四十三人。
全員が帰還を望んでいるわけではない。
港で仕事を得た者。
この町で家庭を持とうとしている者。
海の仕事に馴染み、家族からの連絡だけを待つと決めた者もいる。
ミリシオンへ向かいたいと答えたのは三十五人だった。
彼らを送り出すための経路は、既にレイネが北上する途中でつながっている。
問題は、ザントポート支部に資金の余裕がないことだった。
港の外へ大型の海棲魔物が現れ、漁船と小型商船を襲っている。
航路が止まれば、町全体の収入が落ちる。
移送支援どころではなくなる。
討伐作戦は、ギルド長と港の管理者、船乗りたちを中心に組み立てられた。
魔物の習性と潮の流れを知っているのは、レイネではない。
レイネは誘導船へ乗り、船乗りたちの指示に従った。
魔物は小型船ほどの大きさを持ち、海中から船底へ体当たりを繰り返していた。
複数の船が音と餌で注意を引き、少しずつ沖へ誘導する。
港と航路から十分に離れたことを、後方の船が旗で知らせた。
乗員が順番に別の船へ移る。
最後に残ったレイネも、周囲から人が離れたことを確認してから海へ入った。
魔物が突進する。
側面へ回り、ひれの付け根へ剣を入れる。
海水を凍らせて動きを鈍らせるが、完全には止めない。巨体を急に固定すれば、大きな波が退避中の船へ届く。
さらに沖へ向けながら、少しずつ動きを削る。
すべての船が安全な距離まで離れた。
そこでレイネは魔物の頭部と胴体の境へ剣を突き入れ、内部へ圧縮した水流を送った。
海面が大きく盛り上がる。
巨大な尾が最後に水を打ったが、その近くに船はない。
魔物は沖合で動きを止めた。
航路が再開される。
討伐報酬と素材の売却益、商人組合からの拠出によって、三十五人を南へ送る費用も確保できた。
十二人。
十二人。
十一人。
三つの集団へ分け、先発の到着を確認してから次を出す。
最後の十一人がザントポートを離れたのは、レイネが町へ着いて十八日後だった。
馬車が南の街道へ消えていく。
次の中継地へ引き継がれたという報告が届いた時、レイネはようやく定期船の乗船手続きを行った。
◇
船には、多くの人々が乗っていた。
商人や冒険者、旅人。魔大陸へ帰る魔族や、ミリス大陸へ仕入れに来ていた商人たちが、甲板や船室に分かれて出航を待っている。
レイネは正規の船賃を払い、ほかの乗客と同じように荷物の確認を受けた。
Sランクであることを理由に、出航を早めさせることもしない。
船員たちは、この海と航路を知っている。
レイネが指揮を奪う理由はなかった。
甲板から北の海を見つめる。
この先に、ルーデウスがいる。
その思いだけで、胸の奥が落ち着かない。
船の上では、何度もお守りへ触れそうになった。
それでも、必要以上に確かめることはしない。
生きている。
深刻な異常はない。
今は、それで十分だった。
数日の航海を経て。
ミリシオンを出てから三百四十七日目。
船は、魔大陸最南端のウェンポートへ入港した。
◇
船を下りた瞬間、レイネは胸元へ手を添えた。
近い。
お守りが伝える感覚は相変わらず曖昧だったが、海と大陸を隔てていた頃とは明らかに違う。ルーデウスとエリスは、この町へ向かっている。二人と行動をともにしているルイジェルドの存在も、以前よりはっきりと感じ取ることができた。
既にウェンポートの周辺まで来ている可能性もある。
そう考えた途端、船旅の疲れなど意識の外へ消えていった。
ウェンポートは、ミリス大陸の町とは景色も匂いも異なっていた。土と石を組み上げた家屋が坂の多い通りに並び、人族よりも多くの魔族が行き交っている。港からは海水と魚、荷物を運ぶ騎乗用の魔物が入り交じった独特の匂いが漂っていた。
しかし、レイネは物珍しい町並みへ足を止めなかった。
宿を探すよりも先に、冒険者ギルドへ向かう。
ルーデウスたちがウェンポートを目指していることは、お守りが示す方角から分かっている。だが、途中でどの町を通ったのか、いつ到着するのかまでは把握できない。
三人が何らかの伝言を残している可能性がある以上、確認を後回しにする理由はなかった。
冒険者ギルドの中では、依頼を探しに来た冒険者たちが行き交い、奥では職員が書類の束を抱えて忙しなく動いていた。
海を隔てたミリス大陸とは建物の造りも、集まっている種族も異なる。それでも、受付台の向こうに帳簿が積まれている光景だけは、これまで訪れたどの支部とも大きく変わらなかった。
レイネは順番を待ち、自分の番になるとSランクの冒険者札を受付台へ置いた。
札を確認した受付の魔族が、僅かに姿勢を正す。
続けて白髪と侍女服を見比べた後、何かを思い出したように口を開いた。
「白髪の侍女か?」
「はい。レイネと申します」
「名前だけは、ミリス大陸から届いている。フィットア領の転移者を捜しながら、各地で救助に参加しているそうだな」
「現在は、その中でも特に一人の少年を捜しております」
レイネは受付台へ僅かに身を寄せた。
「長距離伝言の照会をお願いできますでしょうか」
「誰を捜している?」
「ルーデウス・グレイラットという人族の少年と、エリス・ボレアス・グレイラットという赤髪の人族の少女でございます」
受付職員は、二人の名前を紙へ書き留めた。
「二人組か?」
「いいえ。成人男性一名を含めた三人で行動しております。ただし、照会に使用していただきたい名前は、そのお二人のみでお願いいたします」
ルーデウスとエリスに同行している者が、ルイジェルドであることは最初から分かっていた。
二人へ持たせたお守りは、生存だけを知らせるものではない。ルーデウスとエリスのそばにいる者がレイネ自身の知っている人物であれば、誰が同行しているのかまで判別できる。加えて、二人がどの方角へ移動しているのかも、おおまかに伝わってくる。
転移直後から現在まで、ルイジェルドはほとんど離れることなく二人と行動をともにしていた。
その事実に疑いの余地はない。
しかし、だからこそ、その名前を不用意に口へ出すつもりはなかった。
スペルド族に対する恐怖と嫌悪は根深い。
ルイジェルドが現在どのような姿で旅をしているのか。本名を伏せているのか、別の名を使っているのか。そこまでは、お守りから知ることができない。
本人たちが事情を考えて身元を隠している可能性がある以上、レイネが先にルイジェルドの名前を公の場所で明かすべきではなかった。
「三人組だが、名前を照会するのは二人だけということか」
「はい。お願いいたします」
「分かった。少し待て」
受付職員は二人の名前の横へ、三人組であることを書き加えた。それから背後の棚へ向かい、分厚い索引帳を取り出す。
長距離伝言は、登録された名前ごとに整理され、主要な支部へ順次転記される。
すべての支部へ同時に届くわけではない。商隊や定期便を介するため、到着が遅れることもあれば、途中で失われることもある。
それでも、発信者が現在地と次の目的地を残していれば、旅人の足取りを追う手がかりにはなる。
受付職員は索引帳を捲り、ルーデウスの姓を探した。
「グレイラット……何件かあるな」
その言葉を聞いた瞬間、レイネの指先へ力が入った。
「記録が、あるのでございますか」
「ああ。本人による登録らしい。原本ではないが、複数の支部を経由した写しが残っている」
職員は奥の棚へ向かい、紐で束ねられた伝言記録を探し始めた。
レイネは受付台の前で待った。
ほんの僅かな時間だったはずなのに、ひどく長く感じられる。
お守りを通じて、三人が生きていることは分かっていた。
ルーデウスとエリス、そして二人を守りながら同行しているルイジェルドは、離れることなく、おおむね南へ向かって移動を続けている。
だが、お守りから得られる情報には限界があった。
どの町を通ったのか。
何を食べているのか。
怪我をしていないか。
どのような依頼を受けているのか。
ルーデウスが何を考え、どこを目指しているのか。
エリスは無理をしていないか。
ルイジェルドとは、どのような関係を築いているのか。
一年近く、三人が生きていると知りながら、肝心なことは何一つ確かめられないまま、レイネは後を追い続けてきた。
やがて職員が、数枚の紙を持って戻ってきた。
「これだ。最初の発信地はリカリスになっている」
受付台へ置かれた、一番古い写し。
そこに記されている名前を見た瞬間、レイネの呼吸が止まった。
『ルーデウス・グレイラット』
見間違えるはずがない。
何度瞬きをしても、文字は消えなかった。
レイネは震えそうになる指を、侍女服の袖の中で強く握った。
『エリス・ボレアス・グレイラット』
『二名とも生存』
その一文を読んだところで、文字の輪郭が滲んだ。
生きていることは知っていた。
お守りの反応は、一度も消えていない。
命に関わるほどの異常が起きていないことも、何度も確かめてきた。
それでも、目の前にあるものは違った。
術式が伝える反応ではない。
ルーデウス自身が、自分とエリスの名前を書き、二人が生きていることを誰かへ知らせるために残した言葉だった。
レイネは何度か瞬きをし、滲んだ視界を戻してから続きを読んだ。
『魔大陸リカリスにて冒険者登録』
『護衛のルードとともに、港町ウェンポートを目指して移動中』
『負傷なし』
『中央大陸への帰還を目指している』
ルード。
その名前へ視線が止まった。
レイネが知る限り、ルイジェルドがそのような名前を使っていたことはない。
だが、誰のことを指しているのかを考える必要はなかった。
ルイジェルドである。
スペルド族だと知られないため、旅の途中で使用している偽名なのだろう。ルーデウスもその事情を理解し、ギルドへの伝言にはルードという名前だけを記した。
受付でルイジェルドの名を出さなかった判断は正しかった。
レイネはルードについて何も質問せず、そのまま伝言を読み進めた。
三人で行動している。
怪我はない。
ウェンポートへ向かっている。
中央大陸へ帰ろうとしている。
ルーデウスは、ただ生き延びているだけではなかった。
自分たちの状況を整理し、この先に進む場所を決め、後から捜す者が足取りを追えるように情報を残していた。
「ほかの記録も、拝見してよろしいでしょうか」
どうにか声を出したが、普段より僅かに掠れていた。
「ああ。日付の古い順に並べてある」
最初の伝言の下には、別の町から送られた写しが続いていた。
商隊の護衛として南下していること。
次の宿場町へ到着したこと。
三人とも負傷していないこと。
さらに南の支部へ移ったこと。
目的地は変わらず、ウェンポートであること。
文章はどれも短かった。
伝言札へ記せる量が限られていたのだろう。
それでも、情報はリカリスだけで途切れていない。
一つの町へ着くたびに、新しい依頼を終えるたびに、そして次の道へ出発する前に、ルーデウスたちは自分たちが通った場所へ小さな目印を残し続けていた。
家族や知人が捜しているかもしれないと考えて。
どこかの支部まで情報が届く可能性を信じて。
そして、レイネが後を追ってくることも、きっと考えてくれていた。
最後の記録には、リカリスを出た直後とは異なる内容が記されていた。
『デッドエンド、護衛依頼を完了』
『ルーデウス、エリス、ルードの三名に負傷なし』
『ウェンポートへ向けて出発』
デッドエンド。
初めて目にする名前だった。
「こちらは、三人のパーティ名でしょうか」
「ああ。その名前で登録されている」
受付職員は別の記録も確認してから、言葉を続けた。
「行く先々で依頼を受けている。商隊護衛、救助、魔物の誘導。他の冒険者と協力した記録も多いな。最新の評価ではAランクだ」
「Aランク……」
レイネは目を見開いた。
ルーデウスとエリスが、ルードという偽名を使うルイジェルドとともに、Aランクまで昇格している。
自分が見守ることのできない時間の中で、三人は一年近く旅を続け、依頼をこなし、互いを支えながら魔大陸を横断してきたのだ。
寂しさがなかったとは言えない。
ルーデウスが成長する時間を、自分はそばで見ることができなかった。
エリスがどのように剣を振るい、ルイジェルドとどのような関係を築いたのかも知らない。
けれど、その寂しさよりも遥かに大きな安堵が胸を満たしていく。
生きている。
前へ進んでいる。
三人で、ここまで来た。
そして、もうすぐこの町へ到着する。
「……ご無事で」
口にした途端、声が続かなくなった。
一滴の涙が、受付台の上へ落ちた。
レイネは慌てて顔を伏せた。
ここは人目の多い冒険者ギルドである。
ミリシオンでは救護所の運営を支え、泣き崩れる人々を受け止める側に立ってきた。旅の途中でも、保護された者たちの前では不安を見せないようにしていた。
自分まで取り乱してはならない。
いつも、そう考えてきた。
しかし、次の涙は止められなかった。
頬を伝った雫を拭っても、その後から新しい涙が零れてくる。
一年近く、ルーデウスの無事を信じながら進んできた。
お守りの反応を確かめるたびに胸を撫で下ろし、示される方角が僅かに変われば、何があったのかと考えた。
食事を取れているのか。
安全に眠れているのか。
怪我を隠してはいないか。
エリスと離れていないか。
ルイジェルドと無事に旅を続けられているのか。
三人が一緒にいることは分かっていた。
だが、無事に笑えているのかまでは分からなかった。
それでも、自分が止まるわけにはいかなかった。
立ち止まれば、その分だけ再会が遠ざかる。
誰かを助けるために町へ残るたび、正しいことをしていると理解しながらも、胸の奥では今すぐすべてを投げ出して、ルーデウスのもとへ走りたいと願っていた。
そのルーデウスが、レイネからは見えない場所で、自分から道を残していた。
「迎えに……」
声が震えた。
「お迎えに、参りました……」
本人はまだここにいない。
伝言の写しへ話しかけても、ルーデウスには聞こえない。
それでも、言わずにはいられなかった。
レイネは口元を押さえた。
声を漏らすまいとするほど呼吸が乱れ、細い肩が抑えきれずに震えた。
近くにいた冒険者たちが、何事かと視線を向ける。
受付職員は、泣いている理由を尋ねなかった。
代わりに近くの椅子を引き、レイネのそばへ置く。
「座れ。記録は逃げない」
「申し訳、ございません……」
「謝るようなことじゃない」
レイネは勧められるまま椅子へ腰を下ろした。
それでも、伝言から目を離すことができなかった。
職員が水の入った杯を持ってきたが、すぐには受け取れない。両手を膝の上で握り、呼吸が落ち着くのを待った。
どれほどの時間が過ぎたのかは分からない。
やがて声を出せる程度まで息が整い、レイネは差し出された杯を両手で受け取った。
「ありがとうございます」
声には、まだ僅かな震えが残っていた。
「最後の伝言は、いつ登録されたものでしょうか」
「十日ほど前だ。北方の支部から送られている」
十日。
ルーデウスたちは、既にかなり近くまで来ている。
お守りから伝わる距離の変化とも一致していた。
「この伝言に、返事を登録することはできますか」
「できる。デッドエンドが到着した時に、渡せるようにしておこう」
レイネは受付の一角を借り、紙の前へ座った。
筆を取る。
指先には、まだ僅かな震えが残っていた。
一度深く息を吸い、丁寧に文字を記していく。
『ルーデウス・グレイラット様へ』
『レイネはウェンポートへ到着しております』
『お迎えに参りました』
『この町で、皆様をお待ちしております』
『町を離れる際には、冒険者ギルドへ滞在先と行き先を残します』
『どうか三人そろって、ご無事にお越しください』
最後まで書き終えたところで、再び涙が落ちそうになった。
今度は、紙を汚さないように堪えることができた。
書きたいことは、ほかにもいくらでもあった。
食事は取れているのか。
怪我はないのか。
どれほど心配していたか。
無事でいてくれたことが、どれほど嬉しいか。
だが、それらは伝言へ書くべきことではない。
会って、直接伝えたかった。
「こちらを、お願いいたします」
受付職員は伝言を受け取り、内容を確認した。
「ああ。確かに預かった」
「よろしくお願いいたします」
レイネは深く頭を下げた。
立ち上がる前に、もう一度だけ机の上へ並べられた伝言の写しを見る。
ルーデウスの名前。
エリスの名前。
ルードという、ルイジェルドが選んだ偽名。
三人が町を訪れるたびに残してきた、いくつもの短い言葉。
もう、お守りが示す方角だけを頼りに進む必要はない。
ルーデウスは、自分の足でウェンポートへ向かっている。
エリスも、ルイジェルドも、三人そろってすぐ近くまで来ている。
レイネも、ようやく同じ場所へたどり着いた。
あと少し。
本当に、あと少しだった。
◇
ギルドを出たレイネは、すぐには目についた宿へ入らなかった。
港と町の入口、そして冒険者ギルドのいずれからも向かいやすい場所を選びながら、通りに並ぶ宿を一軒ずつ確かめていく。
必要なのは、自分一人が眠れる部屋ではない。
間もなく到着するルーデウスとエリス、ルイジェルドを迎え、四人で滞在できる宿である。
三人が徒歩だけで魔大陸を横断しているとは限らない。旅の途中で騎乗用の魔物を購入したり、借り受けたりしている可能性もある。
実際に使用しているかは分からなかったが、到着してから預け先を探し回らせるより、あらかじめ対応できる場所を選んでおいた方がいい。
四人分の寝床。
荷物を安全に保管できる場所。
騎乗用の魔物を連れていた場合に預けられる厩舎。
温かい食事。
そして、長旅の汚れを落とせるだけの湯。
条件を一つずつ確認し、レイネは最終的に港を見下ろす坂の途中に建つ宿を選んだ。
ウェンポートでも、かなり上等な部類に入る宿らしい。
玄関や食堂はよく掃除され、客室には清潔な寝具が備えられている。建物の裏には、石壁で囲まれた広い厩舎もあった。
冒険者ギルドと町の門からも、それほど離れていない。
普段のレイネであれば、もう少し質素な宿を選んでいただろう。一人で旅をする間、自分のためだけに余分な金を使うことはほとんどなかった。安全に眠れ、最低限の食事を取ることができれば、それで十分だった。
けれど、今回は違う。
ルーデウスたちは一年近く、魔大陸を旅してきた。
硬い地面で眠った夜も、身体を十分に洗えなかった日もあったはずだ。満足な食事を取れず、疲れを翌日へ残したことも一度や二度ではないだろう。
せめて再会した日くらいは、柔らかな寝台で休ませたい。
温かい食事を用意し、身体の汚れを落とし、明日の移動や宿代を心配することなく眠ってほしかった。
「何名で泊まる?」
受付台にいた宿の主人が尋ねた。
「現在は私一人でございますが、近日中に三名が合流いたします。私を含め、四名で滞在する予定でございます」
「三人が来る日は決まっているのか?」
「正確な日付までは分かりません。ですが、既にウェンポートへ向かっております」
主人は宿帳へ目を落とした。
「四人なら、一部屋に詰め込むより、隣り合った二部屋を使った方がいい。ただ、いつ来るか分からない客のために何日も部屋を空けるなら、その分の料金は必要になるぞ」
「承知しております」
レイネは財布を取り出し、数日分の宿泊費を受付台へ置いた。
自分一人分ではない。
四人で使用する二部屋分を、三人がまだ到着していない期間も含めて前払いする。さらに、部屋を確実に空けておいてもらうため、通常より少し多めに硬貨を加えた。
主人は並べられた硬貨と、レイネの顔を見比べた。
「随分と気前がいいな」
「長く捜していた方々を、ようやくお迎えできるのでございます」
口にした途端、表情が緩みそうになった。
侍女としての穏やかな微笑みに留めようとしたが、完全には隠せなかったらしい。主人は何かを察したように、小さく笑った。
「なるほどな。分かった。隣り合った二部屋を空けておこう」
「ありがとうございます。もう一つ、確認してもよろしいでしょうか」
「何だ?」
「三人が騎乗用の魔物を連れてくる可能性がございます。蜥蜴型を含め、大型の騎乗用魔物を預かることはできますでしょうか」
主人は建物の裏側を指した。
「裏に厩舎がある。大型の蜥蜴でも二、三頭なら問題ない。連れてきた時に種類と頭数を教えてくれれば、餌も用意できる」
「では、使用する可能性を考え、厩舎も空けておいていただけますでしょうか」
「まだ連れてくると決まったわけじゃないんだろう?」
「はい。ですが、到着された後に手間取らせたくありませんので」
レイネは、数日分の厩舎代に相当する硬貨を追加した。
実際に利用しなかったとしても、場所を確保してもらうための費用だと考えれば惜しくはない。
続けて、レイネは食堂の奥へ目を向けた。
「到着された際には、時間にかかわらず、何か温かいお食事を用意していただくことはできますか」
「真夜中でなければ大丈夫だ。煮込み料理なら温め直せるし、先に分かれば肉や魚も増やせる」
「では、量は多めにお願いいたします。長旅の後でございますので」
「分かったよ」
寝床と厩舎、食事については確認できた。
あとは、身体を洗うための湯を用意できるかである。
「こちらでは、身体を洗うためのお湯を用意していただくことはできますでしょうか」
「ああ。客室へ運ぶこともできるし、湯浴み用の小部屋もある」
主人は宿の奥を指した。
「小部屋には大きな木桶を置ける。厨房で温めた湯を運び込むから、客室で身体を拭くよりはゆっくり洗えるぞ」
「木桶は、どの程度の大きさでございますか」
「大人一人が中へ座れるくらいだ。肩まで浸かれるほど深くはないが、身体と髪を洗うには困らん」
「四名分のお湯を用意していただくこともできますか」
「できる。ただし、一度に四人は無理だ。先に二人が使って、その後で湯を捨てて入れ直し、残りの二人が使うことになる。厨房の火を使うから、食事の仕込みと重ならないようにしてもらうぞ」
「承知いたしました。清潔な布と、髪を洗うための石鹸もお借りできますでしょうか」
「ああ。どちらも用意できる。湯を入れ直す分も含めて、別料金になるがな」
「では、湯浴みを二組分お願いいたします。三人が到着されましたら、使用する時間を改めてお伝えいたします」
レイネは宿泊費とは別に、湯と布、石鹸の代金を前払いした。
主人が、再び並べられた硬貨へ目を落とす。
「本当に随分と使うんだな」
「一年近く旅をされておりますので、せめて身体を清めてからお休みいただきたいのでございます」
レイネが支払った金は、誰かに隠して蓄えていたものではない。
Sランク冒険者として受け取った依頼報酬や、護衛、魔物討伐、救助活動に対して正当に支払われた報酬から、移動や捜索に必要な分を計画的に残してきたものだった。
報酬の多くは、旅費や情報収集、保護した人々の食料や治療へ使っている。
それでも、手元の金をすべてその場で使い切ることはしなかった。
ルーデウスたちを見つけた後、衣食住を整え、安全に帰るための費用まで失ってしまえば、迎えに来た意味がなくなる。
必要な時に使うための金を残すことも、レイネにとっては捜索の一部だった。
ただ、これまでのレイネなら、その金を必要以上に使うことはなかっただろう。
もっと安い宿を選び、三人が到着するまでは一人部屋で待つ。身体を洗うにしても、客室へ必要な分だけ湯を運んでもらえば済む。
そうすれば、費用は遥かに少なくなる。
それでも今回は、財布の紐を固く締めようとは思えなかった。
隣り合った二つの部屋。
上等な寝具。
温かい食事。
騎乗用の魔物を預けられる厩舎。
四人が身体と髪を洗えるだけの湯。
数日分の取り置き料金。
ルーデウスたちが無事にこの宿へ入り、久しぶりに安心して眠れるなら、それでよかった。
宿帳へ自分の名前を書いたレイネは、まだ到着していない三人について主人へ伝えた。
「ルーデウスという少年と、赤髪のエリスという少女が私を訪ねてきましたら、こちらへお通しください。もう一人、青髪の槍使いが同行しているはずでございます」
宿の主人にも、ルイジェルドの本名を明かす必要はない。
ただし、三人を確実に見分けてもらうため、現在使っている可能性が高い外見と武器の特徴だけは伝えておく。
「その三人が一緒に来たら、全員ここへ案内すればいいんだな?」
「はい。私が外出している場合にも、お部屋へお通しいただいて構いません。食事と湯の準備も始めていただければ幸いです」
「了解した」
レイネは確保した二つの部屋と、裏の厩舎を自分の目で確認した。
隣り合った客室には、それぞれ二台の寝台がある。窓からは港が見え、四人分の荷物を置いても十分な余裕があった。
続いて、主人の案内で湯浴み用の小部屋も確認する。
床は水が流れるよう僅かに傾斜し、中央には木桶を置くための空間が設けられていた。壁際には小さな腰掛けと、身体を洗うための手桶がある。
二人ずつ順番に使うのであれば、十分な広さだった。
「お湯を使う際には、こちらへ木桶を運んでいただけるのでございますね」
「ああ。到着したら声をかけてくれ。厨房の都合を見て用意する」
「よろしくお願いいたします」
三人が到着した後に必要となる準備は、ひととおり整った。
確認を終えたレイネは冒険者ギルドへ戻り、先ほど預けた伝言へ宿の名前と所在地を追加してもらった。
これで、ルーデウスたちが自分の不在中に到着しても、町の中で宿や預け先を探す必要はない。
その後、レイネは町の門や市場、港を回った。
三人の姿はない。
お守りの感覚から、まだ町へ入っていないことは分かっている。それでも、もう到着しているのではないかという期待を捨てきれず、行き違いが起きそうな場所を一つずつ確認した。
夕方にもう一度ギルドへ戻ったが、デッドエンドの到着報告はまだ入っていなかった。
その夜、レイネは宿の窓辺へ座り、港の灯りを見つめていた。
背後には、まだ誰も使っていない三人分の寝台がある。
主人へ頼んだ食事も、その日はレイネ一人分しか必要にならなかった。
それでも、空いた寝台や余分に支払った費用を無駄だとは思わなかった。
明日かもしれない。
明後日かもしれない。
扉が開き、ルーデウスたちが入ってくる光景を想像するたび、胸の奥が温かくなる。
お守りが示す感覚は、時間が過ぎるたびに確実に近づいている。
あと少し。
数日以内には会える。
もしかすれば、明日にでも。
そう考えるほど眠気は遠ざかり、結局、浅い眠りを何度も繰り返すことになった。
◇
翌朝。
夜明けとともにギルドへ向かったが、デッドエンドはまだ到着していなかった。
レイネが新しい伝言の有無を尋ねようとした時、入口の扉が勢いよく開いた。
港から来たらしい魔族の男が、海水に濡れた衣服のままギルドへ飛び込んでくる。
「救助要請だ! ザントポートから来る旅客船が、北東の岩礁へ乗り上げた!」
ギルド内の空気が、一瞬で変わった。
使者を椅子へ座らせ、受付職員が状況を聞き取る。
入港を目前にした旅客船が岩礁へ乗り上げ、船底が破損した。
既に浸水が始まっている。
天候は悪化しつつあり、波がさらに高くなれば船体が割れる可能性がある。
乗客の中には、子供や老人、負傷して動けない者もいるという。
船を扱える者。
水中で動ける魔族。
水魔術師。
治療術師。
救助へ必要な人員が、次々と呼び集められていく。
レイネは受付へ広げられた地図を確認した。
座礁地点と現在の風向き、港から出せる船の数、船内に残されている乗客の人数、現場の指揮を執る者、そして自分にできることを順に把握していく。
無意識に、胸元のお守りへ指が触れた。
ルーデウスは近い。
今日、この町へ着くかもしれない。
ここへ残れば、ようやく会える可能性がある。
そのために、一年近く進み続けてきた。
今すぐ港から離れず、門やギルドで待っていたい。
けれど、今この瞬間にも、海の上では船が沈みかけている。
「私も救助へ参加いたします」
受付職員が、驚いたように顔を上げた。
「あんた、昨日から何度もルーデウスって少年を捜しに来ていただろう。救助隊なら、こっちでも集められるぞ」
受付職員は、ルーデウスたちが今日到着する可能性まで知っているわけではない。
それでも、レイネが昨日から何度もギルドを訪れ、町の門や港を回っていたことは把握していた。
「私より海上救助へ適した方が十分に集まるのであれば、ここへ残ります」
レイネは、集まり始めた人員へ視線を移した。
船を操れる者はいる。
水中で活動できる者もいる。
治療術師も、最低限の人数は集まりつつあった。
しかし、崩れかけた船内へ入り、閉じ込められた乗客を短時間で運び出せる者は明らかに不足している。
「ですが、船体が崩壊した場合に内部へ入り、複数の方を同時に救出できる方が足りておりません」
現場責任者が、使者から聞き取った乗客数と集まった人員を照らし合わせた。
やがて、苦い表情で頷く。
「できれば、来てもらいたい。船が割れた時、俺たちだけでは全員を拾い切れん」
「承知いたしました」
迷いがないわけではない。
それでも、選ぶべき答えは分かっていた。
レイネは紙を一枚取り出し、二通目の伝言を書いた。
『ルーデウス・グレイラット様へ』
『今朝、ウェンポート北東で発生した座礁事故の救助へ向かいます』
『救助が終わり次第、必ずウェンポートへ戻ります』
『先に到着された場合には、エリス様、ルード様とともに町でお待ちください』
ルードという名前を記すことには、一瞬だけ違和感があった。
だが、ギルドへ残す伝言である以上、ルイジェルドの本名を書くわけにはいかない。
ルーデウスならば、事情を理解してくれる。
「こちらも、ルーデウス様へお願いいたします」
「必ず渡す」
宿にも同じ内容を届けてもらうよう頼んだ。
救助船は三隻編成された。
一隻目は、旅客船から救出した乗客を移すための船。
二隻目は、浸水を抑える資材と作業員を運ぶ船。
三隻目は、治療術師と予備の冒険者を乗せる船。
レイネは現場責任者の指示に従い、船体内部の確認と、崩壊が始まった場合の乗客救出を任された。
救助船が港を離れる。
白髪を海風になびかせながら、レイネは遠ざかるウェンポートを振り返った。
お守りから伝わる感覚は、今も少しずつ近づいている。
ルーデウスたちが町へ到着する、僅か数時間前だった
ルーデウス視点
リカリスの町が見えなくなってから、半日ほど進んだ頃だった。
先頭を歩いていたルイジェルドが片手を上げ、俺とエリスを止めた。
「どうしました?」
「道が分かれている」
その先で、踏み固められた街道が左右へ分岐していた。
右の道は、岩山の間へ吸い込まれるように続いている。左は緩やかな斜面に沿い、大きく迂回しながら南へ向かっていた。
俺は地図を開いた。
どちらを選んでも、次の宿場町へ着く。右の方が一日ほど早いらしい。
「右へ行きましょうか」
地図だけを見れば、それが最も合理的に思える。
だが、ルイジェルドはすぐには歩き出さなかった。
「少し前に、大型の魔物が右へ入っている」
「今も近くにいるんですか?」
「分からん。だが、新しい跡だ」
街道の脇へ目を向ける。
俺には乾いた地面にしか見えないが、ルイジェルドには爪痕や僅かな土の崩れまで分かるのだろう。
「左側は?」
「魔物の気配は少ない。一日遠回りになる」
エリスが、二本の道を見比べた。
「右へ行っても、ルイジェルドなら倒せるでしょう?」
「ああ」
「でも、わざわざ戦う必要はないわ。左へ行きましょう」
「俺も左がいいと思います。ここで怪我をしたり、騎乗用の魔物を失ったりすれば、一日どころでは済みません」
ルイジェルドは俺たちの顔を順番に見た後、左の道へ身体を向けた。
「分かった」
それだけ告げて、再び先頭を歩き始める。
エリスがその後ろへ続く。
俺は地図へ、右の道に大型魔物の痕跡があったことを書き加えてから二人を追った。
俺たちが通らなくても、後から同じ道を使う冒険者はいるかもしれない。
次の町へ着いたら、ギルドにも知らせておこう。
◇
最初の宿場町へ到着したのは、リカリスを出てから十五日目だった。
町へ入る前に冒険者札を確認され、騎乗用の魔物を預けられる宿を教えてもらう。
部屋へ荷物を運び、武器と貴重品だけを持って、三人で冒険者ギルドへ向かった。
掲示板には、DランクからBランクまでの依頼書が並んでいた。
俺たちはCランクになったばかりだ。
受けられる依頼の種類は増えたが、だからといって危険な依頼を選ぶ必要はない。
俺は目的地と日数を確認し、候補となる依頼書を三枚外した。
受付から机を借り、エリスとルイジェルドの前へ並べる。
「一つ目は、町の北にいる魔物の討伐。場所の特定から始める必要があるので、二日から四日ほどかかります」
エリスが依頼書を覗き込む。
文字はまだ読めないが、描かれている魔物の簡単な絵を見ていた。
「強いの?」
「単体なら、エリスでも倒せると思います。ただし、群れになっている可能性があるそうです」
「二つ目は?」
「次の町へ向かう商隊の護衛です。日数は六日。俺たちが向かう方向と同じです」
「それがいいわ」
エリスは即座に護衛依頼を指した。
「まだ三つ目がありますよ」
「聞くだけ聞くわ」
「薬草採取です。一日で終わりますが、報酬は一番低いです」
「護衛ね」
結論は変わらなかった。
ルイジェルドは、護衛依頼書に記された地図を見ていた。
「商隊は何人だ」
「御者と商人を合わせて十一人。荷馬車が四台です。俺たちのほかにも、現地で雇われた護衛が二人つきます」
「荷物は?」
「乾燥食料と薬です。南の集落で、病人が増えていると書かれています」
ルイジェルドの視線が依頼書へ戻る。
「ならば、それを受けよう」
「俺も異論はありません」
護衛依頼を受けることが決まった。
依頼書を受付へ持っていく前に、俺は荷物から伝言札の用紙を取り出した。
リカリスを出る前にも登録したものだ。
「また書くの?」
エリスが俺の肩越しに手元を覗き込む。
「はい。リカリスの情報だけでは、俺たちがまだあの町にいると思われるかもしれません」
現在地。
三人とも生存していること。
次の町へ向かう商隊を護衛すること。
最終的にはウェンポートを目指していること。
書ける量が限られているため、必要な情報だけを選ばなければならない。
「怪我をしていないことも書いて」
「文字数が足りなくなります」
「ほかを短くすればいいでしょう?」
エリスが譲る様子はない。
俺は行き先の表現を短くし、代わりに『三名とも負傷なし』と書き加えた。
「これでどうですか?」
「いいわ」
ギルドの職員や冒険者たちが近くにいる。
俺はルイジェルドへ顔を向け、偽名で尋ねた。
「ルードさんも、何かありますか?」
「ルードという名前を残せ」
「もちろんです」
伝言へ記す名前も、毎回同じだった。
ルーデウス・グレイラット。
エリス・ボレアス・グレイラット。
護衛のルード。
三人が同じ道を進んでいると分かるようにするためだ。
「レイネも、これを見るかしら」
「分かりません」
期待だけで答えるわけにはいかなかった。
「でも、何も残さなければ、絶対に見つけてもらえません。レイネだけでなく、父さんたちやギレーヌが俺たちを捜している可能性もあります」
「そうね」
俺たちが魔大陸のどこを通ったのか。
次にどこへ向かったのか。
それが途切れずに残っていれば、誰かが後を追う時の助けになる。
伝言の料金を支払おうとしたところで、ルイジェルドが硬貨を一枚机へ置いた。
「ルードさん?」
「三人の伝言だ」
「今回の報酬が入れば、俺が払っても――」
「私も払うわ」
エリスまで、自分の財布を取り出した。
「それほど高額ではありませんよ」
「三人の情報なのでしょう?」
二人とも引かなかった。
結局、伝言の料金は三人で分けて支払った。
◇
商隊の護衛は、四日目までは何事もなく進んだ。
魔大陸の街道としては珍しく、周囲に大型魔物の姿もない。
荷馬車の車輪が石へ乗り上げて外れかけたことと、夜中に小型魔物が食料の匂いへ寄ってきた程度だった。
問題が起きたのは、両側を低い岩山に挟まれた道へ入った時である。
先頭を歩いていたルイジェルドが、不意に片手を上げた。
俺たちだけではなく、後方の荷馬車も止まる。
「前にいる」
ルイジェルドが声を抑えて告げた。
「数は十七。岩の陰に隠れている」
商隊主の顔から、見る間に血の気が引いた。
同行していた二人の護衛も武器を構える。
「迂回はできますか?」
商隊の者たちにも聞こえる声で尋ねているが、名前を呼んではいない。
「この荷馬車では無理だ」
ルイジェルドは、来た道へ顔を向けた。
「後ろからも三匹近づいている」
前方に十七匹。
後方に三匹。
細い道へ入ったところで、挟み込むつもりらしい。
「荷馬車を中央へ寄せてください!」
俺が魔神語で叫ぶと、御者たちが馬へ鞭を入れた。
四台の荷馬車をできるだけ近づけ、その内側へ商人と荷物を集める。
「エリス、左側から来る魔物を止めてください。ただし、馬車から離れすぎないように」
「分かったわ。何匹までなら追っていいの?」
「一匹も追わなくて構いません。馬車へ近づけないことが優先です」
「任せて!」
エリスは剣を抜き、荷馬車の左へ回った。
俺は周囲の商人や護衛へ聞こえるように、ルイジェルドを偽名で呼ぶ。
「ルードさんは、正面をお願いします」
「ああ」
ルイジェルドが槍を構える。
「群れを崩す。抜けた敵は任せる」
「お願いします」
現地の護衛二人には、後方から迫る三匹を担当してもらう。
俺は街道の両側へ低い土壁を作った。
完全に道を塞ぐのではない。
魔物が一度に荷馬車へ押し寄せられないよう、進路を細く限定する。
地面が隆起し始めた瞬間。
岩陰から、灰色の甲殻に覆われた四足の魔物が飛び出した。
正面から十二匹。
少し遅れて五匹。
後方の三匹も速度を上げる。
さらに、岩山の上を回り込んでいる個体が二匹いた。
「上にも二匹います!」
「見えてるわ!」
エリスはすでに一匹目の前へ入っていた。
魔物はエリスではなく、背後の荷馬車を狙っている。
その進路へ斜めから踏み込み、前脚の関節へ剣を滑り込ませた。
硬い甲殻を正面から割るのではない。
脚が曲がる部分を狙い、体勢を崩す。
魔物が地面へ転がった。
エリスはとどめを刺そうとはせず、すぐに顔を上げる。
二匹目が土壁を越えてきた。
彼女は壁を蹴って身体を浮かせ、魔物の背中を飛び越える。着地すると同時に身体を反転させ、敵と荷馬車の間へ戻った。
「一匹そっちへ行ったわ!」
「任せてください!」
俺は最初にエリスが脚を斬った魔物の足元を泥へ変えた。
動きが完全に止まったところで、頭部へ圧縮した石弾を放つ。
正面では、ルイジェルドが群れへ入っていた。
一匹目の牙を槍の柄で受け流し、横にいた二匹目へぶつける。
絡み合った二匹の間を抜け、三匹目の前脚を槍で払う。
倒すよりも、群れの動きを崩すことを優先していた。
「右へ三匹行く!」
ルイジェルドの声が飛ぶ。
俺は地面を盛り上げ、二匹の進路を塞いだ。
残った一匹が壁の端を回り、商隊の護衛へ飛びかかる。
男は槍を構えていたが、魔物の勢いを前にして足が止まっていた。
衝突する直前。
エリスが側面から魔物へ身体をぶつけた。
押し倒すことはできない。
それでも、狙いを僅かにずらすには十分だった。
魔物の牙が、護衛の肩の横を通り過ぎる。
「今よ!」
エリスの声で男が我に返った。
振り返った魔物の喉へ槍を突き入れる。
一撃では浅い。
エリスが反対側から剣を入れ、二人で仕留めた。
「助かった!」
「まだ終わってないわ!」
エリスは男の礼を聞き終える前に、次の敵へ向き直った。
前方の敵は、ルイジェルドによって狭い範囲へ押し込められている。
俺は一匹ずつ足場を崩し、エリスや護衛が狙いやすい状態へした。
最後の数匹が岩山の方角へ逃げ出す。
ルイジェルドは追わなかった。
エリスも荷馬車の前から動かない。
敵の気配が完全に遠ざかるまで、全員が構えを解かなかった。
「終わった」
ルイジェルドが告げる。
商人たちが、ようやく息を吐いた。
商隊側に死者はいない。
護衛の一人が腕を噛まれ、御者の一人が転倒して足を痛めていたが、どちらも治療できる範囲だった。
「逃げた奴は、追わなくていいのか?」
商隊主が岩山の方を見ながら尋ねる。
「薬と皆さんを次の町へ届けるのが依頼です」
俺は負傷した護衛の腕へ治癒魔術を使いながら答えた。
「魔物を追えば、荷馬車が無防備になります」
「そうか……」
男は、俺とエリス、そしてルイジェルドを順番に見た。
「デッドエンドなんて名前だから、もっと恐ろしい連中かと思っていた」
「よく言われます」
「恐ろしいのは、名前より赤髪の嬢ちゃんの方だったな」
エリスが、ぴくりと眉を動かした。
俺は治療を続けながら、彼女の様子を窺う。
エリスは魔神語で言われた意味を理解していた。
剣の柄へ手を置いたが、抜きはしなかった。
「私は怖くないわ。敵には怖いかもしれないけど」
多少不自然ではあるが、十分に意味は通じる言葉だった。
商隊主が声を上げて笑った。
「違いない!」
エリスは満足そうに胸を張った。
◇
次の町へ到着すると、商隊主はギルドへ詳細な報告を行ってくれた。
デッドエンドが魔物を倒した。
それだけではない。
荷馬車を集め、逃げ道と防衛位置を決めたこと。
土壁で敵の数を制限したこと。
エリスが馬車の近くを離れず、抜けてきた敵を防いだこと。
ルードが群れを崩し、ほかの護衛でも戦える状態を作ったこと。
負傷者を治療し、薬と商人を予定どおり届けたこと。
受付職員は報告書を書きながら、何度もこちらを見た。
「リカリスから、少し話が届いている」
依頼の完了処理を終えた後、職員が言った。
「赤喰大蛇を倒し、二つのパーティを助けた三人組。まさか、もうここまで来ていたとはな」
「赤喰大蛇は、スーパーブレイズの方々と協力して倒しました」
「それも聞いている。功績を全部自分たちのものにしなかったこともな」
職員は新しい記録を綴じた。
「デッドエンド。次の町では、俺たちより先に名前を知られているかもしれんぞ」
名前が広まること自体は、悪くない。
ルイジェルドの評判を変えるために選んだ名前だ。
しかし、目立ちすぎれば、正体を疑われる可能性もある。
無理に噂を広げるのではなく、受けた依頼を一つずつ終わらせる。
それしかできない。
俺は次の伝言札を登録した。
ルイジェルドとエリスも、何を書くのか横から確認している。
「次はどこへ送るの?」
「ウェンポートとミリシオンです。途中の主要な町でも照会できるようにしてもらいます」
「金は足りるのか?」
「今回の報酬があります。次の町までの食料を買っても問題ありません」
「なら、俺の分だ」
ルイジェルドが硬貨を置く。
エリスもその横へ、自分の硬貨を並べた。
三人分の伝言を、三人で支払う。
それが俺たちの決まりになっていった。
◇
魔大陸を横断する旅は、町へ着けば終わるものではなかった。
依頼を受ける。
次の町までの食料と情報を集める。
伝言を残す。
道の状態を確かめる。
町を出れば、荒野と魔物の中を進む。
ある時は巨大な岩の下で何日も雨を避けた。
砂を含んだ強風に行く手を阻まれ、野営地から動けない日もあった。
乾燥した肉しか手に入らず、何日も同じ味の食事を続けたこともある。
夜には翌日の予定を確認した。
俺が地図を読み、エリスが物資を数える。
ルイジェルドが周辺の魔物と道の安全を判断する。
依頼を選ぶ時も、内容を聞いた二人が意見を出した。
進行方向と同じ護衛。
数日で終わる討伐。
行方不明者の捜索。
報酬が高くても、目的地から大きく離れる依頼は避ける。
長期間を必要とする仕事も、よほど切迫した事情がない限り受けなかった。
エリスの魔神語も、旅を続けるうちに上達していった。
リカリスでは、商品の値段を尋ねて交渉する程度だった。
やがて宿の主人へ部屋の条件を聞き、自分の食事を注文し、依頼人から簡単な事情を直接聞けるようになる。
読み書きはまだ難しい。
それでも、会話のたびに俺の通訳を待つことはなくなった。
ある町では、宿の主人が三人分ではなく、四人分の食事代を請求した。
俺が帳簿を確認するより先に、エリスが気づいた。
「私たちは三人よ」
「騎乗用の魔物にも餌を出した」
「それは部屋代に入っているって、昨日あなたが言ったわ」
宿の主人が顔をしかめる。
「言っていない」
「言ったわ。ルードも聞いてる」
第三者である宿の主人がいるため、エリスは偽名を使った。
ルイジェルドも、それに合わせる。
「ああ。言った」
ルイジェルドの魔神語は、エリスよりも遥かに流暢だ。
宿の主人は逃げ道を失い、帳簿を見直した。
「……計算違いだ」
「なら、直して」
余分な金額が消される。
エリスは最後まで机を壊さず、主人へ掴みかかることもなく部屋へ戻った。
扉を閉め、三人だけになった途端、こちらへ振り返る。
「私一人で気づいたわ!」
「はい。きちんと話もできていました」
「怒鳴らなかったでしょう?」
「最後は少し声が大きかったですが」
「でも、殴ってないわ」
「よく我慢した」
ルイジェルドが褒めると、エリスは眉を吊り上げた。
「我慢したんじゃないわ。言葉で勝ったのよ」
本人にとっては、そちらの方が重要らしい。
◇
旅を始めて三か月ほどが過ぎた頃。
俺たちは、山間の小さな町で一人の子供を捜すことになった。
正式な依頼ではない。
夕方、ギルドへ到着した俺たちのもとへ、泣き腫らした目をした母親が駆け込んできた。
七歳の息子が、昼を過ぎても帰ってこない。
町の子供たちと遊んでいたが、途中から姿が見えなくなったという。
「町の外へ出た可能性は?」
ルイジェルドが尋ねる。
この場で名前は口に出していないため、問題はない。
「分かりません。外には行かないと約束していて……」
母親の声が震えていた。
エリスが女性の前へしゃがみ、目線を近づける。
「一緒に遊んでいた子供たちはどこ?」
「広場に……」
「私が聞いてくるわ」
エリスが俺たちへ振り返る。
「お願いします。俺は門番と町の地図を確認します」
俺はルイジェルドへ顔を向けたが、母親やギルドの者たちが近くにいる。
「ルードさんは、町の中にいる人の気配を探れますか?」
「ああ」
「外へ出たという証言があれば、すぐに知らせます。それまでは町中をお願いします」
「分かった」
三人が別々に動く。
門番によれば、子供らしい姿が門を通った記録はなかった。
塀の壊れた場所もあるため、絶対とは言えない。
俺は町の見取り図を借り、子供が入り込みそうな場所を確認した。
しばらくして、広場へ向かったエリスが走って戻ってきた。
「友達と喧嘩したらしいわ!」
「その後は?」
「一人で古い倉庫の方へ行ったって!」
町外れへ向かう。
ルイジェルドはすでに、倉庫の前に立っていた。
周囲には事情を聞きつけた町の者もいる。
「中にいる」
ルイジェルドが短く告げる。
扉は開かない。
窓も木材で塞がれている。
中からは、僅かにすすり泣く声が聞こえた。
「箱が崩れて、出口を塞いでいる」
無理に扉を破れば、積み上げられた木箱がさらに崩れるかもしれない。
俺は土魔術で建物の壁を外側から支えた。
隙間を広げても倒壊しないよう固定する。
「私が入るわ」
エリスが剣を外し、狭い隙間へ身体を滑り込ませた。
「エリス、木箱へ触れないようにしてください」
「分かってる!」
倉庫の奥から、エリスの声が聞こえる。
「怖くないわ。助けに来たから」
子供が泣きながら何かを答えた。
「動かないで。私がそっちへ行くわ」
普段の大声とは違う、落ち着いた声だった。
しばらくして。
エリスが子供を抱きかかえ、隙間から姿を現した。
俺とルイジェルドで身体を支え、二人を外へ引き出す。
子供に大きな怪我はなかった。
母親へ引き渡すと、少年は泣きながらエリスへしがみついた。
エリスは困惑し、こちらへ視線を送る。
それでも引き離さず、少年の背中へぎこちなく手を置いた。
その夜。
宿で夕食を取っていると、ルイジェルドがエリスへ言った。
三人だけの席なので、偽名を使う必要はない。
「お前がいてよかった」
エリスが、口に入れていた肉を慌てて飲み込む。
「当然よ。私たちは仲間なんだから」
「俺一人では、あの隙間へ入れなかった」
「ルーデウスが建物を支えて、ルイジェルドが見つけたから助けられたのよ」
エリスは少し考え、言葉を付け加えた。
「三人ともいたから助かったの」
ルイジェルドは短く頷いた。
「そうだな」
◇
半年が過ぎた頃。
デッドエンドは、Bランクへ昇格した。
一匹の巨大な魔物を倒した結果ではない。
護衛対象を生きて目的地へ届けた。
依頼人から預かった物を失わなかった。
救助した者の状態を、次の治療術師へ正確に伝えた。
ほかの冒険者と協力し、功績や報酬を勝手に独占しなかった。
複数の町へ積み上がった報告が照会され、パーティとして昇格を認められた。
三枚の新しい札を受け取ったエリスは、何度も表と裏を確認している。
「次はAね!」
リカリスでCランクへ上がった時と、同じ言葉だった。
「ランクを上げるために旅をしているわけではありませんよ」
「分かってるわ。でも、上がるのはいいことでしょう?」
「受けられる依頼は増えます」
「なら、いいことじゃない」
それは間違っていない。
ルイジェルドは、自分の札を俺たちの札と重ねた。
周囲には受付職員がいるが、名前を呼ばずに話している。
「三人とも同じか」
「パーティとして評価されていますから」
「そうか」
それからは、低ランク冒険者を伴う依頼も増えた。
薬草採取を行う新人の護衛。
複数の商隊が一緒に進む大規模な護送。
周辺集落と連携して行う魔物の追い払い。
危険な場所はルイジェルドが確認する。
エリスは前線へ出ながら、守る対象との距離を維持する。
俺は地形を変え、敵の数を制限し、負傷者を治療する。
同行する冒険者にも役割を任せた。
できないことを押しつけない。
だからといって、安全な場所に立たせたまま何もさせないわけでもない。
戦える者には戦ってもらい、運べる者には負傷者を任せる。
誰が何をすべきかを決め、状況が変われば役割も変える。
石化の森と同じ戦いになることはない。
それでも、何のために依頼を受けたのかは、常に確認するようにした。
◇
南へ進むにつれ、デッドエンドの名前を先に知っている者が増えていった。
ある町では、門番が俺たちの札を見る前に声をかけてきた。
「赤髪の剣士と、青髪の槍使い。それに小さな魔術師。お前たちがデッドエンドか」
ルイジェルドの髪は、正体を隠すために青く染め直してある。
槍の穂先も布で包んだままだ。
それでも、三人の特徴は商人や冒険者を通じて伝わっていた。
依頼を守る。
負傷者を見捨てない。
子供が関わる事件では、槍使いが特に熱心になる。
赤髪の少女は気性が激しいが、護衛対象へ敵を近づけない。
小さな魔術師は、戦う前に逃げ道と治療場所を作る。
実際の俺たちより、かなり大げさになっている話もあった。
それでも、デッドエンドと名乗っただけで笑われることは減っている。
ルイジェルドの正体を明かしているわけではない。
今広がっているのは、ルードという槍使いの評判だ。
町を出て、三人だけになってから。
ルイジェルドが俺を呼んだ。
「ルーデウス」
「はい」
「俺の名を隠したままで、本当に意味があるのか」
すぐに答えられる問いではなかった。
「今ここでスペルド族だと明かせば、俺たちが行ったことまで恐怖で見られる可能性があります」
「ああ」
「でも、隠し続ければ、ルイジェルドさんの功績だとは伝わりません」
「そうだ」
「今は、ルードという人を覚えてもらいましょう」
俺は、前を歩く商隊を眺めながら答えた。
「子供を守り、依頼を守り、必要のない相手を殺さない槍使いがいたことを。いつか本当の名前を明かした時に、それまでの行動まで嘘だったと思われないように」
ルイジェルドは黙った。
前方を歩いていたエリスが、振り返る。
「何を話してるの?」
「ルイジェルドさんの名前を、いつ出すかです」
「今はルードでいいじゃない」
エリスは当然のように言った。
「なぜだ」
「最初に本当の名前を言ったら、話も聞かないでしょう?」
「そうだろうな」
「なら、先にルードを知ってもらえばいいわ。どんな人か分かった後に、本当はルイジェルドだって言えばいいのよ」
エリスは難しいことではないという顔で答えた。
ルイジェルドは少しの間、彼女を見つめる。
「そうか」
やがて短く頷いた。
「なら、今はルードでいい」
その後。
町で依頼人へ挨拶する時、ルイジェルドは自分から偽名を名乗ることが増えた。
「デッドエンドのルードだ」と。
◇
ウェンポートまで残り二か月ほどになった頃。
俺たちは、複数の集落を巻き込む大型魔物の移動へ遭遇した。
乾季によって水場が枯れ、数十匹の群れが南へ移動している。
その進路上には、三つの集落があった。
現地のギルドには、周辺から多数の冒険者が集められていた。
Bランク以上が五組。
CランクとDランクが十数組。
集落の住民まで含めれば、関係する人数は百人を超える。
すべての魔物を討伐する必要はない。
水を求めて移動しているだけならば、集落から進路を逸らせば被害を防げる。
現地のギルド長は、集まった冒険者を見回した後、俺たちの前へ来た。
「デッドエンド。全体の指揮を頼めるか」
「俺たちが、ですか?」
「お前たちが関わった依頼の報告を確認した。腕が立つ者はほかにもいる。だが、複数のパーティを動かし、想定外が起きても目的を見失わない者が少ない」
俺はルイジェルドとエリスを見た。
第三者が大勢いる場なので、口に出す名前だけを変える。
「ルードさんは、どう思いますか?」
「先に群れの正確な位置と進路を確認する必要がある」
「エリスは?」
「住民を逃がすのが先でしょう?」
「はい」
俺はギルド長へ向き直った。
「俺一人がすべてを指揮する形にはしないでください。住民の避難は、集落を知る方。火や音を使った誘導は、その魔物の習性を知る冒険者へ任せます。俺は各班の進行を確認します」
「それで構わん」
作戦は一日では終わらなかった。
ルイジェルドは何度も群れへ近づき、位置と移動速度を調べる。
エリスは住民の避難を担当した。
荷物を取りに戻ろうとする老人を止め、怯えて歩けない子供の手を引き、最後の住民が安全な場所へ入るまで集落へ残った。
俺は土魔術で仮の水場を作った。
魔力を使えば、俺一人で維持できる。
しかし、いつ群れが到着するか分からない状態で消耗し続ければ、緊急時に動けない。
周辺の魔術師へ方法を説明し、交代で水量を保ってもらった。
誘導が始まる。
音と火を使い、群れが集落から離れた水場へ向かうよう進路を作る。
最初は順調だった。
だが、途中で群れの一部が大きな音に驚き、別の方向へ走り出した。
その先には、避難を終えたばかりの集落がある。
「二十匹、東へ逸れた!」
斥候が叫ぶ。
ルイジェルドが俺を見る。
「俺が行く。エリスを借りる」
「エリス、行けますか?」
「もちろんよ!」
「討伐ではなく、進路を戻してください。集落へ向かわせないことが最優先です」
「分かってる!」
二人が走る。
俺は残った冒険者たちへ、東側の地面へ斜めの溝を掘るよう指示した。
深くする必要はない。
魔物が走りにくいと感じ、別の方向へ曲がりたくなる程度でいい。
ルイジェルドが群れの先頭へ回り、槍の石突きで地面を叩いた。
エリスは最後尾側へ入り、遅れている個体を横から追い立てる。
集落へ向かう方向だけを危険だと思わせ、本隊へ戻る道は空けておく。
一匹がエリスへ襲いかかった。
エリスは剣を抜き、前脚を斬った。
倒れた魔物へとどめを刺さず、その横を駆け抜けて群れの後方へ戻る。
溝へ足を取られた魔物が向きを変える。
先頭の個体もルイジェルドを避け、本隊の方角へ走り始めた。
一匹。
二匹。
やがて、逸れていた群れ全体がもとの進路へ戻る。
三つの集落から、死者は出なかった。
冒険者側にも、命を落とした者はいない。
討伐した魔物は、襲いかかってきた数匹だけだった。
大部分は仮の水場へ到着し、その周辺へ留まった。
作戦完了後。
ギルド長は、俺たち三人を奥の部屋へ呼んだ。
机の上には、複数の町から届いた報告書が積まれている。
「デッドエンドを、Aランクへ推薦する」
エリスの目が輝いた。
「A?」
「今回の指揮だけで、ですか?」
俺が尋ねると、ギルド長は報告書を一枚ずつ示した。
「今回だけではない。リカリスでの救助。商隊護衛。行方不明者の捜索。ほかの冒険者と協力した複数の依頼」
ギルド長は、俺たちを順番に見る。
「強いだけなら、Aランク以上の者はほかにもいる。だが、お前たちは自分たちより弱い冒険者を役割から外さず、できないことも押しつけない。状況が変わっても、依頼の目的を見失わない」
机から三枚の札が取り出された。
「Aランクになれば、さらに多くの命を預かることになる。その責任を忘れるな」
俺は札を受け取った。
「承知しました」
エリスは自分の札を胸へ抱き、笑った。
「Aよ!」
「はい」
「次はSね!」
「Sランクを目指す必要はありません」
「どうしてよ!」
「俺たちの目的はウェンポートへ着くことです。長期間の依頼を受け続けていたら、進めません」
「でも、Aまで来たのよ?」
「ランクは、帰るために利用するものです」
エリスは不満そうに頬を膨らませた。
それでも、自分の札を大切そうにしまう。
「分かってるわ。帰るのが先ね」
ルイジェルドも自分の札を見つめていた。
「三人の評価として記録されています」
「なら、受け取ろう」
◇
ウェンポートへ近づくにつれ、海を越えてきた商人や人族の姿が増えた。
宿や市場では、魔神語だけでなく人間語も聞こえる。
エリスは、日常会話であれば魔神語にほとんど困らなくなっていた。
細かな表現を間違えることはある。
文字は依頼書を読めるほどではない。
それでも、宿の予約も買い物も一人で行える。
人間語しか話せない商人と、魔神語しか話せない宿の主人が揉めていた時には、二人の間へ入って話をつなごうとした。
完全な通訳にはならず、途中で知らない言葉が出て、俺を呼んだ。
それでも、最初から誰かへ任せるのではなく、自分に分かる範囲で相手の話を聞こうとしていた。
戦闘でも、エリスは敵だけを見なくなった。
俺やルイジェルド。
護衛対象。
ほかの冒険者。
退路。
周囲を確認してから剣を振るう。
剣の腕も、リカリスを出た頃とは比べものにならない。
ルイジェルドとの訓練で勝ったことは一度もない。
だが、相手へ真っ直ぐ斬りかかるだけではなく、進みたい方向を塞ぎ、自分が守るべき場所から敵を離すように動く。
俺も、魔術を放つ前に目的を考えるようになっていた。
敵を倒す。
味方を守る。
退路を作る。
負傷者を治療する時間を稼ぐ。
同じ土魔術でも、目的によって形は変わる。
大きな魔術で解決できる場面でも、周囲へ被害が出るなら別の方法を探す。
レイネから剣の助言を受けた時にも、似たようなことを言われた。
剣を速く振ることより、なぜ一歩を踏み出すのか考える。
相手を倒すことへ意識を奪われ、自分が何を守ろうとしているのかを見失ってはならない。
当時は剣術だけの話だと思っていた。
魔大陸を進む中で、その言葉を何度も思い出すことになった。
◇
ウェンポートへ到着する前夜。
俺たちは、海へ続く街道から少し外れた丘で野営していた。
ルイジェルドによれば、明日の昼までには町が見えるらしい。
エリスは夕食を終えた後も落ち着かなかった。
何度も丘の上へ登り、暗闇の向こうを覗き込んでいる。
「夜なので、海は見えませんよ」
「分かってるわ」
そう答えながら、再び丘へ向かおうとする。
俺は焚き火の前から彼女を呼び戻した。
「明日の予定を確認します」
エリスは座り直し、指を折りながら答えた。
「町へ入る。宿を取る。ギルドへ行く。伝言を確認する。それから港でしょう?」
「はい。よく覚えていますね」
「何度も同じことをしてきたもの」
ルイジェルドが槍の手入れをしながら顔を上げた。
「ウェンポートには、伝言が集まっているはずだ」
「すべて届いている保証はありませんが、途中の町よりは多いと思います」
俺たちは、立ち寄った町ごとに情報を残してきた。
途中で失われたものもあるだろう。
商隊や船が予定どおり動かず、まだ届いていないものもあるかもしれない。
それでも、リカリスだけへ伝言を残した場合より、誰かが俺たちを見つけられる可能性は高い。
「レイネは、どこまで来ているかしら」
エリスが人間語で尋ねた。
俺は胸元のお守りへ触れた。
転移事件の日から、一度も手放していない。
俺には、お守りからレイネの位置を知ることはできない。
生きているかどうかも、直接確かめることはできなかった。
「分かりません」
それでも。
レイネは迎えに来ると約束した。
魔大陸にいると知れば、ウェンポートを目指す可能性が高い。
「もう着いてるかもしれないわ」
「そうですね」
期待だけで、胸の奥が落ち着かなくなる。
ウェンポートは、魔大陸で唯一の港町だ。
ミリス大陸側から俺たちを迎えに来るなら、必ず通る場所になる。
俺たちが残してきた伝言のどれかが届いているなら。
レイネが、すでにミリス大陸へいるなら。
明日。
会える可能性がある。
「ルーデウス」
ルイジェルドが俺を呼ぶ。
「はい」
「眠れ」
「ですが……」
「明日、町へ入る。疲れた状態で判断を誤るな」
正しい。
ここで夜の街道を無理に進み、誰かが怪我をすれば意味がない。
「分かりました」
俺はお守りを服の内側へ戻した。
「明日に備えます」
「私も寝るわ」
エリスはそう言ったが、横になった後もしばらく何度も寝返りを打っていた。
眠れないのは、俺だけではないらしい。
◇
翌朝。
空が明るくなるより先に、エリスが起きた。
俺が目を開けた時には、すでに荷物をまとめ、剣を腰へ差している。
「まだ早いですよ」
「もう朝よ」
「日が昇っていません」
「空は明るいわ」
「朝食を取ってから出ます」
「歩きながら食べればいいでしょう?」
「騎乗用の魔物にも餌が必要です」
エリスは不満そうに唇を尖らせた。
それでも、一人で先へ行こうとはしなかった。
三人で朝食を取り、荷物を確認する。
焚き火を消し、野営地へ残った痕跡を片づけた。
ルイジェルドが周囲の安全を確かめ、ようやく出発する。
丘を越える。
まだ海は見えない。
岩場の間を進む。
風の中に、これまでとは違う匂いが混じり始めた。
塩。
湿った空気。
魚に似た匂い。
エリスが鼻を動かした。
「海の匂い?」
「たぶん、そうです」
「もう近いのね!」
騎乗用の魔物を急がせようとするが、ルイジェルドがすぐに止めた。
「坂の先は足場が悪い。速度を落とせ」
「分かったわ!」
エリスは手綱を引き、本当に速度を落とした。
やがて、最後の坂を上り切る。
視界が一気に開けた。
青黒い海。
斜面へ広がる、土と石の町並み。
港へ並ぶ、何隻もの帆船。
魔大陸最南端の港町。
ウェンポートだった。
エリスは大きく息を吸った。
「海よ!」
騎乗用の魔物から飛び降りようと腰を浮かせる。
だが、途中で動きを止めた。
町へ続く坂道を見る。
次に、俺とルイジェルドへ顔を向ける。
「先に宿を決めるのよね?」
「はい」
「それからギルド」
「はい」
「その後に海ね」
「町の状況を確認してからです」
「絶対に行くわよ!」
エリスは叫んだが、俺たちを置いて走り出すことはなかった。
ルイジェルドが先頭へ立つ。
坂を下り、町の門へ近づいていった。
ウェンポートの入口付近は、港町としても妙に慌ただしかった。
濡れた毛布を積んだ荷車が、門の内側を通り過ぎる。
疲れ切った顔の船員たちが、数人ずつ肩を貸し合いながら宿へ向かっていた。
衣服を海水で濡らした者もいる。
治療道具を抱えた神官とすれ違った。
港の方角から鳴っていた鐘が、ちょうど止まる。
「何かあったのか」
ルイジェルドが門番へ尋ねた。
門番は三人分の冒険者札を確認しながら、疲れたように息を吐いた。
「今朝、ザントポートから来た旅客船が岩礁へ乗り上げたんだ。救助はもう終わったが、港と宿はまだ混んでいる」
ルイジェルドの表情が僅かに険しくなる。
「死者は?」
「俺が聞いた範囲じゃ、全員助かったらしい。運がよかったな」
ルイジェルドの肩から力が抜けた。
エリスも、ほっと息を吐く。
俺は町の奥へ目を向けた。
救助が終わった直後なら、ギルドも慌ただしいだろう。宿も簡単には見つからない可能性がある。
まずは荷物と騎乗用の魔物を預けられる場所を探し、その後でギルドへ向かう。いつもどおりなら、そうするべきだった。
だが、門番は俺たちへ札を返しながら、何気ない調子で言葉を続けた。
「本当に運がよかったらしいぞ。港の連中だけじゃ、船が割れる前に全員を運び出せたか分からなかったそうだ」
「ほかにも救助へ加わった冒険者がいたんですか?」
俺が尋ねると、門番は頷いた。
「ああ。昨日だったか、一昨日だったかにミリス大陸から来た、白髪の侍女だ。小さな身体で船の中へ入って、動けない乗客を何人も運び出したらしい」
耳へ入った言葉を、すぐには理解できなかった。
白髪。
侍女。
その二つが重なった瞬間、胸の奥で何かが強く跳ねた。
「白髪の……侍女?」
声が、自分でも分かるほど掠れた。
「ああ。侍女服を着た、ずいぶん小柄な娘だ。見た目からは想像できんが、かなり腕の立つ冒険者らしい。港じゃ、あの子がいなければ何人かは助からなかったって話になってる」
エリスが勢いよく身を乗り出した。
「その人、今どこにいるの!?」
突然の大声に、門番が目を丸くする。
「さあな。救助隊と一緒に港へ戻ったところまでは聞いたが、その後は知らん。まだ港にいるんじゃないか?」
エリスが俺を見る。
俺もエリスを見た。
確証はない。
白髪の女性が、この世界に一人しかいないわけではない。侍女服を着ている者だって、探せばほかにもいるだろう。
だが、ミリス大陸から来た。
小柄な白髪の侍女。
冒険者として救助隊へ加わり、沈みかけた船の中へ迷わず入った。
これほど条件が重なって、レイネではないと考える方が難しかった。
一年近く、どこにいるのかも分からなかった。
生きていると信じることしかできなかった。
そのレイネが、つい数時間前まで、この町の港にいたかもしれない。
胸元のお守りを、服の上から強く握る。
「ルーデウス」
ルイジェルドの声で、息を止めていたことに気づいた。
「はい」
「まず、確かめるぞ」
「ええ!」
エリスが待ち切れないように答える。
俺も頷いた。
「宿は後です。騎乗用の魔物を預けられる場所だけ聞いて、すぐに港とギルドへ向かいましょう」
門番へ礼を告げると、俺たちはウェンポートの門をくぐった。
レイネが、この町にいる。
まだ姿を見たわけではない。
それでも、その可能性はもう、遠い願いではなかった。