白髪の侍女   作:MトK

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第三十二話 見えない未来

ルーデウス視点

 

目を覚ました時、最初に見えたのは、白く塗られた見慣れない天井だった。

 

窓の外から海鳥の鳴き声が聞こえ、遠くでは荷車の車輪が石畳を転がっている。柔らかな寝具に沈んだ身体は、魔大陸を旅していた時とは比べものにならないほど軽かった。

 

身体のどこにも強い痛みはない。

 

魔物の気配へ耳を澄ませる必要もない。

 

それでも、ここがどこだったのかを思い出した瞬間、俺は顔を横へ向けた。

 

隣の寝台には、レイネがいた。

 

白い髪を枕へ広げ、こちらへ背を向けて眠っている。掛け布の下で肩がゆっくりと上下しており、窓から差し込む朝の光が、その髪を淡く照らしていた。

 

いる。

 

まだ、ここにいる。

 

胸の奥に残っていた緊張が、ようやく解けた。

 

昨夜、どこへも行かないとは約束してくれた。

 

その言葉を疑っていたわけではない。それでも、自分の目で確かめるまでは、胸の奥に僅かな不安が残っていたらしい。

 

目を覚ました時には、隣の寝台が空になっている。

 

昨日の再会も、交わした言葉も、すべて夢だったのではないか。

 

そんなことを明確に考えていたわけではない。

 

だが、レイネの姿を確認しただけでこれほど安心したのだから、心のどこかでは恐れていたのだろう。

 

俺は息を吐き、もう一度枕へ頭を戻した。

 

魔大陸へ転移してからは、目覚めればまず周囲を確認していた。

 

エリスが無事か。

 

ルイジェルドが近くにいるか。

 

魔物や盗賊が迫っていないか。

 

朝を迎えられたからといって、気を抜いてよいとは限らなかった。

 

今朝は、そのどれとも違う。

 

レイネがいなくなっていないことを確かめ、ようやく安心した。

 

それだけで、ここが安全な場所なのだと思えた。

 

寝返りを打った時、敷布が僅かに擦れた。

 

レイネの肩が動き、ゆっくりとこちらへ顔を向ける。赤い瞳が開き、俺の姿を捉えた。

 

「おはようございます、ルーデウス様」

 

眠りから覚めたばかりだというのに、声はいつもどおり落ち着いている。

 

ただ、普段よりも僅かに柔らかく聞こえた。

 

「おはようございます」

 

「よくお休みになれましたか?」

 

「はい。一度も起きなかったと思います。レイネは?」

 

「私も十分に休ませていただきました」

 

レイネは身体を起こした。

 

簡素な寝間着の肩から白い髪が流れ落ちる。

 

昨夜、俺とエリスが休むよう念を押さなければ、救助の記録を整理したり、今日の準備を始めたりしていたのだろう。

 

本人が十分に休んだと言っていても、完全には安心できなかった。

 

「僕が眠った後、本当に仕事をしていませんよね?」

 

「はい。戸締まりを確認した後は、すぐに就寝いたしました」

 

「なら、約束を守ってくれたんですね」

 

安心すると同時に、少し嬉しくなった。

 

俺とエリスが頼んだから、レイネが自分のことを後回しにせず、きちんと休んでくれた。

 

以前の俺なら、レイネがいつ休んでいるのかまで気にしていなかったかもしれない。

 

世話をしてもらうことを、どこかで当然だと思っていた。

 

「お二人に、あれほど強く念を押されましたので」

 

レイネは少し困ったように微笑んだ。

 

その顔を見ていると、昨夜聞いた話が再び頭へ浮かんだ。

 

俺の生存と方角を伝えるお守り。

 

一度だけ命を取り戻すために組み込まれた蘇生の術式。

 

蘇生などという魔術が存在することさえ、俺は知らなかった。それをレイネは自ら作ったという。

 

改めて考えても、とんでもない話だ。

 

一晩眠れば、少しは現実味が薄れるかと思った。

 

だが、胸元には今もお守りがある。

 

その中には、俺の常識では理解できない術式が組み込まれている。

 

目の前にいるのは、昔と変わらず俺の寝具を整え、体調を気遣ってくれる侍女だ。

 

しかし、俺がこれまで知っていたレイネは、彼女が見せていた一部分にすぎなかったのかもしれない。

 

そのことを、少し寂しいとも思った。

 

長い間そばにいた相手なのに、俺は何も知らなかったのではないか。

 

俺とレイネの間には、まだ見えない距離があるのではないか。

 

だが、怖いとは思わなかった。

 

隠された力が、ずっと俺を守るために使われていたと知ったからだ。

 

「ルーデウス様?」

 

「昨日のお守りの話を思い出していました」

 

「まだ、ご不安でございますか?」

 

「不安というより、驚いているんです。蘇生なんて、今まで一度も聞いたことがありませんから」

 

レイネは少しだけ目を伏せた。

 

「一般的な魔術ではございません」

 

「それを作れるレイネが、どれほどの力を隠しているのかは気になります」

 

正直に言うと、レイネはすぐには答えなかった。

 

昨日と同じように、今は話せないのだろう。

 

無理に聞き出したいわけではない。

 

それでも、何も知らないままでいることに、僅かな寂しさは残っていた。

 

「ですが、今すぐ話せないなら、無理に聞こうとは思いません」

 

「……ありがとうございます」

 

レイネが顔を上げる。

 

その表情は、少しだけほっとしたように見えた。

 

話せない理由がある。

 

その理由まで疑い、問い詰めることは簡単だ。

 

だが、レイネが俺へ向けてきた行動まで、すべて嘘になるわけではない。

 

今は信じよう。

 

そう思った直後、廊下から足音が近づいてきた。

 

速い。

 

しかも、真っすぐこちらへ向かっている。

 

扉が勢いよく叩かれた。

 

「レイネ、いる!?」

 

エリスの声だった。

 

「はい。おりますよ、エリス様」

 

レイネが扉を開けると、髪を跳ねさせたエリスが飛び込んできた。

 

上着は急いで羽織ったらしく、前の留め具が一つずれている。エリスは俺へ挨拶するより先に、レイネの両腕をつかんだ。

 

「本当にいたわ!」

 

「昨夜、どこへも参らないとお約束したではございませんか」

 

「分かってるわ。でも、起きた時にいなかったらどうしようかと思ったのよ」

 

「ご心配をおかけいたしました」

 

「謝らなくていいの。ちゃんといるなら、それでいいわ」

 

エリスはレイネを上から下まで確認した後、ようやく安心したように息を吐いた。

 

俺と同じだ。

 

約束を疑っているわけではなくても、朝になって自分の目で見るまでは落ち着かなかったのだろう。

 

自分だけではなかったと分かり、少しだけ気が楽になった。

 

同時に、エリスが昨日の再会をどれほど喜んでいたのかも伝わってきた。

 

「おはよう、ルーデウス」

 

「おはようございます」

 

随分と後回しにされた。

 

少しだけ扱いの差を感じたが、もっとも、今日はエリスの番だ。

 

昨日、自分から俺へ譲ってくれたのだから、文句を言うつもりはない。

 

「レイネ、今日はずっと私と一緒なんだからね」

 

「承知しております」

 

「まず髪を直して。その後、昨日話しきれなかったことを全部話すわ」

 

「お召し物も整えましょう。留め具がずれております」

 

レイネはエリスの前へ膝をつき、上着を直した。それから跳ねた赤髪へ指を通し、絡まっている場所を確認する。

 

以前にも何度も見た光景だった。

 

レイネがエリスの身支度を整え、エリスが当然のように任せている。

 

それなのに、今はひどく懐かしく見えた。

 

昨日まで失われていた日常が、少しずつ戻ってきている。

 

エリスは満足そうにしていたが、レイネの手を取って部屋から連れ出そうとする前に、俺は声をかけた。

 

「その前に、四人で話しておきたいことがあります」

 

エリスが振り返る。

 

「今日は私の番よ」

 

「レイネを取るつもりはありません。ルードさんのことです」

 

まだレイネへ本名を明かしていないため、昨日までと同じ呼び方をした。

 

昨夜、レイネがルイジェルドの気配へ覚えがあると言ったことは、確認しておかなければならない。

 

レイネを疑っているわけではない。

 

だが、これはルイジェルド本人にも関係する話だ。

 

俺一人が知ったままにしてよいことではなかった。

 

エリスも意図を理解したらしい。

 

「ああ、それなら先に話した方がいいわね」

 

エリスが廊下へ顔を出す。

 

「ルード! 起きてる!?」

 

「ああ」

 

隣の部屋から、すぐに返事があった。

 

しばらくしてルイジェルドが部屋へ入ってくる。

 

廊下には宿の従業員が通る可能性があるため、頭部は昨日と同じように隠したままだった。

 

扉を閉め、窓の外や廊下に人がいないことを確認する。

 

胸の中へ、僅かな緊張が生まれた。

 

レイネは何を知っているのか。

 

ルイジェルドは、それをどう受け止めるのか。

 

二人とも、今の俺にとって大切な仲間だ。

 

ここで関係が悪くなることは避けたかった。

 

ルイジェルドは被り物を外した。

 

中から現れたのは、正体を隠すために青く染められた短い髪だった。その髪の生え際、額の中央には、赤い宝石が埋め込まれている。

 

青い髪だけを見れば、彼をスペルド族だと判断する者は少ないだろう。

 

だが、額の宝石と、被り物を外したルイジェルドの佇まいを見れば、事情を知る者には十分だった。

 

レイネの視線が、額の赤い宝石へ向けられる。

 

息を呑むことも、身体を強張らせることもなかった。その赤い瞳には、スペルド族へ向けられるはずの恐怖も嫌悪も浮かんでいない。

 

その反応に、僅かな安堵を覚えた。

 

レイネが種族だけでルイジェルドを恐れるとは思っていなかった。

 

それでも、実際に変わらない態度を見せてくれるまでは、完全には安心できなかったらしい。

 

驚かなかったというより、確かめたように見えた。

 

昨日、お守りを通じて覚えのある気配を感じていたという話を聞いていなければ、俺もその僅かな反応には気づかなかったかもしれない。

 

レイネは、青く染められた髪と額の宝石を静かに見つめた後、ルイジェルド本人へ視線を戻した。

 

まるで、最初からその姿を知っていたかのように。

 

俺はルイジェルドへ尋ねた。

 

「レイネに本名を話してもいいですか?」

 

「ああ」

 

ルイジェルドは俺に説明を任せず、自分からレイネへ向き直った。

 

「昨日は周囲に人がいたため、偽名を使った」

 

「はい」

 

「俺の名は、ルイジェルド・スペルディア。スペルド族だ」

 

レイネは静かに頭を下げた。

 

「存じております、ルイジェルド様」

 

部屋の中が静まり返った。

 

エリスが目を瞬かせる。

 

俺も、思わずレイネの顔を見た。

 

予想していなかったわけではない。

 

何も知らないわけではないだろうとは思っていた。

 

それでも、明確に「知っている」と答えられると、胸の奥がざわついた。

 

初めて聞いた名前を、その場で受け入れたのではない。

 

レイネは明確に、以前から知っていたと答えた。

 

ルイジェルドの目が細くなる。

 

「俺を知っているのか」

 

敵意はない。

 

だが、相手の答えを慎重に見極めようとする戦士の声だった。

 

俺も無意識に身体へ力を入れていた。

 

二人が戦うとは思わない。

 

だが、レイネの答え次第では、ルイジェルドが警戒するのも当然だった。

 

「はい。お名前とお姿は、以前から存じておりました」

 

「どこで会った」

 

「直接、言葉を交わしたことはございません。私が一方的に、ルイジェルド様を知る機会がございました」

 

「どのような機会だ」

 

レイネは一度、俺とエリスを見た。

 

それから、ルイジェルドへ視線を戻す。

 

「申し訳ございません。詳しい経緯につきましては、今はお話しすることができません」

 

昨夜と同じ答えだった。

 

俺にも話せない。

 

ルイジェルド本人へも、今は説明できないらしい。

 

胸に引っかかりは残る。

 

だが、レイネの表情には、秘密を隠し通せたことへの安堵も、相手を騙そうとする焦りも見えなかった。

 

ただ、話せないことを申し訳なく思っているように見えた。

 

ルイジェルドは何も言わない。

 

レイネも視線を逸らさなかった。

 

「ですが、世間に広がっている噂だけで、ルイジェルド様を危険な方だと判断するつもりはございません。少なくとも、お二人を魔大陸からここまで守り、ともに旅をしてくださったことを、私は存じております」

 

「それは、昨日二人から聞いた話だ」

 

「はい。ですが、それ以前から、スペルド族に関する一般的な噂が、すべて事実ではないことも知っております」

 

ルイジェルドの表情が僅かに変わった。

 

驚いたのだろう。

 

スペルド族の噂を疑う者は少ない。

 

まして、姿を知りながら恐れない人間は、ほとんどいなかったはずだ。

 

「俺たちのことを、どこまで知っている」

 

「ルイジェルド様が、ご自身の手でお話しになっていないことを、私から申し上げるつもりはございません」

 

レイネはそう答えてから、深く頭を下げた。

 

「理由をお話しできないことは、申し訳なく思っております。ですが、ルイジェルド様や、お二人へ害を及ぼす意思は一切ございません。それだけは、お信じいただきたく存じます」

 

ルイジェルドはレイネをしばらく見つめた。

 

その沈黙が、妙に長く感じられた。

 

レイネは俺たちに害を与えない。

 

俺には確信がある。

 

だが、その確信をルイジェルドへ押しつけることはできない。

 

ルイジェルドには、自分で判断する権利がある。

 

やがて俺とエリスへ顔を向ける。

 

「二人は、こいつを信じているのか」

 

「当然よ」

 

エリスは迷わなかった。

 

「レイネが私たちを傷つけるわけがないわ」

 

「僕も信じています」

 

俺も答える。

 

迷いはなかった。

 

秘密があることは分かっている。

 

蘇生魔術を作れるほどの実力を隠していた。

 

お守りを通じて、ルイジェルドの気配まで判別していた。

 

それでも、レイネが俺たちを害するとは思わない。

 

むしろ、俺の知らないところで守り続けてくれていた。

 

その行動まで疑う理由はなかった。

 

「そうか」

 

ルイジェルドは再びレイネを見る。

 

「なら、今は聞かない」

 

胸に入っていた力が、少し抜けた。

 

「ありがとうございます」

 

「だが、その秘密が二人を危険へ巻き込むものなら、話せ」

 

「その時は、必ずお話しいたします」

 

ルイジェルドは頷いた。

 

それで、話は終わりらしい。

 

完全に納得したわけではないだろう。

 

それでも、俺とエリスが信じていることを理由に、レイネを受け入れてくれた。

 

その信頼がありがたかった。

 

俺の中には疑問が残っている。

 

どうしてレイネが、ルイジェルドの本名と姿を知っていたのか。

 

だが、ここで問い詰めても答えは得られない。

 

何より、レイネは本名を知っていながら、昨日は一度も口にしなかった。

 

港や宿の食堂では、俺たちの考えに合わせて「ルード様」と呼んでいる。

 

知っている秘密を、勝手に暴くつもりはないのだろう。

 

「宿の外では、これまでどおりルード様とお呼びいたします」

 

レイネが言った。

 

「お名前や種族をどなたへ明かすかは、ルイジェルド様ご自身がお決めになることでございますので」

 

「ああ。そうしてくれ」

 

ルイジェルドが答える。

 

これで、公の場と私的な場での呼び方も決まった。

 

部屋の中で、俺たちしかいない場合にはルイジェルド。

 

外や第三者がいる場所ではルード。

 

俺たち四人だけが共有する秘密が、一つ増えた。

 

「では、会議は終わりね」

 

エリスがレイネの手を握った。

 

緊張した空気を引きずるつもりはないらしい。

 

「今度こそ、私の番よ」

 

「はい。今日は一日、エリス様のおそばにおります」

 

「一日中よ」

 

「承知しております」

 

エリスはレイネを連れて部屋を出ようとした。

 

家族のことは気になっている。

 

レイネがミリス大陸から来たのなら、何か伝言を聞いている可能性もある。

 

期待して、何も知らなかった時に落胆するのが怖かった。

 

それでも、尋ねずにはいられなかった。

 

そう思い、俺は一度だけ尋ねた。

 

「レイネ。家族について、何か分かったことはありますか?」

 

レイネは足を止めた。

 

「申し訳ございません。現時点では、確実にお伝えできる情報を得ておりません」

 

「そうですか」

 

胸の奥が沈んだ。

 

どこかで、レイネなら何か知っているのではないかと期待していた。

 

父さん。

 

母様。

 

リーリャ。

 

アイシャ。

 

ノルン。

 

全員が無事なのかどうか、まだ分からない。

 

「私も移動と捜索を続けておりましたので、各地の情報を十分に集めることができませんでした。確認できていない噂をお伝えし、かえってルーデウス様を混乱させることは避けたいと考えております」

 

それは、レイネらしい答えだった。

 

知らないことを、知っているようには言わない。

 

不確かな話を、俺が喜びそうだからという理由で伝えることもしない。

 

今、安心させるためだけに嘘を言われるよりはいい。

 

そう分かっていても、少し残念だった。

 

「分かりました。確実なことが分かった時に教えてください」

 

「はい。必ずお伝えいたします」

 

レイネが頭を下げる。

 

エリスは一度、俺の顔を見た。

 

心配そうな表情をしていたが、何も言わなかった。

 

無理に励まさず、今はそっとしておくことを選んでくれたのだろう。

 

「それじゃあ、今度こそ行くわよ」

 

「はい」

 

エリスはレイネの手を引き、隣の部屋へ戻っていった。

 

 

朝食を終えた後、エリスは宣言どおり、レイネを一日中そばから離さなかった。

 

最初は部屋で髪を梳かしてもらい、旅の間に傷んだ毛先を整えてもらっていた。

 

その後は二人で宿の小さな庭へ出る。

 

エリスは剣を持とうとしたが、レイネが右肩へ触れた。

 

「本日は、剣の訓練をお休みくださいませ」

 

「もう痛くないわ」

 

「痛みが少ないことと、完全に回復していることは異なります。昨日も港で毛布や水を運び、かなり右腕を使っておられます」

 

「少しくらいなら平気よ」

 

「今日は、お話を聞かせてくださるお約束でございましたね」

 

剣の稽古ではなく、思い出話をしようと言われ、エリスは不満そうに口を閉じた。

 

「……レイネが聞きたいなら、仕方ないわね」

 

剣を止められたから従ったというより、レイネが話を聞きたいと言ったから受け入れたらしい。

 

それから二人は庭の長椅子へ並んで座った。

 

エリスは、魔大陸へ転移した直後のことから話し始める。

 

目を覚ました時、見たこともない景色の中にいたこと。

 

俺と二人きりで、何をすればいいのか分からなかったこと。

 

そこへルイジェルドが現れたこと。

 

最初は、彼がスペルド族だと知って驚いたこと。

 

一緒に旅を始め、初めて魔物を倒したこと。

 

魔神語を覚えたこと。

 

町ごとに依頼のやり方が違い、何度も戸惑ったこと。

 

二頭の騎乗用魔物と出会い、ここまで一緒に旅をしてきたこと。

 

エリスの口から語られる旅は、俺が覚えているものとは少し違っていた。

 

俺が危険な判断をしたことより、エリス自身が何をして、どれほど頑張ったのかが中心になっている。

 

話は何度も前後した。

 

興奮すると身振りが大きくなり、ルイジェルドの戦いを説明する時には立ち上がって槍の動きを真似しようとする。

 

そのたびにレイネが右肩を使わないよう止めていた。

 

「その時、ルイジェルドが一歩で魔物の前へ出たのよ。それで槍をこうして――」

 

「エリス様」

 

「何よ」

 

「右腕で再現しようとなさらないでくださいませ」

 

「これくらい平気よ」

 

「お話だけでも十分に伝わっております」

 

「まだ一番すごいところを説明していないわ」

 

「では、左手でお願いいたします」

 

エリスは不満そうに唇を尖らせたが、今度は左手で槍の動きを再現し始めた。

 

レイネは笑わず、真剣に話を聞いている。

 

俺も最初は近くにいたが、今日はエリスの番だ。

 

何度か会話へ加わろうとすると、エリスから「今は私が話しているの」と睨まれた。

 

少しだけ寂しい。

 

俺もレイネと話したかった。

 

昨日の夜に二人きりの時間をもらったばかりなのに、レイネがエリスだけを見ていると、会話へ入りたくなる。

 

我ながら子供じみている。

 

レイネも、俺を追い払うつもりはないようだったが、エリスとの約束を優先している。

 

それなら、二人だけで話せる時間を邪魔するべきではない。

 

エリスは昨日、俺へ時間を譲ってくれた。

 

今日は俺が譲る番だ。

 

ルイジェルドは槍の手入れと、厩舎にいる二頭の様子を見に行くという。

 

俺は一人でウェンポートの町を歩いてみることにした。

 

昨日は、門からギルド、港、宿と急いで移動しただけだった。

 

町そのものをゆっくり見る余裕はなかった。

 

坂道を下っていく。

 

ウェンポートは、海へ近づくほど賑やかになっていた。

 

船員向けの食堂。

 

旅人へ地図や方位磁針を売る店。

 

乾燥させた魚や果物を並べる露店。

 

大きな木箱を荷車へ積み込む商人。

 

複数の言語が飛び交い、人族と魔族が同じ通りを行き交っている。

 

俺は店先へ並んでいる品物を見ながら、ゆっくりと歩いた。

 

一人で歩くのは、随分と久しぶりだった。

 

魔大陸では、どこへ行くにもエリスかルイジェルドが近くにいた。

 

今は安全な町の中だ。

 

それでも、無意識に二人の位置を確認しようとしている自分に気づく。

 

すぐに必要な物はない。

 

明日以降、海を渡る準備を始めることになるだろう。

 

今日は町の道や、港にどのような店があるのかを覚えておけばいい。

 

船で必要になる物。

 

海を渡った後にも使える物。

 

値段の相場。

 

ただ歩くだけでも、調べられることは多い。

 

レイネと合流したからといって、何もかも任せるわけにはいかない。

 

俺は俺で、旅を進めるために必要なことを考えなければならない。

 

昼が近づくと、通りの屋台から香ばしい匂いが漂ってきた。

 

肉と野菜を交互に串へ刺し、辛い香辛料を塗って焼いている。

 

エリスは朝から話し続けている。

 

レイネも、それを聞きながら髪を整えたり、肩の様子を確認したりしていた。

 

ルイジェルドも、そろそろ厩舎から戻ってくる頃だろう。

 

俺は四人分の昼食として、串焼きを多めに買うことにした。

 

四人分と考えた時、自然にレイネまで人数へ含めていた。

 

昨日までは三人だったのに、もう四人であることが当たり前になりつつある。

 

そのことが、少し嬉しかった。

 

「十二本ください」

 

「十二本か。なら一本おまけだ」

 

屋台の店主が、焼き上がった串を紙で包んでくれる。

 

一人三本。

 

余った一本は、食べ足りなかった者が食べればいい。

 

エリスが取る可能性が一番高いだろう。

 

レイネが、自分の分をほかの誰かへ譲る可能性もある。

 

その時は、全員がきちんと食べたか確認しようと思った。

 

包みを受け取り、宿へ戻る道へ入る。

 

大通りは混んでいたため、少し細い路地を通ることにした。

 

建物の間へ入ると、海風が弱まり、屋台や船員の声も遠くなる。

 

その路地の途中に、小さな人影が倒れていた。

 

最初は、眠っている子供かと思った。

 

だが、腹が大きく鳴る音が聞こえた。

 

「大丈夫ですか?」

 

俺が声をかけると、人影が僅かに動く。

 

波打つ紫色の髪。

 

青白さのある肌。

 

頭には山羊のような角が生えている。

 

見た目は幼い少女だったが、身につけている衣服は妙に露出が多く、普通の子供には見えなかった。

 

近づいてよいのか、一瞬だけ迷った。

 

魔大陸では、見た目が幼いからといって、弱いとは限らない。

 

だが、本当に空腹で倒れているのであれば、警戒して見捨てることもできなかった。

 

少女が顔を上げる。

 

「食べ物……」

 

「お腹が空いているんですか?」

 

「妾は、もう何日も何も食べておらぬ……」

 

声は偉そうだが、顔には力がない。

 

本当なら、放っておくわけにはいかない。

 

俺は串焼きの包みを開き、一本を差し出した。

 

少女は串を奪い取るように受け取り、勢いよく肉へかじりついた。

 

一口。

 

二口。

 

あっという間に一本がなくなる。

 

あまりの速さに、喉へ詰まらせないか心配になった。

 

少女は無言で、俺の持つ包みを見た。

 

「もう一本、食べますか?」

 

大きく頷く。

 

二本目も、ほとんど休まずに食べ終えた。

 

三本目。

 

四本目。

 

五本目。

 

小さな身体のどこへ入っているのか分からない。

 

俺が止めなければ、残っている物もすべて食べそうな勢いだった。

 

エリスたちの顔が浮かぶ。

 

俺が昼食を買いに行くと伝えたわけではない。

 

それでも、持ち帰ろうと思って買った物をすべて渡せば、三人の食事がなくなる。

 

「これ以上は、仲間の昼食がなくなってしまいます」

 

「むぅ……」

 

少女は不満そうに包みを見た。

 

だが、先ほどまで倒れていた顔には、少しだけ血色が戻っている。

 

もう倒れたままではない。

 

それだけでも、渡した意味はあった。

 

「助かったぞ、人族の少年よ!」

 

少女は勢いよく立ち上がり、腰へ両手を当てた。

 

「この妾を飢えから救うとは、大した功績である!」

 

随分と偉そうだった。

 

助かった直後だというのに、態度だけは大きい。

 

「それはよかったです」

 

「うむ! 妾は恩を忘れぬ!」

 

少女は胸を張った。

 

「聞いて驚け! 妾こそが魔界大帝キシリカ・キシリスである!」

 

聞いたことのある名前だった。

 

魔界大帝。

 

魔族の歴史や伝承に登場する存在。

 

ただし、本当に実在しているのか、今も生きているのかについては、話す者によって内容が違っていた。

 

目の前の少女は、どう見ても威厳のある大帝には見えない。

 

空腹で路地に倒れ、串焼きを五本食べたばかりである。

 

「キシリカ……さん?」

 

「大帝と呼ぶがよい!」

 

「大帝キシリカ」

 

「うむ!」

 

満足したらしい。

 

本当に本人なのだろうか。

 

偽物だとしても、食事を渡したことを後悔するつもりはない。

 

「妾を救った褒美として、望みを一つ叶えてやろう!」

 

「望みですか?」

 

「金でも、力でも、美貌でもよいぞ!」

 

金。

 

これから海を渡るのだから、多いに越したことはない。

 

ただし、本当に魔界大帝なのかも分からない相手へ、いきなり大金を求めるのも危険だ。

 

それに、まだ渡航費がいくらになるのかも確認していない。

 

何を頼めばよいのか迷う。

 

旅へ役立つ物なら、少なくとも無駄にはならないだろう。

 

「これからの旅で役に立つ物をお願いできますか?」

 

「旅で?」

 

キシリカは顎へ手を当て、俺の顔を覗き込んだ。

 

「ふむ。お主、魔力は多いな」

 

「そうでしょうか」

 

「多いどころではない。妙な育ち方をしておるが、その器は人族のものとは思えぬ」

 

キシリカの目が細くなる。

 

俺の身体の中を覗き込まれているような感覚がした。

 

ぞわりと背筋が粟立つ。

 

一歩離れた方がいいかと思ったが、キシリカはすでに結論を出したらしい。

 

「ならば、これがよかろう」

 

「何をするんですか?」

 

「魔眼を授ける!」

 

「魔眼?」

 

質問を終える前に、キシリカの指が俺の右目へ向けられた。

 

避ける暇はなかった。

 

目の奥へ、熱い針を差し込まれたような痛みが走る。

 

「っ……!」

 

視界が白く染まり、膝から力が抜けた。

 

何をされた。

 

目を潰されたのか。

 

一瞬、強い恐怖が走った。

 

手にしていた串焼きの包みだけは、落とさないよう胸へ抱える。

 

痛みは長く続かなかった。

 

数秒後には収まったが、目を開いた瞬間、周囲の景色が二重に見えた。

 

今立っているキシリカ。

 

僅かに右へ動いたキシリカ。

 

同じ人物が、異なる場所へ重なっている。

 

自分の目がおかしくなったようにしか思えず、胃の辺りが冷たくなった。

 

「成功である!」

 

キシリカが笑う。

 

「少し先の未来を見る魔眼じゃ。慣れるまでは、あまり長く使うでないぞ」

 

「少し先の未来……?」

 

「褒美は授けた! それでは、さらばじゃ!」

 

説明はそれだけだった。

 

待ってくださいと呼び止めるより先に、キシリカは路地の奥へ駆け出す。

 

途中で足をもつれさせて転び、すぐに立ち上がると、今度こそ姿を消した。

 

俺はしばらくその場へ座り込み、右目を押さえた。

 

ひどい痛みは、もうない。

 

だが、身体の一部が勝手に別の働きを始めたことが怖かった。

 

目を開く。

 

閉じる。

 

右目だけで見る。

 

左目だけで見る。

 

未来の像が重なり、何が今起きていることなのか分かりにくい。

 

動こうとすれば、現在の景色と少し先の景色が混ざり合う。

 

この状態で人の多い通りへ戻れば、誰かへぶつかるかもしれない。

 

意識して右目へ流れる魔力を弱めると、二重になっていた視界が少しずつ元へ戻った。

 

とんでもないものをもらってしまった。

 

旅に役立つ物を頼んだ。

 

確かに、未来が見えるなら役立つかもしれない。

 

だが、使いこなせなければ、役に立つどころか危険になる。

 

そこで、腕の中にある包みへ目を落とした。

 

十三本あった串焼きは、残り八本。

 

俺たち四人で分ければ、一人二本だ。

 

昼食として足りないとは言い切れない。

 

だが、最初から一人三本を想定して買ったのだ。

 

エリスとルイジェルドは朝から動いている。

 

レイネにも、昨日のように自分だけ量を減らしてほしくない。

 

魔眼を得た直後だというのに、串焼きの数を考えている自分が、少しおかしく思えた。

 

それでも、三人の食事は必要だ。

 

「もう一度、買いに行くしかありませんね」

 

俺は立ち上がり、先ほどの屋台へ戻った。

 

右目を完全に抑えられていないのか、歩いている人の少し先の姿が時折重なって見える。

 

一度、前から来た船員を避けようとして、逆に同じ方向へ動いてしまった。

 

未来の位置を見て避けたつもりが、現在の相手も進路を変えたらしい。

 

「すみません」

 

頭を下げ、今度は左目を中心にして歩く。

 

自分の身体なのに、自分の目を信用できない。

 

そのことが、思っていた以上に不安だった。

 

先ほどの屋台へ戻ると、店主が俺を見て目を丸くした。

 

「もう食ったのか?」

 

「途中でお腹を空かせた人へ分けたので、五本追加してください」

 

「五本か。随分と食う奴に会ったな」

 

「僕も驚きました」

 

新しく焼き上がった五本を包んでもらう。

 

これで、手元には再び十三本ある。

 

最初から数え直せば、串焼きに二度も金を払ったことになる。

 

だが、空腹で倒れていた者を見捨てるよりはいい。

 

魔眼を得たことが得だったのかは、まだ分からない。

 

それでも、食べ物を渡したこと自体は間違っていなかったと思う。

 

俺は今度こそ、宿へ戻った。

 

 

宿の庭では、エリスとレイネがまだ長椅子へ並んで座っていた。

 

エリスは話に夢中だったらしく、俺が門を入るまで気づかなかった。

 

「それで、ルーデウスがまた変なことを言い始めたのよ」

 

「どのようなことでございますか?」

 

「私たちの名前を売るために、変なパーティ名を使おうって」

 

「変な名前ではありませんよ」

 

俺が声をかけると、エリスが振り返った。

 

「遅かったわね」

 

「少し、いろいろありまして」

 

「串焼き?」

 

「昼食です。人数分あります」

 

包みを見せると、エリスの目が輝いた。

 

だが、レイネは串焼きではなく、俺の顔を見た。

 

すぐに、赤い瞳が右目へ止まる。

 

「ルーデウス様。右目を見せてくださいませ」

 

見ただけで異常に気づいたらしい。

 

隠すつもりはなかった。

 

それでも、説明する前に分かったことへ驚く。

 

「見ただけで分かるんですか?」

 

「魔力の流れが、今朝までと異なっております」

 

レイネは立ち上がり、俺の前へ来た。

 

右目の上下へ指を添え、瞼や瞳の状態を確認する。

 

顔が近い。

 

昨夜ほどではないが、意識すると胸が落ち着かなくなる。

 

今は、それどころではない。

 

レイネの表情が真剣であるほど、俺の目に本当に異常があるのではないかと不安になった。

 

「痛みはございますか?」

 

「今はありません。ただ、時々景色が二重に見えます」

 

「どなたから、何をされたのでございますか?」

 

俺は路地で会った少女について説明した。

 

魔界大帝キシリカ・キシリスと名乗ったこと。

 

空腹で倒れていたため、串焼きを五本渡したこと。

 

褒美として右目へ魔眼を授けられたこと。

 

その後、昼食が足りなくなるため、屋台へ戻って買い直したこと。

 

話を聞き終えたレイネは、僅かに目を細めた。

 

怒っているようにも見えたが、俺が自分から魔眼を求めたわけではないと分かっているためか、責めることはなかった。

 

「魔界大帝キシリカ・キシリス様であれば、魔眼を授けることが可能だという伝承がございます」

 

「本物だったんですか?」

 

「今のお話だけでは断定できません。ですが、実際に魔眼が定着しておりますので、本人である可能性は高いと存じます」

 

レイネは右目へ流れる魔力を慎重に確かめる。

 

「未来視に近い性質でございますね」

 

「少し先の未来が見えるそうです」

 

「現時点では、身体を害するような異常はございません。ただし、使用方法を誤れば視界と身体の動きが一致せず、かえって危険になる可能性がございます」

 

身体を害する異常はない。

 

その言葉を聞き、ようやく肩の力が抜けた。

 

目そのものが壊れているわけではない。

 

「帰り道でも、人を避けようとして同じ方向へ動いてしまいました」

 

「まずは、魔眼へ流す魔力量を抑える必要がございます」

 

「完全に使わない方がいいですか?」

 

「完全に使わないのではなく、少しずつ慣らした方がよい」

 

後ろからルイジェルドの声がした。

 

厩舎から戻ってきたらしく、庭の入口に立っている。

 

宿の庭には俺たち以外の客はいない。

 

門の外にも人影がないことを確認し、俺は本名で呼んだ。

 

「ルイジェルドさん、使い方が分かるんですか?」

 

「魔眼は知らない。だが、見える物と身体の動きが合わないなら、実際に動きながら慣らすしかない」

 

もっともな意見だった。

 

「食事の後、俺が相手をする」

 

「お願いします」

 

レイネは俺の目から手を離した。

 

指が離れたことへ、ほんの僅かに名残惜しさを感じた自分へ驚く。

 

すぐに、その感情を頭の隅へ追いやった。

 

エリスが、不満そうにこちらを見ている。

 

「ルーデウスだけ、また面白そうなものを手に入れたわね」

 

「面白いかどうかは、まだ分かりませんよ」

 

むしろ、今のところは不便と不安の方が大きい。

 

「未来が見えるんでしょう?」

 

「今は、同じ人が二人に見えるだけです」

 

「私にも見せて」

 

「目を取り外すことはできません」

 

エリスは唇を尖らせた。

 

レイネがその肩へ手を置く。

 

「エリス様は、本日、私へお話を聞かせてくださるお約束でございましたね」

 

「そうだったわ」

 

エリスはすぐに機嫌を直した。

 

魔眼よりも、今日一日レイネと一緒にいることの方が重要らしい。

 

「でも、食事の後はルーデウスの訓練を見るわ」

 

「お話を続けながら見守りましょう」

 

「それならいいわ」

 

昼食は、買い直した分も含め、十三本の串焼きを四人で分けた。

 

エリスは三本を食べ、最後の一本へ目を向けた。

 

だが、すぐには手を伸ばさない。

 

「レイネ、三本食べた?」

 

「はい」

 

「ルイジェルドは?」

 

「ああ」

 

「ルーデウスも?」

 

「食べました」

 

全員が同じ数を食べたと確認してから、エリスは最後の一本を手に取った。

 

「なら、これは私のね」

 

誰も異論を挟まなかった。

 

自分が食べたいからこそ、ほかの者が足りているかを確認した。

 

小さなことではある。

 

それでも、以前のエリスなら、真っ先に手を伸ばしていたかもしれない。

 

食事の後、俺はルイジェルドと宿の庭で簡単な訓練を行った。

 

魔眼へ意識を向ける。

 

ルイジェルドが一歩踏み出す姿と、その直後にいるはずの位置が重なって見える。

 

最初は何が何だか分からない。

 

現在のルイジェルドと、少し先のルイジェルド。

 

どちらへ反応すればよいのか分からず、頭が混乱する。

 

未来のルイジェルドを追おうとすると、現在の動きへ対応できなくなる。

 

一度目は足を払われた。

 

二度目は肩を押され、姿勢を崩した。

 

三度目は避けようとした場所へ先回りされ、額を指で軽く弾かれた。

 

「未来が見えているのに、全然避けられません」

 

見えることと、動けることは別らしい。

 

未来が見えれば無敵になれるわけではない。

 

「未来だけを見ているからだ」

 

ルイジェルドが答える。

 

「今いる俺と、次に動く俺を同時に見ろ」

 

「難しいですね」

 

「最初から使える力などない」

 

その言葉に、少し気持ちが楽になった。

 

得たばかりの力を使いこなせないことは、恥ではない。

 

それでも、少しずつ意識する範囲を狭める。

 

長い未来を見るのではなく、ほんの一瞬先だけを見る。

 

右目へ流す魔力量を減らすと、未来の像が現在の姿に近づいてきた。

 

ルイジェルドが動き出す直前に、次の位置が僅かに重なる。

 

分かったからといって、身体が追いつくわけではない。

 

一度目の攻撃を避けても、次の動きが来る。

 

未来の像も、俺の行動によって変化する。

 

見えた未来に従って俺が動けば、その瞬間にルイジェルドも別の行動を取る。

 

未来は固定された答えではない。

 

「目だけへ頼るな」

 

ルイジェルドが言う。

 

「見えたものを信じすぎれば、変化へ対応できなくなる」

 

「はい」

 

「今まで見ていた現在も捨てるな」

 

人神が見せる未来にも、同じことが言えるのかもしれない。

 

その時は、まだそこまで深く考えていなかった。

 

何度目かの攻撃を避けたところで、レイネから休むよう声がかかった。

 

俺が訓練している間も、レイネはエリスの隣から離れていなかった。

 

長椅子に座り、エリスが話す旅の続きを聞いている。

 

時折こちらへ目を向けていたが、必要以上に口を出すことはしなかった。

 

心配しているのだろう。

 

だが、俺が自分で力を身につける機会を奪うつもりはないらしい。

 

今日は、約束どおりエリスの一日なのだ。

 

俺が水を飲んでいる間、エリスの話は初めて港町へ着いた時のことへ移っていた。

 

「海を見たのは初めてだったのよ。昨日のウェンポートとは別の町だけど、すごく広くて、どこまで続いているのか分からなかったわ」

 

「昨日も、港へ向かう途中で海をご覧になっておられましたね」

 

「昨日はレイネを捜す方が大事だったもの。海なんて、ほとんど見てなかったわ」

 

「そうでございましたか」

 

「だから、明日は一緒に見ましょう」

 

「はい。出航の準備をしながら、皆様と町を歩きましょう」

 

日が沈み始める頃まで、二人の話は続いた。

 

エリスは途中で何度も同じ話をし、順番を間違え、思い出すたびに別の出来事を付け加えた。

 

レイネは一度も急かさず、必要なところだけ尋ねながら聞いていた。

 

エリスにとって、この時間そのものが大切なのだろう。

 

自分がどれほど頑張り、どれほど成長したのか。

 

怖かったことも、楽しかったことも、すべてレイネへ知ってほしい。

 

ルイジェルドとの訓練を終えた俺も、途中から少し離れた場所へ座って聞いた。

 

今度は会話へ無理に入らない。

 

エリスが振り返った時だけ頷き、何かを尋ねられた時だけ答えた。

 

それでも、レイネがすぐ近くにいる場所で、三人の旅を思い返せることが嬉しかった。

 

夜になり、ようやく話を終えたエリスは満足そうに息を吐いた。

 

「これで、ほとんど全部よ」

 

「大変な旅をなさいましたね」

 

「でも、私は強くなったわ」

 

「はい。それは、お姿を拝見すればよく分かります」

 

エリスは嬉しそうに胸を張った。

 

その姿を見て、俺も嬉しくなった。

 

エリスがレイネに認めてもらいたかったように、俺も昨夜、同じことを尋ねた。

 

「明日も一緒にいていいわよ」

 

「明日は、皆様と出航の準備を進めなければなりません」

 

「なら、私も一緒に準備するわ」

 

「はい。四人で進めましょう」

 

四人で。

 

その言葉を聞くたびに、胸の奥が少し温かくなる。

 

 

翌朝。

 

俺たちは冒険者ギルドで海を渡るための手続きについて尋ねた後、港にある船会社の窓口へ向かった。

 

人族三人と、魔族一人。

 

正確にはスペルド族一人。

 

外ではルイジェルドをルードという名の魔族として通している。

 

だが、乗船時には種族を確認される。

 

偽ったまま船へ乗れば、途中で正体が発覚した際に余計な問題となる可能性がある。

 

正直に言えば、乗せてもらえない可能性もある。

 

だからといって、嘘をつく方が危険だ。

 

窓口にいた男は、俺たちの人数を確認した後、ルイジェルドへ目を向けた。

 

「そちらの種族は?」

 

男が尋ねる。

 

俺はルイジェルドを見る。

 

ルイジェルドが僅かに頷いた。

 

その仕草を見て、俺は覚悟を決める。

 

「スペルド族です」

 

男の表情が変わった。

 

驚き。

 

警戒。

 

その後に、相手が簡単には断れない立場だと察したような、嫌な色が浮かぶ。

 

何かを要求される。

 

そう感じた。

 

「スペルド族なら、緑鉱銭二百枚だ」

 

「二百枚?」

 

俺は聞き返した。

 

人族や一般的な魔族の運賃とは、比べものにならない金額だ。

 

頭の中で、今ある旅費を計算する。

 

払えない。

 

仮に全員分の資金を使っても足りない。

 

「どうして、そこまで高いのよ!」

 

エリスが窓口へ身を乗り出しかける。

 

俺も同じことを言いたかった。

 

種族だけを理由に、払えるはずのない金額を示す。

 

実質的に乗せないと言っているのと同じだ。

 

腹の奥へ怒りが湧いた。

 

レイネが片手で制した。

 

「エリス様。私にお任せくださいませ」

 

レイネは穏やかな表情のまま、窓口の男へ尋ねる。

 

「その金額は、港が定めた入港税でございますか。それとも、こちらの船会社が求める危険料でございますか」

 

男が僅かに黙った。

 

俺は、レイネの横顔を見る。

 

怒鳴るのではなく、まず何の金なのかを確認する。

 

俺とエリスだけなら、金額を下げろと感情的に抗議していたかもしれない。

 

「スペルド族を船へ乗せるなら、それぐらいは必要だ」

 

「質問へのお答えになっておりません」

 

レイネの声は変わらない。

 

怒鳴ってはいない。

 

睨みつけてもいない。

 

それでも、男は先ほどまでの投げやりな態度を僅かに引っ込めた。

 

「港へ支払う費用と、船主が求める費用の内訳をお見せくださいませ」

 

「そんなものを見せる義務はない」

 

「では、正規の料金ではなく、こちらの種族を見て、その場で提示した金額であると理解してよろしいでしょうか」

 

「危険な種族を乗せるんだ。何か起きたら、船が沈むかもしれない」

 

腹が立った。

 

ルイジェルドは、船を沈めるような人ではない。

 

俺たちを長い間守り、見知らぬ子供のためにも命を懸ける人だ。

 

それを何も知らず、種族だけで危険だと決めつけている。

 

だが、怒鳴っても相手の警戒を強めるだけだ。

 

「危険を懸念しておられることは理解しております」

 

レイネは腰から冒険者札を取り出した。

 

受付台へ置く。

 

Sランクを示す札を見た瞬間、男の顔が強張った。

 

「私は、こちらのルード様と同じ船へ乗ります」

 

レイネは続けた。

 

「ルード様の身元と、乗船中の行動を私が保証いたします。ルード様が故意に船や乗客へ損害を与えた場合には、私が責任を負い、正当な損害については補償いたします」

 

男は冒険者札と、レイネの顔を交互に見た。

 

俺も驚いてレイネを見る。

 

そこまで責任を背負うつもりなのか。

 

ルイジェルドが故意に船へ損害を与えるとは思わない。

 

それでも、保証すると口にすることは重い。

 

「Sランクだからといって、スペルド族が安全になるわけではない」

 

「そのとおりでございます。私のランクだけで、ルード様の種族が変わるわけではございません」

 

レイネは否定しなかった。

 

感情で反論せず、相手の不安自体は認めている。

 

「ですから、種族ではなく、ご本人について保証すると申し上げております」

 

「そいつが暴れたら、あんたに止められるのか?」

 

「止めます」

 

短い返事だった。

 

そこに迷いはない。

 

その言葉を聞いた瞬間、昨夜の話が頭をよぎる。

 

レイネが本当はどれほど強いのか、俺は知らない。

 

だが、レイネは自分にできないことを、できるとは言わない。

 

ルイジェルドが僅かに眉を動かしたが、口は挟まなかった。

 

「私が申し上げているのは、同行するSランク冒険者として、個人の身元を引き受けるということでございます」

 

「俺だけじゃ決められん」

 

「では、決定できる方をお呼びくださいませ」

 

男はしばらく迷った後、奥へ引っ込んだ。

 

待っている間、エリスが小声で尋ねる。

 

「本当に、レイネが責任を負うの?」

 

「はい」

 

「でも、ルイジェルドが暴れるわけないわ」

 

私的な会話ではないため、エリスはすぐに口元を押さえた。

 

周囲に聞こえた様子はない。

 

俺も僅かに緊張した。

 

本名が聞かれていれば、話がさらに面倒になる。

 

レイネも名前の間違いを指摘せず、小さな声で答える。

 

「私も、そのような事態が起きるとは考えておりません。だからこそ、保証できるのでございます」

 

レイネは、危険を承知で無理な賭けをしているのではない。

 

ルイジェルドを信用しているから、自分の名と信用を差し出している。

 

しばらくして、窓口の男が二人の人物を連れて戻ってきた。

 

一人は港の事務を任されている責任者らしい男。

 

もう一人は、明日ザントポートへ出る船の船主だった。

 

船主は太い腕を組み、最初からルイジェルドへ厳しい目を向けている。

 

「スペルド族を、通常の運賃で乗せろと言っているそうだな」

 

「はい」

 

レイネが答える。

 

「私が同じ船へ乗り、身元を引き受けます」

 

「口だけなら、何とでも言える」

 

「ギルドを通じて、私の所属と身分を確認していただいて構いません。必要であれば、署名した保証書も提出いたします」

 

「そんな書類に決まった形はないぞ」

 

「承知しております。ですので、これは制度の利用ではなく、私個人と船主様との約束でございます」

 

レイネは、最初から正式な制度があるとは言っていない。

 

Sランクである自分の名と信用を差し出し、相手へ判断を求めているのだ。

 

その信用は、レイネが俺たちと離れていた間に積み重ねたものだ。

 

俺たちを捜し、人を助けながら得た名前を、今はルイジェルドのために使っている。

 

「船内でルード様が故意に損害を与えた場合、私が損害を補償いたします。乗船中は、私が常に同じ一行として行動いたします」

 

「そいつが、あんたより強かったらどうする」

 

「その場合でも、乗客と船員を守ります」

 

レイネの答えは変わらなかった。

 

俺は僅かに息を呑んだ。

 

レイネは、ルイジェルドより自分が強いとは言わなかった。

 

それでも、乗客を守ると約束した。

 

船主がレイネを見つめる。

 

次にルイジェルド。

 

俺とエリス。

 

最後に、港の責任者へ顔を向けた。

 

責任者が口を開く。

 

「昨日の座礁船では、この冒険者が最後まで船内に入り、取り残された者を全員運び出した。逃げようと思えば、船が割れる前に一人で逃げられたはずだが、そうしなかった」

 

昨日の救助が、ここでレイネの信用になっている。

 

「救助の功績で、規則を曲げるのか?」

 

「元から、スペルド族の一律料金を定めた港の規則などない」

 

責任者が淡々と答えた。

 

「乗せる船がなく、船主が危険料として高額を求める慣習があるだけだ。最終的に乗せるか、いくらで乗せるかは船主が決める」

 

つまり、先ほどの緑鉱銭二百枚は、法律で必ず支払わなければならない金額ではない。

 

スペルド族だというだけで、乗せる側が要求してきた金額だ。

 

やはり、払えないことを承知で提示されたのだろう。

 

怒りは消えなかった。

 

だが、レイネが最初に内訳を尋ねた理由は分かった。

 

正規の費用でなければ、交渉の余地がある。

 

船主は不機嫌そうに鼻を鳴らした。

 

「何かあれば、本当に責任を取るんだな」

 

「はい」

 

「逃げるなよ」

 

「逃げるつもりはございません」

 

「分かった」

 

船主はルイジェルドを指した。

 

「そいつを、あんたの同行者として乗せる。船内で勝手な行動はさせるな。乗客へ正体も明かすな。運賃は、ほかの魔族と同額でいい」

 

エリスの顔が明るくなる。

 

俺も息を吐いた。

 

気づかないうちに、呼吸を浅くしていたらしい。

 

四人で渡れる。

 

ルイジェルドを置いていかずに済む。

 

「ありがとうございます」

 

レイネは深く頭を下げた。

 

俺たちも続けて礼をする。

 

船主は最後までルイジェルドを警戒していたが、約束を取り消すことはなかった。

 

レイネは、その場で新しく用意された紙へ署名した。

 

正式な制度ではない。

 

船主との個人的な保証だ。

 

内容には、ルイジェルドが故意に船へ損害を与えた場合、保証人であるレイネが補償について協議すること。

 

レイネが同じ船へ乗り、航海中は同じ一行として行動すること。

 

船内でルイジェルドの種族を、必要なく他の乗客へ明かさないこと。

 

それらが簡潔に記されていた。

 

レイネの名前が書かれていくのを見ながら、胸の中へ申し訳なさが生まれた。

 

俺たちと旅をしてきたルイジェルドのために、レイネが責任を負う。

 

だが、レイネは頼まれて仕方なく署名しているようには見えなかった。

 

俺は四人分の通常運賃を、これまで旅の中で稼いだ金から支払った。

 

レイネが代わりに出そうとはしなかった。

 

高額な宿はレイネが用意した。

 

だが、旅を続けるための運賃は、俺たち自身の金から払わせるらしい。

 

窓口を離れ、港から少し離れたところまで来てから、俺は尋ねた。

 

「通常の運賃は、僕たちに払わせるんですね」

 

「はい」

 

レイネが答える。

 

「皆様が旅を続けるために必要な費用でございます。ご自身で稼いだお金を何に使い、どれだけ残すかを考えることも、大切な経験だと考えております」

 

「では、二百枚も、僕たちが稼ぐべきだったとは思いませんか?」

 

「思いません」

 

迷いのない返事だった。

 

「正当な費用を稼ぐことと、相手の弱い立場につけ込んだ要求へ従うことは異なります」

 

レイネは、先ほどの窓口がある建物へ一度だけ目を向けた。

 

「船主様がルード様を警戒し、何らかの保証を求めること自体は理解できます。ですが、支払えるはずがない金額を示し、諦めさせることまで、皆様の経験として受け入れる必要はございません」

 

胸へ落ちる言葉だった。

 

苦労すれば成長できる。

 

自分の金で払うべきだ。

 

その考えだけなら、二百枚を稼ぐことにも意味があると言えるかもしれない。

 

だが、理不尽を受け入れることと、自立することは違う。

 

「僕たちに、何か月もかけて稼がせるつもりはなかったんですね」

 

「はい。通常の運賃であれば、皆様ご自身でお支払いいただきます。ですが、今回のような要求に対して、私が使える信用を使わず、ただ皆様へ苦労を強いることに意味はございません」

 

レイネらしいと思った。

 

何でも代わりに払って、俺たちから経験を奪うつもりはない。

 

だが、理不尽な要求まで、成長のためだと押しつけることもしない。

 

助ける場所と、任せる場所を分けている。

 

「ありがとうございます」

 

「お礼をいただくようなことではございません」

 

「でも、レイネが保証してくれなければ、通常の運賃では乗せてもらえなかったでしょう」

 

「四人で海を渡るために、私ができることをしただけでございます」

 

四人で。

 

その言葉が嬉しかった。

 

レイネは、自分と俺たち三人を別々に考えていない。

 

すでに同じ一行として行動している。

 

ルイジェルドが足を止めた。

 

公の通りではあるが、近くを歩く者はいない。

 

それでも、ルイジェルドは小さな声で言った。

 

「俺のために、お前が責任を負う必要はない」

 

ルイジェルドらしい。

 

自分のことで誰かが負担を背負うことを、当然とは思えないのだろう。

 

「必要があるかどうかではございません」

 

レイネは同じように声を落とす。

 

「私は、ルイジェルド様を無理に船へ乗せるため、事実と異なる保証をしたわけではございません」

 

「俺を信用しているのか」

 

「はい」

 

レイネは即答した。

 

その返事に、俺まで胸が温かくなった。

 

「お二人が信頼しているから、という理由だけではございません。昨日のお姿と、お話を伺い、私自身が保証できると判断いたしました」

 

レイネ自身が、ルイジェルドを見て判断した。

 

俺たちが信じているから、仕方なく合わせただけではない。

 

ルイジェルドはレイネを見つめた。

 

やがて、僅かに目を伏せる。

 

「そうか」

 

「はい」

 

「恩に着る」

 

レイネは少しだけ驚いたように目を見開いた。

 

その後、穏やかに微笑む。

 

「四人目の仲間として、当然のことをしただけでございます」

 

二人が、互いを仲間として認め始めている。

 

そのことに安堵した。

 

レイネがルイジェルドを知っていた理由は、まだ分からない。

 

それでも、今の二人の関係は、隠された過去ではなく、これからの行動によって作られていくのだと思えた。

 

 

出航は翌朝に決まった。

 

残された一日は、準備とウェンポートの観光を兼ねて過ごすことになった。

 

最初に、冒険者ギルドへ向かう。

 

俺たちが無事にウェンポートへ到着したこと。

 

レイネと合流したこと。

 

翌朝、ザントポート行きの船へ乗ること。

 

それらを記した伝言を、これまで立ち寄った町や、フィットア領の関係者へ届く可能性がある経路へ残す。

 

レイネと合流した。

 

その言葉を書く時、改めて実感が湧いた。

 

どこで誰が読むかは分からない。

 

それでも、記録を残しておけば、家族や知り合いが俺たちの足取りを追える可能性がある。

 

次に、二頭の騎乗用魔物について相談した。

 

船へ乗せることもできるが、専用の費用が必要になるうえ、慣れない船旅は二頭にとっても負担が大きい。

 

俺たちは冒険者ギルドへ預け、信頼できる冒険者か商人へ引き取ってもらうことにした。

 

正しい判断だと思う。

 

海を渡った先へ連れていくより、この町で新しい持ち主を見つける方が、二頭にとってもよいだろう。

 

それでも、簡単に割り切れるものではなかった。

 

エリスは、自分が乗ってきた魔物の首へ抱きついた。

 

「ここまで連れてきてくれて、ありがとう」

 

魔物はエリスの肩へ鼻先を押しつける。

 

意味を理解しているのかは分からない。

 

だが、別れが近いことは感じ取っているようだった。

 

俺も、自分の魔物の背を撫でた。

 

魔大陸を南下する間、何度も助けてもらった。

 

この二頭がいなければ、ウェンポートへ到着するまで、さらに長い時間が必要だっただろう。

 

危険な場所を走り、重い荷物を運び、何も言わず俺たちへついてきてくれた。

 

「元気で」

 

言葉が通じるかは分からない。

 

それでも、伝えずにはいられなかった。

 

二頭をギルドへ預け、引き取り先が決まった後も大切に扱うことを条件としてもらう。

 

エリスは何度も振り返ったが、最後には自分から厩舎を離れた。

 

寂しそうだった。

 

俺も同じだった。

 

それでも、帰るためには別れなければならないこともある。

 

その後は、四人で町を歩いた。

 

港を一望できる高台。

 

巨大な帆船が並ぶ埠頭。

 

魔大陸の各地から運び込まれた品物を扱う市場。

 

昨日、エリスは一日中レイネと過ごした。

 

今日は四人で歩いている。

 

エリスもそれを理解しているらしく、レイネの腕へ抱きついてはいるものの、俺が話しかけても怒らなかった。

 

そのことへ少し安心した自分がいた。

 

市場では、航海中に必要となる物を買う。

 

乾燥肉。

 

硬く焼いたパン。

 

水分の少ない果物。

 

酔い止めに使われるという苦い葉。

 

予備の水袋。

 

荷物を雨や海水から守るための布。

 

レイネが必要な量を計算し、俺が支払いを行う。

 

すべてをレイネへ任せるのではなく、俺も値段を確認した。

 

「この乾燥肉は、あちらの店より高いですね」

 

「こちらは塩を多く使用しておりますので、保存期間が長いのでございます」

 

「船旅だけなら、安い方でも足りますか?」

 

「はい。ただし、ザントポートへ到着した後、すぐに補充できない可能性を考えるのであれば、半分はこちらを購入した方が安全でございます」

 

「では、両方を半分ずつにしましょう」

 

レイネが頷く。

 

「よろしい判断かと存じます」

 

褒められると嬉しかった。

 

すべて答えを教えられたのではない。

 

説明を聞き、自分で考えて決めたことを認めてもらえたからだ。

 

一つずつ、自分で考えて買う。

 

通常の運賃を自分たちで払うことと同じだ。

 

レイネは必要なことを教えてくれる。

 

だが、俺の代わりにすべてを選び、決めようとはしない。

 

エリスは珍しい果物を見つけるたびに足を止めた。

 

「レイネ、これは何?」

 

「魔大陸南部で採れる果物でございます。甘みはございますが、少々酸味が強いと伺っております」

 

「食べてみたいわ」

 

「航海用とは別に、一つ購入いたしましょうか」

 

「二つがいいわ」

 

「一つを四人で分ければ、味を確かめるには十分でございます」

 

「でも、気に入ったら足りないじゃない」

 

「気に入りましたら、その時にもう一つ購入いたしましょう」

 

エリスは少し考えた後、頷いた。

 

果物を一つ購入し、店の者に切り分けてもらう。

 

四人で食べてみると、強い酸味の後から甘さが広がった。

 

エリスは顔をしかめた。

 

「酸っぱいわ」

 

「もう一つ購入いたしますか?」

 

レイネが尋ねる。

 

「いらない」

 

即答だった。

 

二つ買わなくてよかった。

 

ルイジェルドは武器や防具を扱う店を確認していた。

 

槍の刃には問題がない。

 

予備の布や手入れ用の油だけを購入する。

 

俺は昨日得た魔眼を、できるだけ使わないよう意識していた。

 

それでも、人の多い市場では、時折勝手に未来の像が重なって見える。

 

荷物を抱えた男が俺の前へ出てくる。

 

その直後の姿が先に見え、避けようとして、逆に別の人へぶつかりそうになる。

 

視界が揺れるたび、少し怖くなる。

 

このまま元へ戻らなかったらどうしよう。

 

一生、人が二重に見えるのではないか。

 

レイネが俺の肩へ手を置いた。

 

「無理に先を見ようとなさらないでくださいませ」

 

触れられただけで、僅かに落ち着いた。

 

「使っているつもりはないんですが、時々見えてしまうんです」

 

「まだ、魔力の流れを完全に抑えられていないのでございましょう。人の少ない場所で、少しずつ調整いたしましょう」

 

「はい」

 

レイネは魔眼そのものを封じようとはしなかった。

 

俺が自分で扱えるようになることを前提に、危険な時だけ手を貸すつもりらしい。

 

その態度がありがたかった。

 

昼には港近くの食堂へ入った。

 

魚と香草を煮込んだ料理が出され、エリスは最初こそ匂いを警戒していたが、一口食べると気に入ったらしい。

 

「昨日の串焼きより、こっちの方が好きかもしれないわ」

 

「昨日は三本以上食べていましたよね」

 

「串焼きも好きよ。こっちは別なの」

 

「なるほど」

 

ルイジェルドも静かに食べている。

 

レイネは昨日の約束を忘れず、俺たちと同じ料理を注文していた。

 

自分だけ食事を減らしていないことを確認し、安心する。

 

食事の後は、町の外れにある小さな灯台まで歩いた。

 

高台からは海が広く見える。

 

明日、俺たちはあの海を渡る。

 

海の向こうには、ミリス大陸がある。

 

故郷へ近づく。

 

その一方で、船へ乗れば、もう簡単に魔大陸へは戻れない。

 

家族の居場所は、まだ分からない。

 

それでも、ここへ留まっていても見つからない。

 

進みながら伝言を残し、情報を集めるしかない。

 

「四人で渡れるのね」

 

エリスが呟いた。

 

「はい」

 

俺が答える。

 

「誰も置いていきません」

 

その言葉を口にできたことが嬉しかった。

 

誰かを残す必要はない。

 

全員で次の大陸へ進める。

 

周囲に人がいないことを確認してから、ルイジェルドが俺たちを見た。

 

「俺のことで、手間をかけた」

 

「手間なんて言わないで」

 

エリスがすぐに答えた。

 

「同じ船に乗るために、少し話をしただけじゃない」

 

「二百枚を稼ぐことになっていたかもしれない」

 

「でも、稼がなくてよくなったでしょう?」

 

「それはレイネのおかげだ」

 

「なら、レイネにありがとうって言えばいいのよ。私たちへ謝る必要はないわ」

 

ルイジェルドが僅かに目を見開いた。

 

俺も少し驚いた。

 

以前のエリスなら、もっと勢いだけで怒っていたかもしれない。

 

今は、何を伝えたいのかを考え、自分なりの言葉で話している。

 

「既に礼は言った」

 

「なら、それで終わりよ」

 

エリスは当然のように答えた。

 

俺も頷く。

 

「僕たちは最初から、ルイジェルドさんを置いていくつもりはありませんでした。方法を探すのは当然です」

 

「俺を仲間だと言ったことを、行動で示してくれた」

 

「ルイジェルドさんも、ずっとそうしてくれたでしょう」

 

魔大陸で、俺たちを置いていかなかった。

 

危険な時には守り、間違えた時には叱り、必要な時には待ってくれた。

 

俺たちも、同じことをしただけだ。

 

仲間だから助ける。

 

それを特別な恩として数える必要はない。

 

レイネが静かに微笑む。

 

「これからも、四人で進みましょう」

 

海から吹く風が、レイネの白い髪を揺らした。

 

俺はその横顔を見た。

 

一昨日まで、レイネがどこにいるのか分からなかった。

 

今は同じ景色を見ている。

 

明日の朝も、同じ船へ乗る。

 

それだけで、胸の奥が温かくなった。

 

 

夜。

 

出発の準備をすべて終え、俺たちは早めに休むことになった。

 

今夜の部屋割りは、エリスとレイネ。

 

俺とルイジェルド。

 

昨日からエリスが主張していたとおりになった。

 

「今日は私と一緒よ」

 

「はい。お約束どおりでございます」

 

「夜中に仕事をしたら駄目だからね」

 

「承知しております」

 

「私が寝た後もよ」

 

「はい」

 

「朝起きた時も、ちゃんといるのよ」

 

「どこへも参りません」

 

エリスは満足そうにレイネを隣の部屋へ連れていった。

 

レイネが扉の向こうへ消えるのを見て、僅かに名残惜しく感じる。

 

昨日、一晩同じ部屋で過ごしただけだ。

 

それでも、すぐ近くにレイネがいる状態を、もう当然のように求め始めている自分へ戸惑った。

 

今日はエリスの番だ。

 

俺はルイジェルドと同じ部屋へ入る。

 

明朝は早い。

 

荷物を枕元へまとめ、船へ持ち込む物と預ける物をもう一度確認する。

 

「水袋は?」

 

ルイジェルドが尋ねる。

 

「こちらです。二つは僕が持ち、残りはレイネとエリスへ分けています」

 

「食料は?」

 

「濡れないよう、布を二重に巻いてあります」

 

「武器は、すぐ取れる場所へ置け」

 

「はい」

 

準備を終え、ルイジェルドは先に横になった。

 

俺も寝台へ入る。

 

明日乗る船。

 

まだ使い慣れない魔眼。

 

見つかっていない家族。

 

レイネがルイジェルドを知っていた理由。

 

考えることは多かった。

 

不安もあった。

 

だが、今は一人ではない。

 

壁の向こうには、エリスとレイネがいる。

 

同じ部屋には、ルイジェルドがいる。

 

疲れていたため、意識はすぐに沈んでいった。

 

次に目を開いた時、俺は何もない白い空間へ立っていた。

 

見覚えのある場所だった。

 

床も壁も空もない。

 

どこまでも白い。

 

目の前には、白くぼやけた人影がいる。

 

そいつは、以前と変わらない、好きになれない笑顔を浮かべていた。

 

胸の奥へ警戒心が湧く。

 

以前は、ここへ呼ばれれば戸惑うことしかできなかった。

 

今は違う。

 

少なくとも、何も考えずに相手の言葉へ従うつもりはなかった。

 

「やあ。久しぶりだね」

 

人神だった。

 

「今回は、何の用ですか?」

 

俺は最初から警戒して尋ねた。

 

人神は肩をすくめる。

 

「随分と冷たいじゃないか。君が海を渡れずに困ると思っていたから、助言をしようとしていたんだよ」

 

「もう船へ乗れることになりました」

 

「そうみたいだね」

 

人神の笑顔が、僅かに歪んだ。

 

何かが予定と違った。

 

そう感じているように見えた。

 

「本当なら、君は緑鉱銭二百枚なんていう馬鹿げた金額を提示されて、どうしようかと悩んでいるはずだった」

 

やはり、俺たちが渡航費を提示されたことは知っている。

 

だが、解決した方法までは、はっきりと見えていないらしい。

 

「それも解決しました」

 

「らしいね。見えた時には、もう四人分の乗船が決まっていた」

 

人神は顎へ手を当てた。

 

「しかも、その目だ」

 

右目を指される。

 

「もうキシリカに会ったのかい?」

 

「町を歩いていたら、偶然会いました」

 

「偶然、ねえ」

 

人神は、いつものようにすべてを分かっている顔をしなかった。

 

むしろ、本当に予想外だったように見える。

 

そのことへ、僅かな優越感を覚えた。

 

同時に、人神にも見えないことがあるのだと分かり、少し安心した。

 

「本当は、君を呼んでから、食べ物を持って路地裏へ行けと助言するつもりだったんだ」

 

「では、キシリカと会うこと自体は人神の予定だったんですか?」

 

「そうだよ。君には魔眼が必要になるからね」

 

「僕が勝手に先へ行ってしまった」

 

「そういうことだ」

 

人神は笑っている。

 

だが、どこか楽しそうではなかった。

 

俺が助言なしに同じ結果へ辿り着いたことが、気に入らないのかもしれない。

 

「最近、君の周りが見えにくいんだ」

 

「見えにくい?」

 

「以前なら、君がどこへ行き、誰と会い、何を選ぶのか、もう少しはっきり見えた」

 

白い人影が、俺の周囲を歩く。

 

「今は、君の未来の近くに霧がかかっている。何も見えなくなる時間が増えた。次に見えた時には、僕の知らない結果だけが残っている」

 

キシリカと会ったこと。

 

ルイジェルドの渡航費が解決したこと。

 

そのどちらも、人神は事前に完全には把握できなかったらしい。

 

「何が原因なんですか?」

 

「それが分かれば、僕も困っていないよ」

 

人神は両手を広げた。

 

「君のすぐ近くに、僕から見えない空白がある」

 

胸の奥が僅かにざわついた。

 

真っ先に浮かんだのは、レイネだった。

 

人神から見えない。

 

昨夜、お守りの話を聞いたばかりだ。

 

蘇生の術式。

 

隠された実力。

 

ルイジェルドを知っていた理由。

 

それらと関係があるのかもしれない。

 

レイネが俺のそばに来た途端、人神の未来が見えにくくなった。

 

偶然とは思いにくい。

 

だが、人神へレイネの名前を伝えるつもりはなかった。

 

理由を説明できるわけではない。

 

それでも、レイネのことを人神へ教えるのは危険だと感じた。

 

「人ですか?」

 

「さあね。人かもしれない。物かもしれない。君自身に起きた変化かもしれない」

 

人神は、こちらの反応を確かめるように顔を近づけた。

 

「心当たりはないのかい?」

 

「分かりません」

 

俺は答えた。

 

完全な嘘ではない。

 

レイネが人神の視界を妨げているという証拠はない。

 

そもそも、レイネが人神の存在を知っているかどうかさえ分からない。

 

そう思った瞬間、昨夜知ったレイネの秘密が、さらに深いものへ感じられた。

 

「そうかい」

 

人神は、あっさりと顔を離した。

 

「まあ、僕から見えないということが、君にとって安全だという意味ではないからね」

 

「人神から見えない方が、安全な可能性もありますよ」

 

俺が言うと、人神の笑顔が一瞬だけ消えた。

 

本当に一瞬だった。

 

それでも、言葉が効いたのだと分かった。

 

すぐに、いつもの表情へ戻る。

 

「随分と言うようになったね」

 

「いろいろありましたから」

 

俺一人でここまで来たわけではない。

 

エリスやルイジェルドと考え、失敗し、助け合ってきた。

 

言われたことを、そのまま信じる必要はないと学んだ。

 

「そうみたいだ」

 

人神は少し黙った。

 

そのまま消えるのかと思ったが、再びこちらへ指を向ける。

 

「せっかく呼んだんだ。予定していた助言が役に立たなくなった代わりに、別の助言を一つしてあげよう」

 

「何ですか?」

 

警戒は解かない。

 

人神の助言が、すべて嘘だとは限らない。

 

実際、キシリカへ会うことを勧めようとしていたらしい。

 

だが、正しい情報へ別の意図を混ぜている可能性はある。

 

「ザントポートへ着いた後の話だ」

 

人神の声から、先ほどまでの軽さが少し消える。

 

「港の東側に、古い倉庫が並んでいる。そこで獣族の子供の声を聞くことになる」

 

「獣族の子供?」

 

「そう。助けを求めている」

 

子供が助けを求めている。

 

無視できる言葉ではなかった。

 

ルイジェルドなら、聞いた瞬間に動くだろう。

 

エリスも、放っておかない。

 

「誘拐ですか?」

 

「そこまでは、今の僕にもはっきり見えない」

 

人神は不満そうに言った。

 

「霧のせいでね。倉庫の中へ入った君と、何人かの子供。それから、血の匂いがする場面だけが見える」

 

嫌な話だった。

 

子供。

 

倉庫。

 

血。

 

よい出来事とは思えない。

 

「どうすればいいんですか?」

 

「声を聞いたら、一人で倉庫へ入るんだ」

 

「一人で?」

 

その瞬間、警戒が強くなった。

 

「そう。一人で動いた方が、未来が余計に変わらない」

 

怪しい。

 

一人で行け。

 

仲間へ知らせず、危険な場所へ入れ。

 

以前なら、その理由を必死に考え、最善の動き方を一人で決めようとしていたかもしれない。

 

人神だけが未来を知っている。

 

だから、言われたとおりにする方がよいのだと思ったかもしれない。

 

今は違う。

 

魔眼で見える未来すら、俺が動けば変わる。

 

人神の見ている未来も、絶対ではない。

 

「その部分は約束できません」

 

「どうして?」

 

「助けを求める子供がいるなら、確認はします。ですが、仲間へ何も言わず、一人で危険な倉庫へ入るつもりはありません」

 

人神の笑顔が僅かに引きつる。

 

拒まれるとは思っていなかったのかもしれない。

 

「僕の助言を信じないのかい?」

 

「何も考えずに信じるつもりはありません」

 

「以前より、面倒になったね」

 

「成長したと言ってください」

 

言い返した後、少しだけ胸がすっとした。

 

昨夜、レイネにも成長したと認めてもらった。

 

人神の言う面倒な人間になったことが、悪いとは思わない。

 

人神はしばらく俺を見た。

 

「君が仲間を連れていけば、未来は変わるよ」

 

「未来は、僕が動けば変わるんでしょう?」

 

魔眼で見える僅かな未来も、俺が動けば変化する。

 

避けた瞬間に、相手の行動も変わる。

 

人神が見ている未来も、同じなのかもしれない。

 

「子供を助けるべきだという部分は覚えておきます。ですが、どう助けるかは、その場で考えます」

 

一人で決める必要もない。

 

状況を見て、仲間と相談すればいい。

 

「君がそうしたいなら、好きにすればいい」

 

人神の姿が、白い空間へ溶け始める。

 

「ただし、倉庫の中で見たものを、すぐに善悪だけで決めつけない方がいい。見えている相手だけが、事件のすべてとは限らないからね」

 

「それが、二つ目の助言ですか?」

 

「無料サービスさ」

 

「人神が無料で何かをくれると、余計に不安になります」

 

「ひどいなあ」

 

人神の笑い声が遠ざかっていく。

 

「まあ、頑張っておいで。僕から見えない未来で、君が何をするのか楽しみにしているよ」

 

その言い方が気に入らなかった。

 

俺たちの行動を、遠くから眺めて楽しむ。

 

まるで、誰かの人生を遊びとして見ているようだった。

 

白い空間が崩れる。

 

意識が急速に浮上した。

 

目を開く。

 

暗い部屋。

 

窓の外は、まだ夜明け前だった。

 

隣の寝台では、ルイジェルドが静かに眠っている。

 

壁の向こうには、エリスとレイネがいる。

 

そのことを思い出し、少し安心する。

 

人神から見えない空白。

 

レイネの顔が浮かんだ。

 

蘇生の術式を作り、俺の知らない過去を持ち、ルイジェルドの本名まで知っていた少女。

 

それでも、不安より先に浮かんだのは、人神に見られていないのであれば、その方がいいのではないかという考えだった。

 

レイネへ秘密があることは分かっている。

 

だが、人神にすべてを見られているよりは、見えない場所がある方が安心できた。

 

人神の言葉を、そのまま信じるつもりはない。

 

獣族の子供。

 

港の東側にある倉庫。

 

血の匂い。

 

すべてを無視するつもりもない。

 

本当に助けを求める声が聞こえれば、見捨てることはできない。

 

だが、一人で行けという部分まで従う必要はない。

 

実際に声を聞いた時、状況を確認する。

 

危険だと判断したなら、エリスとルイジェルドとレイネへ伝える。

 

一人で、すべてを背負う必要はない。

 

そう考えるだけで、以前よりも心が落ち着いた。

 

俺は再び目を閉じた。

 

壁の向こうに、レイネがいることを確かめるように、微かな物音へ耳を澄ませながら。

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