白髪の侍女   作:MトK

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第三十三話 白い夢の残滓

ルーデウス視点

 

夜明けを知らせる鐘が鳴るよりも早く、俺は目を覚ました。

 

窓の外はまだ暗い。

 

青みを帯び始めた空の下で、港の方角から荷車の音が聞こえている。出航を控えた船へ、朝のうちに積み荷を運び込んでいるのだろう。

 

隣の寝台では、ルイジェルドが既に起きていた。

 

青く染めた髪を布で隠し、荷物の紐を確かめている。

 

「起きたか」

 

「はい。おはようございます」

 

「もうすぐ出る」

 

「分かりました」

 

俺も寝台から降り、昨夜まとめておいた荷物を確認した。

 

水袋。

 

乾燥肉。

 

硬く焼いたパン。

 

着替え。

 

傲慢なる水竜王。

 

すぐに取り出す物と、船室へ置いておく物を分ける。

 

いつもなら、出発前の確認へ意識を集中させるところだ。

 

だが、今朝は荷物を一つ手に取るたび、昨夜見た白い空間が頭へ浮かんだ。

 

人神から聞いた言葉は、目を覚ました今も鮮明に残っていた。

 

ザントポート東側に並ぶ古い倉庫。

 

助けを求める獣族の子供。

 

血の匂い。

 

一人で倉庫へ入れという指示。

 

胸の奥へ、嫌な重さが残っていた。

 

夢だったと切り捨てるには、人神の言葉は具体的すぎる。

 

だが、言われたとおりに一人で向かうことにも、強い抵抗があった。

 

魔眼で見える未来さえ、俺が動けば変化する。

 

人神が見たという未来も、絶対ではないはずだ。

 

俺は荷物の紐を締め直した。

 

一人では行かない。

 

だが、本当に子供が囚われている可能性があるなら、無視することもできない。

 

何も起きていなければ、それでいい。

 

余計な警戒をしたと笑えば済む。

 

だが、本当に助けを求めている子供がいて、俺が人神を信用できないという理由だけで見捨てれば、きっと後悔する。

 

まず、仲間へ話す。

 

それから現地で状況を確認し、どう動くかを決める。

 

以前の俺なら、未来を知っている自分が一人で何とかしなければならないと考えたかもしれない。

 

だが、今はエリスとルイジェルドとレイネがいる。

 

一人で背負う必要はない。

 

考えをまとめ、ルイジェルドとともに部屋を出た。

 

隣の扉が開く。

 

既に旅装へ着替えたレイネが、エリスの荷物を持って出てきた。

 

エリスはまだ眠そうだったが、レイネが隣にいることを確かめるように、服の袖を握っている。

 

昨夜、朝になってもいると何度も約束させていた。

 

それでも、目を覚ました直後には、やはり自分の目で確かめずにはいられなかったのだろう。

 

俺にも、その気持ちはよく分かった。

 

「おはよう、ルーデウス」

 

「おはようございます」

 

「ルイジェルドも、おはよう」

 

「ああ」

 

この廊下には俺たちしかいないため、エリスは本名で呼んだ。

 

俺もレイネへ挨拶しようとする。

 

だが、レイネは返事をする前に、俺の顔を見つめた。

 

赤い瞳が、僅かに見開かれる。

 

その視線が俺の目から胸元へ下がり、再び顔へ戻った。

 

普段とは違う反応に、胸の中へ不安が生まれた。

 

魔眼に、何か異常が起きているのか。

 

それとも、体調へ自分では気づいていない変化があるのか。

 

「レイネ?」

 

レイネはすぐには答えなかった。

 

いつもなら、俺が呼びかければ間を置かず返事をする。

 

今は、何かを確かめるように俺を見つめている。

 

その顔から、少しずつ血の気が引いているように見えた。

 

「エリス様」

 

「何?」

 

「申し訳ございません。ルイジェルド様とともに、先に食堂へ向かっていただけますか」

 

エリスがレイネの袖を握る手へ力を入れた。

 

「レイネは?」

 

「ルーデウス様と、少しだけ確認したいことがございます。すぐに参ります」

 

「私もいるわ」

 

「二人きりでお尋ねしたいことでございます」

 

レイネの声は穏やかだった。

 

だが、普段より僅かに速い。

 

レイネがここまで動揺している理由が分からず、俺の不安も強くなる。

 

エリスもその違いに気づいたのか、俺とレイネを交互に見る。

 

「長くならない?」

 

「はい。必ず、すぐに戻ります」

 

「……分かったわ」

 

エリスは完全には納得していない様子だったが、ルイジェルドと一緒に階段へ向かった。

 

ルイジェルドは通り過ぎる際、俺へ一度だけ視線を向けた。

 

何かあれば呼べ、という意味だろう。

 

その無言の気遣いがありがたかった。

 

二人の姿が階段の下へ消える。

 

レイネは廊下の左右を確かめた後、宿の奥にある小さな物置へ俺を案内した。

 

掃除道具と、使われていない椅子が置かれた狭い部屋だった。

 

窓はなく、扉を閉めれば廊下から中を見ることはできない。

 

朝の挨拶一つで、どうしてここまで人目を避けなければならないのか。

 

ただならない雰囲気に、喉が僅かに乾いた。

 

「ルーデウス様」

 

レイネは振り返った。

 

「昨夜、どなたとお会いになりましたか」

 

唐突な質問だった。

 

「昨夜?」

 

「夢の中でございます」

 

声はまだ丁寧だ。

 

だが、いつもの落ち着きが崩れている。

 

レイネは俺へ一歩近づくと、両手で俺の肩へ触れた。

 

強くつかんではいない。

 

それでも、俺が答えるまで離すつもりはないことが伝わった。

 

何より、その指が微かに震えている。

 

レイネが恐れている。

 

その事実の方が、質問の内容よりも俺を驚かせた。

 

「何も存在しない白い場所ではございませんでしたか」

 

心臓が跳ねた。

 

「どうして、それを……」

 

「人の形をした白い何かが、おりませんでしたか」

 

レイネの指が僅かに震えている。

 

「自らを、人神と名乗りませんでしたか」

 

俺は答えをためらった。

 

人神は、自分の周囲が見えにくくなっていると言っていた。

 

その原因として、レイネを疑っていた。

 

だが、レイネの反応を見れば、疑うどころではない。

 

彼女は人神を知っている。

 

しかも、いつものレイネからは想像できないほど警戒している。

 

蘇生の術式を作り、ルイジェルドを前にしても一切動じなかったレイネが、名前を口にしただけで震えている。

 

それほど危険な相手なのか。

 

俺は、これまで何度もそんな存在の言葉を聞いてきたのか。

 

背筋へ冷たいものが走った。

 

「はい」

 

俺が答えると、レイネの顔から血の気が引いた。

 

「会いました」

 

「何を言われましたか」

 

すぐに次の質問が来る。

 

「何かをお約束なさいましたか。命令に従うと、承諾なさいましたか。力や知識を受け取ることを、お認めになりましたか」

 

「待ってください」

 

「申し訳ございません。ですが、お答えくださいませ」

 

懇願に近い声だった。

 

レイネの手に力が入る。

 

俺を問い詰めているのではない。

 

手遅れになっていないか、必死に確かめようとしている。

 

そう分かるほど、俺まで怖くなった。

 

「人神の言葉を信じると、おっしゃいましたか」

 

「言っていません」

 

俺は一つずつ、はっきりと答えた。

 

曖昧な言い方をすれば、レイネをさらに不安にさせる。

 

「何も約束していません。命令に従うとも言っていません。昨夜は助言を聞いただけです」

 

「何かを、お受け取りには?」

 

「何も受け取っていません」

 

「本当に?」

 

「はい」

 

レイネは俺の目を見つめたまま、しばらく動かなかった。

 

嘘をついていないか確かめているのだろう。

 

赤い瞳に、自分の顔が映っている。

 

やがて、肩に置いていた手の力が僅かに緩む。

 

「よかった……」

 

小さく零れた声には、侍女としての整った響きがなかった。

 

心から安堵した時の、素の声だった。

 

その声を聞き、俺も僅かに息を吐いた。

 

自分が知らない間に、取り返しのつかない約束を結ばされていたわけではないらしい。

 

だが、すぐにレイネの表情が再び硬くなる。

 

「昨夜が、初めてでございますか?」

 

答えにくい質問だった。

 

一度だけではない。

 

魔大陸へ転移した直後から、人神は何度も現れている。

 

そのことを話せば、レイネがさらに動揺することは分かっていた。

 

だからといって、ここで隠すべきではない。

 

俺が黙ったことで、レイネは察したらしい。

 

「これまでにも、接触されているのでございますね」

 

「魔大陸へ転移した後、何度か」

 

レイネの瞳が揺れた。

 

「何度も……」

 

その声に、胸が痛んだ。

 

俺が何か悪いことをしたわけではない。

 

人神が一方的に夢へ現れたのだ。

 

それでも、もっと早くレイネへ相談できていればと思わずにはいられなかった。

 

もちろん、昨日まで人神を知っているとは思わなかった。

 

それでも、レイネがこれほど恐れる相手の言葉を、俺は何度も一人で受け止めていた。

 

「最初は、本当に夢だと思っていました」

 

「どのような助言を受けたのでございますか」

 

俺は、覚えている範囲で話した。

 

魔大陸へ転移した直後に現れたこと。

 

ルイジェルドを頼れと言われたこと。

 

その後も、何度か夢の中で助言をされたこと。

 

すべてをそのまま信じてきたわけではない。

 

実際に役立った助言もあったが、どうして俺を助けるのか分からず、完全には信用できなかった。

 

話しながら、過去の出来事を一つずつ思い返す。

 

人神の助言がなければ、ルイジェルドを避けていたかもしれない。

 

助けられたこともある。

 

だからこそ、完全に悪い存在だと決めつけることもできなかった。

 

だが、正しい助言をしたという事実が、その目的まで正しいことを意味するわけではない。

 

レイネは途中で口を挟まなかった。

 

ただ、話が進むほど表情が険しくなる。

 

すべてを聞き終えると、俺の手を取った。

 

両手で包み、逃がさないように握る。

 

その手は温かい。

 

だが、僅かに震えていた。

 

「ルーデウス様。ご自身が、人神の使徒になったとお考えになったことはございますか」

 

「使徒?」

 

聞き慣れない言葉だった。

 

「何ですか、それは」

 

レイネは俺の反応を見つめた。

 

本当に知らないと判断したのか、僅かに息を吐く。

 

「人神の言葉を信じ、ご自身の判断よりも、人神から与えられた指示を優先して動く者でございます」

 

「契約を結んだ人という意味ですか?」

 

「いいえ。明確な契約があるとは限りません」

 

レイネは首を横へ振った。

 

「人神は、最初から害のある助言ばかりを与えるわけではございません。正しい情報を伝え、助けになる結果を積み重ね、自分の言葉へ従うことを当然だと思わせます」

 

ぞっとした。

 

露骨な命令や契約があるのなら、警戒できる。

 

だが、役に立つ助言を繰り返し、その言葉へ従うことを習慣にさせる。

 

気づかないうちに、自分の判断よりも人神の言葉を優先するようになる。

 

それなら、使徒本人が自分を使徒だと認識していないこともあるのだろう。

 

「それから、嘘を教える?」

 

「嘘とは限りません」

 

レイネの答えは慎重だった。

 

「事実を伝えながら、選択肢の一部だけを見せることもできます。助けるべき方を示しながら、助け方を自分に都合のよい方向へ誘導することもできます」

 

昨夜の助言を思い出した。

 

獣族の子供を助けろ。

 

だが、一人で倉庫へ入れ。

 

子供が囚われていることが事実でも、一人で向かう必要まであるとは限らない。

 

むしろ、仲間を連れていかないことで、誰かが不利益を受ける可能性もある。

 

俺だけが危険になるのか。

 

子供を助けられなくなるのか。

 

それとも、別の誰かに都合のよい結果へ誘導されるのか。

 

人神が何を望んでいるのか、俺には分からない。

 

「昨夜は、何を言われたのでございますか」

 

「ザントポートの東側にある倉庫で、獣族の子供が助けを求めていると言われました」

 

レイネの瞳が細くなる。

 

「ほかには?」

 

「声を聞いたら、一人で入れと」

 

レイネの手が、俺の手を強く握った。

 

「お断りになりましたか」

 

「はい。子供のことは確認するけれど、一人で行くとは約束できないと答えました」

 

「……本当に、よかった」

 

今度は、隠すこともなく安堵を口にした。

 

レイネは俯き、俺の手を握ったまま呼吸を整える。

 

普段の彼女なら、どれほど危険な状況でも、最初に自分の感情を抑える。

 

今はそれができていない。

 

それほど俺が一人で行くことを恐れていたのだ。

 

人神の指示へ従わなかったことに、これほど安心している。

 

自分の判断が間違っていなかったと分かり、俺も少しだけ救われた気持ちになった。

 

「レイネは、人神を知っているんですね」

 

尋ねると、レイネはゆっくり顔を上げた。

 

「はい」

 

否定しなかった。

 

「どこで知ったんですか?」

 

「申し訳ございません。それをお話しすれば、今はまだお伝えできないことまで、説明しなければならなくなります」

 

やはり、すべてを話してはくれない。

 

胸の中へ、僅かな寂しさが生まれる。

 

だが、先ほどまでとは違い、今は無理に聞き出そうとは思わなかった。

 

レイネが何かを隠していることよりも、人神から俺を守ろうとしていることの方が、はっきりと伝わっていたからだ。

 

「危険な存在だということだけは、本当なんですね」

 

「はい」

 

迷いのない返事だった。

 

「人神の目的を、私はすべて理解しているわけではございません。ですが、あれが誰かを助ける時、その結果だけを見て善意だと判断してはなりません」

 

あれ。

 

レイネが人神をそう呼んだことに、強い嫌悪が滲んでいた。

 

普段のレイネは、敵であっても必要以上に侮蔑する言葉を使わない。

 

その彼女が、名前で呼ぶことすら避けている。

 

「レイネが、そこまで嫌う相手なんですね」

 

「嫌うという言葉だけでは足りません」

 

レイネは小さく答えた。

 

その声に込められた感情を見て、これ以上軽く尋ねるべきではないと思った。

 

嫌悪だけではない。

 

怒り。

 

恐怖。

 

長い間積み重ねられた、何か深い感情がある。

 

今の俺には、それ以上踏み込む資格も、準備もないのだろう。

 

「人神は、僕の未来が見えにくくなったと言っていました」

 

俺が伝えると、レイネの顔が上がった。

 

「そのように申したのでございますか」

 

「はい。僕の近くに、見えない空白があると」

 

「それについて、心当たりを尋ねられましたか?」

 

「聞かれました。分からないと答えました」

 

「私のことは?」

 

「言っていません」

 

レイネは目を閉じた。

 

肩から僅かに力が抜ける。

 

「ありがとうございます」

 

その安堵を見て、やはり名前を出さなくてよかったと思った。

 

理由も分からないまま、直感だけで隠した。

 

だが、人神にレイネの存在を詳しく伝えることは、本当に危険だったらしい。

 

「原因は、レイネなんですか?」

 

しばらく迷った後、レイネは頷いた。

 

「私は常に、人神の遠視と未来視から自分を外すための秘術を使用しております」

 

また一つ、レイネの隠していた力が明かされた。

 

蘇生の術式に続き、今度は人神の視界から外れる秘術。

 

驚きはした。

 

だが、昨日ほど言葉を失うことはなかった。

 

レイネには、俺の知らない力がいくつもある。

 

その事実を、少しずつ受け入れ始めているのかもしれない。

 

「人神から、自分を隠している?」

 

「はい。完全に隠れるのは、術の中心である私だけでございます。ですが、私の近くにいらっしゃる方の未来にも、ある程度の乱れが生じます」

 

「だから、人神は僕の周囲が見えにくいと」

 

「おそらくは」

 

レイネがそばにいることで、人神から未来を見通されにくくなる。

 

そのことへ、強い安心を覚えた。

 

同時に、俺がレイネから離れれば、再び人神に未来を見られる可能性が高くなるのだろう。

 

レイネのそばにいたいという気持ちへ、別の理由が加わったようで、少し複雑だった。

 

「でも、昨夜は僕の夢へ来ました」

 

「ルーデウス様ご自身が既に人神と繋がっているため、接触そのものを完全に遮断することはできません」

 

レイネは俺の胸元へ視線を向けた。

 

「昨夜、私の秘術へ外側から干渉しようとする感覚がございました。今朝、ルーデウス様を拝見した時、その視線の残滓が僅かに残っておりましたので……」

 

それで、人神との接触へ気づいたらしい。

 

俺には理解できない感覚だった。

 

ただ顔を見ただけで、人神が残したものを感じ取った。

 

蘇生の術式を作り、人神の未来視を妨げ、接触した痕跡まで見抜く。

 

改めて、レイネの力が俺の想像を遥かに超えていると分かる。

 

同時に、レイネがどれほど危険なものと戦ってきたのかが気になった。

 

人神へ対抗する術を、なぜ身につけたのか。

 

どれほど長い間、あれから身を隠してきたのか。

 

尋ねたい。

 

だが、今は俺の安全を確認することへ必死になっているレイネを、さらに追い詰めたくなかった。

 

「ルーデウス様」

 

レイネが俺の意識を引き戻す。

 

「今後、人神が現れた場合には、必ず私へお話しくださいませ」

 

「はい」

 

「どれほど正しい助言に思えても、それだけを理由に行動を決めないでください」

 

「約束します」

 

「私がおそばにいない場合には、エリス様とルイジェルド様へご相談ください。人神について説明できない状況であっても、一人では動かないでくださいませ」

 

「分かりました」

 

俺が答えても、レイネは手を離さなかった。

 

言葉だけでは、まだ安心できないのだろう。

 

俺が本当に人神へ従わないと確信するまで、つないでいたいようにも見えた。

 

「もし、僕が人神の言うことを全部信じていたら、どうしていましたか?」

 

レイネの指が一瞬止まる。

 

「ルーデウス様を、お連れいたします」

 

「どこへ?」

 

「人神の言葉が届かない場所を探します。何度でもお話しし、あれの言葉より、ご自身で見たものを信じていただけるまで、おそばにおります」

 

「使徒になっていても?」

 

「見捨てるという選択はございません」

 

即答だった。

 

「たとえルーデウス様が、私の言葉を信じてくださらなくなっていたとしても、諦めません」

 

胸の奥が熱くなる。

 

レイネは、本気で俺が人神の使徒になったのではないかと恐れていた。

 

俺を疑っていたのではない。

 

俺が取り返しのつかない場所へ連れていかれたのではないかと、怯えていたのだ。

 

仮に俺がレイネを信じなくなっても。

 

敵意を向けても。

 

それでも見捨てず、何度でも言葉をかけると言った。

 

そこまで大切に思われている。

 

嬉しいという言葉だけでは足りない。

 

同時に、俺もレイネを安心させたいと思った。

 

守られるだけではなく、今度は俺が、この人の不安を減らしたかった。

 

「僕は、人神よりレイネを信じます」

 

レイネの瞳が見開かれた。

 

「人神が役に立つことを言う場合があるのは分かっています。でも、レイネがこんなに心配する相手なら、何も考えずに従ったりしません」

 

「ルーデウス様……」

 

「だから、大丈夫です」

 

今度は俺から、レイネの手を握り返した。

 

細い指を、できるだけ安心させるように包む。

 

「次に現れたら、必ず話します」

 

「はい」

 

レイネはようやく、少しだけ微笑んだ。

 

「お約束でございます」

 

「約束します」

 

廊下の向こうから、エリスの声が聞こえた。

 

「レイネ! まだなの!?」

 

かなり大きな声だった。

 

レイネが我に返ったように手を離す。

 

離れた手の温もりが、掌に残った。

 

「申し訳ございません。お待たせしてしまいました」

 

「エリスには、人神のことを話しますか?」

 

「いつまでも隠すべきではございません」

 

レイネは少し考えた。

 

「ですが、出航直前の食堂で、短くお伝えできる内容ではございません。まずは昨夜の助言に関係する部分だけを、ルイジェルド様とエリス様へ共有いたしましょう」

 

「分かりました」

 

俺たちは物置を出た。

 

食堂へ入ると、エリスが椅子から立ち上がる。

 

「遅いわ!」

 

「申し訳ございません、エリス様」

 

「何を話してたの?」

 

「ルーデウス様が昨夜ご覧になった夢について、少し確認しておりました」

 

嘘ではない。

 

エリスが俺を見る。

 

「また変な夢を見たの?」

 

「変かどうかは分かりませんが、ザントポートへ着いた後、確認したい場所ができました」

 

俺は、獣族の子供と倉庫について伝えた。

 

人神の名前は出さない。

 

だが、単なる夢として忘れるつもりがないことと、一人で向かうつもりもないことは話した。

 

ルイジェルドは、子供が囚われている可能性を聞いた瞬間、表情を険しくした。

 

「到着したら、俺が気配を探る」

 

「はい。外から確認して、本当に子供がいると分かってから動きましょう」

 

「助けを求めているなら、すぐに助けるわ」

 

エリスも迷わなかった。

 

二人の反応を見て、やはり相談してよかったと思った。

 

俺一人なら、人神の言葉が正しいのかを考え続け、動くべき時を逃していた可能性もある。

 

「もちろんです。ただ、子供を盾に取られるかもしれません。中に何人いるのか、逃げ道がどこにあるのかも確かめます」

 

「では、四人で確認いたしましょう」

 

レイネがまとめる。

 

「情報の出所が信用できないからこそ、私たち自身の目で確かめる必要がございます」

 

その言葉に、俺は頷いた。

 

 

俺たちは宿を出て、早朝の港へ向かった。

 

船へ続く渡し板の前では、昨日交渉した船主が待っていた。

 

レイネの冒険者札と保証書をもう一度確認し、俺たちを順番に船へ通す。

 

「約束は覚えているな」

 

「はい。ルード様の身元と船内での行動は、私が保証いたします」

 

外では、レイネも偽名を使う。

 

船主はルイジェルドを厳しい目で見たが、乗船を拒むことはなかった。

 

四人で甲板へ上がる。

 

本当に四人で海を渡れる。

 

昨日交渉が成立した時にも安心したが、全員が船へ足を踏み入れたことで、ようやく実感が湧いた。

 

エリスは船縁まで走り、まだ暗さの残る海を見渡した。

 

「本当に海を渡るのね!」

 

「落ちないでくださいませ」

 

レイネがすぐ後ろへ立つ。

 

「落ちないわよ」

 

言いながら、船が波を受けて揺れた瞬間、エリスの身体が傾いた。

 

レイネが腰へ腕を回し、転倒を防ぐ。

 

「今のは船が急に動いたのよ」

 

「出航後は、さらに揺れます」

 

「すぐに慣れるわ」

 

エリスは自信満々だった。

 

俺とルイジェルドは顔を見合わせる。

 

何となく、嫌な予感がした。

 

朝日が海面へ現れた頃、帆が張られた。

 

太い縄が外され、船がゆっくりと岸を離れる。

 

ウェンポートの町並みが、少しずつ遠ざかっていった。

 

俺とエリスにとっては、一年近く旅を続けた魔大陸との別れだった。

 

初めて目を覚ました荒野。

 

危険な魔物。

 

見知らぬ町。

 

言葉も習慣も違う人々。

 

恐怖と失敗ばかりだった最初の頃から、俺たちは三人でここまで来た。

 

苦しいことも多かった。

 

それでも、振り返れば、あの旅があったから今の俺たちがいる。

 

遠ざかる大陸を見ながら、胸の中に安堵と寂しさが同時に生まれた。

 

ルイジェルドにとっては、四百年以上暮らした土地を離れる瞬間でもある。

 

青く染めた髪を海風に揺らしながら、ルイジェルドは遠ざかる大陸を黙って見つめていた。

 

その横顔からは、普段のように感情を読み取れない。

 

だが、何も感じていないはずはなかった。

 

「ルイジェルドさん」

 

周囲に船員がいないことを確認して、小声で呼ぶ。

 

「大丈夫ですか?」

 

「ああ」

 

「魔大陸の外へ出るのは、久しぶりなんですよね」

 

「戦争が終わってから、海を渡ったことはない」

 

「怖くはありませんか?」

 

ルイジェルドはしばらく海を見つめた。

 

「恐怖はある」

 

静かな答えだった。

 

ルイジェルドが、自分から恐怖を認めることは珍しい。

 

正体が露見すれば、魔大陸以上に強い拒絶を受けるかもしれない。

 

故郷から離れ、何があるか分からない大陸へ向かう。

 

恐ろしくないはずがない。

 

「だが、魔大陸にいるだけでは、スペルド族の名は変わらない」

 

額の宝石は隠されている。

 

正体を明かすこともできない。

 

それでも、ルイジェルドは前へ進むことを選んだ。

 

その覚悟の重さを、俺は完全には理解できない。

 

だが、できる限り同じ道を歩きたいと思った。

 

「私も、できる限りお力になります」

 

レイネが言った。

 

ルイジェルドが振り返る。

 

「なぜだ」

 

「事実ではない噂によって、正しく評価されない方がいることを、当然だとは思いません」

 

「俺の過去を、どこまで知っている」

 

「ルイジェルド様ご自身がお話しになっていないことを、私から申し上げるつもりはございません」

 

答えは昨朝と変わらない。

 

ルイジェルドはそれ以上聞かなかった。

 

「頼む」

 

「はい」

 

二人の間で、短い言葉が交わされた。

 

以前のレイネとルイジェルドには、俺の知らない何かがある。

 

それでも、今交わされた言葉は過去ではなく、これからのためのものだった。

 

二人が互いを少しずつ信頼し始めている。

 

そのことへ安心した。

 

 

エリスが海を楽しめたのは、昼頃までだった。

 

甲板の端から遠くを眺めていたはずが、次第に口数が減り、船縁へ両腕を置いたまま動かなくなった。

 

先ほどまで海を指さして騒いでいたのに、明らかに様子がおかしい。

 

「エリス様」

 

レイネが声をかける。

 

「平気よ」

 

「お顔の色が優れません」

 

「海の光が青いから、そう見えるだけよ」

 

「目を閉じても、お顔は青いままでございます」

 

エリスが反論しようと振り返る。

 

その瞬間、口元を押さえ、海へ向かって身体を折った。

 

朝食が海へ落ちていく。

 

「うぅ……」

 

力の抜けたエリスを、レイネが後ろから支えた。

 

普段なら、多少体調が悪くても意地を張り続けるエリスが、自分の足で立つことさえ難しくなっている。

 

心配になり、俺もすぐそばへ寄った。

 

「船室へ戻りましょう」

 

「まだ、海を……」

 

「十分にご覧になりました」

 

「でも……」

 

「到着するまで海は逃げません」

 

今度のエリスには、言い返す力も残っていなかった。

 

俺とレイネで左右から支え、船室へ連れていく。

 

割り当てられた部屋は狭く、壁に二段の寝台が設けられていた。

 

エリスを下段へ横たえる。

 

レイネは首元を緩め、額へ濡らした布を置いた。

 

「こちらを少しずつお舐めくださいませ」

 

酔い止めの苦い葉を口元へ運ぶ。

 

エリスは一度舐め、顔をしかめた。

 

「苦い……」

 

「効き目がございます」

 

「甘くして……」

 

「甘い物を召し上がれば、再び吐いてしまう可能性がございます」

 

「船なんて嫌い……」

 

朝までの期待は、既に消え去ったらしい。

 

弱々しい声を聞くと、少し可哀想になった。

 

笑う気にはなれない。

 

俺も弱い治癒魔術を使う。

 

吐き気は僅かに和らいだが、船が大きく揺れるたびに、エリスの顔色は悪くなった。

 

「治らないんですか?」

 

自分の治癒魔術が役に立たないことへ、焦りを感じた。

 

傷なら塞げる。

 

痛みも軽くできる。

 

それなのに、目の前で苦しんでいるエリスを、すぐに楽にしてやれない。

 

「船酔いは、目から入る情報と、身体が感じる揺れが一致しないことで起こります」

 

レイネが説明する。

 

「治癒魔術で症状を軽くすることはできますが、揺れが続く間は、完全に治すことが難しゅうございます」

 

「到着まで、このままなの……?」

 

エリスが力なく尋ねる。

 

「私がおそばにおります」

 

「ずっと?」

 

「はい」

 

「ルーデウスも?」

 

「僕も交代でいますよ」

 

扉の外から、ルイジェルドの声も聞こえた。

 

「俺もいる」

 

エリスは全員の声を確認すると、ようやく目を閉じた。

 

「なら……寝るわ……」

 

全員がそばにいると分かるまで、安心して眠ることもできなかったらしい。

 

そのことに胸が痛むと同時に、頼ってもらえたことを少し嬉しくも思った。

 

船旅の間、レイネと俺は交代でエリスへ付き添った。

 

レイネ一人へ任せることはしない。

 

以前なら、レイネがいるから大丈夫だと考え、すべてを任せていたかもしれない。

 

だが、エリスは俺の仲間でもある。

 

そして、レイネにも食事と休息が必要だ。

 

俺が水を飲ませ、濡れた布を交換している間に、レイネが食事を取る。

 

レイネがエリスの身体を拭いている間は、俺とルイジェルドが船員から到着予定や天候を聞く。

 

ルイジェルドは食事や新しい水を運び、必要な時には扉の外で周囲を警戒した。

 

エリスはほとんど寝台から動けなかったが、目を覚ますたび、俺たちがそばにいるかを確かめていた。

 

「ここにいますよ」と答えるたび、強張っていた表情が僅かに緩む。

 

その変化を見ると、多少眠れなくてもそばにいたいと思えた。

 

数日が過ぎる頃には、俺も魔眼へ流す魔力量を少しずつ調整できるようになっていた。

 

甲板の人が少ない時間に、ルイジェルドへ訓練を頼む。

 

一秒先を見るのではなく、相手が動き始める瞬間だけを捉える。

 

未来の姿へ先回りしすぎれば、俺の動きを見た相手が別の行動を選ぶ。

 

見えたものを答えだと思わず、判断材料の一つとして使う。

 

人神の助言について考えたことと同じだった。

 

未来が見えても、それに従うだけでは駄目だ。

 

今目の前にあるものと、自分の判断を捨ててはいけない。

 

何度も失敗しながら、少しずつ身体へ馴染ませていった。

 

レイネはエリスのそばにいながら、俺の様子も確認していた。

 

魔眼を長く使いすぎれば、すぐに休むよう声がかかる。

 

そして夜になれば、必ず人神が再び現れていないかを尋ねた。

 

そのたびに「現れていません」と答えると、レイネは僅かに安心した顔をする。

 

それ以降、白い空間へ呼ばれることはなかった。

 

人神が現れないことを、以前なら特に意識しなかっただろう。

 

今は、何もない夜を迎えるたびに安堵していた。

 

 

陸地が見えたのは、曇り空の朝だった。

 

魔大陸ではあまり見なかった濃い緑が、海の向こうへ広がっている。

 

その手前には、色とりどりに塗られた木造の建物が並んでいた。

 

「エリス、ミリス大陸が見えましたよ」

 

「本当……?」

 

レイネに支えられながら、エリスが上半身を起こす。

 

小さな窓から陸地を見た瞬間、目に力が戻った。

 

「もう降りられるのね」

 

「はい」

 

「絶対?」

 

「このまま入港できれば」

 

「嫌な言い方しないで……」

 

エリスは再び枕へ倒れた。

 

それでも、口元には僅かな笑みが浮かんでいる。

 

ようやく苦しい船旅が終わる。

 

そのことへ、俺も安心した。

 

船がザントポートへ入り、渡し板が岸へ下ろされた。

 

荷物を持ち、四人で船を降りる。

 

エリスはレイネへ支えられていたが、両足が石畳へ触れた瞬間、立ち止まった。

 

「揺れてない……」

 

足元を見下ろす。

 

一歩。

 

もう一歩。

 

「揺れてないわ!」

 

急に声へ力が戻った。

 

その場で跳びはねようとしたため、レイネが肩を押さえる。

 

「急に動かれないでくださいませ」

 

「もう気持ち悪くないもの!」

 

「長く横になっておられました。身体は弱っております」

 

「少し歩けば戻るわ」

 

回復の速さには驚かされる。

 

ただ、船酔いから解放された嬉しさで、無理をしている可能性もある。

 

俺もエリスの顔色を見る。

 

船内にいた時よりはよいが、まだ完全には戻っていない。

 

レイネはエリスの顔色と歩き方を確認した。

 

「本日は、激しい運動を控えてくださいませ」

 

「分かったわ」

 

船上で苦しんだ直後だからか、素直に頷いた。

 

船主へ挨拶を済ませる。

 

レイネの保証は、何の問題も起きずに終わった。

 

船主はルイジェルドへ向ける警戒を完全には解かなかったが、最後には短く言った。

 

「船の上では、ほかの乗客と変わらなかった」

 

「ああ」

 

「次も乗せると約束はできん。だが、今回の運賃が間違いだったとは思っていない」

 

それだけ言うと、船主は次の仕事へ戻っていった。

 

一度の航海で、スペルド族に対する恐怖が消えるわけではない。

 

それでも、ルイジェルドが問題を起こさず海を渡ったという事実は残った。

 

小さな変化かもしれない。

 

だが、何も変わらなかったわけではない。

 

ルイジェルドも、遠ざかる船主の背中を静かに見ていた。

 

俺たちは港を離れ、町へ向かう。

 

ザントポートは、ウェンポートとよく似た坂の多い港町だった。

 

木造の建物には鮮やかな色が塗られ、通りの脇には木々が植えられている。

 

町の外には大森林が広がっていた。

 

景色を見ているだけなら、初めて訪れた町への興味が湧いてくる。

 

だが、今は観光を楽しむ気分にはなれなかった。

 

俺は東側へ顔を向けた。

 

港の端に、古い倉庫が並んでいる。

 

人神から聞いた景色に近い。

 

胸の奥へ緊張が戻った。

 

夢の中で見せられたわけではない。

 

言葉で聞いただけだ。

 

それでも、並んでいる建物を見た瞬間、ここだと思った。

 

隣を歩くレイネも、同じ方向を見ていた。

 

目が合う。

 

言葉を交わさなくても、何を考えているかは分かった。

 

「まず、荷物を預けましょう」

 

レイネが言った。

 

「その後、四人で倉庫の周辺を確認いたします」

 

エリスとルイジェルドが頷く。

 

四人で。

 

今朝レイネと交わした約束どおり、一人ではない。

 

それだけで、胸の中の緊張が少し和らいだ。

 

港に近い宿へ入り、部屋を取る前に荷物だけを預けた。

 

必要な物を持つ。

 

俺は杖。

 

エリスは剣。

 

ルイジェルドは布で包んだ槍。

 

レイネは、小さな治療用の鞄だけを肩へ掛けた。

 

「武器は持たないんですか?」

 

俺が尋ねる。

 

「必要になりましたら、現地にある物で対応いたします」

 

蘇生の術式を作れる人物の言うことではないように聞こえる。

 

そもそも、レイネがどのように戦うのか、俺はまだほとんど知らない。

 

心配するべきなのか、何も心配する必要がないのかさえ分からなかった。

 

だが、今は彼女の実力について尋ねる場面ではない。

 

俺たちは、観光客を装って倉庫街へ向かった。

 

表通りから離れるほど、人の姿が減っていく。

 

潮風で板が変色した建物。

 

扉へ板が打ちつけられた倉庫。

 

壁の一部が崩れたまま放置されている倉庫。

 

その中に、一見古びているものの、扉の錠と蝶番だけが新しい建物があった。

 

地面には、最近通った荷車の跡が残っている。

 

外見だけを古びたままにしながら、出入りに必要な部分だけを整えている。

 

明らかに不自然だった。

 

ルイジェルドが足を止めた。

 

額の眼は隠されている。

 

それでも、彼は建物の中へ意識を集中させるように、僅かに顔を傾けた。

 

「中に人がいる」

 

「何人ですか?」

 

「大人が八人。小さな気配が七人」

 

人神の言葉と一致した。

 

背筋が冷たくなる。

 

本当に子供がいる。

 

人神の情報には、やはり事実が含まれていた。

 

だからこそ、どこまでが事実で、どこからが誘導なのかを見誤ってはいけない。

 

「ほかにも、大きな獣がいる」

 

獣族の子供。

 

七人。

 

そして大きな獣。

 

俺は右目へ僅かに魔力を流した。

 

倉庫の側面から、一人の男が歩いてくる未来が見える。

 

「隠れてください」

 

積まれた木箱の陰へ移動する。

 

直後、腰に短剣を差した男が現れた。

 

未来で見た姿と重なる。

 

男は周囲を見回し、建物の裏側まで歩いていく。

 

荷物を守るだけの見張りにしては、警戒の仕方が不自然だった。

 

周囲を歩く者の顔だけではなく、建物の陰や屋根まで何度も確認している。

 

「見張りです」

 

俺が小声で言う。

 

ルイジェルドは男を追おうとしたが、レイネが腕を伸ばした。

 

「まだでございます」

 

「子供がいる」

 

ルイジェルドの声には、既に抑えきれない怒りが滲んでいた。

 

子供が危険に晒されていると知れば、今すぐ飛び込みたいのだろう。

 

俺にも、その気持ちは分かった。

 

「はい。ですが、子供たちがどのような状況でここにいるのかを、先に確認いたしましょう」

 

「捕らえられている」

 

「気配だけでは、誘拐されたのか、保護されているのかまでは判断できません」

 

ルイジェルドの表情は険しい。

 

それでも、レイネの言葉を無視して飛び出すことはしなかった。

 

俺たちが事実を確かめるまで、感情だけで動くことを抑えてくれている。

 

倉庫の裏手へ回る。

 

壁の高い位置に、小さな換気窓があった。

 

俺は土魔術で足場を作り、窓の下へ上がった。

 

中から男たちの声が聞こえる。

 

「七匹とも今夜の船に載せるぞ」

 

「一匹、まだ暴れる猫がいる」

 

「商品を傷つけすぎるな。売値が下がる」

 

「銀色の犬はどうする」

 

「あれは別口だ。結界から出すなよ。大森林の連中に見つかれば、面倒なことになる」

 

十分だった。

 

商品。

 

売値。

 

船へ載せる。

 

子供を人として扱っていない。

 

その言葉を聞いた瞬間、腹の奥へ冷たい怒りが湧いた。

 

魔大陸で人の命が軽く扱われる場面は見てきた。

 

それでも、子供を攫い、傷つけ、物のように値段をつける行為を受け入れることなどできない。

 

俺は足場を降りる。

 

「誘拐です」

 

ルイジェルドの手が、槍を包んだ布へ伸びた。

 

瞳には明確な怒りが浮かんでいる。

 

「全員殺す」

 

その言葉へ、俺は一瞬反論できなかった。

 

今聞いた男たちの会話を思えば、殺されても仕方がないと感じてしまったからだ。

 

だが、レイネはすぐに口を開いた。

 

「お待ちくださいませ」

 

レイネが静かに止めた。

 

「なぜだ」

 

「子供たちが、ほかにも攫われている可能性がございます。生きたまま捕らえれば、仲間や売却先について聞き出せます」

 

「生かしておけば、また子供を攫う」

 

「逃がしません」

 

レイネの声は穏やかだった。

 

だが、倉庫の男たちを見逃す意思がないことは、はっきりと伝わった。

 

怒鳴りもせず、殺意を露わにもしていない。

 

それでも、その場にいる誰よりも冷たく男たちの逃げ道を断っているように感じた。

 

「それに、子供たちの目の前で、必要以上に血を流すべきではございません」

 

ルイジェルドは拳を握った。

 

しばらくして、槍から手を離す。

 

「分かった。殺さない」

 

「ありがとうございます」

 

俺も僅かに息を吐いた。

 

男たちに同情したわけではない。

 

だが、怒りに任せて全員を殺せば、背後にいる者へ辿り着けなくなる。

 

何より、囚われている子供たちへ、さらに血なまぐさい光景を見せることになる。

 

俺たちは倉庫の構造を確認した。

 

正面の大扉。

 

側面の小さな扉。

 

裏側に、荷物を運び出すための出口。

 

窓は高く、子供が逃げられる高さではない。

 

中にいる大人は八人。

 

子供は七人。

 

大きな獣が一頭。

 

失敗すれば、子供を人質に取られる。

 

自分たちが勝てるかどうかだけではなく、全員を傷つけずに助ける方法を考えなければならない。

 

「僕が裏口と正面を魔術で塞ぎます」

 

俺は地面へ簡単な図を描いた。

 

「ルイジェルドさんは、武器を持っている大人を制圧してください。レイネは子供たちの場所へ。エリスはレイネと子供たちを守ってください」

 

「私は戦わないの?」

 

エリスの不満そうな声に、俺は言葉を選ぶ。

 

戦わせたくないわけではない。

 

エリスの実力は知っている。

 

だが、倉庫の中で暴れれば、子供へ攻撃が向かう可能性がある。

 

「通路が狭いので、全員で同じ場所へ入れば動きづらくなります」

 

「逃げてきた奴は?」

 

「止めてください。ただし、無理に追わず、子供たちを優先してください」

 

エリスは倉庫を見た。

 

剣の柄へ手を置く。

 

自分が男たちを倒すことより、子供を守る役割を任された意味を考えているようだった。

 

「分かったわ。誰も子供に近づけない」

 

力強い返事だった。

 

「私が先に子供たちの位置を確認いたします」

 

レイネが言う。

 

「ルーデウス様。扉を開けた後、最初に土煙を起こすことはできますか?」

 

「できます」

 

「視界を奪っている間に、ルイジェルド様が前方を制圧します。私は右側の通路から奥へ向かいます」

 

「僕は?」

 

「中央で全体を見てくださいませ。魔眼で不意打ちを確認し、出口を塞いでください」

 

レイネは俺へすべてを任せなかった。

 

だが、俺を子供として後ろへ置こうともしない。

 

俺の魔術と魔眼を、全員を守るために必要な力として役割へ組み込んでいる。

 

信頼されていることへ、胸が僅かに熱くなった。

 

同時に、失敗できないという緊張も強くなる。

 

四人の役割が決まった。

 

見張りが再び裏手へ現れる。

 

ルイジェルドが木箱の陰から出た。

 

男が口を開くより早く、ルイジェルドの手が首へ届く。

 

一撃。

 

男は声も上げずに崩れた。

 

ルイジェルドはその身体を支え、静かに地面へ下ろす。

 

殺さないという約束を、怒りの中でも守っている。

 

俺たちは側面の扉へ移動した。

 

鍵穴へ土魔術を使い、内部の金具を変形させる。

 

小さな音を立て、錠が外れた。

 

俺は右目へ魔力を流す。

 

扉を開けた先。

 

男が二人。

 

一人は椅子へ座り、もう一人は壁にもたれている。

 

扉が動けば、壁際の男が短剣を抜く未来が見えた。

 

心臓の鼓動が速くなる。

 

未来が見えるからといって、恐怖が消えるわけではない。

 

見えた攻撃を防げなければ、誰かが傷つく。

 

だが、今は一人ではない。

 

俺は三人へ指で位置を示す。

 

そして、扉を開けた。

 

同時に風魔術を使い、床の埃を巻き上げる。

 

「何だ!」

 

男たちの声が上がる。

 

ルイジェルドが煙の中へ入った。

 

鈍い音が二度。

 

煙が薄くなる前に、入口の二人は床へ倒れていた。

 

俺は正面と裏口の床を土魔術で盛り上げ、扉が開かないよう固定する。

 

「侵入者だ!」

 

奥から男たちが現れた。

 

一人が弓を構える。

 

魔眼へ映った矢は、俺ではなく、煙の横を抜けようとするエリスへ向いていた。

 

胸が強く跳ねる。

 

「エリス!」

 

石壁を立ち上げる。

 

矢が壁へ突き刺さった。

 

間に合った。

 

安堵する暇もなく、エリスは動いていた。

 

エリスは驚かず、石壁を蹴って横へ飛ぶ。

 

弓を持った男との距離を一気に詰め、剣を鞘に収めたまま腹へ叩き込んだ。

 

男が身体を折る。

 

続けて顎を蹴り上げ、意識を奪った。

 

「一人!」

 

「その場を守ってください!」

 

「分かってるわ!」

 

エリスは倒れた男を追わず、奥へ続く通路の前へ立った。

 

戦いへ熱くなって、役割を忘れてはいない。

 

子供たちを守るという約束を優先している。

 

その姿へ頼もしさを感じた。

 

ルイジェルドは三人の男に囲まれていた。

 

槍は布を外しているが、刃ではなく石突きと柄を使っている。

 

一人の手首を打ち、剣を落とさせる。

 

柄で足を払い、倒れた男の鳩尾へ石突きを当てる。

 

別の男が背後から斧を振り下ろした。

 

ルイジェルドは振り返らない。

 

身体を半歩ずらし、斧を避けると、肘で男の胸を打った。

 

男が壁まで吹き飛び、動かなくなる。

 

殺してはいない。

 

だが、当分起き上がることもできないだろう。

 

怒りを抱えながらも、手加減を続けている。

 

俺の右側から、最後の一人が走ってきた。

 

服の袖に、小さな手弩を隠している。

 

未来の像で、袖口が俺へ向く。

 

背筋が冷たくなった。

 

見えていなければ、気づかず撃たれていたかもしれない。

 

俺は杖を振った。

 

男の足元が泥へ変わる。

 

膝まで沈み、体勢を崩したところへ、圧縮した水弾を胸へ当てた。

 

「ぐっ!」

 

男は後ろへ倒れた。

 

手弩が床を滑る。

 

土を固め、両足を完全に拘束した。

 

「動かないでください」

 

「ガキが……!」

 

男は懐へ手を伸ばそうとした。

 

その腕も土で床へ固定する。

 

「動けば、次は腕を折ります」

 

声が震えないよう、意識して低く言った。

 

人を傷つけることを楽しんでいるわけではない。

 

だが、ここで甘く見られ、隠し武器を使われれば、仲間や子供が危険になる。

 

言葉が通じたらしい。

 

男の動きが止まった。

 

奥から、子供の泣き声が聞こえる。

 

小さく、押し殺すような声だった。

 

胸の奥へ、焦りと怒りが込み上げる。

 

レイネは既に右側の通路へ入っていた。

 

俺とエリスも後を追う。

 

狭い部屋の前に、男が一人立っていた。

 

片腕で獣族の少年を抱え、首元へ短剣を当てている。

 

少年の口には布が詰められ、両手を後ろで拘束されていた。

 

怯えた目が、俺たちへ向けられる。

 

一歩間違えれば、目の前で子供が殺される。

 

全身へ緊張が走った。

 

「動くな!」

 

男が叫ぶ。

 

「近づけば、こいつを殺す!」

 

レイネは足を止めた。

 

両手を見える位置へ上げる。

 

「その子を、お離しくださいませ」

 

「武器を捨てろ!」

 

「私は武器を持っておりません」

 

「後ろの奴らもだ!」

 

俺は杖を下げた。

 

エリスも剣から手を離す。

 

男は少年を盾にしたまま、少しずつ後ろへ下がった。

 

その先には窓がある。

 

子供を連れて飛び降りるつもりかもしれない。

 

逃がせば、少年が危険だ。

 

だが、下手に魔術を使えば、男ではなく少年へ当たる。

 

魔眼を使う。

 

男が短剣を押し込む未来。

 

喉の奥が凍りつく。

 

レイネが右手を動かす未来。

 

その直後、未来の男の手から短剣が落ちていた。

 

何をするのかは見えない。

 

だが、レイネなら少年を助ける。

 

そう信じた。

 

俺が何かするより早く、レイネの指先が僅かに動いた。

 

小さな金属音。

 

男の手首へ、細い針が刺さっている。

 

「がっ!」

 

指が開き、短剣が落ちた。

 

その瞬間、レイネが距離を詰める。

 

少年の身体を自分の腕へ抱き寄せながら、男の肘を外側へ捻る。

 

身体を入れ替え、男の顔を壁へ押しつけた。

 

一度。

 

強い音が響く。

 

男はその場へ崩れ落ちた。

 

一瞬だった。

 

ルイジェルドのような圧倒的な力でも、エリスのような激しい剣技でもない。

 

無駄のない動きだけで、少年を傷つけず男を制圧した。

 

改めて、レイネが隠している実力の一端を見た気がした。

 

レイネは少年を抱いたまま、床へ膝をつく。

 

「もう大丈夫でございます」

 

少年は震えていた。

 

布を外されても、声が出ない。

 

レイネは急かさず、背中へ手を添える。

 

「助けに参りました。もう、こちらの方々があなたを傷つけることはございません」

 

赤い瞳を見つめ、少年が僅かに頷いた。

 

その姿を見て、ようやく息を吐くことができた。

 

助かった。

 

だが、部屋の奥へ視線を向けた瞬間、安堵は消えた。

 

部屋の奥には、さらに六人の子供がいた。

 

獣族の子が六人。

 

長耳族の子が一人。

 

合わせて七人。

 

全員が手を後ろで拘束され、口へ布を詰められている。

 

衣服を奪われた子もおり、粗末な布だけを身体へ巻かれていた。

 

顔や腕には痣がある。

 

一人の少年は床へ横たわり、呼吸も弱い。

 

胸の奥へ、これまで感じたことのないほど強い怒りが湧いた。

 

何をすれば、子供へここまでのことができるのか。

 

ただ売るだけではない。

 

殴り、縛り、衣服を奪い、人としての尊厳まで踏みにじっている。

 

先ほど拘束した男たちを、このまま殺してしまいたいと一瞬思った。

 

ルイジェルドが全員殺すと言った気持ちが、今なら痛いほど分かる。

 

エリスの顔から血の気が引いた。

 

次の瞬間には、怒りで頬が赤くなる。

 

「こんな……」

 

剣へ手を伸ばしかけたが、倒れている子供を見て踏みとどまった。

 

「レイネ」

 

「はい。まず、身体を隠せる物をお願いいたします」

 

エリスはすぐに部屋の窓へ走り、掛けられていた厚い布を外した。

 

剣で切り分け、一人ずつ包める大きさにする。

 

怒りを男たちへぶつけるのではなく、目の前の子供を助けるために動いた。

 

俺は倒れている少年のそばへ向かった。

 

「僕も治療します」

 

「お願いいたします」

 

レイネは少年の胸と首へ手を当てた。

 

「呼吸が弱く、肋骨が折れております。内側にも傷がございます」

 

声は落ち着いている。

 

だが、少年へ触れる手は驚くほど慎重だった。

 

命が消えないよう、壊れやすいものを扱うように触れている。

 

「ルーデウス様は、ほかのお子様の拘束を外し、呼吸と意識をご確認くださいませ。この方は私が治療いたします」

 

「分かりました」

 

この少年をレイネへ任せれば大丈夫だ。

 

そう信じ、俺は自分にできることへ集中した。

 

俺は土魔術で金属の拘束具を一つずつ開いた。

 

猿轡を外し、獣神語で話しかける。

 

「助けに来ました。もう大丈夫です」

 

子供たちは怯えた目で俺を見る。

 

男たちと同じ人族だから、すぐには信じられないのだろう。

 

その視線が胸へ刺さった。

 

俺が何を言っても、彼らにとっては自分たちを攫い、傷つけた者と同じ種族に見える。

 

信用しろと言う方が無理だ。

 

俺は無理に近づかず、外した拘束具を見える場所へ置いた。

 

「痛いところを教えてください。治療します」

 

犬耳の少女が、自分の腕を指した。

 

大きな痣があり、触れなくても腫れていることが分かる。

 

弱い治癒魔術を使う。

 

腫れが引き、少女が驚いたように腕を動かした。

 

「痛くない……」

 

「ほかの子も、順番に治します」

 

その言葉で、少しだけ警戒が緩んだ。

 

まだ信用されたわけではない。

 

それでも、少なくとも今すぐ傷つける相手ではないと、思ってもらえたらしい。

 

エリスが切り分けた布を、一人ずつ肩へ掛けていく。

 

身体を隠す物を得た子供たちは、ようやく姿勢を起こした。

 

「こっちへ来て」

 

エリスが子供たちを、自分と壁の間へ集める。

 

声はできる限り優しくしている。

 

普段のエリスを知っていれば、相当意識していることが分かった。

 

通路の側へ立ち、誰かが来ても子供へ近づけない位置を取った。

 

俺は打撲や切り傷へ治癒魔術を使った。

 

骨折している子は、レイネへ任せる。

 

レイネの手元から、淡い光が広がっていた。

 

呼吸の弱かった少年の胸が、次第に規則正しく上下し始める。

 

顔色も少しずつ戻っていく。

 

それでも、本当に助かったと告げられるまでは、胸の緊張が解けなかった。

 

「もう、命に別状はございません」

 

レイネが告げる。

 

俺は大きく息を吐いた。

 

「よかった……」

 

膝から力が抜けそうになるほど、安心した。

 

間に合った。

 

もう少し遅ければ、助からなかった可能性もある。

 

レイネは少年を布で包み、壁へ寄りかからせた。

 

猫耳の少女が、レイネの服の裾をつかむ。

 

身体中に痣があったが、瞳には強い光が残っていた。

 

「犬は?」

 

獣神語だった。

 

「犬?」

 

俺が聞き返す。

 

「大きな銀色の犬も捕まったニャ。あいつら、別の部屋に連れていったニャ」

 

「大きな獣の気配があると、ルイジェルドさんも言っていました」

 

「聖獣様ニャ!」

 

少女は必死に訴えた。

 

「お願い、助けてほしいニャ!」

 

自分自身が傷つけられ、衰弱しているにもかかわらず、最初に心配するのは銀色の犬だった。

 

それほど大切な存在なのだろう。

 

レイネが少女と目線を合わせる。

 

「必ず、お助けいたします」

 

迷いのない返事だった。

 

その言葉を聞き、少女の表情が僅かに緩んだ。

 

「エリス様。こちらのお子様方をお願いいたします」

 

「任せて」

 

「ルーデウス様は、私と一緒にお越しくださいませ」

 

「はい」

 

部屋を出る。

 

子供たちのそばを離れることには不安があった。

 

だが、エリスがいる。

 

自分の役割を理解し、最後まで子供を守ると約束したエリスなら任せられる。

 

ルイジェルドは既に倉庫内の制圧を終えていた。

 

倒れた男たちを一か所へ集め、縄で手足を拘束している。

 

全員が生きている。

 

子供たちの姿を見た後でも、殺さないという約束を守ったらしい。

 

槍を握る手には、まだ強い力が入っている。

 

「子供は?」

 

「七人とも助かりました。大きな犬も捕まっているそうです」

 

ルイジェルドの額に皺が寄る。

 

「こちらだ」

 

大きな獣の気配がある部屋へ案内される。

 

扉を開けると、青白く光る魔法陣が床に描かれていた。

 

その中央に、巨大な銀色の犬が横たわっている。

 

子犬のような顔立ちだが、身体は俺より遥かに大きい。

 

首へ太い鎖が巻かれ、呼吸は弱かった。

 

子供たちだけでなく、この犬まで衰弱させられている。

 

また怒りが湧いた。

 

すぐに助けなければと思い、足を踏み出す。

 

「入ってはいけません」

 

レイネが止めるより先に、俺は魔法陣へ足を踏み入れかけていた。

 

空間へ触れた瞬間、全身へ痛みが走る。

 

「痛っ!」

 

弾かれるように足を引く。

 

皮膚の表面ではなく、身体の中を直接焼かれたような痛みだった。

 

レイネが俺の腕を支えた。

 

「結界でございます」

 

「すみません。焦りました」

 

先ほどまで、一人で行動しないと約束していた。

 

それなのに、目の前で苦しむ姿を見た途端、考えるより先に動いてしまった。

 

レイネの顔へ、心配を増やしてしまったことへの申し訳なさが湧く。

 

「壊せますか?」

 

「力ずくで破壊することはできますが、内側にいる子へ影響が出る可能性がございます」

 

レイネなら壊せる。

 

そう明言したことへ驚いた。

 

結界がどれほど強いのかは分からない。

 

だが、俺が触れただけで全身に痛みが走るものを、力ずくで破壊できるらしい。

 

今は銀色の犬を助けることが先だ。

 

「どうすれば安全に消せますか?」

 

「魔法陣へ、どこかから魔力が供給されております」

 

レイネは天井へ視線を向けた。

 

「供給源を取り除けば、結界だけを消せる可能性が高いと存じます」

 

俺も天井を見る。

 

魔法陣の真上には、二階がある。

 

「上を探します」

 

階段を上がる。

 

焦りはある。

 

だが、今度は不用意に触れないよう慎重に進んだ。

 

結界の真上に位置する部屋へ入ると、床へ小さな魔法陣が描かれていた。

 

中央には、木製の灯具に似た道具が置かれている。

 

中には魔力結晶が収められていた。

 

不用意に壊せば、下の結界へどのような影響が出るか分からない。

 

俺は魔眼で、道具へ手を伸ばした後の未来を見る。

 

灯具を持ち上げる。

 

光が消える。

 

爆発する未来は見えない。

 

見えた未来を完全に信じるべきではない。

 

だが、判断材料にはできる。

 

両手で慎重に持ち上げた。

 

床の魔法陣から光が失われる。

 

下から、レイネの声が聞こえた。

 

「消えました!」

 

安堵し、息を吐く。

 

灯具を床から離したまま、一階へ戻る。

 

結界は完全に消えていた。

 

レイネが銀色の犬の首輪と鎖を外す。

 

犬は目を開けたが、すぐには立ち上がれない。

 

「衰弱しております」

 

レイネが首元へ手を当て、治癒魔術を使った。

 

俺も反対側から身体へ触れ、弱い治癒を重ねる。

 

銀色の毛並みに少しずつ艶が戻る。

 

大きな犬は前足を動かし、ゆっくり身体を起こした。

 

その姿を見て、胸の中へ安堵が広がる。

 

最初にレイネの匂いを嗅ぐ。

 

次に俺へ顔を近づけた。

 

巨大な鼻先が、俺の胸元へ触れる。

 

お守りの辺りを何度か嗅いだ後、顔を上げた。

 

何かを感じ取っているのだろうか。

 

そして、俺の頬を大きな舌で舐めた。

 

「うわっ!」

 

顔全体が唾液で濡れる。

 

助かったことへの感謝なのか。

 

単に匂いが気に入ったのか。

 

分からなかったが、少なくとも敵意はないらしい。

 

レイネが布を取り出し、俺の顔を拭いた。

 

「気に入られたようでございますね」

 

「どうしてでしょう」

 

「助けてくださったことが、分かるのかもしれません」

 

レイネに顔を拭かれながら、少し恥ずかしくなる。

 

だが、大きな犬が元気を取り戻したことの方が嬉しかった。

 

銀色の犬は立ち上がると、子供たちがいる部屋へ向かった。

 

俺たちも後を追う。

 

犬の姿を見た瞬間、猫耳の少女が声を上げた。

 

「聖獣様!」

 

子供たちが一斉に駆け寄る。

 

銀色の犬は、全員の匂いを確かめるように鼻先を近づけた。

 

傷ついた子供のそばでは足を止め、顔を舐める。

 

子供たちは泣いていた。

 

だが、先ほどまでの恐怖から来る涙ではない。

 

助かったことを、ようやく実感したのだろう。

 

その光景を見て、胸が締めつけられた。

 

これほど幼い子供たちが、どれほど怖い思いをしたのか。

 

今すぐすべてを忘れさせることはできない。

 

傷を治しても、受けた恐怖まで消えるわけではない。

 

それでも、今は大切な存在と再会できた。

 

少なくとも、もうあの男たちに傷つけられることはない。

 

レイネは一人ずつ身体を確認した。

 

治療の足りない箇所へ魔術を使い、布が外れそうな子には結び直す。

 

「七名とも、命に別状はございません」

 

その言葉を聞き、部屋にいた全員の身体から力が抜けた。

 

俺も、ようやく胸の奥に残っていた緊張を少し手放せた。

 

ルイジェルドは入口に立ち、子供たちを見ていた。

 

怒りはまだ消えていない。

 

それでも、槍を握る手からは力が抜けている。

 

全員が助かったことで、ひとまず殺意を抑えられたのだろう。

 

「終わったのね」

 

エリスが言った。

 

「はい」

 

俺は頷く。

 

「全員、助けられました」

 

言葉にした瞬間、達成感より先に安堵が込み上げた。

 

誰も死ななかった。

 

子供も、聖獣も。

 

男たちも生きたまま捕らえた。

 

人神の言うとおり一人で来ていれば、同じ結果にはならなかったかもしれない。

 

「まだでございます」

 

レイネが静かに言った。

 

床に落ちていた紙束を拾い上げる。

 

帳簿らしい。

 

人の名前。

 

金額。

 

船の出航日。

 

子供の種族と人数。

 

何度も取引が行われていた記録が残っている。

 

目の前の数字を見て、先ほど抑えたはずの怒りが再び湧いた。

 

七人だけではない。

 

何人もの子供が、同じように攫われ、売られてきた。

 

名前ではなく、種族と金額だけで記録されている欄もある。

 

人間として扱われていないことが、紙の上からも伝わってきた。

 

「この方々だけではございません」

 

レイネの声が低くなる。

 

「既に別の場所へ送られたお子様と、これから攫われる可能性のある方々がいらっしゃいます」

 

救出した子供は七人。

 

だが、事件はこの倉庫だけで終わっていない。

 

助けられなかった子供がいる。

 

今も、どこかで苦しんでいる可能性がある。

 

全員助けたと安心した自分が、少し恥ずかしくなった。

 

「捕らえた者たちと、この帳簿を使って、関係者を調べる必要がございます」

 

「港の役人へ渡しますか?」

 

俺が尋ねると、レイネはすぐには答えなかった。

 

人神の最後の助言が頭をよぎる。

 

見えている相手だけが、事件のすべてとは限らない。

 

倉庫の男たちだけで、これほど長く取引を続けられるだろうか。

 

船を使う。

 

港を通る。

 

何度も子供を運ぶ。

 

誰にも気づかれず続けられるとは考えにくい。

 

どこかに、見逃している者がいる可能性がある。

 

役人の中に協力者がいれば、帳簿を渡した瞬間に証拠を消されるかもしれない。

 

捕らえた男たちも、口封じされる可能性がある。

 

「最初に、冒険者ギルドの責任者へ連絡いたしましょう」

 

レイネが答えた。

 

「同時に、獣族の代表者へ直接知らせていただきます。帳簿は複製を作り、一か所だけへ預けない方が安全でございます」

 

「港の役人に仲間がいるかもしれないんですね」

 

「可能性を否定できません」

 

レイネは帳簿を治療鞄へ収めた。

 

「ですが、今は子供たちを安全な場所へ移すことが最優先でございます」

 

俺たちは倉庫にあった厚い布とカーテンを切り、子供たちの身体を覆った。

 

歩けない少年はルイジェルドが背負う。

 

ほかの子供たちは、エリスとレイネの手を握った。

 

最初は俺の姿を怯えた目で見ていた子供も、今は近くを歩くことを拒まなくなっていた。

 

完全に警戒が消えたわけではない。

 

それでも、助けに来た者として少しは信じてもらえたのだろう。

 

銀色の聖獣が、その周囲を守るように歩く。

 

男たちは全員、縄と土魔術で拘束した。

 

出入口も封鎖し、俺たちが戻るまで逃げられないようにする。

 

倉庫の扉を開けた。

 

暗い建物の中へ、外の光が差し込む。

 

子供たちは眩しそうに目を細めた。

 

一人。

 

また一人。

 

全員が自分の足で、光の中へ出ていく。

 

その姿を見ながら、胸の奥が熱くなった。

 

ただ建物の外へ出ただけではない。

 

この子供たちにとっては、自分たちを閉じ込めていた暗闇から、ようやく抜け出した瞬間なのだろう。

 

人神の言葉に、事実は含まれていた。

 

この倉庫には、本当に助けを求める子供たちがいた。

 

だが、俺は一人で入らなかった。

 

ルイジェルドが男たちを止めた。

 

エリスが子供たちを守った。

 

レイネが命を救い、安全な道を選んだ。

 

俺も、自分にできることをした。

 

誰か一人だけでは、この形で全員を助けることはできなかっただろう。

 

俺が一人で来ていれば、見張りに気づかれたかもしれない。

 

人質を助けられなかったかもしれない。

 

結界を壊し、聖獣を傷つけていたかもしれない。

 

捕らえた男たちを生かし、帳簿まで確保することもできなかったかもしれない。

 

人神が示した目的へ向かった。

 

だが、その方法を決めたのは人神ではない。

 

俺たち自身だ。

 

銀色の聖獣が、子供たちの後ろから倉庫を出る。

 

最後に俺とレイネが外へ出た。

 

隣にいるレイネを見る。

 

今朝、俺が人神の言葉へ従ったのではないかと、本気で怯えていた。

 

今は救い出した子供たちを見つめ、僅かに安堵した表情を浮かべている。

 

一人で行かなくてよかった。

 

人神ではなく、仲間を信じてよかった。

 

レイネは建物の中をもう一度確認し、扉を閉める。

 

「参りましょう、ルーデウス様」

 

「はい」

 

救い出した七人を連れ、俺たちはザントポートの町へ向かって歩き始めた。

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