白髪の侍女   作:MトK

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第三十五話 妹の知らない時間

ルーデウス視点

 

大森林へ足を踏み入れると、ザントポートの潮風はすぐに届かなくなった。

 

代わりに周囲を満たしたのは、湿った土と樹皮、草花の濃い匂いだった。頭上では太い枝と葉が幾重にも重なり、朝の光を細かく遮っている。

 

魔大陸にも森はあったが、これほど多くの生命に満ちた場所ではなかった。

 

枝の上では色鮮やかな鳥が鳴き、茂みの中を小さな獣が走り抜けていく。遠くからは絶えず水音が聞こえ、足元の柔らかな土には、俺たちとは異なる生き物の足跡がいくつも残されていた。

 

同じ森でも、魔大陸で見てきたものとはまるで違う。

 

どこかに魔物が潜んでいるかもしれないという警戒は必要だったが、それ以上に、周囲から伝わってくる生命の多さへ圧倒された。

 

長く荒涼とした土地を旅してきたせいだろう。

 

濃い緑に囲まれているだけで、世界そのものが少し優しくなったように感じられた。

 

道は完全な獣道ではない。

 

地面から盛り上がった根を避けるように土が踏み固められ、川や深い窪地には頑丈な木橋が架けられている。所々には、地上から何メートルも高い位置を通る板張りの道まで作られていた。

 

「雨季になれば、あちらを使う」

 

ギュエスが頭上の通路を示した。

 

「地上の道は水へ沈む。村も、雨季の間は木の上で生活する」

 

「今は、まだ下を歩けるのね」

 

エリスが答える。

 

デドルディア族の村がギレーヌの故郷だと知ってから、エリスは大森林へ入ることを楽しみにしていた。

 

ただ子供たちを送り届けるだけではない。

 

ギレーヌが生まれ育った場所を、自分の目で見られるからだ。

 

「ギレーヌも、あの上を走っていたのかしら」

 

エリスは頭上の通路を見上げながら、少し嬉しそうに呟いた。

 

その横顔を見ていると、俺もギレーヌの姿を思い出した。

 

大きな身体。

 

右目の眼帯。

 

剣を構えた時の、獣のような鋭さ。

 

その一方で、慣れない羽根ペンを握り、何度も同じ文字を書き直していた姿。

 

俺たちと離れてから、ギレーヌがどこで何をしているのかは分からない。

 

それでも、エリスが当然のように生きていると信じているのと同じく、俺も彼女がどこかで生きていると信じたかった。

 

「子供なら誰でも使う」

 

ギュエスが答えた。

 

「なら、ギレーヌも使ってたのね」

 

ギュエスの耳が僅かに動いた。

 

だが、まだ何も言わない。

 

ギュエスの顔立ちがどこかギレーヌに似ていることには、俺もザントポートで会った時から気づいていた。ただ、獣族の同じ一族であれば、似た特徴を持つこともある。

 

それだけで血縁関係まで推測することはできなかった。

 

隊列の中央では、救出した子供たちが歩いている。

 

トーナとテルセナの顔色は、ザントポートを出た時よりも良くなっていた。長く閉じ込められていた影響は残っているが、自分たちの村へ帰れると分かったことで、足取りも少し軽くなっている。

 

時折、二人が前を歩くギュエスの背中を確かめるように見ていた。

 

父親がいる。

 

村へ帰る道を歩いている。

 

その事実が、二人へ安心を与えているのだろう。

 

倉庫から連れ出した直後には、誰の言葉も完全には信じられないような顔をしていた。

 

その二人が、今は家族のそばを歩いている。

 

まだ村へ着いたわけではないが、それだけでも助けた意味があったと思えた。

 

聖獣は子供たちの周囲を行き来しながら、時折俺のところまで戻ってきた。

 

胸元へ鼻先を押しつけ、お守りの周辺を何度か嗅いでから、また子供たちのもとへ走っていく。

 

何に反応しているのかは、まだ分からない。

 

単に俺が助けたことを覚えているのかもしれない。

 

あるいは、お守りに組み込まれた術式や、俺の魔力へ何かを感じているのかもしれない。

 

レイネへ尋ねても、現時点では分からないという答えだった。

 

顔を舐められるたびに困りはするが、敵意を向けられるよりはずっとよい。

 

隊列は子供たちの歩調に合わせ、ゆっくりと森を進んだ。

 

 

昼前の休憩で、レイネがエリスの右肩を最後に確認した。

 

肩へ指を添え、腕を前後左右へ動かさせる。エリスは痛みを訴えず、腕も問題なく上がっていた。

 

「もういいでしょう?」

 

エリスが尋ねる。

 

「はい」

 

レイネは頷いた。

 

「骨と筋肉の損傷は十分に回復しております。通常の剣術訓練へ戻っていただいて問題ございません」

 

「本当に?」

 

「はい。ただし、鋭い痛みや違和感がございましたら、その時はすぐにお申しつけくださいませ」

 

「分かったわ!」

 

エリスは嬉しそうに右腕を回した。

 

長い間、剣を制限されていたことが相当不満だったらしい。

 

右腕を動かしながら、今すぐにでも木剣を振り始めそうな顔をしている。

 

それでも、傷を隠して無理に動かすことはせず、レイネから許可が出るまで待った。

 

以前のエリスなら、痛くないと言い張って勝手に訓練を始めていたかもしれない。

 

少しずつではあるが、自分の身体と周囲の言葉を大切にするようになっている。

 

「これで、もう肩のことを何度も言わないわよね?」

 

「治癒した箇所を理由なく制限するつもりはございません」

 

「なら、今日から訓練するわ」

 

「移動中でございますので、周囲の安全を確認してからになさってくださいませ」

 

それは肩の問題ではなく、旅の最中である以上当然の注意だった。

 

エリスも理解したらしく、素直に頷いた。

 

肩の治療は、これで一区切りだ。

 

レイネも以後は、何か異常がない限り口を出すつもりはないのだろう。

 

レイネがエリスの腕から手を離す。

 

エリスは何度か肩を動かし、本当に痛みがないことを確かめると、満足そうに胸を張った。

 

その姿を見て、俺も安心した。

 

船の上で吐き続け、まともに立つこともできなかったエリスが、今は再び剣を振れるまでに回復している。

 

旅を続ける以上、怪我や体調不良を完全に避けることはできない。

 

だが、こうして一つずつ治し、また前へ進めることがありがたかった。

 

休憩を終え、再び歩き始める。

 

しばらくすると、エリスがギュエスの隣へ並んだ。

 

先ほどから何度も顔を見ていたため、気になって仕方がなかったらしい。

 

「ギュエス」

 

「何だ」

 

「やっぱり、あなたってギレーヌに少し似てるわね」

 

ギュエスの足が止まりかけた。

 

耳が立ち、尾が大きく一度揺れる。

 

明らかに反応した。

 

俺も、少し前を歩きながら二人の会話へ耳を傾けた。

 

「ギレーヌを、どこまで知っている」

 

「どこまでって、私の剣の先生よ」

 

エリスは当然のように答えた。

 

「フィットア領にいた時は、ずっと私の護衛もしていたわ」

 

「護衛……?」

 

ギュエスの声には、明らかな戸惑いがあった。

 

「そうよ。何を驚いてるの?」

 

「ギレーヌというのは、右目に眼帯をした、体格の大きな女か」

 

「そうだけど」

 

「剣を持つこと以外は何もできず、気に入らなければすぐ暴れる」

 

「それ、いつのギレーヌの話?」

 

エリスの眉が寄る。

 

俺が知っているギレーヌと、ギュエスが語るギレーヌは、同じ人物とは思えないほど違っている。

 

確かに、俺たちと出会った頃のギレーヌも、言葉より先に身体が動くところはあった。

 

だが、何も考えずに暴れるだけの人ではなかった。

 

エリスを守り、剣を教え、自分が不得意な勉強へも向き合っていた。

 

「村にいた頃だ」

 

「村にいた頃って……」

 

エリスはギュエスの顔を改めて見た。

 

耳。

 

目元。

 

顔の輪郭。

 

「もしかして、ギレーヌの家族なの?」

 

ギュエスは少し迷った後、答えた。

 

「兄だ」

 

「お兄さん!?」

 

エリスの声が森へ響いた。

 

近くを歩く子供たちが振り返る。

 

俺も驚いた。

 

似ているとは思っていたが、本当に兄妹だったらしい。

 

ギレーヌの家族へ、このような形で会うことになるとは思わなかった。

 

「あなたがギレーヌのお兄さんなの?」

 

「ああ」

 

「本当に?」

 

「嘘をつく理由がない」

 

エリスはギュエスを上から下まで眺めた。

 

「やっぱり、あまり似てないわ」

 

「お前が似ていると言い出したのだろう」

 

「少し似てるだけよ。ギレーヌの方が、ずっと強そうだもの」

 

「俺より強いのは認める」

 

ギュエスはそう答えたものの、妹の強さを誇っているようには見えなかった。

 

むしろ、ギレーヌの名前を口にするたび、胸の奥にある苦いものへ触れているように見える。

 

「でも、知らなかったの?」

 

エリスが尋ねる。

 

「何をだ」

 

「ギレーヌが剣王だってこと」

 

ギュエスが完全に足を止めた。

 

「剣王?」

 

「そうよ。私の先生なんだから、それくらい強くて当然でしょう?」

 

当然ではない。

 

剣王は、剣士として一流どころか、世界でも限られた者しか到達できない領域だ。

 

だが、エリスにとってギレーヌが強いことは、疑う余地のない前提なのだろう。

 

ギュエスの顔には、本気で信じられないという感情が浮かんでいた。

 

家族でありながら、妹が剣王になったことすら知らなかった。

 

それほど長く、連絡を取っていなかったのだ。

 

「村を出てから、ギレーヌは一度も戻っていない」

 

ギュエスが言った。

 

「だからといって、剣王になったことまで知らないなんておかしいわ」

 

「居場所が分からなかった」

 

「探さなかったの?」

 

問いかけられたギュエスの表情が硬くなる。

 

「ギレーヌは、村を追い出された」

 

エリスの顔から、僅かに明るさが消えた。

 

俺も言葉を失った。

 

村を出たのではない。

 

追い出された。

 

その違いは大きい。

 

「どうして?」

 

「手がつけられなかったからだ。幼い頃から誰の言葉も聞かず、気に入らないことがあれば暴れた。子供だけでなく大人にも噛みつき、村の物を壊した」

 

「それだけで追い出したの?」

 

「それだけではない」

 

ギュエスは再び歩き始めた。

 

エリスも隣から離れない。

 

「戦士として育てようとした。狩りも、村の決まりも、他者と暮らすための作法も教えた。だが、あいつは自分より弱い者の言葉を聞かなかった」

 

「強い人の言葉なら聞いたの?」

 

「自分を倒した相手には、少しだけな」

 

「それは、今もあるわね」

 

エリスは否定しなかった。

 

確かに、ギレーヌは強い者へ敬意を払っていた。

 

剣神や剣王など、自分が認めた相手の話はよく聞く。

 

だが、それだけではなかった。

 

俺のように、戦士としてギレーヌより弱い相手からも、文字や算術を学ぼうとしていた。

 

「ギレーヌは強い人を尊敬するもの。でも、自分より弱い人を何でも無視するわけじゃないわ」

 

ギュエスがエリスを見る。

 

「私がギレーヌより弱かった時から、剣を教えてくれたわ。できないからって見捨てられたこともない」

 

「ギレーヌが、誰かに教えたのか」

 

「何度も同じことを教えてくれたわよ。私が上手くできなくて怒っても、次の日にはまた稽古をしてくれた」

 

エリスの言葉には、教師への強い信頼があった。

 

ギレーヌがエリスへ剣を教えていた頃を思い出す。

 

厳しい稽古だった。

 

エリスが地面へ倒れても、簡単には手を差し伸べなかった。

 

だが、本当に危険な時には必ず止めた。

 

できないからと見捨てたこともない。

 

「ギレーヌは、私の護衛としても立派だったわ。危険なことがあれば最初に前へ出たし、私が間違ったことをしたら止めてくれた」

 

「ギレーヌが、他人を止める側に……」

 

ギュエスは信じられないように呟いた。

 

村にいた頃のギレーヌしか知らない彼にとっては、想像すらできないのだろう。

 

俺も会話へ加わった。

 

「ギレーヌさんは、ボレアス家で厚く信頼されていました」

 

「お前も知っているのか」

 

「はい。僕がエリスの家庭教師をしていた頃、同じ屋敷で暮らしていました」

 

「家庭教師?」

 

ギュエスは俺とエリスを交互に見た。

 

俺の年齢で家庭教師をしていたことも理解しにくいだろうが、今は妹の方が重要らしい。

 

「ギレーヌさんも、僕たちと一緒に読み書きや算術を学んでいました」

 

「ギレーヌが文字を?」

 

「最初は、自分の名前を書くことにも苦労していました」

 

「それは想像できる」

 

「ですが、途中で投げ出しませんでした。何度間違えても、翌日には同じ席へ座っていました」

 

慣れない羽根ペンを持ち、力を入れすぎて紙を破りそうになっていた姿を思い出す。

 

真剣な顔で文字を追い、間違えるたびに耳を伏せていた。

 

それでも、次の日にはまた机へ向かっていた。

 

ギレーヌは器用ではなかった。

 

一度教えただけで何でも覚えられる人でもない。

 

それでも、できないことから逃げる人ではなかった。

 

「自分が読み書きできないことで、周囲へ迷惑をかけたくないと言っていました」

 

「ギレーヌが、そんなことを……」

 

ギュエスの歩調が僅かに落ちる。

 

妹へ対して抱いていた記憶と、俺たちが語る現在の姿が結びつかないのだろう。

 

ギュエスが嘘をついているとは思わない。

 

幼い頃のギレーヌは、本当に周囲を傷つけ、家族を困らせていたのだと思う。

 

だが、それだけがギレーヌのすべてではない。

 

村を離れた後、彼女は長い時間を生き、学び、変わっていった。

 

後ろから歩いてきたレイネも、静かに会話へ加わった。

 

「私も、フィットア領でギレーヌ様とご一緒しておりました」

 

「お前も妹を知っているのか」

 

「はい」

 

「お前から見ても、ギレーヌは変わっていたのか」

 

レイネは少し考えた。

 

「村におられた頃のギレーヌ様を、私は存じません。ですので、どれほど変わられたかを比較することはできません」

 

前置きをしてから、ギュエスへ視線を向ける。

 

「ですが、私が存じているギレーヌ様は、ご自身へ与えられた役目を軽く扱う方ではございませんでした」

 

「役目?」

 

「エリス様をお守りすることです」

 

レイネの赤い瞳が、エリスへ向く。

 

「危険があれば最初に前へ出て、エリス様が無理をなされば厳しく止めておられました。ご自分の不得意なことを恥じながらも、それを理由に学ぶことを拒んだこともございません」

 

「ギレーヌが、無理をする者を止めたのか」

 

ギュエスが呟く。

 

「何よ。私がいつも無理をしてたみたいじゃない」

 

エリスが不満そうに言った。

 

俺とレイネは答えなかった。

 

実際、エリスは何度も無理をしていた。

 

俺自身も人のことを言えないが、それでも否定することはできなかった。

 

沈黙が返事になってしまったらしく、エリスの頬が膨らむ。

 

「今は、ちゃんと考えてるわ」

 

「はい。エリス様は、周囲の方々をよくご覧になって行動しておられます」

 

レイネが補足する。

 

エリスは満足そうに頷いた。

 

ギュエスの口元が、ほんの僅かに緩んだ。

 

「妹が仕えていた娘は、随分と騒がしいな」

 

「誰が騒がしいのよ」

 

「お前だ」

 

「ギレーヌのお兄さんだからって、偉そうにしないで」

 

「俺はお前より年上だ」

 

「私の方が、今のギレーヌを知ってるわ」

 

それを言われると、ギュエスは反論できなかった。

 

表情から笑みが消え、代わりに苦いものが浮かぶ。

 

「そうだな」

 

その短い返事には、重い後悔が含まれているように聞こえた。

 

家族でありながら、妹の今を何も知らない。

 

俺たちの方が、ギレーヌの近年の姿をよく知っている。

 

それは、ギュエスにとって簡単に受け入れられることではないのだろう。

 

エリスも、その声の変化に気づいたらしい。

 

「ギュエスは、ギレーヌが嫌いなの?」

 

「分からん」

 

「分からないって何よ」

 

「村にいた頃のあいつを思い出せば、今でも腹が立つ。何人もの戦士が怪我をさせられた。父上も母上も、あいつをどうすればよいのか悩んでいた」

 

ギュエスの視線が、隊列の中を歩くトーナへ向く。

 

「ギレーヌが村からいなくなった時、俺は安心した」

 

エリスは、今度は口を挟まなかった。

 

俺も何も言えなかった。

 

妹が追放され、安心した。

 

言葉だけを聞けば、冷たい兄に思える。

 

だが、自分の娘を持つ今のギュエスが、当時どのような状況だったのかを振り返っている。

 

家族が周囲へ謝り続け、誰かが何度も怪我をし、いつまた問題を起こすか分からない。

 

その生活から解放され、ほっとしたこと自体を責めるのは簡単ではなかった。

 

「もう暴れられない。家族が責められることもない。村の者へ頭を下げずに済む。そう思った」

 

自分を正当化する声には聞こえなかった。

 

「戻らないなら、それでいいと思っていた。どこかで死んだかもしれないと考えたこともあったが、探そうとはしなかった」

 

「死んでないわ」

 

エリスがすぐに言った。

 

「ギレーヌは絶対に生きてる」

 

「ああ。剣王なら、簡単には死なんだろう」

 

「剣王じゃなくても、ギレーヌは死なないわ」

 

その確信に理屈はない。

 

けれど、俺も同じように信じていた。

 

フィットア領転移事件が起きたあの日。

 

ギレーヌも、どこかへ飛ばされたはずだ。

 

生きているという証拠はない。

 

それでも、あのギレーヌが簡単に死ぬ姿は想像できなかった。

 

「ギュエス」

 

先頭を歩いていたギュスターヴが、振り返らずに息子を呼んだ。

 

「何です、父上」

 

「儂らの知らぬところで、あの子は生き方を見つけたのだろう」

 

「父上は、ギレーヌが変わったと信じるのですか」

 

「この者たちが、揃って同じ嘘をつく理由はない」

 

ギュスターヴは歩みを止めない。

 

「何より、聖獣様と子供たちを救った者たちだ。恩人の言葉を、自分たちに都合が悪いからと疑うつもりはない」

 

「ですが……」

 

「儂らが知っているのは、村を出る前のギレーヌだけだ」

 

老人の声にも、苦い感情が混じっていた。

 

「外でどのように生き、何を学んだかを知らぬ。その知らぬ時間まで、昔と同じであったと決めつける資格はない」

 

ギュエスは返事をしなかった。

 

エリスも黙り、しばらく森を進む足音だけが続いた。

 

ギレーヌが村で何をしたのかは、俺たちには分からない。

 

家族が受けた苦労を、なかったことにはできない。

 

それでも、過去だけで今のギレーヌまで否定することも間違っている。

 

ギュスターヴの言葉を聞きながら、俺は自分自身のことを少し考えた。

 

以前の世界の俺を知る人間が、今の俺を見れば、どのように思うだろう。

 

過去に何をしていたか。

 

どれほど周囲から逃げていたか。

 

その事実は消えない。

 

だが、それだけを理由に今の自分まで何も変わっていないと決めつけられれば、つらいと思う。

 

ギレーヌも、自分の知らない場所で変わろうとした。

 

その時間を、少なくとも俺たちは知っている。

 

 

最初の夜は、川の近くにある野営地で休むことになった。

 

獣族の戦士たちは、ほとんど言葉を交わさずに作業を分担し、短い時間で寝床や火を準備した。

 

救出された子供たちには、柔らかく煮込んだ肉と穀物を出す。

 

ザントポートで三日間休んだため、食事の量も少しずつ通常へ戻り始めていた。

 

子供たちが食事を終えた後、エリスは練習用の木剣を取り出した。

 

「ギュエス」

 

「何だ」

 

「私の剣を見れば、ギレーヌがどんな先生か分かるわ」

 

「俺と戦うつもりか」

 

「そうよ」

 

「移動の途中だぞ」

 

「だから、本気で怪我をさせるような戦いはしないわ」

 

ギュエスがレイネを見た。

 

「肩を痛めていたと聞いたが」

 

「もう治ったわ」

 

エリスが先に答える。

 

レイネも頷いた。

 

「通常の訓練を行っていただいて問題ございません」

 

それだけ確認すると、ギュエスは地面から長い木の棒を拾った。

 

「刃は使わん」

 

「私も木剣よ」

 

二人が距離を取る。

 

周囲の子供たちが興味深そうに集まった。

 

俺も少し離れた場所に立ち、二人の動きを見守る。

 

肩は治っているとレイネが確認した。

 

それでも、久しぶりの訓練でエリスが無理をしないか、僅かに心配だった。

 

一方で、エリスがギレーヌから何を学んだのかを、ギュエスへ見せてほしいとも思った。

 

言葉だけでは伝わらないものが、剣には表れるかもしれない。

 

「始め!」

 

トーナの声を合図に、エリスが踏み込んだ。

 

速い。

 

最初の一歩から、ギュエスとの距離を一気に詰める。

 

木剣が振り下ろされ、ギュエスの棒と衝突した。

 

乾いた音が森へ響く。

 

エリスは止まらない。

 

受け止められた瞬間には身体を横へ滑らせ、別の角度から二撃目を放つ。

 

ギュエスが棒を傾け、軌道を逸らした。

 

三撃目。

 

四撃目。

 

荒々しい攻撃ではあるが、ただ力任せに振っているわけではない。

 

相手の守りが薄くなる場所を選び、前へ出る勢いで反撃の機会を奪っている。

 

以前のエリスなら、力と速度だけで押し切ろうとしていたかもしれない。

 

今は、ルイジェルドとの旅で覚えた相手の動きの見方も加わっている。

 

だが、その根本にある踏み込みと攻めの強さは、間違いなくギレーヌから教わったものだ。

 

ギュエスは最初、防御に徹していた。

 

エリスの踏み込み。

 

剣を振る角度。

 

重心の移動。

 

その一つひとつを確認しているように見える。

 

「なるほど」

 

ギュエスが呟いた。

 

木剣を受け流し、横へ回る。

 

棒がエリスの肩へ伸びる。

 

一瞬、治ったばかりの右肩が頭をよぎり、身体へ力が入った。

 

だが、エリスは身体を沈めて避け、そのままギュエスの懐へ入った。

 

木剣の切っ先が、ギュエスの胸へ触れる寸前で止まる。

 

同時に、ギュエスの棒もエリスの脇腹へ止められていた。

 

相打ちだった。

 

二人は距離を取り、構えを解く。

 

「どう?」

 

エリスが得意そうに尋ねた。

 

ギュエスは木の棒を見た。

 

何度も攻撃を受けた部分が、深くへこんでいる。

 

「確かに、ギレーヌの教えた剣だ」

 

その声には、先ほどまでの疑いがなかった。

 

妹が剣を教えていたという話を、ようやく実感できたのだろう。

 

エリスの剣の中に、自分が知っているギレーヌの動きを見つけたのかもしれない。

 

「でしょう?」

 

エリスの顔が明るくなる。

 

自分の剣が認められたことだけではない。

 

ギレーヌが教師だったと、家族へ証明できたことが嬉しいのだろう。

 

「ただし、妹よりも素直だ」

 

「どういう意味よ」

 

「ギレーヌは、教えられた型へ余計な力を加えすぎていた。お前は前へ出るが、教えられた道筋から大きく外れていない」

 

エリスは少し考えた後、満足そうに笑った。

 

「ギレーヌの教え方がよかったのよ」

 

「そうなのだろうな」

 

ギュエスは、今度は素直に認めた。

 

妹が教師として生きていたことを、初めて自分の目で確かめたのだろう。

 

ギュエスの表情には、まだ戸惑いが残っている。

 

それでも、妹が変わったという事実を否定しようとはしていなかった。

 

「もう一度やる?」

 

「今日はやめておく」

 

「怖いの?」

 

「子供を村へ送る途中で、恩人を怪我させるわけにはいかん」

 

「次は私が勝つわよ」

 

「次があるならな」

 

「村に着いたら、またやればいいわ」

 

ギュエスは困ったように頭を掻いた。

 

だが、拒絶はしなかった。

 

二人のやり取りを見ながら、俺は僅かに安心した。

 

ギレーヌ本人は、まだここにいない。

 

それでも、エリスを通して、家族との間に切れていた糸が少しだけ繋がり始めているように思えた。

 

 

翌日も、エリスは歩きながらギレーヌの話を続けた。

 

剣の稽古。

 

屋敷での暮らし。

 

読み書きを学ぶ時の様子。

 

褒められると耳や尾へ感情が出ていたこと。

 

エリスは一つ思い出すたび、すぐにギュエスへ話した。

 

昨日までなら、自分の知らない妹の話を聞くたびに苦い顔をしていたギュエスも、今日は途中で会話を打ち切ろうとはしなかった。

 

「ギレーヌは、教える時に細かい説明をしないのよ」

 

エリスは身振りを交えながら話す。

 

「まず自分で見せて、それから同じようにやれって言うの」

 

「妹らしいな」

 

ギュエスが答えた。

 

「でも、できなかったら何度でも見せてくれるわ。私が怒って剣を投げても、次の日にはまた稽古に来た」

 

「剣を投げたのか」

 

「最初の頃だけよ」

 

「ギレーヌは怒らなかったのか」

 

エリスは考える。

 

「頭はつかまれたけど、殴られてはいないわ」

 

「それは、かなり変わっている」

 

ギュエスは本気で驚いていた。

 

村にいた頃のギレーヌなら、先に拳が出ていたのかもしれない。

 

俺も、エリスが剣を投げた日のことを思い出した。

 

ギレーヌは怒っていた。

 

だが、力任せに殴りつけることはしなかった。

 

剣を粗末にしたことを叱り、自分で拾わせ、稽古を続けさせた。

 

怒り方まで学んだのだろう。

 

「ギレーヌは、村の話をしたことがあるのか」

 

ギュエスが尋ねた。

 

「ほとんどないわ」

 

「そうか」

 

「でも、忘れてたとは思わない」

 

「なぜだ」

 

「大森林や獣族の話が出た時、耳や尻尾が動いてたもの」

 

ギュエスの耳が僅かに伏せられる。

 

「昔からだ。嫌なことを思い出すと、耳が少し下がる」

 

「やっぱり」

 

「怒っている時は、尾の先が速く動く」

 

「それも同じだわ」

 

二人が知るギレーヌは、大きく異なっている。

 

それでも、感情が耳や尾へ表れる癖までは変わっていなかったらしい。

 

幼い頃のギレーヌと、俺たちが知るギレーヌ。

 

その間には、長い時間がある。

 

まるで別人のように変わった部分もあれば、昔のまま残っている部分もある。

 

二人の話を聞いていると、離れていた時間を少しずつ埋めているように見えた。

 

「会えたら、何を言うの?」

 

エリスが尋ねた。

 

ギュエスは答えを出せず、しばらく黙った。

 

「分からん」

 

「またそれ?」

 

「何十年も会っていない妹へ、最初に何を言えばいい」

 

「久しぶり、でいいじゃない」

 

「それだけで済む話ではない」

 

「じゃあ、謝れば?」

 

エリスの答えは単純だった。

 

ギュエスの眉が寄る。

 

「俺だけが悪かったわけではない」

 

「ギレーヌだけが悪かったわけでもないでしょう?」

 

言い返され、ギュエスが黙る。

 

エリスの言い方は遠慮がない。

 

だが、間違ってはいないと思った。

 

昔のギレーヌが周囲を傷つけたことは事実なのだろう。

 

それでも、家族が何十年も探さず、死んだかもしれないと思いながら放置したことまで、すべてギレーヌ一人の責任ではない。

 

「昔のギレーヌが悪かったなら、そこは怒ればいいわ。でも、探さなかったことを悪いと思ってるなら、それは謝るべきよ」

 

「お前は何でも簡単に言うな」

 

「難しく考えても、言うことは同じでしょう」

 

エリスは前を向いた。

 

「謝るかどうかはギュエスが決めればいいわ。でも、ギレーヌだけが悪かったみたいに言ったら、私が怒るからね」

 

「お前は妹の何なのだ」

 

「弟子よ」

 

胸を張って答える。

 

「ギレーヌの一番弟子なんだから」

 

その言葉を聞き、胸が少し温かくなった。

 

エリスは、ギレーヌがいない場所でも、堂々と自分を弟子だと名乗る。

 

ギレーヌから教わったことを誇りにしている。

 

教師にとって、それ以上に嬉しいことはないのかもしれない。

 

ギュエスは呆れたようにエリスを見た後、僅かに口元を緩めた。

 

「よく似た師弟だ」

 

「どこが?」

 

「自分の思ったことを、相手がどう思うか考えずに言うところだ」

 

エリスの眉が吊り上がる。

 

「私とギレーヌは、もっといろいろ似てるわよ!」

 

否定するのではなく、似ている部分を増やした。

 

ギュエスの笑みが少し深くなった。

 

最初に会った時よりも、妹の話をする表情が柔らかくなっている。

 

怒りや苦い記憶が消えたわけではない。

 

だが、ギレーヌの今を知ろうとする気持ちが、少しずつ生まれているようだった。

 

 

三日目の午後、木々の間に巨大な門が見えた。

 

地面へ建てられた門ではない。

 

複数の大木を繋ぐように高い位置へ設けられ、そこから木製の通路が森の奥へ伸びている。

 

太い幹を囲むように家が建てられ、枝と枝の間には吊り橋が渡されていた。頭上にも、そのさらに上にも建物がある。

 

森そのものを村として利用している。

 

地面へ家を並べる人族の町とは、まるで違う光景だった。

 

「着いたニャ!」

 

トーナが声を上げる。

 

子供たちの足が速くなった。

 

疲れているはずなのに、村が見えた瞬間、身体へ力が戻ったようだった。

 

家族が待っている。

 

自分たちの帰る場所が、目の前にある。

 

村の入口にいた見張りが、こちらの隊列へ気づく。

 

最初は武器へ手を掛けたが、ギュスターヴとギュエスを認め、次に子供たちの姿を見つけた。

 

「帰ってきたぞ!」

 

叫び声が、村中へ響いた。

 

木の上の家々から獣族が飛び出してくる。

 

階段を駆け下りる者。

 

高所の通路から子供の名前を呼ぶ者。

 

子供たちも家族を見つけ、隊列を離れて走り出した。

 

トーナは母親らしい女性の胸へ飛び込む。

 

テルセナも、迎えに来た男女へ抱きしめられた。

 

何度も名前を呼ばれ、顔や手足を確かめられる。

 

子供たちは最初、必死に涙をこらえていた。

 

だが、家族の腕の中へ戻った瞬間、堪えきれなくなったように声を上げて泣き始めた。

 

その泣き声を聞いた瞬間、胸の奥が強く締めつけられた。

 

倉庫を出た時には泣かなかった。

 

船から助け出された時にも、必死に恐怖を抑えていた。

 

ようやく、泣いても大丈夫な場所へ帰ってきたのだ。

 

家族へ抱かれ、もう売られないと分かって、初めて我慢をやめることができた。

 

エリスは少し離れた場所で、その光景を見ていた。

 

目元に浮かんだものを、袖で素早く拭う。

 

隣に立つレイネは何も指摘せず、エリスの背中へそっと手を添えた。

 

俺も、胸の奥が熱くなるのを感じていた。

 

倉庫から連れ出しただけではない。

 

家族の腕へ帰るところまで見届けて、ようやく救出が終わったのだと思えた。

 

そして同時に、自分の家族を思い出した。

 

父さん。

 

母様。

 

リーリャ。

 

ノルン。

 

アイシャ。

 

俺が無事に帰れば、同じように抱きしめてもらえるのだろうか。

 

全員が生きていて、再会できるのだろうか。

 

喜ばしい光景を見ているのに、その奥から不安と寂しさが込み上げた。

 

今は目の前の家族の再会を喜ぼう。

 

自分たちも、いつか必ず同じ場所へ辿り着く。

 

そう信じるしかなかった。

 

銀色の聖獣が村へ入ると、獣族たちは一斉に膝をついた。

 

聖獣は堂々と彼らの間を進む。

 

しかし、途中でこちらへ振り返ると、すぐに走って戻ってきた。

 

嫌な予感がした。

 

大きな身体で飛びつかれ、俺は地面へ押し倒された。

 

「待ってください!」

 

顔を舐められる。

 

周囲から笑い声が上がった。

 

トーナも母親へ抱かれたまま笑っていた。

 

つい先ほどまで泣いていた子供が、今度は俺を見て笑っている。

 

顔を唾液まみれにされたことは困るが、その笑い声を聞けたことは嬉しかった。

 

レイネが聖獣を俺から離し、布を差し出す。

 

「随分とお気に召されたようでございますね」

 

「もう少し静かな愛情表現を覚えてほしいです」

 

「聖獣様へ、そのようにお願いしてみてはいかがでしょうか」

 

「言葉が通じるなら、そうします」

 

顔を拭きながら起き上がる。

 

少し離れた場所では、ギュエスが家族と再会したトーナを見守っていた。

 

厳しい顔をしているが、耳と尾の動きは隠せていない。

 

娘が無事に帰ったことへ、心から安心しているのだろう。

 

その後、父親へ近づく。

 

「父上」

 

「何だ」

 

「今夜の集まりで、ギレーヌについて話してもよいでしょうか」

 

ギュスターヴは息子を見た。

 

「何を話す」

 

「妹が生きていること。剣王になり、人族の娘へ剣を教え、護衛として信頼されていたことです」

 

「村の者の中には、受け入れぬ者もいるぞ」

 

「俺も、昨日まで受け入れられませんでした」

 

ギュエスはエリスへ視線を向けた。

 

「ですが、何も知らないまま、面汚しと呼び続ける方が間違っていると思います」

 

その言葉を聞き、少し驚いた。

 

数日前まで、ギュエス自身がギレーヌを受け入れられずにいた。

 

今も、過去を許したわけではない。

 

それでも、知らないまま妹を否定し続けることは間違いだと、自分から言った。

 

「お前が、それを言うのか」

 

「俺が言うべきなのでしょう」

 

ギュエスは自嘲するように笑った。

 

「一番近い家族でありながら、妹が外で過ごした時間を知ろうともしなかったのですから」

 

ギュスターヴは長く息を吐いた。

 

「好きにせよ」

 

「はい」

 

「ただし、あの子が村へ戻ることを望んでいると、勝手に決めるな」

 

ギュエスの顔が引き締まる。

 

「分かっています」

 

「我らが謝りたいからといって、あの子に帰る義務はない」

 

「はい」

 

その言葉は重要だと思った。

 

家族が後悔している。

 

謝りたい。

 

だからといって、ギレーヌがそれを受け入れ、村へ戻らなければならないわけではない。

 

許すかどうか。

 

会うかどうか。

 

決める権利は、ギレーヌ自身にある。

 

ギュスターヴは、そのことを理解していた。

 

エリスも、その会話を聞いていた。

 

ギュエスがこちらへ来る。

 

「エリス」

 

「何?」

 

「今夜、村の者へ妹の話をしてくれないか」

 

「私が?」

 

「ああ。俺が話すより、お前が話した方がいい」

 

「どうして?」

 

「俺が知っているのは、村を追われる前のギレーヌだけだ」

 

ギュエスは、はっきりと認めた。

 

「今のギレーヌを知っているのは、お前たちだ」

 

エリスはギュエスの顔を見た。

 

「悪く言わない?」

 

「言わない」

 

「昔のことを、全部ギレーヌが悪かったみたいに話さない?」

 

「話さない」

 

「剣王になったことも、ちゃんと言う?」

 

「言う」

 

エリスは満足そうに頷いた。

 

「なら、話してあげるわ」

 

「頼む」

 

ギュエスが頭を下げる。

 

深い礼ではない。

 

それでも、最初に出会った時の彼からは想像できない姿だった。

 

エリスも少し驚いたように目を瞬かせたが、すぐに胸を張った。

 

「任せなさい。村のみんなに、本当のギレーヌがどれだけすごいか教えてあげるわ」

 

「多少は控えめに話せ」

 

「嫌よ。全部話すわ」

 

ギュエスは早くも頼んだことを後悔し始めたような顔をしていた。

 

だが、取り消そうとはしなかった。

 

エリスなら、ギレーヌを必要以上に悪く言うことは絶対にない。

 

それどころか、少し誇張してでも、どれほど立派な教師だったかを話すだろう。

 

ギュエスも、それを分かったうえで頼んだのだと思う。

 

 

その夜、村の中央にある大きな集会所へ、多くの獣族が集まった。

 

帰還した子供たちを祝うため。

 

聖獣の無事を喜ぶため。

 

俺たちへ礼を伝えるための宴だった。

 

料理が運ばれ、子供たちが家族の隣へ座る。

 

トーナとテルセナは、何度もエリスとレイネのもとへ駆け寄ってきた。

 

村へ戻って家族と再会しても、俺たちとの間に生まれた繋がりが消えたわけではないらしい。

 

二人が笑いながらこちらへ来るたびに、安心した。

 

ルイジェルドは、ギュスターヴと戦士たちの近くへ座っている。村の者たちからは、子供を救った魔族の戦士として敬意を向けられていた。

 

正体は明かしていない。

 

それでも、ルイジェルド本人が行ったことは、正当に見てもらえている。

 

それだけで少し嬉しかった。

 

宴が始まる前に、ギュエスが立ち上がった。

 

室内が静かになる。

 

「話しておきたいことがある」

 

ギュエスは、集まった村人を見渡した。

 

「俺の妹、ギレーヌについてだ」

 

空気が変わった。

 

年配の獣族の中には、露骨に顔をしかめる者もいる。

 

名前を聞いただけで、これほど拒絶される。

 

ギレーヌが村へいた頃、どれほど大きな問題を起こしていたのかが伝わってきた。

 

「なぜ、今さらあの娘の話をする」

 

一人の老人が言った。

 

「ギレーヌは村を追放された。一族の面汚しだ」

 

エリスが立ち上がりかける。

 

俺も、思わず身体へ力を入れた。

 

自分がよく知る相手を、何も知らないまま面汚しと呼ばれれば腹が立つ。

 

だが、レイネが止めるのではなく、小さな声で囁いた。

 

「ギュエス様のお話を、先に伺いましょう」

 

エリスは唇を引き結び、座り直す。

 

剣へ手を伸ばすことも、老人へ怒鳴り返すこともしなかった。

 

ギュエスを信じ、まず話を聞くことを選んだ。

 

ギュエスは老人から目を逸らさなかった。

 

「俺も、昨日までそう思っていた」

 

「ならば、何を話す」

 

「俺たちは、村を出た後のギレーヌを何も知らなかった」

 

ざわめきが起こる。

 

「ギレーヌは生きている。剣神流の剣王となり、人族の貴族へ仕え、護衛と剣の教師をしていた」

 

室内が静まり返った。

 

「剣王?」

 

「ギレーヌが?」

 

「教師など、できるはずがない」

 

疑う声が次々に上がる。

 

無理もない。

 

村人たちが知っているギレーヌと、俺たちが語る姿はあまりにも違う。

 

俺たちも、ギュエスから幼い頃の話を聞いた時には、同じ人物だと信じにくかった。

 

ギュエスは怒鳴り返さなかった。

 

「俺も、そう思った」

 

静かに答える。

 

「だが、ギレーヌから剣を教わった者が、ここにいる」

 

ギュエスの視線を受け、エリスが立ち上がった。

 

「エリス・ボレアス・グレイラットよ」

 

堂々と名乗る。

 

「ギレーヌは私の護衛で、剣の先生だったわ」

 

老人たちはエリスを見た。

 

「人族の娘が、ギレーヌの弟子だと?」

 

「そうよ」

 

「証拠はあるのか」

 

「私の剣を見れば分かるわ。ギュエスは分かったわよね?」

 

突然話を振られ、ギュエスが僅かに顔をしかめた。

 

「ああ。あれはギレーヌが教えた剣だった」

 

「でも、ギレーヌがすごいのは剣だけじゃないわ」

 

エリスは室内を見回す。

 

「文字も計算も勉強してた。私が上手くできなくて怒っても、剣の稽古を途中で投げなかった。危ない時は必ず前に立ったし、私が間違ったことをしたら、ちゃんと怒ってくれた」

 

「ギレーヌが文字を学んだ?」

 

「できないままにしたくないって、何度も練習してたわ」

 

俺も立ち上がった。

 

大勢の獣族の視線が集まる。

 

少し緊張した。

 

ここで俺たちが曖昧な話をすれば、ギレーヌへの疑いは消えない。

 

それでも、飾った話をする必要はない。

 

俺が見たままのギレーヌを伝えればいい。

 

「僕が、ギレーヌさんへ読み書きと算術を教えていました」

 

視線が集まる。

 

「ギレーヌさんは、覚えるのが速い方ではありませんでした。しかし、同じ問題を間違えても、翌日にはもう一度机へ向かいました。できないことを理由に逃げることはありませんでした」

 

教えていた頃の姿を思い出す。

 

一つの文字を何度も書き直し、計算を間違えれば悔しそうに尾を動かしていた。

 

俺が幼い教師だからと軽く扱ったこともない。

 

戦いでは自分より遥かに弱い俺から、素直に学ぼうとしていた。

 

レイネも静かに続ける。

 

「エリス様をお守りすることへ、強い責任を持っておられました。少なくとも私どもが存じているギレーヌ様は、他者へ迷惑をかけることを当然とする方ではございません」

 

集会所の空気が、少しずつ変わっていく。

 

すぐに認める者ばかりではない。

 

それでも、最初のように嘲る声は出なかった。

 

俺たちが全員、違う立場から同じギレーヌの姿を語っている。

 

嘘として片づけるには、証言が重なりすぎているのだろう。

 

ギュスターヴが立ち上がる。

 

「儂らが知っているのは、村を出る前のギレーヌだ」

 

老人たちへ向けて話す。

 

「村を出た後のあの子が、何を経験し、どのように生きたかを知らぬ。その知らぬ時間まで昔と同じであったと決めつけ、面汚しと呼び続けるべきではない」

 

「しかし、過去にしたことが消えるわけではない」

 

別の老人が言った。

 

「消えはせぬ」

 

ギュスターヴは否定しなかった。

 

「あの子が村で傷つけた者も、壊した物も、なかったことにはならぬ。だが、過去の罪が消えぬことと、その後の成長を認めぬことは別だ」

 

その言葉へ、俺も心の中で頷いた。

 

過去は消えない。

 

変わったからといって、以前に傷つけた者へ許すことを求めるべきでもない。

 

だが、過去だけでその後の人生すべてを否定することもできない。

 

ギュエスが父親の隣へ立った。

 

「俺は、ギレーヌが村からいなくなった時、安心しました」

 

村人たちの前で告白する。

 

「戻ってこなければよいと思い、探そうともしなかった。妹が外でどのように生きているかを知ろうとせず、昔の姿だけを理由に面汚しと呼び続けました」

 

ギュエスの手が拳を作る。

 

大勢の前で、自分の過ちを認める。

 

簡単なことではない。

 

家族への怒りも、当時の苦労も消えていない。

 

それでも、自分にも間違いがあったと口にしている。

 

「今も、昔のギレーヌを許せたわけではありません。ですが、俺が知らないまま裁き続けていたことも間違いでした」

 

室内にいる者たちは、誰も声を上げなかった。

 

「もし、もう一度会えたなら」

 

ギュエスは一度言葉を止めた。

 

森の中では答えを出せずにいた問いへ、今ようやく言葉を与える。

 

「村を出てからのことを、本人から聞きたい。そして、探そうともしなかったことを謝ります」

 

エリスがギュエスを見上げる。

 

「それでいいわ」

 

「お前に許可された覚えはない」

 

「私が教えたんだから、少しくらい感謝しなさい」

 

「誰が教えられた」

 

「謝ればって言ったでしょう」

 

小声で言い合う二人を見て、近くにいたトーナが笑った。

 

その笑いにつられ、周囲の空気も僅かに緩む。

 

ギュエスはエリスへ向き直った。

 

「旅の途中でギレーヌを見つけたら、伝えてくれ」

 

「何て?」

 

「帰ってこいとは言わない」

 

ギュエスは慎重に言葉を選ぶ。

 

「村へ戻るかどうかは、ギレーヌが決めることだ。ただ、一度だけ話をさせてほしい。俺が謝りたいと思っていると」

 

エリスは真剣な顔で聞いていた。

 

「分かったわ」

 

「忘れるなよ」

 

「忘れないわ。ギレーヌを見つけたら、絶対に連れてくる」

 

「連れてくる必要はない。伝えるだけでいい」

 

「話したいんでしょう?」

 

「本人が来たくないなら、無理に連れてくるな」

 

エリスは不満そうだったが、少し考えた後に頷いた。

 

「じゃあ、会ってもいいか、ちゃんとギレーヌに聞くわ」

 

「ああ。それでいい」

 

ギュエスの表情から、長くこびりついていたものが少しだけ剥がれ落ちたように見えた。

 

妹を許したわけではない。

 

過去を忘れたわけでもない。

 

ただ、自分が知らなかった時間の存在を、ようやく認めたのだ。

 

いつかギレーヌと再会した時。

 

この言葉を伝えることができればいい。

 

ギレーヌがどう答えるかは分からない。

 

怒るかもしれない。

 

会いたくないと言うかもしれない。

 

それでも、自分を覚え、謝ろうとしている家族がいることを知るだけでも、何かが変わるかもしれない。

 

 

ギレーヌの話が一段落すると、宴が始まった。

 

最初は疑っていた村人たちも、食事が進むにつれて少しずつ質問を始めた。

 

ギレーヌは何を食べていたのか。

 

どのような家で暮らしていたのか。

 

本当に剣王になったのか。

 

文字をどこまで覚えたのか。

 

どのような顔で笑っていたのか。

 

質問の一つひとつから、村人たちがギレーヌを完全に忘れていたわけではないことが伝わってきた。

 

面汚しと呼びながらも、どこかでは生きているのかを気にしていたのかもしれない。

 

素直に尋ねられなかっただけで、知りたいと思っていた者もいたのだろう。

 

俺たちは、覚えている限り答えた。

 

エリスは求められるまま、ギレーヌとの剣の稽古について語った。

 

俺とレイネも、自分たちが知るギレーヌの姿を話した。

 

ギュエスは宴の端で酒を飲みながら、最後まで耳を傾けていた。

 

信じられないように目を見開くこともあれば、昔を思い出したのか苦い表情を浮かべることもある。それでも途中で席を立つことはなく、村人たちよりも真剣に俺たちの話を聞いていた。

 

宴が進み、室内が賑やかになった頃だった。

 

集会所の入口から、場違いなほど軽い声が聞こえてきた。

 

「おいおい、子供が帰ってきた祝いだってのに、俺だけ働かせるのはひどくねえか?」

 

振り返る。

 

村の戦士に監視されながら、一人の男が大鍋を運んできた。

 

細い身体。

 

猿を思わせる顔立ち。

 

灰色がかった髪。

 

旅人らしい服装だが、腰に武器はない。両手首には短い縄が巻かれていたものの、完全に動きを封じられているわけではなかった。

 

見た瞬間に危険を感じるような人物ではない。

 

むしろ、どこか力の抜けた雰囲気を持っていた。

 

「黙って運べ」

 

監視している戦士が言った。

 

「運んでるだろ。俺は働くことに文句を言ってるんじゃねえ。飯も酒も飲ませず働かせることに文句を言ってんだ」

 

「いかさまをした罰だ」

 

「勝負の流れを、ほんの少し自分へ向けただけだぜ」

 

「それをいかさまと言う」

 

男は大鍋を床へ置いた。

 

「細かい種族だねえ」

 

戦士の耳が立つ。

 

男はすぐに両手を上げた。

 

「悪かった。反省してる。だから殴るなよ。見てのとおり、俺は戦えねえんだ」

 

宴へ参加していた者たちは、呆れたように男を見た。

 

どうやら、村では既に知られた人物らしい。

 

本気で危険視されているというより、迷惑をかけた旅人として働かされているように見える。

 

ギュスターヴが男へ声をかける。

 

「ギース。働きが終われば、食事は与えると言ったはずだ」

 

「族長さん、もう十分働いたと思うんだがね」

 

「まだ鍋が二つある」

 

「二つ?」

 

ギースと呼ばれた男の顔から、笑みが消えた。

 

「冗談だろ?」

 

「自業自得だ」

 

ギースは頭を抱えた。

 

その姿を見て、子供たちが笑う。

 

「子供が笑ってくれるなら、俺の苦労にも少しは価値があるか」

 

立ち直りが早い。

 

調子がよく、口も軽い。

 

だが、子供たちへ向ける顔には悪意がないように見えた。

 

ギースは俺たちのいる方へ顔を向けた。

 

視線が俺からエリスへ移り、レイネを通ってルイジェルドのところで止まる。

 

レイネを見た瞬間、ギースの目が僅かに細くなったように見えた。

 

同時に、隣に座っていたレイネの気配も変わった。

 

表情は穏やかなままだ。

 

姿勢も崩れていない。

 

ただ、膝の上に置かれていた右手だけが、服の陰へ静かに隠された。

 

ザントポートの倉庫で、人質を取った男へ針を投げた時と似た動きだった。

 

胸の中へ警戒が走る。

 

レイネが、初対面の相手を見ただけで武器へ手を伸ばした。

 

ギースはただのいかさま師ではないのかもしれない。

 

俺は二人の間へ視線を動かした。

 

「へえ」

 

ギースは何事もなかったように笑った。

 

「ザントポートを騒がせた英雄様ってのは、あんたらか」

 

「英雄ではありません」

 

俺が答える。

 

レイネの様子が気になったが、今ここで問いただすことはできない。

 

周囲には大勢の村人と子供たちがいる。

 

まずは、ギースが何を話すのかを聞くしかなかった。

 

「子供たちを助けたんだろ?」

 

「はい」

 

「船まで止めて、港の連中の悪事も暴いた」

 

「僕一人でやったわけではありません」

 

ギースは俺の前まで来た。

 

監視している戦士も、彼を止めようとはしない。

 

男はしゃがみ込み、俺と目線を合わせた。

 

「魔術に治療、鍵開け、船の足止め。それに獣神語まで話せるって聞いたぜ」

 

「誰から聞いたんですか?」

 

「村中で話してる」

 

ギースはにやりと笑った。

 

「若いのに大したもんだ」

 

「レイネや、ほかの皆がいたからです」

 

実際、俺一人では助けられなかった。

 

人神の助言どおり、一人で倉庫へ入っていれば、子供たちの全員を救出し、帳簿まで確保できたかは分からない。

 

仲間がいたからこその結果だ。

 

俺が答えると、ギースはレイネへ顔を向けた。

 

レイネは、既に右手を膝の上へ戻している。

 

「白髪の姉ちゃんはSランクなんだってな」

 

「レイネと申します」

 

レイネは丁寧に頭を下げた。

 

「初めまして、ギース様」

 

「俺の名前も知ってるのか?」

 

「先ほど、ギュスターヴ様がお呼びになっておりましたので」

 

「ああ、なるほどねえ」

 

ギースは笑みを崩さず、俺へ向き直った。

 

だが、レイネが自分を警戒していたことには気づいているように思えた。

 

二人の間に、言葉にされていない何かがある。

 

「俺はギース・ヌーカディア。剣も魔術も喧嘩も駄目だが、料理、罠、解体、鍵開け、値段交渉、地図読みなら任せてくれ」

 

「それだけできて、どうして捕まっているんですか?」

 

「いかさまがバレた」

 

即答だった。

 

「交渉で稼げるなら、正当な方法を使ってください」

 

「正論は耳に痛いねえ」

 

ギースは頭を掻いた。

 

「しかし、あんたは若いのに手堅いな。敵のところへ一人で飛び込まず、仲間と役割を分けて子供を助けたんだろ?」

 

人神に一人で行けと言われたことを知っているわけではないはずだ。

 

それでも、あえてその部分を取り上げられたことで、胸の奥に僅かな違和感が生まれた。

 

単に村で聞いた話なのか。

 

それとも、別の理由で俺の行動を知っているのか。

 

「どうして、そこまで詳しいんですか」

 

「話は集めるもんだ。どんな情報が、いつ命を救うか分からねえからな」

 

ふざけた口調だったが、最後の言葉だけは妙に実感がこもっていた。

 

ただの軽薄な男ではない。

 

生き残るために、情報を集め続けてきた者の言葉に聞こえた。

 

「決めた」

 

「何をですか?」

 

「今日から、あんたを先輩と呼ぶ」

 

「どうして?」

 

「冒険者は年齢じゃねえ。自分より手際のいい奴は先輩だ」

 

「ギースさんの方が、冒険者としては長いでしょう」

 

「俺は五十四人も子供を助けたことはねえよ」

 

ギースは立ち上がった。

 

「よろしくな、先輩」

 

勝手に決められてしまった。

 

「僕はルーデウスです」

 

「知ってるよ、先輩」

 

「その呼び方を変えるつもりは?」

 

「今のところねえな」

 

胡散臭い。

 

かなり胡散臭い。

 

話し方だけを見れば、初対面の相手へ簡単に近づき、距離を縮めようとする人物だ。

 

だが、子供たちへ向ける表情や、村の戦士とのやり取りだけを見れば、危険な人物には見えなかった。

 

だからこそ、レイネの反応が気になった。

 

レイネは、何を知っているのだろう。

 

その時、レイネが立ち上がった。

 

「ギース様」

 

「何だい?」

 

「鍋をお運びになるのであれば、入口までお手伝いいたします」

 

「Sランク様に鍋運びを手伝わせたら、俺の立場がなくなるぜ」

 

「こちらのお料理を移動させるだけでございます」

 

レイネは鍋の反対側へ手を添えた。

 

一見すれば、重い鍋を二人で運ぼうとしているだけだ。

 

ギースも断らず、取っ手を握った。

 

二人が俺たちの前を通り過ぎる。

 

その瞬間、レイネが僅かに顔を寄せた。

 

「今は、何もいたしません」

 

そこまでは聞こえた。

 

背中へ冷たいものが走った。

 

今は何もしない。

 

それは、別の状況なら何かをするという意味だ。

 

続く言葉はギースの耳元へだけ落とされ、俺には聞き取れなかった。

 

ギースの足が、一瞬だけ止まる。

 

顔から笑みが消えた。

 

細められた目が、すぐ隣にいるレイネへ向けられる。

 

その表情を見たのは、ほんの一呼吸ほどだった。

 

先ほどまでの軽薄な笑顔とは違う。

 

何かを見抜かれた者の顔に見えた。

 

「初対面の男に、随分と物騒な挨拶をする姉ちゃんだな」

 

次に口を開いた時には、ギースは再び笑っていた。

 

声も、先ほどまでと同じ軽い調子へ戻っている。

 

レイネは答えず、鍋を入口まで運んだ。

 

ギースは鍋を戦士へ渡すと、こちらへ片手を上げた。

 

「先輩、後でまた話そうぜ。ミリシオンへ行くなら、役に立つ話もしてやれる」

 

「ミリシオンのことを知っているんですか?」

 

「そりゃもう。顔の広さと無駄知識が、俺の武器だからな」

 

ミリシオンについて情報が得られることには興味がある。

 

家族を捜すためにも、道や町の状況は知っておきたい。

 

だが、レイネがあれほど警戒する相手から、何も考えずに情報を受け取ることはできなかった。

 

「ギース!」

 

監視の戦士が呼ぶ。

 

「残りの鍋を運べ」

 

「分かったよ!」

 

ギースは大げさに肩を落とし、集会所から出ていった。

 

レイネは入口に立ったまま、その後ろ姿を見送っている。

 

その横顔は、普段どおり落ち着いて見えた。

 

だが、先ほど服の中へ隠された手と、ギースへ告げた言葉を思えば、何も感じていないはずがない。

 

「レイネ」

 

呼びかけると、こちらへ振り返った。

 

「どうかなさいましたか、ルーデウス様」

 

声は普段どおりだった。

 

「今、ギースさんへ何を言ったんですか?」

 

レイネは、周囲にいる村人たちを一度見た。

 

「後ほど、人のいない場所でお話しいたします」

 

小さな声で答え、エリスの隣へ戻っていった。

 

今すぐ聞きたい。

 

ギースが何者なのか。

 

なぜ、レイネが殺気に近い警戒を向けたのか。

 

だが、周囲に人がいる以上、ここでは話せないのだろう。

 

俺は残った料理を口へ運びながらも、宴の間、何度も入口の方へ目を向けてしまった。

 

 

宴が終わった後、俺はレイネとともに、宿泊用として用意された家の外へ出た。

 

エリスは子供たちに捕まり、トーナの家で眠ることになった。

 

ルイジェルドは、ギュスターヴたちと今後の道について話している。

 

村の高い通路からは、月に照らされた森が見えた。

 

昼間とは違い、木々の下は深い闇へ沈んでいる。

 

遠くから聞こえる虫や獣の声以外、周囲は静かだった。

 

人のいない場所まで来たことで、宴の間から抑えていた疑問が一気に浮かんでくる。

 

「先ほどのことですが」

 

俺はレイネの隣で足を止めた。

 

「ギースさんを知っているんですか?」

 

「はい」

 

レイネは否定しなかった。

 

「直接お会いしたのは初めてでございますが、ギース・ヌーカディアという方については存じております」

 

直接会ったことはない。

 

それなのに、姿を見た瞬間に警戒した。

 

ルイジェルドの時と似ている。

 

レイネは、俺たちが知らない人物や出来事について、多くの知識を持っている。

 

「危険な人なんですか?」

 

「極めて警戒すべき方でございます」

 

迷いのない返事だった。

 

集会所で見た、調子のいい男とは結びつかない評価だ。

 

いかさまをして捕まり、鍋を運ばされ、子供たちへ笑われていた。

 

そんな人物を、レイネは極めて危険だと言った。

 

「ギース様は、人神の使徒でございます」

 

身体が強張った。

 

「使徒……」

 

「はい」

 

魔大陸からの旅で、何度も俺へ接触してきた人神。

 

その言葉を信じ、自分の判断よりも指示を優先する者を、レイネは使徒と呼んでいた。

 

あのギースが。

 

先ほど俺を先輩と呼び、ミリシオンの情報を教えると言った男が、人神の使徒。

 

胸の奥へ警戒と恐怖が広がる。

 

人神は、俺の未来が見えにくいと言っていた。

 

俺の近くにいるレイネを、見つけようとしている可能性もある。

 

ギースが偶然この村にいたのではなく、人神から命じられて俺へ近づいたのだとすれば。

 

あの軽い笑顔の裏に、別の目的があることになる。

 

「でも、ギースさんは、まだ何もしていません」

 

レイネの言葉を否定したかったわけではない。

 

ただ、集会所で見た男と、人神の使徒という言葉が、すぐには結びつかなかった。

 

「はい。少なくとも、私たちが確認できる範囲では」

 

「では、どうして分かったんですか?」

 

「使徒であることを見分ける方法がございます」

 

「それは、秘術ですか?」

 

「詳しい仕組みは、今はお話しできません」

 

レイネは申し訳なさそうに目を伏せた。

 

「ですが、見間違いではございません」

 

また、俺の知らない力だった。

 

レイネには、人神の使徒を見分ける方法がある。

 

詳しい仕組みを話せないことには、僅かな寂しさが残った。

 

それでも、人神と接触した直後の俺を見ただけで気づいたレイネなら、使徒を見分けられるという話にも説得力はあった。

 

少なくとも、何の根拠もなくギースを疑っているわけではない。

 

「だから、あの時、服の中へ手を入れたんですか?」

 

レイネは一度黙った。

 

「はい」

 

「何をしようとしたんですか?」

 

聞くのが少し怖かった。

 

レイネの手が向かった場所には、針などの武器が隠されている。

 

倉庫で見せた動きなら、ギースが反応する前に無力化することもできるだろう。

 

「ギース様を、その場で無力化することを考えました」

 

「殺すことも?」

 

「……はい」

 

短い返事だった。

 

胸の奥が冷たくなる。

 

予想していなかったわけではない。

 

レイネがギースへ告げた言葉から、ただ注意するだけではないと分かっていた。

 

それでも、明確に殺すことまで考えていたと聞けば、簡単には受け入れられなかった。

 

レイネの表情に迷いはなかったが、俺から目を逸らすこともしなかった。

 

俺がどう思うのかを受け止めるつもりなのだろう。

 

「どうして、やめたんですか?」

 

「ギース様が使徒であること以外に、今この場で危害を加えようとしている証拠がなかったためでございます」

 

レイネは集会所のある方角へ顔を向けた。

 

「それに、ルーデウス様をはじめ、皆様へ何の説明もせず、子供たちの帰還を祝う場で人を殺すべきではないと判断いたしました」

 

「僕たちがいたからですか?」

 

「はい」

 

レイネは素直に頷いた。

 

「私だけであれば、異なる判断をしていた可能性はございます」

 

その言葉を聞き、背中に冷たいものが走った。

 

レイネは、本当にギースを殺すことを考えていたのだ。

 

人神の使徒であるという理由だけで。

 

それほど人神と、その使徒を危険視している。

 

同時に、俺たちがそばにいたからこそ、自分だけの判断で命を奪わなかった。

 

レイネが俺たちの存在によって判断を変えたことへ、僅かな安堵も感じた。

 

だが、レイネが一人で行動していた時、同じ状況なら殺していたかもしれない。

 

その事実は重かった。

 

「何を警告したんですか?」

 

「今は何もしないこと。そして次に、人神の命令を受けて私たちへ敵対するのであれば、その時は必ず殺すとお伝えいたしました」

 

丁寧な口調だった。

 

それでも、ただ怖がらせるために言ったのではないと分かった。

 

実際に敵対すれば、レイネは実行する。

 

その覚悟がある。

 

「ギースさんは、何と答えたんですか?」

 

「何のことか分からないと、笑っておられました」

 

「認めなかった?」

 

「はい」

 

集会所で一瞬だけ消えた笑顔を思い出す。

 

俺の位置からは、ギースが何を考えていたのかまでは分からなかった。

 

ただ、レイネの言葉へ何の心当たりもなかったようには見えなかった。

 

本当に知らないのであれば、意味の分からない脅しへ、もっと戸惑ったはずだ。

 

あの一瞬だけ現れた真剣な顔は、正体を見抜かれた者の反応に思えた。

 

「ギースさんは、人神から何を命じられているんでしょうか」

 

「分かりません」

 

レイネは断言を避けた。

 

「今、何らかの命令を受けているのかどうかも確認できておりません」

 

「僕へ近づくよう言われた可能性は?」

 

「ございます。ですが、単なる偶然で村に滞在していた可能性も、現時点では否定できません」

 

レイネは、分からないことを分かったようには言わなかった。

 

人神の使徒である。

 

そこまでは断定する。

 

しかし、今回の目的までは分からない。

 

ギースが今すぐ俺たちへ危害を加えるとは限らない。

 

人神の使徒であることと、日常のすべてが嘘であることも同じではない。

 

その区別を誤れば、敵ではなかった相手を自分たちから敵へ回すことになる。

 

「ルーデウス様」

 

レイネが俺の前へ立った。

 

「ギース様と二人きりにはならないでくださいませ」

 

「はい」

 

即答した。

 

人神から、一人で倉庫へ行けと言われた時と同じだ。

 

相手が何を望んでいるのか分からない以上、一人で会う必要はない。

 

「人神について尋ねられても、私から何を聞いたかをお話しにならないでください。私の秘術や、皆様の力についても、必要以上にお伝えにならないようお願いいたします」

 

「分かりました」

 

「ただし、最初から敵として扱う必要もございません」

 

「どうしてですか?」

 

危険な使徒なら、距離を置いた方が安全に思える。

 

だが、レイネは首を横へ振った。

 

「敵意を示せば、ギース様が何も話さなくなる可能性がございます」

 

「普段どおり話しながら、目的を確かめるんですね」

 

「はい」

 

危険だから近づくな、ではない。

 

警戒しながら、何をしようとしているのかを見る。

 

それがレイネの判断らしい。

 

俺自身も、ギース本人と話してみたかった。

 

人神の使徒だからという理由だけで、何も知らずに敵と決めつけたくはない。

 

だが、警戒を解くつもりもなかった。

 

相手は情報を集めることを武器だと言った。

 

こちらが何を知っているのかを探ろうとしてくる可能性もある。

 

「レイネは、そばにいてくれますか?」

 

自分から口にした後、少しだけ恥ずかしくなった。

 

一人では会わないと決めているのだから、ルイジェルドへ頼んでもいい。

 

それでも、最初にレイネへ尋ねていた。

 

ギースを使徒だと見抜ける。

 

何かを仕掛けられた時にも、すぐに気づいてくれるかもしれない。

 

それだけではない。

 

レイネがそばにいると思うだけで、安心できた。

 

俺が尋ねると、レイネはすぐに顔を上げた。

 

「もちろんでございます」

 

迷いのない返事だった。

 

その言葉を聞き、胸の中へ入っていた力が僅かに抜けた。

 

「なら、ギースさんとも話してみます」

 

「必ず、私かルイジェルド様のいる場所でお願いいたします」

 

「約束します」

 

レイネの表情が僅かに和らいだ。

 

「ありがとうございます」

 

村の中には、まだ宴の余韻が残っていた。

 

遠くから、子供たちの笑い声が聞こえる。

 

ギュエスは今頃、村人たちからギレーヌについて質問されているのかもしれない。

 

エリスはトーナたちに囲まれている。

 

ギースがどこで何をしているのかは分からない。

 

初対面の印象だけなら、調子がよく、胡散臭いが、どこか憎めない冒険者だった。

 

だが、レイネは人神の使徒だと言った。

 

俺には、まだギースのどちらの姿が本当なのか判断できない。

 

人神の使徒であることと、普段見せている性格のどちらかが嘘とも限らない。

 

明るく軽い性格をした人間が、同時に人神の指示へ従っていることもあり得る。

 

人神の使徒だからといって、常に誰かを騙すためだけに笑っているとは限らない。

 

だからこそ、厄介だった。

 

まずは、話してみる必要がある。

 

ただし、レイネとの約束を守り、一人では会わない。

 

「戻りましょう」

 

俺が言う。

 

「はい」

 

俺たちは並んで通路を歩き、用意された家へ戻った。

 

隣を歩くレイネの姿を確かめながら、少しだけ歩幅を合わせる。

 

明日、ギースと話す機会があるだろう。

 

その時、彼が何を知り、何を求めて俺へ近づいてくるのか。

 

人神から何かを命じられているのか。

 

ただ偶然、同じ村にいただけなのか。

 

俺は、自分の目と耳で確かめるつもりだった。

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