白髪の侍女   作:MトK

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第三十六話 三つの手合わせ

ルーデウス視点

 

翌朝。

 

用意された家を出ると、デドルディア族の村は既に動き始めていた。

 

高い木々の幹へ取りつけられた通路を、大人たちが忙しそうに行き交っている。狩りへ向かう戦士、食料を運ぶ者、ザントポートから帰還した子供たちの様子を見に行く者。

 

昨日まで宴の声で満ちていた村が、今朝は日常の営みへ戻っている。

 

攫われていた子供たちも家族のもとへ帰り、昨夜は久しぶりに安心して眠れたはずだ。

 

そのことを思うと、胸の奥に残っていた緊張が少しだけ解けた。

 

雨季が迫っているとは思えないほど、空はよく晴れていた。

 

昨日のうちに、出発についてはギュスターヴと話してある。

 

ミリシオンまでの道を進むための馬車や食料を、村で用意してくれるという。ただし、急に決まったことなので準備には今日一日が必要らしい。

 

俺たちは、もう一日だけ村へ滞在し、明日の朝に出発することになっていた。

 

家族を捜すためには、一日でも早く先へ進みたい。

 

その気持ちは変わらない。

 

だが、雨季までにはまだ時間があり、ここで無理に準備を急がせる必要もなかった。

 

何より、救出した子供たちの容体を最後まで確認できる。

 

そう考えれば、この一日は無駄ではない。

 

家の前では、レイネがエリスの髪を整えている。

 

「もう少し上よ」

 

「こちらでございますか?」

 

「少し右。そう、そこ」

 

「かしこまりました」

 

小さな椅子へ座ったエリスの後ろで、レイネが赤い髪を束ねる。

 

肩の治療が終わり、剣術の訓練へ戻れるようになったからか、エリスは朝から機嫌がよかった。

 

髪を結び終えると、エリスは立ち上がり、身体の調子を確認するように両腕を大きく回した。

 

「もう何ともないわ」

 

「はい。動きにも問題は見受けられません」

 

レイネも一度確認しただけで、それ以上は何も言わなかった。

 

治療は終わっている。

 

異常がない限り、これからは普段どおりに扱うつもりなのだろう。

 

レイネが必要以上にエリスを止めないことへ、俺も少し安心した。

 

心配だからと何もさせなければ、エリスはかえって不満を溜める。

 

治ったのであれば、治った者として扱う。

 

その線引きを、レイネはきちんとしていた。

 

「ルーデウス」

 

エリスが俺へ顔を向けた。

 

「今日は暇でしょう?」

 

「馬車の準備を手伝うつもりですが」

 

「ギュエスが、村の人だけで十分だって言ってたわ」

 

「では、トーナたちのところへ行きますか?」

 

「それも行くわ。でも、その前に戦いましょう」

 

あまりにも嬉しそうな顔だった。

 

既に内容まで決めているに違いない。

 

肩が治った翌朝に、まず手合わせを選ぶ。

 

いかにもエリスらしい。

 

「誰とですか?」

 

「まず、私とルーデウス」

 

エリスは自分と俺を順番に指した。

 

「次は、私とレイネ」

 

今度はレイネへ指を向ける。

 

そこまでは、まだ分かる。

 

エリスは肩が治った自分の実力を確かめたいのだろう。

 

「それから、ルーデウスとレイネよ」

 

「僕もですか?」

 

「当然でしょう?」

 

エリスは、どうして驚くのか分からないという顔をした。

 

「ルーデウスも、一回くらいレイネと本気で戦ってみたいでしょう?」

 

否定しようとして、言葉が止まった。

 

確かに、興味はある。

 

レイネが戦う姿は何度か見てきた。

 

魔物や誘拐犯を相手に、必要なだけの力で制圧するところも見ている。

 

だが、それは常に誰かを守るための戦いだった。俺を相手に、最初から手合わせとして向き合ったことはない。

 

レイネが本当はどこまで強いのか。

 

何を隠しているのか。

 

そのすべてを、手合わせ一度で理解できるとは思わない。

 

おそらく、レイネは今回も力を抑えるだろう。

 

それでも、魔術を使うレイネと正面から向き合えば、今までとは違う何かが見えるかもしれない。

 

そして、俺自身の今の力がどこまで通じるのかも確かめてみたかった。

 

「……少しは」

 

「なら決まりね!」

 

「まだレイネの返事を聞いていません」

 

エリスがレイネの前へ立つ。

 

「レイネ、駄目?」

 

「手合わせそのものは、構いませんが」

 

レイネは少し考えるように俺とエリスを見た。

 

「どのような条件で行うのでしょうか」

 

「私とは剣で戦うのよ。ルーデウスとは魔術だけで戦えばいいわ」

 

エリスは迷いなく答えた。

 

自分と俺の戦いについては、俺が魔術、エリスが剣。

 

エリスとレイネは、剣だけ。

 

俺とレイネは、魔術だけ。

 

最初から全て考えていたらしい。

 

「危険のない範囲で、勝敗の条件も決めましょう」

 

俺が言う。

 

手合わせとはいえ、エリスの剣も俺たちの魔術も、加減を誤れば怪我では済まない。

 

特にレイネがどの程度の魔術を使うのか分からない以上、立会人は必要だった。

 

「ルードさんに立ち会ってもらえばいいわ」

 

「かしこまりました」

 

レイネが受け入れた。

 

エリスは満足そうに頷き、訓練用の木剣を取りに走っていった。

 

その背中を見送りながら、俺は自分の杖へ目を落とした。

 

まさか、この村でレイネと戦うことになるとは思わなかった。

 

興味はある。

 

だが、それと同じくらい緊張もあった。

 

 

村の訓練場は、木々に囲まれた地上の広場に作られていた。

 

大きな根や石は取り除かれ、土が固く踏み固められている。雨季になれば水へ沈む場所だが、今は十分な広さがあった。

 

俺たちが到着した時には、ギュエスと数人の戦士が稽古をしていた。

 

事情を説明すると、ギュエスはすぐに場所を空けてくれた。

 

「昨日に続いて、また手合わせか」

 

「今日は私たちで戦うのよ」

 

エリスが答えた。

 

「まず私とルーデウス、次に私とレイネ、最後にルーデウスとレイネよ」

 

「最後の戦いを決めたのは、お前だろう」

 

「二人とも戦いたそうだったもの」

 

俺は「少し興味がある」としか言っていない。

 

だが、今さら訂正する気にもなれなかった。

 

実際、戦いたくないわけではない。

 

「朝から面白そうなことをやってるじゃねえか」

 

背後から、聞き覚えのある声がした。

 

振り返る。

 

焼いた魚を片手に持ったギースが、訓練場の入口へ立っていた。

 

昨日まで手首へ巻かれていた縄は外されている。いかさまの罰として命じられた仕事は、宴の後で終わったらしい。

 

「おはよう、先輩」

 

「おはようございます、ギースさん」

 

昨夜のレイネとの会話を思い出す。

 

ギースと二人きりにはならない。

 

人神やレイネの秘密を話さない。

 

今は、レイネだけでなくルイジェルドやギュエス、村の戦士たちもいる。

 

普通に話す程度なら問題はない。

 

そう自分へ言い聞かせても、昨日までとまったく同じ目でギースを見ることはできなかった。

 

軽い笑顔。

 

焼き魚を食べながら歩く気の抜けた姿。

 

それでも、人神の使徒だと知っている。

 

今の笑顔の裏で、何を考えているのか。

 

俺たちの力を探るために、見学へ来た可能性さえあった。

 

「見学ですか?」

 

「俺は戦えねえからな。強い奴の戦いを見て、どうすれば逃げられるか考えるぐらいしかできねえのよ」

 

ギースは笑いながら、訓練場の端へ腰を下ろした。

 

レイネとの間には、十分な距離を取っている。

 

意識しているのか、偶然なのかは分からなかった。

 

少なくとも、昨夜の警告を何も気にしていないわけではなさそうだった。

 

少し遅れて、ルイジェルドも現れた。

 

「手合わせをするそうだな」

 

「はい。立ち会いをお願いできますか?」

 

「ああ」

 

ルイジェルドは木の棒を拾い、訓練場の地面へ大きな円を描いた。

 

「相手へ有効打を入れるか、武器を失って続行できなくなるか、円の外へ完全に出るか、降参した者が敗北だ」

 

「魔術は?」

 

「殺傷力を抑えたものだけ許可する。俺が危険だと判断すれば、その時点で止める」

 

「分かりました」

 

俺とエリスが、円の中へ入った。

 

 

最初は、俺とエリスだ。

 

エリスは木剣を正眼に構えている。

 

俺は杖を持ち、十歩ほど離れた位置へ立った。

 

砂浜で予見眼を手に入れた直後にも、エリスとは模擬戦をしている。

 

あの時は魔術を使わず、近接戦闘だけで勝負した。

 

今回は違う。

 

俺は魔術を使う。

 

エリスも、それを承知したうえで俺へ挑む。

 

右目へ魔力を流す。

 

一秒ほど先のエリスが、現在の姿へ重なった。

 

右から踏み込む未来。

 

正面へ走る未来。

 

途中で足を止める未来。

 

以前よりも、像が細かく揺れている。

 

エリスも、俺が未来を見ていることを理解したうえで、動きを変えようとしているのだろう。

 

予見眼を得た直後より、エリスは明らかに対応を考えている。

 

未来が見えるというだけで簡単に勝てる相手ではない。

 

「始め!」

 

ルイジェルドの声と同時に、エリスが走った。

 

正面。

 

だが、俺が杖を向けると、すぐに右へ軌道を変える。

 

エリスの前方で地面を盛り上げた。

 

低い土壁ができる。

 

エリスは止まらない。

 

完成する前の壁へ片足を掛け、踏み台にして跳び越えてきた。

 

予想していたよりも速い。

 

木剣が上段から振り下ろされる。

 

俺は杖で受けた。

 

強い衝撃が両腕へ伝わり、身体ごと後ろへ押される。

 

木剣とはいえ、まともに当たれば十分に痛い。

 

一撃を受けただけで、正面から力を競うべきではないことを改めて思い知らされた。

 

エリスは着地すると同時に、二撃目を横へ薙いだ。

 

予見眼には見えている。

 

杖を立て、木剣の軌道を外へ逸らした。

 

そのまま杖の先を地面へ向ける。

 

エリスの足元へ水を広げた。

 

濡れた土が滑りやすくなる。

 

エリスは僅かに体勢を崩したが、すぐに腰を落として踏みとどまった。

 

その隙に、俺は距離を取る。

 

「逃がさないわ!」

 

エリスが追ってくる。

 

速い。

 

予見眼で最初の攻撃は見える。

 

だが、俺が回避へ動いた瞬間に踏み込みを変え、別の角度から攻めてくる。

 

未来が更新されるたび、重なった像も変化した。

 

見えているからといって、必ず避けられるわけではない。

 

むしろ、複数の未来が細かく揺れることで、どの像を優先するべきか迷わされる。

 

エリスは直感だけで動いているように見えて、俺の視線や杖の向きまで見ている。

 

俺はエリスの正面へ石壁を作った。

 

エリスはすぐに左へ回る。

 

そちらにも土壁を盛り上げる。

 

右側の地面には水を流し、足場を崩した。

 

正面は石壁。

 

左にも壁。

 

右は濡れた地面。

 

背後は、円の境界に近い。

 

剣で正面から勝てないなら、動ける場所そのものを奪う。

 

「こんなもので!」

 

エリスが正面の石壁へ木剣を振り下ろした。

 

砕いて突破するつもりらしい。

 

木剣が触れる寸前、壁を固い石から柔らかな砂へ変えた。

 

支えを失ったエリスの身体が前へ傾く。

 

そこへ、身体を傷つけない程度の風を正面からぶつけた。

 

「なっ……!」

 

足元も砂へ変わっている。

 

踏ん張れないと判断したエリスは、咄嗟に横へ跳んだ。

 

両足が円の外へ着地する。

 

「そこまでだ」

 

ルイジェルドの声が響いた。

 

俺の勝ちだった。

 

勝ったと分かった瞬間、胸の奥に小さな安堵が生まれた。

 

最後までエリスへ有効打を入れられたわけではない。

 

それでも、剣の間合いへ入られたまま押し切られず、自分の得意な魔術で勝負を終えられた。

 

「今のはずるいわ!」

 

エリスがすぐに抗議した。

 

予想どおりの反応だった。

 

「魔術を使っていい規則でしたから」

 

「壁で囲んで外に出すなんて、まともに戦ってないじゃない!」

 

「正面から剣で戦ったら、僕が負けます」

 

「なら、正面から戦いなさいよ!」

 

「負けると分かっている方法を選ぶ必要はないでしょう」

 

エリスは口を開いたが、反論は出てこなかった。

 

悔しそうに、砂へ変わった壁を見る。

 

俺も、多少申し訳なくは思う。

 

エリスが求めていたのは、おそらく魔術と剣を正面からぶつける派手な戦いだった。

 

だが、俺がそれへ付き合えば、距離を詰められて負けるだけだ。

 

「先輩らしい勝ち方だな」

 

ギースが笑った。

 

「僕らしいとは?」

 

「相手の強いところとは付き合わず、自分の得意な場所へ引っ張り込む。実戦なら正解だぜ」

 

ギュエスも腕を組んで頷く。

 

「剣士としては腹が立つが、相手の動きを制限して勝つこと自体は間違いではない」

 

「次は負けないわ」

 

エリスが俺を指した。

 

「壁が途中で砂になることも考えて戦うから」

 

「次までに、僕も別の方法を考えておきます」

 

「望むところよ」

 

敗北を引きずるより先に、次の戦いを考えている。

 

エリスらしい反応だった。

 

負けたことへ怒っている。

 

だが、勝負そのものを嫌いになったわけではない。

 

次はどう破るかを考える。

 

その姿を見ていると、こちらまで次の手合わせが楽しみになった。

 

 

二戦目。

 

エリスとレイネが、木剣を持って円の中へ入った。

 

「魔術はなしよ」

 

エリスが確認する。

 

「はい。剣術のみでお相手いたします」

 

レイネは木剣を右手へ持った。

 

力んではいない。

 

剣先も、エリスの急所へ強く向けてはいない。

 

一見すると、隙だらけに見える構えだった。

 

だが、どこを狙えば崩せるのかは分からない。

 

ただ自然に立っているだけなのに、どの方向へも動けるように見える。

 

倉庫で誘拐犯を制圧した時もそうだった。

 

レイネの動きには、余計な力がない。

 

必要になる瞬間まで、何をするのか読ませない。

 

「姉ちゃん、本当に剣も使えるのか?」

 

ギースが尋ねた。

 

「Sランクとして活動するには、いくつかの武器を扱える方が便利でございますので」

 

レイネが答える。

 

嘘ではない。

 

ただ、それだけが理由ではないことを俺は知っている。

 

レイネの剣術は、いくつかの武器を扱えるという程度ではない。

 

少なくとも、エリスを相手に何の不安も見せず立てるほどの実力がある。

 

「始め!」

 

エリスが一気に踏み込んだ。

 

先ほど、俺へ向かった時よりも速い。

 

俺との戦いで不完全燃焼だった分まで、最初の一撃へ込めているように見える。

 

初手から主導権を取るつもりなのだろう。

 

上段から木剣が振り下ろされる。

 

レイネは半歩だけ横へ動いた。

 

赤い剣筋が、白髪のすぐ横を通過する。

 

避けると同時に、レイネの木剣がエリスの手首へ向かった。

 

エリスは剣を引き、受け止める。

 

乾いた音が鳴った。

 

エリスが力を込めて押す。

 

レイネは押し返さない。

 

エリスの力が向かう方向へ、自分の剣を滑らせる。

 

二本の木剣が離れた瞬間、エリスが下から斬り上げた。

 

レイネは後ろへ下がらなかった。

 

身体を僅かにひねって攻撃を外しながら、逆に前へ踏み込む。

 

近すぎる。

 

エリスの木剣では、十分な勢いをつけられない距離だった。

 

剣士であるエリスへ、あえて接近する。

 

俺なら、剣の届かない距離を取ろうと考える。

 

レイネは逆に、剣を十分に振れないほど近づくことで、エリスの攻撃を封じていた。

 

レイネが木剣の柄で、エリスの右手を下から押し上げる。

 

「まだよ!」

 

エリスが左肘を突き出した。

 

剣だけではなく、身体全体で攻撃を続ける。

 

レイネは頭を下げる。

 

肘が白い髪の上を通過する。

 

そのままエリスの横を抜け、背後へ回った。

 

エリスもすぐに振り返り、木剣を横へ薙ぐ。

 

レイネの木剣が受け止めた。

 

力をぶつけ合うのではなく、触れた瞬間に手首をひねる。

 

エリスの剣先が下へ流れる。

 

レイネの木剣が、その上へ絡んだ。

 

次の瞬間。

 

エリスの手から木剣が飛んだ。

 

回転しながら宙を舞い、円の外へ落ちる。

 

同時に、レイネの木剣がエリスの首筋へ添えられていた。

 

「そこまでだ」

 

ルイジェルドが告げる。

 

始まってから、十秒ほどしか経っていない。

 

俺は目を瞬かせた。

 

エリスが弱かったわけではない。

 

最初の踏み込みも、攻撃の速さも、ギュエスと戦った時より鋭かった。

 

それでも、レイネは一度も大きく退かなかった。

 

エリスの力を受け止めず、攻撃の方向を利用し、気づいた時には武器を奪っていた。

 

何が起きるのかを理解できたのは、終わった後だ。

 

実際に向き合っていたエリスには、さらに分からなかっただろう。

 

「……もう一回」

 

エリスが言った。

 

「本日の手合わせは、一度ずつではございませんでしたか?」

 

「今のは、どうして剣を取られたのか分からなかったわ」

 

「後ほど、ご説明いたします」

 

「説明じゃなくて、もう一回戦いたいの」

 

レイネは少し考えた。

 

「同じ条件で再戦いたしましても、現時点では同じ結果になる可能性が高いかと存じます」

 

声は穏やかだった。

 

だが、内容は明確だ。

 

今のエリスでは勝てない。

 

遠回しに慰めることも、偶然勝ったように見せることもしない。

 

エリスも理解したらしく、悔しそうに唇を結んだ。

 

「どうすれば勝てる?」

 

負けたことへ怒るのではなく、すぐに方法を尋ねた。

 

先ほど俺へ負けた時と同じだ。

 

「最初の攻撃を避けられた後、私へ距離を詰める機会を与えないことでございます」

 

「肘も使ったわ」

 

「はい。ですが、私が頭を下げる可能性を考えておられませんでした」

 

「なら、膝も出せばよかったの?」

 

「その場合には、軸足を払っております」

 

「じゃあ、どうすればいいのよ」

 

「私を懐へ入れないことです」

 

最初の一撃を避けられた時点から、エリスはレイネの望む距離へ誘導されていた。

 

あの短いやり取りの間、エリスが自由に選べる動きは、少しずつ削られていたのだろう。

 

俺との戦いでは、俺が壁や足場を使ってエリスの移動先を減らした。

 

レイネは、剣を触れ合わせるだけで同じことをしていた。

 

「次は、絶対に入れさせないわ」

 

エリスが円の外へ落ちた木剣を拾う。

 

「はい。楽しみにしております」

 

レイネが頭を下げ、円の外へ出ようとする。

 

「待ちなさい」

 

エリスが呼び止めた。

 

「まだ終わってないわ。次はルーデウスよ」

 

レイネが足を止め、俺へ視線を向ける。

 

赤い瞳と目が合った瞬間、先ほどよりも緊張が強くなった。

 

俺も一度はレイネと魔術だけで戦ってみたいと思っていた。エリスに言われるまでもなく杖を握り直し、円の中へ足を踏み入れた。

 

 

三戦目。

 

俺とレイネが、円の中へ入る。

 

今度は、互いに魔術だけを使う。

 

武器による攻撃も、直接触れての制圧も禁止。

 

殺傷力を落とした魔術を相手へ当てるか、円外へ押し出すか、魔術で動きを封じた方が勝ちだ。

 

開始距離は十五歩。

 

俺は杖を持っている。

 

レイネは杖を持たず、両手を身体の前で軽く重ねていた。

 

いつもの侍女として立つ姿と、ほとんど変わらない。

 

だからこそ、これから戦うという実感が薄い。

 

「レイネは、杖を使わないんですか?」

 

「この程度の手合わせであれば、問題ございません」

 

この程度。

 

その言葉へ、僅かに負けたくないという気持ちが刺激された。

 

レイネにとっては、杖を必要としない程度の勝負らしい。

 

もちろん、俺を軽く見ているわけではないだろう。

 

単に事実として答えただけだ。

 

それでも、少しは本気を出させてみたいと思った。

 

「詠唱している間は、攻撃しない方がいいですか?」

 

これまで、レイネが人前で魔術を使う時には、必ず詠唱していた。

 

同時に始めるなら、詠唱中へ一方的に攻撃するのは公平ではないかもしれない。

 

レイネは僅かに首を傾げた。

 

「ルーデウス様がお望みでしたら、私も無詠唱で行いましょうか?」

 

「無詠唱を使えるんですか?」

 

思わず聞き返した。

 

「はい」

 

レイネは平然と答えた。

 

「これまでは、周囲へ不要な注目を集めないため、詠唱を使用しておりました」

 

驚きはした。

 

だが、レイネが自分の能力を全て明かしていないことは、既に分かっている。

 

ルイジェルドのこと。

 

人神のこと。

 

俺の知らない秘術。

 

今さら無詠唱魔術が一つ増えたところで、取り乱すほどではなかった。

 

とはいえ、俺と同じように無詠唱で複数の属性を使えるとすれば、相当に厄介だ。

 

詠唱を狙うという選択肢もなくなる。

 

純粋に、発動の速さと制御で争うことになる。

 

「では、無詠唱でお願いします」

 

「かしこまりました」

 

エリスが、俺とレイネを交互に見た。

 

「レイネも、ルーデウスと同じだったのね」

 

「無詠唱を使えるという点では、同じでございます」

 

「どうして今まで黙ってたの?」

 

「必要がございませんでしたので」

 

「なら、今日は必要なのね」

 

「ルーデウス様と公平に手合わせを行うためには、その方がよろしいかと存じます」

 

公平。

 

その言葉を聞き、胸の奥が少し熱くなった。

 

レイネは俺を相手に、一方的に教えるつもりではない。

 

条件を揃え、対戦相手として向き合おうとしている。

 

ギースは焼き魚を食べる手を止め、レイネを見ていた。

 

表情は笑っている。

 

だが、その目だけは先ほどまでより真剣だった。

 

レイネが無詠唱魔術を使えると知ったことも、人神へ伝わる可能性がある。

 

そう思うと、ギースの視線が気になった。

 

しかし、ここで手合わせを中止するつもりもなかった。

 

「始め!」

 

ルイジェルドの声が響く。

 

俺が先に動いた。

 

拳ほどの石弾を三つ作り、時間差をつけて放つ。

 

レイネの左右と、足元。

 

逃げる方向を限定するための攻撃だ。

 

最初から直接当てることだけを狙わない。

 

動きを見て、次の攻撃へ繋げる。

 

右目へ魔力を流す。

 

未来のレイネが右へ動く。

 

俺はその先へ、四発目を作った。

 

だが、現在のレイネは動かなかった。

 

最初の石弾が届く寸前まで、その場に立っている。

 

未来の像が揺れる。

 

右。

 

左。

 

前。

 

複数の姿が重なった。

 

俺の攻撃を見てから、どの方向へも動ける状態を維持しているのだ。

 

予見眼が未来を一つへ絞れない。

 

レイネが片手を上げる。

 

薄い風の流れが生まれ、最初の石弾の軌道を僅かに逸らした。

 

逸れた石弾が、二つ目と衝突する。

 

砕けた破片が飛び散った。

 

三つ目は半歩だけ動いて避ける。

 

続けて放った四発目も、地面から立ち上がった薄い土壁に当たり、勢いを失った。

 

どちらも声を発していない。

 

魔術だけが、次々に形になっていく。

 

俺の攻撃を一つずつ防いだのではない。

 

最初の石弾を逸らして二つ目へぶつけ、一度の風で二つの攻撃を無効化した。

 

最小限の魔術と動きで、俺の攻撃を崩している。

 

レイネが前へ進み始めた。

 

距離を詰めるつもりらしい。

 

俺は足元の土を泥へ変えた。

 

未来では、右足が沈む。

 

だが、レイネは泥へ入る直前に水を薄く広げ、その表面を凍らせた。

 

足元へ作った一枚の氷を踏み、泥の上を滑るように進む。

 

「氷まで使えるんですか」

 

驚きが、そのまま口から漏れた。

 

返事はない。

 

手合わせの途中だ。

 

レイネは、こちらへ集中している。

 

普段なら、俺が何か尋ねればすぐに答える。

 

今は対戦相手として、会話より勝負を優先している。

 

その違いが、奇妙に嬉しかった。

 

俺は周囲へ細かな水滴を生み、霧へ変えた。

 

視界が白く覆われる。

 

予見眼には、霧の向こうで左へ移動するレイネが見えた。

 

そちらへ複数の石弾を放つ。

 

風が霧を裂いた。

 

だが、左側にレイネはいなかった。

 

右から水弾が飛んでくる。

 

俺は石壁を出し、防いだ。

 

鈍い音とともに水が弾ける。

 

見えていた未来と違う。

 

俺が左へ攻撃を放ったことで、レイネが進路を変えたのだ。

 

予見眼に映るのは、今の俺が何も変えなかった場合に起きる未来。

 

俺が反応すれば、相手も反応する。

 

レイネはそれを理解したうえで、俺の判断を見てから動きを変えている。

 

予見眼があること自体を、逆に利用されているような感覚だった。

 

見えた未来を信じて攻撃する。

 

その瞬間、レイネが別の未来を選ぶ。

 

人神の助言へどう向き合うべきか考えた時と、よく似ている。

 

見えたものが事実であっても、それだけへ頼れば判断を誘導される。

 

霧を風で吹き飛ばす。

 

レイネまで、残り十歩。

 

俺は地面を複数箇所で盛り上げた。

 

低い柱を無数に作り、進路と足場を奪う。

 

同時に、柱の間へ水を流す。

 

地面へ降りれば足を取られる。

 

柱へ乗れば、着地点を狙える。

 

レイネは地面へ足をつけなかった。

 

最初の柱へ飛び乗る。

 

次の柱へ移る直前、その着地点へ石弾を放った。

 

レイネが手を向ける。

 

石弾の正面に、同じ程度の大きさの水球が生まれた。

 

衝突。

 

水が弾け、石弾の勢いが落ちる。

 

レイネは濡れた柱へ足を掛け、別の柱へ跳んだ。

 

着地地点を泥へ変える。

 

今度は、柱の側面から石の板が伸びた。

 

レイネはその板へ着地し、すぐに次の足場へ移る。

 

俺が作った柱へ、レイネが自分の足場を付け足した。

 

こちらの魔術を消すのではなく、利用できる形へ変えている。

 

声は一度も聞こえない。

 

無詠唱で複数の属性を切り替えながら、迷いなく前へ進んでくる。

 

残り七歩。

 

近づかれるほど、焦りが強くなる。

 

魔術だけの勝負なら、距離が縮まっても直接殴られるわけではない。

 

それでも、発動速度と精度に優れるレイネへ近づかれれば、こちらが対応する時間は減る。

 

俺はレイネの周囲へ四方から水を集めた。

 

直接ぶつけるのではなく、渦を作って動きを止める。

 

レイネの身体を水が囲んだ。

 

捕らえた。

 

そう思った瞬間、囲んだ水が外側から凍り始めた。

 

レイネは自分の周囲へ薄い氷の殻を作り、水流を遮断する。

 

次の瞬間、氷が内側から砕けた。

 

細かな氷片が周囲へ飛ぶ。

 

視界が一瞬だけ遮られた。

 

その陰から、小さな水弾が三つ飛んでくる。

 

一つ目を石壁で防ぐ。

 

二つ目は風で逸らす。

 

三つ目が、石壁の端を回り込んできた。

 

俺は身体をひねって避ける。

 

頬のすぐ横を水弾が通過した。

 

威力は抑えられていると分かっていても、反射的に背筋が冷たくなる。

 

レイネまで、残り五歩。

 

近づかれすぎている。

 

魔術だけの勝負とはいえ、この距離ではレイネの方が発動と制御が速い。

 

俺は自分とレイネの間へ、高い石壁を作った。

 

さらに左右へ伸ばし、回り込む道を塞ぐ。

 

壁で距離を作り直す。

 

エリスを追い出した時と似た形だ。

 

予見眼には、レイネが壁の上から水を飛ばす未来が見えた。

 

俺は上空へ風を放つ準備をする。

 

だが、水は来なかった。

 

代わりに、足元が僅かに揺れた。

 

石壁へ意識を向けている間に、レイネが俺の立つ地面へ魔力を流していたらしい。

 

土が波打つ。

 

転倒するほどではない。

 

だが、杖を構えていた腕が僅かにぶれた。

 

同時に、石壁の左右から二つの水弾が現れた。

 

右を石壁で防ぐ。

 

左を風で逸らす。

 

その直後。

 

正面の石壁へ、小さな穴が開いた。

 

穴を通り抜けた三つ目の水弾が、真っすぐ胸へ飛んでくる。

 

避けられない。

 

未来へ映った時には、既に身体を動かす時間が残されていなかった。

 

水弾が胸へ当たり、身体が後ろへ押された。

 

威力は抑えられている。

 

痛みもほとんどない。

 

だが、有効打には違いなかった。

 

「そこまでだ」

 

ルイジェルドの声が響いた。

 

俺の負けだ。

 

悔しさより先に、感心が込み上げた。

 

最後まで、俺はレイネの本命を見抜けなかった。

 

壁の左右から来た二発へ注意を向けさせ、正面に作った小さな穴から三発目を通す。

 

俺が何を見るかまで計算されていた。

 

正面の石壁が崩れ、向こう側に立っていたレイネが見える。

 

壁を破壊したわけではない。

 

外側から土の一部だけを柔らかくし、水弾を通す穴を開けたらしい。

 

俺が作った壁を、そのまま攻撃経路として使ったのだ。

 

「完敗です」

 

俺が言うと、レイネは首を横へ振った。

 

「いいえ。何度か、危険な場面がございました」

 

見ると、レイネの左袖に小さな裂け目があった。

 

最初に衝突した石弾の破片が、掠めていたらしい。

 

「一応、当たってはいたんですね」

 

「はい。完全には防げませんでした」

 

本当に防げなかったのか。

 

俺を傷つけない範囲で勝ちつつ、Sランク冒険者として不自然に見えないよう加減していたのか。

 

俺には分からない。

 

少なくとも、レイネは俺の攻撃を一度も脅威に感じなかったわけではないと言ってくれた。

 

それが慰めなのか、事実なのかも判断できない。

 

だが、最初から相手にならなかったと告げられるよりは、少しだけ救われた。

 

「レイネ、すごいわ!」

 

エリスが駆け寄ってきた。

 

自分が負けた時には悔しがっていたのに、レイネと俺の魔術戦を見た今は、目を輝かせている。

 

「どうして、あんなにいろんな魔術を同時に使えるの?」

 

「同時に見えただけで、実際には一つずつ発動しております」

 

「でも、詠唱してないわ」

 

「はい」

 

「次は私と戦う時も、魔術を使っていいわよ」

 

「剣士であるエリス様を相手に、距離を取って魔術のみを使用すれば、訓練の目的が変わってしまいます」

 

「じゃあ、剣と魔術の両方を使えばいいでしょう?」

 

要求が増えている。

 

レイネの魔術を見たことで、さらに戦いたくなったらしい。

 

「それは次回、条件を整えてからにいたしましょう」

 

「約束よ」

 

「はい」

 

エリスは満足そうに頷いた。

 

「それから、次は私とルーデウスの二人でレイネと戦うわ」

 

「なぜ、そうなるんですか」

 

「二人とも負けたんだから、一緒なら勝てるかもしれないでしょう?」

 

「それは二対一です」

 

「実戦では、敵が一人とは限らないわ」

 

妙に正しい。

 

ただし、今のエリスが再戦したいだけであることも明らかだった。

 

それでも、エリスと二人でレイネへ挑むことには、俺も興味があった。

 

俺が距離を作り、エリスが接近する。

 

互いの弱点を補えば、今回よりは長く戦えるかもしれない。

 

「いいですよ」

 

俺が答えると、エリスが振り返った。

 

「ルーデウスもやるの?」

 

「僕も、次はもう少し戦えるようになりたいですから」

 

負けたままで終わりたくない。

 

次は、レイネへもう少し本気で対応させてみたい。

 

「決まりね!」

 

レイネは困るどころか、穏やかに頭を下げた。

 

「安全な場所と時間を確保できましたら、お相手いたします」

 

「絶対よ!」

 

「はい」

 

次の手合わせでは、俺もエリスと一緒にレイネへ挑むことになったらしい。

 

「いやあ、大したもんだ」

 

ギースが焼き魚の串を振りながら、こちらへ近づいてきた。

 

「先輩も相当おかしいが、姉ちゃんはもっとおかしいな」

 

「褒め言葉として受け取ってよいのでしょうか」

 

「もちろんだぜ」

 

ギースは笑っている。

 

だが、レイネへ向ける目には警戒が残っていた。

 

昨夜、何を言われたのか。

 

俺は既にレイネから聞いている。

 

ギースも、レイネが自分の正体を知っていると理解しているはずだ。

 

それでも、表向きは何も起きていないように振る舞っている。

 

俺たちの手合わせを観察し、どこまで人神へ伝えるつもりなのか。

 

考えれば警戒は強まる。

 

だが、ここで露骨に態度を変えれば、ギースも何も話さなくなる。

 

「先輩は、相手が動ける場所を減らして勝とうとする」

 

ギースが俺を見る。

 

「姉ちゃんは、相手が何を見るかまで決めてから罠へ入れる。似てるようで、やり方はかなり違うな」

 

「見ただけで分かったんですか?」

 

「俺は戦えねえからな。戦える奴が何を考えてるかぐらいは見ておかねえと、危なくなった時に逃げられねえ」

 

ギースはレイネへ顔を向ける。

 

「無詠唱まで使えるとは思わなかったがね」

 

「皆様の前で使用する必要が、これまでございませんでしたので」

 

「秘密の多い姉ちゃんだ」

 

「ギース様ほどではございません」

 

レイネは微笑んでいる。

 

ギースの笑顔が、ほんの一瞬だけ固まった。

 

「そりゃ買いかぶりだぜ。俺は見てのとおり、何の力もない男だ」

 

「そういうことにしておきましょう」

 

二人の間に、目には見えない緊張が流れた。

 

丁寧な言葉と軽い笑顔の応酬なのに、互いが相手の正体を探り合っている。

 

エリスとギュエスは気づいていないようだった。

 

ルイジェルドは二人を見ていたが、何も言わない。

 

俺も、ここで人神について触れるつもりはなかった。

 

 

手合わせが終わる頃には、訓練場の周囲へ多くの村人が集まっていた。

 

子供たちはエリスとレイネの動きを真似し、拾った枝を振っている。

 

救出された直後には、怯えて身体を寄せ合うことしかできなかった子供たちが、今は戦いを見て笑い、自分も真似しようとしている。

 

その姿を見るだけで、胸が温かくなった。

 

ギュエスはエリスを呼び、獣族の戦士が使う足運びをいくつか教え始めた。

 

ギレーヌの弟子だと認めたことで、見る目も変わったのだろう。

 

妹から教わったエリスへ、自分の一族の動きを教える。

 

その行為も、ギレーヌとの繋がりを認めた結果なのかもしれない。

 

俺は訓練場の端へ座り、水を飲んでいた。

 

先ほどレイネに当てられた胸へ痛みはない。

 

それでも、戦いの流れを思い返すたび、まだ改善できる場所がいくつも浮かんだ。

 

予見眼へ頼りすぎた。

 

レイネが何を見るかを考えられていなかった。

 

こちらの魔術を利用される可能性も、十分に想定していなかった。

 

次は、エリスとどう役割を分けるか考えなければならない。

 

レイネも隣へ座る。

 

その近くへ、ギースがやって来た。

 

レイネがいる。

 

昨夜の約束には反していない。

 

それでも、自然に身体へ警戒が入った。

 

「先輩、明日はミリシオンへ向けて出るんだってな」

 

「はい」

 

「ちょうどいい。俺もミリシオンへ戻るところだったんだ」

 

あまりにも都合のいい話だった。

 

昨日、この村で初めて出会った人神の使徒。

 

その男が、俺たちと同じ目的地へ向かう。

 

偶然で済ませるには、少し出来すぎているように感じた。

 

「一緒に行きたいんですか?」

 

「馬車の隅へ乗せてくれりゃ、それでいい」

 

ギースは両手を合わせた。

 

「その代わり、料理や野営の準備は俺も引き受ける。白髪の姉ちゃんが何でもできるのは、ここまで見てりゃ分かるが、全部を一人へ任せる必要もねえだろ」

 

ギースはレイネを見た。

 

「それに俺は、聖剣街道からミリシオンまで何度も往復してる。今使える野営地や、道中で立ち寄れる集落、ミリシオンへ入る前に気をつける相手なんかは、姉ちゃんより詳しいはずだぜ」

 

挑発するような言葉ではない。

 

自分がレイネより優れていると言い張っているわけでもなかった。

 

レイネが料理、道案内、野営地の選定をすべてこなせることは、俺たちもよく知っている。

 

魔大陸では、食料の管理も野営地の確認も、ほとんど失敗しなかった。ルイジェルドと相談しながら安全な道を選び、俺やエリスの体調に合わせて歩く距離まで調整していた。

 

ギースがいなくても、旅は続けられる。

 

だが、レイネは戦闘、治療、警戒、交渉まで引き受けている。

 

昨夜までなら、それが当然のように思えていたかもしれない。

 

しかし、レイネが自分を後回しにしやすいと知ってからは、何でも任せることが正しいとは思えなくなった。

 

その仕事の一部を任せられる者がいれば、レイネが休める時間も増える。

 

何より、ミリシオン周辺の新しい情報については、最近まで現地を行き来していたギースの方が詳しい可能性が高い。

 

ギースを同行させる利点はある。

 

同時に、危険もある。

 

そばに置けば動きを見られる。

 

だが、俺たちの情報も集められる。

 

離れて行動させれば、どこで何を人神へ伝えるか分からない。

 

「確かに、レイネ一人へ任せる必要はありませんね」

 

俺が言うと、ギースは大きく頷いた。

 

「そういうことだ、先輩。俺が姉ちゃんの代わりになるとは言わねえよ。役割を分けようって話さ」

 

「ですが、ギース様のお料理の腕前は、まだ確認しておりません」

 

レイネが静かに言った。

 

「おいおい、そこを疑うのか?」

 

「実際にいただいてから判断いたします」

 

「なら、今夜の飯は俺が作ってやるよ。食った後で文句を言うなよ?」

 

「美味しくなければ、改善点をお伝えいたします」

 

「容赦ねえな、姉ちゃん」

 

二人とも笑っている。

 

しかし、その笑顔の裏に、昨日から続く警戒が残っていることは俺にも分かった。

 

ギースは自分の有用性を示そうとしている。

 

レイネは、それを認めつつも簡単には信用しない。

 

「どう思いますか?」

 

俺は改めてレイネへ尋ねた。

 

「同行を認めるかどうかを決めるのは、ルーデウス様でございます」

 

判断を俺へ返された。

 

レイネがすべて決めるつもりはないらしい。

 

俺が旅の一行としてどう判断するかを見ている。

 

「レイネは反対ですか?」

 

「警戒が必要であるという考えは、変わっておりません」

 

ギースの眉が僅かに上がる。

 

「随分とはっきり言うねえ」

 

「ですが、ギース様が現地の事情に詳しく、旅の負担を分担できることも事実かと存じます」

 

「同行させてもいいと思いますか?」

 

「単独で行動せず、皆様が互いの所在を確認できる範囲で移動するのであれば」

 

ギースは頭を掻いた。

 

「監視つきかよ」

 

「お嫌でしたら、別々に出発することも可能でございます」

 

「いやいや、俺は戦えねえんだ。護衛つきで移動できるなら、文句は言わねえよ」

 

昨夜、レイネから警告を受けた。

 

それでもギースは、俺たちと同行しようとしている。

 

本当にミリシオンへ戻りたいだけなのか。

 

人神から何かを命じられているのか。

 

今の俺には分からない。

 

だが、レイネがそばにいて、ルイジェルドもいる。

 

一人で接触するより、全員が目を届かせられる場所へ置いた方がよい可能性もある。

 

「ルードさんにも相談します」

 

「もちろんだ」

 

ギースはすぐに了承した。

 

「俺はパーティへ正式に入るつもりはねえ。ミリシオンまで、同じ馬車へ乗せてもらうだけだ」

 

「どうしてパーティに入らないんですか?」

 

「四人組になると、ろくなことがねえっていう俺のジンクスでな」

 

「僕たちは、既に四人ですが」

 

俺。

 

エリス。

 

ルイジェルド。

 

レイネ。

 

四人で旅をしている。

 

「俺が入れば五人だろ?」

 

「なら、問題ないのでは?」

 

「言われてみりゃそうだな」

 

あまり深く考えていなかったらしい。

 

あるいは、真面目な理由を話したくないだけなのかもしれない。

 

ギースは笑いながら立ち上がった。

 

「青髪の旦那にも、俺から頼んでおくよ」

 

「ルードさんを知っているんですか?」

 

「三十年ぐらい前に、一度だけ命を助けられたことがある」

 

「ルードさんに?」

 

「ああ。俺にとっちゃ、頭の上がらねえ恩人だ」

 

ギースはそれ以上説明せず、ルイジェルドの方へ歩いていった。

 

驚きながら、その背中を見送る。

 

ギースとルイジェルドは、初対面ではなかったらしい。

 

ルイジェルドが覚えているかは分からない。

 

だが、ギースにとっては三十年経っても恩人と呼ぶ相手だった。

 

人神の使徒である。

 

同時に、ルイジェルドへ恩を感じている。

 

どちらも本当なのかもしれない。

 

俺は隣にいるレイネへ顔を向ける。

 

「知っていましたか?」

 

「ギース様が、以前ルイジェルド様に助けられたことですか?」

 

「はい」

 

「存じております」

 

やはり、レイネは知っていた。

 

どこまで知っているのかは、今回も分からない。

 

「それでも、警戒は解かないんですね」

 

「ルイジェルド様への恩を感じておられることと、人神の使徒であることは、別の問題でございます」

 

確かに、どちらか一方が嘘とは限らない。

 

ギースが本当にルイジェルドへ恩を感じている可能性はある。

 

同時に、人神の指示を受けている可能性もある。

 

人は一つの感情だけで動くわけではない。

 

誰かへ恩を感じながら、その相手とは別の目的のために動くこともあり得る。

 

俺は、ルイジェルドへ笑いながら話しかけるギースを見た。

 

ルイジェルドの表情は普段と変わらない。

 

だが、完全な他人へ向けるものよりは、僅かに柔らかく見えた。

 

 

午後は、村で過ごした。

 

エリスはギュエスともう一度木剣を交え、その後はトーナやテルセナと村中を歩き回っていた。

 

朝に俺とレイネへ負けたことを、既に引きずってはいない。

 

むしろ、ギュエスから新しい足運びを教わり、次の勝負に活かそうとしていた。

 

レイネは、救出された子供たちの身体を出発前にもう一度確認している。

 

俺はギュスターヴから、ミリシオンまでの道について説明を受けた。

 

大森林を横断する聖剣街道。

 

魔物がほとんど近づかず、地面も崩れにくい道らしい。

 

今は雨季前なので、馬車でも問題なく進めるという。

 

雨季へ入れば、大森林の地上は広い範囲が水へ沈み、長期間の足止めを受ける可能性があった。

 

だが、今なら聖剣街道も問題なく利用できる。

 

子供たちを助けるために数日を使ったものの、それでも雨季より先に村を出られるだけの時間が残っていた。

 

もしウェンポートで何か月も渡航費を稼いでいれば、雨季へ間に合わなかったかもしれない。

 

そう考えると、レイネが渡航を助けてくれたことの意味はさらに大きかった。

 

旅は遅れていない。

 

必要なことをしながら、前へ進めている。

 

夕方、ギュエスから呼び止められた。

 

その手には、小さな革袋がある。

 

「これを、エリスへ渡してほしい」

 

中には、獣の牙を削って作った飾りが入っていた。

 

表面へ、簡単な印が刻まれている。

 

「ギレーヌさんへ渡す物ですか?」

 

「ああ。一族の者であることを示す印だ」

 

ギュエスは革袋を見つめる。

 

「昔の物とは少し形が変わっているが、ギレーヌなら意味は分かる」

 

小さな飾りだった。

 

だが、ギュエスにとっては、何十年も離れていた妹へ渡す最初の物になる。

 

言葉よりも重いものが込められているように感じた。

 

「手紙は?」

 

「書けん」

 

「僕が代わりに書きましょうか?」

 

ギュエスは少し迷ったが、首を横へ振った。

 

「いや。伝えたい言葉は、エリスへ預けた」

 

一度だけ話したい。

 

探さなかったことを謝りたい。

 

その言葉が届けば、十分なのだろう。

 

誰かに文章として整えてもらうより、エリスの口からそのまま伝えてほしいのかもしれない。

 

「必ず、エリスへ渡します」

 

「頼む」

 

ギュエスは静かに頭を下げた。

 

俺は革袋を受け取り、落とさないよう自分の鞄へ入れた。

 

後でエリスへ渡し、本人にも持たせる。

 

ギレーヌと再会できる保証はない。

 

それでも、再会した時に渡す物がある。

 

そのことが、ギレーヌは生きているという俺たちの信頼を、少しだけ形にしてくれたように思えた。

 

 

その日の夕食は、宣言どおりギースが作った。

 

森で採れた香草と肉を使った煮込み料理だった。

 

見た目は素朴だが、肉の臭みは消え、香草の苦みも強く残っていない。長旅の途中でも作れるよう、特別な調理器具や高価な調味料を必要としない料理らしい。

 

湯気とともに香りが広がった瞬間、空腹を自覚した。

 

手合わせで身体を動かしたこともあり、普段以上に腹が減っていた。

 

「どうだ、姉ちゃん」

 

ギースが得意そうに尋ねる。

 

レイネは一口ずつ味を確かめた。

 

ギースは笑っているが、返事を待つ目は少し真剣だった。

 

自分の有用性を示すための料理でもある。

 

「大変美味しゅうございます」

 

「そうだろ?」

 

「特に、保存食を戻した肉とは思えないほど柔らかく仕上がっております」

 

「旅の料理は、限られた材料でどこまでマシなものを作れるかが勝負だからな」

 

「香草の選び方も、大森林の食材をよくご存じでなければできません」

 

レイネが素直に評価すると、ギースは満足そうに胸を張った。

 

「これで、同行させる価値があるって分かっただろ?」

 

「お料理の腕前については認めます」

 

「ほかは?」

 

「今後、確認させていただきます」

 

「信用が遠いねえ」

 

ギースはそう言いながらも、本気で不満そうには見えなかった。

 

自分が警戒されていることは、最初から分かっている。

 

それでも同行を求めているのだから、簡単に信用されるとは思っていないのだろう。

 

エリスは二杯目を要求し、ルイジェルドも黙って器を空にしている。

 

俺も認めるしかない。

 

ギースの料理は、悔しいがかなり美味しかった。

 

味だけなら、同行を歓迎したいと思える。

 

だが、料理が美味しいことと、信用できることは別だ。

 

レイネが言ったとおり、一つずつ確認していくしかない。

 

 

翌朝。

 

村の入口には、一台の馬車が用意されていた。

 

荷台には食料、水、毛布、薬や包帯が積まれている。旅費も渡され、少なくともミリシオンへ到着するまでは困らない量だった。

 

俺たちのために、村が用意してくれたものだ。

 

救出した子供たちの恩人だからと、ここまでしてくれた。

 

ありがたいと思う。

 

同時に、俺たちが行ったこと以上の物を受け取っているようで、少し申し訳なさもあった。

 

だが、断れば相手の感謝を拒むことになる。

 

必要な分だけ受け取り、今後困っている獣族を見かけた時に手を貸す。

 

その形で返していけばいいのだろう。

 

トーナとテルセナをはじめ、多くの村人が見送りへ来ている。

 

「エリス、また来るニャ!」

 

トーナがエリスへ抱きついた。

 

「ええ。また来るわ」

 

エリスも抱き返す。

 

「今度は、私が剣を教えてあげる」

 

「本当ニャ?」

 

「本当よ。だから、それまでちゃんと鍛えておきなさい」

 

「分かったニャ!」

 

エリスは簡単に約束した。

 

いつ戻れるかは分からない。

 

それでも、再会するつもりで言っているのだろう。

 

トーナも、その言葉を疑っていなかった。

 

テルセナは、レイネの服をつかんで離そうとしなかった。

 

レイネは少女の前へ膝をつき、優しく頭を撫でる。

 

「お身体を大切になさってくださいませ」

 

「また会える?」

 

「はい」

 

レイネは迷わず答えた。

 

「必ずとは申し上げられませんが、私も再びお会いできるよう努めます」

 

絶対に会えるとは言わない。

 

守れない約束はしない。

 

それでも、自分も再会を望んでいると伝える。

 

テルセナは目元を拭い、最後にレイネへ抱きついた。

 

レイネもその小さな身体を抱き返した。

 

その光景を見て、胸が温かくなる。

 

レイネは子供たちを助け、治療し、帰るまでそばにいた。

 

テルセナにとって、レイネは命を助けてくれた相手であると同時に、恐怖の中で最初に手を握ってくれた人なのだろう。

 

俺のところには、銀色の聖獣が来た。

 

足元へ身体を擦りつけ、馬車へ乗ろうとする俺の後をついてくる。

 

「僕たちは、もう行きます」

 

聖獣が見上げる。

 

言葉を理解しているかは分からない。

 

それでも、俺が去ろうとしていることは感じ取っているように見えた。

 

「ここが、あなたのいる場所でしょう」

 

鼻先へ手を置いた。

 

柔らかな毛の下から、温かな体温が伝わってくる。

 

倉庫で鎖へ繋がれていた時は、身体が冷え、呼吸も弱かった。

 

今は力強く立ち、村の子供たちを守っている。

 

「また会いましょう」

 

聖獣は小さく鳴いた。

 

俺が馬車へ向かうと、再びついてくる。

 

俺が止まれば、聖獣も止まった。

 

本当に一緒に来ようとしているように見える。

 

好かれていることは嬉しい。

 

だが、聖獣はデドルディア族にとって重要な存在だ。

 

俺たちの旅へ連れていくわけにはいかない。

 

「聖獣様」

 

ギュスターヴが呼びかける。

 

聖獣は老人を見た後、もう一度俺へ顔を戻した。

 

しばらく迷うように立っていたが、最後には俺の手を一度舐め、トーナたちのところへ戻っていった。

 

その背中を見ながら、僅かな寂しさが生まれた。

 

数日しか一緒にいなかった。

 

それでも、何度も俺のそばへ来てくれた。

 

別れを惜しんでもらえることが、少し嬉しかった。

 

「随分と好かれたものだな」

 

ルイジェルドが言う。

 

「理由が分からないんですが」

 

「好意に、明確な理由が必要とは限らん」

 

ルイジェルドらしい答えだった。

 

理由が分からなくても、向けられた好意を疑う必要はない。

 

俺は、つい相手がなぜ自分を好むのかを考えてしまう。

 

何か目的があるのではないか。

 

勘違いではないか。

 

だが、すべての好意に説明が必要なわけではないのかもしれない。

 

エリスがギュエスの前へ立つ。

 

昨日預かった革袋を、腰の鞄へしっかりとしまっていた。

 

俺から渡した後、何度も中身を確認し、絶対に失くさない場所へ入れていた。

 

「ギレーヌに会ったら、ちゃんと渡すわ」

 

「頼む」

 

「会いたいかどうかも聞く」

 

「ああ」

 

「でも、ギレーヌが嫌だと言ったら、無理には連れてこない」

 

「それでいい」

 

ギュエスはエリスへ頭を下げた。

 

「妹のことを教えてくれて、感謝する」

 

エリスは少し照れたように顔を逸らした。

 

「私は本当のことを言っただけよ」

 

エリスがいなければ、ギュエスはギレーヌの今を知ることができなかった。

 

ギュエスが聞く気にならなければ、エリスの話も届かなかった。

 

二人が出会ったことで、長く途切れていた家族の繋がりが、僅かに戻った。

 

いつかギレーヌ本人へ、その思いが届けばいいと思う。

 

俺たちが荷物を載せ終えたところへ、ギースが現れた。

 

背中には大きな荷物。

 

腰には調理器具。

 

完全に同行する準備を整えている。

 

「いやあ、待たせたな」

 

「まだ、同行を許可したとは言っていませんが」

 

「旦那からは許可をもらったぜ」

 

ルイジェルドを見る。

 

「ああ。ミリシオンまで同行する」

 

ルイジェルドが認めた。

 

三十年前に助けた相手だと聞き、同行へ反対しなかったらしい。

 

ただし、ルイジェルドが何も警戒していないとは思わない。

 

彼もギースの言葉や行動を見極めるつもりなのだろう。

 

「レイネは?」

 

エリスが尋ねる。

 

レイネは、馬車の横からギースを見ていた。

 

「ルーデウス様がお認めになるのであれば、異論はございません」

 

反対はしない。

 

だが、警戒を解いたわけでもない。

 

最終的な判断は俺へ任された。

 

ギースを同行させることには危険がある。

 

だが、レイネとルイジェルドがそばにいる。

 

単独行動を許さず、全員で動きを確認する。

 

それなら、少なくとも何も分からないまま別行動を取られるよりはいいかもしれない。

 

「分かりました」

 

俺はギースへ向き直る。

 

「ただし、勝手に一人で行動しないでください。進路を変える時も、必ず全員へ話してください」

 

「先輩まで、姉ちゃんみたいなことを言うのかよ」

 

「同行者の行動を確認するのは当然です」

 

「はいはい。新入りは先輩の言うことを聞きますよ」

 

ギースは馬車の荷台へ乗り込んだ。

 

既に自分の座る場所まで確保している。

 

「誰が新入りですか」

 

「俺だよ」

 

「パーティには入らないと言っていたでしょう」

 

「旅の新入りって意味さ」

 

言葉を都合よく使い分ける男だった。

 

俺とレイネも荷台へ乗る。

 

ギースと向かい合うような位置になる。

 

一人にはならない。

 

何かを尋ねられても、必要以上の情報は話さない。

 

昨夜レイネと交わした約束を、もう一度心の中で確認した。

 

エリスは前方の座席へ座り、ルイジェルドが手綱を握った。

 

村人たちへ、最後に頭を下げる。

 

「本当に、ありがとうございました」

 

「礼を言うのはこちらだ」

 

ギュスターヴが答えた。

 

「子供たちと聖獣様を救った恩は、忘れぬ」

 

「ミリシオンまで気をつけるニャ!」

 

トーナが大きく手を振る。

 

テルセナも、レイネの名前を呼んでいた。

 

エリスが身を乗り出し、両手を振る。

 

「またね!」

 

馬車が動き始めた。

 

村の入口が、少しずつ遠ざかっていく。

 

数日前まで、俺たちはこの村の存在さえ知らなかった。

 

今は、見送ってくれる人々がいる。

 

助けた子供たちが、笑顔で手を振っている。

 

銀色の聖獣は門のところから動かなかった。

 

その姿が木々の間へ隠れるまで、俺たちの馬車を見つめている。

 

俺も、見えなくなるまで振り返っていた。

 

寂しさはある。

 

だが、ここでの別れは悲しいだけのものではない。

 

子供たちは家族のもとへ戻り、俺たちは家族を捜す旅を続ける。

 

全員が、自分の帰る場所へ進むための別れだ。

 

荷台の反対側では、ギースが村人たちへ手を振っていた。

 

顔には、昨日と変わらない軽い笑みがある。

 

レイネは俺の隣へ座り、時折ギースへ視線を向けている。

 

人神の使徒。

 

それでも今は、同じ馬車で同じ道を進む同行者だ。

 

今すぐ信用する必要も、最初から全てを敵意として受け取る必要もない。

 

何を言い、何をするのかを見る。

 

そのうえで、自分で判断する。

 

人神が何を命じたのかは分からない。

 

ギース本人が、何を望んでいるのかも分からない。

 

だからこそ、一つずつ確かめるしかない。

 

「さてと」

 

ギースが荷物から地図を取り出した。

 

「まずは聖剣街道へ出る。そこまで行けば、後はほとんど一本道だ」

 

「案内をお願いします」

 

「任せとけ、先輩。道中の飯と野営も、姉ちゃんと相談しながら俺がやる。せっかく人数が増えたんだ。仕事は分けた方が楽だろ?」

 

「そうですね」

 

俺が答えると、レイネも静かに頷いた。

 

レイネが一人で抱える仕事を減らせる。

 

それ自体は、素直にありがたい。

 

ただし、ギースへ任せた仕事も、最初のうちは確認する必要があるだろう。

 

「よろしくお願いいたします、ギース様」

 

「任せな、姉ちゃん」

 

ギースは胸を張った。

 

レイネは穏やかに微笑んでいる。

 

だが、その赤い瞳から警戒は消えていない。

 

俺も同じだった。

 

信じるか、疑うか。

 

今すぐどちらかへ決める必要はない。

 

馬車は雨季前の大森林を進み、ミリシオンへ続く道へ向かった。

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