白髪の侍女   作:MトK

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第三十八話 ただいま

ルーデウス視点

 

ミリシオンへ入った俺たちは、ギースの案内に従い、門の近くにある馬屋へ向かった。

 

城門をくぐってからも、胸の奥が落ち着かなかった。

 

この町には、各地から情報が集まる冒険者ギルドの本部がある。家族の手掛かりが見つかるかもしれないという期待と、何も見つからないかもしれないという不安が、代わる代わる込み上げていた。

 

大都市の入口に設けられた馬屋だけあって、建物も敷地も、これまで利用してきたものより遥かに大きい。馬だけでなく、騎乗用の魔物や荷物を運ぶ大型の獣まで、それぞれ種類を分けて預かれるようになっている。

 

何台もの荷馬車が順番を待っていたが、職員たちの動きは速かった。

 

俺たちの番が来ると、ルイジェルドが御者台から下り、馬の手綱を引いた。俺とエリスも荷台を降り、長く預けるべきではない貴重品だけを手元へ移す。

 

レイネは荷台の中へ入り、残す荷物と持ち出す荷物を一つずつ確認していた。

 

「食料の残量は、乾燥肉が三日分。穀物と香草につきましては、宿が決まるまでこちらへ残して問題ございません。宝珠、薬品、金銭、ギース様からお預かりした品は、私がお持ちいたします」

 

確認した内容を短くまとめ、荷台の扉を閉める。

 

馬屋の職員が、木札と帳面を持って近づいてきた。

 

「荷馬車ごと預かるのか?」

 

「はい。まだ宿を決めておりませんので、荷物の運搬は後ほどお願いいたします」

 

「宿が決まったら、この札を持ってこい。指定された場所まで運ぶ。馬の餌と水は普通の物でいいな?」

 

「お願いいたします。左の馬は、長く走った後に右前脚へ疲れが出やすいため、腫れが見られましたら休ませてくださいませ」

 

職員は馬の脚へ目を向け、帳面へ注意事項を書き加えた。

 

「分かった。預かっておく」

 

レイネは受け取った預かり札を俺へ見せた後、自分の鞄へ収めた。

 

これで、急いで宿を探す必要はなくなった。

 

荷物の心配が一つ減ったはずなのに、気持ちは軽くならなかった。

 

ギルドへ行けば、何かが分かる。

 

そう思うほど、足を止めている時間が惜しく感じられた。

 

「次はギルドだな」

 

ギースが、銀色に輝く巨大な建物を指した。

 

「先に宿ではないのですか?」

 

俺が尋ねると、ギースは肩をすくめた。

 

「普通ならそうするんだが、先輩は家族を捜してるんだろ。ここは冒険者ギルドの本部だ。地方の支部じゃ分からねえことも、ここなら記録が残ってるかもしれねえ」

 

もっともな話だった。

 

宿は後からでも取れる。

 

家族について確認できるのなら、一刻も早い方がいい。

 

レイネも異論はないらしく、銀色の建物へ視線を向けている。

 

ただ、その横顔には、普段より僅かな緊張があった。

 

レイネは以前、この町へ滞在していた。

 

ここでSランクに認定され、フィットア領の人々を助けるための救護所を作った。だが、救護所の運営をほかの人々へ託して北へ向かってから、既に一年近い時間が経っている。

 

自分がいなくなった後も、救護所は動いているのか。

 

そこで働いていた人たちは無事なのか。

 

レイネにも、確かめなければならないことがあった。

 

横顔を見れば、レイネも平静ではないと分かる。

 

いつもどおりの姿勢を崩してはいない。それでも、救護所が無事に残っているのかを考えるたび、僅かに呼吸が浅くなっているように見えた。

 

「行きましょう」

 

俺が言うと、エリスがすぐに頷いた。

 

「ええ。早く行くわよ」

 

 

冒険者ギルド本部は、近くから見るとさらに大きかった。

 

銀色に見えていたのは建物全体ではなく、外壁の各所へ取りつけられた金属板らしい。磨かれた板が太陽の光を反射し、離れた場所からは建物そのものが輝いているように見えていたのだ。

 

正面には、大人が数人並んで通れる扉がある。

 

中へ入ると、巨大な空間が広がっていた。

 

受付だけでも十を超えている。

 

依頼書の貼られた掲示板は壁一面を占め、冒険者、商人、ギルド職員が絶えず行き交っていた。二階へ続く階段の先にもいくつもの部屋があり、奥には資料を保管するための区画まで見える。

 

魔大陸のギルドとは、規模が違う。

 

「迷子になりそうね」

 

エリスが周囲を見回した。

 

「受付までは真っすぐですから、大丈夫ですよ」

 

「その後の話よ」

 

受付の前にも列ができている。

 

俺たちは、比較的短い列の最後尾へ並んだ。

 

ルイジェルドは、周囲から額の布を見られないよう僅かに顔を伏せている。髪は青く染めてあるため、見ただけでスペルド族だと気づかれる可能性は低いが、人の多い場所では用心するに越したことはない。

 

ギースは落ち着かない様子で、何度も受付の奥へ目を向けていた。

 

「ギースさん」

 

「何だ、先輩」

 

「父さんについて、ミリシオンへ着いたら話すと言っていましたよね」

 

「ああ」

 

「今、聞いてもいいですか?」

 

ギースはすぐには答えなかった。

 

列が少し進む。

 

俺たちも前へ動く。

 

「俺が大森林へ入る前、この町へ立ち寄った時の話だ」

 

ギースは周囲へ聞こえないよう声を落とした。

 

「ギルドに、パウロ・グレイラット名義の捜索依頼が何枚も出てた。職員に確認したら、フィットア領の捜索団を作って、この町を拠点にしてるって話だった」

 

「父さんが……」

 

思わず、同じ言葉を胸の中でも繰り返した。

 

父さんが生きているかもしれない。

 

その可能性へ飛びつきたい気持ちと、まだ確定していないのだと押し止める気持ちがぶつかり、胸が痛いほど強く脈打った。

 

「ただし、俺が聞いたのは何か月も前だ。今もこの町にいるか、捜索に出てるのか、無事なのかまでは分からねえ」

 

ギースが父さんの外見や性格を、妙に詳しく知っていた理由。

 

そして、以前から父さんと何らかの縁があると言っていた理由。

 

その一端が、ようやく見えてきた。

 

「どうして、道中で教えてくれなかったんですか?」

 

責めるつもりはなかったが、声が僅かに硬くなった。

 

生きている可能性があると知っていたのなら、もっと早く聞きたかった。

 

「古い話で期待させたくなかったんだよ」

 

ギースは頭を掻いた。

 

「パウロがこの町を離れてるかもしれねえ。捜索の途中で何かあった可能性だってある。先輩に生きてるぞって言って、ここへ来たら何も分からねえじゃ、余計にきついだろ」

 

言い分は理解できた。

 

納得できるかどうかは別だが、悪意があったわけではない。

 

それに、もうここまで来た。

 

あと少し待てば、自分の目と耳で確かめられる。

 

「分かりました」

 

俺はそれだけ答えた。

 

それ以上話せば、期待を隠せなくなりそうだった。

 

何か月も前の情報だとしても、父さんがこの町で家族を捜していたという事実だけで、今すぐ受付へ駆け寄りたいほど気持ちが逸っていた。

 

前にいた冒険者が受付を離れ、ようやく俺たちの番になる。

 

受付にいたのは、四十歳ほどの男性だった。

 

俺は冒険者札を置いた。

 

続けてエリスとルイジェルドも、それぞれの札を出す。

 

「パーティ、デッドエンドです。魔大陸から移動してきました」

 

職員は札を一枚ずつ確認した。

 

「ルーデウス・グレイラット。エリス・ボレアス・グレイラット。それから、ルード」

 

「はい」

 

職員の指が止まった。

 

俺の札へ、もう一度目を落とす。

 

「グレイラット?」

 

「そうですが」

 

職員は俺の顔を見た後、今度はエリスの札へ目を向けた。

 

何かを確かめるように、受付の下から別の帳簿を取り出す。

 

その間に、レイネがSランクの札を置いた。

 

職員の動きが完全に止まった。

 

冒険者札。

 

レイネの白髪。

 

赤い瞳。

 

侍女服。

 

それぞれを順番に見比べる。

 

「白髪の侍女……レイネか?」

 

「はい。レイネと申します」

 

周囲の受付にいた職員たちも、こちらを見始めた。

 

名前を知っているらしい。

 

「戻ってきたのか」

 

男性職員は、驚きを隠せないまま言った。

 

「救護所の者たちが、ずっと消息を気にしていたぞ」

 

レイネの表情が僅かに緩んだ。

 

「救護所は、現在も運営されているのでございますか?」

 

「ああ。お前が運営を任せた責任者が、今も中心になっている。規模も以前より大きくなった。フィットア領捜索団と情報を共有して、保護された連中の受け入れを続けている」

 

フィットア領捜索団。

 

先ほど、ギースから聞いた名前と同じだ。

 

「その捜索団の団長は」

 

職員が、俺へ視線を戻した。

 

「パウロ・グレイラットだ」

 

胸の中で、何かが大きく跳ねた。

 

一瞬、周囲の音が遠くなった。

 

名前を聞いただけなのに、ブエナ村で見た父さんの顔や、剣を教えられた時の声が鮮明に浮かんだ。

 

「父さんが、この町にいるんですか?」

 

「ああ。今朝も捜索団本部から報告が来ている。少なくとも、今日の昼までは本部にいたはずだ」

 

生きている。

 

父さんは生きている。

 

この町にいる。

 

同じ城壁の内側にいる。

 

言葉を理解したはずなのに、すぐには実感できなかった。

 

胸の奥は熱くなっているのに、指先は冷たかった。

 

父さんが生きている。

 

何度も心の中で言い直して、ようやくその言葉が少しずつ現実になっていった。

 

魔大陸へ転移してから、何度も家族のことを考えた。

 

ブエナ村へ帰れば会えると思っていた時期もあった。

 

その一方で、父さんたちも転移事件へ巻き込まれている可能性は考えていた。

 

だが、本当に生きているのかは分からなかった。

 

今、その答えを聞いた。

 

けれど、父さんが生きていると分かっただけで安心することはできない。

 

「父さんは、一人でいるんですか?」

 

自分でも驚くほど早く、次の言葉が口から出た。

 

「ノルン・グレイラットという女の子は、一緒にいませんか。それから、ゼニス・グレイラット、リーリャ・グレイラット、アイシャ・グレイラットは?」

 

職員は帳簿を確認した。

 

頁をめくり、並んだ名前を指で追っていく。

 

その僅かな時間が、ひどく長く感じられた。

 

「ノルン・グレイラットは、パウロの娘として登録されている。捜索団本部で、パウロと一緒に暮らしているはずだ」

 

ノルンも生きている。

 

赤ん坊だった妹の姿が、記憶の中へ浮かんだ。

 

俺がいない間に、どれほど大きくなったのだろう。俺のことを覚えているだろうか。そんなことまで考えた瞬間、安堵が胸いっぱいに広がった。

 

けれど、まだ三人の名前が残っている。

 

「母さんたちは?」

 

職員は帳簿へ目を落としたまま、首を横へ振った。

 

「ゼニス、リーリャ、アイシャの三人については、ここには生存者としての登録がない」

 

胸へ広がった安堵が、一瞬で冷えていった。

 

「死亡者としては?」

 

「そちらにも名前はない。現在は三人とも行方不明者として扱われている」

 

死んだとは確認されていない。

 

けれど、生きていることも分かっていない。

 

父さんとノルンが生きている。

 

母さんとリーリャとアイシャは、今も行方が分からない。

 

喜びと不安が同時に押し寄せ、息を吐こうとしても上手くいかなかった。

 

喉の奥が詰まる。

 

「ルーデウス」

 

エリスが、俺の腕をつかんだ。

 

普段なら痛いほど強い手だったが、今は支えるように添えられている。

 

「パウロとノルンは生きているわ。それに、ほかの三人だって、死んだと決まったわけじゃない」

 

「……はい」

 

どうにか答える。

 

まずは父さんに会わなければならない。

 

父さんがこれまでどこを捜し、母さんたちについて何を知っているのか。それを確かめなければ、何も始まらない。

 

レイネも、受付台の前で目を伏せていた。

 

パウロとノルンが生きていることも、ゼニスたちがいまだ見つかっていないことも、レイネは知らなかったのだろう。

 

赤い瞳の奥に、安堵と、それだけではない感情が揺れていた。

 

職員は立ち上がり、隣の受付へ声を掛けた。

 

「捜索団本部へ走れる者を一人。パウロ・グレイラットへ、ルーデウス、エリス、レイネの本人確認が取れたと伝えろ。同行者はルードとギース」

 

呼ばれた若い職員が、内容を復唱する。

 

「ルーデウス、エリス、レイネ。同行者はルードとギース。冒険者ギルド本部で待機ですね」

 

「ああ。救護所にも一人送れ。レイネが帰還したと知らせろ」

 

二人の職員が、それぞれ別の出口から走っていった。

 

俺たちが受付へ到着する。

 

職員が本人確認を行う。

 

その後で、父さんと救護所へ知らせる人間が出発する。

 

順番に状況が動いていく。

 

父さんがこちらへ来るとしても、まだ少し時間が掛かるだろう。

 

父さんへ知らせる者が出ていった途端、今度は待つことが苦しくなった。

 

この町にいると分かったのだから、自分から走って探しに行きたい。それでも、行き違いになれば余計に時間が掛かる。俺は逸る気持ちを抑え、受付の言葉を待った。

 

「こちらでお待ちください」

 

受付の奥にある、小さな応接室へ案内された。

 

人目を避ける意味もあるのだろう。

 

俺たちは部屋へ入り、長椅子へ座った。

 

ルイジェルドは入口に近い位置を選ぶ。

 

ギースは壁へ背を預けた。

 

エリスは俺の隣へ座ったまま、腕を離そうとしない。

 

レイネは水差しから人数分の水を注いだ。

 

自分も動揺しているはずなのに、手順は普段と変わらない。

 

「ルーデウス様」

 

杯を渡される。

 

「ありがとうございます」

 

受け取ったものの、すぐには飲めなかった。

 

父さんが来る。

 

そう考えるたび、心臓が大きく脈打った。

 

ノルンも一緒に来るかもしれない。

 

何を言えばいい。

 

ただいま。

 

久しぶり。

 

無事でよかった。

 

最初に何を口にするべきなのか分からない。

 

「父親とは、どのような男だ」

 

ルイジェルドが尋ねた。

 

「剣士です。元冒険者で、僕が小さい頃はブエナ村の騎士をしていました」

 

「強いのか」

 

「強いです。剣神流、水神流、北神流を使えます」

 

ルイジェルドは短く頷いた。

 

「お前の父親なら、会ってみたい」

 

「私は顔を知ってるわ」

 

エリスが言った。

 

「そうでしたね」

 

俺が答えると、エリスは腕を組んだ。

 

父さんとの関係について、エリスが特別に悪い印象を持つような出来事はなかった。

 

俺がロアへ行くことになった時、父さんの最初の考え方には強引なところがあったらしい。だが、最終的には俺へ目的と条件が説明され、俺も考えたうえで家庭教師の仕事を引き受けた。

 

シルフィへ事情を話し、別れを告げる時間もあった。

 

何も知らされないまま無理やり送り出されたわけではない。

 

ロアへ行ったことでエリスと出会い、そこで過ごした日々が今の俺たちへつながっている。

 

「ギースさん」

 

俺は、壁際に立つ男へ顔を向けた。

 

「父さんとは、どういう知り合いなんですか?」

 

ギースは俺とレイネを交互に見た。

 

それから、隠しておくほどのことでもないと判断したのか、軽く息を吐く。

 

「昔、同じパーティを組んでた」

 

「父さんと、同じパーティを?」

 

初めて聞いた。

 

ギースが父さんを知っていることは分かっていたが、そこまで深い関係だったとは思わなかった。

 

「ああ。俺が斥候で、パウロが前衛だ。ほかにも何人かいた」

 

「父さんは、どのような冒険者だったんですか?」

 

「それは本人の前で聞けよ。俺が先に全部話すと、面白さが減る」

 

ギースは笑った。

 

だが、その笑いは普段より僅かに硬い。

 

レイネは、そんなギースを一度だけ見た。

 

人神の使徒。

 

父さんの昔の仲間。

 

今まで別々だった二つの情報が、ここで初めてつながった。

 

ギースが父さんを害するために近づいたとは思いたくない。

 

少なくとも、父さんと旅をしていた頃から人神の使徒だったのか。いつから使徒になったのか。本人がどの程度自覚しているのか。

 

俺には何も分からない。

 

レイネも、今ここで何かをするつもりはないようだった。

 

それでも、警戒は続けている。

 

部屋の中へ、時間だけが流れていく。

 

外では多くの人間が歩き、受付から呼び出しの声が聞こえていた。

 

その一つ一つへ反応してしまう。

 

足音が近づくたび、扉へ目を向ける。

 

違う。

 

また別の足音。

 

違う。

 

どれほど待ったのか。

 

待っている間、何度も水へ口をつけようとしたが、喉が詰まってほとんど飲めなかった。

 

実際には、それほど長くなかったはずだ。

 

だが、俺には一時間以上に感じられた。

 

やがて、廊下の向こうから走る音が聞こえた。

 

大人一人分の重い足音。

 

それに重なる、荒い呼吸。

 

衣服の擦れる音。

 

時折、抱えられている誰かの小さな靴が、壁か扉枠へ触れるような音もした。

 

誰かを抱いたまま走っている。

 

その考えが浮かんだ瞬間、身体が勝手に立ち上がりそうになった。

 

胸の鼓動が大きすぎて、扉の向こうにも聞こえるのではないかと思った。

 

足音が部屋の前で止まった。

 

扉が勢いよく開く。

 

男が立っていた。

 

少し伸びた髪。

 

整えられていない髭。

 

以前より痩せた顔。

 

服は古く、剣帯にも使い込まれた跡がある。

 

それでも、見間違えるはずがなかった。

 

記憶の中の父さんより、明らかに疲れている。

 

それでも、生きている。

 

目の前に立っている。

 

視界が僅かに滲んだ。

 

「父さん」

 

俺が呼ぶ。

 

父さんは、すぐには答えなかった。

 

左腕には、小さな女の子を抱いている。

 

淡い金色の髪。

 

ゼニスに似た顔立ち。

 

ノルンだ。

 

俺が村を出た時には赤ん坊だった妹が、片腕を父さんの肩へ回し、見知らぬ部屋の中を不安そうに見回している。

 

父さんの視線が、俺へ向く。

 

次にレイネ。

 

エリス。

 

ルイジェルド。

 

ギース。

 

最後に、もう一度俺へ戻る。

 

「ルーデウス」

 

ようやく、声が出た。

 

掠れていた。

 

父さんはノルンを抱いたまま、数歩だけ近づいた。

 

その後で、動きを止める。

 

以前なら、そのまま強く抱きしめられていたかもしれない。

 

だが、父さんは俺の身体を上から下まで確認するように見た。

 

怪我がないか。

 

自分の足で立っているか。

 

本当に目の前にいるのか。

 

確かめているようだった。

 

「怪我は」

 

「ありません」

 

「本当にか」

 

「はい。今は、どこも」

 

俺が答えると、父さんの肩から力が抜けた。

 

けれど、まだ動かない。

 

何かを堪えているように、空いた手を強く握っている。

 

俺の方から一歩近づいた。

 

言葉を探していたはずなのに、口から出たのは最も単純なものだった。

 

「ただいま、父さん」

 

その言葉を聞いた瞬間、父さんの顔が歪んだ。

 

ノルンを落とさないよう左腕で抱き直し、空いた右腕で俺を引き寄せる。

 

強い。

 

苦しいほど強い。

 

だが、嫌ではなかった。

 

父さんの腕の強さも、身体の温かさも、帰ってきたのだと俺へ教えてくれている。

 

堪えていたものが胸の奥から一気に込み上げ、俺も父さんの服を強くつかんだ。

 

父さんの身体が震えている。

 

「遅えんだよ……」

 

耳元で、低い声が聞こえた。

 

「どこまで行ってたんだ。どれだけ……」

 

続く言葉は、最後まで形にならなかった。

 

俺も腕を伸ばし、父さんの背中へ回した。

 

「すみません」

 

声が少し震えた。

 

何に対する謝罪なのか、自分でも分からない。

 

帰るのが遅くなったことか。

 

心配を掛けたことか。

 

それとも、生きて会えたことへの感情を、ほかにどう表現すればよいか分からなかっただけなのか。

 

ノルンが、父さんの肩越しから俺を見ている。

 

大きな目には、涙が浮かんでいた。

 

「おにいちゃん?」

 

「はい」

 

俺は父さんの腕から少し身体を離し、ノルンと目線を合わせた。

 

「覚えていないと思いますが、ルーデウスです。あなたのお兄さんです」

 

ノルンは、俺をじっと見た。

 

その後、父さんの肩口へ顔を伏せ、俺から見えないように身体を父さんの背中側へ寄せた。

 

当然だ。

 

分かっていたはずなのに、胸の奥が僅かに痛んだ。

 

俺が村を出た時、ノルンはまだ赤ん坊だった。

 

話に聞いている兄と、目の前の俺がすぐに結びつかなくても不思議ではない。

 

「急がなくていいですよ」

 

俺は言った。

 

「これから、少しずつ覚えてもらえれば」

 

ノルンはしばらく父さんの背中側へ隠れていた。

 

やがて、背中側から顔だけを出し、もう一度俺を見る。

 

小さく頷いたように見えた。

 

その小さな反応だけで、胸の痛みが少し和らいだ。

 

焦る必要はない。

 

これから兄妹として過ごす時間を、一つずつ積み重ねればいい。

 

父さんは俺から離れると、今度はレイネを見た。

 

レイネは既に立ち上がり、姿勢を正している。

 

「パウロ様」

 

深く頭を下げる。

 

「ただいま戻りました」

 

父さんは、何も言わずにレイネへ近づいた。

 

「顔を上げろ」

 

レイネが顔を上げる。

 

父さんは何か言おうとした。

 

だが、言葉が出ない。

 

代わりに、空いている右腕を少しだけ持ち上げ、そこで止めた。

 

「……触っていいか」

 

レイネが、僅かに目を見開いた。

 

父さんが相手へ許可を求めたことに、俺も驚いた。

 

以前の父さんなら、喜びのまま相手へ触れていたかもしれない。

 

離れていた間に、父さんにも俺の知らない時間があり、何かが変わったのだと感じた。

 

以前なら、考えるより先に頭を撫でていたかもしれない。

 

レイネは一瞬だけ迷った後、静かに頷いた。

 

「はい」

 

父さんはレイネの白い髪へ手を置いた。

 

乱暴には撫でない。

 

そこにいることを確かめるように、一度だけ触れる。

 

「おかえり」

 

その一言で、レイネの赤い瞳が揺れた。

 

レイネが戻る場所は、俺のそばだけではない。

 

ブエナ村で一緒に暮らした父さんも、彼女の帰還を待っていたのだ。そのことが伝わってきて、胸が温かくなった。

 

「……はい」

 

返事は小さかった。

 

普段の完璧な侍女の声ではない。

 

年相応の少女のような、僅かに震えた声だった。

 

父さんは続いてエリスへ顔を向けた。

 

「エリス」

 

「何よ」

 

エリスはいつものように胸を張っていた。

 

だが、俺の腕をつかんだ手には力が入っている。

 

「よく戻った」

 

父さんが頭を下げた。

 

俺も、隣にいるエリスへ目を向けた。

 

父さんの言葉を聞いて、魔大陸からここまで一緒に歩いてくれたことへの感謝が、改めて胸へ込み上げた。

 

「ルーデウスと一緒に、生きて戻ってきてくれてありがとう」

 

エリスは、頭を下げられるとは思っていなかったらしい。

 

目を丸くし、言葉を失った。

 

「べ、別に、私一人の力じゃないわ」

 

やがて、いつもより小さな声で答える。

 

「ルーデウスも、ルードもいたもの。それに、途中からレイネも来たわ」

 

「それでもだ」

 

「……そう」

 

エリスは顔を逸らした。

 

耳が少し赤くなっている。

 

父さんの視線が、入口近くに立つルイジェルドへ移った。

 

ここはギルドの応接室だ。

 

壁を隔てた外には、多くの人間がいる。

 

俺は本名を口にしなかった。

 

「父さん。こちらはルードさんです。魔大陸から、僕とエリスを守ってくれました」

 

父さんはノルンを抱いたまま、深く頭を下げた。

 

「息子とエリスを守ってくれたこと、感謝する」

 

ルイジェルドは父さんを見つめた。

 

「俺が一方的に守ったわけではない。二人は自分で考え、自分で戦い、ここまで来た」

 

「それでも、二人だけじゃ無理だったこともあるだろ」

 

「ああ」

 

ルイジェルドは否定しなかった。

 

「だが、俺も二人に助けられた」

 

「そうか」

 

父さんは、もう一度だけ頭を下げた。

 

「詳しい話は、後で聞かせてくれ」

 

最後に、ギースへ目を向ける。

 

先ほどまで涙を堪えていた顔へ、明らかな困惑が浮かんだ。

 

「お前、何でいるんだ」

 

「第一声がそれかよ」

 

ギースが肩を落とした。

 

「久しぶりに会った昔の仲間へ、もう少し何かあるだろ」

 

「お前が、ルーデウスたちと一緒にいる理由が分からねえんだよ」

 

「大森林で偶然会ったんだ。その後、ミリシオンまで同行した。詳しい話は、先輩たちの話とまとめて聞けばいいだろ」

 

「また問題を起こして逃げてきたんじゃねえだろうな」

 

「パウロ、お前、俺を何だと思ってやがる」

 

父さんとギースの言い合いを聞き、胸の緊張が少しだけ解けた。

 

久しぶりに再会したとは思えないほど自然なやり取りだった。

 

少なくとも今この瞬間だけは、人神の使徒という言葉を忘れ、父さんの昔の仲間としてのギースを見ることができた。

 

同じパーティで旅をしていた頃から、こうした関係だったのかもしれない。

 

少なくとも、父さんがギースへ向けている感情には、困惑や呆れだけではない親しさがあった。

 

レイネは二人を見ながらも、完全には警戒を解いていない。

 

父さんの昔の仲間であることと、人神の使徒であることは別の問題だからだ。

 

「ここで全部話すのも何だな」

 

父さんが部屋を見回した。

 

「捜索団の本部へ来てくれ。人に聞かせたくない話もあるだろ」

 

「はい」

 

俺は頷いた。

 

「ただ、馬車と荷物を門近くの馬屋へ預けています。宿もまだ決めていません」

 

「馬車はそのままでいい。預かり札はあるか?」

 

レイネが鞄から札を取り出した。

 

「こちらにございます」

 

「本部へ着いたら、泊まる場所を決めよう。その後、誰かを馬屋へ行かせる。捜索団が使ってる宿に空きがなけりゃ、近くを取ればいい」

 

「かしこまりました」

 

話が決まる。

 

父さんは、ギルド職員へ応接室を使った礼を告げた。

 

それからノルンを抱いたまま廊下へ出る。

 

俺たちも続いた。

 

ギルドの広間へ戻ると、多くの視線が集まった。

 

白髪のSランク冒険者が戻ってきたこと。

 

フィットア領捜索団の団長が駆け込んできたこと。

 

何か大きな出来事があったと、既に気づかれているのだろう。

 

レイネは歩きながら、ルイジェルドの隣へ位置を変えた。

 

額の布がずれていないかを、さりげなく確認する。

 

外へ出るまで、誰も本名は口にしなかった。

 

 

ギルドを出ると、父さんはノルンを地面へ下ろした。

 

「歩けるか?」

 

「うん」

 

「疲れたら言えよ」

 

「うん」

 

ノルンは父さんの手を握る。

 

反対側の手は空いていた。

 

何度か俺へ視線を向けているが、自分から近づいてくることはない。

 

俺も、無理には距離を詰めなかった。

 

父さんが歩き始める。

 

俺たちは、その後ろへ続いた。

 

捜索団の本部は、冒険者ギルドからそれほど遠くない場所にあるらしい。

 

大通りを進み、二つ目の角を曲がる。

 

その途中、フィットア領の紋章が掲げられた建物の前を通った。

 

二階建ての建物。

 

入口には、多くの人が出入りしている。

 

名簿を抱えた職員。

 

子供へ食事を運ぶ女性。

 

荷車から毛布を下ろす男たち。

 

「レイネ」

 

父さんが足を止めた。

 

「お前が作った救護所だ」

 

俺とエリスは、同時にレイネを見た。

 

目の前で人々が働き、助けられた者たちを受け入れている。

 

レイネがここで過ごした時間が、建物や帳簿だけではなく、多くの人の行動として残っている。その光景へ、誇らしさと同時に、俺を迎えに来る前にどれほどのことを背負っていたのかという痛みも覚えた。

 

レイネがミリシオンでフィットア領民を助ける場所を作ったことは聞いている。

 

だが、実際に動いているところを見るのは初めてだった。

 

「今も、これほどの方々が」

 

レイネが建物を見上げる。

 

声には、深い安堵が混じっていた。

 

「お前が任せた責任者が、ずっと守ってる。オレたちの捜索団とも情報を共有してる」

 

父さんが説明する。

 

「お前が北から送ってきた領民も、ここで受け入れた。鉱山町から十四人。大森林北部から二十九人。途中で人攫いに捕まった連中も、助かった二十六人全員がここの記録に入ってる。ザントポートから来た三十五人もな」

 

レイネの目が、僅かに見開かれた。

 

自分が送り出した人たちが、無事にここまで着いた。

 

各中継地への到着は確認していても、ミリシオンへ着いた後の姿を自分の目で見たわけではない。

 

「全員、無事なのでございますか?」

 

「ミリシオンへ向かうことを望んだ者は、な。途中の町へ残った連中についても、居場所と本人の意思を記録してる」

 

「そうでございますか……」

 

レイネが胸元へ手を置いた。

 

「よかった」

 

レイネの肩が、ほんの僅かに下がった。

 

短い言葉だった。

 

だが、そこには一年近く抱えていたものが込められているように聞こえた。

 

救護所の入口にいた女性が、こちらへ気づいた。

 

最初は父さんへ会釈しようとしていたらしい。

 

しかし、隣にいるレイネを見た瞬間、その場で立ち止まった。

 

「レイネさん?」

 

女性の声で、近くにいた職員たちも顔を上げる。

 

「レイネさんだ」

 

「戻ってきたの?」

 

建物の中から、人が集まり始めた。

 

レイネは、すぐに救護所へ入りたいのだろう。

 

同時に、俺たちとの話も途中だった。

 

僅かな迷いが、その表情へ浮かんでいる。

 

それを察したのか、父さんが言った。

 

「先に顔を見せてこい」

 

「よろしいのでございますか?」

 

「ああ。本部はすぐ先だ。オレたちはノルンに合わせて歩く。挨拶を済ませて、後から来ればいい」

 

父さんは、レイネが当然一緒に来るものと決めつけなかった。

 

救護所へ行くか。

 

俺たちと本部へ向かうか。

 

選べる形で言った。

 

レイネは俺へ視線を向ける。

 

「ルーデウス様」

 

「行ってきてください」

 

俺は答えた。

 

「あの方々も、レイネを待っていたはずです」

 

「ありがとうございます。すぐに追いつきます」

 

レイネは深く頭を下げ、救護所の入口へ向かった。

 

女性責任者が、途中まで待てずに外へ出てくる。

 

二人が向かい合う。

 

何を話したのかは聞こえなかった。

 

だが、女性がレイネの肩へ両手を置き、次の瞬間に抱きしめるのが見えた。

 

レイネは驚いたように身体を固くした後、ゆっくりと腕を回した。

 

俺たちは、その姿を少しだけ見守った。

 

抱きしめられたレイネが、すぐにはいつもの侍女の顔へ戻れずにいる。

 

その姿を見て、ここにも彼女の帰りを待っていた人がいたのだと分かり、俺まで目頭が熱くなった。

 

「行くぞ」

 

父さんが静かに言った。

 

「レイネなら、後から追いつく」

 

俺たちは再び歩き始めた。

 

レイネだけが、一時的に救護所へ残る。

 

父さんとノルン。

 

俺とエリス。

 

ルイジェルド。

 

ギース。

 

六人で捜索団本部へ向かった。

 

 

捜索団本部は、救護所から二本先の通りにあった。

 

外から見れば、普通の二階建ての建物だ。

 

だが、中へ入ると、壁一面に地図が貼られている。

 

一歩足を踏み入れただけで、父さんがこの一年に費やしたものの大きさを突きつけられた気がした。

 

ミリス大陸。

 

中央大陸。

 

魔大陸。

 

ベガリット大陸。

 

各地に色の違う印が打たれ、線や文字が書き込まれていた。

 

その印の一つひとつが、誰かを捜した場所なのだろう。

 

俺の名前を探しながら、父さんたちはこの地図へ何度目を落としたのか。そう考えると、胸が締めつけられた。

 

机の上には、大量の書類が積まれている。

 

人々が忙しなく行き来し、届いた報告を分類していた。

 

俺たちが入ると、受付近くで書類を確認していた女性が顔を上げた。

 

茶色い髪を短くまとめ、腰には剣を下げている。

 

「団長」

 

父さんへ声を掛けた後、俺たちを見た。

 

「この方々が?」

 

「ああ。ルーデウスとエリス。それから、ルードさんとギースだ。レイネは救護所へ寄ってから来る」

 

女性は俺たちへ向き直った。

 

「ヴェラです。フィットア領捜索団で、救助隊と護送隊の調整を担当しています」

 

「ルーデウスです。父がお世話になっています」

 

頭を下げると、ヴェラは僅かに笑った。

 

「こちらこそ。団長から、何度もお名前を聞いています」

 

奥の扉が開く。

 

今度は長い髪を後ろで結んだ女性が、布と薬瓶を持って出てきた。

 

袖を肘まで上げ、手には治療用らしい手袋をつけている。

 

「姉さん。先ほどの方の治療が終わりました」

 

「シェラ」

 

ヴェラが呼ぶ。

 

「団長の息子さんたちが戻った」

 

シェラの動きが止まった。

 

俺たちを見る。

 

「ルーデウス様ですか?」

 

「はい」

 

「シェラと申します。治療と記録の照合を担当しています」

 

シェラは丁寧に頭を下げた。

 

治療中だったのだろう。

 

父さんがギルドへ向かった時も、二人は本部の仕事を続けていた。

 

父さんが戻ったからといって、全員が仕事を放り出して入口へ集まっていたわけではない。

 

「話をする部屋を空けられるか」

 

父さんが尋ねる。

 

「二階の会議室が使えます」

 

ヴェラが答えた。

 

「午後の打ち合わせは、隣の部屋へ移します」

 

「悪い」

 

「今日ぐらいは構いません」

 

シェラはノルンへ目を向けた。

 

「ノルン様は、こちらに残られますか?」

 

ノルンは父さんの手を強く握った。

 

「いっしょにいく」

 

「分かりました。お飲み物をお持ちします」

 

誰がどこへ行くのか、一つずつ決まっていく。

 

ヴェラは一階へ残り、救助隊と護送隊の仕事を続ける。

 

シェラは飲み物と、必要なら治療道具を持って、後から会議室へ来る。

 

俺たちは父さんに案内され、二階へ向かった。

 

階段を上がる直前、入口の扉が開く。

 

レイネが戻ってきた。

 

女性責任者との話を終えたらしい。

 

目元が僅かに赤いように見えたが、表情はいつもの穏やかなものへ戻っている。

 

救護所の人々と何を話したのかは分からない。

 

それでも、再会できた喜びを隠しきれずに残した赤みだと思うと、無理に尋ねる気にはならなかった。

 

「お待たせいたしました」

 

「ちょうどいい」

 

父さんが答えた。

 

「これから、話を聞くところだ」

 

二階の会議室へ入る。

 

中央には、大きな机がある。

 

父さんがノルンと並んで座る。

 

俺とエリスは、その向かい。

 

レイネは俺の隣。

 

ルイジェルドとギースは、少し離れた席を選んだ。

 

シェラが水と軽い食事を運び、机へ置く。

 

「長旅の直後でしょうから、先に少し口へ入れてください」

 

「ありがとうございます」

 

俺が礼を言う。

 

シェラは父さんへ顔を向けた。

 

「治療が必要でしたら、呼んでください。私は下へ戻ります」

 

「ああ。頼む」

 

シェラが部屋を出る。

 

扉が閉じられた。

 

ようやく、落ち着いて話せる場所になった。

 

エリスも、ルイジェルドも、ギースもいる。

 

全員が、ここまでの旅へ深く関わっている。

 

父さんも、誰かを部屋から出そうとはしなかった。

 

「まず」

 

父さんが口を開く。

 

以前の父さんなら、自分が聞きたいことから質問していたかもしれない。

 

だが今は、一度俺たち全員を見回した。

 

俺たちが話せる状態なのかを先に確かめようとしている。

 

応接室で抱きしめられた時にも感じたが、父さんは俺の知らないところで少し変わったのだろう。

 

「何か食べるか。水だけでいいか。すぐに話せる状態か」

 

「僕は大丈夫です」

 

「私もよ」

 

エリスが答える。

 

レイネとルイジェルドも、問題ないと頷いた。

 

ギースだけが机の食事へ手を伸ばした。

 

「俺は食うぞ」

 

「お前には聞いてねえ」

 

「ひどくねえか?」

 

父さんとギースのやり取りに、ノルンが少しだけ笑った。

 

その笑い声で、部屋の空気が僅かに和らぐ。

 

父さんは深く息を吐いた。

 

「オレから話す前に、お前たちの話を聞かせてくれ」

 

俺を見る。

 

「どこへ飛ばされた。誰と一緒だった。そこから、どうやってここまで来た」

 

責めるような声ではなかった。

 

ただ、知りたいのだろう。

 

俺たちが過ごした時間を。

 

父さんが知らなかった一年を。

 

俺は机の下で、拳を握った。

 

父さんへ会えた喜びは消えていない。

 

だが、これから話すことを思えば、魔大陸で味わった恐怖や失敗が一気に蘇ってきた。

 

魔大陸。

 

赤い空。

 

目を覚ました荒野。

 

エリス。

 

ルイジェルド。

 

数え切れないほどの魔物。

 

失敗。

 

出会い。

 

別れ。

 

そして、ウェンポートで再会したレイネ。

 

どこから話せばよいのか迷った。

 

だが、父さんは急かさなかった。

 

ノルンも、こちらを見ている。

 

レイネが隣にいる。

 

エリスとルイジェルドもいる。

 

俺は一度、息を吸った。

 

どれほど長い話になっても、今度は隠さずに伝えようと思った。

 

父さんが知らなかった俺たちの一年を。

 

俺たちも知らなかった父さんの一年を聞くために。

 

「僕たちは、魔大陸へ転移しました」

 

そこから、話を始めた。

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