白髪の侍女   作:MトK

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第三十九話 それぞれの一年

ルーデウス視点

 

「僕たちは、魔大陸へ転移しました」

 

俺がそう告げると、父さんの表情が固まった。

 

「魔大陸か……」

 

低く漏れた声には、驚きだけではなく、俺たちがどれほど遠い場所へ飛ばされたのかを理解した重さがあった。

 

父さんは俺とエリスを見比べた後、まず身体の状態を確かめるように尋ねた。

 

「転移した時、怪我はなかったのか」

 

「僕もエリスも無事でした」

 

「そうか」

 

父さんは短く息を吐いた。

 

ほんの僅かに肩から力が抜ける。

 

転移直後から傷ついていたわけではないと分かっただけでも、少し安心できたのだろう。

 

驚きも、聞きたいことも多いはずだ。それでも一度に質問を重ねず、俺が話し始めるのを待っている。

 

「それから、どうした」

 

俺は答える前に、入口に近い席へ目を向けた。

 

ルイジェルドの隣にはギースがいる。

 

魔大陸での旅を説明するなら、ルイジェルドの正体を避けては通れない。だが、それをギースへ聞かせてよいかどうかは、俺が勝手に決めることではなかった。

 

これまで何度も、ルイジェルドは正体を知られたことで恐れられてきた。

 

たとえギースが父さんの昔の仲間であっても、本人の許可なく明かすことはできない。

 

俺の視線を追ったレイネが、静かに立ち上がる。

 

「ギース様。申し訳ございませんが、しばらく下の階でお待ちいただけますでしょうか」

 

「俺だけか?」

 

「これから、ルード様ご本人の許可なく第三者へお伝えできない事柄をお話しいたします」

 

ギースはルイジェルドを見た後、仕方がなさそうに肩をすくめた。

 

「分かったよ。終わったら呼んでくれ」

 

「下にヴェラがいる。手が空いてるなら、少し手伝ってやってくれ」

 

父さんが言う。

 

「客に仕事をさせるのかよ」

 

「飯ぐらいは出る」

 

「なら考えておく」

 

ギースは軽口を残して部屋を出た。

 

いつもどおりの調子だったが、レイネから人神の使徒だと警戒されていることを考えれば、素直に席を外したことへ少しだけ安堵した。

 

足音が階段の下へ消えたのを確認してから、レイネが扉と窓へ遮音の魔術を施す。

 

外から聞こえていた人の声や足音が、急に遠ざかった。

 

部屋の中には、俺たちの呼吸だけが残る。

 

ルイジェルド本人からも了承を得た上で、俺は父さんへ本名と種族を明かした。

 

「こちらは、ルイジェルド・スペルディアさんです」

 

父さんの目が大きく開かれた。

 

スペルド族という名前を知らないはずはない。

 

ノルンも父さんの服を握ったが、父さんは娘を連れて席を立つことも、剣へ手を伸ばすこともしなかった。

 

驚きはしている。

 

警戒もあるのだろう。

 

それでも、俺の説明を聞く前から相手を敵だと決めつけることはしなかった。

 

「魔大陸で僕たちを見つけ、最初の集落まで連れていってくれました。その後も、ここまで一緒に旅をしてくれた方です」

 

父さんはしばらくルイジェルドを見つめた。

 

俺の言葉だけで判断するのではなく、目の前にいる人物自身を確かめようとしているようだった。

 

やがて、深く頭を下げる。

 

「息子とエリスを助けてくれて、ありがとう」

 

「二人は守られていただけではない」

 

ルイジェルドが答えた。

 

「旅の途中からは、俺も二人に助けられた」

 

「それも含めて、聞かせてもらう」

 

父さんは、外ではこれまでどおりルードと呼び、正体を誰にも明かさないと約束した。

 

その約束を聞き、胸の奥へあった小さな緊張が解けた。

 

父さんなら理解してくれると思っていた。

 

それでも、実際に剣へ手を掛けることなく頭を下げた姿を見て、ようやく安心できた。

 

 

俺は、魔大陸で過ごした一年を要点だけ話した。

 

目を覚ました後、ルイジェルドに助けられたこと。

 

リカリスで俺とエリスとルイジェルドの三人が冒険者となり、相談してデッドエンドというパーティ名を決めたこと。

 

依頼で旅費を稼ぎながら、中央大陸へ帰るためにウェンポートを目指したこと。

 

立ち寄った町では、三人が生きていること、怪我がないこと、次に向かう場所を伝言として残し続けたこと。

 

護衛や救助の依頼を受け、時にはほかの冒険者や住民とも協力したこと。

 

細かな戦いの内容までは説明しなかった。

 

父さんが知りたいのは、どの魔物をどの魔術で倒したのかではない。俺たちが何を目指し、どうやってここまで来たのかだろう。

 

話しながら、魔大陸の景色が一つずつ頭へ蘇った。

 

赤い空。

 

荒れた大地。

 

知らない言葉。

 

最初の町での失敗。

 

命を落としかけた人たち。

 

すべてを説明しようとすれば、何日あっても足りない。

 

それでも、父さんは途中で口を挟まず、俺が話す言葉を一つずつ受け止めていた。

 

「それで、Aランクまで上がったのか」

 

「はい。ただ、昇格そのものが目的だったわけではありません」

 

「私は嬉しかったけど、帰る方が先だったもの」

 

エリスが付け加える。

 

「進む方向から大きく外れる依頼は受けなかったわ。依頼を受けるかどうかも三人で決めたのよ」

 

ルイジェルドも頷く。

 

「俺が道の危険を調べ、ルーデウスが依頼と金を管理し、エリスが戦力と護衛対象の状態を見た」

 

父さんは、それ以上細かく問い詰めなかった。

 

「分かった。三人で帰ろうとしていたんだな」

 

その一言で、十分だった。

 

勝手な行動を繰り返していたのではない。

 

ルイジェルドへ任せきりでもない。

 

俺たちなりに相談し、役割を決め、帰るために進んできた。

 

そのことを父さんへ理解してもらえたようで、胸の奥にあった硬いものが少しだけ解けた。

 

ウェンポートでレイネと再会した後についても、簡潔に伝えた。

 

レイネの協力で海を渡ったこと。

 

ザントポートで攫われていた獣族の子供たちを救助し、治療や家族との照合が落ち着くまで三日ほど町へ残ったこと。

 

雨季が始まる前に大森林へ入り、子供たちをデドルディア族の村まで送り届けたこと。

 

その後、聖剣街道を進む途中でギースと出会い、ミリシオンまで同行したこと。

 

ギースと出会ってからの期間は短いため、合流した経緯だけを伝えた。

 

父さんも、その部分を詳しく尋ねることはなかった。

 

俺たち三人と、途中から加わったレイネを順番に見る。

 

「よく帰ってきた」

 

父さんは、それだけを言った。

 

褒めるでもなく、叱るでもない。

 

ただ無事に戻ったことを、心から喜んでくれている言葉だった。

 

その声を聞いた瞬間、改めて帰ってきたのだと思えた。

 

まだ故郷ではない。

 

家族も全員そろっていない。

 

それでも、父さんへ自分たちの旅を話し、「帰ってきた」と受け止めてもらえた。

 

それだけで、長かった一年が少し報われたように感じた。

 

 

次に、レイネが自分の一年を話した。

 

「転移後、私はルーデウス様へお渡ししていたお守りから、ルーデウス様がご無事であることと、大まかな方角を確認いたしました」

 

その機能については、ウェンポートで再会した時に俺も説明を受けている。

 

俺が生きていること。

 

命に関わるほどの異常が起きていないこと。

 

そして、おおまかにどの方角へ移動しているのか。

 

お守りから分かるのは、その程度だ。正確な距離や現在地、その場所で何をしているのかまでは伝わらない。

 

「待って」

 

エリスが声を上げた。

 

「じゃあ、レイネは最初からルーデウスが生きてるって分かってたの?」

 

「はい」

 

「私が一緒にいることも?」

 

レイネはすぐには肯定せず、説明するように答えた。

 

「お守りからエリス様のお名前やお姿が見えるわけではございません。ただ、ルーデウス様の近くに長くいらっしゃる方の存在は、おおまかに感じ取ることができます」

 

「近くにいる人まで分かるの?」

 

「人数や距離を正確に把握できるものではございません。ですが、私が存じ上げている方であれば、ルーデウス様の近くにいらっしゃる可能性を、ある程度まで判断できます」

 

それも、ウェンポートで聞いた説明と同じだった。

 

俺の近くに、レイネの知り合いが長期間いる場合、その存在を曖昧ながら感じ取れる。

 

だからレイネは、転移後の俺が一人ではないことを知っていた。そして、近くに感じる気配の一つが、エリスである可能性も早い段階から考えていたのだ。

 

「では、俺のことも分かっていたのか」

 

ルイジェルドが尋ねた。

 

「ルイジェルド様と思われる方がご一緒であると確信したのは、ウェンポートで伝言を確認してからでございます」

 

「伝言には、ルードとしか書いていなかったはずだ」

 

「はい。ですが、ルーデウス様とエリス様を守りながら魔大陸を南下している槍使いの方で、ルードと名乗っておられる。その情報から判断いたしました」

 

レイネは、ルイジェルドと以前から面識があったとは言わなかった。

 

お守りからは、俺たちの近くにもう一人の同行者がいることだけを感じていた。そこへ、俺たちが残した伝言に書かれていた「護衛のルード」という情報が加わり、ルイジェルドだと判断した。

 

表向きには、そういう説明になる。

 

俺はレイネの横顔を見たが、口を挟まなかった。

 

ここで本当の関係を明かす必要はない。

 

ルイジェルド本人も、レイネの説明を否定しなかった。

 

エリスも納得したように頷いた。

 

「だから、私たち三人がウェンポートへ向かってるって分かったのね」

 

「はい」

 

「それなら、もっと早く教えてくれてもよかったのに」

 

エリスの声に強い怒りはなかった。

 

驚いたことへの、素直な不満に近い。

 

レイネは頭を下げる。

 

「申し訳ございません。私が確認できれば十分な、非常時のための機能だと考えておりました」

 

「今度、私たちに関係する物を作る時は、ちゃんと説明しなさい」

 

「承知いたしました」

 

俺も胸元のお守りへ手を添えた。

 

服の下にある小さなお守りは、いつもと変わらない。

 

だが、これがあったからこそ、レイネは一年近く俺の生存を信じ続け、北へ進むことができたのだ。

 

レイネは、ここではお守りの機能をすべて話しているわけではない。

 

俺の命が失われた時、一度だけ蘇生させる機能。

 

それについては、父さんにも、ノルンにも、エリスやルイジェルドにも明かさなかった。

 

蘇生のことは言わないんだな。

 

そう思っただけで、悪い感情は浮かばなかった。

 

そもそも、今ここで話す必要がない。

 

俺が死んだ場合を前提にした機能を説明しても、父さんやエリスを余計に不安にさせるだけだ。お守りの存在を外部へ広める危険も増える。

 

俺自身も、わざわざ口を挟んで明かそうとは思わなかった。

 

レイネがどこまで説明するかを選んだことへ何も言わず、そのまま続きを聞く。

 

レイネは俺を迎えに向かう前に、ミリシオンでフィットア領民を受け入れる救護所を作った。

 

その後は北へ進みながら、各地で発見したフィットア領民の意思を確認し、帰還を望む者をミリシオンへ送り出した。

 

父さんは、その先を既に知っていた。

 

「鉱山町から十四人。大森林北部から二十九人。人攫いから助けられた二十六人。それにザントポートから三十五人」

 

送り出された人々は、全員が同時に移動したわけではない。

 

区間ごとに護衛を替え、中継地への到着を確認してから次の集団を出す。レイネが北へ進んだ後も、その経路は止まらずに動いていた。

 

「ミリシオンへ向かうことを選んだ連中は、全員救護所まで着いた。転移先へ残った奴らについても、本人の意思と居場所が記録されてる」

 

「そうでございますか」

 

レイネの声が、わずかに震えた。

 

「皆様、ご無事だったのでございますね」

 

「ああ。お前が作った道は、途中で途切れてない」

 

レイネは目を伏せ、胸元へ手を添えた。

 

「安心いたしました」

 

その手が、ごく僅かに震えている。

 

送り出した後は、報告を受け取ることしかできなかった。

 

自分の目が届かない場所で、誰かが襲われた可能性もある。

 

途中で経路が途切れた可能性もある。

 

レイネは、それを一年近く気にし続けていたのだろう。

 

父さんは、少し間を置いてから続けた。

 

「お前が送り出した連中が着くたび、オレたちはお前の足取りを追えた。全員を受け入れられたのは、救護所の連中が、お前のいない間も働き続けてくれたからだ」

 

「はい。皆様が救護所を守ってくださったことに、心より感謝いたします」

 

「オレたちも、あの仕組みに助けられた。お前一人の仕事でも、オレ一人の仕事でもねえ。それでいいだろ」

 

「はい」

 

レイネは静かに頷いた。

 

その表情が、少しだけ和らいだ。

 

自分一人がすべてを助けたわけではない。

 

誰かへ任せ、受け取った人が仕事を続け、父さんたちとも協力した。

 

その結果として、送り出した全員が無事にたどり着いた。

 

レイネがそれを受け入れ、安堵していることが分かり、俺も胸を撫で下ろした。

 

 

最後に、父さんたちの一年を聞いた。

 

父さんは、ノルンを抱いた状態でアスラ王国南部へ転移した。

 

急いでフィットア領へ戻ろうとした結果、幼いノルンへ無理をさせ、途中で高熱を出させてしまった。

 

そこで移動を中断し、ノルンが回復してから、馬車と徒歩でフィットア領へ戻ったという。

 

「おとうさん、ずっといてくれた」

 

ノルンが小さな声で言った。

 

父さんは娘の頭を撫でる。

 

「最初から無理をさせなければ、必要のなかった看病だ」

 

苦い声だった。

 

今も、その時のことを後悔しているのだろう。

 

「でも、いてくれたよ」

 

ノルンは同じ言葉を繰り返した。

 

父さんは否定せず、黙って頭を撫で続けた。

 

間違いがなかったことにはならない。

 

だが、苦しくなったノルンを見捨てず、回復するまでそばにいたことも事実だ。

 

ノルンにとっては、その記憶の方が強く残っているのかもしれない。

 

それから父さんは、フィットア領へ戻った時に見たものを話した。

 

ブエナ村もロアも、領内にあった町や村の大半も消えていた。

 

建物が壊れたのではない。

 

人、家、城壁、畑、道、木々までが各地へ転移し、かつてのフィットア領には広い荒野だけが残されていた。

 

想像していた以上に、何も残っていなかった。

 

壊れた家なら、戻って建て直すこともできる。

 

崩れた町なら、昔の場所を確認することもできる。

 

だが、土地の上からすべてが消えている。

 

自分の生まれ育った場所が、最初から存在しなかったようになっている。

 

その光景を、すぐには想像できなかった。

 

「ロアも、ないの?」

 

エリスの声が震えた。

 

「ああ」

 

「屋敷も?」

 

「残ってない」

 

エリスは膝の上で拳を握った。

 

指先が白くなるほど、強く握っている。

 

すぐには、次の言葉が出なかった。

 

俺も、ロアの屋敷を思い出した。

 

授業をした部屋。

 

ギレーヌと剣を学んだ庭。

 

エリスと食事をした場所。

 

あの日々を支えていた建物が、すべて消えている。

 

隣にいるエリスへ何か言いたかった。

 

だが、安易な慰めを口にすれば、かえって彼女の痛みを軽く扱うような気がして何も言えなかった。

 

父さんもエリスへ安易な慰めを言わず、話を続けた。

 

フィットア領へ帰還した者を受け入れるため、アルフォンスと難民キャンプを作ったこと。

 

その後、各地へ転移した領民を捜すフィットア領捜索団を組織したこと。

 

アルフォンスは旧フィットア領側で帰還者の受け入れを担当し、父さんはヴェラやシェラたちとともにミリシオンへ拠点を移したこと。

 

捜索団は外へ出て、まだ見つかっていない者を捜す。

 

レイネの救護所は、保護された者を受け入れ、治療し、家族の情報と照合する。

 

二つの組織は、別々の役割を保ったまま協力していた。

 

父さんは、これまでの活動を細かく列挙しなかった。

 

多くの領民を助けたこと。

 

助けが間に合わなかった人もいたこと。

 

救助へ向かった団員の中にも、帰ってこなかった者がいること。

 

失敗するたびに、斥候の使い方、退路、連絡期限、団員の休ませ方を変えてきたこと。

 

それだけを話した。

 

言葉にされない部分にも、多くの失敗と後悔があることは伝わった。

 

父さんの髪や髭。

 

痩せた顔。

 

使い込まれた装備。

 

再会した時に感じた変化が、この一年の重さだったのだろう。

 

「上手くやれてるとは言えねえ」

 

父さんは言った。

 

「今でも焦る。怒鳴ることもある。酒へ逃げる夜もある。ただ、自分が正しいと思っただけで、相手の話を聞かずに決めるのは、なるべくやめるようにしてる」

 

父さんの視線が、わずかにレイネへ向いた。

 

その意味までは、俺には分からなかった。

 

だが、レイネとの間に、俺の知らない出来事があったのだろう。

 

レイネも何も言わず、父さんを静かに見返していた。

 

責めるような目ではない。

 

父さんが変わろうとしていることを、そのまま受け止めているように見えた。

 

 

互いの一年について話し終えた。

 

それでも、父さんの説明には出てこなかった名前がある。

 

最初から尋ねたかった。

 

ギルドで父さんとノルンが生きていると聞いた時から、次に確認しなければならないと分かっていた。

 

だが、父さんが自分から話さないことが、答えを示しているようで怖かった。

 

口を開こうとするたび、喉が乾いた。

 

聞けば、もう知らなかった時には戻れない。

 

それでも、聞かないわけにはいかなかった。

 

「母様は」

 

ようやく声を出す。

 

「ゼニス母様は、見つかったんですか」

 

父さんの表情が曇った。

 

「まだだ」

 

短い言葉が、胸の奥へ重く落ちた。

 

「リーリャと、アイシャは?」

 

「二人も見つかってない」

 

胸の奥が冷たくなった。

 

指先から血の気が引く。

 

父さんとノルンが生きていた。

 

レイネとも再会できた。

 

そのまま全員の無事を聞けるのではないかと、どこかで期待していた。

 

父さんが生きているのなら。

 

これほど大きな捜索団を作っているのなら。

 

もう見つかっているかもしれない。

 

そんな都合のいい期待を、自分でも気づかないまま抱えていた。

 

「死亡が確認されたわけではございません」

 

レイネが静かに告げる。

 

その声に、僅かに呼吸を取り戻した。

 

父さんも頷いた。

 

「教会の保護名簿、ギルドの記録、奴隷市場、商隊の報告。今も調べてる。見つかっていないだけで、捜索をやめる理由はねえ」

 

見つかっていない。

 

それは、死んだという意味ではない。

 

危険な場所にいる可能性もある。

 

誰かに保護されながら、自分の名前を伝えられない状態かもしれない。

 

まだ探せる。

 

まだ間に合う可能性がある。

 

ノルンが父さんの服を握る。

 

「おかあさん、どこにいるの?」

 

「分からない」

 

父さんは、すぐに帰ってくるとは言わなかった。

 

以前の父さんなら、ノルンを安心させるために大丈夫だと言ったかもしれない。

 

今は、分からないことを分からないまま伝えている。

 

「だから、これからも捜す」

 

ノルンは今度、俺へ顔を向けた。

 

「おにいちゃんも、さがす?」

 

「はい」

 

俺は迷わず答えた。

 

先ほどまで胸を満たしていた不安が、答えを口にした瞬間、少しだけ形を変えた。

 

ただ怖がるだけではない。

 

俺にもできることがある。

 

「僕も捜します」

 

父さんは止めなかった。

 

「明日、今ある資料を見せる」

 

壁へ貼られた地図へ目を向ける。

 

「調べ終わった場所。まだ人を出せていない場所。信頼できる情報と、噂にすぎない情報。それを見てから、どう動くか決めよう」

 

「分かりました」

 

今すぐ飛び出して探しに行きたい気持ちはあった。

 

だが、場所も状況も分からないまま動けば、時間と人員を無駄にする可能性がある。

 

父さんが焦りながらも、情報を確認してから決めようとしている。

 

俺も、その判断へ従うべきだと思った。

 

俺たちの当面の目的も、そこで整理した。

 

俺はゼニス母様、リーリャ、アイシャの手掛かりを探しながら、父さんの捜索団へ加わる。

 

エリスは、フィリップ様、ヒルダ様、ギレーヌをはじめとするボレアス家関係者の消息を追う。

 

「すぐにフィットア領へ向かっても、ロアも屋敷も残っていないのね」

 

エリスが言った。

 

声には、まだ事実を受け止め切れていない硬さがある。

 

「なら、今はここで探せる人を探すわ。お父様とお母様、ギレーヌの情報も、捜索団へ入るかもしれないもの。その後で、旧フィットア領へ行く」

 

迷いのない言葉だった。

 

屋敷が消えたと聞いても、座り込むことはしない。

 

探せる場所から探す。

 

それが今のエリスの選択だった。

 

俺は机の下で握っていた拳を少し緩めた。

 

エリスも、自分の家族を探すために動こうとしている。

 

一人ではない。

 

ルイジェルドは、俺とエリスを旧フィットア領まで送り届けるという最初の目的を変えなかった。

 

「二人を目的地まで送り届ける。それまでは、捜索にも力を貸そう」

 

「ありがとうございます」

 

自然に礼が出た。

 

魔大陸を出た後まで、ルイジェルドに頼り続けてよいのかという思いもあった。

 

だが、今はその言葉を拒むより、力を借りるべきだ。

 

レイネは、俺たちの家族捜しを支えながら、救護所と各地の移送経路を確認し直す。

 

「各地の記録を整理し、まだ情報がつながっていない地域を確認いたします」

 

すぐにフィットア領へ向かうのではない。

 

まずはミリシオンへ残り、ミリス大陸側でまだ発見されていないフィットア領民を捜す。

 

その間に、中央大陸へ戻るための人員、資金、護送経路を整える。

 

フィットア領へ向かう時期は、この場では決めなかった。

 

翌日から捜索記録を確認し、優先度の高い案件へ順番に加わることになった。

 

「今日は休め」

 

父さんが言った。

 

「馬車も荷物も、まだ馬屋だろ。宿も決めなきゃならねえ。動くのは、明日からでいい」

 

「はい」

 

焦る気持ちはある。

 

母様たちが今もどこかで助けを待っているかもしれない。

 

一日休んでいる間にも、状況が悪化するかもしれない。

 

そう考えると、座っているだけでも落ち着かなかった。

 

それでも、事情を知らずに飛び出すより、情報を確認してから確実に動く方がいい。

 

父さんも、一年間の失敗からそれを学んだのだろう。

 

俺も同じ失敗を繰り返す必要はない。

 

レイネが遮音の魔術を解く。

 

遠ざかっていた一階の音が、再び聞こえてきた。

 

ヴェラが誰かへ指示を出す声。

 

治療を終えたシェラが、次の患者について尋ねる声。

 

書類や物資を運ぶ足音。

 

俺たちが話している間も、捜索は止まっていなかった。

 

この建物では、今も誰かを見つけるために人が動いている。

 

母様たちの情報がないことへ絶望しているだけではなく、俺も明日からこの動きへ加わるのだ。

 

ノルンが椅子を降りた。

 

父さんの横から机を回り、ゆっくり俺の前へ来る。

 

まだ見慣れない兄を警戒しているらしく、少し離れた場所で足を止めた。

 

俺も緊張した。

 

父さんの腕から顔を出してくれただけでも嬉しかった。

 

今度は、自分から俺の前まで来てくれた。

 

それでも、ここで俺から近づけば、怖がらせてしまうかもしれない。

 

俺は自分から手を伸ばさず、ノルンがどうするのかを待った。

 

やがて、小さな右手が持ち上がる。

 

迷うように宙で止まり、それから少しずつ近づいてくる。

 

その指先が、俺の人差し指へ触れた。

 

温かい。

 

赤ん坊だった妹が、自分の意思で俺へ触れている。

 

胸の奥から込み上げてきたものを、驚かせないよう必死に抑えた。

 

「いっしょに、さがして」

 

「はい」

 

俺は、力を入れすぎないよう指をわずかに曲げた。

 

小さな指を包むのではなく、離したくなればいつでも離せる程度に触れる。

 

「一緒に捜しましょう」

 

ノルンは手を引かなかった。

 

ブエナ村も、ロアも、かつての家も残っていない。

 

ゼニス母様も、リーリャも、アイシャも見つかっていない。

 

それでも、父さんとノルンはここにいる。

 

レイネも、エリスも、ルイジェルドもいる。

 

失ったものは多い。

 

まだ見つかっていない人もいる。

 

だから、この再会だけで旅が終わったわけではない。

 

俺たちは帰り着いたのではない。

 

家族のもとへ帰るための、次の場所へたどり着いたのだ。

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