白髪の侍女   作:MトK

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第四十一話 中央大陸へ

ルーデウス視点

 

ミリシオンを出発してから、二か月が過ぎた。

 

西へ延びる街道はよく整備されており、魔大陸を横断していた頃とは比べものにならないほど進みやすかった。数日おきに宿場や村があり、井戸や馬屋も設けられている。食料や水を補給する場所を探し、地図にも載っていない魔物の縄張りを避けながら進んでいた頃を思えば、旅そのものは穏やかだった。

 

道に迷う心配は少ない。

 

夜になれば、雨風をしのげる宿が見つかる。

 

馬へ無理をさせず、決まった距離を進めるだけでも目的地へ近づいていく。

 

魔大陸であれほど望んでいた、安全で変化の少ない旅だった。

 

だが、俺たちの気持ちまで穏やかだったわけではない。

 

町へ到着するたび、俺たちは冒険者ギルドと教会へ足を運んだ。ミリシオンの捜索団本部で作成してもらった照会書を見せ、フィットア領から転移した人々の記録を調べる。

 

ゼニス母様。

 

リーリャ。

 

アイシャ。

 

フィリップ様。

 

ヒルダ様。

 

ギレーヌ。

 

シルフィ。

 

名簿を開くたび、最初にその名前を探した。

 

同じ名前がないか。

 

似た綴りがないか。

 

名前が間違って記録されている可能性まで考え、年齢や外見、発見場所にも目を通す。

 

名簿の中に似た名前を見つけるたび、胸が大きく跳ねた。

 

紙へ顔を近づける。

 

指先が無意識に文字をなぞる。

 

もしかすると。

 

今度こそ。

 

そんな期待が、一瞬で胸の中へ膨らむ。

 

しかし、年齢や出身地まで確認すれば、ほとんどが別人だった。

 

リーリャと一文字違いの女性は、北方大地から巡礼へ来ていた四十代の女性だった。フィリップという名の男性も見つかったが、中央大陸北部の商人であり、フィットア領とは何の関係もなかった。

 

期待した分だけ、違うと分かった時の落胆も大きい。

 

胸の内側へ膨らんだものが、一気にしぼんでいく。

 

何度繰り返しても慣れなかった。

 

次は期待しすぎないようにしようと思う。

 

同じ名前を見つけても、別人である可能性の方が高いと自分へ言い聞かせる。

 

それでも、実際に文字を見れば期待してしまう。

 

家族を探している以上、それを止めることはできなかった。

 

名簿を閉じる時には、また見つからなかったという失望と、少なくとも死亡者名簿ではなかったという安堵が入り混じる。

 

見つからなかった。

 

だが、死んだと記録されていたわけでもない。

 

まだ生きている可能性は残っている。

 

その考えだけが、次の町でも名簿を開く力になった。

 

何も分からない状態が、これほど苦しいとは思わなかった。

 

生きているとも、死んでいるとも分からない。

 

助けを待っているのか。

 

既に誰かに保護されているのか。

 

俺たちを探しながら、同じように旅をしているのか。

 

考えても、答えは出ない。

 

それでも、確認した事実は無駄にはならない。

 

この町にはいなかった。

 

この教会の記録にはない。

 

この日付までは保護報告が届いていない。

 

分からない場所を、一つずつ分かる場所へ変えていくしかなかった。

 

俺は町の名前、訪れた施設、照会した日付、確認した記録を報告書へ書き加えた。旧フィットア領へ到着した時、アルフォンスが持つ情報と照らし合わせるためである。

 

レイネは、俺が書き終えるまで横から手を出さなかった。

 

名前の綴りや日付を間違えた時だけ静かに指摘し、訂正するのは俺へ任せている。その一方で、報告書が失われた場合に備え、要点だけを記した控えを別の紙へ作っていた。

 

以前なら、俺が書くよりも早く、レイネが完璧な報告書を作ってしまったかもしれない。

 

今は、俺が自分で記録し、判断し、責任を持つのを待ってくれている。

 

その上で、俺が見落としている危険だけを補っていた。

 

「報告書を紛失した場合に備えております。こちらの控えは、私がお預かりいたします」

 

「僕の報告書が信用できないわけではありませんよね?」

 

冗談めかして尋ねたが、ほんの少しだけ不安もあった。

 

自分の書いたものが、レイネから見れば不十分なのではないかと思ったのだ。

 

「内容ではなく、事故への備えでございます」

 

雨に濡れるかもしれない。

 

荷物を落とすかもしれない。

 

盗賊や魔物に襲われ、鞄を捨てて逃げなければならなくなる可能性もある。

 

一つしかない記録を同じ荷物へ入れておくより、分けて持っていた方が安全だ。

 

俺の仕事を信用していないのではない。

 

事故が起きても情報を失わないため、役割を分けているだけだ。

 

「分かりました。お願いします」

 

「承知いたしました」

 

レイネは控えを自分の荷物へしまった。

 

俺が教会で名簿を調べている間、エリスはギルドで商人や冒険者から話を聞いていた。町を通過したフィットア領民はいなかったか。赤い髪の貴族や、獣族の女剣士を見た者はいなかったか。

 

以前のエリスなら、相手が曖昧な答えを返せば、苛立って声を荒らげていただろう。

 

見たのか。

 

見ていないのか。

 

はっきりしなさいと詰め寄り、相手を怯えさせていたかもしれない。

 

今は、最初の話を最後まで聞いてから、必要なことを尋ねている。

 

相手の記憶が曖昧であることも理解し、赤髪の色合いや人数、進んだ方角を一つずつ確かめていた。

 

エリスもまた、家族を見つけたい焦りを抱えている。

 

それでも、焦りをそのまま相手へぶつけることはなくなっていた。

 

ルイジェルドは馬車と荷物を守りながら、町へ出入りする人間を見ていた。

 

人のいる場所では、ルードという偽名を使っている。

 

俺たちがギルドへ残す記録にも、護衛のルードと書いた。スペルド族であることを永遠に隠し通すためではない。ただ、関係のない人間へまで正体を広める必要がないからだ。

 

ルイジェルド本人が、自分から名乗る時を選べるようにする。

 

俺たちが勝手にその機会を奪わないための偽名だった。

 

結局、二か月の間に新しい手掛かりは見つからなかった。

 

町の名前と、調べ終えた記録だけが増えていく。

 

誰も見つからないまま、故郷だけが近づいてくる。

 

旧フィットア領へ戻れば、何かが分かるはずだ。

 

その希望はある。

 

同時に、そこで残酷な事実を知らされる可能性もある。

 

喜んでよいのか、不安になるべきなのか、自分でも分からなかった。

 

 

ウェストポートへ到着する前日の夜。

 

俺たちは街道脇に設けられた旅人用の野営地へ馬車を止めた。

 

野営地には先客もいたが、俺たちは少し離れた場所を選んだ。隣の焚き火からは人の笑い声が聞こえてくるものの、普通に話しているだけなら、こちらの内容までは届かない距離である。

 

明日には港へ到着する。

 

中央大陸へ渡るための最後の町だ。

 

それだけに、普段よりも確認しておくことが多かった。

 

レイネが周囲を確認した。

 

「こちらであれば、ほかの方へお話の内容まで聞かれることはないかと存じます」

 

夕食を終えた後、俺は焚き火のそばで荷物を広げた。

 

冒険者札。

 

捜索団本部から預かった報告書。

 

アルフォンスへ渡す手紙。

 

旅費。

 

中央大陸で馬車を買い直すための資金。

 

どれも失くすわけにはいかない。

 

報告書や手紙は、家族を捜すために多くの人が積み重ねた情報だ。

 

金は、中央大陸へ渡った後の移動に必要になる。

 

一つでも失えば、俺たちだけの問題では済まなかった。

 

一つずつ確認していると、向かい側に座っていたルイジェルドが、自分の荷物へ手を入れた。

 

取り出したのは、油を染み込ませた布に包まれた細長い物だった。

 

見慣れない物だ。

 

これまでルイジェルドが、俺たちの前で取り出した覚えもない。

 

「ルーデウス」

 

「何ですか、ルイジェルドさん?」

 

「ウェストポートへ着いたら、これを出す」

 

布の中から現れたのは、一通の封書だった。

 

厚い紙で作られ、封の部分には深緑色の蝋が使われている。蝋には、羊と鷹、そして剣を組み合わせた紋章が刻まれていた。

 

宛先は、ウェストポート税関所長、バクシール・フォン・ヴィーザー公爵。

 

ただの紹介状には見えない。

 

公爵本人を宛先にしている。

 

蝋印も、個人が簡単に用意できる物には見えなかった。

 

「誰から受け取ったのですか?」

 

「ミリシオンで、昔の知人に会った」

 

初めて聞く話だった。

 

ルイジェルドがミリシオンで知人と会っていた。

 

それも、このような書状を用意できる立場の人物と。

 

「いつですか?」

 

「お前たちが、南の修道院から届いた記録を確認しに行った日だ」

 

思い出した。

 

三か月目の終わり頃、父さん、俺、エリスが町の南へ出ていた日がある。レイネは救護所へ残り、ルイジェルドは休むと言って同行しなかった。

 

一日中、宿で眠っていたわけではなかったらしい。

 

黙っていたことを責めたいとは思わない。

 

ルイジェルドにも、自分だけの過去や人間関係がある。

 

それでも、明日の渡航へ関わる書状だと聞けば、もっと早く知りたかったという気持ちも生まれた。

 

「その方のお名前は?」

 

「ガルガード・ナッシュ・ヴェニク」

 

ルイジェルドは、はっきりと答えた。

 

「今は、ミリス教導騎士団の団長をしているらしい。俺にはガッシュと呼べと言った」

 

ガッシュは呼び名で、ガルガード・ナッシュ・ヴェニクが正式な名前ということらしい。

 

教導騎士団長。

 

俺には、その階級がどれほどの権限を持つのか正確には分からない。

 

だが、税関所長である公爵へ書状を送り、渡航を認めさせようとするだけの立場ではあるのだろう。

 

「昔、知り合った方なのですか?」

 

「ああ。まだ若かった頃に、一度助けた」

 

それ以上の事情を自分から語る様子はなかった。

 

ルイジェルドにとっては、長々と説明するような関係ではないのだろう。困っている者を助けた。それだけの出来事として覚えているのかもしれない。

 

だが、騎士団長が自ら書状を用意するほどの恩なら、ガルガードにとっては忘れられない出来事だったはずだ。

 

「中央大陸へ戻ると話したら、これを渡された」

 

「何が書かれているのですか?」

 

「俺の本名と、スペルド族であることが書かれている」

 

ルイジェルドの声が僅かに低くなった。

 

「その上で、ガルガードが俺の身元を保証する。ウェストポートで税関所長へ出せば、正式に船へ乗せてもらえると言っていた」

 

俺は封書を見つめた。

 

深緑色の蝋印が、焚き火の光を鈍く反射している。

 

これを使えば、税関へルイジェルドの正体を明かすことになる。

 

俺たちはこれまで、必要のない場所ではルードという名を使ってきた。それでも、正規の手続きをするためには、いつか正体を明らかにしなければならない場面が来る。

 

それが明日なのだ。

 

「どうして、今まで話さなかったんですか?」

 

「使うか決めていなかった」

 

「正体を明かすことになるからですか?」

 

「ああ」

 

短い返事だった。

 

しかし、迷っていた理由は理解できた。

 

ルイジェルドにとって、正体を明かすことは単に本名を教えることではない。

 

相手が恐れ、剣を向け、拒絶する可能性まで受け入れることだ。

 

俺たちにとっては、ルイジェルドがスペルド族であることなど、旅の仲間としての価値を変えるものではない。

 

だが、ミリスの人間も同じように考えるとは限らない。

 

書状を出した途端に拘束される可能性はないのか。

 

ガルガードの名を利用した偽物だと思われないか。

 

税関の職員が正体を町へ広めないか。

 

神殿騎士団へ知られた場合、スペルド族というだけで敵として扱われないか。

 

次々と嫌な可能性が浮かんでくる。

 

見えない不安を数え始めると、際限がなかった。

 

まだ何も起きていない。

 

それでも、明日の受付に立つルイジェルドが衛兵に囲まれる光景まで想像してしまう。

 

レイネが俺の隣へ座る。

 

「封書を拝見してもよろしいでしょうか、ルイジェルド様」

 

ルイジェルドが封書を渡した。

 

レイネは宛先と蝋印を確認したが、当然ながら封を開けようとはしない。封筒の縁を指でなぞり、破損や開封の跡がないことだけを確かめた。

 

「封は破られておりません。宛先も税関所長ご本人となっております」

 

「この紋章に見覚えはありますか?」

 

「ミリスの騎士団に関係する可能性はございます。しかし、私も全ての紋章を把握しているわけではございません」

 

分からないことを、分かったようには答えなかった。

 

本物だと言い切って安心させることも、偽物の可能性があると不必要に不安を煽ることもしない。

 

それからレイネは、小さな手帳へ宛先、蝋の色、紋章の特徴を書き留めた。

 

「何を書いているんですか?」

 

「明日、どの状態で誰へお渡ししたのかを確認できるよう、現在の状態を記録しております」

 

「そこまで必要ですか?」

 

「問題が起きなければ、使うことはございません。ただし、後から封が壊れていた、あるいは別の物へ差し替えられていたと言われた場合には、記録がないよりは説明しやすくなります」

 

疑われることを前提にするのは、気分のよいものではない。

 

最初から、相手が不正を働く可能性まで考えなければならない。

 

けれど、ルイジェルドが相手なら、理不尽な疑いを向けられる可能性はある。

 

書状が本物かどうかではなく、スペルド族のための書状であるという理由だけで、偽物だと決めつけられるかもしれない。

 

俺は焚き火へ視線を落とした。

 

赤い炎が揺れている。

 

旅の途中で、俺たちは何度もルイジェルドに助けられた。

 

魔大陸で目覚めた時。

 

魔物に襲われた時。

 

俺が判断を誤った時。

 

俺とエリスだけでは越えられなかった場所で、何度も守られた。

 

今度は、俺たちが彼を守らなければならない。

 

だが、力で守ることと、制度の中で守ることは違う。

 

剣や魔術なら、相手が見える。

 

攻撃の方向も、距離も、威力も分かる。

 

明日の相手は、書類と規則と偏見だ。

 

何を理由に拒否されるのか。

 

誰が決定権を持つのか。

 

どこまでが正式な手続きで、どこからが個人の悪意なのか。

 

そちらの方が、俺にはずっと不気味に思えた。

 

「正規の手続きで出しましょう」

 

俺は答えた。

 

不安だからといって、最初から密航や偽装を選べば、ルイジェルドの正体そのものが罪のようになってしまう。

 

「受付では、税関所長宛ての未開封の書状を預かっているとだけ説明します。ルイジェルドさんの本名は、書状が本人へ届く前には口にしません」

 

レイネが頷く。

 

「その方法がよろしいかと存じます」

 

「それで拒否されたら?」

 

エリスが尋ねた。

 

「まずは理由を聞きます。書類が足りないなら、何が必要なのか確認します」

 

「それでも駄目だと言われたら?」

 

「その場で状況を確かめてから、次の方法を考えます。今は書状の中身も、税関がどのような対応をするのかも分かりませんから」

 

起きてもいない問題へ、今から答えを決めてしまうことはできない。

 

拒否されたら戦う。

 

拘束されそうなら逃げる。

 

そのように決めてしまえば、ほかの方法が残っていても見えなくなる。

 

まずは書状を正しい相手へ届ける。

 

そのうえで、何を求められ、何を拒まれたのかを確認する。

 

今の俺たちに決められるのは、そこまでだった。

 

「ルイジェルドさんも、それでよろしいですか?」

 

「ああ」

 

ルイジェルドは短く答えた。

 

完全に迷いが消えたわけではないのだろう。油布に包まれた封書へ向ける視線には、まだ僅かな硬さが残っていた。

 

それでも、俺たちへ見せずに処分することも、正体を伏せたまま無理に税関を通ろうとすることも選ばなかった。

 

俺たちへ事情を話し、一緒に判断する道を選んでくれた。

 

以前のルイジェルドなら、自分の問題だからと一人で決めていたかもしれない。

 

俺たちを巻き込まないため、黙って別の道を探した可能性もある。

 

今は仲間として、俺たちへ判断を委ねてくれた。

 

そのことが、少しだけ嬉しかった。

 

レイネが封書をルイジェルドへ返す。

 

「明日は、その封書が必要となるまで、私がお預かりいたしましょうか、ルイジェルド様」

 

「いや。俺が持つ」

 

「承知いたしました。では、受付へ提出される直前に、封が現在と同じ状態であることだけ確認させてくださいませ」

 

「ああ」

 

ルイジェルドは封書を再び油布で包み、自分の荷物へ戻した。

 

明日、それを誰へ、どのように渡すのか。

 

そこだけは決まった。

 

先のことを考えれば、不安は残っている。

 

胸の奥に小さな石が入っているような、落ち着かない感覚が消えない。

 

それでも、分からないことを想像だけで埋めるより、今できる準備を済ませた方がいい。

 

俺たちは荷物を片づけ、翌日に備えて順番に休むことにした。

 

 

翌日の昼前。

 

丘の上へ続く街道を進んでいると、視界の先に海が現れた。

 

青い海岸線に沿って、大きな町が広がっている。

 

港の端には巨大な倉庫が並び、その前を何台もの荷車が行き交っていた。海から引き上げられた巨大な魚へ、ローブ姿の魔術師が水魔術を浴びせている。

 

凍った魚は、そのまま倉庫の中へ運び込まれた。

 

人の声。

 

荷車の車輪が石畳を走る音。

 

船から荷物を下ろす掛け声。

 

ウェンポートとは違う、ミリス大陸西側の玄関口としての活気があった。

 

「あれがウェストポート?」

 

御者台から身を乗り出したエリスが尋ねる。

 

「地図の位置と町の規模から考えて、間違いありません」

 

「あれだけ船があれば、中央大陸へ行く便もあるわね」

 

「手続きをするまでは、いつ乗れるか分かりません。まずは馬車を売りましょう」

 

「ええ」

 

船が見えたことで、エリスも気持ちが前へ向いたらしい。

 

だが、俺の胸には昨夜の書状への不安が残っていた。

 

町の外側にある馬屋へ向かい、二か月間使ってきた馬と馬車を買い取ってもらう。

 

馬屋の主人は、馬の脚、歯、蹄、背中を順番に確認した後、買い取り額を提示した。

 

エリスは金額より、馬の扱いを気にしていた。

 

「長く走った後、右の後ろ脚を少し気にすることがあるわ」

 

「腫れも熱もない。疲れが残っているだけだろう」

 

「今日からすぐに荷車を引かせないで」

 

「三日は休ませる」

 

「飼料も急に変えない方がいいわ」

 

馬屋の主人は、エリスが説明した飼料の種類と量を最後まで聞き、使用人へ同じ内容を伝えた。

 

魔大陸を出てから二か月。

 

俺たちを運び続けた馬だ。

 

旅の道具だと割り切っているつもりでも、別れるとなれば寂しさがあった。

 

エリスは、なおさらだろう。

 

レイネは、馬と馬車の買い取り証明書を確認している。

 

「買い取り額、馬具を含むこと、売却された方のお名前が記載されております。問題ございません」

 

あとで盗品だと疑われないための証明である。

 

手続きを一つ終えるたび、ミリス大陸での旅が終わりへ近づく。

 

俺が書類を受け取って鞄へしまうと、エリスは馬の首を撫でた。

 

「ここまで、ありがとう」

 

馬はエリスの肩へ鼻先を押しつけた。

 

エリスは少しだけ目を細め、それから手綱を主人へ渡した。

 

何度も振り返ることはしなかった。

 

だが、手綱を放した直後、指先が僅かに名残惜しそうに動いていた。

 

俺たちは荷物を分担して持ち、ウェストポートの中へ入った。

 

海へ近づくにつれて、潮と魚の匂いが強くなる。

 

目の前に中央大陸へ渡る船が並んでいる。

 

ここまで来たのだ。

 

魔大陸から海を渡り、大森林とミリシオンを越え、ようやく中央大陸へ戻る船の前まで来た。

 

もう少しで、旧フィットア領へ戻れる。

 

そう思う一方で、足取りはなぜか軽くならなかった。

 

フィリップ様やヒルダ様が帰還している保証はない。

 

アルフォンスから、何を聞かされるのかも分からない。

 

故郷へ近づくことは、失われたものの答えへ近づくことでもある。

 

遠くにいる間は、生きている可能性を信じ続けられた。

 

だが、帰れば記録がある。

 

帰還した者の名前も。

 

死亡が確認された者の名前も。

 

その答えが、俺たちの望むものだとは限らない。

 

 

ウェストポートの関所は、石造りの大きな建物だった。

 

正面には複数の入口があり、旅人用、商人用、貨物用に分かれている。甲冑姿の衛兵が入口を守り、建物の中では何人もの職員が書類を処理していた。

 

剣や槍を持った人間が多い。

 

それだけで、昨夜考えていた不安が再び胸へ浮かんだ。

 

俺たちは旅人用の受付で渡航申請を行い、木製の番号札を受け取った。

 

三十四番。

 

待合所には、既に多くの人がいる。

 

旅人。

 

巡礼者。

 

護衛を連れた商人。

 

泣いている子供をあやす親。

 

俺とエリスは空いている長椅子へ腰を下ろし、レイネは俺たちの後ろへ立った。ルイジェルドは壁際に立っている。

 

普段どおりに見える。

 

だが、背中は僅かに硬い。

 

「書状は、今は出さないのか?」

 

周囲には大勢の人がいる。

 

ここで本名を口にすれば、誰が聞いているか分からない。

 

「番号を呼ばれた時に出します。税関所長宛てだと説明して、本人へ届けてもらいます、ルードさん」

 

「ああ」

 

レイネが俺たちへ近づき、外から会話の内容を読み取られにくい位置へ立つ。

 

「封書の状態を確認させてくださいませ、ルード様」

 

ルイジェルドは身体で周囲から隠しながら、油布を僅かに開いた。

 

レイネは蝋封が壊れていないことだけを確かめる。

 

「昨夜と同じ状態でございます」

 

これで、少なくとも俺たちが持っていた間に封が破損していないことは言える。

 

その時、エリスが周囲を見回した。

 

「ルーデウス」

 

「何ですか?」

 

「あの騎士たち、さっきから私を見てるわ」

 

エリスの視線の先には、青い肩章を付けた衛兵が数人いた。

 

正確には、エリスの顔と赤い髪を確認しているようだった。

 

敵意より、何かを思い出そうとしているようにも見える。

 

「心当たりはありますか?」

 

「ないわ」

 

エリスは即答した後、僅かに眉を寄せた。

 

「たぶん」

 

「最後の一言が気になります」

 

「何かあるなら、向こうから話しかけてくるでしょう」

 

そう言いながら、エリスは相手を睨み返していた。

 

衛兵たちの表情が、少し引き締まる。

 

「喧嘩を売らないでください」

 

「見てるだけよ」

 

「向こうには、睨んでいるように見えます」

 

「先に見てきた方が悪いわ」

 

言い返しながらも、立ち上がって詰め寄ることはなかった。

 

三か月前なら、相手へ直接理由を聞きに行っていたかもしれない。

 

待つことができるようになっただけでも大きな変化だ。

 

やがて、受付から番号を呼ばれた。

 

「三十四番の方、こちらへどうぞ」

 

胸が僅かに強く鳴る。

 

俺たちは全員で受付へ向かった。

 

まず、俺とエリスの冒険者札を出す。

 

次に、レイネがS級冒険者札を置いた。

 

受付の女性は札の記載と本人の顔を確認し、三枚を返した。

 

「三名様については、身元の確認が取れました。こちらの男性は?」

 

「護衛のルードさんです」

 

ルイジェルドも、ルードの名で登録した冒険者札を出した。

 

受付の女性は札を確認したものの、すぐには返さなかった。

 

指が、種族欄の付近で止まる。

 

「中央大陸への渡航には、登録時の種族情報も確認させていただきます」

 

いよいよ来た。

 

胸の奥が、僅かに固くなる。

 

呼吸が浅くなりそうになるのを意識して抑えた。

 

俺がルイジェルドへ目を向けると、彼は自分の荷物から油布の包みを取り出した。

 

迷う様子はなかった。

 

それでも、包みを持つ手には普段より僅かに力が入っている。

 

中の封書を俺へ渡す。

 

俺は両手で受け取り、受付台の上へ置いた。

 

ここから先は、言葉一つを間違えないようにする必要がある。

 

「こちらは、ルードさんの身元と渡航について、税関所長へ渡すよう預けられた書状です」

 

中身を読んでいない以上、俺からは保証書だと断定しない。

 

事実として言えることだけを話す。

 

「差出人から、税関所長ご本人へ渡すよう指示されています。封は開けていません」

 

レイネも手帳を開いた。

 

「昨夜と、こちらへ提出する直前に確認いたしました。封に破損はございません」

 

受付の女性は宛名を確認した。

 

次に、深緑色の蝋へ押された紋章を見る。

 

その瞬間、表情が変わった。

 

驚き。

 

緊張。

 

少なくとも、見覚えのない紋章ではないらしい。

 

「こちらは、どなたから受け取られましたか?」

 

「ルードさんが、ガルガード・ナッシュ・ヴェニクという方から直接受け取りました」

 

今度は、正式な名前を答えられる。

 

「……教導騎士団長の?」

 

女性が小さく呟いた。

 

周囲に聞こえないほどの声だったが、俺には届いた。

 

少なくとも、実在する人物であり、騎士団長であることは間違いない。

 

「本人は、そう名乗ったと聞いています」

 

「少々お待ちください。この封書は、所長本人へ届けます」

 

「お願いします」

 

レイネが時刻を手帳へ記した。

 

受付の女性は封書を持ち、奥の事務室へ入っていく。

 

俺たちはその場で待った。

 

時間にすれば、長くはなかったはずだ。

 

だが、何が起きるか分からない状態では、一呼吸ごとが妙に長く感じられた。

 

しばらくすると、机か椅子を強く動かす音が響いた。

 

続いて、男の怒鳴り声が聞こえる。

 

身体が反射的に強張る。

 

内容までは分からない。

 

だが、穏やかに話が進んでいないことだけは明らかだった。

 

胸の中にあった不安が、一気に現実味を帯びる。

 

やはり、スペルド族の名前を見て拒絶されたのか。

 

偽物だと決めつけられたのか。

 

事務室から衛兵が一人出てきた。

 

受付の女性と短く言葉を交わした後、建物の外へ走っていく。

 

「誰かを呼びに行きましたね」

 

俺が呟く。

 

自分の声が、思っていたより硬かった。

 

「書状か紋章について、税関内だけでは処理できない問題が起きた可能性がございます」

 

レイネは落ち着いて答えた。

 

「偽物だと思われたのでしょうか」

 

「まだ分かりません」

 

レイネは断定しなかった。

 

まだ何も説明されていない。

 

怒鳴り声だけで、最悪の結論を選ぶべきではない。

 

分かっている。

 

それでも、頭の中では衛兵へ取り囲まれる未来が膨らんでいた。

 

エリスの手が剣へ近づく。

 

俺は腰の横で、指を二度動かした。

 

まだ動かない。

 

ミリシオンでの訓練中に決めた合図である。

 

エリスは剣へ触れる前に手を止めた。

 

俺を見ず、衛兵たちを睨んだまま従ってくれた。

 

ルイジェルドも動かない。

 

だが、彼の視線は出入口と衛兵の位置を捉えている。

 

もし拘束されそうになったら、どうする。

 

正規の手続きを選んだのは俺だ。

 

それでルイジェルドが危険な立場に置かれたら。

 

俺が安全だと判断した方法で、仲間を罠の中へ連れてきたことになる。

 

頭の中で、最悪の展開が膨らみ始める。

 

書状を取り上げられる。

 

ルイジェルドだけが連行される。

 

俺たちが抵抗すれば、全員が犯罪者として追われる。

 

その一つひとつを考えるほど、胃の奥が重くなった。

 

レイネが、俺のすぐ横へ立った。

 

触れはしない。

 

ただ、僅かに視線を向ける。

 

赤い瞳はいつもどおり静かだった。

 

まだ何も決まっていない。

 

そう言われたような気がした。

 

俺は一度、ゆっくりと息を吐いた。

 

今は、起きた事実だけを見る。

 

受付へ書状を渡した。

 

税関所長本人が確認している。

 

誰かが呼ばれた。

 

それ以上のことは、まだ分からない。

 

先ほどの受付の女性が戻ってくる。

 

顔には緊張が浮かんでいた。

 

「お待たせいたしました。税関所長であるバクシール・フォン・ヴィーザー公爵が、皆様から直接お話を伺います」

 

「封書は、ご本人へ渡りましたか?」

 

レイネが、まず重要な点を確認する。

 

「はい。所長が開封し、内容も確認しております」

 

レイネが再び時刻を書き留める。

 

何を渡し、それが誰の手へ届いたのかは確認できた。

 

後から、届いていないと言われることはない。

 

「分かりました。案内をお願いします」

 

俺たちは衛兵に導かれ、建物の奥へ進んだ。

 

 

執務室の中央には、大きな机が置かれていた。

 

その向こう側に、淡い金髪の男が座っている。

 

机の左右には衛兵がいる。

 

逃げ道を塞いでいるというより、最初から警戒されている配置に見えた。

 

机の上には、先ほど渡した封書があった。蝋の封は切られ、中から取り出された便箋が広げられている。

 

「ミリス大陸税関所長、バクシール・フォン・ヴィーザー公爵である」

 

俺たちは順番に名乗った。

 

「ルーデウス・グレイラットです」

 

「エリス・ボレアス・グレイラットよ」

 

「レイネと申します」

 

最後にルイジェルドが名乗る。

 

周囲には衛兵がいる。

 

本名を出せば、書状の確認が終わる前に騒ぎになる可能性がある。

 

「ルードだ」

 

バクシールは便箋を持ち上げた。

 

「この書状には、ルードという偽名を使う男の本名が、ルイジェルド・スペルディアであると書かれておる」

 

部屋の空気が僅かに変わった。

 

衛兵たちの視線が、ルイジェルドへ集中する。

 

ルイジェルドは否定しなかった。

 

姿勢も変えず、バクシールを見ている。

 

「さらに、ガルガード・ナッシュ・ヴェニクは、この男の身元と行動を保証し、中央大陸への渡航を許可せよと求めている。渡航費用も免除せよ、とな」

 

野営地でルイジェルドから聞いていた内容と一致していた。

 

少なくとも、書状そのものは、ガルガードが説明した目的のために書かれている。

 

封書の中身が違っていたわけではない。

 

その事実に、僅かに安堵する。

 

しかし、バクシールの顔には嫌悪しかなかった。

 

便箋を持つ指先さえ、汚れた物へ触れているように見える。

 

「よくできた偽物だ。教導騎士団の紋章まで似せてある」

 

安堵は、すぐに消えた。

 

胸の内側が冷える。

 

内容を確認した上で、偽物だと決めつけている。

 

「偽物だと判断された根拠を教えていただけますか?」

 

感情を声へ出さないよう、ゆっくり尋ねた。

 

「儂はガルガードを知っておる。あの男は、必要な命令書すら部下へ書かせるほどの筆不精だ。その男が、スペルド族一人のために自筆の保証書を書くはずがない」

 

書状を書かない人物だから、今回も書くはずがない。

 

それが理由らしい。

 

紙。

 

印。

 

署名。

 

記録番号。

 

確認できるものを何も調べず、スペルド族のために書くはずがないという考えだけで結論を出している。

 

「書状の紙や印、署名は確認されましたか?」

 

レイネが尋ねた。

 

「紋章を似せた偽物だと言っておる」

 

「似ていることと、偽物であることは同じではございません。教導騎士団へ照会していただければ、真偽を確認できるのではございませんか」

 

「必要ない」

 

迷いのない拒絶だった。

 

「偽物であると確認するためにも、照会は必要ではありませんか?」

 

俺も続けた。

 

「偽物と分かっている物を調べる必要はない」

 

最初から、認めるつもりがない。

 

書状が本物かどうかではなく、スペルド族のために書かれた物であることが気に入らないのだ。

 

理屈を積み上げても、結論を変える気がない相手。

 

明日の相手は偏見だと昨夜考えたが、そのとおりになった。

 

「先ほど、衛兵の一人が外へ出ていきました」

 

俺は言った。

 

「あの方は、どちらへ向かったのですか?」

 

「騎士団の印を偽造した可能性がある以上、神殿騎士団へ報告した。貴様らの身柄を調べさせるためだ」

 

胃の奥が重くなる。

 

神殿騎士団。

 

ミリスの教えを守る者たち。

 

その全員が、公平に事実を確認してくれる保証はない。

 

むしろ、スペルド族だと知れば、バクシール以上に敵意を向けてくる可能性もある。

 

ここでルイジェルドが捕らえられることだけは避けなければならない。

 

だが、こちらから剣を抜けば、書状が本物であっても犯罪者になる。

 

正しい手続きを求めて来たはずなのに、自分たちからそれを壊すわけにはいかない。

 

「到着した神殿騎士の方へ、封書の状態と受付簿も確認していただけますか」

 

レイネが手帳を閉じた。

 

「私どもが提出する前には、封が破損していなかったことを受付の方も確認されております」

 

受付の女性が、扉の近くで僅かに頷く。

 

俺たちだけの証言ではない。

 

受付の職員も、未開封だったことを見ている。

 

バクシールはレイネを睨んだ。

 

「確認するのは、貴様らが犯した罪だ」

 

まだ罪だと決まっていない。

 

それでも、既に罪人として扱っている。

 

バクシールの視線がルイジェルドへ向く。

 

「薄汚い魔族が、騎士団長の名を利用した。処罰されて当然であろう」

 

胸の奥で、何かが熱く弾けた。

 

ルイジェルドは、何もしていない。

 

書状を偽造していない。

 

騎士団長を騙ってもいない。

 

ただ、助けた相手から渡された物を正規の窓口へ出しただけだ。

 

エリスの眉が吊り上がった。

 

「まだ偽物だと決まってないでしょう」

 

「黙れ、小娘」

 

エリスの身体が前へ動きかける。

 

「エリス」

 

名前を呼ぶ。

 

俺の声も、普段より強くなった。

 

エリスはバクシールを睨んだままだったが、それ以上は前へ出なかった。

 

俺も腹が立っていた。

 

今すぐ机を叩き、ふざけるなと言いたい。

 

ルイジェルドが、何をしたというのだ。

 

正式な書状を持ち込み、正規の手続きを求めただけではないか。

 

それでも、ここで怒りに任せて言葉を投げれば、ルイジェルドの立場をさらに悪くする。

 

相手は、こちらが暴れる理由を待っているのかもしれない。

 

レイネが革袋を開いた。

 

「私どもの身元について疑いがあるのでしたら、こちらをご確認くださいませ」

 

机の上へ、ミリシオンの冒険者ギルド、教会、フィットア領捜索団が発行した書類を並べる。

 

俺、エリス、レイネがミリシオンで活動していたこと。

 

パウロが率いる捜索団に協力していたこと。

 

旧フィットア領へ向かうため、ウェストポートを利用すること。

 

全てに発行元の印と照会先が記されている。

 

今すぐルイジェルドの書状を認めさせられなくても、俺たちが身元不明の犯罪者集団ではないことは証明できる。

 

「こちらは私のS級冒険者札でございます。ミリシオンのギルドへ照会していただければ、記録との一致を確認できます」

 

バクシールは書類を一枚だけ手に取り、机へ戻した。

 

まともに読む気すらないように見えた。

 

「お前たち三人については、身元を確認してもよい」

 

「ルードさんについては?」

 

「認めん」

 

「書状の確認が終わるまで、判断を保留していただけませんか?」

 

「必要ないと言っておる」

 

バクシールは俺、エリス、レイネを順番に見る。

 

「お前たち三人だけなら、中央大陸への渡航を許可してやる。護衛が必要なら、儂の名で騎士を付けよう」

 

一瞬、何を言われたのか理解できなかった。

 

ルイジェルドだけを残し、俺たち三人は船へ乗れということだ。

 

「必要ないわ」

 

エリスが即座に答えた。

 

考える間すらなかった。

 

「私たちの護衛はルードよ」

 

「魔族より、ミリスの騎士の方が信用できる」

 

「私はルードを信用してる。あなたが選んだ、知らない騎士を信用する理由はないわ」

 

エリスの言葉は真っすぐだった。

 

種族でも、肩書でもない。

 

魔大陸から共に旅をしてきた本人を信用している。

 

「貴族の娘だと名乗るなら、言葉を慎め」

 

「本物かどうか確認もしないくせに、都合のいい時だけ貴族として扱わないで」

 

エリスは声を荒らげたが、剣へは触れていない。

 

怒りながらも、越えてはいけない線は守っている。

 

ルイジェルドが俺を見る。

 

「ルーデウス。お前たちだけで渡れ」

 

低く、静かな声だった。

 

「行きません、ルードさん」

 

俺も迷わなかった。

 

「俺のために、ここで時間を使う必要はない」

 

ルイジェルドは本気で、俺たちを先へ行かせようとしている。

 

家族を探す旅を、自分のために遅らせたくないのだろう。

 

だが、それを受け入れれば、俺たちはまたルイジェルドだけへ犠牲を押しつける。

 

「僕たちが別行動を選ぶのは、全員で話し合って必要だと判断した時だけです。今は、その必要がありません」

 

置いていけるはずがない。

 

魔大陸から、どれだけ守られてきたと思っている。

 

ルイジェルドがいなければ、俺もエリスも、最初の集落へすらたどり着けなかった。

 

家族を捜したい。

 

一日でも早く中央大陸へ戻りたい。

 

それでも、ルイジェルド一人を残して船へ乗れば、俺は中央大陸へ戻れても、二度と自分を許せないだろう。

 

「私も残るわ」

 

エリスが言った。

 

俺と同じ考えなのだと分かり、僅かに胸が温かくなる。

 

レイネは、バクシールへ向き直る。

 

「私ども三名のみの渡航許可は辞退いたします。四名での手続きが認められない場合は、拒否の理由を記した書面をいただけますでしょうか」

 

「何に使うつもりだ」

 

「ミリシオンの冒険者ギルド、教会、フィットア領捜索団へ、渡航できなかった理由を報告するためでございます。別の港を利用する場合にも必要となります」

 

感情ではなく、記録を求める。

 

拒否するなら、責任を持って理由を書面へ残せということだ。

 

バクシールは鼻を鳴らした。

 

「ならば、四人そろってミリシオンへ戻るがいい」

 

胸が沈む。

 

本当に別の港を探すことになるかもしれない。

 

ここまで二か月掛かった。

 

再びミリシオンへ戻れば、さらに時間を失う。

 

それでも、三人だけで渡る選択はなかった。

 

その時、扉が叩かれた。

 

「神殿騎士団から、確認のため参りました」

 

女性の声が響いた。

 

「入れ」

 

扉が開く。

 

青い甲冑を身にまとった、金髪の女性が入ってきた。

 

「神殿騎士団、聖堂護衛隊所属、テレーズ・ラトレイアです。教導騎士団の印を偽造した疑いがある封書が持ち込まれたとの報告を受けました」

 

ラトレイア。

 

どこかで聞いたことのある名前だった。

 

だが、その時の俺は、書状がどう扱われるのかへ意識を向けており、すぐには意味へ気づかなかった。

 

テレーズは机へ近づき、封書を確認し始めた。

 

受付の女性から、受け取った時点では封が壊れていなかったことを聞き、レイネが記録していた内容にも目を通す。

 

それから紙質、記録番号、署名、蝋印を一つずつ確かめた。

 

最初から偽物だと決めない。

 

確認できる物を実際に調べている。

 

その姿を見ただけで、僅かに呼吸が楽になった。

 

「教導騎士団が団長名義の私信に使用する紙だ。署名の癖も、印に刻まれた複製防止の欠けも一致している」

 

「紙を盗み、署名を真似た可能性もある」

 

バクシールが言う。

 

「可能性だけなら否定できない。だから、記録番号を教導騎士団へ照会する」

 

テレーズは、確認できる部分と、まだ確認できない部分を分けていた。

 

本物だと言い切らない。

 

だが、証拠もなく偽物だとも決めない。

 

「現時点で偽物と断定し、持参者を処罰することはできない」

 

正しい確認をしてくれる人物が来た。

 

そのことへ安堵が広がる。

 

その後、初めて俺たちへ顔を向ける。

 

ルイジェルド。

 

レイネ。

 

エリス。

 

そして、俺。

 

目が合った瞬間、テレーズの動きが止まった。

 

同時に、俺の思考も止まる。

 

金色の髪。

 

目元。

 

顔の輪郭。

 

記憶の中にあるゼニス母様と、驚くほどよく似ている。

 

何度も思い出してきた顔。

 

夢の中でさえ探していた顔。

 

「……母様?」

 

声が漏れた。

 

自分で止めることができなかった。

 

理性では、母様であるはずがないと分かっていた。

 

年齢も。

 

服装も。

 

ここへ現れた理由も違う。

 

それでも、一瞬だけ期待してしまった。

 

母様が見つかったのではないか。

 

何も知らないまま、目の前に現れてくれたのではないか。

 

胸の奥が一気に熱くなり、今にも席から立ち上がりそうになる。

 

テレーズが眉を寄せる。

 

「私は独身だ。君ほど大きな子供はいない」

 

その言葉で、膨らんだ期待が一気にしぼんだ。

 

熱くなった胸の中へ、冷たい物が流れ込む。

 

似ている。

 

だが、母様ではない。

 

髪の色も、目の形も、よく見れば違っていた。

 

分かっていたはずなのに。

 

一瞬でも本気で期待してしまった分だけ、落胆が大きかった。

 

「失礼しました」

 

俺は頭を下げた。

 

声が震えないようにするだけで精いっぱいだった。

 

「行方不明になっている母と、よく似ていたもので」

 

「母君の名を聞いてもよいか?」

 

「ゼニスです。ゼニス・グレイラット」

 

テレーズの目が大きく開いた。

 

今度は、彼女の方が驚いている。

 

「父親は?」

 

「パウロ・グレイラットです」

 

テレーズは数秒、俺の顔を見つめた。

 

先ほど俺が彼女の中へ母様を探したように、彼女も俺の顔の中へ誰かを探しているようだった。

 

その後、俺の前まで歩いてきて、しゃがんで視線を合わせる。

 

「君が、ルーデウスか」

 

「僕をご存じなのですか?」

 

「姉様からの手紙で、何度も名前を読んだ」

 

姉様。

 

ようやく、ラトレイアという名前の意味がつながる。

 

母様の実家。

 

この人は、母様の妹なのだ。

 

テレーズは両腕を少しだけ広げた。

 

無理に触れようとはしない。

 

「抱きしめてもよいか?」

 

「……はい」

 

甲冑ごと身体を包まれる。

 

硬い金属が身体へ触れる。

 

それでも、腕には人の温かさがあった。

 

母様ではない。

 

さきほど膨らんだ期待とは違う。

 

けれど、母様と同じ家で育ち、母様から俺の話を聞いていた人だった。

 

俺の知らない幼い頃の母様を知っている。

 

母様が俺について書いた手紙を、何度も読んでいた。

 

「大変だったな。よく、ここまで帰ってきた」

 

その声を聞くと、胸の奥に押し込めていたものが揺れた。

 

魔大陸へ転移したこと。

 

家族が見つからないまま旅を続けたこと。

 

名簿を開くたび、違う名前へ落胆してきたこと。

 

すべてを詳しく話したわけではない。

 

それでも、母様の家族から「よく帰ってきた」と言われた瞬間、張り詰めていた物が緩みそうになった。

 

母様はまだ見つかっていない。

 

それでも、母様のことを心配している家族に出会えた。

 

母様を待っているのは、俺たちだけではない。

 

落胆だけではなかった。

 

テレーズは身体を離すと、バクシールへ向き直った。

 

先ほどまでの柔らかい表情が、騎士のものへ戻る。

 

「この子は、私の甥だ。ルーデウス・グレイラットの身元は、ラトレイア家の名において私が保証する」

 

次に、エリスを見る。

 

「まさか、エリス・ボレアス・グレイラット様ですか?」

 

「そうよ」

 

テレーズは騎士として胸元へ拳を当てた。

 

「以前、私と護衛対象を救ってくださったこと、改めて感謝いたします」

 

「私が?」

 

エリスは本気で分かっていない顔をした。

 

俺も聞いたことがない。

 

「ミリシオン郊外の森で、黒装束の襲撃者から私たちを救ってくださったでしょう」

 

しばらく考えた後、エリスの目が大きく開く。

 

「あっ。ゴブリン討伐の帰りにいた騎士ね!」

 

「はい」

 

「兜を被ってたから、顔が分からなかったわ」

 

どうやら、本当に忘れていたらしい。

 

騎士団を救った出来事を、話すほどのことではないと思っていたのだろうか。

 

それとも、家族の捜索へ意識が向き、完全に記憶の奥へ追いやられていたのか。

 

テレーズはエリスの身元も保証し、レイネの冒険者札と書類も確認した。

 

最後に、ルイジェルドを見る。

 

表情へ、僅かな警戒が戻った。

 

スペルド族という名前へ何も感じないわけではないのだろう。

 

警戒は残っている。

 

それでも、確認した事実を曲げるつもりはないようだった。

 

「書状は、本物である可能性が極めて高い。だが、照会には時間が掛かる。私が、ルード殿の保証人となる」

 

予想していなかった言葉だった。

 

血縁の俺だけではなく、ルイジェルドの渡航まで保証しようとしている。

 

「スペルド族だぞ」

 

バクシールが言った。

 

「分かっている。何か起きれば、私が責任を負う」

 

テレーズは保証書へ自分の名前、所属、階級を書き、印を押した。

 

迷いは見えなかった。

 

警戒しているからこそ、自分の目で見て責任を持つことを選んだのだろう。

 

「なお拒否するなら、その理由を書面へ残してもらう。教導騎士団長の書状と、神殿騎士である私の保証を拒否した理由を、両騎士団へ提出してもらう」

 

レイネと同じ方法だ。

 

感情で争うのではなく、拒否する側へ記録と責任を求める。

 

バクシールは長く沈黙した。

 

顔には、納得した様子などない。

 

それでも、拒否を続ければ自分の判断を両騎士団へ説明しなければならない。

 

やがて、椅子へ深く座り直す。

 

「……渡航を認める」

 

胸の奥へ張りつめていた物が、僅かに緩んだ。

 

だが、曖昧なまま終わらせるわけにはいかない。

 

「四人全員ですね」

 

俺は確認した。

 

「ああ」

 

全身から、力が抜けそうになった。

 

膝が僅かに緩む。

 

まだ船へ乗ったわけでもない。

 

乗船証も受け取っていない。

 

それでも、ルイジェルドが拘束される最悪の展開は避けられた。

 

エリスも、机の下で握っていた拳をゆっくりと開いた。

 

掌へ爪の跡が残るほど、強く握っていたらしい。

 

レイネは一般の乗船者名簿にはルードの名を使用すること、税関内部にだけ本名を残すことを確認していた。

 

安堵した後も、必要な確認を止めない。

 

最後まで手続きを終えて、ようやく本当に解決したと言える。

 

 

手続きを終えた後、俺たちはテレーズの案内で港近くの宿へ移動した。

 

ルイジェルドは、船の出港時刻と荷物の持ち込み条件を確認するため、関所の職員と港へ向かった。

 

先ほどまで敵意を向けられていた場所へ一人で残すことには少し不安があった。

 

だが、正式な渡航許可が出た以上、ここで俺が過剰に付き添えば、かえってルイジェルドを信用していないようにもなる。

 

宿の個室へ入り、扉が閉まる。

 

レイネは隣室や廊下の様子を確認した後、扉の近くへ控えた。

 

テレーズは甲冑を脱ぎ、椅子の背へ掛ける。

 

改めて見ると、本当に母様とよく似ていた。

 

先ほどのように見間違えることはない。

 

それでも、横顔や目元へ母様の面影が見えるたび、胸が小さく痛んだ。

 

「ルーデウス君。もう一度、抱きしめてもよいか?」

 

「どうぞ」

 

今度は甲冑がないため、柔らかな腕に包まれた。

 

母様に抱かれた記憶が、ほんの僅かに蘇る。

 

同じではない。

 

だが、似た温かさだった。

 

「姉様からの手紙で、君のことは何度も聞いていた」

 

「母様は、何と書いていたんですか?」

 

声が少し早くなった。

 

母様が、離れて暮らす家族へ俺のことをどう伝えていたのか。

 

知りたかった。

 

「幼い頃から魔術書を読み、ロキシーという家庭教師から魔術を学び、剣術まで始めたと書いていた。最後には、必ず可愛い息子だと付け加えていた」

 

母様らしいと思った。

 

俺が何を覚えたか。

 

何ができるようになったか。

 

手紙の中で、少し誇らしげに書いていたのかもしれない。

 

最後には、必ず可愛い息子だと付け加える。

 

その姿を想像すると、胸の奥が温かくなり、同時に会いたいという気持ちが強くなる。

 

今どこにいるのか。

 

怪我はしていないか。

 

俺たちを捜しているのか。

 

誰かと一緒にいるのか。

 

尋ねたいことは山ほどあった。

 

テレーズが母様の実家にいるのなら、何か情報が届いているのではないか。

 

そう期待したことが、表情へ出ていたのだろう。

 

「姉様の行方についてだが、ラトレイア家にも情報は届いていない」

 

先に言われた。

 

胸が沈む。

 

期待を見抜かれたのかもしれない。

 

「そうですか」

 

どうにか、それだけを答えた。

 

「転移災害の後、こちらからも各地へ照会を出した。だが、姉様の名は見つからなかった」

 

また一つ、母様が見つからなかった範囲が増えた。

 

それでも、誰も捜していなかったわけではない。

 

母様の実家も、ずっと照会を続けていた。

 

俺たちの知らない場所で、母様を案じ、探している人がいた。

 

その事実は、僅かな支えになった。

 

「差し支えなければ、ラトレイア家が照会された地域の記録を、ミリシオンの捜索団へ送っていただけますでしょうか」

 

レイネが尋ねた。

 

俺が落胆している間にも、次へつながる情報を考えてくれている。

 

「私どもが確認した地域と重ねれば、まだ捜索されていない場所を把握できる可能性がございます」

 

「分かった。ミリシオンへ戻った後、記録を送ろう」

 

「ありがとうございます」

 

レイネは捜索団本部の所在地を書き、テレーズへ渡した。

 

別々に行われていた捜索がつながれば、同じ場所を何度も調べる無駄を減らせる。

 

まだ調べられていない場所へ、人を回すこともできる。

 

テレーズは紙を受け取った後、レイネを改めて見る。

 

「姉様からの手紙に、白い髪と赤い瞳を持つ、ルーデウス君付きの侍女について書かれていた」

 

「ゼニス様が、私について……」

 

レイネの声に、僅かな驚きが混じった。

 

母様が自分について、家族へ何を書いたのか。

 

レイネも気になるのだろう。

 

「ああ。年齢の割に落ち着いていて、仕事もよくできると」

 

レイネの赤い瞳が僅かに揺れた。

 

褒められることへ慣れているようで、家族からの言葉には弱い。

 

「ありがたく存じます」

 

静かな声だった。

 

だが、普段より少しだけ柔らかく聞こえた。

 

母様から認められていたことが、嬉しいのだろう。

 

俺も、その言葉を聞けたことが嬉しかった。

 

俺はエリスへ顔を向ける。

 

先ほどから、気になっていたことがある。

 

「それで、エリス」

 

「何よ」

 

「神殿騎士を助けた話を、僕は聞いていません」

 

エリスは視線を逸らした。

 

露骨だった。

 

「忘れてたのよ」

 

「騎士団が襲われていたのにですか?」

 

「本当に忘れてたの」

 

テレーズも詳しい事情までは知らないらしい。

 

エリスは少し考えた後、大まかな経緯を話した。

 

捜索の予定がなかった日に、一人で近郊のゴブリン討伐へ出たこと。

 

ゴブリンを倒し、町へ戻ろうとした時、森の奥から剣の音が聞こえたこと。

 

確認へ向かうと、青い甲冑の騎士と黒装束の集団が戦っており、その中央にいた子供が狙われていたこと。

 

事情は分からなかったが、子供へ剣を振り下ろそうとした相手を斬り、騎士たちが立て直すまで加勢したこと。

 

そして、戦いが終わった後は、相手の名前も立場も詳しく聞かず、町へ戻ったこと。

 

聞いているうちに、背中へ冷たい汗が浮かんだ。

 

黒装束の集団。

 

数も実力も分からない。

 

罠である可能性もあった。

 

その中へ、エリスは一人で飛び込んだ。

 

「戻ったら、新しい名簿が届いてたでしょう?」

 

エリスは言った。

 

「フィリップや母様の名前がないか、すぐに確認した。それで、森のことを言うのを忘れたのよ」

 

その日のことは、俺も覚えている。

 

新しく届いた名簿を、全員で必死に確認した。

 

エリスも帰ってくるなり、机へ加わった。

 

息を整えるより先に、フィリップ様とヒルダ様の名前を探していた。

 

誰の名前も見つからなかった。

 

エリスの意識が、森での戦闘から家族の捜索へ移ってしまったことは理解できる。

 

だからといって、安心はできなかった。

 

黒装束の集団が、騎士団を襲っていた。

 

相手の人数も目的も分からない場所へ、エリスは一人で飛び込んだのだ。

 

今回は無傷で戻った。

 

だが、もし相手の中にエリス以上の剣士がいたら。

 

毒や罠が使われていたら。

 

複数の敵から囲まれ、逃げ道を塞がれていたら。

 

俺たちは、何も知らないままエリスの帰りを待つことになっていた。

 

今になってから、取り返しのつかない可能性が次々と浮かんでくる。

 

無事だったことへの安堵と、何も知らされなかった怖さが入り混じった。

 

「助けられた子供は、神子様だった」

 

テレーズが補足した。

 

「私たち神殿騎士団が護衛している、特別な力を持つ方だ。エリス様が現れなければ、守り切れなかった可能性が高い」

 

「私は、子供を狙ってた奴を斬っただけよ」

 

「それで救われた」

 

エリスにとっては、神子だったから助けたわけではない。

 

重要人物だからでも。

 

恩を売れる相手だからでもない。

 

襲われている子供がいたから助けた。

 

それだけなのだろう。

 

その部分を、俺は責めたくなかった。

 

危険な場所へ行くなとも言えない。

 

エリスは剣士であり、目の前で誰かが殺されそうになれば、見捨てられる性格ではない。

 

俺が恐れているからといって、その行動まで縛れば、以前の俺と同じことになる。

 

自分が正しいと思う安全を、相手の意思へ押しつけることになる。

 

必要なのは、行動を禁止することではない。

 

何があったのかを共有し、次に同じ状況が起きた時、どうすれば全員が対応できるかを考えることだ。

 

「次からは、予定していなかった戦闘があった場合も教えてください」

 

俺はできるだけ落ち着いて言った。

 

怒鳴りたいわけではない。

 

エリスを責め、謝らせたいわけでもない。

 

「無事に帰ってきても、何があったのか分からないままだと心配です」

 

エリスは俺の顔を見た。

 

「怒ってるの?」

 

「少しだけ。でも、それより心配しました。今、聞いたばかりですけど」

 

「今さらでしょう?」

 

「今さらでも、怖いものは怖いです」

 

正直に答える。

 

過ぎたことだから、怖くないわけではない。

 

無事だった結果を知っていても、何かが違えば帰ってこなかった可能性は消えない。

 

エリスは少しだけ目を逸らした。

 

俺が本気で心配していることは、伝わったらしい。

 

「分かったわ。次からは言う」

 

レイネも口を開く。

 

「私も、依頼の完了とお怪我の有無しか確認しておりませんでした。今後は、道中に予定外の出来事がなかったかもお尋ねいたします」

 

「二人で同じことを聞かないでよ」

 

「では、レイネが確認した内容を僕にも教えてください」

 

「承知いたしました」

 

エリスは不満そうに頬を膨らませたが、拒否はしなかった。

 

監視したいわけではない。

 

ただ、仲間が何を経験したのかを知らないままにしたくない。

 

テレーズは俺たちのやり取りを見て、僅かに笑っていた。

 

 

夕方になり、ルイジェルドが宿へ戻ってきた。

 

廊下には従業員がいたため、扉を開けるまではルードさんと呼ぶ。

 

部屋へ入り、外の足音が遠ざかってから、俺は尋ねた。

 

「船はどうでしたか、ルイジェルドさん?」

 

「二日後に出る。四人分の手続きも終わった」

 

ようやく、具体的な出港日が決まった。

 

胸の奥へ、安堵が広がる。

 

「乗船証のお名前は?」

 

レイネが確認する。

 

「ルードだ。税関内部にだけ本名が残る」

 

「承知いたしました。船員やほかの乗客がいる場所では、これまでどおり偽名を使用いたします」

 

ルイジェルドは頷き、空いている椅子へ座った。

 

書状については、野営地で必要な説明を既に聞いている。

 

そのため、同じことを一から尋ね直す必要はなかった。

 

ルイジェルドの説明を信じず、テレーズからもう一度確かめるようなことはしたくない。

 

テレーズは、書状に使われていた紙、署名、蝋印が全て本物と一致していることだけを説明した。

 

正式な照会には時間が掛かるが、偽物である可能性は低いという。

 

「ガルガード殿は、滅多に自分で書状を書かない」

 

テレーズが言った。

 

「だからバクシールは、スペルド族のために自筆の保証書を書くはずがないと決めつけた。だが、滅多に書かない人物だからこそ、今回の書状には強い意思があったのだろう」

 

ルイジェルドは短く頷いただけだった。

 

過去に一度助けた相手が、何十年も後になって恩を返した。

 

ルイジェルド本人にとっては、特別なことではないのかもしれない。

 

助けを必要としていたから助けただけ。

 

見返りを求めたわけではない。

 

だが、その書状がなければ、俺たちは今も関所で足止めされていた。

 

一度は偽物だと決めつけられたとしても、真偽を調べる根拠となり、テレーズが保証を申し出る理由にもなった。

 

ガルガードの意志が、遠い過去から今の俺たちを助けてくれたのだ。

 

ルイジェルドが積み重ねてきた行動は、本人の知らない場所でも誰かへ残っている。

 

「私自身、スペルド族への警戒を完全に捨てたわけではない」

 

テレーズがルイジェルドを見る。

 

正直な言葉だった。

 

先ほど保証人になったからといって、すべての恐怖や教えを一瞬で捨てられたわけではない。

 

「必要ない」

 

ルイジェルドは答えた。

 

「俺が何をするかを見て、お前が決めればいい」

 

自分を無理に信じろとは言わない。

 

スペルド族への偏見を今すぐ捨てろとも言わない。

 

実際の行動を見て判断しろ。

 

ルイジェルドがこれまで、俺たちにも示してきた姿勢だった。

 

テレーズは僅かに目を見開き、静かに頷いた。

 

「そうさせてもらう」

 

「テレーズ叔母様」

 

俺は尋ねた。

 

叔母様と呼ぶことに、まだ少し慣れない。

 

それでも、母様の妹であることは事実だ。

 

「ルイジェルドさんがスペルド族だと知られた場合、神殿騎士団から襲われる可能性はありますか?」

 

「ああ。ある」

 

迷いのない答えだった。

 

胸が僅かに沈む。

 

「古い教えを絶対とする者は残っている。相手が何をしてきたかを確かめる前に、剣を抜く者もいる」

 

「でも、あなたたちではルイジェルドに勝てないわ」

 

エリスが言った。

 

「何人集まっても無理よ」

 

それは事実だろう。

 

俺も、神殿騎士が何人いればルイジェルドを止められるのか想像できない。

 

「私もそう思う」

 

テレーズは否定しなかった。

 

「だが、勝てないと分かっていることと、戦わないことは同じではない。教えに従うことを、自分の命より優先する者もいる」

 

合理的ではない。

 

勝てない相手へ挑めば、自分が死ぬだけではない。

 

周囲の人間まで巻き込む。

 

それでも、教えに背くことの方を恐れる人間がいる。

 

だからこそ、話し合いが通じない可能性がある。

 

正体を明かせば理解されるとは限らない。

 

「人前では、これまでどおりルードさんと呼びます」

 

俺が答える。

 

「本人の許可なく、ルイジェルドさんの本名も種族も明かしません」

 

ルイジェルドの名誉を広めたいという思いはある。

 

だが、俺の都合で正体を明かし、危険へ晒すことはできない。

 

エリスとレイネも頷いた。

 

話すべきことを終えると、テレーズは席を立った。

 

「明日は、船旅に必要な物を用意しよう」

 

「そこまでしていただいて、よいのですか?」

 

渡航の保証だけでも、大きな助けだった。

 

それ以上を求めるつもりはなかった。

 

「姉の息子へ何かするのに、理由が必要か?」

 

テレーズは笑った。

 

その表情にも、母様の面影があった。

 

「それに、エリス様へ恩を返す機会でもある」

 

「私は別にいらないわ」

 

「私が返したいのです」

 

エリスは少し考えた後、答えた。

 

「なら、船酔いしない物が欲しいわ」

 

最も切実な要求だった。

 

前回の船旅で、エリスがどれほど苦しんでいたかを思い出す。

 

「分かった。薬師へ聞いてみよう」

 

レイネがすぐに症状を説明する。

 

以前の船旅で、エリスは強い吐き気と眩暈に襲われ、食事も水分もほとんど取れなかった。

 

「そこまで言わなくてもいいでしょう?」

 

エリスの顔が僅かに赤くなる。

 

弱っていた時の状態を詳しく説明されるのが恥ずかしいらしい。

 

「薬を選ぶためには必要でございます」

 

エリスは不満そうだったが、止めようとはしなかった。

 

恥ずかしさより、次の船で動けなくなる恐怖の方が勝ったのだろう。

 

 

出港までの二日間に、テレーズは保存食、飲料水、厚い布、傷薬、吐き気を抑える薬草、船酔いを軽くする薬を用意してくれた。

 

必要以上に豪華な物ではない。

 

旅で本当に使う物だけが、きちんと選ばれていた。

 

レイネが品物の種類と使用方法を一つずつ確認し、荷物へ分けて入れる。

 

一か所へまとめない。

 

何かを失っても、すべてがなくならないようにする。

 

小さな瓶を受け取ったエリスは、栓を開けて匂いを嗅ぎ、すぐに顔をしかめた。

 

「苦そうね」

 

「苦い」

 

テレーズが即答した。

 

少しくらい誤魔化してもよさそうなところだが、嘘は言わないらしい。

 

「飲まなくてもいい?」

 

「前の船旅では、ほとんど動けなかったと聞いた」

 

「全部話したの?」

 

エリスがレイネを見る。

 

「薬を用意するために必要な症状だけでございます」

 

レイネは薬師の説明書を確認した。

 

「乗船前に半量をお飲みになり、症状が強くなりましたら残りをお飲みくださいませ」

 

「レイネの治癒魔術では駄目なの?」

 

「一時的に和らげることは可能でございます。しかし、船が揺れ続ける限り、再び気分が悪くなる可能性がございます」

 

「薬の方がいいのね」

 

「はい」

 

エリスは観念したように瓶を受け取った。

 

「分かったわ。飲む」

 

苦い薬を嫌がりながらも、前回のように動けなくなるよりはよいと判断したらしい。

 

 

出港の日。

 

桟橋には、テレーズが見送りに来ていた。

 

レイネは四人分の乗船証と荷物札を確認していた。

 

「船室は二つです。ルーデウス様とルード様、エリス様と私に分かれております」

 

「分かりました」

 

これまでと同じ分け方だ。

 

ルイジェルドの正体を守る意味でも、その方が都合がよい。

 

「ルーデウス君」

 

テレーズが俺を呼ぶ。

 

港で別れれば、次にいつ会えるか分からない。

 

「姉様を見つけたら、必ず知らせてくれ」

 

「もちろんです」

 

テレーズも、母様の帰りを待っている。

 

俺たちが見つけた時には、必ず伝えなければならない。

 

「君自身も、無茶をするな。一人で解決できると思っても、仲間へ話すと約束できるか?」

 

俺は三人を見た。

 

エリス。

 

レイネ。

 

ルイジェルド。

 

魔大陸での俺は、一人で決めて失敗した。

 

人神のことも、最初は自分だけで抱えようとした。

 

今は違う。

 

「はい。僕だけで決める前に、皆へ相談します」

 

「ならよい」

 

テレーズは俺の頭を静かに撫でた。

 

母様に撫でられた時と全く同じではない。

 

それでも、家族から送り出されているような安心感があった。

 

次にエリスへ向き直る。

 

「エリス様。改めて、あの時のご助力に感謝します」

 

「もういいわ。それより、今度はちゃんと神子を守りなさい」

 

「肝に銘じます」

 

助けた相手へ恩を着せるつもりはない。

 

エリスらしい返事だった。

 

レイネへも騎士の礼をした。

 

「レイネ殿。甥を頼む」

 

「承知いたしました。ただし、ルーデウス様だけではございません。皆様とともに帰還できるよう努めます」

 

レイネは、俺だけを守るとは言わなかった。

 

エリスも。

 

ルイジェルドも。

 

全員で帰ることを約束した。

 

「ああ。そうしてくれ」

 

最後に、テレーズはルイジェルドを見る。

 

「ルード殿。甥とエリス様を、ここまで守ってくれたことには礼を言う」

 

「二人は、自分の力でここまで来た。俺だけが守ったわけではない」

 

ルイジェルドはいつも同じことを言う。

 

自分一人の功績にはしない。

 

「それでも、あなたがいなければ、同じ道にはならなかったはずだ」

 

テレーズは胸元へ拳を当てた。

 

ルイジェルドも短く頷く。

 

完全に信頼し合ったわけではない。

 

それでも、行動を見て判断するという最初の一歩は踏み出せたのだろう。

 

俺たちは船へ乗り込んだ。

 

係留用の縄が外される。

 

帆が風を受け、船体がゆっくりと桟橋から離れた。

 

テレーズは港へ立ったまま、俺たちの船を見送っている。

 

俺も甲板から手を振った。

 

姿が小さくなるまで、俺は手を振り続けた。

 

母様ではなかった。

 

目が合った瞬間に期待した相手ではなかった。

 

それでも、母様へつながる人と出会えた。

 

母様が、離れて暮らす家族へ俺のことを話していたと知ることができた。

 

次に会う時には、母様も一緒であってほしい。

 

テレーズへ母様を紹介するのではない。

 

帰ってきた母様と、妹であるテレーズが再会するところを見たい。

 

そう願わずにはいられなかった。

 

 

船酔いの薬は、十分に効果を発揮した。

 

エリスの顔色は普段より悪かったが、自分の足で甲板へ出られる程度には動けている。

 

前回のように、寝台へ横になったまま苦しみ続けてはいない。

 

「少し気持ち悪いけど、前よりずっと平気よ」

 

レイネが水の入った杯を差し出す。

 

「少しずつお飲みくださいませ」

 

エリスは素直に杯を受け取った。

 

弱っているところを見られることへ文句を言う余裕もある。

 

それだけでも、前回よりは遥かに楽なのだろう。

 

俺も前回よりは楽だった。

 

だが、揺れへ完全に慣れたわけではない。

 

足元が上下するたびに胃が僅かに浮き、遠くを見ることで何とか気分を保っている。

 

そこで、訓練で使い慣れてきた魔眼を利用できないかと考えた。

 

試しに魔眼を使い、船がどちらへ傾くか先に見ようとした。

 

現在の甲板と、数秒後の甲板が重なって見える。

 

未来の俺が右へ身体を傾ける。

 

それを見て先に右へ動くと、未来が変わり、今度は左へ傾いた景色が重なる。

 

船の揺れ。

 

俺自身の動き。

 

未来の変化。

 

すべてが何重にも重なった。

 

一気に気分が悪くなった。

 

胃がひっくり返りそうになる。

 

魔眼への魔力を止め、手すりを掴む。

 

「何をしてるの?」

 

エリスが尋ねる。

 

こちらも顔色が悪いはずなのに、呆れた目を向けてくる。

 

「魔眼で揺れを先に見れば、酔わないかと思いました」

 

「どうだった?」

 

「余計に気持ち悪くなりました」

 

「馬鹿ね」

 

否定できない。

 

自分でも、使う前にもう少し考えるべきだったと思う。

 

「未来視の魔眼は、移動する足場の上では使用を控えられた方がよろしいかと存じます」

 

レイネが言った。

 

「次からは、使う前に相談します」

 

「はい」

 

レイネの返事には、僅かに呆れが混じっていたような気がした。

 

近くにいたルイジェルドは、船の揺れをまったく気にしていなかった。

 

甲板には船員とほかの乗客がいる。

 

「ルードさんは平気なんですか?」

 

「ああ」

 

普段と何も変わらない返事だった。

 

「レイネも?」

 

「問題ございません」

 

姿勢も足取りも、陸上とほとんど変わらない。

 

エリスが二人を見比べる。

 

「不公平だわ」

 

「体質でございますので」

 

レイネへ文句を言っても、体質は変わらない。

 

それでも、以前のように寝台から動けない状態ではない。

 

エリスは杯の水を少しずつ飲み、風へ顔を向けていた。

 

船は順調に進んだ。

 

日が沈み、再び昇る。

 

夜の海は、どこまでも暗かった。

 

波の音だけが続き、自分たちが本当に進んでいるのか分からなくなる。

 

それでも翌朝には、太陽の位置と船員たちの動きが、確かに航海が続いていることを教えてくれた。

 

海しか見えなかった水平線の先に、やがて細い陸地が現れた。

 

中央大陸。

 

胸が強く鳴った。

 

長い間、戻ろうとしてきた場所。

 

あの先に、旧フィットア領がある。

 

フィリップ様。

 

ヒルダ様。

 

ゼニス母様。

 

リーリャ。

 

アイシャ。

 

ギレーヌ。

 

シルフィ。

 

一人ずつ、頭の中へ顔が浮かぶ。

 

誰が既に帰っているのか。

 

誰がまだ、世界のどこかにいるのか。

 

誰の消息が、記録へ残っているのか。

 

俺たちは何も知らない。

 

故郷へ近づいたという喜びより、何を知らされるのかという恐怖の方が強かった。

 

帰れば、答えがある。

 

フィットア領が消えたことは、既に聞いている。

 

だが、そこで暮らしていた人々がどうなったのかは、まだ分からない。

 

どれほど残酷な答えでも、知らないままではいられない。

 

隣では、エリスが手すりを強く握っていた。

 

波が揺らすためだけではない。

 

指先へ力が入り、僅かに白くなっている。

 

「ルーデウス」

 

「何ですか?」

 

「着いたら、最初にアルフォンスの話を聞くわ」

 

「はい」

 

エリスの家族について、アルフォンスは何か知っている可能性が高い。

 

だからこそ、聞くのが怖いのだろう。

 

「何を言われても、最後まで聞く。自分で確かめる前に、勝手に決めない」

 

声は強かった。

 

父さんから言われた言葉を、自分へ言い聞かせるように繰り返している。

 

けれど、その指は僅かに震えている。

 

怖いのは、俺も同じだった。

 

母様たちの情報があるかもしれない。

 

シルフィが帰っているかもしれない。

 

逆に、死を告げられるかもしれない。

 

俺も手すりへ触れる。

 

冷たい木の感触が、今ここにいる自分を確かめさせてくれた。

 

「僕も一緒に聞きます」

 

エリス一人へ受け止めさせない。

 

どのような話でも、一緒に聞く。

 

「私もおります」

 

レイネがエリスの隣へ立った。

 

「伺った内容は、その場で整理いたします。分からない点があれば、結論を出す前に確認しましょう」

 

言葉を聞いた瞬間に、最悪の意味だと決めつけない。

 

誰が見た情報なのか。

 

確定した事実なのか。

 

噂にすぎないのか。

 

一つずつ確認する。

 

「ええ」

 

エリスは短く頷いた。

 

ルイジェルドも、陸地の方角を見た。

 

「行こう」

 

短い言葉だった。

 

それでも、十分だった。

 

一人ではない。

 

俺たちはミリス大陸を離れ、中央大陸へ戻ってきた。

 

帰るための旅は、まだ終わっていない。

 

中央大陸へ着けば終わりではない。

 

むしろ、ここから先で、俺たちは失われた故郷と向き合わなければならない。

 

何が残り、何が失われたのか。

 

誰が帰り、誰がまだ帰れていないのか。

 

それでも、逃げるつもりはなかった。

 

どれほど怖くても、最後まで話を聞く。

 

分からないことは確認する。

 

勝手に諦めない。

 

旧フィットア領まで続く道は、もう目の前に見えていた。

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