白髪の侍女   作:MトK

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第四十三話 人形狂いの第三王子

ルーデウス視点

 

シーローン王国の王都へ入った俺たちは、王宮から少し離れた地区に宿を取った。

 

商人や冒険者の利用が多い、二階建ての宿だった。

 

表通りに面した出入口のほか、厩舎へ続く裏口がある。二階の部屋からは周囲の路地を見渡せるが、王宮の尖塔までは見えない。

 

宿を選んだのはレイネだ。

 

兵士に監視されると決まったわけではない。けれど、リーリャとアイシャが王宮に抑留されている可能性がある以上、最初から逃げ道の少ない場所を選ぶ理由もなかった。

 

万が一、王宮側に俺たちの存在を知られた場合。

 

正面を塞がれても、厩舎から裏通りへ出られる。二階の窓から周囲を確認でき、複数の路地へ分かれて逃げることもできる。

 

安全だと決まったわけではない場所で、何も起きないことを前提にしてはいけない。

 

リーリャとアイシャ。

 

二人の名前を頭の中で繰り返すたび、胸の奥が落ち着かなくなる。

 

ノルンと同じ年齢で、リーリャが産んだ子供。父さんが今も捜し続けている、大切な家族の一人である。

 

リーリャは、幼い頃から家にいてくれた。剣術を教えてくれたことも、病気になった俺を看病してくれたこともある。

 

いつも冷静で、俺や父さんが問題を起こせば、表情を大きく変えずに必要なことを片づけていた。家を出てからも、リーリャなら何が起きても生き延びるのではないかと、どこかで勝手に信じていた。

 

その二人が王宮のどこかにいる。

 

しかも、自分の意思では帰れない状況に置かれているかもしれない。

 

今すぐ王宮へ向かいたいという衝動はあった。

 

門を越え、兵士へリーリャとアイシャの居場所を問いただし、答えなければ自分で探せばよい。

 

俺たち四人なら、王宮の兵士を突破すること自体は不可能ではないかもしれない。

 

だが、場所も相手も分からないまま踏み込めば、二人を別の場所へ移される。最悪の場合、俺たちをおびき寄せるための人質として利用されるだろう。

 

感情が強く動いていることは、自分でも分かっている。

 

だからこそ、行動へ移す前に情報を集める。

 

焦りを消す必要はない。

 

ただ、その焦りに判断の順番を変えさせてはいけない。

 

リーリャとアイシャを確実に助けるために、まずは王都の状況を調べる必要があった。

 

荷物を部屋へ運び終えると、四人で机を囲んだ。

 

宿の主人から購入した王都の地図を広げる。

 

王宮、市場、冒険者ギルド、教会、商人組合など、旅人が利用する主要な施設だけが記された簡単な物だ。

 

細い路地や、王宮内部の構造までは記されていない。それでも、どこから調べ始めるかを考えるには十分だった。

 

「最初に確認するべきことは三つです」

 

俺は地図の上へ指を置いた。

 

「ロキシー先生が現在も王宮にいるのか。王宮の兵士が、アイシャと思われる少女を捜しているのか。そして、王都の外へ手紙を出せる場所が監視されているのか。この三つを調べます」

 

口にしながら、自分の中でも順番を整理する。

 

夢で見たものへ直接飛びつくのではない。

 

現実に確認できる情報から、少しずつ状況を絞る。

 

エリスが眉を寄せた。

 

「アイシャを直接捜さないの?」

 

早く見つけたいという気持ちが、声へ出ていた。

 

俺の家族だからだけではない。夢の中で兵士に追われていた幼い少女を、エリスも放っておけないのだろう。

 

「捜します。ただ、夢で見た路地が、王都のどこにあるのかは分かりません」

 

細い路地だけでも数え切れないほどある。

 

場所も時刻も定まっていない光景を頼りに歩き回れば、アイシャの方が先に別の場所へ移動してしまう可能性が高い。

 

あるいは、既に夢とは違う行動を取っているかもしれない。

 

人神が見せた場面を再現することが目的ではない。

 

アイシャとリーリャを見つけ、無事に助けることが目的だ。

 

「アイシャが持っていた紙は、手紙だった可能性があります。王都の外へ助けを求めるつもりなら、冒険者ギルドか教会、郵便を扱う商人の所へ向かうはずです」

 

「そこを見張れば、アイシャが来るかもしれないのね」

 

「はい。兵士が配置されていれば、王宮側が外部への連絡を警戒していることも分かります」

 

理由を説明すると、エリスは納得したように頷いた。

 

ただ夢の場所を探すのではなく、アイシャが何をしようとしているのかから行き先を考える。

 

エリスも、その方が見つけられる可能性が高いと理解してくれたらしい。

 

ルイジェルドが地図を見下ろす。

 

「四人で同じ場所へ行くのか?」

 

「二組に分かれます。ただし、正午になったら、何も分からなくても一度宿へ戻ります」

 

離れて動けば、調べられる範囲は増える。

 

その一方で、一方の組に何かが起きた場合、もう一方が事情を知らないまま動き続ける危険がある。

 

だから、戻る時間を最初に決める。

 

俺とレイネは、冒険者ギルドと郵便を扱う商店を調べる。

 

エリスとルイジェルドには、王宮周辺と市場を歩き、兵士の配置や会話を確認してもらう。

 

王宮へ近づく組には、戦闘能力の高い二人を回す。

 

俺がアイシャらしき少女を見つけた場合も、レイネがいれば追跡と周囲の確認を分担できる。

 

「異常を感じた場合は、正午を待たずに戻ってください」

 

俺が言うと、エリスがこちらを指さした。

 

「それはルーデウスもよ」

 

「もちろんです」

 

「アイシャを見つけても、一人でどこかへ行かないで」

 

「レイネと一緒にいます」

 

そう答えた後、エリスはレイネへ顔を向けた。

 

「レイネ。ルーデウスが一人で行こうとしたら、絶対に止めて」

 

「承知いたしました」

 

俺の返事を信用していないというより、家族が関わる場面だからこそ、制止役まで明確にしておきたいのだろう。

 

俺自身も、アイシャを目の前にすれば、今まで以上に強く感情が動く可能性は認識している。

 

だから、レイネと組む。

 

正午の合流時刻を決め、異常時の対応も共有した。

 

感情を持たないことが冷静さではない。

 

感情が動くことを前提に、その時でも崩れない手順を作ることが大切だった。

 

エリスがレイネの返事を聞いて頷く。

 

それでいい。

 

互いの動きを確認し合うことは、信用していないからではない。誰か一人が判断を誤っても、ほかの者が補えるようにするための役割分担だ。

 

「ルーデウス」

 

ルイジェルドが俺を見る。

 

「何かあっても、その場で全て解決しようとするな。俺たちが戻るまで待て」

 

「はい。僕たちだけで対応できない状況なら、無理に解決せず、情報を持ち帰ります」

 

見つけたもの全てへ、その場で決着をつける必要はない。

 

何が起きているのかを確認し、四人で次の手段を決める。

 

それが今回の方針だった。

 

「ありがとうございます、ルイジェルドさん」

 

全員の役割を確認し、二組に分かれて宿を出た。

 

 

冒険者ギルドは、王都の南側にあった。

 

石造りの大きな建物で、入口の上には剣と杖を交差させた看板が掲げられている。

 

中へ入ると、朝から大勢の冒険者が集まっていた。

 

迷宮探索を目的にする者が多いらしく、鎧や武器は魔大陸で見た物より重厚だ。掲示板には魔物討伐や護衛だけでなく、周辺の迷宮で採取できる素材の依頼も貼り出されていた。

 

本来であれば、どのような迷宮があるのか興味を持っていたかもしれない。

 

今は、掲示板へ目を向ける余裕がほとんどなかった。

 

俺たちは受付へ向かった。

 

「ロキシー・ミグルディアという魔術師について、尋ねたいことがあります」

 

受付の男性は、名前を聞くとすぐに反応した。

 

「シーローン王宮で宮廷魔術師をしていた魔族だな」

 

この国でも、ロキシー先生の名前は知られている。

 

それだけで、先生がここで確かに暮らしていたのだと感じられた。

 

「はい。今も王宮へ勤めていますか?」

 

「いや。もう王宮にはいない」

 

予想していた答えではあった。

 

それでも、胸の奥が僅かに沈んだ。

 

人神が居場所を正確に捉えられなかった以上、ロキシー先生が王宮にいない可能性は考えていた。

 

それでも、シーローンへ来れば会えるのではないかという期待を、完全には捨てきれていなかった。

 

先生に会いたかった。

 

魔大陸を無事に越えたと伝えたかった。

 

ミグルド族の村で、先生の両親に会ったことも話したかった。

 

あの村で聞いた先生の幼い頃の話も。

 

俺が魔眼を得たことも。

 

魔大陸で何度も先生の教えに助けられたことも。

 

伝えたいことは、いくらでもあった。

 

「いつ頃、王宮を離れたのですか?」

 

「正確な時期までは知らん。フィットア領の転移災害について知らせが届いた後、王宮を出たと聞いている」

 

「どこへ向かったかは?」

 

「冒険者へ戻り、転移した者を捜しているという噂は聞いた。行き先までは分からない」

 

ロキシー先生も、俺たちを捜してくれていた。

 

会えなかった落胆の中へ、温かなものが僅かに混じった。

 

俺がどこにいるかも分からないのに、先生は王宮での地位を捨てて動いてくれた。

 

俺だけではない。

 

フィットア領へ転移させられた人々を捜すため、再び冒険者になった。

 

すれ違ってしまったことは残念だった。

 

けれど、どこかで先生も俺たちを捜している。

 

いつか再会できたら、最初に礼を言おう。

 

会えなかった寂しさと同時に、再会する理由が一つ増えた。

 

「ありがとうございます」

 

受付を離れ、人の少ない壁際へ移動する。

 

「ロキシー先生へ手紙を出す方法は使えませんね」

 

「はい」

 

レイネは周囲へ目を配りながら答えた。

 

「王宮へ送れば、ロキシー様ではない方が受け取ることになります」

 

人神は、王宮にいる知り合いへ手紙を出すよう勧めてきた。

 

しかし、ロキシー先生は既にいない。

 

何も確認せず、俺の名前を書いた手紙を送っていれば、アイシャたちを拘束している者へ、自分から到着を知らせることになっていた。

 

背中に冷たいものが走る。

 

人神はロキシー先生が今も王宮にいるとは言わなかった。

 

ただ、王宮にいる知り合いへ手紙を出せと勧めた。

 

俺が勝手に、知り合いとはロキシー先生であり、彼女が受け取るものだと考えるような言い方だった。

 

助言の中に正しい情報が含まれていても、その後に示された方法まで正しいとは限らない。

 

人神との会話で確認した警戒を、現実の情報によって裏づけられた。

 

「ルーデウス様」

 

レイネの視線が、ギルドの出入口へ向けられる。

 

兵士が二人立っていた。

 

兵士がギルドを利用すること自体は不自然ではない。

 

王都であれば、依頼や警備の相談に来ることもあるだろう。

 

だが、一人は入口から入ってくる者を見ている。

 

もう一人は手紙や小荷物を預かる窓口の近くに立ち、窓口へ近づく者の顔を確認していた。

 

依頼書を見ない。

 

受付へ用件を尋ねない。

 

ただ、人の顔だけを見ている。

 

「依頼を探しているようには見えませんね」

 

「はい。郵便窓口を監視している可能性がございます」

 

まだ、アイシャを待っているとは断定できない。

 

犯罪者や脱走兵を捜しているのかもしれない。

 

王宮から盗まれた物が、外へ送られることを警戒している可能性もある。

 

俺たちは依頼掲示板を見るふりをしながら、兵士たちの様子を確認した。

 

気づかれないよう、視線だけを動かす。

 

しばらくして、窓の外を小さな人影が横切った。

 

大人用の服を仕立て直したような、少し大きすぎるメイド服。

 

黒に近い茶色の髪。

 

夢で見た少女と同じだった。

 

胸が強く跳ねる。

 

頭の中から、周囲の音が一瞬だけ消えた。

 

人影はギルドへ入ろうとしたが、入口の兵士を見た瞬間に足を止めた。

 

すぐに顔を背け、早足で大通りへ戻っていく。

 

その後を、建物の外にいた二人の兵士が追った。

 

「夢で見た少女です」

 

声が僅かに上ずった。

 

見つけた。

 

今すぐ正面入口から追いかけたい衝動が湧く。

 

だが、入口には監視している兵士がいる。俺たちが正面から少女を追えば、少女との関係を疑われ、こちらの動きまで知られる可能性が高い。

 

「参りましょう」

 

「はい。正面は避けます」

 

俺たちは事前に決めた方針どおり、正面入口ではなくギルド脇の通路へ向かった。

 

少女を見つけたことで、計画を捨てる必要はない。

 

むしろ、今こそ役割と手順を守るべきだった。

 

正面から出れば、入口にいた兵士へ俺たちが少女を追っていると気づかれる可能性がある。

 

少女と兵士たちの姿が見える距離を保ち、路地へ向かった。

 

 

少女は細い路地へ入っていた。

 

兵士たちは走っていない。

 

大声も出していない。

 

王都の中で騒ぎを起こさず、静かに連れ戻すつもりなのだろう。

 

しかし、大人と子供では歩幅が違う。

 

路地の中ほどで追いつかれ、一人が少女の前へ回り込んだ。

 

「もう逃げるな。王宮へ戻るんだ」

 

「嫌です!」

 

少女は胸へ抱えていた紙を守ろうとした。

 

両腕で抱き込み、身体ごと背ける。

 

もう一人の兵士が、それを取り上げる。

 

「返してください! お父さんへ出す手紙です!」

 

父さん。

 

その言葉を聞いた瞬間、胸が締めつけられた。

 

やはり、アイシャなのかもしれない。

 

父さんへ助けを求めようとしている。

 

「それはできない」

 

兵士は苦しそうな顔をしていた。

 

紙を破る手にも、僅かな迷いが見える。

 

少女を連れ戻すことを喜んでいるようには見えない。

 

命令だから従っている。

 

そうしなければならない理由がある。

 

それでも、紙は破られた。

 

細かく裂かれた紙片が、路地へ落ちていく。

 

少女が自分より大きな兵士を押しのけようとするが、ほとんど動かない。

 

「待ってください」

 

俺が声を掛けると、兵士たちが振り返った。

 

一人の手が、腰の剣へ伸びる。

 

警戒しただけで、まだ抜いてはいない。

 

「何者だ?」

 

「その子が助けを求めているように見えたので、事情を確認しに来ました」

 

「王宮で保護している子供だ。部外者が口を出すことではない」

 

保護。

 

夢の中で見た状況と、目の前の少女の言葉は一致しない。

 

「保護されている子供が、なぜ王宮へ戻ることを拒んでいるのですか?」

 

「子供のわがままだ」

 

少女が俺たちを見た。

 

助けを求めてよいのか、迷っている。

 

目には明らかな恐怖がある。

 

兵士へ連れ戻されたくない。

 

それでも、俺たちが本当に安全だとは分からない。

 

兵士から逃げたいからといって、見知らぬ旅人を無条件に信じれば、今度こそ本当に誘拐されるかもしれない。

 

恐怖に耐えながらも、俺たちが安全なのかを確かめようとしている。

 

六歳の子供が、ここまで考えなければ生き延びられない状況に置かれている。

 

その事実に腹の奥が熱くなった。

 

今すぐ兵士たちを吹き飛ばしたい。

 

だが、二人の顔には苦しさがある。

 

少女の手紙を破ることへ迷いがあり、剣へ手を掛けながらも抜いてはいない。

 

少女を傷つけること自体が目的ではない可能性が高い。

 

目の前の兵士を倒すだけでは、少女や王宮に残るリーリャの状況は解決しない。

 

「君を無理に連れていくつもりはありません」

 

俺は少女へ向けて言った。

 

できる限り目線を合わせ、逃げ道を塞がない位置に立つ。

 

「王宮へ戻りたくない理由があるなら、聞かせてください。僕たちについてくるかどうかは、話してから君が決めて構いません」

 

兵士の前で、アイシャという名前は出さない。

 

俺の名前も明かさない。

 

ここでルーデウス・グレイラットが王都へ来たと知られれば、リーリャを別の場所へ移される可能性がある。

 

人神から本名を伏せろと言われたからではない。

 

今の状況を見たうえで、本名を出すべきではないと自分たちで判断した。

 

少女の目が揺れる。

 

兵士と俺たちを交互に見る。

 

「お母さんが、王宮に捕まっています」

 

声は震えていた。

 

それでも、はっきりと事情を話した。

 

「私は、お父さんに助けを求めようとしました。でも、この人たちは手紙を出させてくれません」

 

「余計なことを言うな!」

 

兵士が少女の腕をつかもうとする。

 

その間へ、レイネが静かに入った。

 

兵士の手首をつかんだわけではない。

 

力で押し返したわけでもない。

 

少女の前へ立ち、伸ばされた手を身体で遮っただけだった。

 

白い髪が、少女と兵士の間へ揺れる。

 

「少女のお話を最後まで伺ってくださいませ」

 

「退け」

 

「ご本人が戻ることを拒んでおられます。連行する正当な理由がおありでしたら、王宮からの命令書をご提示ください」

 

「そんな物を、子供一人のために持ち歩くものか」

 

「では、王宮の兵士であるという理由だけで、助けを求める子供を連れ去ることになります」

 

レイネの声は穏やかだった。

 

相手を挑発する言い方でもない。

 

だが、一歩も退かなかった。

 

兵士は周囲を見た。

 

路地の入口では、商人や通行人が足を止め始めている。

 

人の目が集まっている。

 

ここで剣を抜けば、王宮の兵士が、命令書も示さず少女と旅人へ武器を向けたことになる。

 

レイネが何者なのか、兵士たちは知らない。

 

冒険者札も見せていない。

 

それでも、周囲の目がある場所で、理由も説明せず強引に連行するのは都合が悪いのだろう。

 

もう一人の兵士が、低い声で言った。

 

「騒ぎを大きくするな。俺たちも、子供を傷つけたいわけじゃない」

 

その声にも、迷いがあった。

 

少女を傷つけたいのではない。

 

だが、王宮へ戻さなければならない。

 

「でしたら、ギルド職員を交えて事情を確認しましょう」

 

俺が提案すると、二人の兵士は顔を見合わせた。

 

第三者の前で少女の事情を話されることは避けたいらしい。

 

王宮で子供と母親を拘束していること。

 

外部へ手紙を出させないこと。

 

それをギルドへ知られれば、問題になる可能性がある。

 

その迷いを見て、少女が動いた。

 

レイネの横を抜け、俺の後ろへ回る。

 

「助けてください」

 

小さな手が、俺の上着をつかんだ。

 

細い指が震えている。

 

俺たちを完全に信じたわけではないのかもしれない。

 

それでも、王宮へ戻るより、俺たちへ助けを求める方を選んだ。

 

自分の意思で選んだのだ。

 

その信頼を裏切るわけにはいかない。

 

「レイネ」

 

「はい」

 

レイネが路地の端へ手を向ける。

 

積まれていた空の木箱が、崩れるように路地へ倒れた。

 

最初から不安定に積まれていた物へ、僅かな風を当てただけなのだろう。

 

大きな音が響き、兵士たちの進路が塞がる。

 

俺は足元の土を隆起させ、木箱の下へ低い壁を作った。

 

人を傷つけるためではない。

 

追跡を数十秒遅らせるためだけの壁だ。

 

兵士たちが本気で壊そうとすれば、長くは持たない。

 

だが、少女を連れて最初の角を曲がる時間は作れる。

 

「こちらへ」

 

少女を連れ、レイネとともに路地の奥へ走る。

 

小さな足で懸命についてくる。

 

「あなたのお名前は?」

 

走りながら少女が尋ねてきた。

 

自分がついていく相手が誰なのか、確認しようとしている。

 

「安全な場所へ着いてから話します」

 

「どうしてですか?」

 

「兵士へ聞かれれば、王宮にいる君のお母さんが危険になるかもしれないからです」

 

理由を説明すると、少女はそれ以上尋ねなかった。

 

ただ命令されたから黙ったのではない。

 

理由を理解し、自分で納得したのだ。

 

建物の間を抜け、布地屋の裏口から表通りへ出る。

 

レイネは周辺の道を既に確認していたらしい。

 

迷うことなく、人通りの多い道と細い道を交互に選んで進んだ。

 

人混みへ紛れたかと思えば、次の角で脇道へ入る。

 

追跡の気配はない。

 

それでも宿へ直行はしなかった。

 

市場を一周し、雑貨屋へ入り、裏口から別の通りへ出る。

 

誰かに後をつけられている場合、宿を知られないためだ。

 

後方の確認はレイネへ任せ、俺は少女の歩調と前方の人通りへ意識を向けた。

 

同じ場所を二人で見張るより、それぞれが異なる方向を確認した方が安全だ。

 

レイネが進路を選び、俺が少女を人混みから離さないよう支える。

 

その役割を崩さずに進んだ。

 

少女の手が、まだ俺の上着をつかんでいる。

 

離れないよう、小さな手で必死につかんでいる。

 

妹かもしれない。

 

その実感が、少しずつ胸へ広がっていた。

 

会ったこともないはずなのに。

 

声も、名前を名乗るところさえ聞いていないのに。

 

この子を絶対に兵士へ渡したくないと思っていた。

 

 

宿の部屋には、エリスとルイジェルドが既に戻っていた。

 

正午の少し前だった。

 

二人は、俺たちが予定より遅れていることを心配していたらしく、扉が開いた瞬間に立ち上がった。

 

エリスの手は既に剣へ近づいている。

 

その後ろから少女が入ってくると、エリスの目が大きく開く。

 

「その子が、アイシャ?」

 

少女の肩が跳ねた。

 

「どうして、私の名前を知っているんですか?」

 

警戒が戻る。

 

当然だ。

 

助けを求めたとはいえ、俺たちは自分たちの名前を明かさないまま、彼女の名前だけを知っている。

 

エリスに悪気はない。

 

ただ、夢で見た少女と目の前の子供が同じなのか、確認したかっただけだ。

 

それでも、少女から見れば、自分の名前を知って待ち構えていた集団に連れ込まれたように見える。

 

俺は扉を閉めた。

 

ルイジェルドが窓の外と廊下を確認する。

 

音を立てずに一度部屋を出て、階段と隣室の様子まで確認した。

 

「追ってきた者はいない」

 

「ありがとうございます、ルイジェルドさん」

 

安全を確認してから、少女の前へ座った。

 

立ったままでは、ただでさえ小さな少女を威圧してしまう。

 

「改めて確認します。君は、アイシャ・グレイラットですか?」

 

「先に、あなたたちが誰なのか教えてください」

 

声は震えていたが、目は逸らさなかった。

 

怖いはずだ。

 

兵士に追われ、見知らぬ者に助けられ、知らない宿へ連れてこられた。

 

それでも、自分を守るために必要な質問をしている。

 

「僕は、ルーデウス・グレイラットです」

 

アイシャの目が大きく見開かれた。

 

「君の兄です」

 

口にした瞬間、不思議な感覚があった。

 

一度も会ったことのない妹。

 

生まれた時、俺はロアにいた。

 

兄として抱いたことも。

 

歩き方を教えたことも。

 

一緒に食事をしたこともない。

 

それなのに、兄だと名乗っただけで、守らなければならないという気持ちが胸の奥から湧いてくる。

 

しばらく、アイシャは何も言わなかった。

 

俺の顔を上から下まで確かめる。

 

髪。

 

目。

 

服装。

 

手。

 

何か聞いていた特徴と一致するものを探しているのかもしれない。

 

「証拠はありますか?」

 

すぐには信じなかった。

 

その慎重さに、少し安堵した。

 

名乗っただけの相手を兄だと信じるような子なら、王宮から逃げた後に別の誰かへ騙されていたかもしれない。

 

「僕は、アイシャが生まれる前にブエナ村を離れました。ですから、君と二人だけの思い出を答えることはできません」

 

知らないことを知っているふりはしない。

 

アイシャしか知らない出来事を適当に作り、偶然当たることを期待するようなこともしない。

 

それで信用を得たとしても、後から嘘だと分かれば、リーリャを助けるための話まで疑われる。

 

「代わりに、家族について知っていることを話します」

 

俺は一つずつ思い出しながら口にする。

 

「父さんはパウロ・グレイラット。母様はゼニス。リーリャは、父さんと同じ水神流の道場で剣を学んでいました。足を痛めて剣士を続けられなくなった後、ブエナ村の家で働き始めています。今も左脚には、少し動かしにくさが残っているはずです」

 

リーリャから聞いたこと。

 

父さんから聞いたこと。

 

ブエナ村で一緒に暮らしたから知っていること。

 

アイシャは表情を変えずに聞いていた。

 

王宮側がリーリャから事情を聞き、調べて知っている可能性もあるのだろう。

 

俺の言葉だけで、すぐに信じる様子はない。

 

正しい。

 

家族の事情を知っていることと、本当に家族であることは同じではない。

 

「僕が七歳になる少し前まで、ブエナ村にはレイネもいました」

 

アイシャの視線がレイネへ向く。

 

白い髪。

 

赤い瞳。

 

年齢に似合わない、落ち着いた所作。

 

アイシャは椅子から立ち上がった。

 

「あなたが、レイネさんですか?」

 

「はい。レイネと申します」

 

「お母さんから聞きました。お兄さまへ仕えていた、白い髪と赤い目の侍女がいたと」

 

「リーリャ様が、私のことを?」

 

レイネの声に、珍しくはっきりとした驚きが混じった。

 

「はい。仕事が丁寧で、いつもお兄さまのことをよく見ていた人だと聞いています。それと、お兄さまが一人で無理をしそうな時には、必ず止める人だとも」

 

レイネの赤い瞳が僅かに揺れた。

 

リーリャが自分のことを覚えていた。

 

転移事件の後も、アイシャへレイネの話をしていた。

 

その事実への喜びと、今も拘束されている彼女を案じる気持ちが、ほんの一瞬だけ表情へ現れる。

 

「そのように覚えていてくださったのですね」

 

声も、普段より少し柔らかかった。

 

俺も、リーリャがアイシャへレイネのことを話していたと知り、胸が温かくなった。

 

ブエナ村での時間は、俺だけの記憶ではない。

 

リーリャの中にも、レイネと一緒に過ごした日々が残っていた。

 

アイシャは再び俺を見る。

 

「レイネさんが一緒にいるなら、あなたがお兄さまである可能性は高いと思います」

 

「完全には信じられませんか?」

 

「お母さんと会うまでは」

 

正しい判断だ。

 

それでも、少しだけ寂しいと思ってしまった。

 

兄と名乗れば、すぐに喜んでもらえるのではないか。

 

そんな期待が、どこかにあったらしい。

 

だが、会ったばかりの相手を信じ切れないのは当然である。

 

俺は兄だと名乗っただけで、まだ何一つ兄らしいことをしていない。

 

「それで構いません」

 

俺が答えると、アイシャの表情から僅かに力が抜けた。

 

無理に信じるよう求められると思っていたのかもしれない。

 

信じないなら助けない。

 

兄へそのように言われることを、恐れていた可能性もある。

 

「父さんは無事です」

 

先に伝えるべきことを口にする。

 

アイシャが手紙を出そうとしていた相手。

 

生死も分からないまま、助けを求めようとしていた父親のことだ。

 

「ミリシオンで会いました。ノルンも父さんと一緒にいます」

 

「お父さんと、ノルンが……?」

 

「はい。二人とも生きています」

 

アイシャは口元を両手で覆った。

 

大きく見開かれた目に涙が浮かぶ。

 

王宮から逃げ出し、兵士に追われ、知らない相手を警戒していた間も、泣くことを我慢していたのだろう。

 

父さんへ手紙を出そうとしていた。

 

だが、その父さんが生きているかどうかも分からなかったはずだ。

 

「よかった……」

 

小さな声が漏れた。

 

その言葉を聞いた瞬間、ようやくアイシャが年相応の子供に見えた。

 

賢く、慎重に振る舞っていても、六歳の少女なのだ。

 

家族が生きていると知り、安心して泣いている。

 

レイネが布を差し出す。

 

アイシャは小さな声で礼を言い、涙を拭った。

 

エリスは何も言わず、アイシャの近くへ椅子を動かした。

 

抱きしめようとはしない。

 

肩へ触れることもしない。

 

触れれば怖がらせる可能性があると分かっているのだろう。

 

以前のエリスなら、安心させようとして勢いのまま抱きしめていたかもしれない。

 

今は、相手が自分から近づける距離を残している。

 

「リーリャを助けるために、何があったのか教えてください」

 

俺が尋ねると、アイシャは布を握ったまま、大きく頷いた。

 

 

リーリャとアイシャは、転移事件によってシーローン王宮の敷地内へ現れた。

 

突然現れた二人は、王宮の兵士に拘束された。

 

事情も分からないまま、武器を持った兵士に囲まれたのだろう。

 

リーリャは、自分がパウロ・グレイラットの妻であり、かつてロキシー先生と面識があったことを説明した。

 

助けを得るため。

 

身元を証明するため。

 

知っている人物の名前を出した。

 

その名前へ反応したのが、第七王子パックスだった。

 

「パックス王子は、ロキシーという人に戻ってきてほしいそうです」

 

アイシャは、レイネから渡された温かい飲み物を両手で持ちながら話した。

 

冷えた指先を温めるように、器を包んでいる。

 

「お母さんを捕まえていれば、いつか助けに来るかもしれないと言っていました」

 

ロキシー先生を呼び戻すためだけに、リーリャとアイシャを拘束した。

 

二人には、何の関係もない。

 

「ロキシー先生は、もうこの国にいません」

 

俺が告げると、アイシャは驚いた。

 

「本当ですか?」

 

「転移災害の知らせを聞いた後、王宮を離れたそうです。僕たちを捜してくれている可能性があります」

 

リーリャたちは、来るかどうかも分からないロキシー先生を待つためだけに、長い間拘束されていた。

 

その間、ロキシー先生は別の場所で俺たちを捜していた。

 

何の意味もない拘束だ。

 

パックスという王子の一方的な執着のために、リーリャとアイシャは自由を奪われた。

 

腹の奥に、重い怒りが溜まる。

 

熱いというより、冷たく硬い塊が沈んでいくようだった。

 

「お母さんは、何度も外へ手紙を出そうとしました。でも、全部止められました」

 

「暴力を受けましたか?」

 

尋ねると、アイシャは僅かに目を伏せた。

 

答えを聞くのが怖い。

 

殴られた。

 

傷つけられた。

 

もっとひどいことをされた。

 

そのような答えが返ってくる可能性を考えると、喉が詰まった。

 

それでも、聞かなければならない。

 

今のリーリャが、どのような状態にあるのか。

 

救出した後に、どのような治療が必要なのか。

 

知らなければ準備できない。

 

「命令に逆らうと、叩かれることはありました」

 

エリスの拳が強く握られる。

 

俺の指にも、無意識に力が入った。

 

爪が掌へ食い込む。

 

今すぐ王宮へ行きたい。

 

パックスという王子の顔も知らないのに、殴り倒したいと思った。

 

リーリャを拘束し、手紙を出させず、逆らえば叩いた。

 

その事実だけで、十分すぎるほど腹が立った。

 

だが、その怒りを救出の手順より先に出すわけにはいかない。

 

正面から王宮へ入れば、リーリャを移されたり、盾にされたりする可能性がある。

 

「今すぐ助けに行きたいわ」

 

エリスが低い声で言った。

 

普段のような大きな声ではない。

 

怒りを押し殺し、今にも剣を抜きそうな声だった。

 

「はい。僕も同じです」

 

俺はエリスの感情を否定しなかった。

 

「ですが、リーリャの居場所と王宮側の事情を確認してから動きます。正面から入れば、移されたり盾にされたりする可能性があります」

 

理由を続けると、エリスは悔しそうに唇を噛んだ。

 

「分かってるわ。だから、先に方法を考えるんでしょう?」

 

「はい」

 

エリスも、感情だけで飛び出してはいけないと分かっている。

 

怒りを否定する必要はない。

 

急ぐ気持ちも消す必要はない。

 

ただ、その感情をリーリャを助けるための行動へ変えなければならない。

 

ルイジェルドがアイシャへ尋ねる。

 

「お前を追っていた兵士たちは、パックスへ忠誠を誓っているのか?」

 

「違うと思います」

 

「なぜだ?」

 

「お母さんが、兵士の人たちも脅されていると言っていました。命令に逆らうと、家族を殺すと言われているそうです」

 

路地で追ってきた兵士たちが、苦しそうな顔をしていた理由が分かった。

 

アイシャを捕まえたいわけではない。

 

手紙を破りたいわけでもない。

 

家族を守るために、命令へ従っている。

 

もし兵士たちを単純な敵だと考え、最初から倒していれば、その背後にいる人質の存在へ気づけなかったかもしれない。

 

「家族が捕まっている場所は分かりますか?」

 

レイネが尋ねた。

 

「詳しい場所は分かりません。でも、裏町の奴隷商人が関係していると、お母さんが言っていました」

 

王宮の外に、人質を閉じ込めている場所がある。

 

そこを先に押さえれば、兵士たちはパックスへ従う必要がなくなる。

 

リーリャを救出する時に、王宮の兵士全員を敵へ回さずに済む。

 

だが、位置も人数も分からない。

 

裏町の奴隷商人という情報だけで、王都中を探すには時間が掛かる。

 

「王宮の中で、パックス王子へ逆らえる人はいませんか?」

 

俺が尋ねると、アイシャは少し考えた。

 

王宮で見聞きした人物を、一人ずつ思い出しているのだろう。

 

「第三王子のザノバ様なら、パックス王子も怖がっています」

 

「どのような王子ですか?」

 

「人形が大好きな人です」

 

真剣な顔で答えた。

 

その答えだけを聞けば、争いを止められる人物には聞こえない。

 

「政治やお金のことには興味がなくて、毎日人形を見ています。すごく力が強くて、怒らせると人の首を取ってしまうので、王宮の人は近づきたがりません」

 

人形好きで、人の首を取るほどの怪力を持つ王子。

 

味方にできれば心強い。

 

パックスより上位の王子であるなら、王宮の兵士へ命令する権限もあるだろう。

 

ただ、普通に事情を話すだけで協力してくれる人物には聞こえない。

 

人形以外に興味を持たず、気に入らない者の首を取る。

 

接触方法を間違えれば、話を聞かせる前に危険な状況になる可能性もある。

 

「ザノバ王子は、パックスの行いを知っていますか?」

 

「知らないと思います。人形以外の話は、ほとんど聞かないので」

 

「聞かせるためには、人形が必要なのね」

 

エリスが言った。

 

その言葉で、荷物の底へしまってある物を思い出した。

 

旅の間、何度か処分しようと考えた。

 

そのたびに捨てられず、ずっと持ち続けていた物。

 

「一つだけ、あります」

 

全員の視線が俺へ集まる。

 

俺は自分の鞄を引き寄せた。

 

衣服や書類を取り出し、底に敷いてあった布をめくる。

 

油紙と柔らかな布で何重にも包まれた、手のひらほどの物が入っていた。

 

「何それ?」

 

エリスが身を乗り出す。

 

「魔大陸を旅していた時に作った物です」

 

包みを開く。

 

中から現れたのは、槍を構えた戦士の小さな像だった。

 

青く染めた髪。

 

額を覆う布。

 

長い槍。

 

人の町でルードと名乗り始めた頃の、ルイジェルドを模した人形だ。

 

部屋の中が静かになった。

 

エリスは人形とルイジェルドを見比べている。

 

レイネも、初めて見たらしく、僅かに目を見開いていた。

 

ルイジェルド本人が、人形と俺を交互に見る。

 

「いつ作った」

 

「魔大陸を旅していた時です」

 

雨が続き、何日も洞窟へ留まったことがあった。

 

外へ出れば雨と魔物に襲われ、移動できない。

 

暇な時間を使い、剣や槍の細い部分を土魔術で再現して、魔力制御の練習をしていた。

 

何度も槍を作るうち、穂先を構えるルイジェルドの姿まで形にしたくなった。

 

一晩だけのつもりだった。

 

輪郭だけを作り、すぐに崩すつもりだった。

 

しかし、髪が違う。

 

槍を持つ手の角度が違う。

 

足の位置がおかしい。

 

そのように気になる場所が増え、少しずつ手を加え、最後には全身を作っていた。

 

「どうして今まで見せなかったの?」

 

エリスが尋ねる。

 

「本人へ断らずに作ったことが、途中から恥ずかしくなったんです。それに、完成させてから見ると、気になる所が増えてしまって」

 

作った直後は、ルイジェルドへ渡そうと思っていた。

 

旅の記念として、受け取ってもらえれば嬉しいとも考えた。

 

だが、実物と見比べるほど、顔や槍の角度が気になった。

 

本人を勝手に観察し、その姿を人形へしたことも、後から急に恥ずかしくなった。

 

渡す勇気も、捨てる勇気もなく、誰にも見せないまま鞄の底へしまっていた。

 

「ルイジェルドさん。勝手に作って、申し訳ありません」

 

ルイジェルドは人形を手に取った。

 

大きな手の中では、人形がさらに小さく見える。

 

太い指で壊さないよう、慎重に持っている。

 

槍。

 

髪。

 

額を覆う布。

 

一つずつ確かめる。

 

自分の姿をどのように見ているのか、確認しているようだった。

 

その沈黙が長く感じた。

 

不快に思われたのではないか。

 

本人へ断らず姿を写したことを、軽率だと思われたのではないか。

 

「よくできている」

 

「怒っていませんか?」

 

思わず確認してしまった。

 

「なぜ怒る」

 

「自分の姿を勝手に人形へされたら、不快に思う人もいます」

 

「俺は構わない」

 

ルイジェルドは人形を俺へ返した。

 

「旅をしていた時の俺だと分かる」

 

短い言葉だった。

 

だが、悪く思っていないことは伝わった。

 

人形の出来だけではない。

 

青く染めた髪と額の布を見て、俺たちと魔大陸を旅していた時の姿だと認めてくれた。

 

胸の奥に残っていた小さな後ろめたさが、ようやく消えた。

 

「これなら、ザノバ王子が興味を持つかもしれないのね」

 

エリスが人形を覗き込む。

 

「アイシャ。ザノバ王子へ人形を見せる方法はありますか?」

 

「王都の職人が、月に何度か新しい人形を王宮へ持っていきます」

 

「その職人の場所は?」

 

「分かります。お母さんのお使いで、近くまで行ったことがあります」

 

ようやく、王宮内部へつながる道が見えた。

 

人神が示した方法ではない。

 

夢にも出てこなかった、一体の人形。

 

アイシャから話を聞き、俺たちで考えたからこそ見つかった道だった。

 

 

アイシャは宿へ残すことにした。

 

兵士に追われている以上、人形職人の店まで連れていけば見つかる危険がある。

 

本人は同行したがった。

 

「私が道を案内できます」

 

「場所は地図で教えてもらえれば分かります」

 

「ザノバ様のことも知っています」

 

「だから、できる限り詳しく教えてください」

 

王宮内の簡単な地図を描いてもらう役目を任せると、しぶしぶ納得した。

 

ただ待たせるのではない。

 

リーリャがいる可能性のある場所。

 

パックスの居住区。

 

ザノバの部屋。

 

使用人が使う通路。

 

アイシャが知っていることを書き出してもらう。

 

俺たちは四人で、アイシャから教えられた人形工房へ向かった。

 

王都の東側。

 

工芸品を扱う店が並ぶ通りの一角に、小さな工房があった。

 

店内には、木や陶器で作られた人形が並んでいる。

 

子供の玩具に見える物もあれば、貴族の部屋へ飾られると思われる精巧な像もあった。

 

店主は、最初こそ旅人である俺たちを警戒していた。

 

ザノバ王子に会わせてほしいと頼みに来た者など、簡単に信用できるはずもない。

 

だが、人形を見せた瞬間、顔色が変わった。

 

「これは、どこで買った?」

 

奪わないよう注意しながらも、目は人形へ釘づけになっている。

 

「僕が作りました」

 

「冗談を言うな。こんな物を、子供が作れるはずがない」

 

「土魔術で作っています」

 

「土魔術で?」

 

店主は信じていない。

 

土魔術で壁や石弾を作る者はいても、人形の細かな髪や服の皺まで再現する者は少ないのだろう。

 

俺は店内の隅にあった、欠けた石の飾りを借りた。

 

「少し触ってもよろしいですか?」

 

店主が警戒しながら頷く。

 

指先へ魔力を集める。

 

石の表面を少しずつ変形させ、欠けた部分を埋める。継ぎ目が残らないよう圧縮し、細かな模様まで元の形へ合わせた。

 

一度に大きく変えるのではない。

 

石の流れを見ながら、薄く重ねる。

 

店主の目が見開かれる。

 

「本当に、魔術で……」

 

「ザノバ王子なら、この人形を見たいと思いますか?」

 

店主は人形をもう一度慎重に見た。

 

槍の細部。

 

髪。

 

身体の均衡。

 

今度は、職人として確認しているようだった。

 

「殿下が見れば、必ず欲しがる」

 

「売るために来たのではありません。製作者として、王子ご本人へお話ししたいことがあります」

 

店主は迷った。

 

王族へ、素性の分からない旅人を紹介する。

 

しかも、ザノバは気難しく、怪力を持つ王子だ。

 

機嫌を損ねれば、店主自身が危険になる可能性もある。

 

簡単に引き受けられることではない。

 

「この人形を預けます」

 

俺は人形を差し出した。

 

手から離す直前、僅かに指へ力が入った。

 

「ザノバ王子が興味を示さなければ、返していただくだけで構いません」

 

ルイジェルドが、僅かに人形へ視線を向けた。

 

俺が作った物だ。

 

それでも、本人へ初めて見せた直後に手放すことには、少し抵抗があった。

 

あの人形には、魔大陸で三人だった頃の旅が詰まっている。

 

赤い空。

 

見知らぬ土地。

 

ルイジェルドを信用してよいのか迷っていた頃。

 

俺の失敗。

 

エリスの成長。

 

少しずつ築いた信頼。

 

人形を作った時には、単なる魔力制御の練習だと思っていた。

 

今見ると、あの頃のルイジェルドと、旅の記憶を残した物に思える。

 

リーリャを助けるために必要だと判断した以上、預けることへの迷いで機会を失うつもりはない。

 

それでも、大切な物であることに変わりはなかった。

 

店主は布で包まれた人形を受け取った。

 

「今日の夕方、もう一度来い。殿下が会うと言えば、その時に伝える」

 

「ありがとうございます」

 

工房を出る。

 

「本当に、渡してよかったの?」

 

エリスが尋ねた。

 

俺が人形を手放す時に迷ったことへ気づいていたらしい。

 

「リーリャを助けるために必要だと思いました」

 

答えたものの、胸の中には不安が残っていた。

 

壊されないか。

 

ザノバが気に入り、そのまま返さないと言わないか。

 

店主が別の物として売らないか。

 

失くしたくはなかった。

 

「返ってくる」

 

ルイジェルドが言った。

 

「はい?」

 

「必要なら、俺が取り戻す」

 

低く、当然のことのような声だった。

 

俺が手放した物を、ルイジェルド自身も大切に思ってくれたのだろうか。

 

あるいは、俺が不安そうにしているから言ってくれただけかもしれない。

 

どちらでもよかった。

 

俺は少しだけ笑った。

 

「ありがとうございます、ルイジェルドさん」

 

 

夕方に工房へ戻ると、入口に王宮の兵士が二人立っていた。

 

人形を使って王族へ接触しようとしたことで、怪しい者と判断されたのかもしれない。

 

捕らえるために待っている可能性も考えたが、二人は俺たちを見ると、黙って店の奥を示した。

 

武器へ手を掛ける様子もない。

 

少なくとも、今すぐ捕縛するつもりではないらしい。

 

奥の作業場へ入る。

 

眼鏡を掛けた細身の青年が、机へ身を乗り出していた。

 

その前には、預けた人形が置かれている。

 

青年は、俺たちが入ってきたことにも気づいていない。

 

槍の穂先。

 

髪。

 

服の皺。

 

人形を持ち上げ、横から見る。

 

机へ置き、今度は低い位置から覗き込む。

 

あらゆる角度から、食い入るように見つめている。

 

「ザノバ殿下」

 

店主が呼んだ。

 

青年は顔を上げた。

 

俺たちを一度見た後、すぐに人形へ視線を戻す。

 

人間より、人形の方に強い関心を持っているというアイシャの話は本当らしい。

 

「これを作った者は誰だ?」

 

「僕です」

 

俺が答えると、ザノバの目が大きく開いた。

 

初めて、人形以外へ強い関心を向けた。

 

「貴様が?」

 

「はい」

 

「証明せよ」

 

命令口調だったが、俺の年齢を疑っているというより、人形以外の情報が頭へ入っていないように見えた。

 

子供だから作れないと決めつけるより、今すぐ製作者である証明を見たいらしい。

 

「人形の槍を見てください」

 

ザノバは言われたとおり、槍へ顔を近づけた。

 

「外側は細く作っていますが、中心部だけ密度を上げています。穂先と柄の境目には、力が一点へ集中しないよう僅かな丸みを残しました」

 

見た目だけでは分かりにくい部分だ。

 

折れやすい細い槍を、形を崩さず補強するために工夫した。

 

「内部の構造を、なぜ知っている?」

 

「作ったからです」

 

「同じ物を作れるか?」

 

「少し時間をいただければ」

 

店主から小さな石材を借りる。

 

人形が持っている槍と同じ物を、さらに小さく作った。

 

魔力で圧縮し、中心部を補強する。

 

穂先と柄を別々に作って接着するのではなく、一つの石として連続した形にする。

 

完成した槍をザノバへ渡す。

 

ザノバは両端を持ち、力を加えた。

 

細い石の槍が大きくしなる。

 

普通の石なら、すぐに中央から折れていただろう。

 

それでも折れない。

 

手を離すと、元の形へ戻った。

 

「おお……」

 

ザノバの手が震えた。

 

目には、強い感情が浮かんでいる。

 

驚き。

 

喜び。

 

憧れ。

 

その全てが、人形と小さな槍へ向けられていた。

 

アイシャの話どおりだ。

 

この人にとって、人形は単なる趣味ではない。

 

「この人形には、名前があるのか?」

 

「旅の仲間である、ルードを模した物です」

 

ザノバが、実物のルイジェルドを見る。

 

人形へ視線を戻す。

 

また実物を見る。

 

何度も見比べる。

 

視線が、髪、肩、槍を持つ手へ動く。

 

「この者が、ルード本人か?」

 

「はい」

 

「本人を見ながら作ったのか?」

 

「はい。旅の途中で、本人を見ながら少しずつ形を整えました」

 

ザノバの呼吸が荒くなった。

 

実在する人物を、ここまで小さな形へ正確に写したことが、彼にとっては特別な意味を持つらしい。

 

本人が目の前にいる。

 

人形と実物を比較できる。

 

そのことに、耐えられないほど興奮しているようだった。

 

次の瞬間、その場へ膝をついた。

 

「師匠!」

 

額が床へぶつかるほど、深く頭を下げる。

 

「余を弟子にしてくだされ!」

 

店主が目を丸くしている。

 

王子が旅人の子供へ頭を下げるなど、想像していなかったのだろう。

 

エリスも、突然のことに言葉を失っていた。

 

ルイジェルドだけが、表情を変えずにザノバを見下ろしている。

 

俺自身も、ここまでの反応は予想していなかった。

 

人形を見せれば話を聞いてもらえるとは思っていた。

 

うまくいけば、王宮へ入るための紹介を得られるかもしれないとも考えた。

 

だが、会って数分の王子から師匠と呼ばれるとは考えていない。

 

「待ってください。僕たちは、弟子を取るために来たわけではありません」

 

「余にできることなら何でもする!」

 

「その言葉を軽く使わないでください」

 

何でもするという約束は危険だ。

 

王子であるザノバが本気にすれば、どれほど大きな権限を使うか分からない。

 

「ならば、余ができる範囲で何でもする!」

 

すぐに言い直した。

 

人形に関係することなら、こちらの話を聞く能力は残っているらしい。

 

少なくとも、言葉の意味を理解し、修正することはできる。

 

「僕の家族が、パックス王子に拘束されています」

 

ザノバの表情が止まった。

 

興味を失ったわけではない。

 

人形以外の話を、どのように受け止めればよいか分からないようだった。

 

「助けていただけるなら、弟子入りについて真剣に考えます」

 

「その家族を助ければ、教えてくださるのか?」

 

「はい。ただし、誰かを殺して解決する方法には協力できません」

 

「なぜだ?」

 

本気で分からない顔だった。

 

ザノバにとって、人を殺すことは、問題を解決する方法の一つにすぎないのかもしれない。

 

邪魔なら首を取る。

 

それで動かなくなれば終わり。

 

「家族を助けるために、別の家族を失わせたくないからです。命令へ従っている兵士たちも、家族を人質に取られている可能性があります」

 

俺は自分の気持ちを整理しながら続けた。

 

パックスを止めるためとはいえ、脅されている兵士まで殺してしまえば、その家族は二度と帰ってこない。

 

「それに、リーリャとアイシャを助けた場所が、誰かの死体で汚れているのは嫌です」

 

相手が本気で殺しに来るなら、守るために命を奪わなければならない状況もあるだろう。

 

それでも、最初から殺すことを前提にしたくはなかった。

 

目的はパックスへ復讐することではない。

 

リーリャとアイシャを無事に救い、同じように脅されている者たちも解放することだ。

 

ザノバはしばらく考えた。

 

人形と俺を交互に見る。

 

「師匠が殺すなと言うのであれば、殺さぬ」

 

理由を理解したかは分からない。

 

人の命を大切にしたいという考えへ、納得したようにも見えない。

 

だが、師匠と認めた相手の条件として受け入れたらしい。

 

今は、それでもよかった。

 

ザノバの怪力で首を取られては、止める方が難しい。

 

ザノバは立ち上がり、入口にいた兵士へ命じた。

 

「ジンジャーを呼べ」

 

 

ジンジャーと呼ばれた女騎士は、栗色の髪を後ろで束ねていた。

 

姿勢に隙がなく、腰には剣を帯びている。

 

作業場へ入ると、ザノバへ騎士の礼を取った。

 

「お呼びでしょうか、ザノバ殿下」

 

「パックスが、師匠の家族を拘束しているそうだ」

 

ジンジャーの表情が僅かに動く。

 

驚いたというより、恐れていたことを突然言葉にされた顔だった。

 

すぐに元へ戻したが、レイネは見逃さなかった。

 

「ご存じなのですね」

 

レイネが尋ねる。

 

「何のことでしょうか」

 

ジンジャーは否定した。

 

声にも表情にも、ほとんど動揺を残していない。

 

だが、レイネが見間違えるとは思えなかった。

 

「リーリャ・グレイラット様と、その娘アイシャ様についてでございます」

 

ジンジャーの手が、腰の剣へ僅かに近づく。

 

敵意ではない。

 

名前を聞いた瞬間、反射的に緊張したのだろう。

 

アイシャが逃げたことを知っている。

 

あるいは、兵士たちが捜していることも知っている。

 

「アイシャ様は、現在こちらで保護しております」

 

レイネは続けた。

 

「王宮の兵士が追っておられましたが、お怪我はございません」

 

「保護した……?」

 

ジンジャーの顔へ、安堵が浮かびかけた。

 

一瞬だけ目元が緩み、息が漏れた。

 

その感情を隠そうとしたこと自体が、答えになっていた。

 

ジンジャーは、アイシャが無事であることを喜んでいる。

 

敵ではない可能性が高い。

 

「ジンジャー」

 

ザノバが呼ぶ。

 

「知っていることを話せ」

 

「しかし――」

 

「師匠の家族を助けるためだ」

 

ザノバは人形を胸へ抱えていた。

 

壊さないよう、両腕で大切に抱いている。

 

今の彼にとっては、国家の事情よりも、師匠と人形の方が優先されているらしい。

 

ジンジャーは唇を強く結んだ。

 

話したくないのではない。

 

話せないのだ。

 

「話せば、ご家族が危険になるのですね」

 

レイネが静かに尋ねる。

 

ジンジャーは目を見開いた。

 

「兵士の方々が命令へ逆らえない理由も、同じでございますか?」

 

長い沈黙の後、ジンジャーが頷いた。

 

「パックス殿下は、裏町の奴隷商人を利用しています」

 

低い声だった。

 

誰かに聞かれれば、家族が危険になる。

 

その恐怖が、今も声へ残っている。

 

「私や、命令へ逆らおうとした兵士たちの家族を拉致し、王都北側の旧倉庫街へ監禁しています。逆らえば、一人ずつ殺すと」

 

アイシャから聞いた話と一致する。

 

兵士は忠誠心から従っていたのではない。

 

家族の命を握られ、逆らえなかった。

 

「場所は特定できていますか?」

 

俺が尋ねる。

 

「倉庫街までは突き止めています。人質を運んだ馬車を、部下が途中まで追いました」

 

「建物までは?」

 

「三棟のうち、いずれかです。警戒が厳しく、それ以上近づけば、こちらが場所を調べていると知られる恐れがありました」

 

場所は絞れている。

 

だが、内部の人数も構造も分からない。

 

その方が自然だった。

 

家族を人質に取られている中で、何度も偵察できるはずがない。

 

調べていると知られれば、見せしめとして誰かを殺される可能性もある。

 

「リーリャは、どこにいますか?」

 

「パックス殿下の居住区です。普段は北側の使用人棟におりますが、アイシャ様が逃げた今は、殿下の部屋へ移されている可能性があります」

 

アイシャが逃げた。

 

外部へ助けを求めようとしている。

 

パックスも、リーリャをより厳重に監視するだろう。

 

ジンジャーはそこで一度言葉を切った。

 

次に話す内容を口にすることへ、迷っている。

 

「パックス殿下は、ロキシー殿が戻った時に備え、魔術師の魔力を封じる部屋を用意させております」

 

俺の背中に冷たいものが走った。

 

「リーリャを、その部屋へ?」

 

「はい。リーリャ様を見せ、助けたければ中へ入れと迫るつもりです」

 

人神は、王宮にいる知り合いへ手紙を出すよう勧めてきた。

 

何も確認せずに手紙を送り、その指示に従って一人で王宮へ行けば、俺もその部屋へ誘い込まれていたかもしれない。

 

ロキシー先生がいないと知らず、先生へ手紙を出す。

 

手紙を受け取ったパックスが、ロキシーの弟子である俺を呼び出す。

 

リーリャを見せられ、一人で入れと言われる。

 

魔力を封じられ、捕らえられる。

 

偶然とは思えないほど、人神が示した方法とパックスの罠がつながっていた。

 

今は結論を出す必要はない。

 

人神がどこまで知っていたのかを考えても、答えは出ない。

 

ただ、罠が実在することだけは覚えておく。

 

「その部屋の場所は分かりますか?」

 

「はい。パックス殿下の私室に隣接した応接室です」

 

レイネが地図へ視線を落とす。

 

アイシャが描いた王宮内部の簡単な図と、ジンジャーの説明を重ねている。

 

「実際の術式を確認できれば、作動範囲と起点を調べられる可能性がございます」

 

「解除できますか?」

 

「見ていない段階では、お約束できません」

 

レイネはすぐには断言しなかった。

 

できないことを、できるとは言わない。

 

安心させるためだけに、解除できると約束しない。

 

その返事を含めて、救出方法を考えればよい。

 

「まず、人質になっているご家族を助けます」

 

俺は地図を見ながら答えた。

 

自分の怒りや焦りから、意識を計画へ戻す。

 

「家族が安全になれば、兵士たちはパックス王子へ従う必要がなくなります。その後、ザノバ王子の権限でリーリャの解放を求めます」

 

先に王宮へ行けば、家族を人質にされた兵士たちが立ちはだかる。

 

彼らを傷つけずに進むのは難しい。

 

それなら、命令へ従う理由そのものをなくす。

 

「パックスが拒否したら?」

 

エリスが尋ねる。

 

「拒否すると思います」

 

リーリャを長期間拘束し、ロキシー先生を呼び戻す道具にしようとしていた。

 

簡単な要求で解放するとは思えない。

 

「なら、結局戦うのね」

 

「戦う可能性はあります。ただし、先に人質を助ければ、相手にしなければならないのは、パックス王子へ自分から従っている者だけになります」

 

理由を聞き、エリスは頷いた。

 

「分かったわ。最初に人質を助けましょう」

 

怒りは消えていない。

 

それでも、リーリャを助けるために必要な順番を受け入れてくれた。

 

ルイジェルドが地図へ目を向ける。

 

「倉庫の周囲は、俺が確認する」

 

「お願いします。人数と人質の位置が分かるまでは、突入しません」

 

第三の眼があれば、建物の外からでも内部の人間の位置を確認できる。

 

地下がある場合にも、人の気配を探れる。

 

ジンジャーが知っているのは、倉庫街の位置と候補の建物だけだ。

 

警備の人数や地下の有無は、現地で調べなければならない。

 

「夜まで待ちましょう」

 

俺が言う。

 

今すぐ動きたい。

 

だが、明るい時間に倉庫街へ近づけば、こちらの人数や目的を知られる可能性が高い。

 

「暗くなってからルイジェルドさんに周囲を確認してもらい、正確な場所と人数が分かってから動きます」

 

全員が頷いた。

 

 

アイシャには、計画を説明した。

 

自分も行くと言い張ったが、危険な場所へ連れていくわけにはいかない。

 

「私は王宮の中を知っています」

 

「だから、地図を描いてもらいました」

 

「人質になっている人の中には、知っている子もいるかもしれません」

 

「助け出した後に、その子たちを安心させてあげてください」

 

一つずつ理由を伝える。

 

危ないから駄目だと、それだけで終わらせたくなかった。

 

アイシャが役に立たないから残すのではない。

 

既に必要な情報を教えてくれた。

 

さらに、救出した人々を迎える役目もある。

 

それでも、アイシャは悔しそうだった。

 

小さな手を膝の上で握っている。

 

守られるだけの立場を嫌がっている。

 

その気持ちは分かる。

 

自分の母親が危険な場所にいるのに、宿で待つことしかできないと言われれば、納得するのは難しい。

 

何もできず、ただ結果を待つ時間が苦しいことも分かる。

 

「アイシャ」

 

俺は彼女と同じ高さになるよう、膝をついた。

 

「君が王宮から逃げ、手紙を出そうとしなければ、僕たちはリーリャがいることを確認できませんでした」

 

「でも、手紙は破られました」

 

「それでも、君が動いたから僕たちと会えました」

 

結果だけを見れば、手紙は届いていない。

 

父さんへ助けを求めることには失敗した。

 

それでも、アイシャが王宮から逃げなければ、俺たちはギルドで彼女を見つけられなかった。

 

兵士が郵便窓口を監視していることも。

 

リーリャがパックスに拘束されていることも。

 

兵士たちの家族が人質になっていることも分からなかった。

 

アイシャの行動が無駄だったとは思わない。

 

「君は既に、リーリャを助けるために大きな役割を果たしています」

 

アイシャの目が僅かに揺れた。

 

自分の行動が失敗ではなかったと言われるとは思っていなかったのかもしれない。

 

「今夜は、ここで待っていてください。助け出した人たちが来た時、王宮のことを知っている君がいれば安心できます」

 

知らない兵士の詰所へ連れてこられた子供たちは、怯えているだろう。

 

その中に、王宮でアイシャと顔を合わせた者がいれば、彼女の姿を見て安心できる。

 

待つことにも、役割がある。

 

そう伝えると、アイシャはしばらく考えた後で頷いた。

 

完全に納得したわけではないだろう。

 

それでも、自分に任された役割を受け入れてくれた。

 

「必ず、お母さんを連れて帰ってきてください」

 

「約束します」

 

これから何が起きるかは分からない。

 

魔力を封じる結界。

 

王宮の兵士。

 

パックスの護衛。

 

救出が簡単だとは思っていない。

 

それでも、俺たちは既に情報を集め、協力者を得て、順番を決めている。

 

根拠のない強がりではない。

 

全員で成功させるために動くという約束だ。

 

「必ず助けます」

 

 

夜。

 

俺たちは、王都北側の旧倉庫街へ向かった。

 

俺、エリス、レイネ、ルイジェルド。

 

それにジンジャーと、家族を人質に取られている兵士が二人。

 

ザノバは王宮へ戻り、必要な時に第三王子として兵士へ命令できるよう準備している。

 

古い倉庫が並ぶ一帯へ近づく前に、ルイジェルドが一人で先へ向かった。

 

暗闇へ溶けるように姿が消える。

 

俺たちは建物の陰で待つ。

 

場所を間違えれば、関係のない倉庫へ踏み込むことになる。

 

人質の位置を確認せず攻撃すれば、相手に盾として利用される可能性もある。

 

だから、ルイジェルドの確認が終わるまでは動かない。

 

待っている時間が長く感じることと、今すぐ動くべきかどうかは別の問題だった。

 

夜風が冷たい。

 

遠くで馬車の音が聞こえる。

 

頭の中へ、いくつかの可能性が浮かぶ。

 

人質が移されている場合。

 

倉庫内で異変が起きている場合。

 

こちらの動きを知られている場合。

 

どの状況でも、ルイジェルドが持ち帰る情報によって対応を変えればよい。

 

やがて、暗闇からルイジェルドが戻ってきた。

 

足音すらほとんど聞こえなかった。

 

「中央の倉庫だ」

 

全員が顔を上げる。

 

「外に四人。中に八人いる。地下にも人の気配がある。三十人ほどだ」

 

三十人。

 

人質の数として、ジンジャーが聞いていた人数と大きく違わない。

 

ジンジャーの肩から、僅かに力が抜けた。

 

家族がまだ生きている可能性が高い。

 

「地下の見張りは?」

 

「階段の近くに二人いる」

 

ここで初めて、正確な人数と配置が分かった。

 

「最初に外の見張りを止めます」

 

俺は杖を構えた。

 

手には僅かに汗が滲んでいる。

 

殺す必要はない。

 

だが、加減を誤り、警報を上げられれば、人質が危険になる。

 

塀の内側へ薄い霧を発生させる。

 

冷気を混ぜ、吸い込めば身体が重くなる程度に調整する。視界も奪える。

 

肺を凍らせるほど冷たくはしない。

 

意識を失わせるほど濃くもしない。

 

判断と動きを少し遅らせるだけだ。

 

見張りが異変に気づいた時には、ルイジェルドが塀を越えていた。

 

一人の首筋へ槍の石突きを当てる。

 

声を出す前に意識を失わせた。

 

相手が倒れる前に身体を支え、地面へ静かに横たえる。

 

エリスも反対側から入り、二人目の腹へ剣の柄を打ち込む。

 

男が息を詰まらせ、膝をつく。

 

首の横へ剣の峰を当て、完全に抵抗できなくする。

 

三人目と四人目が武器を抜いた。

 

足元の土が柔らかく崩れ、二人の脚が膝まで沈む。

 

俺が作った落とし穴だ。

 

転ばせるのではなく、足だけを固定する。

 

「動かないでください」

 

俺は告げた。

 

「抵抗しなければ、怪我はさせません」

 

一人が弓へ手を伸ばした。

 

その手のすぐ横へ、細い石の針を突き立てる。

 

指一本分ずれていれば、手を貫いていた。

 

動けば当てられる。

 

それを示した。

 

二人は武器を置いた。

 

倉庫の中から、物音を聞いた残りの私兵が飛び出してくる。

 

レイネは正面へ出なかった。

 

建物の横へ回り、窓と裏口を確認している。

 

正面の相手を全員で倒している間に、逃げた者が王宮へ知らせに走れば、リーリャを移される。

 

それを防ぐためだ。

 

一人が裏口から出た瞬間、足元へ細い水流が走った。

 

男は足を滑らせ、地面へ倒れる。

 

レイネは剣を蹴り離し、関節を押さえて動きを止めた。

 

大きな魔術は使わない。

 

異常な身体能力も見せない。

 

強すぎる力は見せない。

 

だが、必要な相手を、必要な時間だけ確実に止めている。

 

倉庫の中では、エリスとルイジェルドが私兵を無力化していく。

 

エリスは剣を抜いている。

 

しかし、刃ではなく平らな部分と柄だけを使っていた。

 

一人の武器を弾き、腹へ柄を当てる。

 

次の相手の足を払い、背中へ峰を突きつける。

 

一人を倒すたび、怒りを抑えていることが伝わる。

 

地下に子供まで捕らえられていると知ったからこそ、本当は斬りたいのだろう。

 

それでも、俺たちが決めた方法を守っている。

 

相手が命を奪おうとしない限り、殺さない。

 

十分も掛からなかった。

 

私兵を拘束し、地下へ降りる。

 

階段は狭く、湿った石の匂いがした。

 

空気も冷たい。

 

奥から、小さな咳と衣擦れの音が聞こえる。

 

鉄格子の向こうには、女性や老人、子供たちが身を寄せ合っている。

 

薄い毛布。

 

水の入った桶。

 

僅かな食料。

 

人間が長期間過ごす場所ではない。

 

ジンジャーの姿を見た一人の少女が、立ち上がった。

 

「お姉ちゃん……?」

 

ジンジャーの呼吸が止まる。

 

剣を持っている時には崩れなかった表情が、一瞬で歪んだ。

 

「無事だったのね」

 

鉄格子へ駆け寄る。

 

鍵は、捕らえた私兵が持っていた。

 

手が震え、最初は鍵穴へうまく入らない。

 

扉が開くと、少女がジンジャーへ飛びつく。

 

ジンジャーは剣を捨て、両腕で強く抱きしめた。

 

泣き声を抑えることはできなかった。

 

家族を人質に取られながらも騎士として振る舞い、何も知らない顔を続けていた。

 

ようやく、生きている妹へ触れられた。

 

周囲の兵士たちも、自分の家族を見つけている。

 

誰かが泣く。

 

誰かが名前を呼ぶ。

 

誰かが何度も、生きていたと確かめる。

 

子供を抱き上げ、身体のどこにも傷がないか確認する者。

 

老いた母親の手を握り、謝り続ける者。

 

俺はその光景を見ながら、胸の奥へ重いものが沈むのを感じた。

 

この人たちは、長い間、家族を失う恐怖に支配されていた。

 

命令へ逆らえば殺される。

 

従い続けても、いつ解放されるか分からない。

 

家族が無事かどうかさえ、確かめられなかった。

 

兵士を単純な敵と断定せず、人質の救出を先に選んだ判断は正しかった。

 

それは俺一人の発想ではない。

 

アイシャの証言。

 

レイネが見抜いた兵士たちの動揺。

 

ルイジェルドが確認した配置。

 

ジンジャーが集めた情報。

 

全てを合わせたからこそ選べた方法だった。

 

今は、この結果を次の救出へつなげる。

 

「全員を安全な場所へ移します」

 

俺は声を張った。

 

再会へ浸る時間を奪いたいわけではない。

 

それでも、王宮へ動きを知られる前に移動しなければならない。

 

「まだ終わっていません。王宮に残っている人を助けるため、動ける方は協力してください」

 

泣いていた兵士たちが、少しずつ顔を上げた。

 

家族は助かった。

 

今度は、自分たちと同じように拘束されているリーリャを助ける番だ。

 

 

人質たちは、ジンジャーが用意した兵士たちの詰所へ移した。

 

王宮と旧倉庫街の中間にあり、パックス個人の私兵が勝手に入ることは難しい場所だった。

 

家族を取り戻した兵士たちは、もうパックスの命令へ従う必要がない。

 

一人、また一人と協力する者が増えていく。

 

それまで口を閉ざしていた者も、パックスがどのように命令し、誰を脅していたかを話し始めた。

 

アイシャも詰所へ移動していた。

 

解放された子供の中に、王宮で顔を合わせた者がいたらしい。

 

互いの姿を見つけると、二人は何も言わずに抱き合った。

 

アイシャを宿へ残すより、人質たちのいる詰所へ移した方が安全だと判断したのだろう。

 

約束した役目も果たしている。

 

不安に泣く子供へ声を掛け、王宮から来たアイシャだと名乗り、もう兵士は敵ではないと説明していた。

 

俺たちはアイシャを兵士たちへ任せ、王宮へ向かった。

 

必ずリーリャを連れて戻る。

 

先ほど交わした約束が、胸へ重く残っていた。

 

ザノバは既に王宮へ戻っていた。

 

第三王子の名で、パックスへ面会を求めている。

 

王宮の門で止められることはなかった。

 

先頭にはザノバ。

 

その後ろにジンジャー。

 

俺たち四人と、家族を取り戻した兵士たちが続く。

 

王宮内では、ルイジェルドをルードと呼ぶ。

 

事情を知らない者へ、正体を明かす必要はない。

 

パックスの居住区へ近づくにつれ、ルイジェルドの表情が険しくなった。

 

周囲の人間の位置を、第三の眼で確認している。

 

「前方に十二人。扉の中に二人いる」

 

「女性は?」

 

尋ねる声が、自分でも分かるほど硬くなった。

 

「椅子に縛られている。もう一人は、子供だ」

 

女性。

 

リーリャである可能性が高い。

 

子供はパックスだろう。

 

生きている。

 

少なくとも、ルイジェルドには二人の気配が見えている。

 

廊下の先にいた兵士たちは、ザノバを見ると道を塞いだ。

 

「ザノバ殿下。こちらはパックス殿下の居住区です」

 

「リーリャという女を解放する」

 

ザノバは迷わず命じた。

 

王子らしい威圧感というより、自分が決めたことを当然のように告げている。

 

「パックス殿下の許可が必要です」

 

「余は第三王子だ。パックスは第七王子。どちらの命令を優先する?」

 

兵士たちの顔が強張る。

 

立場だけなら、ザノバが上だ。

 

本来であれば、第三王子の命令を拒否する理由はない。

 

だが、パックスには家族を人質に取られている。

 

ザノバへ従えば、自分の家族が殺されると思っている。

 

「家族なら、既に助け出した」

 

ジンジャーが告げた。

 

廊下全体へ聞こえるよう、はっきりと声を出す。

 

「旧倉庫街に捕らえられていた者は、全員無事だ」

 

兵士たちの間へ動揺が広がる。

 

「本当なのか?」

 

「自分の目で確かめたい者は、北の詰所へ行け。今なら誰も止めない」

 

一人の兵士が剣を床へ置いた。

 

金属音が廊下へ響く。

 

「俺の家族も……?」

 

「名簿に名前があれば保護されている」

 

次々と武器が下ろされていく。

 

自分からパックスへ従っていた者ではない。

 

家族を守るために、命令へ逆らえなかった者たちだ。

 

武器を置いた兵士の中には、その場へ膝をつく者もいた。

 

家族が無事だと聞き、力が抜けたのだろう。

 

最後の一人が剣を置いた時、部屋の中から怒鳴り声が響いた。

 

「何をしている! そいつらを捕らえろ!」

 

扉が開く。

 

太った少年が、顔を赤くして立っていた。

 

年齢は俺と大きく変わらないように見える。

 

その後ろには、椅子へ縛りつけられた女性がいる。

 

髪は乱れ、顔は痩せている。

 

頬には、古い痣のような跡も残っていた。

 

それでも、見間違えるはずがなかった。

 

「リーリャ……」

 

名前が漏れた。

 

声が、自分のものではないように聞こえた。

 

リーリャが顔を上げる。

 

疲れ切っていた目が、大きく開かれた。

 

「ルーデウス様……?」

 

声を聞いた瞬間、胸の奥が強く締めつけられた。

 

生きていた。

 

本当に生きている。

 

怪我をしている。

 

痩せている。

 

拘束され、まともな食事も与えられていないことが見ただけで分かる。

 

それでも、生きて目の前にいる。

 

安堵で身体から力が抜けそうになった。

 

視界が僅かに滲む。

 

同時に、こんな姿にした相手への怒りが押し寄せる。

 

今すぐ駆け寄りたかった。

 

椅子の縄を切り、リーリャへ触れ、無事だと確かめたい。

 

だが、リーリャと俺たちの間には、床へ刻まれた魔法陣がある。

 

複雑な線が、部屋の床から壁へ続いている。

 

「お前がルーデウス・グレイラットか!」

 

パックスの顔に、驚きと喜びが同時に浮かぶ。

 

俺が来たことを恐れるのではなく、待ち望んでいた獲物が現れたように喜んでいる。

 

「本当に来た! ロキシーの弟子なら、必ずこの女を助けに来ると思っていたぞ!」

 

ロキシー先生本人ではなく、俺が来たことさえ、パックスには都合がよいらしい。

 

俺を捕まえれば、今度は俺を使ってロキシー先生を呼び戻せると考えているのかもしれない。

 

「リーリャを返してほしければ、一人で中へ入れ!」

 

俺は床を見る。

 

複雑な線が、部屋全体へ広がっている。

 

ただの装飾ではない。

 

魔力を流すための術式だ。

 

「入らないでくださいませ」

 

レイネが俺の腕へ手を添えた。

 

強くつかんだわけではない。

 

俺が踏み出すのを力ずくで止めたのではなく、解析が終わっていないことを合図するための手だった。

 

目は魔法陣へ向けられている。

 

「魔力を抑制する結界でございます。扉から二歩以上入れば、術式の内側へ入ります」

 

「分かりました。解析をお願いします」

 

リーリャを見ても、床の術式へ意識を残すことはできていた。

 

王宮へ入る前から罠を想定し、結界の確認はレイネへ任せると決めていたからだ。

 

感情を失ったわけではない。

 

今すぐ助けたい気持ちは、消えるどころか強くなっている。

 

だからこそ、救出を失敗させない手順を守る。

 

人神の助言どおり一人で来ていれば、解析を任せられる者はいなかった。

 

だが、俺は一人では来ていない。

 

パックスが用意した条件へ従う必要もなかった。

 

「聞こえなかったのか! 一人で入ってこい!」

 

「その床に、魔術師を捕らえるための結界がありますよね」

 

パックスの表情が固まる。

 

目が泳ぎ、すぐに怒りへ変わった。

 

「なぜ分かった!」

 

自分から認めた。

 

「何の準備もなく、魔術師へ一人で入れと言われれば、罠を疑います」

 

本当は、レイネが術式を詳しく見抜いてくれた。

 

だが、ここで彼女の知識や能力を詳しく教える必要はない。

 

「小賢しい!」

 

パックスはリーリャの髪をつかんだ。

 

乱暴に頭を引き上げる。

 

リーリャの顔が苦痛に歪む。

 

短剣を抜き、首元へ近づける。

 

刃が皮膚へ触れる寸前で止まった。

 

エリスが一歩踏み出す。

 

剣を握る手へ、力が入っている。

 

俺は腕を出して止めた。

 

「まだです」

 

「でも!」

 

「リーリャに刃が触れる前に助けます。結界を止めれば、エリスが最短で届きます。それまで待ってください」

 

エリスにも、ただ止まれと命令するのではなく、待つ理由と次に任せる役割を伝える。

 

エリスは歯を食いしばりながら足を止めた。

 

剣を握る手が震えている。

 

怒りだけではない。

 

間に合わなかったらどうしようという恐怖もあるのだろう。

 

俺も同じだった。

 

リーリャの首元にある刃から、目を離せない。

 

パックスの指が僅かに動くだけで、心臓が跳ねる。

 

それでも、今はレイネの解析を待つ。

 

エリスは突入へ備える。

 

ルイジェルドは護衛の位置を確認する。

 

俺は結界を破壊する準備をする。

 

全員が、自分の役割を果たしていた。

 

レイネは魔法陣を見つめたまま、術式の線を追う。

 

床。

 

壁。

 

柱。

 

扉の上。

 

視線だけではなく、僅かな魔力を流して反応を確かめているのかもしれない。

 

「結界の起点は三か所でございます」

 

小さな声で告げる。

 

パックスへ聞かれない程度の声量だった。

 

「右側の柱の内側。扉の上。左奥の壁の下部。三つを同時に破壊すれば、結界は停止いたします」

 

三か所。

 

一つずつ壊せば、途中で気づかれ、別の起点から結界を維持される可能性がある。

 

「壁や天井は崩れませんか?」

 

「術式が刻まれた石だけを壊せるのであれば、問題ございません」

 

できる。

 

大きな威力は必要ない。

 

位置は分かった。

 

俺は杖を握り、三か所へ同時に魔力を伸ばす。

 

外から大きな岩砲弾を撃ち込めば、リーリャまで傷つける。

 

天井が崩れれば、全員が巻き込まれる。

 

石の内部だけを崩す。

 

右の柱。

 

扉の上。

 

左奥の壁。

 

術式が刻まれた薄い石板へ、細い亀裂を走らせる。

 

魔眼は使わない。

 

三か所の石へ同時に意識を向けるだけで精いっぱいだ。

 

集中しろ。

 

リーリャを見続けたい気持ちを、術式へ向ける集中力へ変える。

 

パックスの短剣を止めるためにも、まず結界を消す。

 

少しでも魔力が漏れれば、パックスに気づかれる。

 

石の表面は動かさず、内部へ圧力を掛ける。

 

「今です」

 

レイネの声と同時に、三つの石板が内側から砕けた。

 

小さな破裂音が重なる。

 

床の魔法陣から光が消える。

 

魔力を押さえつけるような、僅かな圧迫感もなくなった。

 

「結界が停止いたしました」

 

エリスが飛び出した。

 

パックスが短剣を動かすより早く、部屋へ踏み込む。

 

床を蹴った音が一度響いた時には、既にリーリャの前へ到達していた。

 

剣の峰で手首を打つ。

 

パックスの指が開き、短剣が床へ落ちた。

 

そのままリーリャの背後へ回り、拘束を切断する。

 

縄を切る刃だけは、リーリャの身体へ触れないよう慎重だった。

 

同時に、ルイジェルドが部屋へ入った。

 

パックスの護衛が剣を抜く前に、槍の石突きで二人の手を打つ。

 

骨を砕かない程度。

 

それでも、武器を握り続けられない強さだった。

 

剣が落ちる。

 

誰も死んでいない。

 

リーリャから刃が離れた。

 

縄も切れた。

 

その瞬間、胸の奥へ詰まっていた息をようやく吐き出せた。

 

パックスが後退する。

 

「来るな! 余は王子だぞ!」

 

後退したパックスの肩を、ザノバがつかんだ。

 

逃げようとした身体が、一瞬で止まる。

 

「パックス」

 

「兄上……?」

 

「師匠の家族へ、何をした」

 

ザノバの指が肩へ食い込み、パックスの顔から血の気が引いていく。

 

「い、痛い! 放してください、兄上!」

 

「放せば逃げるであろう」

 

ザノバはそう答えると、パックスの両腕を背中側へ回し、抵抗できないよう床へ押さえつけた。

 

怪力を使えば、腕を簡単に折ることもできただろう。

 

その動きには一切の迷いがなかったが、必要以上の力は加えていない。人形工房で俺が告げた「誰も殺さない」という条件を、きちんと覚えているらしい。

 

「師匠との約束ゆえ、首は取らぬ。だが、おとなしくしてもらうぞ」

 

「ふざけるな! 余は第七王子だぞ! 兄上といえど、このような真似が許されると――」

 

「師匠の家族を苦しめた者の言葉など、聞く必要はない」

 

ザノバの声には、怒鳴り声よりも重い圧力があった。

 

パックスはなおも身体を捩ったが、怪力を持つザノバの拘束から逃れられるはずもない。

 

俺はその様子を見て、僅かに息を吐いた。

 

パックスへ同情する気持ちはない。

 

リーリャとアイシャを拘束し、兵士たちの家族まで人質にした。

 

それでも、ザノバが怒りのまま命を奪わず、最初に決めた条件を守ってくれたことには安堵した。

 

ジンジャーが前へ出る。

 

先ほどまで人質を恐れて口を閉ざしていた騎士ではない。

 

家族を取り戻し、自分の意思で告発する騎士の顔だった。

 

「パックス殿下。兵士とその家族の監禁、リーリャ・グレイラット様とアイシャ様の不当拘束について、国王陛下へ報告いたします」

 

「黙れ! 家族がどうなっても――」

 

「全員、既に保護されています」

 

その一言で、パックスの表情から最後の余裕が消えた。

 

脅すために使える人質は、もういない。

 

部屋の外にいる兵士たちも、もう命令には従わない。

 

パックスは、一人になった。

 

 

リーリャは、自分の足で立つことができた。

 

縄を解かれた後、最初は椅子から崩れ落ちそうになったが、エリスが身体を支えた。

 

身体には打撲と古い傷があり、十分な食事も取れていなかった。

 

手首には、拘束の跡が赤く残っている。

 

だが、命に関わる怪我はない。

 

レイネが治癒魔術を施す間、俺はリーリャの前へ膝をついた。

 

近くで見ると、顔の痣や痩せ方がさらに目立つ。

 

助けるまでに時間が掛かったことへの悔しさはある。

 

だが、今ここで自分を責め続けても、リーリャの回復にはつながらない。

 

まず無事を伝え、安心させる。

 

必要な治療と休息を用意する。

 

それが今の俺にできることだ。

 

「遅くなって、すみません」

 

リーリャは首を横へ振る。

 

「いいえ……ルーデウス様」

 

声が震えていた。

 

「ご無事で……本当に、ご無事で……」

 

言葉が続かない。

 

頬を涙が伝う。

 

俺を心配している。

 

自分がこれほど傷つけられているのに、最初に俺が無事だったことを喜んでいる。

 

リーリャは、俺が魔大陸へ転移したことも、どこで何をしていたのかも知らなかった。

 

二年間、俺が生きているかどうかも分からないまま、自分とアイシャを守り続けていた。

 

胸の奥が痛んだ。

 

リーリャは床へ膝をつこうとした。

 

俺は慌てて肩を支える。

 

「今は、頭を下げないでください」

 

身体が弱っている。

 

立っているだけでもつらいはずだ。

 

「ですが、私はまた、ルーデウス様へご迷惑を……」

 

「迷惑ではありません」

 

はっきりと答える。

 

考える時間は必要なかった。

 

「家族を助けに来ただけです」

 

家族。

 

口にしてから、少しだけ恥ずかしくなった。

 

リーリャは、俺の母親ではない。

 

だが、幼い頃から同じ家で暮らし、俺を育て、看病し、守ってくれた。

 

血のつながりだけで家族を決める必要はない。

 

それでも、本人へ直接言うと照れくさかった。

 

言い直すつもりはなかった。

 

リーリャの身体が、小さく震える。

 

目から、さらに涙が溢れた。

 

「アイシャは無事です」

 

「アイシャが……?」

 

「王宮から逃げた後、僕たちと会いました。今は安全な場所で待っています」

 

「本当に……」

 

「父さんとノルンも無事です。ミリシオンで会いました」

 

リーリャは口元を両手で覆った。

 

「パウロ様も、ノルンお嬢様も……」

 

「はい。父さんは、ずっとリーリャとアイシャを捜しています」

 

父さんの捜索団。

 

壁一面の地図。

 

毎日届く名簿。

 

リーリャとアイシャの名前を、父さんも何度探したのだろう。

 

リーリャの目から、さらに涙が溢れた。

 

生き延びるために張りつめていたものが、ようやく崩れたのだろう。

 

夫も、娘も、俺も生きている。

 

一人で耐え続ける必要はないと、初めて理解できたのかもしれない。

 

レイネが、リーリャの隣へ膝をつく。

 

治療を続けながら、静かに呼びかける。

 

「リーリャ様」

 

リーリャが顔を上げた。

 

白い髪と赤い瞳を見た瞬間、息を呑む。

 

「レイネ様……?」

 

「はい。お久しゅうございます」

 

「生きて……いらしたのですね」

 

「リーリャ様も」

 

短い言葉だった。

 

二人がどれほど互いの無事を願っていたのかは、表情だけで伝わった。

 

レイネはリーリャと別れた後、各地で領民を助けながら俺を追っていた。

 

リーリャも、王宮へ拘束されながら、俺やレイネの無事をアイシャへ話していた。

 

リーリャが手を伸ばす。

 

細くなった指が、レイネへ向かう。

 

レイネはその手を、両手で包んだ。

 

赤い瞳の奥に、涙が薄く浮かんでいる。

 

「アイシャ様から、私のことをお話しくださっていたと伺いました」

 

「当然でございます」

 

リーリャは泣きながら、僅かに笑った。

 

「ブエナ村で共に働き、ルーデウス様を見守っていた方を、忘れるはずがございません」

 

「ありがとうございます」

 

レイネの声も、僅かに震えていた。

 

普段なら、どれほど感情が揺れても、侍女としての姿勢を崩さない。

 

今は、手を握る指へ僅かに力が入っている。

 

それ以上は、誰も言葉を続けなかった。

 

今は、再会できたことだけで十分だった。

 

 

宿へ戻ると、アイシャが扉まで走ってきた。

 

廊下を走る足音が聞こえた直後、扉が勢いよく開く。

 

「お母さん!」

 

リーリャも足を速める。

 

弱った身体で、できる限り早く娘へ近づく。

 

二人は、部屋の中央で強く抱き合った。

 

「アイシャ……!」

 

「お母さん、お母さん……!」

 

アイシャは何度も同じ言葉を繰り返した。

 

兵士から逃げた時にも、俺たちを疑っていた時にも、できる限り冷静に振る舞っていた。

 

父さんとノルンが生きていると知った時でさえ、声を抑えて泣いていた。

 

母親の腕の中へ入った瞬間、六歳の子供へ戻った。

 

リーリャも、アイシャの髪へ何度も頬を寄せている。

 

身体のどこにも怪我がないか確かめるよう、背中や腕へ触れる。

 

誰も二人へ話しかけなかった。

 

泣く時間を急かす必要はない。

 

説明を求める必要もない。

 

俺は少し離れた場所から、二人の姿を見ていた。

 

助けられた。

 

その実感が、遅れて胸へ広がっていく。

 

王宮でリーリャを見た時には、まだ救出を完了させるために気を張っていた。

 

宿へ戻る途中も、追跡がないかを確認し続けていた。

 

今は、アイシャが母親へしがみつき、リーリャがその背中を撫でている。

 

二人とも生きている。

 

同じ部屋にいる。

 

誰にも拘束されていない。

 

それだけで、身体から力が抜けそうだった。

 

俺は椅子へ座り、ようやく深く息を吐いた。

 

しばらくして、アイシャが顔を上げる。

 

目元は赤い。

 

それでも、先ほどより表情が柔らかくなっていた。

 

「お母さん。この人は、本当にお兄さまですか?」

 

俺を指さした。

 

まだ、最後の確認が残っていたらしい。

 

リーリャは涙を拭い、俺へ顔を向ける。

 

「はい。間違いございません」

 

迷いのない答えだった。

 

「本当に、三歳で中級魔術を使った人ですか?」

 

「はい」

 

「五歳で水聖級になった人ですか?」

 

「はい」

 

「七歳で貴族のお嬢様の家庭教師になった人ですか?」

 

「そのとおりでございます」

 

アイシャが俺を見る。

 

足元から頭まで、改めて確かめる。

 

「お母さんが、お兄さまは普通の人ではないと言っていた理由が分かりました」

 

褒められているのだろうか。

 

普通ではないという部分だけを聞くと、少し不安になる。

 

少なくとも、ようやく兄として認めてもらえたらしい。

 

そのことが、思っていた以上に嬉しかった。

 

胸の奥が温かくなり、表情が緩みそうになる。

 

「助けてくださって、ありがとうございました」

 

アイシャは深く頭を下げた。

 

六歳とは思えないほど、丁寧な礼だった。

 

「僕一人で助けたわけではありません」

 

俺は三人へ目を向ける。

 

自分の働きを否定するのではない。

 

ただ、実際に救出を成功させたのは全員の力だ。

 

「レイネが一緒に考え、結界を見つけてくれました。エリスとルイジェルドさんが戦ってくれました。ザノバ王子とジンジャーさん、それに王宮の兵士たちも協力してくれました」

 

俺は目的を整理し、必要な情報を集め、全員の役割を決めた。

 

だが、俺だけでは結界を解析できず、同時に全ての相手を止めることもできなかった。

 

全員がそれぞれの役割を果たしたから、誰も殺さずにリーリャを救出できた。

 

「それでも、お兄さまがシーローンへ来なければ、始まらなかったと思います」

 

アイシャは顔を上げた。

 

「ですから、お兄さまにもお礼を言います」

 

自分一人の功績ではない。

 

だが、自分がしたことまで否定する必要もない。

 

ミリシオンで父さんがレイネへ伝えた言葉を思い出した。

 

一人の仕事ではない。

 

それでよい。

 

「……はい。どういたしまして」

 

素直に受け取った。

 

アイシャの顔には、最初に会った時の警戒はもう残っていなかった。

 

お兄さま。

 

自然にそう呼ばれたことが、何より嬉しかった。

 

 

翌日。

 

王宮から、正式な調査が始まったという連絡が届いた。

 

パックスが行った拘束と脅迫については、兵士やその家族、奴隷商人から多数の証言が得られている。

 

倉庫から救出された人質。

 

リーリャとアイシャ。

 

人質を見張っていた私兵。

 

関係者が多く、すべてを隠すことはできない。

 

すぐに自由になる可能性は低い。

 

詳しい処分は、国王とほかの王子たちが決めることになった。

 

ザノバも、今回の騒動でパックスへ直接手を出したことについて、事情を聞かれているらしい。

 

第三王子とはいえ、弟を床へ押さえつけ、兵士を動かした。

 

何の説明もなく終わるわけではない。

 

それでも、昼過ぎには宿へ来た。

 

王宮での事情聴取より、人形を返すことを優先したようにも見える。

 

人形を、両手で大切そうに持っている。

 

「師匠」

 

呼び方は、完全に固定されていた。

 

「こちらを、お返しいたします」

 

人形を受け取る。

 

壊れている場所はない。

 

槍も、髪も、細かな部分まで預けた時のままだった。

 

失われずに戻ってきたことへ、思っていた以上に安堵した。

 

魔大陸で作った小さな像。

 

誰にも見せず鞄の底へ隠していた物。

 

作った時には、恥ずかしくて見せられない失敗作に近いと思っていた。

 

今では、あの旅が確かにあったことを示す物のように思える。

 

ルイジェルドと出会い、エリスと三人で旅をしていた時間。

 

俺たちが少しずつ家へ近づいてきた証拠。

 

「ありがとうございます」

 

「ところで、余を弟子にしてくださるというお話ですが」

 

忘れていなかった。

 

人形を返した直後に、本題へ入る。

 

「今すぐ、この国へ残って教えることはできません」

 

俺たちは旧フィットア領へ向かわなければならない。

 

父さんへリーリャとアイシャの無事を伝える方法も決めなければならない。

 

「ならば、余が師匠についていきます」

 

「王子が、簡単に国を出てはいけません」

 

国を出る許可。

 

護衛。

 

王族としての責任。

 

俺たちの馬車へ乗り、すぐ旅へ出られる立場ではない。

 

「では、国を追い出されればよいのですな」

 

「わざと問題を起こすのも駄目です」

 

自分から犯罪を起こし、追放されれば俺についていけると考えたらしい。

 

ザノバは困った顔をした。

 

「では、どうすれば弟子になれるのです?」

 

人形の作り方だけを教えるなら、条件を付ける必要はないのかもしれない。

 

だが、ザノバは人を殺すことへほとんど抵抗を持っていない。

 

師匠と呼ばれ、関わる以上、その部分を放置したくなかった。

 

「人形を大切にするのと同じように、人の命や気持ちも大切にしてください」

 

「人を?」

 

「はい」

 

「人と人形は違います」

 

「だからです。人形は黙っていますが、人は嫌なことをされれば苦しみます。壊れてから直せばよいというものでもありません」

 

人形は、腕が折れても作り直せる。

 

石でできていれば、魔術で修復することもできる。

 

だが、人は違う。

 

傷は治っても、苦しんだ記憶は消えない。

 

奪った命は戻らない。

 

ザノバは、すぐには答えなかった。

 

人形へ目を落とす。

 

俺が言っていることを、自分なりに理解しようとしているようだった。

 

「難しいですな」

 

「簡単な条件なら、弟子になるために出しません」

 

「なるほど」

 

ザノバは真剣な顔で頷いた。

 

「余は、人を壊さぬよう努力いたします」

 

努力という部分に不安はある。

 

人を壊さないという言い方も、まだ人形と同じように考えているように聞こえる。

 

だが、最初から完全に理解することはできないのだろう。

 

今までは、相手の気持ちを考える必要さえ感じていなかった。

 

努力すると言っただけでも、最初の一歩ではある。

 

「将来、落ち着いて人形を作れる場所で再会できたら、作り方を教えます」

 

「本当ですか!」

 

ザノバの顔が輝いた。

 

人を大切にするという話をしていた時とは、比べものにならないほど分かりやすい喜びだった。

 

「必ずですぞ、師匠!」

 

「はい。ただし、再会するために犯罪を起こしてはいけません」

 

「分かりました!」

 

返事だけは立派だった。

 

本当に理解したかは、これからの行動を見なければ分からない。

 

ザノバは何度も頭を下げ、人形へ名残惜しそうな視線を向けながら宿を出ていった。

 

人形を返したくないとは言わなかった。

 

欲しいから奪うこともしなかった。

 

少なくとも、俺の物だと理解し、大切に扱って返してくれた。

 

俺の手には、魔大陸で作った一体の人形が残った。

 

誰にも見せるつもりのなかった物が、ザノバと話すきっかけになり、リーリャを助けるための道を開いた。

 

夢で見たのは、アイシャが兵士に追われる光景までだった。

 

その先に何が待っているのか、どのように助けるべきなのかまでは、何も分かっていなかった。

 

人神が示したのは、少女の居場所と、曖昧な未来だけだ。

 

俺たちは現地で情報を集めた。

 

ロキシー先生が王宮を去ったことを確認した。

 

兵士がギルドを監視している理由を考えた。

 

アイシャの話を聞いた。

 

ザノバとジンジャーへ協力を求めた。

 

ルイジェルドが敵の数を確かめ、レイネが結界を調べ、エリスがリーリャを救い出した。

 

俺は得られた情報を整理し、何を先に救うべきかを決め、全員へ役割を任せた。

 

誰かへ判断を丸投げしたのではない。

 

一人で全てを抱えたのでもない。

 

それぞれが持つ力を使い、同じ目的へ向かう形を選んだ。

 

人神が示した手順へそのまま従わず、現地の事実を基に自分たちの方法を作ったからこそ、魔力を封じる部屋へ一人で入らずに済んだ。

 

部屋の中では、リーリャとアイシャが寄り添って眠っている。

 

アイシャは母親の服を握り、離さないまま眠っていた。

 

リーリャも、その手を包むように重ねている。

 

エリスも、二人が無事だったことへ安心したのか、隣の寝台で静かな寝息を立てていた。

 

普段より眠りが深い。

 

救出まで怒りと緊張を抱え続けていたのだろう。

 

窓際では、ルイジェルドが外を見張っている。

 

王宮から正式な調査が始まったとはいえ、完全に安全だと決まったわけではない。

 

レイネは、リーリャの傷と体調について記録をまとめていた。

 

明日以降、食事をどの程度増やすか。

 

古い傷へ追加の治療が必要か。

 

長旅へ耐えられる状態へ戻るまで、どれほど休ませるべきか。

 

俺は人形を布へ包み直す。

 

今度は、荷物の底へ隠す必要はない。

 

誰にも見せられない物ではなくなった。

 

「ルイジェルドさん」

 

「何だ」

 

「この人形は、僕が持っていてもいいですか?」

 

俺が作った物だ。

 

それでも、本人の姿を写した物である以上、改めて許可を得たかった。

 

ルイジェルドは、包みへ一度だけ目を向けた。

 

「ああ。お前が作った物だ」

 

「ありがとうございます」

 

人形を鞄へ戻す。

 

今度は底へ押し込まず、書類や硬い道具に潰されない場所へしまった。

 

旅はまだ終わっていない。

 

リーリャとアイシャを父さんの元へ送り届ける方法を決めなければならない。

 

俺たちとともに旧フィットア領へ向かうのか。

 

別の安全な護送隊を用意し、ミリシオンへ向かわせるのか。

 

リーリャの身体が回復してから、本人の意思も聞く必要がある。

 

旧フィットア領にも向かわなければならない。

 

アルフォンスから、エリスの家族やシルフィの消息を聞かなければならない。

 

その先で、何を知らされるのかも分からない。

 

母様も、まだ見つかっていない。

 

安心できることばかりではない。

 

それでも今夜は、再会できた家族の寝息を聞きながら眠ることができる。

 

リーリャがいる。

 

アイシャがいる。

 

エリスも。

 

ルイジェルドも。

 

レイネもいる。

 

その事実だけは、人神の意図を疑う必要もない。

 

未来が変わる可能性を考える必要もない。

 

俺たち自身が確かめ、考え、役割を果たし、助け出した現実だ。

 

今夜だけは、心から喜んでよいものだった。

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