ルーデウス視点
リーリャとアイシャを見送った後、俺たちは旧フィットア領へ向けて西進を続けた。
シーローン王国を離れてからの旅路は、魔大陸にいた頃と比べれば驚くほど安定していた。道沿いには宿場があり、数日ごとに水と食料を補給できる。地図へ記されていない魔物の縄張りを避けるため、何日も荒野を迂回する必要もない。
危険がなくなったわけではない。
盗賊や魔物の情報は確認しているし、夜の見張りも続けている。それでも、魔大陸での旅のように、少し判断を誤れば全員が死ぬという緊張を常に抱える必要はなかった。
身体は、少しずつ旅の負担から解放されていた。
だが、旧フィットア領へ近づくほど、心まで軽くなるわけではなかった。
町へ入るたび、エリスは冒険者ギルドへ向かった。
「フィットア領から戻ってきた人はいない?」
受付で尋ねる名前は、いつも同じだった。
フィリップ。
ヒルダ。
ギレーヌ。
該当する名前がなければ、エリスは短く礼を言って受付を離れる。以前のように、答えが得られるまで何度も食い下がることはない。情報を持っていない受付の人間を責めても、家族が見つかるわけではないと理解しているのだろう。
それでも、ギルドを出た直後のエリスは口数が少なくなる。
背筋は伸びている。
足取りも止まらない。
だが、いつもより強く握られた拳や、俺たちより僅かに先を歩こうとする姿を見ていると、何も感じていないはずがないと思った。
俺も、立ち寄った町ごとにシルフィと母様の名前を確かめている。
見つかってほしい。
生きているという情報がほしい。
けれど、死亡者の名簿から見つかることだけは望んでいない。
名簿を開くたび、名前があることを願いながら、同時に何も書かれていないことへ安堵する。矛盾した気持ちを抱えたまま、一枚ずつ確認しなければならなかった。
アルフォンスのもとへ到着すれば、旧フィットア領に集められた情報を確認できる。父さんも、まずは現地の記録を調べろと言っていた。
確かな情報を得る前から、最悪の結果だけを想像するべきではない。
そのことは分かっている。
それでも、不安を完全に消すことはできなかった。
俺たちは移動を続けながら、立ち寄った町、確認した名簿、聞き取った避難民の情報を記録した。アルフォンスが保管している記録と照合できるよう、日付と場所も細かく残していく。
レイネは記録の整理を手伝ってくれたが、最初から答えを渡してくることはなかった。
俺が書き終えた後で、日付の間違いを指摘する。
抜けている情報があれば、質問する。
だが、俺の代わりにすべてを書き直すことはしない。
ブエナ村を離れる前、俺が自分で考えられるように助言すると約束してくれた。あれから長い時間が経ったが、その距離は変わっていなかった。
俺の判断を奪わず、間違えた時には気づけるよう支える。
旅を始めた頃より、その意味を理解できるようになったと思う。
「明日からは、赤竜山脈の外縁へ入ります」
宿の部屋で地図を囲んでいた時、レイネが街道の先を指でなぞった。
「主要街道ではございますが、平地と比べれば道幅が狭く、崩落も起こりやすくなります。馬車の速度は落とした方がよろしいかと存じます」
「赤竜はいるの?」
エリスが身を乗り出した。
家族の情報が得られなかった直後より、声に僅かな力が戻っている。強い魔物と戦えるかもしれないという話へ、意識を切り替えたらしい。
「山脈の奥には生息しております。ただ、街道付近まで降りてくることは、ほとんどございません」
「来たら私が倒すわ」
「街道上で大型の飛竜と戦えば、馬が暴れる可能性がございます」
「だったら、馬車から離れたところで戦えばいいでしょう?」
「飛竜が襲来してから、戦場を選ぶ余裕があるとは限りません」
「来る前に見つければいいのよ」
「エリス様が発見と同時に飛びかからないとお約束くださるのであれば、検討いたします」
「約束はしないわ」
エリスが堂々と答えた。
俺は思わず笑ってしまった。
「何がおかしいのよ」
「レイネが検討すると言っているのに、約束しないのですね」
「だって、必要なら先に斬った方が早いでしょう?」
「必要かどうかを確認してからにしてください」
「分かってるわよ」
口では不満そうだったが、今のエリスは本当に何も考えず突撃するわけではない。
戦いへ入る前に、周囲を見る。
護衛対象がいるか。
逃げ遅れる人間がいないか。
俺やルイジェルドが何をしようとしているか。
そのうえで、自分が最も速く届く場所へ動く。
勢いの強さは変わっていない。
だが、その勢いをどこへ向けるべきかは、自分で選べるようになっていた。
「山道へ入った後は、俺が前方を見る」
ルイジェルドが地図を見ながら言った。
「お願いします、ルイジェルドさん。僕は馬車と後方を確認します」
「私は御者を務めさせていただきます」
「私は?」
エリスが俺たち三人を順番に見た。
「エリスには、僕と一緒に後方をお願いします。山道では、後ろから近づいてくる魔物や落石にも注意する必要があります」
「それならいいわ」
自分の役割が決まると、エリスはすぐに頷いた。
誰かに守られているだけではなく、自分にも全員を守る役割がある。
そう確認できれば、エリスは迷わない。
翌朝、俺たちは赤竜山脈へ続く街道へ入った。
◇
山道へ入ってから、道幅は次第に狭くなっていった。
片側は切り立った岩壁。
反対側は深い谷になっている。
街道として最低限の整備はされているものの、馬車同士が余裕を持ってすれ違える場所は少ない。路面にも大小の石が転がり、車輪が乗り上げるたびに荷台が揺れた。
昼を過ぎた頃、御者台にいたレイネが馬車を止めた。
「右後輪から、先ほどまでとは異なる音がしております」
俺も荷台を降り、車輪を確認する。
外側から見ただけでは、壊れているようには見えない。だが、車体を土魔術で僅かに浮かせて車輪を回すと、一定の場所で小さな軋みが聞こえた。
「軸でしょうか」
「いいえ。車輪の内側にある接合部分へ、亀裂が入っております」
レイネが指を差し入れ、破損箇所を確認する。
このまま走れば亀裂が広がり、車輪そのものが割れる可能性がある。平地であっても危険だが、山道で車輪を失えば、馬車ごと谷へ落ちかねない。
「修理できますか?」
「予備の部材がございますので、応急処置は可能でございます。ただし、作業中は車体を持ち上げておく必要がございます」
「僕が支えます」
俺は馬車の下へ土の台座を作った。
馬を外し、荷台から重い荷物を降ろす。レイネが工具を準備し、エリスも部材や荷物を運んだ。
ルイジェルドは周囲を警戒しながら、時折前後の街道を確認している。
誰か一人がすべてを行う必要はない。
それぞれが得意な役割を受け持つ。
四人で作業を分担したことで、修理は一時間ほどで終わった。
「次の町までは走れると思われます。ただし、速度を上げるべきではございません」
「町へ着いたら、職人へ本格的な修理を頼いましょう」
「はい」
馬をつなぎ直し、荷物を戻す。
車輪へ余計な負担を掛けないよう、しばらくは全員で馬車の横を歩くことにした。
先頭はルイジェルド。
その少し後ろを、俺とエリスが歩く。
レイネは馬の手綱を引きながら、馬車の左側へついていた。
やがて、先を歩いていたルイジェルドが突然足を止めた。
「どうしました?」
呼びかけても、すぐには答えがない。
ルイジェルドは街道の先を見たまま、槍へ手を掛けていた。しかし、いつものように構えることはせず、指先が僅かに震えている。
隣にいたエリスも、同じ方向を見たまま動かなくなった。
顔色が悪い。
剣の柄を握っているが、抜こうとしても腕が思うように動かないらしい。
二人が何に反応しているのか、俺には分からなかった。
魔物の姿はない。
物音も、まだ聞こえない。
俺自身の身体にも、特別な変化はなかった。
だからこそ、二人だけが何かへ怯えていることが不気味だった。
エリスは恐怖を感じても、それを理由に動けなくなる人間ではない。ルイジェルドも、魔大陸で数え切れないほどの危険を経験している。
その二人が、何も現れていない街道の先を見たまま身体を硬直させている。
「ルイジェルドさん。何が見えているのですか?」
「二人だ」
絞り出すような声だった。
「一人は女。もう一人は……」
ルイジェルドの言葉が止まる。
その時、後ろにいたレイネが俺たちの横へ並んだ。
街道の曲がり角を見つめる赤い瞳には、驚きが浮かんでいた。だが、ルイジェルドやエリスのように身体が強張っている様子はない。
「お知り合いですか?」
俺が尋ねると、レイネは短く頷いた。
「はい」
その答えを聞いて、警戒が薄れることはなかった。
レイネが知っている相手。
それだけなら、味方である可能性もある。
だが、ルイジェルドとエリスがここまで反応している。
無条件で安全だと判断することはできない。
やがて、二人分の足音が聞こえてきた。
規則正しく、ゆっくりと近づいてくる。
こちらの存在を警戒して隠れる様子もない。
曲がり角から現れた一人は、黒髪の女性だった。
白い仮面で顔の下半分を隠し、動きやすそうな旅装を身につけている。
その隣には、白い髪をした長身の男がいた。
簡素な服装で、武器を持っているようには見えない。
俺は男を見ても、ルイジェルドやエリスのような異常は感じなかった。
目の前にいるのは、武器すら持たない一人の男。
そう見える。
けれど、二人の反応が、その見た目を信じてはいけないと告げていた。
レイネが男の前へ進み、深く頭を下げた。
「ご無沙汰しております、オルステッド様」
白髪の男――オルステッドは、レイネの姿をしばらく見た。
「久しいな、レイネ」
敵へ向ける声ではなかった。
親しげとは言い難い。
だが、互いをよく知る相手へ向けたものだということは分かった。
「昨年お送りしたお手紙は、無事に届きましたでしょうか」
「読んだ。ルーデウス・グレイラットが魔大陸で生存している可能性が高いと書かれていた」
「はい。それが最も重要なご報告でございましたので」
オルステッドの視線が、俺へ向けられる。
「お前がルーデウスか」
「はい。ルーデウス・グレイラットです」
「レイネの手紙で存在は知っている」
俺は思わずレイネを見た。
オルステッドへ手紙を送っていたことは知らなかった。
どこから送ったのか。
いつから連絡を取っていたのか。
なぜ、俺のことを報告する必要があったのか。
疑問が一度に浮かぶ。
レイネには、俺の知らない過去がある。
そのことは分かっていた。
それでも、目の前でその過去につながる人物が現れると、胸の内側へ小さな距離を感じた。
俺が知らないレイネを、この男は知っている。
だが、今すぐ説明を求める場面ではない。
レイネはオルステッドから視線を外していない。再会を喜ぶよりも、何かを見極めようとしているように見えた。
「手紙には、僕のことだけを?」
「ああ」
オルステッドが答えた。
「異常な魔力量。無詠唱魔術。幼少期からの不自然な成長。ロアで家庭教師を務めていたこと。そして転移事件後も生存している可能性があること。書かれていたのは、それだけだ」
そこまで聞いても、俺はすぐには言葉を返せなかった。
どうして俺の情報だけを、わざわざオルステッドへ送る必要があったのかは分からない。
ただ一つ分かるのは、レイネにとって、それがこの男へ報告しなければならないほど重要な情報だったということだ。
「オルステッド様は、レイネの……」
関係をどのように尋ねるべきか迷った。
レイネが代わりに答える。
「以前より、協力させていただいている方でございます。それから、私へ戦い方をご教示くださった師でもいらっしゃいます」
師匠。
その言葉を聞き、改めてオルステッドを見る。
レイネへ剣や魔術を教えた人物。
あのレイネが、師と呼ぶ相手。
どれほど強いのか。
二人がどれほど長く関わってきたのか。
俺たちの知らないレイネの過去へ、深く関係している相手なのだろう。
「相変わらず、その口調を続けているのか」
オルステッドがレイネへ言った。
「現在の私は、ルーデウス様へお仕えする侍女でございますので」
「俺へ師事していた頃は、そのような話し方ではなかった」
「必要に迫られ、身につけたものでございます。今では、こちらの方が自然でございますので」
「そうか」
オルステッドは、それ以上追及しなかった。
短い会話だったが、二人の間には、俺たちが知らない長い時間があるのだと感じられた。
知りたいと思う。
レイネがどのような口調で話していたのか。
この男から、何を教わったのか。
なぜ協力するようになったのか。
けれど、今はそれよりも、動けないまま立っているエリスとルイジェルドの方が重要だった。
オルステッドはルイジェルドへ目を向けた。
「ルイジェルド・スペルディア」
額の宝石は布で隠されている。
それでも、迷いなく本名を呼んだ。
ルイジェルドは答えられない。
槍へ手を掛けたまま、身体を動かせずにいる。
「エリス・ボレアス・グレイラット」
エリスも名前を呼ばれたが、返事をしなかった。
剣の柄を握る指へ力は入っている。
恐怖に従って逃げたいのか。
それとも、無理にでも前へ出ようとしているのか。
俺には分からない。
ただ、エリスが自分の身体を動かそうと必死になっていることだけは見て取れた。
オルステッドは二人の反応を気にする様子もなく、俺へ視線を戻す。
「転移事件で魔大陸へ飛ばされたそうだな」
「はい」
「原因について、何か知っているか」
「いいえ。僕たちも調べています」
「そうか」
「オルステッドさんも、転移事件を調べているのですか?」
「ああ」
「何か分かったことはありますか?」
「まだ、お前へ話す段階ではない」
拒絶された。
ただし、敵意を向けられたわけではない。
今後もレイネと情報を交換する相手なら、必要な時には話せる情報も増えるのかもしれない。
無理に尋ね続ける必要はない。
まずは、何を知っていて、何を話せないのかを確認できただけでもよい。
そう考えていると、オルステッドが別の質問をした。
「ルーデウス。お前は、ヒトガミを知っているか」
その名前を聞いた瞬間、レイネの表情が強張った。
人神。
夢の中へ現れ、旅の先について助言してきた存在。
レイネには、再会後に話している。
だが、エリスとルイジェルドへ詳しく説明したことはなかった。
自分でも正体を理解できず、どこまで信じてよいのか分からなかったからだ。
しかし、今思えば、分からないからこそ二人へ話すべきだったのかもしれない。
俺一人にしか関係しない夢だと考えていた。
その判断が正しかったのかを、まだ確かめられていない。
「夢の中へ現れる存在としては、知っています」
俺は正直に答えた。
オルステッドの目が細くなる。
「いつからだ」
「魔大陸へ転移した後からです」
「何を言われた」
「旅先で起こる出来事について、何度か助言を受けました」
「従ったのか」
「助言から得た情報を利用したことはあります。ただ、示された方法へそのまま従ったわけではありません。現地で情報を確かめ、仲間と相談してから行動を決めています」
シーローンでも、人神から得た情報は使った。
だが、人神が勧めたとおり、王宮へ不用意な手紙を出したわけではない。
ロキシーが王宮にいないことを確かめた。
アイシャ本人から事情を聞いた。
ザノバやジンジャーへ協力を求め、人質となっていた家族を先に救った。
俺たちが選んだ方法だ。
人神が与えた情報を、何も考えず命令として受け入れたわけではない。
「情報を利用した時点で、ヒトガミの望む結果へ動かされている可能性がある」
「その可能性は考えています」
「それでも、助言を捨てなかった」
「すべてを無視すれば、助けられない人が出る可能性もありました」
オルステッドの表情は変わらない。
「だから、情報と指示を分けました。確認できた事実は利用しますが、何をするかは自分たちで決めます」
「その程度の警戒で、ヒトガミを防げると思っているのか」
「十分だとは思っていません」
人神の目的は分からない。
俺を助けているように見えて、別の結果へ誘導している可能性もある。
警戒しているだけで安全だと断言できる相手ではなかった。
「それでも、僕は人神のために動いているわけではありません」
「使徒は、自分が使徒だと理解しているとは限らん」
オルステッドが一歩前へ出た。
その瞬間、レイネも俺を庇うように位置を変えた。
僅かな動きだった。
だが、レイネが俺とオルステッドの間へ入ったことで、この会話が単なる確認ではないのだと理解した。
「オルステッド様。ルーデウス様は、人神の使徒ではございません」
「お前の報告は信用している」
オルステッドはレイネへ告げた。
「だが、ヒトガミに関する判断だけは別だ。お前が気づかぬうちに利用されている可能性もある」
「私自身が人神へ取り込まれていると?」
「否定できる材料はない」
二人の間に、先ほどまでとは異なる緊張が生まれた。
長く協力してきた仲間。
戦いを教えた師と、その弟子。
互いの能力も考え方も知っているからこそ、自分の判断だけを押し通せないのだろう。
だが、話の中心にいるのは俺だ。
レイネだけに任せて黙っているわけにはいかない。
「僕は、人神の言葉を無条件には信じていません」
俺が言うと、オルステッドの視線が戻ってきた。
「その言葉を信じる根拠がない」
「それは分かります。ですが、僕が今まで何をしたかを確認していただくことはできます」
「確認している。だから危険だと判断した」
言葉が通じないわけではない。
俺の説明を理解していないわけでもない。
理解したうえで、将来の危険を消す方を選ぼうとしている。
「ルーデウス様は、ご自身の意思で判断なさっております」
レイネが言う。
「その意思そのものが誘導されている可能性を言っている」
「可能性だけで、この方の命を奪うおつもりですか」
「ああ」
迷いのない返事だった。
その一言で、胸の奥が冷えた。
俺を殺す。
脅しではない。
オルステッドは、必要だと判断すれば、本当に行う。
レイネの赤い瞳が僅かに細められた。
「お退きくださいませ」
オルステッドが言った。
「レイネ」
名前を呼ぶ声が、先ほどまでより低くなる。
「人神の使徒を発見すれば、誰よりも迷いなく処理してきたお前が、今になって一人の人間を庇うのか。自分が利用されている可能性を、本当に考えていないのか」
「何度申し上げられても、答えは変わりません」
レイネは退かなかった。
「ルーデウス様は使徒ではございません。私の判断まで、人神に奪われたものとして扱わないでくださいませ」
「ならば、退け」
「お断りいたします」
オルステッドの姿が消えた。
何が起きたのか理解する前に、レイネが俺の身体を横へ突き飛ばした。
視界が激しく揺れる。
地面へ肩から落ちた俺の耳へ、轟音が届いた。
エリス視点
オルステッドが動いた瞬間、私は剣を抜こうとした。
ルーデウスを殺す。
あの男は、迷いなくそう答えた。
なら、斬らなければならない。
ルーデウスへ近づかせてはいけない。
頭では分かっているのに、身体が思うように動かなかった。
オルステッドから逃げなければならない。
近づいてはいけない。
目を合わせてはいけない。
身体の奥で、何かがずっと叫んでいる。
理由は分からない。
こんな感覚は初めてだった。
魔物を前にした時とも違う。
勝てない相手だと理解した時とも違う。
もっと深いところから、戦うという選択そのものを奪われている。
悔しかった。
怖いことより、剣を握っているのに動けないことが悔しかった。
私はルーデウスを守ると決めた。
それなのに、目の前で狙われているのに、一歩も動けない。
オルステッドが消えた。
次の瞬間、レイネとオルステッドの腕がぶつかっていた。
二人の足元から岩が砕け、風が吹き荒れる。
レイネの身体が押し戻された。
その光景を見た瞬間、恐怖より先に、ルーデウスを守らなければならないという気持ちが勝った。
動け。
動け。
ここで動けなければ、何のために強くなったのか分からない。
私は無理やり足を前へ出した。
脚の奥が震えている。
身体全体が後ろへ逃げようとしている。
それでも、剣を抜いた。
オルステッドの横へ回り込み、首へ向けて振る。
届かなかった。
オルステッドが私を見たのかさえ分からない。
何かが脇腹へ触れた。
次の瞬間、身体が岩壁へ叩きつけられていた。
息が出ない。
胸の中で、いくつもの骨が折れる音がした。
右腕にも力が入らない。
剣が指から抜け落ちる。
一撃だった。
たった一度、触れられただけで、立ち上がれなくなった。
痛い。
呼吸ができない。
けれど、痛みよりも、自分が何もできなかったことの方が苦しかった。
あれだけ修行した。
魔大陸を旅した。
何度も魔物と戦った。
ルーデウスの隣で戦えるぐらいには強くなったつもりだった。
それなのに、オルステッドには剣を届かせることすらできない。
「エリス!」
ルーデウスの声が聞こえる。
返事をしようとして、血を吐いた。
声が出ない。
視界の端で、ルイジェルドがオルステッドへ飛びかかる。
普段のルイジェルドより、動きが僅かに硬い。
ルイジェルドも、私と同じものを感じているのだろう。
それでも、槍は真っすぐオルステッドの喉へ向かっていた。
肩。
腹。
脚。
槍の向きを何度も変え、少しでも相手へ届かせようとする。
一秒。
二秒。
どれほど経ったのか、本当は分からない。
後で考えれば、十秒にも満たなかったはずだ。
オルステッドが槍の柄へ手を触れた。
それだけで槍が砕けた。
ルイジェルドの身体が宙へ浮き、地面へ叩きつけられる。
割れた岩の中から起き上がろうとしたところへ、もう一撃が入った。
ルイジェルドの身体が沈み、動かなくなる。
殺された。
そう思った瞬間、背中が冷たくなった。
けれど、僅かに胸が動いている。
生きてはいる。
戦うことができなくなっただけだ。
ルイジェルドまで、何もできなかった。
なら、ルーデウスは。
私は必死に顔を上げた。
レイネがオルステッドの前へ立っている。
幾つもの魔術が生まれる。
透明な壁。
石の槍。
風。
水。
雷。
何がどの順番で使われたのか、私には分からなかった。
オルステッドの手が僅かに動くたび、魔術は形を失って消えていく。
レイネが作った壁も、触れられた場所から崩れた。
それでも、レイネはルーデウスとの間から動かなかった。
いつもどおりだった。
レイネは、ルーデウスを守る時だけは絶対に退かない。
けれど、相手は今までとは違う。
レイネの攻撃すら、ほとんど通じていない。
「レイネ、下がってください!」
ルーデウスが叫ぶ。
「僕も戦います!」
ルーデウスが杖を向ける。
地面から石が撃ち出された。
これまで見たものより速く、硬く、回転している。
けれど、オルステッドには当たらない。
避けたのか。
撃つ前から位置を変えていたのか。
私には分からなかった。
石は誰もいない場所を通り過ぎ、遠くの岩壁へ突き刺さった。
ルーデウスが次の魔術を使おうとする。
集まった魔力が、形になる前に崩れた。
「何で……」
ルーデウスが息を呑む。
もう一度。
今度は左右の手を別々に動かす。
一方で地面を沈め、もう一方で風を放とうとした。
足元の土は動かない。
風も生まれない。
オルステッドが魔術を打ち消している。
そうとしか思えなかった。
立って。
ルーデウスのところへ行かなければ。
痛みを無視して左手を地面へつく。
少しだけ身体を起こす。
折れた骨が内側へ刺さり、息が止まりそうになる。
それでも、寝ているわけにはいかない。
レイネがオルステッドの拳を受け流す。
腕をつかみ、横へ逸らす。
その動きは、普段の手合わせで見たものよりも速い。
それでも、オルステッドの方が上だった。
レイネの防御を抜き、肩へ拳を当てる。
レイネが岩壁へ飛ばされた。
ルーデウスとオルステッドの間から、レイネがいなくなる。
嫌だ。
その先を見たくない。
「来ないでください!」
ルーデウスが杖を両手で握った。
膨大な魔力が集まる。
熱が広がった。
炎。
山道全体を焼き尽くしそうなほどの魔力なのに、ルーデウスは広げず、オルステッドだけを塞ぐように細く絞っていた。
私やルイジェルドが倒れている場所へ、熱を流さないためだ。
こんな時まで、私たちを巻き込まないようにしている。
オルステッドの前に、黒い円のようなものが開いた。
扉にも。
穴にも見えた。
その中央へ、ルーデウスの魔力が吸い込まれていく。
炎になるはずだった力が、何も残さず消えていく。
黒いものの周囲へ亀裂のような光が走ったが、壊れない。
オルステッドは僅かにルーデウスを見た。
初めて、少しだけ興味を持ったように見えた。
だが、それだけだった。
ルーデウスの魔術は当たらない。
触れることさえできない。
オルステッドがルーデウスの前へ現れる。
レイネが戻ろうとしている。
けれど、間に合わない。
オルステッドの腕が、ルーデウスの胸へ入った。
「ルーデウス!」
身体の痛みを忘れて叫んだ。
オルステッドの手が引き抜かれる。
血が噴き出す。
ルーデウスの胸に穴が開いていた。
ルーデウスが崩れ落ちる。
受け身も取らない。
手も動かない。
目から光が消えている。
オルステッドは心臓を潰した。
見ていなくても分かった。
胸の中心にあるはずのものが、もう動いていない。
「いや……」
声が勝手に漏れた。
嘘だ。
ルーデウスが死ぬはずがない。
こんなところで。
何の罪もないのに。
人神を知っていると答えただけで。
身体を起こそうとした。
折れた骨が内側へ刺さるように痛んだ。
それでも、ルーデウスのところへ行かなければならない。
動かない右腕を引きずり、左手で地面をつかむ。
少ししか進めない。
あそこまで、すぐなのに。
手を伸ばせば届きそうなのに。
「ルーデウス……起きて……」
返事はない。
喉へ血が絡み、声が途切れた。
「お願い……」
起きて。
いつものように返事をして。
私の名前を呼んで。
レイネが、ルーデウスのそばへ立った。
何も言わず、その胸へ手を当てる。
赤い瞳が僅かに揺れた。
いつもなら、どれほど危険な場面でも表情を崩さないレイネの顔から、血の気が引いていく。
「レイ……ネ……」
呼びかけても、声はほとんど届かなかった。
レイネはルーデウスだけを見ていた。
その胸元で、お守りが光り始めた。
服の下から、白い光が漏れている。
小さな飾りだったはずのお守りに、細かな亀裂が走る。
砕けた破片は地面へ落ちず、光の糸へ変わってルーデウスの傷口へ入っていった。
止まっていた血が、逆向きに流れ始める。
地面へ広がったすべてが戻るわけではない。
それでも、胸の奥から新しい血が作られているように、身体へ色が戻り始めた。
潰されたはずの心臓が、少しずつ形を取り戻している。
生き返る。
ルーデウスが戻ってくる。
その可能性へ縋りつきたかった。
けれど、オルステッドはまだ目の前にいる。
もう一度ルーデウスの身体を壊されれば、今度こそ戻れないかもしれない。
レイネは、その変化を一度だけ確認した。
それから立ち上がり、オルステッドの前へ向き直る。
「オルステッド様」
声は、いつもの侍女のものだった。
丁寧で。
静かで。
けれど、これまで聞いたことがないほど冷たかった。
「未来に危険となる可能性だけを理由に、何の罪もないルーデウス様の命を奪おうとなさった」
オルステッドは答えない。
「あなたが今なさったことは、人神と同じでございます」
オルステッドの顔が、初めて明確に変わった。
ほんの僅かに目が見開かれる。
怒ったようには見えない。
もっと深い場所を、突然突かれたような顔だった。
私には、その理由が分からない。
「その名を、俺へ重ねるか」
「はい」
レイネは一歩も退かなかった。
「私から、かけがえのない方を奪ったあれと、今のあなたは何が違うのでしょうか」
誰のことを言っているのか分からない。
レイネにも、人神によって奪われた誰かがいるのかもしれない。
オルステッドは、そのことを知っているように見えた。
それ以上は分からない。
今、分かる必要もなかった。
レイネが、ルーデウスを奪われたことに怒っている。
あのレイネが、オルステッドへ向かって感情を隠そうともせず立っている。
それだけだった。
オルステッドは、しばらく何も言わなかった。
やがて低い声で告げる。
「人神の使徒と見れば、相手が誰であろうと迷わず斬ってきたお前が、その一人のために俺へ刃を向けるか。随分と深く、情へ絡め取られたものだな」
レイネの赤い瞳が鋭く細められる。
「ルーデウス様は使徒ではございません。それ以上、私の判断を侮辱なさらないでくださいませ」
「退け」
「お断りいたします」
「俺と戦うつもりか」
「まさか、師であるあなた様を止めるために、これを使うことになるとは思いませんでした」
レイネが胸元へ手を当てる。
「《制限解除》」
その言葉が聞こえた瞬間、レイネの髪が変わり始めた。
白い髪の根元から、黒が広がっていく。
白を染めるというより、内側に隠れていた色が表へ現れているようだった。
瞬く間に、髪全体が夜のような黒へ変わる。
赤い瞳だけが、黒髪の中で強く光っていた。
同時に、息が詰まるほどの魔力が広がった。
地面が震える。
周囲の小石が浮き上がる。
怖い。
オルステッドへ感じているものとは違う。
レイネから広がっているのは、存在そのものへ逆らえなくなるような恐怖ではない。
ただ、これほどの力を、人間の身体で使ってよいはずがない。
そう思わせる危うさがあった。
ルーデウスの胸元では、お守りの光が身体を作り直し続けている。
レイネはその蘇生を守るように、オルステッドとの間へ立った。
オルステッドが、初めて完全な構えを取る。
「その術を使うか」
「はい」
「死ぬ気か」
「ルーデウス様を殺そうとなさったあなた様に、ご心配いただく筋合いはございません」
「五分続ければ、ただでは済まんぞ」
「五分も必要にならないよう、お話をお聞きくださいませ」
レイネの姿が消えた。
次に見えた時には、オルステッドの目の前にいた。
拳と腕がぶつかる。
山道全体が揺れた。
さっきまでとは違う。
レイネの動きも。
魔術も。
何が起きているのか、私にはほとんど見えなかった。
ただ、最初はオルステッドがすべてを受け止めていた。
レイネがどれだけ速く動いても、先に腕を置く。
魔術が生まれれば、形を成す前に崩す。
炎や雷が迫れば、黒い穴のようなものが現れ、跡形もなく飲み込む。
レイネの攻撃を避ける動きにも、無駄がない。
大きな魔術を乱発することもなかった。
必要な分だけ力を使い、レイネの攻撃を処理している。
けれど、戦いが続くにつれて、少しずつ様子が変わった。
レイネの速度が上がる。
一撃ごとの重さが増していく。
さっき避けられていた攻撃が、オルステッドの服を切った。
オルステッドが片手で消していた魔術を、両手で処理するようになる。
拳がぶつかるたび、どちらか一方だけではなく、二人とも後ろへ下がった。
レイネは魔力を使い続けている。
それなのに、弱くならない。
むしろ、一瞬前よりも強くなっている。
安心はできなかった。
レイネが強くなるほど、オルステッドを止められる可能性は増える。
その間に、ルーデウスの身体は戻っていく。
けれど、オルステッドが何度も止めろと言っている。
あの男がレイネの身体を心配しているようには思えない。
それでも止めようとしているということは、続ければ本当に取り返しがつかなくなるのだ。
「止めろ、レイネ」
「ルーデウス様を殺さないと、お約束くださいませ」
「その状態を続ければ、お前の方が先に壊れる」
「承知しております」
承知している。
その返事を聞いて、胸の奥が冷たくなった。
レイネは、自分が壊れると分かったうえで続けている。
ルーデウスを助けるためなら、自分がどうなっても構わないと思っている。
嫌だった。
ルーデウスが死ぬのも。
レイネが代わりに死ぬのも。
どちらも嫌だった。
けれど、今の私は動けない。
止めることも。
代わることもできない。
二人が再びぶつかる。
風が爆発した。
私の身体が地面を滑る。
目を開けると、街道の一部が消えていた。
岩壁が大きく抉られ、谷側の道が崩れ落ちている。
どちらの攻撃でそうなったのか分からない。
レイネの魔術なのか。
オルステッドが放った何かなのか。
光が走る。
黒い穴が開く。
大地が盛り上がったかと思えば、次の瞬間には粉々に砕ける。
炎が生まれ、消える。
雷が落ち、軌道を変えられて山肌へ突き刺さる。
二人の姿は何度も消え、そのたび別の場所から衝撃音が聞こえた。
後で聞けば、戦っていた時間は一分ほどだったらしい。
けれど、その場にいた私には、もっと長く感じられた。
ルーデウスは戻るのか。
レイネの身体は、いつまで持つのか。
オルステッドが気を変え、もう一度ルーデウスを狙わないか。
何もできないまま、それだけを考え続けた。
最初はオルステッドがレイネを圧倒していた。
その差が、少しずつ縮まっていく。
やがて、二人の拳が正面からぶつかり、どちらも下がらなくなった。
次の瞬間には、レイネがオルステッドを押し戻した。
オルステッドの足が岩を削る。
レイネが追いつき、もう一撃を入れる。
今度は、オルステッドの身体が地面から浮いた。
初めて、レイネの方が速く見えた。
けれど、オルステッドも崩れない。
空中で姿勢を変え、地面へ降りる。
片手を前へ出すと、レイネの周囲にあった魔術がまとめて消滅した。
その直後、見たこともない光が地面を走った。
レイネが障壁を重ねる。
何枚あったのか分からない。
すべてが一度に砕け、衝撃が山へ突き抜けた。
岩壁の上部が崩れる。
巨大な岩が落下する前に、レイネの魔術で細かく砕かれた。
破片は二人の周囲を回り、次の攻撃へ変わる。
オルステッドの前に黒い穴が幾つも開き、すべてを吸い込んでいく。
戦いが始まる前まで、そこには街道があった。
今は、どこが道だったのか分からない。
岩壁は大きく抉られ、谷へ続く斜面も崩れている。
地面にはいくつもの穴が開き、一部は熱で赤く溶けていた。
馬車を通せる場所など残っていない。
ルーデウスの胸元で、お守りの光が強くなった。
オルステッドが、僅かにそちらを見る。
「蘇生の術式か」
「はい」
「俺にも報告していなかったな」
「ルーデウス様の命へ関わる、最重要の秘匿事項でございます」
「俺にも伏せる必要があったのか」
「あなた様が、こうしてルーデウス様を殺そうとなさった以上、必要であったと判断いたします」
オルステッドは答えなかった。
お守りの破片が、次々に光へ変わる。
ルーデウスの胸の穴は、もうほとんど塞がっている。
止まっていた胸が、僅かに動いた。
「ルーデウス……」
声を出した途端、胸の奥が痛み、咳と一緒に血が漏れた。
それでも、目を逸らせなかった。
もう一度、ルーデウスの胸が動く。
心臓が作り直されている。
生き返ろうとしている。
レイネも、それを確認したようだった。
それでも攻撃を止めなかった。
オルステッドへ迫り、拳を振るう。
オルステッドが受ける。
先ほどよりも、明らかにレイネが押している。
その代わり、レイネの口元から血が流れ始めていた。
黒い髪の間から覗く顔も、少しずつ青ざめている。
力は上がり続けている。
けれど、身体がその力に耐えられなくなっているのだ。
見ていれば分かる。
勝っているように見える。
それなのに、レイネの方が先に死へ近づいている。
「本当に、五分続けるつもりか」
「必要であれば」
「その前に死ぬ可能性もある」
「それでも、ルーデウス様を二度と殺させるつもりはございません」
駄目。
そう言いたかった。
声が出ない。
ルーデウスを守って。
でも、死なないで。
両方を願うことが、今はできないように思えた。
それでも、どちらか一方だけを選びたくなかった。
オルステッドが、攻撃の手を止めた。
レイネもすぐには止まらない。
拳を構えたまま、次の動きを待っている。
「もういい」
オルステッドが言った。
「お前が本気でそいつを守るつもりであることは分かった」
「では、お約束くださいませ」
「ヒトガミの使徒として、俺へ敵対しない限りは手を出さん」
「人神と接触しているだけでは?」
「殺さない」
「人神から助言を受けたとしても、自ら判断し、従属していない間は?」
「使徒とは見なさない」
レイネは、オルステッドの目を見つめ続けた。
嘘がないか確かめているようだった。
やがて、構えを僅かに下げる。
「そのお言葉を、信じます」
「次の手紙には、ヒトガミとの接触を最優先で書け」
「承知いたしました。ですが、今後ルーデウス様へ疑いを持たれた場合には、まず私へ確認してくださいませ」
「お前が冷静である限りはな」
「今回も、私は冷静でございます」
「そうは見えん」
「ルーデウス様を殺そうとなさった直後であることを考えれば、十分に抑えております」
オルステッドは、僅かにレイネを見た。
二人がどのような関係なのか、私にはすべて分からない。
レイネは師だと言った。
協力者でもあるらしい。
先ほどまでは本気で殺し合いかけていた。
それでも、会話の端には、長く互いを知っている者にしか出せないものが残っていた。
「レイネ」
オルステッドが名前を呼ぶ。
「その術を解け」
「あなた様が、完全に立ち去られるまで維持いたします」
「相変わらず頑固だな」
「どなたに教わったものか、お忘れでしょうか」
オルステッドは、ほんの僅かに目を細めた。
笑ったようには見えなかった。
けれど、先ほどまでの敵意は消えていた。
「行くぞ」
仮面の女へ告げる。
二人は、崩壊した街道の先へ向かった。
道はなくなっている。
それでも、足場など必要ないように、崩れた岩の上を進んでいく。
「オルステッド様」
レイネが背中へ呼びかけた。
「何だ」
「次にお会いする時は、以前のようにお話しできることを願っております」
「ならば、重要なことを隠すな」
「善処いたします」
「善処ではなく報告しろ」
「かしこまりました」
二人の姿が、崩れた岩壁の向こうへ消える。
レイネは、しばらくその方向を見つめていた。
完全に気配が遠ざかったことを確認しているのだろう。
やがて、黒い髪が白へ戻り始めた。
レイネの身体が大きく揺れる。
危ない。
そう思った時には、レイネは私とルイジェルドの方へ片手を向けていた。
「お二人とも……そのままでいてくださいませ」
レイネの声は掠れていた。
「私たちより、自分を――」
最後まで言えなかった。
周囲へ満ちていた魔力が急速に薄れていく中、淡い光が私の身体を包んだ。
激痛が走る。
折れていた右腕が、目の前で元の位置へ戻っていく。
肋骨の奥で感じていた鋭い痛みも、少しずつ弱くなる。
傷ついた肺が塞がり、ようやく深く息を吸えるようになった。
少し離れた場所では、ルイジェルドの身体も同じ光に包まれている。
折れていた腕と脚が戻り、胸の傷が塞がっていく。
レイネは限界だった。
髪が戻り始めた時から、立っていることさえできていなかった。
それなのに、私たちを先に治している。
「レイネ……もう……」
止めようとしたが、声に力が入らない。
治療されても、身体へ受けた衝撃と疲労までは消えていなかった。
レイネは返事をしない。
最後まで治癒の光を維持する。
やがて、ルイジェルドが自分の腕を動かし、ゆっくりと身体を起こした。
私も地面へ手をつけば、どうにか上半身を持ち上げられる。
それを確認した瞬間、レイネの治癒魔術が消えた。
黒かった髪が、完全に白へ戻る。
レイネは片手で頭を押さえ、もう片方の手を地面へついた。
激しく咳き込む。
口から大量の血が吐き出された。
白い髪へ、赤い血が散る。
「レイ……ネ……」
名前を呼ぶだけで、喉が痛んだ。
レイネは答えようとした。
だが、声が出る前に身体を折り、胃の中の物を吐き出した。
血。
胃液。
食べた物。
一度では終わらない。
何度も吐き、身体を震わせる。
顔を上げようとしても、目の焦点が合っていない。
何もない場所へ手を伸ばし、支えを探している。
今度はレイネが死ぬ。
ルーデウスを取り戻した直後に。
そんなのは嫌だ。
私は地面へ手をつき、レイネの方へ進もうとした。
「ルーデウス様を……」
レイネは、倒れているルーデウスへ手を伸ばす。
自分が血を吐いていることより、まだルーデウスを確かめようとしている。
「もう……胸、塞がってる……」
どうにか声を絞り出した。
お守りの最後の破片が、光へ変わる。
ルーデウスの胸へ吸い込まれた。
身体が大きく跳ねる。
空気を吸い込む音。
止まっていた心臓が動き始めた。
レイネの顔から、僅かに力が抜ける。
「よかった……」
レイネは倒れかけながら、最後に告げた。
「私へ……治癒魔術を、使用なさらないよう……お願いいたします。今は……逆効果に……」
言葉が最後まで続かなかった。
レイネは地面へ倒れ、動かなくなった。
ルーデウスは戻った。
その代わりに、レイネが倒れた。
私は治された身体を動かそうとした。
まだ力が戻らない。
それでも、今度は私たちがレイネを助けなければならなかった。
ルーデウス視点
気がつくと、俺は白い空間にいた。
地面も。
壁も。
天井もない。
どこまでも白い。
自分の身体を見る。
転生する前の、太った男の姿だった。
胸に穴は開いていない。
だが、心臓を握り潰された感覚だけは、まだ残っている。
身体の中心から熱が失われていった。
息ができず。
エリスとルイジェルドが倒れていて。
レイネが俺へ向かって走ってきた。
そこで終わった。
「やあ」
人神が、いつものように目の前へ現れた。
笑っている。
その姿を見ても、今は警戒する余裕すらなかった。
「僕は……死んだのですか?」
「ああ。綺麗に心臓を潰されたね」
人神は、軽い調子で答えた。
「即死だったよ」
死んだ。
言葉の意味が、すぐには感情へ届かなかった。
自分が死んだ。
あれで終わった。
戻れない。
お守りがある。
レイネから、一度だけ蘇生できると聞いている。
だが、俺は今、人神の空間にいる。
お守りが正常に働かなかったのか。
魂へまで攻撃が届いたのか。
肉体の損傷が大きすぎたのか。
レイネ自身が、万能ではないと言っていた。
「ほかの皆は……」
「分からない」
人神が即答する。
「君を殺したのは龍神オルステッドだ。あいつの周囲は、僕にはほとんど見えない。君が死んだ後、そこで何が起きているのかも分からないよ」
エリスは、一撃で動けなくなっていた。
ルイジェルドも倒された。
レイネだけが立っていた。
オルステッドは、俺を殺した後、三人をどうするつもりなのか。
「レイネなら……」
言葉にしても、答えは出ない。
強いことは知っている。
俺が知っている以上の力を隠していることも、お守りについて聞いた時に分かった。
だが、オルステッドは異常だった。
俺の魔術は一度も届かなかった。
エリスも。
ルイジェルドも。
レイネさえ、俺を守り切ることができなかった。
怖くなかった。
少なくとも、戦いが始まるまでは。
俺には、エリスやルイジェルドが感じていたものが分からなかった。
だから、オルステッドを前にしても話を続けられた。
けれど、今は怖い。
俺が死んだ後、三人が同じように殺されているかもしれない。
自分だけが白い場所にいて、何もできない。
「オルステッドさんは、何者なのですか」
「龍神。七大列強の二位だよ」
人神は楽しそうに答えた。
「あの世界でも、ほとんど頂点にいる存在だ。身体能力も、技術も、魔術も、知識も桁が違う。君たちが今のまま何度戦っても、勝てる相手じゃないね」
「なぜ、僕を殺したのですか」
「僕と話していたからだろうね。あいつは僕を殺したがっている。僕と関わった人間も、基本的には敵として扱う」
「あなたは、オルステッドさんへ何をしたのですか」
「さあ?」
笑ったまま、答えようとしない。
俺が殺された原因の一部に、人神がいる。
それでも、肝心なことは話さない。
今までと同じだ。
正しい情報を与える。
しかし、自分の目的は明かさない。
俺がどのような結論へたどり着くかを、離れた場所から眺めている。
「オルステッドさんには、エリスとルイジェルドさんの様子がおかしくなる原因があるのですか」
「呪いだね。あいつを見た生物は、強い恐怖や嫌悪を抱く。君には、ほとんど効いていなかったみたいだけど」
俺には、何も感じられなかった。
二人の身体が強張った理由を、ようやく理解する。
動かなかったのではない。
動けなかったのだ。
それでも二人は、俺を守るために無理やり前へ出た。
「弱点は?」
「魔力の回復が極端に遅い」
人神が答えた。
「普通の人間と比べれば、千分の一程度と言ってもいい。だから、あいつは無駄な魔力消費を嫌う。さっきも、君の魔術を処理するため、必要以上の力は使わなかったはずだよ」
黒い穴。
魔術そのものを崩した技術。
あれも、オルステッドの魔力を使っていたのだろう。
だが、俺の全力を処理しても、ほとんど疲れた様子はなかった。
魔力の回復が遅いことと、今持っている魔力が少ないことは同じではない。
「これを僕へ教えて、どうするつもりですか」
「仕返ししたくないの?」
人神が笑う。
「君は殺されたんだよ。君が大切に思っている人間まで巻き込まれた。憎む理由としては十分だと思うけど」
怒りはある。
理不尽だとも思う。
俺はオルステッドを殺そうとしていない。
人神から命令を受けてもいない。
それなのに、可能性だけで心臓を潰された。
エリスとルイジェルドまで傷つけられた。
レイネにも、命を懸けさせているかもしれない。
許せない。
その感情は確かにある。
だが、人神の言葉に乗って復讐を決めれば、それこそオルステッドが疑った使徒になってしまう。
怒りまで否定する必要はない。
しかし、怒りを理由に判断まで人神へ渡すつもりはなかった。
「あなたに言われたから、オルステッドさんを攻撃するつもりはありません」
「死んだのに?」
「死んだからです」
もう、生き返れない可能性が高い。
それでも、最後の判断まで人神へ渡したくはなかった。
「外で何が起きているか、本当に確認できないのですか」
「無理だよ。オルステッドのそばで起きていることは、僕にも分からない」
それだけだった。
人神はレイネの名前も。
正体も。
今どこにいるのかも知らない。
オルステッドのそばにいた俺の仲間を、個別に認識できている様子もなかった。
俺が死ぬ直前に見た光景を、俺の言葉から推測しているだけなのだろう。
人神が近づく。
「もう死んでいるのに、ずいぶん考えるね」
死んでいる。
もう、エリスへ会えない。
ルイジェルドへ礼を言えない。
父さんにも。
リーリャやアイシャにも。
母様も見つけられない。
シルフィの無事も確かめられない。
そして、レイネには。
俺が死んだ時、一度だけ蘇生させる術式まで作ってくれたレイネには、何も返せていない。
ようやく再会したばかりだった。
今度は、レイネが不安になった時に、俺もそばにいたいと思っていた。
ただ世話をされるだけではなく、自分も支えたいと思った。
それだけではない。
死んだと告げられ。
二度と会えないと理解して。
ようやく、曖昧にしていた感情へ名前がついた。
俺は、レイネが好きだ。
家族としてだけではない。
侍女として必要なのでもない。
レイネという一人の女性を好きになっている。
本人へ伝える覚悟さえ、まだ持てていなかった。
主人と侍女という関係ではなく、レイネが自由に答えられる時に伝えたいと思っていた。
そのためには、俺自身も成長しなければならない。
レイネが俺の世話だけを人生のすべてにしなくてもよいように。
自分の生活や望みを持ったうえで、俺の言葉へ答えられるように。
そう考えていた。
それなのに、もう二度と会えない。
最後に見たのは、俺へ向かって駆けてくるレイネの顔だった。
「嫌だ……」
言葉が漏れた。
死んだという事実を、ようやく感情が理解し始めた。
「死にたくない」
もう遅い。
それでも、認めたくない。
「まだ、何も終わっていないんです」
人神は黙って俺を見ていた。
「エリスを、家まで送り届けていない。母様を見つけていない。シルフィにも会えていない。レイネにも、まだ何も伝えていない」
喉が震えた。
涙が出ているのかは分からない。
この身体には、本物の目すらないのかもしれない。
それでも、泣いているような感覚があった。
前世では、死ぬことを恐れながら、生きるために動けなかった。
今度は違う。
帰りたい場所がある。
待っている人がいる。
自分から会いに行きたい人がいる。
「死にたくない。戻りたい。皆のところへ……レイネのそばへ戻りたい」
白い空間が揺れた。
胸の奥で、何かが動いた。
最初は、心臓を潰された痛みが戻ったのだと思った。
違う。
熱い。
身体の中心に、熱が生まれている。
ないはずの心臓が、一度だけ脈打った。
人神が顔を上げる。
「何だ?」
もう一度。
強く。
胸が動く。
白い空間の外側から、何かが俺を引いている。
魂をつかみ、身体へ戻そうとしている。
「お守り……」
レイネのお守り。
発動している。
俺がこの場所へ来た時には、まだ肉体と魂をつなぎ直している途中だったのかもしれない。
俺も。
人神も。
俺が完全に死んだと思っていた。
「まさか、本当に蘇生させるつもりなのか」
初めて、人神の声から余裕が消えた。
胸の鼓動が強くなる。
肺が作られる。
血が流れ始める。
身体の感覚が、白い世界の向こうから戻ってくる。
「待ってよ」
人神が手を伸ばした。
「まだ話は終わっていない」
「僕は戻ります」
「次に目を覚ましても、オルステッドが近くにいるかもしれないよ」
「それでも、戻ります」
何が待っているか分からない。
戻った瞬間に、もう一度殺される可能性もある。
それでも、ここへ残ることはできない。
皆がいる。
レイネがいる。
生きているなら、戻らなければならない。
白い世界が遠ざかる。
「人神」
俺は最後に呼びかけた。
「次に会った時も、あなたの言葉は確認してから判断します」
「本当に、可愛げがなくなったね」
その声を最後に、白い世界は消えた。
◇
肺へ空気が流れ込んだ。
激しく咳き込む。
胸の奥が焼けるように痛い。
目を開ける。
空。
崩れた岩壁。
血に濡れた地面。
何が起きたのか、一瞬では理解できなかった。
身体を起こそうとして、胸へ手を当てる。
服には大きな穴が開いている。
だが、その下に傷はない。
首から下げていたお守りはなくなっていた。紐の一部だけが残り、砕けた欠片すら見当たらない。
発動した。
レイネが説明していた、一度だけの蘇生。
本当に俺を生き返らせた。
「ルーデウス……」
エリスの掠れた声が聞こえた。
顔を向ける。
エリスは自分で上半身を起こしていた。
服や口元には血が残っているが、折れていたはずの右腕は元へ戻っている。
少し離れた場所では、ルイジェルドも片膝をつき、身体を起こしていた。
二人とも、まだ呼吸が荒い。
けれど、傷は塞がっている。
「生きてる……」
エリスが、確かめるように呟いた。
「はい……」
声が掠れる。
身体は重い。
魔力も大きく減っている。
それでも動ける。
戻れた。
エリスもルイジェルドも生きている。
安堵が胸へ広がりかけた。
「二人の傷は……」
「レイネが……治した」
エリスが息を整えながら、地面の向こうを見た。
その視線を追う。
レイネが倒れていた。
俺たちの前では平然と立ち、何事もなかったように世話を焼こうとする。
そのレイネが。
血まみれで。
汚れた地面に倒れたまま、動いていない。
「レイネ……?」
心臓が凍りついた。
自分の胸は動いている。
確かに蘇生した。
その代わりに、レイネが死んだのではないか。
俺を生き返らせるために。
俺が殺された後、俺を守るために。
全部を使い果たしたのではないか。
「レイネ!」
叫んだ声が裏返った。
身体を起こそうとしたが、足に力が入らず、地面へ手をつく。
立っていられない。
それでも這うようにしてレイネへ近づいた。
胸の奥が痛む。
呼吸も苦しい。
そんなものは、どうでもよかった。
「レイネ、返事をしてください!」
肩へ触れる。
反応がない。
「レイネ!」
名前を呼びながら身体を横向きにする。
頬へ触れる。
熱い。
異常なほど熱を持っている。
口元にはまだ新しい血が残っている。
吐瀉物に混じって、赤い塊まで落ちていた。
視界が揺れた。
怖い。
オルステッドへ殺された時より、ずっと怖かった。
自分が死ぬ瞬間には、考える時間などなかった。
今は違う。
レイネの呼吸が止まるかもしれない。
目の前で。
俺が何もできないまま。
好きな人が死んでしまうかもしれない。
「息は……」
顔を近づける。
僅かに空気が動いている。
弱い。
浅い。
今にも消えそうな呼吸だった。
首筋へ触れる。
脈がある。
けれど、ひどく不規則だ。
生きている。
まだ生きている。
安堵するより先に、次の恐怖が押し寄せた。
このまま止まるかもしれない。
一度目の確認では動いていた。
次の瞬間には、動かなくなるかもしれない。
「治療を……」
震える手へ魔力を集めようとする。
「駄目……」
エリスの弱い声が飛んできた。
「レイネが……使わないでって。今は、逆効果だって……」
俺の手が止まる。
「でも、このままでは死んでしまうかもしれません!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。
エリスを責めているわけではない。
分かっている。
それでも、感情を抑えられなかった。
「何もしないで待てと言うのですか? こんな状態なのに!」
「ルーデウス」
ルイジェルドが俺の肩へ手を置いた。
既に動ける程度まで回復している。
「落ち着け。レイネは、最後の力で俺とエリスを治した。その直後に、自分へ治癒魔術を使うなと言って倒れた」
「ですが――」
「自分の状態を分かっていたはずだ」
分かっている。
頭では分かる。
レイネ本人が、治癒魔術は逆効果だと言った。
ここで俺が無理に使えば、助けるどころか殺してしまうかもしれない。
それでも、手を引くことができなかった。
レイネの頬へ触れたまま、呼吸を確かめ続ける。
「どうすればいいのですか……」
声が震えた。
「僕は、何をすればレイネを助けられるんですか」
誰もすぐには答えなかった。
エリスが、痛みに耐えるように顔を歪めながら、俺たちのそばへ近づいてきた。
「まず、ここから運ぶのよ」
エリスは掠れた声で言った。
「寝かせて。吐いた物が喉に入らないようにして、水を飲ませる。レイネが目を覚ましたら、何をすればいいか聞くの」
エリスも、レイネがこのまま目を覚まさない可能性を考えているのかもしれない。
それでも、その言葉には出さなかった。
今できることだけを一つずつ挙げている。
「目を覚まさなかったら?」
口にした瞬間、自分で耐えられなくなった。
そんなことを考えたくない。
だが、考えずにはいられない。
「目を覚ますわ」
エリスが答えた。
根拠などない。
それでも、迷いなく言った。
「レイネは、ルーデウスが戻ってきたのを見たもの。今度は、私たちがレイネを起こすのよ」
俺は目を閉じた。
一度、大きく息を吸う。
震えは止まらない。
恐怖も消えない。
それでも、今は動かなければならない。
感情へ飲まれ、レイネの呼吸を確認するだけでは助けられない。
「分かりました」
レイネの身体を慎重に持ち上げる。
「ルイジェルドさん。運ぶのを手伝ってください」
「ああ」
「エリスは、吐いた物が喉へ入らないよう、顔の向きを見ていてください」
「分かったわ」
三人でレイネを支える。
誰か一人へ任せない。
俺も、自分が蘇生した直後だからと離れない。
レイネの身体は軽かった。
以前から小柄だった。
それでも、今は恐ろしく軽く感じる。
力がすべて抜け落ちてしまったようだった。
戦いの跡を見回す。
街道は完全に失われていた。
俺たちが歩いてきた方向だけは、辛うじて戻れる。
先へ続いていた道は崩落し、岩壁には巨大な穴が開いている。
地面は何度も掘り返されたように歪み、溶けた岩が黒く固まり始めていた。
一分ほどの戦いで、山道の形そのものが変わっている。
「レイネが……これを……」
死んでいた間に。
俺を守るために。
オルステッドと戦った。
エリスとルイジェルドを治し。
自分の身体が壊れるまで力を使った。
胸の奥が締めつけられる。
俺が殺されたのは、俺の責任ではない。
そう言われても、今は簡単に受け入れられなかった。
もし、オルステッドについて知っていれば。
もし、最初から逃げる方法を考えられていれば。
何かが変わったのではないか。
レイネが、こんな姿になることもなかったのではないか。
後悔が次々に湧いてくる。
だが、今はそれに飲まれてはいけない。
まずは、生かさなければならない。
絶対に。
レイネを死なせるわけにはいかない。
俺たちは来た道を戻った。
◇
馬車を動かせる場所まで戻り、街道の端に野営地を作った。
レイネは荷台の寝台へ横向きに寝かせた。
意識が戻らない。
高熱。
激しい震え。
呼吸の乱れ。
何度も吐き、血も混じった。
治癒魔術を使うなと言われている以上、俺にできることは限られていた。
横向きの姿勢を保つ。
吐いた物が喉へ入らないよう、口元を拭く。
汗と血で濡れた衣服を着替えさせる。
水を少量ずつ唇へ含ませる。
体温。
脈。
呼吸。
瞳の動き。
確認できるものを、すべて記録した。
何度も呼吸を確かめた。
一度確認しても安心できない。
数秒後には、また鼻先へ手を近づける。
脈へ触れる。
胸が動いているかを見る。
「ルーデウス。息はしてるわ」
エリスが何度目か分からない言葉を繰り返した。
「分かっています」
答えても、手を離せなかった。
分かっている。
今は呼吸している。
それでも、次の瞬間にも続いている保証はない。
「僕が見ていなければ、止まってしまうような気がするんです」
そんなはずはない。
見ているかどうかで、呼吸が変わるわけではない。
それでも目を逸らせなかった。
「ルーデウス」
ルイジェルドが静かに呼ぶ。
「お前が倒れれば、レイネが目を覚ました後に困る」
「まだ大丈夫です」
「大丈夫ではない。お前も一度死んだばかりだ」
「ですが――」
「俺が見る」
「私もいるわ」
エリスがレイネの寝台の横へ座った。
「何か変わったら、すぐに起こす」
断りたかった。
自分が離れた間に、何かが起きるかもしれない。
目を閉じている間に、呼吸が止まるかもしれない。
だが、一人で全部を続ければ、俺の判断が鈍る。
倒れれば、レイネを助ける者が一人減る。
それは、レイネを助けるための行動ではない。
「一時間だけお願いします」
「一時間じゃ足りないわ」
「では、二時間で」
「最初からそう言いなさい」
寝台へ横になっても、眠れなかった。
レイネの呼吸音へ意識が向く。
一度でも間隔が長くなると、身体が勝手に起き上がりそうになる。
そのたびにエリスが状態を確認し、「息してるわ」と小さく言ってくれた。
俺を安心させるために、何度も確認しているのだろう。
それを聞いているうちに、いつの間にか眠りへ落ちた。
目を覚ますと、ルイジェルドがレイネを見守っていた。
エリスは壁際で眠っている。
三人で交代しながら、レイネのそばへいた。
一人だけでは、恐怖に耐えられなかった。
二人がいてくれたから、少しだけ眠ることができた。
◇
レイネが意識を取り戻したのは、戦いから二日後だった。
「レイネ」
瞼が僅かに動いた瞬間、俺は寝台へ身を乗り出した。
赤い瞳が、ゆっくりと開く。
焦点が合わない。
何度か瞬きをした後、ようやく俺の顔を見た。
「ルーデウス……様」
声は、ほとんど音になっていなかった。
「生きています」
最初に伝えた。
レイネが何より先に、それを確かめようとしていることが分かったからだ。
「お守りが発動しました。僕は生きています」
レイネの目から、力が抜ける。
「そう……でございましたか」
「エリスとルイジェルドさんも無事です。レイネが治療したと聞きました」
「よかった……」
レイネは僅かに口元を緩めた。
そのまま目を閉じようとする。
その顔を見た瞬間、堪えていたものが一気に溢れそうになった。
二日間。
一度も目を開けなかった。
呼吸が止まるのではないかと、何度も怯えた。
もう声を聞けないのではないかと思った。
「レイネ」
気づけば、その手を握っていた。
力を入れれば壊れてしまいそうで、指先へ触れることしかできない。
「目を覚ましてくれて……よかった」
声が震える。
「本当に……」
続きが出てこない。
泣きたくない。
レイネを不安にさせたくない。
だが、目の奥が熱かった。
俺が泣くことより、レイネが生きていることの方が大切だ。
それでも、感情を完全に隠すことはできなかった。
「ルーデウス様……」
「眠る前に、一つだけ確認させてください」
今、長く話すべきではない。
それでも、治療方法だけは聞かなければならない。
「治癒魔術を使ってはいけないのですね」
「はい……」
「何をすればいいですか?」
「水分を……少しずつ。身体を、動かさず……魔力を、外から入れないでくださいませ」
「分かりました」
「申し訳……ございません」
「謝らないでください」
思わず強い声になった。
「お願いですから、謝らないでください。レイネが謝ることなんて、何もありません」
レイネが何を謝ろうとしたのかは分からない。
動けないこと。
心配を掛けたこと。
俺を完全には守れなかったと思っていること。
どれであっても、謝る必要はない。
「僕は、生きています。エリスもルイジェルドさんも生きています。レイネも生きています」
一つずつ、確かめるように言った。
「それで十分です。今は、それだけでいいんです」
レイネの赤い瞳が僅かに揺れた。
「はい……」
「今は休んでください。目を覚ましたら、また話してください」
「かしこまり……ました」
レイネは再び眠りへ落ちた。
それでも、目を覚ました。
言葉を交わせた。
温かい手へ触れることができた。
生きていると確かめられただけで、胸の中に詰まっていたものが、ようやく少し緩んだ。
◇
俺たちは一度、来た道を引き返した。
破壊された街道の先へ馬車で進むことはできない。
最も近い宿場町へ戻り、レイネが回復するまで滞在することにした。
最初の一週間、レイネはほとんど寝台から起き上がれなかった。
吐き気と頭痛が続き、薄いスープさえ受けつけない日がある。
光を眩しがり、少し身体を動かしただけで激しい眩暈に襲われた。
夜中に突然吐き始めることもあった。
そのたびに俺は飛び起きた。
背中を支える。
口元を拭く。
水を用意する。
何も食べられず、胃液だけを吐き続ける姿を見るたび、胸の中を握り潰されるようだった。
「大丈夫でございます」
苦しそうな呼吸の合間に、レイネはそう言った。
「どこが大丈夫なんですか」
何度も同じ返事をした。
「大丈夫な人は、血を吐いて倒れたりしません」
「ですが、命に別状は――」
「それでもです」
自分でも、少し強く言いすぎていると分かっていた。
だが、優しく受け流せなかった。
目の前でレイネが苦しんでいる。
その原因の一つが、自分を守るために使った力だ。
何も感じないふりなどできない。
ただし、自分の不安を理由に、レイネを責め続けてもいけない。
強く言った後には、水を飲めるかを確認し、呼吸が落ち着くまで背中を支えた。
二週目に入ると、背を支えれば座れるようになった。
それでも、長く起きていることはできない。
三週目には、自分で食事を取れるようになった。
部屋の中を数歩歩くこともできる。
だが、侍女の仕事へ戻ろうとするたび、俺かエリスが止めた。
「水くらい、私が取るわ」
「ですが、エリス様は剣の鍛錬を――」
「水を持ってきてからやるわよ」
「では、せめてお食事の準備を」
「宿の人が作るでしょう」
エリスは一歩も譲らなかった。
ルイジェルドも、レイネが荷物を持とうとすれば、無言で先に持ち上げた。
俺は体調の記録を続けた。
熱。
食事。
睡眠。
眩暈。
吐き気。
頭痛。
レイネが隠そうとしても、毎日確認する。
リーリャとの約束を思い出すまでもない。
今度こそ、自分を最後へ回すことを許したくなかった。
一か月が経つ頃、レイネはようやく普段と大きく変わらない速度で歩けるようになった。
顔色も戻り、食事も通常の量を取れる。
それでも、完全に元へ戻ったわけではなかった。
四人で部屋を囲み、あの日のことを話すことにした。
◇
「最初に、人神について話します」
俺はエリスとルイジェルドへ向き直った。
二人へ詳しく説明するのは、これが初めてだった。
「魔大陸へ転移した後から、僕は何度か夢の中で人神と名乗る存在に会っています」
エリスの表情が険しくなる。
「何度も?」
「はい」
「どうして言わなかったのよ」
責める声だった。
当然だと思う。
人神の名前を初めて聞いた直後、俺たちはオルステッドに襲われた。
説明していなかったことで、二人は何が起きているのか分からないまま戦うことになった。
俺が人神について話していれば、オルステッドに勝てたとは思わない。
それでも、何も知らずに巻き込まれることと、危険の可能性を共有していることは違う。
「正体が分からなかったからです。夢なのか、本当に存在するのかも、最初は判断できませんでした」
「レイネは知ってたの?」
「再会してから、僕が話しました」
エリスがレイネを見る。
レイネは静かに頭を下げた。
「私からも、エリス様とルイジェルド様へお伝えするよう、強く申し上げるべきでございました」
「レイネだけが悪いわけではありません」
俺は続ける。
「僕が、まだ説明する必要はないと考えていました。ですが、人神との接触そのものが皆さんの命へ関わる以上、今後は隠しません」
ルイジェルドが尋ねる。
「人神は、お前へ何をさせようとした」
俺は、これまでの助言を一つずつ話した。
キシリカとの出会い。
密輸団の倉庫。
シーローンでアイシャが追われていたこと。
正しい情報が含まれていた。
けれど、示された方法をそのまま使えば、危険な結果になっていた可能性もある。
「俺たちへ話さなかったのは、人神へ言われたからか」
「いいえ。僕自身の判断です」
「なら、今後は判断を変えろ」
ルイジェルドの言葉は短かった。
「お前一人が狙われるだけならともかく、今回は全員が巻き込まれた。相手が何者か分からないなら、なおさら俺たちにも話せ」
「はい」
反論する理由はない。
エリスも腕を組み、強く頷いた。
「次に夢へ出てきたら、全部話しなさい。くだらないことでもよ」
「分かりました」
「絶対よ」
「約束します」
人神の情報を共有する。
これは、仲間へ判断を丸投げするためではない。
俺も考える。
エリスも。
ルイジェルドも。
レイネも。
全員が同じ情報を持ったうえで、どう動くかを決めるためだ。
「死んでいた間にも、人神へ会いました」
俺は、白い空間での会話も伝えた。
オルステッドの周囲は、人神から見えないこと。
オルステッドが強い恐怖や嫌悪を生む性質を持っていること。
そして、魔力の回復が極端に遅いこと。
「通常の人間と比べ、およそ千分の一程度だと言っていました」
レイネが静かに頷いた。
「その点については、私が知る情報とも一致しております」
「だから、オルステッドさんは魔力の消費を抑えていたのですね」
「はい」
レイネは寝台の上で背を伸ばした。
一か月前と比べれば、声にも力が戻っている。
「オルステッド様は、強大な魔力をお持ちでございます。しかし、一度消費した魔力の回復には、非常に長い時間を要します。そのため、不要な戦闘や、必要以上に大きな術を使うことを避けておられます」
「あの一分で、これ以上戦う必要がないと思ったの?」
エリスが尋ねる。
「はい」
レイネは頷いた。
「私が本気で五分間まで続ける意思を持っていると理解し、これ以上戦えば、ご自身の魔力を無意味に消費すると判断なさったのでございます」
一分間、レイネが一時的に押し返した場面はあった。
だが、オルステッドにはまだ多くの力が残っていた。
続ければ、レイネは自分を壊す。
オルステッドも、回復に長い年月を要する魔力を消費する。
互いに戦闘を続ける意味がなくなったのだろう。
「《制限解除》についても、教えてください」
俺はレイネを見る。
黒くなった髪。
戦場を別の場所へ変えてしまうほどの力。
俺が死んでいた間に使われたため、実際の姿は見ていない。
「発動直後は、通常時に扱える力のおよそ百五十パーセントから始まります」
レイネは説明した。
「その後、一秒ごとに約二パーセントずつ出力が上昇いたします。体内では魔力が強制的に生成され続けますので、発動中に魔力が尽きることはございません」
「だから、時間が経つほど強くなったのね」
エリスが言った。
「はい。今回、およそ五十秒が経過した段階で、魔力消費を抑えておられたオルステッド様と、正面から拮抗できる状態へ達しました」
その時点で、通常時のおよそ二百五十パーセント。
その後も出力は上がり続けた。
最後の十秒ほどは、短時間とはいえレイネが押していたという。
「ですが、使用時間が長くなるほど、解除後の反動も急激に大きくなります」
レイネが続ける。
「一分間の使用でも、身体が通常の状態へ戻るまで、一か月を要しました」
「五分間使っていたら?」
俺が尋ねると、レイネは少しだけ沈黙した。
「生死の境を彷徨っていた可能性が高いと存じます」
エリスが息を呑む。
ルイジェルドの表情も険しくなる。
「本当に、五分使うつもりだったのですか」
「はい」
迷いのない答えだった。
胸が苦しくなる。
俺を守るため。
俺の蘇生が完了するまでオルステッドを止めるため。
それでも、レイネまで死んでよいとは思えない。
「それは困ります」
「ルーデウス様」
「僕が殺されたからといって、レイネまで死ぬ必要はありません」
「必要性で決めたわけではございません」
レイネは静かに答えた。
「私が、そうすると決めたのでございます」
「なおさら困ります」
俺は視線を逸らさなかった。
「今回、《制限解除》を使わなければ、僕の蘇生が終わる前に身体を破壊されていたかもしれません。エリスやルイジェルドさんも殺されていた可能性があります。使った判断そのものを否定するつもりはありません」
結果として、俺たちは全員生きている。
レイネが戦ったことには感謝している。
「ですが、僕を助けるためなら、五分使って死んでも構わないとは考えないでください」
「しかし――」
「レイネ」
エリスが言った。
「私も嫌よ」
「エリス様」
「ルーデウスが死ぬのも嫌。レイネが代わりに死ぬのも嫌。どっちかを選べって言われても、選ばないわ」
ルイジェルドも頷く。
「一人で決めるな。俺たちが動けるなら、俺たちにも役割を与えろ」
リーリャへ約束したとおりだった。
俺一人でレイネを止めようとするのではない。
エリスとルイジェルドにも話す。
全員でレイネへ伝える。
「相談できる時間がないこともあります」
俺は続けた。
「今回のように、一瞬で判断しなければならない状況もある。それでも、最初から自分が死ぬところまでを前提にしないでください。生きて戻る方法を、最後まで探してください」
レイネは、三人の顔を順番に見た。
すぐには答えない。
やがて、僅かに目を伏せた。
「承知いたしました」
完全に納得した声ではなかった。
それでも、今はそれでいい。
一度の会話だけで、レイネの考え方がすべて変わるとは思っていない。
これからも確認する。
無理をしていれば止める。
俺一人で止められなければ、エリスとルイジェルドにも頼る。
既に約束したことを、今度は具体的な行動へ変えるだけだ。
「それから、現在の魔力についてお伝えしなければなりません」
レイネが言った。
「《制限解除》は、終了時に、私が蓄積していた魔力も含め、すべてを枯渇させます」
「すべて?」
「はい」
「今も、魔力がないのですか?」
「既に、常時生成される魔力量はある程度まで回復しております。ただし、私の魔力回復には通常とは異なる制約がございます」
レイネは理由までは説明しなかった。
話せない事情へつながるのだろう。
知りたい。
どうして回復が遅いのか。
何を代償としているのか。
それでも、今ここで必要なのは、秘密をすべて明かしてもらうことではない。
今後、どの程度まで動けるのか。
俺たちが何へ注意すべきなのか。
判断に必要な情報を共有してもらうことだ。
「身体については、おおむね一か月で回復いたしました。ですが、以前と同じ量の魔力を蓄え、最大出力を安定して扱える状態まで戻るには、少なくとも五年以上を要する見込みでございます」
言葉の意味を理解するまで、少し時間が掛かった。
「五年……?」
「はい」
「五年間、魔術を使えないのですか?」
「いいえ。身体が回復した現在であれば、通常の魔術行使や、S級冒険者相当の戦闘を続けることに支障はございません。その程度の出力であれば、消費する魔力量よりも、私の体内で新たに生成される魔力量の方が上回りますので」
「では、これまでどおり戦えるのですか?」
「日常的な戦闘に限れば、おおむねその認識で問題ございません。旅の護衛、一般的な魔物との戦闘、治癒や生活に必要な魔術につきましても、これまでと大きく変わりません」
S級冒険者相当。
普通なら、それだけでも十分すぎる戦力だ。
俺たちが旅の途中で遭遇する魔物や盗賊を相手にするなら、以前と変わらず動ける。
「ただし、それ以上の出力を用いた場合には、消費量が生成量を上回ります。蓄積された魔力を消費することになりますので、長時間の継続はできません」
「以前と同じ最大出力は?」
「現時点では不可能でございます。以前と同じ魔力量を蓄え、最大出力を安定して扱える状態まで戻るには、少なくとも五年以上を要します」
失われたのは、レイネが持っていた戦力のすべてではない。
普段どおり魔術を使い、S級冒険者に相当する動きを続けることはできる。
旅の護衛も。
魔物との戦闘も。
治癒や生活に必要な魔術も、これまでと大きく変わらない。
失われたのは、オルステッドへ迫るほどの膨大な魔力を、一度に引き出し続ける力だった。
一分。
たった一分のために。
レイネは一か月もの間、まともに身体を動かせなくなった。そして、以前と同じ最大出力を取り戻すまで、五年以上を必要とする代償を負った。
俺を守るために。
胸の奥へ、重いものが沈む。
「申し訳ありません」
思わず口から出た。
レイネの表情が僅かに変わる。
「ルーデウス様がお謝りになることではございません」
「ですが、僕が殺されたから――」
「殺されたことは、ルーデウス様の過失ではございません」
エリスが、以前俺へ言った言葉と同じだった。
傷ついたことを謝る必要はない。
けれど、感情は簡単には追いつかない。
血を吐き、動かなくなったレイネの姿が、今でも目を閉じるたびに浮かぶ。
「それでも、レイネが以前と同じ力を取り戻すまで五年以上掛かることを、何とも思わないことはできません」
「何とも思わなくてよいとは申し上げません」
レイネは俺を見た。
「ただ、ご自身を責めるのではなく、私が支払った代償を無駄にしないでくださいませ」
「どうすれば、無駄になりませんか」
「生きてください」
即答だった。
「人神へ利用されず。オルステッド様からも再び敵と見なされず。エリス様、ルイジェルド様とともに、無事にお帰りくださいませ」
「レイネも一緒です」
俺は言った。
「僕たちだけではありません。レイネも一緒に帰ります」
赤い瞳が、僅かに揺れる。
「はい」
今度の返事には、先ほどよりも力があった。
◇
オルステッドとの関係についても、必要な範囲だけ説明された。
レイネとオルステッドは、以前から人神へ対抗するために協力していた。
オルステッドはレイネへ戦い方を教えた師であり、長い間、互いに情報を交換してきた仲間でもある。
手紙は、おおむね一年に一度。
ただし、毎年必ず送るわけではない。
重要な変化が起きた時に限り、送っていた。
その内容も、ほとんどが俺についてだった。
異常な魔力量。
無詠唱魔術。
俺がこの世界でどのように成長しているか。
転移事件後も生存している可能性。
どれも、レイネがオルステッドへ伝える必要があると判断した重大事項だけだ。
「なぜ、僕の情報だけを?」
俺が尋ねても、レイネはすべてを話さなかった。
「ルーデウス様の存在が、非常に重要であると判断していたためでございます」
「何にとって重要なのですか?」
「今は、お話しできません」
そこは変わらない。
俺の知らないところで、自分の情報が送られていた。
しかも、その相手は、俺を殺した。
不安がないわけではない。
それでも、怒りだけでレイネを責めるつもりはなかった。
レイネには、俺へ話せない事情がある。
だからといって、命に関わる情報まで一切確認せず受け入れることもできない。
「僕たちの命へ関わる情報ですか?」
「現時点では、直接危険へつながるものではございません」
「状況が変わった場合は?」
「必ずお伝えいたします」
必要な境界だけを確認する。
すべての秘密を聞き出すのではない。
レイネが話せないことを認めながら、俺たちが判断するために必要な情報は共有してもらう。
「オルステッドさんと、今後も手紙を交換するのですか?」
「はい」
「今回のことがあっても?」
「今回の件と、これまでの協力関係は分けて考える必要がございます」
レイネの声は落ち着いていた。
「私はオルステッド様の判断を許してはおりません。ですが、人神へ対抗するうえで、あの方が必要な協力者であることも変わりません」
感情と必要な判断を分けている。
簡単なことではないはずだ。
自分が守ろうとした相手を殺した人物。
その相手と、今後も協力する。
レイネが何を感じているのか、俺にはすべて分からない。
少なくとも、何も感じていないわけではないことだけは、オルステッドと対峙した時の言葉から分かった。
「仲直りできるの?」
エリスが尋ねる。
「簡単に以前と同じとはまいりません」
レイネは僅かに苦笑した。
「ですが、互いに一度殺し合いかけた程度で、完全に関係を断つような間柄でもございません」
その言葉の重さが、俺たちとは違う。
二人がどれほど長く関わってきたのか。
何度対立し、何度協力してきたのか。
俺には分からない。
ただ、レイネにとってオルステッドは、単なる敵ではない。
師であり。
仲間であり。
人神と戦うために必要な協力者でもある。
その相手へ、一分間とはいえ本気で立ち向かった。
俺を失わないために。
その事実を考えると、胸の奥が熱くなる。
同時に、今まで以上に、自分の気持ちを曖昧にはできないと思った。
「助けてくれて、ありがとうございます」
俺は改めて言った。
「当然の務めでございます」
「務めだけですか?」
レイネの赤い瞳が僅かに揺れた。
以前にも聞いた。
答えも知っている。
それでも、聞きたかった。
俺を守った理由が、主人だからという言葉だけで終わってほしくなかった。
「……いいえ」
小さな声だった。
「私自身が、ルーデウス様を失いたくなかったのでございます」
それ以上は、何も言えなくなった。
俺はレイネが好きだ。
その気持ちは、もう自分でも分かっている。
けれど、今伝えるべきではない。
俺は主人で。
レイネは侍女として仕えている。
命を助けられた直後でもある。
この状況で告白すれば、レイネが本当に自由な意思で答えられるのか分からない。
レイネが俺を失いたくないと言ったことを、自分への恋愛感情だと勝手に決めつけることもできない。
だから、今は受け取るだけにする。
「僕も、レイネを失いたくありません」
それだけを伝えた。
レイネは、しばらく俺を見つめた後、静かに頭を下げた。
◇
一か月の滞在を終え、俺たちは再び旧フィットア領へ向けて出発した。
破壊された街道は通れない。
宿場で別の道を調べ、山脈の南側を迂回する経路を選んだ。
以前より、到着は大幅に遅れる。
それでも、レイネが回復する前に旅を再開するという選択肢はなかった。
御者台には俺とエリス。
ルイジェルドが前方を歩き、レイネは荷台で休んでいる。
身体は回復した。
S級冒険者相当までの戦闘や、通常の魔術行使であれば、これまでどおり行えるという。
その範囲なら、消費する魔力よりも体内で新たに生成される魔力の方が多く、長時間の行動にも支障はない。
それでも、オルステッドと戦う以前と同じ最大出力を取り戻すには、五年以上掛かる。
普段どおり動けるからといって、完全に元へ戻ったわけではない。
まして、一か月もの間、まともに起き上がれないほど身体を壊した直後だ。
今のレイネへ、回復したのだから以前と同じように働けと求めるつもりはなかった。
「本当に、私が御者を務めなくてもよろしいのでしょうか」
荷台から声が聞こえる。
「駄目です」
俺は即答した。
「ですが、ルーデウス様は――」
「僕の体調は戻っています。レイネは身体が回復したばかりです」
「身体につきましては、既に問題ございません」
「S級冒険者相当まで動けることと、休まなくていいことは別です」
「しかし、御者程度であれば、消費する魔力も――」
「魔力の問題だけではありません」
レイネが言葉を止める。
「一か月前まで、起き上がることもできなかったでしょう。少しでも眩暈や頭痛がしたら、すぐに横になってください」
「ルーデウス様」
「リーリャからも、レイネが無理をしていたら止めるよう頼まれています」
レイネが言葉を止める。
エリスが隣で頷いた。
「私も頼まれてないけど止めるわ」
「俺もだ」
前方からルイジェルドの声が返ってくる。
三人から同時に言われ、レイネは小さく息を吐いた。
「承知いたしました」
以前なら、それでも仕事を始めようとしたかもしれない。
今は、荷台へ戻り、用意された寝具へ座った。
まだ完全に自分を休ませることへ慣れてはいない。
それでも、俺たちへ任せることを受け入れている。
一つの変化だった。
迂回路へ入る前、高台から戦いの跡が見えた。
遠くから見ても、山肌が大きく欠けている。
街道があった場所は崩れ、谷へ大量の岩が落ちていた。
レイネとオルステッドが戦った場所。
俺が一度死んだ場所。
二度と戻らなかった可能性のある場所。
胸へ手を当てる。
心臓は動いている。
お守りは、もうない。
次に死ねば、同じように戻れる保証はない。
だからといって、以前より何もできなくなるつもりはなかった。
死なないように考える。
情報を集める。
一人で抱えない。
仲間と共有する。
危険へ向かう必要がある時には、全員が生きて帰る方法を選ぶ。
一度蘇生したからこそ、命を軽く扱うのではない。
二度目がないからこそ、今ある命で、まだ終わっていないことを続ける。
「ルーデウス」
エリスが俺の胸元を見た。
「本当に、動いてるわよね」
「はい」
「触っていい?」
「どうぞ」
エリスの手が、俺の胸へ触れる。
服の上から、心臓の鼓動を確かめる。
掌は、しばらく動かなかった。
俺が生きていると、鼓動の一つ一つを数えているように見えた。
「動いていますよ」
「分かってるわ」
答えながらも、手はすぐには離れない。
エリスも、俺が倒れた瞬間を見ている。
目を開けている俺を見ても、言葉だけでは完全に安心できないのかもしれない。
しばらくそのままにした後、ようやく手を離した。
「次は、守るわ」
「僕も守ります」
「私が先よ」
「順番ではありません」
「私の方が速いもの」
「なら、僕が魔術を使いやすいよう援護してください」
「分かったわ」
エリスはすぐに答えた。
俺が一方的に守るのではない。
エリスだけが守るのでもない。
ルイジェルドも。
レイネも。
動ける者が、必要な場所へ入る。
誰か一人が、自分の命を使い切ることだけを前提にしない。
荷台を振り返る。
レイネは寝具へ背を預け、静かに目を閉じていた。
眠っているわけではない。
俺たちの会話を聞き、口元を僅かに緩めている。
その姿を見て、胸の中へ残っていた不安が少しだけ和らいだ。
俺たちは再び西へ進む。
アルフォンスが待つ場所へ。
エリスの故郷へ。
フィリップとヒルダ。
ギレーヌ。
シルフィ。
そして、母様。
まだ見つかっていない人々の情報を確かめるために。
一か月遅れた。
レイネは、以前と同じ最大出力を取り戻すまで、五年以上を必要とする代償を負った。
俺は、一度命を失った。
それでも、四人ともここにいる。
馬車は迂回路へ入り、旧フィットア領へ向けて進み続けた。