白髪の侍女   作:MトK

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第四十六話 帰る場所

ルーデウス視点

 

赤竜山脈を南側から迂回し、旧フィットア領へ近づくにつれて、街道を行き交う人の数は増えていった。

 

商人や旅人だけではない。

 

荷車へ残った家財を積み、幼い子供の手を引いて歩く家族。

 

片脚を失い、松葉杖をつきながら進む男。

 

道端へ座り込み、通りかかる者へ家族の名前を尋ね続ける老人。

 

服装も年齢も、向かう方向さえ違う。

 

それでも、彼らの多くは転移災害によって故郷を失った者だった。

 

俺たちも、立ち寄った町ごとに避難民の名簿を確認した。

 

フィリップ。

 

ヒルダ。

 

ギレーヌ。

 

シルフィ。

 

だが、誰の名前も見つからなかった。

 

名前がないたび、安堵してよいのか、落胆するべきなのか分からなくなる。

 

死亡者の記録にないことだけを考えれば、まだ希望は残っている。

 

だが、生存者の記録にもいない。

 

何も分からないという状態が続くだけだった。

 

エリスは結果を聞くたび、受付の者へ短く礼を言った。

 

情報がない者へ詰め寄ることはない。帳簿を何度確認しても、記録に存在しない名前が現れるわけではないと分かっているからだろう。

 

以前のエリスなら、納得できる答えを得られるまで声を荒らげていたかもしれない。

 

今は違う。

 

聞くべきことを聞き、相手が持っていない情報まで求めることはしない。

 

それでも、宿へ戻った後の鍛錬は、故郷へ近づくほど長くなった。

 

身体を壊すまで続けるような真似はしない。

 

疲労で足運びが乱れ始めれば、自分でも気づいている。

 

ルイジェルドに終わりを告げられれば、多少不満そうな顔はしても剣を納める。

 

今のエリスは、焦りを剣へぶつけるだけではない。

 

自分が明日も動ける状態を残しておかなければ、家族を捜すこともできないと理解している。

 

それでも、剣を振っている間だけは、何も分からない不安から意識を逸らせるのかもしれない。

 

俺には、そう見えた。

 

「今日はここまでだ」

 

ルイジェルドが告げる。

 

エリスは木剣を構えたまま、僅かに眉を寄せた。

 

「もう一度だけ」

 

「右足の踏み込みが浅くなっている」

 

指摘され、エリスは自分の右足を見た。

 

試すように一度だけ地面を踏む。

 

本人にも疲労が分かったらしい。

 

「……分かったわ」

 

木剣を下ろす。

 

俺は水の入った革袋を差し出した。

 

「どうぞ」

 

「ありがとう」

 

エリスは受け取り、半分ほどを一息に飲んだ。

 

額から汗が流れている。

 

頬も赤い。

 

だが、呼吸が整うまで休んでから、使用した木剣を自分で片づけた。

 

「明日は、もっと長くやるわよ」

 

「明日の身体へ聞け」

 

「私の身体なんだから、私が決めるわ」

 

「なら、今夜はよく眠れ」

 

「言われなくても寝るわよ」

 

二人のやり取りを聞きながら、俺は馬車へ目を向けた。

 

レイネが荷台から降りている。

 

一か月前と比べれば、身体はかなり回復していた。

 

歩き方に不自然さはない。

 

食事も普段とほぼ同じ量を取れるようになった。

 

軽い家事や馬具の点検程度なら、休憩を挟まずに行える。

 

レイネ自身の見立てでは、あと一週間か二週間もあれば、身体だけなら完全に元へ戻るらしい。

 

ただし、魔力は別だった。

 

以前と同じような最大出力は使えない。

 

今のレイネが無理に膨大な魔力を使えば、身体が回復していても再び倒れる可能性がある。

 

普段の戦闘や生活魔術には問題がないと何度説明されても、血を吐いて動かなくなった姿が頭から離れなかった。

 

俺は、レイネが馬車の後ろへ置かれた水樽へ手を伸ばすのを見て、すぐに近づいた。

 

「何をするつもりですか?」

 

「夕食に使用する水を、調理場まで運ぼうかと」

 

「僕が持ちます」

 

「この程度であれば問題ございません」

 

「昨日も同じことを言って、宿へ着いた後に少し休んでいたでしょう」

 

「移動の疲れが重なっただけでございます」

 

「なら、今日は移動の疲れが重なる前に休んでください」

 

レイネは水樽と俺を交互に見た。

 

以前なら、そのまま持ち上げていたかもしれない。

 

俺が何を言っても、大丈夫だと答え、必要だからと仕事を続けたはずだ。

 

今は小さく息を吐き、手を離した。

 

「承知いたしました」

 

その返事を聞くたび、少しだけ安心する。

 

完全に納得しているわけではないだろう。

 

それでも、自分一人で決めず、俺たちの心配を受け入れようとしている。

 

「夕食の準備まで、全部やめろとは言いません。座ってできることをお願いします」

 

「では、食材の確認と下ごしらえをいたします」

 

「それなら大丈夫です」

 

レイネは馬車から折り畳み式の小さな椅子を出し、そこへ腰を下ろした。

 

野菜を一つずつ確認し、傷んでいる部分だけを切り落としていく。

 

俺が水を運び。

 

エリスが薪を集め。

 

ルイジェルドが周囲を確認する。

 

レイネは食材を整え、火へ掛ける順番を指示する。

 

誰か一人がすべてを行うのではない。

 

レイネが今できない部分は、俺たちが補う。

 

それを、レイネも以前より受け入れられるようになっていた。

 

俺たちが助けることを、レイネの失敗として扱わない。

 

できないことを責めるのでもない。

 

今できる役割を、全員で分ける。

 

そうすることが自然になり始めている。

 

「味つけは私がするわ」

 

エリスが鍋を覗き込んだ。

 

「昨日は塩を入れすぎていました」

 

「昨日はルーデウスが横から話しかけたからよ」

 

「僕のせいですか?」

 

「集中していたのに、シルフィの名簿がなかったとか言うからでしょう?」

 

言ってから、エリスは口を閉じた。

 

俺も返事ができなかった。

 

シルフィの名簿がなかった。

 

死亡者の記録にも。

 

生存者の記録にも。

 

それがよい知らせなのか、悪い知らせなのか分からない。

 

自分で話したことだ。

 

エリスを責める理由などない。

 

それでも、名前を聞いただけで胸の奥が冷たくなった。

 

エリスは鍋から目を離し、俺を見た。

 

「旧フィットア領へ着けば、もっと詳しい記録があるわ」

 

「はい」

 

「まだ、何も決まってないでしょう?」

 

「そうですね」

 

俺へ言っている。

 

同時に、自分自身へも言い聞かせているのだろう。

 

フィリップとヒルダも、まだ見つかっていないだけ。

 

ギレーヌも、どこかでこちらへ向かっているかもしれない。

 

そう思わなければ、進み続けることが難しかった。

 

俺も同じだ。

 

シルフィはまだ見つかっていないだけ。

 

母様もどこかで生きている。

 

その可能性を捨てずに進むしかない。

 

レイネが切り終えた野菜を鍋へ入れた。

 

「今夜の段階では、どなたについても結論を出す必要はございません」

 

静かな声だった。

 

「明日確認できる情報は、明日確認すればよろしいのでございます。今夜はお食事を取り、お身体をお休めくださいませ」

 

エリスがレイネを見る。

 

「分かってるわ」

 

「はい」

 

「でも、味つけは私がするからね」

 

「塩は、こちらの匙で一杯までにしてくださいませ」

 

「少なくない?」

 

「昨日も、最初は同じことを仰いました」

 

「今日は動いたから、もっと必要よ」

 

「鍛錬の量と、全員分の塩分は関係ございません」

 

普段どおりの会話が続く。

 

それだけで、張り詰めていた胸が少しだけ緩んだ。

 

明日、何を聞かされるのかは分からない。

 

けれど、今夜は四人で食事を取れる。

 

目の前にいる人たちの声を聞ける。

 

それを大切にしようと思った。

 

 

翌日の昼過ぎ。

 

俺たちは、旧フィットア領へ入った。

 

最初に目に入ったのは、何もない大地だった。

 

地図では、街道の先に村があるはずだった。

 

畑があり。

 

家があり。

 

人が暮らしていたはずだった。

 

だが、どこにも見当たらない。

 

地面の一部は深く抉られ、別の場所では岩盤が地表へ露出している。草木も少なく、生き物の気配さえほとんど感じられなかった。

 

俺の知っている景色は、残っていない。

 

ブエナ村。

 

家。

 

畑。

 

父さんと剣の練習をした庭。

 

シルフィへ魔術を教えた草原。

 

母様が薬草を育てていた場所。

 

リーリャが洗濯物を干していた庭先。

 

ノルンが眠っていた部屋。

 

レイネが朝になると窓を開け、寝具を整えていた家。

 

それらは壊れたのではない。

 

燃えたのでもない。

 

どこにあったのかさえ分からないほど、土地ごと消えていた。

 

転移災害の規模は理解していたつもりだった。

 

父さんの捜索団で、多くの被災者を見た。

 

町や村が丸ごと失われたという話も聞いた。

 

それでも、自分の目で見るまで、本当の意味では分かっていなかった。

 

俺の中では、どこかに家が残っているような気がしていた。

 

壊れていても。

 

誰も住んでいなくても。

 

場所だけは残っていて、戻れば昔の痕跡に触れられるのではないかと思っていた。

 

何もなかった。

 

シルフィも、ここから飛ばされた。

 

たった一人で。

 

どこへ飛ばされたのかも分からない。

 

魔術を使える。

 

俺が教えた。

 

けれど、魔術を使えるからといって、知らない土地で一人きりになって無事でいられるとは限らない。

 

俺が魔大陸で生き残れたのは、エリスとルイジェルドがいたからだ。

 

シルフィにも、誰かがいてくれたのだろうか。

 

助けを求められる相手と出会えたのだろうか。

 

胸の奥が冷たくなる。

 

今すぐ名前を呼びながら荒地を走り回りたい衝動に駆られる。

 

そんなことをしても、シルフィは見つからない。

 

情報を集める。

 

記録を確認する。

 

分かっている。

 

だが、目の前にあったはずの故郷が消えていると、理屈だけでは感情を抑えきれなかった。

 

「ルーデウス様」

 

隣からレイネの声がした。

 

顔を向ける。

 

レイネも荒地を見つめていた。

 

表情は大きく変わっていない。

 

ただ、胸元で重ねられた指へ、強い力が入っている。

 

レイネにとっても、ここは暮らした場所だ。

 

俺より前から。

 

俺が何も知らない赤子だった頃から、この土地を知っている。

 

レイネが何を思っているのか、俺にはすべて分からない。

 

それでも、何も感じていないはずはなかった。

 

「レイネも、つらいですか?」

 

尋ねると、レイネはすぐには答えなかった。

 

「はい」

 

小さな返事だった。

 

「私にとっても、帰るべき場所の一つでございました」

 

ございました。

 

過去の言葉だ。

 

もう、その場所はない。

 

俺は手を伸ばし、レイネの手へ触れた。

 

何かを慰められるとは思わない。

 

失われた家を戻すこともできない。

 

ただ、一人で見ているのではないと伝えたかった。

 

レイネも手を退けなかった。

 

握り返しはしない。

 

けれど、指先の力が僅かに緩んだ。

 

「進みましょう」

 

前方からエリスの声がした。

 

エリスは、荒地の先を見たまま立っている。

 

ロアの町も、この先にあった。

 

フィリップとヒルダの屋敷。

 

エリスが生まれ育った場所。

 

剣を振り。

 

勉強から逃げ。

 

俺へ魔術を習い。

 

誕生日を祝った場所。

 

そのすべてが消えている。

 

「アルフォンスのところまで行けば、記録があるのよね?」

 

「はい」

 

俺は答えた。

 

「なら、ここで止まっていても仕方ないわ」

 

声は震えていなかった。

 

泣いてもいない。

 

けれど、右手は剣の柄を強く握っている。

 

平気なのではない。

 

止まれば何もできなくなるから、進もうとしているのだろう。

 

そう見えた。

 

ルイジェルドは何も言わず、エリスの少し前へ出た。

 

いつものように離れて先行するのではなく、何かがあればすぐに戻れる距離を保っている。

 

俺たちは馬車を動かした。

 

誰も景色から目を逸らさなかった。

 

 

避難民が集まる拠点は、旧ロアの町から少し離れた場所へ作られていた。

 

何百もの天幕。

 

仮設の木造家屋。

 

治療所。

 

食料を配る建物。

 

救助用の道具や資材を保管する倉庫。

 

周囲には柵が設けられ、兵士と冒険者が巡回している。

 

一時的な野営地という規模ではない。

 

既に一つの町として動き始めていた。

 

入口へ近づくと、兵士が馬車を止めた。

 

「身分証を確認する」

 

俺たちは冒険者札を差し出した。

 

兵士は俺の札を確認し、次にエリスの名前を見た瞬間、表情を変えた。

 

「エリス・ボレアス・グレイラット様で間違いありませんか」

 

「そうよ」

 

「ルーデウス・グレイラット殿も?」

 

「はい」

 

兵士はもう一人の兵士を呼び、拠点の奥へ走らせた。

 

入口付近にいた人々が、こちらへ目を向ける。

 

ボレアスの名を聞いた者がいるのだろう。

 

囁き声が広がり始めた。

 

エリスは背筋を伸ばしたまま、正面を向いている。

 

その手が、俺の袖をつかんだ。

 

指先に、強い力が入っている。

 

俺は何も言わず、袖の上からエリスの指へ手を重ねた。

 

大丈夫だとは言えない。

 

この先で、どのような情報が待っているか分からない。

 

それでも、一人ではないと伝えることはできる。

 

「ルードさん。馬車をお願いします」

 

俺が呼びかけると、ルイジェルドは短く頷いた。

 

「ああ」

 

馬のそばへ移動し、集まろうとする者たちを静かな視線で牽制する。

 

レイネは俺たちの横へ立った。

 

長く立っていること自体は、もう問題ない。

 

それでも、俺が一度顔色を確認すると、レイネは気づいたように小さく頷いた。

 

無理はしていない。

 

その合図だった。

 

やがて、拠点の奥から一人の女性が走ってきた。

 

褐色の肌。

 

片目を覆う眼帯。

 

鍛えられた長い手足。

 

腰に下げられた剣。

 

見間違えるはずがない。

 

「ギレーヌ!」

 

エリスが叫んだ。

 

ギレーヌの足が止まる。

 

残った片目が大きく見開かれた。

 

いつも表情の変化が少なかったギレーヌの唇が、はっきりと震えている。

 

「エリス……お嬢様」

 

その声を聞いた瞬間、エリスは走り出した。

 

俺の袖から手が離れる。

 

ギレーヌの胸へ飛び込み、両腕で強く抱きついた。

 

ギレーヌは一歩だけ後ろへ下がったが、エリスの身体を受け止めた。

 

「ギレーヌ! 生きてたのね!」

 

「ああ」

 

ギレーヌの声も震えていた。

 

「お嬢様も、よく……よく、生きて戻られた」

 

「当たり前でしょう!」

 

エリスはギレーヌの胸へ顔を押しつけたまま答えた。

 

「ルーデウスとルードとレイネがいたもの。死ぬわけないわ!」

 

「そうか」

 

ギレーヌの腕へ力が入る。

 

「そうか……」

 

同じ言葉を、もう一度繰り返した。

 

ギレーヌが生きている。

 

エリスが、ようやく大切な人と再会できた。

 

胸の奥から安堵が込み上げた。

 

エリスを故郷まで連れてきた。

 

その先に、迎えてくれる人が一人はいた。

 

本当によかった。

 

俺まで泣きそうになるほど、嬉しかった。

 

だが、喜びだけでは終われなかった。

 

ギレーヌは、フィリップとヒルダがどこにいるのかを言わない。

 

エリスも、やがてそのことに気づいた。

 

ギレーヌの胸から顔を上げる。

 

「お父様とお母様は?」

 

ギレーヌの身体が固まった。

 

「お嬢様」

 

「どこにいるの?」

 

すぐに答えない。

 

その沈黙を見ただけで、胸が重くなった。

 

何も聞いていない。

 

それでも、よい知らせではないことだけは分かってしまった。

 

「アルフォンスのところへ行こう」

 

ギレーヌが言った。

 

「質問に答えて」

 

「私が断片的に話すより、記録を持つアルフォンスから聞いた方がいい」

 

「生きてるの?」

 

ギレーヌの片目が揺れた。

 

エリスの手が、ゆっくりとギレーヌの服から離れた。

 

「……アルフォンスのところへ案内して」

 

それ以上は尋ねなかった。

 

声も荒らげない。

 

だが、先ほどまで抱き合っていた温かさが、一瞬で失われたように見えた。

 

ギレーヌが俺へ顔を向ける。

 

「ルーデウス」

 

「はい」

 

「よく、お嬢様をここまで連れ帰ってくれた」

 

「僕だけではありません」

 

自分だけの功績にするつもりはなかった。

 

俺がエリスを守った場面はある。

 

だが、エリスにも何度も助けられた。

 

ルイジェルドがいなければ、魔大陸を抜けることはできなかった。

 

レイネがいなければ、シーローンでも、オルステッドとの戦いでも、全員が生き残れなかった。

 

「エリス自身が考え、戦ってきました。ルードさんとレイネも、ずっと一緒でした」

 

ギレーヌはルイジェルドへ視線を向ける。

 

次にレイネを見る。

 

レイネは深く頭を下げた。

 

「エリス様は、旅の途中で何度も私どもをお助けくださいました。戦いだけではございません。負傷者へ水や毛布を運び、救助したお子様方のそばへ残るべき場面では、ご自身からその役目を選ばれております」

 

ギレーヌの片目が僅かに見開かれる。

 

エリスがレイネを振り返った。

 

「今、それを言う必要ある?」

 

「ギレーヌ様へ、正しくお伝えする必要がございますので」

 

「ルーデウスだけで十分でしょう」

 

「ルーデウス様は、ご自身の働きを含め、控えめにお話しになる傾向がございます」

 

「僕の話はしていませんよ」

 

「同じことでございます」

 

レイネは普段どおりだった。

 

エリスがどのように旅をしたのか、ギレーヌへ伝えるために必要な部分だけを補っている。

 

エリスを過剰に褒めて慰めようとしているわけではない。

 

実際にあったことだけを伝えている。

 

ギレーヌは、エリスを見た。

 

「強くなられたのですね」

 

「当然よ」

 

エリスは胸を張った。

 

その姿は、ほんの僅かにいつものエリスへ戻っていた。

 

だが、すぐに表情を引き締める。

 

「話を聞きに行くわ」

 

「ああ」

 

ギレーヌは俺たちを拠点の中央へ案内した。

 

 

中央に建てられた建物は、周囲の仮設家屋より少し大きかった。

 

それでも、貴族の屋敷とは比べられない。

 

木材を組み合わせた二階建てで、一階には帳簿や地図が並んでいる。

 

職員たちは、誰もが何かを抱えて動いていた。

 

救助された者の名簿。

 

行方不明者の記録。

 

食料の配給表。

 

不足している薬の一覧。

 

家族を捜す者から聞き取った情報。

 

今もここでは、誰かを捜し。

 

誰かを生かし。

 

誰かの死を確かめる作業が続いている。

 

紙へ書かれた名前の一つ一つに、その人を待っている誰かがいる。

 

そのことを考えると、積み上げられた帳簿が恐ろしく重いものに見えた。

 

奥の部屋へ入ると、机の向こうに白髪交じりの男が立っていた。

 

アルフォンス。

 

ボレアス家へ長く仕えていた執事だ。

 

以前より痩せている。

 

頬はこけ、顔には深い疲労が刻まれていた。

 

それでも、エリスの姿を見ると背筋を伸ばし、深く頭を下げた。

 

「エリスお嬢様。よくぞ、ご無事でお戻りになられました」

 

「ええ」

 

エリスは短く答えた。

 

「お父様とお母様のことを教えて」

 

「まずは、長旅のお疲れを――」

 

「今、聞くわ」

 

アルフォンスはエリスの顔を見た。

 

休めと言われても、何も聞かないまま休めるはずがない。

 

アルフォンスにも、それが分かったのだろう。

 

静かに頷く。

 

その前に、俺たちへ視線を移した。

 

「こちらの方は?」

 

「魔大陸から、私とルーデウスを守ってくれたルードよ」

 

エリスが答えた。

 

アルフォンスはルイジェルドへ頭を下げる。

 

「お嬢様とルーデウス様をお守りくださったこと、ボレアス家に代わり感謝申し上げます」

 

「俺だけが守ったわけではない」

 

ルイジェルドは静かに答えた。

 

「二人は、自分で考え、自分で戦い、ここまで来た。俺も二人に助けられた」

 

「それでも、あなたが同行してくださらなければ、同じ結果にはならなかったでしょう」

 

アルフォンスはもう一度頭を下げた。

 

ルイジェルドは、それ以上否定しなかった。

 

レイネは壁際へ椅子を一つ運ぼうとした。

 

俺が先に持ち上げる。

 

「ルーデウス様」

 

「座るための椅子を、自分で運ぶ必要はありません」

 

「その程度であれば問題ございません」

 

「問題があるかどうかではなく、僕が持ちます」

 

レイネは一瞬だけ俺を見た後、小さく頭を下げた。

 

「ありがとうございます」

 

レイネは椅子へ腰を下ろした。

 

アルフォンスは、そのやり取りを不思議そうに見たが、今は何も尋ねなかった。

 

エリスが机の前へ立つ。

 

「お父様とお母様は?」

 

アルフォンスは机の上に置かれていた書類を一枚手に取った。

 

何度も読まれたのだろう。

 

紙の端が擦り切れている。

 

その紙を見ただけで、胸の内側が冷えた。

 

何度も確認する必要があった情報。

 

誰かへ伝えるために、何度も手に取られた記録。

 

よい知らせが書かれているようには思えなかった。

 

「フィリップ様とヒルダ様につきましては、転移後の消息を追跡しておりました」

 

「それで?」

 

「お二人とも、死亡が確認されております」

 

部屋の外から、人の声が聞こえる。

 

足音。

 

帳簿を机へ置く音。

 

遠くで木材を打つ音。

 

すべて聞こえているはずなのに、急に遠くなった。

 

エリスは動かない。

 

表情も変わらない。

 

ただ、机の端へ置かれた指先だけが震えていた。

 

俺も、すぐには現実として受け入れられなかった。

 

フィリップが死んだ。

 

ヒルダも。

 

ロアへ戻れば、どこかにいると思っていた。

 

再会した時には、エリスの成長を伝えたいと思っていた。

 

エリスが魔神語を覚えたこと。

 

言葉で交渉できるようになったこと。

 

誰かを守るために、戦わない役割を選べるようになったこと。

 

二人がどのような顔で聞くのか、どこかで想像していた。

 

もう伝えられない。

 

「間違いではないの?」

 

エリスが尋ねる。

 

「残念ながら」

 

「本人だと、確認したの?」

 

「はい」

 

「誰が?」

 

アルフォンスは確認に関わった者の名前と、報告が届いた経緯を説明した。

 

エリスは途中で遮らない。

 

一つずつ聞く。

 

どこで確認されたのか。

 

記録は誰が持ってきたのか。

 

別人である可能性は残っていないのか。

 

感情のまま否定するのではなく、事実を確かめようとしている。

 

その姿が、見ていて苦しかった。

 

否定できる穴を探している。

 

どこか一つでも間違いがあれば、生きている可能性を残せる。

 

俺も、アルフォンスの説明を聞きながら、間違いである可能性を探していた。

 

報告者が見間違えたのではないか。

 

遺体の確認が不十分だったのではないか。

 

けれど、アルフォンスの答えは変わらなかった。

 

「ギレーヌは、知ってたの?」

 

「ああ」

 

ギレーヌが答える。

 

「私がここへ戻った時には、既に報告が届いていた」

 

「どうして、入口で言わなかったの」

 

「私の口から一部だけを伝えるより、記録とともに聞くべきだと思った」

 

エリスはギレーヌを見た。

 

一瞬、睨むように目を細める。

 

怒りを向けようとしたのかもしれない。

 

だが、ギレーヌが悪いわけではないことも分かっているのだろう。

 

唇を強く結び、視線をアルフォンスへ戻した。

 

「お祖父様は?」

 

アルフォンスの手が止まった。

 

「サウロス様は、転移災害の責任を問われました」

 

「責任?」

 

エリスの声が低くなる。

 

「お祖父様が起こしたわけじゃないでしょう?」

 

「そのとおりでございます」

 

「なら、何の責任よ」

 

「領主として被害を防げなかったこと。そして、災害後の混乱を収束できなかった責任とされました」

 

「突然起きたことを、どうやって防ぐのよ!」

 

初めて、エリスが声を荒らげた。

 

「お祖父様だって、人を助けようとしてたでしょう! 自分が逃げないで、ずっと領民を捜してたはずよ!」

 

「はい」

 

「だったら、どうして責任を取らされるの!」

 

アルフォンスは目を伏せた。

 

「サウロス様は、処刑されました」

 

エリスの声が止まる。

 

「……処刑?」

 

「はい」

 

「いつ?」

 

アルフォンスが日付を告げる。

 

エリスは、しばらく動かなかった。

 

父親。

 

母親。

 

祖父。

 

故郷へ帰れば会えると思っていた家族が、誰も残っていない。

 

俺は何かを言わなければならないと思った。

 

けれど、何を言えばいい。

 

大丈夫です。

 

大丈夫なはずがない。

 

僕がいます。

 

家族を失った直後に、自分の存在を代わりとして差し出すような言い方はしたくない。

 

元気を出してください。

 

出せるわけがない。

 

俺は結局、何も言えなかった。

 

エリスの隣へ立ち続けることしかできない。

 

今すぐ言葉を掛けることが、必ずしも支えることになるとは限らない。

 

何も言えない自分を情けなく思いながらも、適当な慰めでエリスの悲しみを小さく扱いたくなかった。

 

レイネが静かに立ち上がった。

 

机の上に清潔な布を一枚置く。

 

エリスの握った拳から、僅かに血が滲んでいた。

 

爪が掌へ食い込んでいる。

 

「エリス様」

 

レイネは、それだけを呼んだ。

 

手を開けとも。

 

泣いてよいとも言わない。

 

布を置き、再び一歩下がる。

 

エリスはしばらく布を見ていた。

 

やがて拳を開き、掌へ押し当てた。

 

「ほかには?」

 

掠れた声だった。

 

「ほかに、死んだ人は?」

 

アルフォンスは答えに迷った。

 

「確認されている者だけでも、多数おります」

 

「名前を教えて」

 

「今ここで、すべてを確認なさることはお勧めいたしません」

 

「私が決めるわ」

 

ギレーヌが口を開く。

 

「お嬢様。今日はご家族のことだけでも――」

 

「家族だけじゃないわ」

 

エリスが振り返った。

 

目には涙が溜まっている。

 

それでも、まだ落とさない。

 

「屋敷にいた人も、町にいた人も、私が知ってる人よ。お父様とお母様だけ確認して、ほかは後でなんてできないわ」

 

アルフォンスは、しばらくエリスを見つめた。

 

やがて机の引き出しを開け、厚い帳簿を三冊取り出した。

 

「生存が確認された者、死亡が確認された者、現在も消息が分からない者が含まれております」

 

エリスの顔が僅かに歪んだ。

 

三冊。

 

紙の一枚一枚に、誰かの名前がある。

 

生きていた人間の記録がある。

 

「部屋を借りられる?」

 

「もちろんでございます」

 

「一人で読みたい」

 

一人にはしたくない。

 

反射的にそう思った。

 

だが、今のエリスが誰にも見られず確認したいという気持ちも分かる。

 

俺が心配だからという理由で、エリスの意思を無視して部屋へ入るべきではない。

 

一人になることを選んだのなら、その選択を守りながら、必要になった時にすぐ支えられる場所へいればいい。

 

「近くで待っていてもいいですか?」

 

俺は尋ねた。

 

「部屋には入りません。呼ばれた時に、すぐ行ける場所で待ちます」

 

エリスは少しだけ迷った。

 

「……廊下にいて」

 

「はい」

 

「私が呼ぶまでは入ってこないで」

 

「分かりました」

 

エリスは一冊目の帳簿を持ち上げた。

 

ギレーヌが残りの二冊へ手を伸ばす。

 

「部屋まで運ぶ」

 

「自分で持てるわ」

 

「知っている」

 

ギレーヌは手を離さなかった。

 

「それでも、私が持つ」

 

エリスは反論しなかった。

 

アルフォンスに案内され、部屋を出ていく。

 

俺も後を追おうとした。

 

その前に、どうしても確認しなければならない名前があった。

 

エリスが家族の死を知らされた直後に、自分のことを優先するようで胸が痛んだ。

 

それでも、ここまで来て確認せずにはいられなかった。

 

「アルフォンスさん」

 

「はい」

 

「シルフィエットという名前はありませんでしたか。ブエナ村に住んでいた、緑色の髪の女の子です」

 

アルフォンスの表情が僅かに曇った。

 

机の横に積まれた記録へ手を伸ばす。

 

「シルフィエット殿につきましては、捜索対象として登録されております」

 

「生存の確認は?」

 

「取れておりません」

 

喉が詰まる。

 

「死亡の確認は?」

 

「そちらも、取れておりません」

 

生きているとは言えない。

 

死んでいるとも決まっていない。

 

これまでと同じだ。

 

何も分からない。

 

それなのに、旧フィットア領へ来れば何かが変わると、どこかで期待していた。

 

少なくとも、次に向かう場所が分かる。

 

誰かがシルフィを見たという記録がある。

 

その程度の情報は得られると思っていた。

 

何もない。

 

胸の奥へ、空洞が広がる。

 

「そうですか」

 

それしか言えなかった。

 

レイネが俺のそばへ来た。

 

袖へ、指先が僅かに触れる。

 

握らない。

 

人前で過度に慰めるようなこともしない。

 

ただ、ここにいると伝えるような触れ方だった。

 

「まだ、死亡は確認されておりません」

 

「はい」

 

「捜索を続けることができます」

 

「分かっています」

 

分かっている。

 

それでも、見つからなかったという事実は苦しかった。

 

名前がないことへ希望を持たなければならない。

 

同時に、どこにも記録がないことを恐れ続けなければならない。

 

今は、エリスのもとへ行かなければならない。

 

自分の悲しみがないふりをする必要はない。

 

だが、自分を責め始めれば、今度はエリスが俺を気にする。

 

ルイジェルドが、俺の肩へ手を置いた。

 

「行け」

 

短い言葉だった。

 

「ここは俺たちが見ている」

 

「……お願いします、ルイジェルド」

 

この部屋には、事情を知る者しかいない。

 

俺は本名を呼び、廊下へ向かった。

 

 

案内された部屋の前には、木製の椅子が置かれていた。

 

ギレーヌは壁へ背を預け、扉の横へ立っている。

 

「入らないのですか?」

 

「一人で読みたいと言われた」

 

「僕も、廊下で待つよう言われました」

 

椅子へ座る。

 

ギレーヌは立ったままだった。

 

扉の向こうから、紙をめくる音が聞こえる。

 

一枚。

 

また一枚。

 

時折、音が止まる。

 

知っている名前を見つけたのかもしれない。

 

死亡と記された文字を、何度も読み返しているのかもしれない。

 

俺には分からない。

 

入っていきたい。

 

一人で読ませたくない。

 

今すぐ扉を開け、エリスの隣へ座りたい。

 

だが、エリスは一人で確認すると決めた。

 

今は、その意思を守る。

 

そばにいることと、勝手に踏み込むことは違う。

 

しばらくして、ギレーヌが口を開いた。

 

「ルーデウス」

 

「はい」

 

「魔大陸で、お嬢様はどうだった」

 

俺は、何から話すべきか考えた。

 

強くなった。

 

それだけでは足りない。

 

剣の腕なら、ギレーヌも見れば分かる。

 

エリスが旅の中で身につけたものは、それだけではなかった。

 

「転移した直後から、エリスは僕が思っていた以上に落ち着いていました」

 

何も怖がらなかったわけではない。

 

不安も。

 

混乱もあった。

 

それでも、俺だけを頼って立ち止まることはなかった。

 

「危険な場所ではルードの話を聞き、僕が迷った時には、エリスの方が先に進むと決めることもありました」

 

俺一人で決断しなければならないと思い込んでいた時、エリスの言葉に助けられたことが何度もある。

 

「旅の途中で魔神語も覚えました。宿代を余分に請求された時には、僕より先に気づいて、自分で話をつけたこともあります」

 

ギレーヌの眉が僅かに上がった。

 

「殴らずにか」

 

「声は少し大きくなりましたが、最後まで言葉だけでした」

 

「それは成長だな」

 

「本人は、我慢したのではなく言葉で勝ったと言っていました」

 

ギレーヌの口元が、ほんの僅かに緩む。

 

「お嬢様らしい」

 

「救助した子供たちを守るため、戦いへ加わらず残ると自分で決めたこともあります。船の事故では、負傷者へ毛布と水を配り、言葉が通じない相手とも最後まで話そうとしていました」

 

剣の腕だけではない。

 

戦闘で強くなったことだけを伝えたくなかった。

 

「エリスは、最初から弱くありませんでした」

 

俺は続ける。

 

「旅の中で、できることが増えました。自分が戦うべき時と、ほかの役目を選ぶべき時を考えられるようになりました。僕が間違えそうな時には、止めてくれました」

 

オルステッドに殺された後。

 

俺が謝ろうとした時も、エリスは違うと言ってくれた。

 

自分が苦しい時でも、俺の考え方がおかしければ、きちんと言葉にする。

 

俺は、エリスを守るべき相手だと考えていた。

 

今は違う。

 

俺もエリスに守られている。

 

「僕より、ずっと強いです」

 

ギレーヌは目を閉じた。

 

「そうか」

 

安堵したような声だった。

 

エリスが生きて帰ったことだけではない。

 

どのように旅をしてきたのか。

 

何を身につけたのか。

 

それを知って、少しだけ肩の力を抜いたように見えた。

 

「ギレーヌは、転移した後、どうしていたのですか?」

 

ギレーヌはすぐには答えなかった。

 

やがて、自分が飛ばされた場所と、ここへ戻るまでの経緯を短く話した。

 

詳しい戦闘については語らない。

 

何を斬り。

 

何を失ったのかも。

 

必要以上には言わなかった。

 

それでも、簡単な旅でなかったことは分かる。

 

「私は、間に合わなかった」

 

ギレーヌが言った。

 

「フィリップ様にも。ヒルダ様にも。サウロス様にも」

 

声には、今も消えていない悔しさがあった。

 

責任ではない。

 

分かっていても。

 

もっと早く帰れていれば。

 

もっと強ければ。

 

別の道を選んでいれば。

 

考えずにはいられない。

 

俺も同じだった。

 

「僕も、エリスを家族のもとへ送り届けられると思っていました」

 

言葉にすると、胸が痛んだ。

 

「屋敷へ着けば、フィリップたちが待っていると。どこかで、ずっとそう思っていました」

 

「お前は、お嬢様を連れ帰った」

 

ギレーヌがすぐに答える。

 

「帰った先に、以前と同じものが残っていなかった。それは、お前の失敗ではない」

 

「はい」

 

すぐに納得できるわけではない。

 

それでも、否定はしなかった。

 

オルステッドに殺された後、自分の傷まで謝ろうとした俺へ、エリスも同じことを言った。

 

俺が自分を責め始めれば、エリスはそのことまで気にする。

 

今は、自分の罪のように扱うべきではない。

 

扉の向こうから、何かが落ちる音がした。

 

俺とギレーヌが同時に振り向く。

 

帳簿か。

 

椅子か。

 

すぐに扉を開けたくなる。

 

身体が立ち上がりかける。

 

だが、エリスからは呼ばれていない。

 

俺たちは待った。

 

数秒後。

 

扉が僅かに開いた。

 

エリスが立っている。

 

頬は濡れていた。

 

目も赤い。

 

手には、開いたままの帳簿を持っている。

 

「ルーデウス」

 

「はい」

 

「入って」

 

立ち上がる。

 

ギレーヌも続こうとしたが、エリスが首を横へ振った。

 

「ギレーヌは、少し待ってて」

 

「ああ」

 

俺だけが部屋へ入る。

 

扉が閉じた。

 

 

室内には、簡素な机と椅子が置かれていた。

 

帳簿の一冊は床へ落ちている。

 

残りの二冊は机の上。

 

エリスは、手に持っていた帳簿を俺へ向けた。

 

屋敷で働いていた使用人たちの名前が並んでいる。

 

生存。

 

消息不明。

 

死亡確認。

 

一人ずつ、結果が記されていた。

 

「この人、覚えてる?」

 

エリスが一つの名前を指す。

 

「はい」

 

厨房で働いていた女性だ。

 

俺が夜遅くまで勉強していると、余った菓子を持ってきてくれたことがある。

 

死亡確認。

 

「この人は?」

 

「庭師の方です」

 

植物のことを何度か教えてもらった。

 

消息不明。

 

「この子は?」

 

エリスの着替えを手伝っていた、若い使用人。

 

「覚えています」

 

死亡確認。

 

エリスが次のページをめくる。

 

指が震えていた。

 

「みんな、名前があるの」

 

「はい」

 

「ここに書かれてるの、全員、私が知ってる人なの」

 

「はい」

 

「なのに、死んだって、一行だけなのよ」

 

声が崩れた。

 

「お父様も、お母様も、お祖父様も。死んだとか、処刑されたとか、それだけ言われて……それで終わりなの?」

 

何も言えなかった。

 

帳簿には結果しか記されていない。

 

その人が、どのように笑ったのか。

 

何を好きだったのか。

 

どのような声でエリスを呼んだのか。

 

何も残っていない。

 

俺に菓子をくれた女性も。

 

庭師も。

 

エリスの着替えを手伝っていた使用人も。

 

紙の上では、名前と結果だけになっている。

 

だが、エリスにとっては違う。

 

一人ずつ顔がある。

 

声がある。

 

思い出がある。

 

「帰ってきたのに」

 

涙が再び流れる。

 

「ちゃんと帰ってきたのに、誰も待ってないじゃない」

 

「はい」

 

否定しない。

 

ギレーヌはいた。

 

アルフォンスもいる。

 

それでも、エリスが会いたかった家族はいない。

 

故郷へ帰れば会えると思っていた人たちは、もう待っていない。

 

「何か言いなさいよ」

 

声が強くなる。

 

怒っているようにも聞こえる。

 

けれど、俺を責めたいのではないのだろう。

 

言葉がほしい。

 

この苦しさをどうすればよいのか、誰かに教えてほしい。

 

俺は言葉を探した。

 

大丈夫とは言えない。

 

忘れられるとも言えない。

 

俺が家族の代わりになるとも言えない。

 

「何を言えばいいのか、分かりません」

 

正直に答えた。

 

エリスが俺を見る。

 

「僕も、ここへ戻れば、昔のままではなくても何かが残っていると思っていました」

 

ブエナ村。

 

シルフィ。

 

俺の家族が暮らしていた場所。

 

何も残っていなかった。

 

「シルフィも見つかりませんでした。生きているとも、死んでいるとも分かりません」

 

今、俺の悲しみをエリスへ背負わせたいわけではない。

 

俺も苦しいのだから分かると言いたいわけでもない。

 

失ったものは違う。

 

同じ悲しみではない。

 

けれど、何も分からないまま、分かったような慰めだけを並べることもしたくなかった。

 

「僕も、どうすればいいのか分かりません」

 

一歩近づく。

 

「でも、今ここから離れてほしいと言われない限り、そばにいます」

 

エリスの唇が震えた。

 

「それだけ?」

 

「今の僕にできるのは、それだけです」

 

正しい慰め方は分からない。

 

失われた家族を戻すこともできない。

 

エリスの代わりに、この痛みを引き受けることもできない。

 

「話したくなったら聞きます。何も話したくなければ、黙っています。泣いているところを見られたくなければ、後ろを向きます」

 

エリスの手から帳簿が落ちた。

 

俺の服を両手でつかむ。

 

顔を胸へ押しつけた。

 

「一人にしないで」

 

小さな声だった。

 

「はい」

 

背中へ腕を回す。

 

強く締めつけるのではなく、エリスが離れたくなればいつでも離れられる程度に抱く。

 

今のエリスが、どれほどの強さで抱かれたいのかは分からない。

 

俺が決めることではない。

 

だが、エリスの方から強く身体を寄せてきた。

 

「ルーデウスも、いなくならないで」

 

心臓を潰された時のことを思い出しているのだろう。

 

エリスの額が、俺の胸へ触れている。

 

鼓動を確認するように。

 

「死なないようにします」

 

絶対とは言えない。

 

一度死んだ。

 

お守りも、もうない。

 

できない約束をして、安心させたふりはしたくなかった。

 

「危険なことを一人で決めません。エリスたちに話します。生きて戻る方法を考えます」

 

「また、心臓が止まったら?」

 

声が震える。

 

「止まらないようにします」

 

「約束できないの?」

 

「絶対に何も起きないとは、約束できません」

 

エリスの指へ力が入る。

 

本当は、絶対に死なないと言いたかった。

 

そう言えば、今だけは安心させられるかもしれない。

 

だが、オルステッドの腕が胸へ入った瞬間を、エリスも見ている。

 

嘘だと分かる約束では、かえって不安を残す。

 

「でも、簡単に諦めないことは約束できます。エリスを置いていくつもりもありません」

 

しばらく返事はなかった。

 

やがて、胸へ押しつけられていた顔が僅かに動く。

 

「帰ってきたのに、帰ってきたって思えない」

 

「はい」

 

「ここで、これからどうすればいいの?」

 

俺にも答えはない。

 

アルフォンスの話を聞く。

 

生き残った者の状況を確認する。

 

シルフィの捜索を続ける。

 

父さんたちのところへ戻る。

 

やるべきことはある。

 

だが、それはエリスが今聞きたい答えではない。

 

家族を失った直後に、次の仕事を並べて立ち上がらせるべきではない。

 

「今日は、決めなくていいと思います」

 

俺は言った。

 

「今日、すべてを失ったと知らされたばかりです。今すぐこれからの人生まで決める必要はありません」

 

「でも、何もしないの?」

 

「今夜は、皆でいます」

 

それだけは決められる。

 

「明日になったら、アルフォンスさんやギレーヌから、まだ聞いていないことを聞きましょう。生きている人のことも確認しましょう。その後で、次に何をするか一緒に考えます」

 

「一緒に?」

 

「はい」

 

「レイネも、ルードも?」

 

「はい。今夜は全員います」

 

先のことを、俺一人で決める必要はない。

 

ルイジェルドがこれから何をするのかも、本人を交えずに考えるべきではない。

 

今は、誰かが離れる話をする時ではなかった。

 

「今日は、誰もいなくならない?」

 

「いなくなりません」

 

今日についてなら、約束できる。

 

エリスは、もう一度俺の胸へ顔を押しつけた。

 

泣き声を抑えようとしている。

 

「声を出しても大丈夫ですよ」

 

「うるさい」

 

「すみません」

 

「謝らないで」

 

「はい」

 

エリスの肩が震える。

 

俺は背中を撫でようとして、途中で迷った。

 

何も言わず、ただ抱いている方がよいのかもしれない。

 

レイネが俺へしてくれたように、必要になるまで待つべきなのかもしれない。

 

しばらくすると、エリスの方から俺の腕をつかみ、背中へ回させた。

 

もっと強く抱けという意味らしい。

 

俺は腕へ少しだけ力を入れた。

 

今度は、エリスも離れなかった。

 

 

部屋を出ると、ギレーヌが廊下で待っていた。

 

少し離れた場所には、ルイジェルドとレイネもいる。

 

レイネは椅子へ座っていたが、顔色は悪くない。

 

ルイジェルドに無理やり座らされたというより、自分で休むことを選んだようだった。

 

俺たちが出てくると、立ち上がろうとする。

 

エリスがすぐに止めた。

 

「座ってて」

 

「ですが、エリス様」

 

「立つ必要ないでしょう」

 

レイネはエリスの顔を見た。

 

泣いた跡に気づいている。

 

それでも、何があったのかを聞かない。

 

「承知いたしました」

 

座ったまま両腕を僅かに広げる。

 

それだけで、エリスには意味が伝わったらしい。

 

俺の袖を離し、レイネの前へ進んだ。

 

その身体へ抱きつく。

 

レイネは椅子へ座ったまま、エリスを受け止めた。

 

「レイネ」

 

「はい」

 

「お父様も、お母様も、お祖父様も、いないの」

 

「はい」

 

レイネの声が僅かに揺れた。

 

「存じております」

 

「屋敷の人も、たくさん死んでる」

 

「はい」

 

「私、何をすればいいか分からない」

 

レイネは、すぐに答えを出さなかった。

 

エリスの背中へ腕を回し、ゆっくりと撫でる。

 

「今は、お分かりにならなくてもよろしいかと存じます」

 

「ルーデウスも同じことを言ったわ」

 

「では、少なくとも二人は同じ意見でございます」

 

「自分で考えなさいとは言わないの?」

 

「考えられる時にお考えになればよろしいのでございます」

 

レイネは静かに続けた。

 

「悲しみを抱えた直後に出した答えだけが、正しいとは限りません。今夜は、お休みくださいませ」

 

「眠れないと思う」

 

「眠れないのであれば、私がおそばにおります」

 

「ずっと?」

 

「はい」

 

「ルーデウスも?」

 

俺は頷いた。

 

「います」

 

エリスがルイジェルドを見る。

 

ルイジェルドも短く答えた。

 

「ああ」

 

最後にギレーヌを見る。

 

「私もいる」

 

ギレーヌが言った。

 

エリスは、ようやくレイネの肩へ顔を伏せた。

 

「今日は、みんな同じ部屋にいて」

 

誰も反対しなかった。

 

 

アルフォンスが用意した部屋には、寝台が二つしかなかった。

 

それでも、誰も別の部屋へ移ろうとはしなかった。

 

床へ毛布を敷く。

 

寝台はエリスとレイネが使う。

 

レイネは自分が床でよいと言ったが、回復途中の人間を床へ寝かせるつもりはない。

 

俺とルイジェルド、ギレーヌは床へ座った。

 

エリスは寝台の端へ腰掛け、死亡者の帳簿を一冊だけ持ってきていた。

 

今夜、すべてを読むつもりではない。

 

ただ、別の場所へ置いてくることができなかったらしい。

 

手元から離せば、書かれている人たちまで置き去りにするように感じるのかもしれない。

 

俺には、その理由を決めつけることはできなかった。

 

レイネが温かい飲み物を用意しようとした。

 

俺が立ち上がる。

 

「僕が行きます」

 

「お湯を注ぐ程度でございます」

 

「それなら、一緒に行きましょう」

 

一人ですべてやらせない。

 

何もさせないわけでもない。

 

レイネが自分でできることまで奪えば、休ませるのではなく、役割を否定することになってしまう。

 

レイネは少し考えた後、頷いた。

 

二人で簡易調理場へ向かう。

 

俺が水を運び、火をつける。

 

レイネが茶葉の量を測る。

 

「身体の具合は、本当に大丈夫ですか?」

 

俺は小声で尋ねた。

 

「はい。長く歩いた後に僅かな疲労は残りますが、以前のような眩暈や吐き気はございません」

 

「完全に戻るまで、あとどれぐらいですか?」

 

「現在の回復速度であれば、一週間から二週間ほどかと存じます」

 

「その間は、重い物と長時間の作業は禁止です」

 

「ルーデウス様」

 

「お願いします」

 

レイネは湯気の立つ器を見つめた。

 

「承知いたしました」

 

「魔力のことは、また別ですよね」

 

「はい」

 

身体が完全に戻っても、以前と同じ最大出力は扱えない。

 

それを考えると、胸が痛む。

 

レイネは俺の顔を見た。

 

「お顔に出ております」

 

「何がですか?」

 

「また、ご自身の責任だとお考えになっております」

 

否定できなかった。

 

「僕が殺されなければ、レイネはあの力を使いませんでした」

 

「それでも、使用を決めたのは私でございます」

 

「ですが――」

 

「ルーデウス様」

 

レイネの声は優しかった。

 

「今夜は、エリス様のおそばにいるとお決めになったのでしょう?」

 

「はい」

 

「でしたら、私の失った魔力について考え続けることは、明日以降になさってくださいませ」

 

先ほど、エリスへ言ったことと同じだ。

 

今日、すべてを決める必要はない。

 

自分を責めることへ意識を奪われれば、エリスのそばにいるという約束まで中途半端になる。

 

レイネへの気持ちを後回しにするという意味ではない。

 

今夜、優先するべきことを選ぶだけだ。

 

「分かりました」

 

「ありがとうございます」

 

二人で器を運ぶ。

 

部屋へ戻ると、エリスはギレーヌの話を聞いていた。

 

屋敷での昔話。

 

フィリップが領地の仕事で失敗した時のこと。

 

ヒルダが、エリスの服を選ぶため何人もの仕立屋を呼んだこと。

 

サウロスが、エリスの剣の稽古を窓から見て大声で笑っていたこと。

 

死んだという事実だけではない。

 

生きていた時の話をしている。

 

エリスは泣きながら、時々笑った。

 

俺たちも、知っている話があれば加わった。

 

レイネは、ヒルダが幼いエリスの髪を整えようとして逃げられた話をした。

 

「私、そんなことした?」

 

「はい。屋敷の廊下を一周なさった後、カーテンの裏へお隠れになりました」

 

「見つかったの?」

 

「足が出ておりましたので」

 

ギレーヌが僅かに笑う。

 

「お嬢様は、昔から隠れるのが下手だった」

 

「ギレーヌに言われたくないわ。ギレーヌは身体が大きいから、どこにも隠れられないでしょう」

 

「そのとおりだ」

 

短い笑いが、部屋へ広がる。

 

笑った直後、エリスの目からまた涙が流れた。

 

それでも、今度は顔を伏せなかった。

 

悲しい。

 

けれど、笑ったことまで間違いではない。

 

亡くなった人を思い出しながら笑うことは、忘れることではない。

 

生きていた時の姿を、死んだという一行だけで終わらせないことでもある。

 

俺は、そう思った。

 

夜が深くなる。

 

エリスはレイネの隣へ横になった。

 

片手でレイネの袖をつかみ、もう片方の手を寝台の外へ伸ばす。

 

俺は床へ座ったまま、その手を握った。

 

「ルーデウス」

 

「はい」

 

「いる?」

 

「います」

 

「レイネは?」

 

「こちらにおります」

 

「ギレーヌ」

 

「いる」

 

「ルードは?」

 

ルイジェルドが答える。

 

「ここにいる」

 

全員の返事を聞き、エリスは目を閉じた。

 

すぐには眠らない。

 

時折、指へ力が入る。

 

そのたび、俺は同じ強さで握り返した。

 

旧フィットア領へ帰ってきた。

 

だが、帰ればすべてが元へ戻るわけではなかった。

 

エリスの家族はいない。

 

シルフィも見つからない。

 

俺たちが暮らした場所も残っていない。

 

レイネは回復しつつあるが、以前の最大出力を失ったままだ。

 

ルイジェルドにも。

 

ギレーヌにも。

 

それぞれ、これから考えなければならないことがある。

 

それでも、今夜は誰も一人ではない。

 

明日のことは、明日話す。

 

生き残った人々のこと。

 

フィリップたちがどのように亡くなったのか。

 

サウロスの処刑。

 

ボレアス家の今後。

 

シルフィの捜索。

 

俺たちが、これからどこへ向かうのか。

 

決めなければならないことは、いくらでもある。

 

今はただ、エリスの手を離さない。

 

やがて、握られていた指から少しずつ力が抜けていった。

 

呼吸がゆっくりと整う。

 

泣き疲れ、ようやく眠ったらしい。

 

「眠ったか」

 

ルイジェルドが小声で尋ねた。

 

「はい」

 

「お前も休め」

 

「もう少しだけ、このままでいます」

 

ルイジェルドは何も言わなかった。

 

レイネも目を閉じている。

 

眠っているのかと思ったが、エリスの髪へ置かれた手が、ゆっくりと動いていた。

 

ギレーヌは壁へ背を預け、二人を見守っている。

 

誰も部屋を出ない。

 

俺も、エリスの手を握ったまま目を閉じた。

 

失ったものは戻らない。

 

その事実を、言葉で変えることはできない。

 

けれど、今ここにいる人まで、失ったものとして扱う必要はない。

 

エリスも。

 

レイネも。

 

ルイジェルドも。

 

ギレーヌも。

 

そして、俺も生きている。

 

その温かさを確かめながら、俺は静かに夜を過ごした。

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