ルーデウス視点
目を覚ました時、最初に感じたのは右手の痺れだった。
身体を起こそうとして、手を強く握られていることに気づく。
エリスだ。
寝台の端から手を伸ばし、床に座った俺の手を握ったまま眠っている。
昨夜、眠る直前まで、エリスは何度も俺たちがいることを確認していた。一度眠りに落ちてからも、夜中に何度か目を覚ましたらしい。そのたびに指へ力が入り、俺が握り返すと、しばらくしてから呼吸が落ち着いた。
家族が亡くなったという事実は、眠ったからといって消えるものではない。
目を覚ますたび、父親も母親も祖父も、もうどこにもいないという現実を思い出さなければならない。
だから、意識が戻った直後に、まだ誰かがそばにいることを確かめずにはいられなかったのだろう。
俺も、いつの間にか眠っていたようだ。
壁際では、ルイジェルドが座ったまま目を閉じている。
眠っているのかと思ったが、俺が僅かに身じろぎしただけで、すぐに目を開いた。
ギレーヌも反対側の壁へ背を預けている。
こちらは目を閉じているものの、獣族の耳が時折動いていた。完全に眠っているわけではないのだろう。
隣の寝台では、レイネが横になっていた。
エリスの髪へ置かれた手は、今もそのままだ。
顔色は悪くない。
呼吸も安定している。
一か月前のように、眠っているだけなのか、意識を失っているのかさえ分からない状態ではなかった。
それでも、無意識に胸の動きを確認してしまう。
一定の間隔で上下している。
生きている。
当たり前のことに安堵し、俺は小さく息を吐いた。
オルステッドに殺されてから、誰かが眠っている姿を見るだけで、その呼吸を確かめる癖がついてしまった。
エリスも。
レイネも。
ルイジェルドも。
昨日まで生きていた人が、今日も同じように生きているとは限らない。
それを知ってしまったからだ。
「起きたか」
ルイジェルドが声を抑えて言った。
「はい」
「身体はどうだ」
「問題ありません。右手が痺れているぐらいです」
エリスに握られている手を見る。
ルイジェルドも視線を落とした。
「起こすな」
「そのつもりです」
アルフォンスからは、朝食の後に今後のことを話したいと言われている。
まだ時間はある。
エリスが自分から目を覚ますまで、このままでいよう。
「ルイジェルドさんは、眠れましたか?」
「ああ」
「本当ですか?」
「なぜ疑う」
「僕が起きた時、すぐに反応したからです」
「戦士なら普通だ」
否定する声は普段どおりだった。
だが、ルイジェルドは昨夜からほとんど姿勢を変えていない。エリスだけではなく、俺たち全員の状態を見守っていてくれたのだろう。
「ありがとうございます」
「礼を言うことではない」
「僕が言いたかっただけです」
ルイジェルドは答えなかった。
それ以上、言葉を重ねる必要もなかった。
やがて、レイネの瞼が動いた。
赤い瞳が開き、最初に隣で眠っているエリスを見る。
次に、手を握られている俺へ視線を向けた。
「おはようございます、ルーデウス様」
「おはようございます。体調はどうですか?」
「問題ございません」
レイネはゆっくりと上半身を起こした。
動きに不自然さはない。
寝台へ座った後も、眩暈を堪えるような様子はなかった。
この一か月で、日常生活を送るうえでは、ほとんど支障がないところまで回復している。
それでも、「問題ございません」という言葉だけで確認を終わらせるつもりはなかった。
「頭痛や吐き気は?」
「ございません」
「身体の重さは?」
「昨日までと変わりございません」
「昨日も、少し疲れていましたよね」
「長旅の後でございましたので」
返事の速さ。
顔色。
呼吸。
少なくとも、今すぐ横にならなければならない状態ではなさそうだ。
レイネはエリスの額へ触れた。
「お熱はございません」
「泣き疲れただけだと思います」
「はい」
濡らした布で、エリスの目元へ残った涙の跡を静かに拭う。
その動きで、エリスが目を覚ました。
「……レイネ?」
「おはようございます、エリス様」
エリスはしばらくレイネを見つめた。
次に、自分が俺の手を握っていることへ気づく。
離すかと思ったが、逆に少しだけ力を込めた。
「ルーデウスもいる?」
「います」
「ルードは?」
「いる」
ルイジェルドが答える。
「ギレーヌは?」
呼ばれたギレーヌが目を開いた。
「ここにいる」
全員の返事を聞き、エリスはようやく身体を起こした。
視線が、机の上に置かれた帳簿へ向かう。
眠気が消えた。
「夢じゃないのね」
「はい」
答えたくはなかった。
本当は、悪い夢だったと言ってしまいたかった。
目を覚ませば、フィリップもヒルダもサウロスも生きていて、屋敷へ戻れば以前と同じように迎えてくれるのだと。
だが、嘘をつくことはできない。
エリスは唇を強く結んだ。
それでも、昨日のようにすぐ帳簿へ手を伸ばすことはしなかった。
「アルフォンスが、話があるって言ってたわよね」
「朝食の後に、と聞いています」
「なら、行くわ」
「その前に、何か食べてください」
「食欲はないわ」
「少しでも構いません」
「いらない」
強い拒絶ではなかった。
食事のことまで考える余裕がなく、身体へ何かを入れること自体が煩わしいのだろう。
レイネが寝台から降りる。
「温かいスープをお持ちいたします」
「いらないって言ってるでしょう」
「はい。お召し上がりになれない場合には、私がいただきます」
「それなら、私のところに持ってくる意味がないじゃない」
「香りを確かめてから、お決めくださいませ」
エリスがレイネを睨む。
レイネは普段どおり、穏やかな表情で見返している。
無理に食べろとは言わない。
食べられなければ責めるとも言わない。
ただ、食べるかどうかを判断できる状態まで、選択肢を持ってくるつもりなのだ。
「……少しだけよ」
「かしこまりました」
レイネが扉へ向かう。
俺も立ち上がった。
「一緒に行きます」
「スープを受け取るだけでございます」
「人数分の器があります」
「私が全て持つとは申し上げておりません」
「では、半分ずつにしましょう」
レイネは俺の顔を見た後、僅かに口元を緩めた。
「お願いいたします」
◇
朝食を終えた後、俺たちは昨日と同じ部屋へ集まった。
机の向こうにはアルフォンス。
その隣にはギレーヌが立っている。
俺とエリス、レイネ、ルイジェルドは、机を挟んだ反対側へ座った。
廊下では職員が行き来している。
レイネは俺の隣へ座った。
エリスは背筋を伸ばし、アルフォンスを正面から見据えている。
目元には泣いた跡が残っていたが、隠そうとはしていなかった。
「今後のことって、何?」
エリスが尋ねた。
アルフォンスは机の上へ複数の書類を並べた。
「現在のボレアス家と、フィットア領の状況についてでございます」
「昨日聞いたわ」
「昨日お伝えしたのは、ご家族と領民の消息でございます。本日は、残された者が今後どのような立場になるのかを、お話ししなければなりません」
エリスの表情が僅かに険しくなる。
「ボレアス家は、現在ジェイムズ様が取り仕切っておられます」
フィリップの兄。
エリスにとっては伯父に当たる人物だ。
「サウロス様の処刑後、フィットア領の管理権限は大きく制限されました。現在この地で行っている救助と復興も、王都から正式な領主として認められたうえでのものではございません」
「あなたが勝手にやってるってこと?」
「私個人の財産と、残された人脈、支援者からの寄付によって維持しております」
拠点の規模を考えれば、莫大な費用が必要だ。
食料。
薬。
建築資材。
人件費。
捜索隊へ支払う報酬。
いつまでも、アルフォンス個人の財産だけで続けられるはずがない。
「あと、どれぐらい持つの?」
エリスが尋ねた。
「新たな大口の支援が得られなければ、半年以内に配給を削減する必要がございます」
エリスの指が動いた。
拳を握ろうとしたのだろう。
だが、昨日のように爪が掌へ食い込む前に、自分で指を開いた。
レイネはその動きを見ていたが、何も言わなかった。
「王都の有力者へ支援を求めておりますが、転移災害の責任を負わされた土地へ関わることを避ける者も多くおります」
「お祖父様を処刑したうえで、領民まで見捨てるの?」
「多くの貴族にとって、フィットア領民の救済は利益にならないのでしょう」
俺も腹の奥が熱くなった。
何万人もの人間が、家を失った。
家族を失った。
その人々を助けることより、政治的に損をしないことを優先する。
怒りだけで食料が増えるわけではない。
それでも、何とも思わずにはいられなかった。
「支援を申し出ている者はいるの?」
エリスが尋ねた。
アルフォンスの視線が、一度俺へ向いた。
「ノトス・グレイラット家の当主、ピレモン様でございます」
父さんの実家。
俺にとっては、血のつながった伯父に当たる人物だ。
会ったことはない。
父さんが実家に好意を持っていないことだけは知っている。
「条件は?」
レイネが尋ねた。
アルフォンスが口を閉じる。
答えにくい内容なのだろう。
「エリスお嬢様を、ピレモン様の妾としてお迎えいただくことでございます」
部屋の空気が止まった。
エリスは動かなかった。
意味を理解できなかったわけではない。
理解したうえで、すぐに言葉を返せなかったのだ。
俺も、言葉の意味を理解するまでに僅かな時間が必要だった。
妾。
会ったこともない男のもとへ入り、複数いる女の一人として扱われる。
本人の意思ではなく。
ボレアス家の血と、支援の対価として。
胸の中へ強い嫌悪が込み上げた。
今すぐ、そんな話は認めないと言いたかった。
エリスを、誰かへ差し出す品物のように扱うなと。
だが、エリス自身がまだ何も答えていない。
俺の感情だけで話を遮れば、エリスが何を選ぶのかを考える機会まで奪うことになる。
ギレーヌが低い声でアルフォンスを呼ぶ。
「アルフォンス」
「私も、喜んでお勧めしているわけではございません」
アルフォンスの声には疲労が滲んでいた。
「しかし、お嬢様は現在、ボレアス家の直系に近い血を持つ、数少ない生存者でございます。その血統は、政治的な価値を持ちます」
「私を売るってこと?」
エリスが静かに尋ねた。
「そのように受け取られても、否定はできません」
言い訳をしなかった。
だからこそ、残酷だった。
「ですが、お嬢様がピレモン様の庇護へ入られれば、ノトス家からこの拠点への支援を得られます。生存者の保護と捜索を、現在より長く続けられる可能性がございます」
「私が妾になれば、みんなに食べ物が届くのね」
「はい」
「断れば?」
「直ちに支援が失われるわけではございません。しかし、同等の支援者を見つけられる保証はございません」
エリスは書類へ目を落とした。
机の下で、膝が僅かに震えている。
怒りなのか。
恐怖なのか。
その両方なのか。
俺には断定できない。
それでも、声を荒らげて話を終わらせることはしなかった。
「その人は、私以外の女もいるの?」
「正妻と、複数の妾がおられます」
「私は、そこへ何人目かとして入るのね」
「はい」
「ボレアスの血を残せと言われる?」
アルフォンスは僅かに目を伏せた。
「その可能性は高いと考えるべきでしょう」
あまりにも直接的な話だった。
俺は何かを言おうとして、止まる。
エリス自身が確認している。
途中で口を挟めば、エリスが自分で事実を知ろうとしている邪魔になる。
エリスが隣へ顔を向けた。
「レイネ」
「はい」
「あなたは、どう思う?」
レイネはすぐに答えなかった。
机の上へ並んだ書類と、アルフォンスの顔を順番に見る。
「判断のために、幾つか確認させてくださいませ」
アルフォンスが頷いた。
「正式な支援内容を記した書面はございますか?」
「ございます」
「支援を継続する期間は?」
「定められておりません」
「最低限保証される金額、食料、薬品の量は?」
「具体的には記されておりません」
「捜索活動の継続は?」
「口頭ではお約束いただいております」
「エリス様がノトス家へ入られた後、約束を反故にされた場合の罰則はございますか?」
「ございません」
「エリス様が不当な扱いを受けた場合、ご自身の意思でこちらへ戻る権利は?」
アルフォンスは答えなかった。
レイネの質問によって、この話の形が明らかになっていく。
エリスだけが確実な義務を負う。
相手が何を、どこまで保証するのかは曖昧なまま。
一度ノトス家へ入れば、支援を減らされても。
約束を破られても。
エリスが不当な扱いを受けても、こちらから対抗する手段がない。
「これでは、エリス様が全てを差し出された後、相手方が何も差し出さない可能性さえ残ります」
「承知しております」
アルフォンスが答えた。
「それでも、ほかに現実的な支援者が見つかっておりません」
エリスはレイネを見たまま尋ねる。
「条件がもっとしっかりしていれば、受けるべきだと思う?」
レイネの赤い瞳が、エリスを正面から見つめた。
「いいえ」
はっきりとした返事だった。
「領民のためであっても?」
「エリス様お一人の人生と尊厳を、支援の対価として差し出すべきではないと、私は考えます」
「でも、私が断ったせいで子供が飢えたら?」
「それは、エリス様お一人の責任ではございません」
「綺麗事でしょう」
「はい」
レイネは否定しなかった。
「別の支援者が見つかる保証はございません。私どもが力を尽くしても、救えない方が出る可能性もございます」
エリスの顔が歪む。
「それでも?」
「それでも、エリス様を差し出すことだけを、最初から唯一の方法と認めるべきではございません」
レイネの声は穏やかだった。
だが、譲るつもりがないことは伝わった。
「私は、エリス様に何も考えずお断りするよう申し上げているのではございません。断った後に何が必要になるのかも、皆で考えるべきでございます」
「皆で?」
「はい。アルフォンス様にも。ギレーヌ様にも。ルーデウス様にも。私にも、それぞれできることがございます」
「ルードも?」
エリスがルイジェルドを見る。
ルイジェルドは短く頷いた。
「エリスが望むなら、考える」
エリスは、再びレイネへ視線を戻した。
「レイネなら、受けないのね」
「はい」
「自分が犠牲になれば、たくさんの人を救えるとしても?」
レイネは僅かに目を伏せた。
その質問に、単純な答えを返すことはできないのだろう。
自分の命を使ってでも誰かを救おうとする。
レイネは、実際にそれをしたばかりだ。
「私自身であれば、受け入れてしまう可能性がございます」
エリスの眉が寄る。
「なら、私にも同じことを言えないでしょう?」
「いいえ」
レイネは静かに首を横へ振った。
「私が自分を軽く扱うことと、エリス様までご自身を軽く扱われることは、同じではございません」
「ずるいわ」
「はい。自覚しております」
「それなら、レイネも自分を大事にしなさいよ」
レイネは言葉を止めた。
エリスは睨むように見つめている。
「私にだけ、自分を犠牲にするなって言うのはおかしいでしょう?」
「……仰るとおりでございます」
レイネが小さく頭を下げた。
「私自身についても、同じ基準で考えるよう努めます」
エリスは完全には納得していないように見えた。
それでも、レイネの返事を聞くと、アルフォンスへ向き直った。
ギレーヌが机へ片手を置く。
「お嬢様は領民を救うための道具ではない」
「分かっている」
アルフォンスも、一瞬だけ普段の丁寧な口調を崩した。
すぐに目を閉じ、呼吸を整える。
「分かっております。私とて、フィリップ様のお嬢様を、好んでそのような場所へ送り出したいわけではございません」
「なら、勧めるな」
「私には、ここにいる人々の生活もございます」
アルフォンスの声が震えた。
「親を失った子供。怪我をして働けない者。今も家族を捜している者。エリスお嬢様お一人の幸福と、数千人の生活を天秤へ載せなければならない立場なのです」
誰か一人が悪いわけではない。
アルフォンスはエリスを嫌っているわけではない。
領民を助けるために、選べる手段が少なすぎる。
その中で、最も確実に見える方法を提示している。
だからといって、エリスが犠牲になることを正しいとは思えなかった。
「僕も協力します」
俺は口を開いた。
「冒険者として稼ぐこともできます。魔術で建物や井戸を作り、復興に必要な費用を減らすことも――」
「一人の冒険者が稼げる金額で、この拠点全体を維持することはできません」
アルフォンスの言葉は正しい。
俺がどれほど高額な依頼を受けても、数千人を半年、一年と支え続ける金にはならない。
魔術で建物を作ることはできる。
井戸も掘れる。
畑の整備も手伝える。
だが、食料の種も。
農具も。
医薬品も。
それらを運ぶ人間も必要になる。
俺一人で全てを解決できるわけではない。
「それでも、何もしないよりはましです」
「ルーデウス様」
レイネが俺を見る。
止めようとしているのではない。
俺が感情だけで、自分にできない約束をしようとしていないかを確かめるような目だった。
「自分だけで全部を支えるとは言いません」
俺は言い直した。
「できることを分担します。支援者を探す間に、拠点が少しでも長く維持できる方法を考えます」
レイネが小さく頷いた。
「私も、帳簿と物資の流れを確認させていただければ、削減できる費用や不足する時期を整理いたします」
アルフォンスの目が僅かに見開かれる。
「お身体はよろしいのですか」
「長時間の肉体労働は難しくとも、帳簿の確認であれば問題ございません」
「しかし、あなたはルーデウス様の侍女で――」
「はい。ですが、私もフィットア領で暮らした者の一人でございます」
レイネは静かに答えた。
「私にも、この地のために働く理由がございます」
エリスがレイネを見る。
驚いたように目を見開いた後、僅かに肩の力を抜いたように見えた。
「私だけの問題じゃないのね」
「はい」
レイネは頷いた。
「エリス様お一人に背負わせるべき問題ではございません」
「私なら、奪う」
ギレーヌが言った。
アルフォンスが眉を寄せる。
「何をだ」
「金も、食料も。必要なら、支援を断った貴族から奪えばいい」
「それでは、この拠点が盗賊団として討伐される」
「お嬢様を売るよりはいい」
「その結果、領民が殺されてもか」
二人の視線がぶつかる。
ギレーヌは戦える。
アルフォンスは、人を支えるための組織を維持できる。
どちらも、自分ができる方法でエリスと領民を守ろうとしている。
だが、選ぶ手段が違いすぎた。
「エリスお嬢様」
アルフォンスが向き直る。
「今すぐお決めいただく必要はございません。しかし、ピレモン様からは早急な返答を求められております」
「いつまで?」
「十日以内に」
「短いわね」
「お嬢様の生存が、ほかの貴族へ知られる前に話をまとめたいのでしょう」
「私が生きていることを隠してるの?」
「完全には隠せません。昨日、入口でお名前を確認されております。噂が王都へ届くのは時間の問題でございます」
「なら、私は十日で、自分が誰のものになるか決めろって言われてるのね」
「……はい」
エリスはしばらく黙っていた。
俺は、何と言えばいいのか分からなかった。
嫌なら断ればいい。
そう言うのは簡単だ。
だが、エリスが断った結果、配給を失う者が出るかもしれない。
だから受け入れろ。
そんなことは絶対に言えない。
俺が連れて逃げる。
そう言うこともできる。
ギレーヌなら賛成するだろう。
だが、それではエリスの立場も。
領民への思いも。
これからの人生も、俺が代わりに決めることになる。
「ルーデウス」
エリスが俺を見る。
「何ですか?」
「あなたは、どう思う?」
「僕は、エリスに妾になってほしくありません」
正直に答える。
「嫌です」
エリスの目が僅かに見開かれた。
「ですが、僕が嫌だという理由だけで、エリスの決断を決めたくもありません」
「私が行くって言ったら?」
胸が痛む。
想像するだけで嫌だった。
エリスが、知らない男の屋敷へ入る。
本人の気持ちとは無関係に、血を残すための女として扱われる。
その姿を認められるはずがない。
それでも、目を逸らさない。
「止めます」
「今、私が決めることだって言ったでしょう?」
「決めるのはエリスです。ですが、僕も反対することはできます」
「無理やりでも?」
「無理やり連れ出すことはしません」
それをすれば、俺もエリスの意思を無視することになる。
「でも、何度でも考え直してほしいと言います。別の方法も探します」
「見つからなかったら?」
答えられない。
俺の沈黙が、そのまま答えになってしまう。
レイネの指が、机の下で俺の手へ僅かに触れた。
代わりに答えるのではない。
俺が自分で言葉を見つけるのを待っている。
「それでも」
俺は言った。
「エリス一人を差し出す方法を、最善だとは認めません」
エリスは俺の顔を見つめた。
次にレイネを見る。
「レイネも?」
「はい」
「ギレーヌも?」
「ああ」
「ルードも?」
ルイジェルドが答える。
「エリスが自分を犠牲にすることだけを選ぶなら、俺は止める」
エリスは、しばらく四人の顔を見渡した。
「考える時間をちょうだい」
「もちろんでございます」
アルフォンスが答える。
「今日は、これ以上聞きたくない」
「承知いたしました」
エリスが立ち上がる。
部屋を出る前に、一度だけアルフォンスを振り返った。
「あなたが、私を嫌いだから言ってるんじゃないことは分かったわ」
アルフォンスの目が僅かに揺れる。
「でも、私はまだ、あなたの言うとおりにするとは言ってないから」
「はい」
エリスは部屋を出た。
ギレーヌが後を追う。
俺も立ち上がろうとした。
「ルーデウス様」
レイネに呼び止められる。
「今は、ギレーヌ様へお任せしてもよろしいかと存じます」
「ですが」
「エリス様は、ご自身のお考えを整理する時間を必要となさっております」
俺が追えば、エリスは俺の意見を気にする。
先ほど、妾になってほしくないとはっきり伝えた。
後悔はしていない。
だが、今すぐ俺と話し続ければ、俺が望む答えへ自分を合わせようとするかもしれない。
「分かりました」
俺は椅子へ座り直した。
「レイネは、本当に反対なのですか?」
「はい」
「自分なら受け入れるかもしれないと言ったのに?」
「だからこそ、反対いたします」
レイネの表情は静かだった。
「自分を差し出せば誰かを救えると考え始めれば、ほかの方法が見えなくなることがございます。私自身が、そうなりやすい人間であることは理解しております」
オルステッドとの戦い。
俺を守るためなら、五分間続けて死んでも構わないと決めていた。
「私は、エリス様に同じ選び方をしていただきたくありません」
「レイネにも、してほしくありません」
「はい」
「本当に分かっていますか?」
「現在、学んでいるところでございます」
完璧な返事ではない。
だが、以前のように当然のこととして、自分の命を差し出そうとはしていない。
少しずつでも変わろうとしている。
それなら、俺も何度でも伝えよう。
アルフォンスがルイジェルドへ顔を向ける。
「ルード殿は、どのようにお考えですか」
「俺が決めることではない」
「しかし――」
「エリスが決める」
短い答えだった。
「だが、子供が大人の失敗を背負う必要はない」
アルフォンスの顔が歪む。
「耳の痛いお言葉でございます」
「お前一人の失敗でもない」
ルイジェルドは続ける。
「だからこそ、エリス一人へ背負わせるな」
アルフォンスは答えなかった。
◇
話し合いを終えた後、拠点の外へ出た。
エリスとギレーヌの姿は見えない。
人気の少ない場所へ移動したのだろう。
ルイジェルドは、俺たちが借りている部屋へは戻らず、馬車を置いている場所へ向かった。
俺とレイネも後を追う。
馬車のそばには、ルイジェルドの荷物がまとめられていた。
槍。
旅用の袋。
水筒。
食料。
いつでも出発できる状態だ。
胸の奥が冷たくなった。
初めて聞く話ではない。
旧フィットア領へ向かう道を決めた時にも、ルイジェルドは話していた。
俺とエリスを故郷へ送り届けた後、自分の旅へ戻る。
分かっていた。
ここへ到着すれば、別れる。
ずっと前から知っていたはずなのに。
実際に荷物を目にすると、何の覚悟もできていなかったと分かった。
「今日、出発するのですか?」
俺が尋ねる。
「ああ」
「エリスの話が終わるまでは、待ってもらえますか?」
「待つ」
即答だった。
「別れを告げずに行くつもりはない」
「そうですよね」
ルイジェルドが、何も言わずにいなくなるはずはない。
それでも、確認せずにはいられなかった。
「もう少し、この拠点へ残ることはできませんか?」
言ってから、自分が何を求めているのか分かった。
エリスのためだけではない。
俺が、離れたくないのだ。
魔大陸で目を覚ました時から、ずっと一緒だった。
俺が判断を誤れば止め。
魔物が現れれば前へ立ち。
迷った時には、答えを与えるのではなく、自分で考えさせてくれた。
父親とは違う。
兄とも違う。
師匠だけでもない。
一つの言葉では表せないほど、大きな存在になっていた。
「俺の役目は終わった」
ルイジェルドが答える。
「終わっていません」
反射的に否定する。
「エリスは、まだこれからのことを決めていません。僕も、母様を見つけていません。シルフィも――」
「それは、お前たちが進む道だ」
「一緒に進んではいけないのですか?」
声が思っていたより強くなった。
レイネが隣にいる。
それでも止めなかった。
「いけないとは言わん」
ルイジェルドの声は変わらない。
「だが、俺にも進むべき道がある」
スペルド族の名誉を回復する。
そのために、ルイジェルドは長い間旅をしてきた。
俺たちを助けたのも、その旅の途中だった。
俺とエリスを送り届けることは、ルイジェルドが自分で決めた目的の一つだった。
その目的を果たした後まで、俺の不安だけで縛ることはできない。
「分かっています」
頭では分かっている。
「分かっていますが……」
言葉が続かない。
レイネが俺の背中へ手を置いた。
前へ出て、代わりに話すことはしない。
俺が自分で言葉を見つけるのを待っている。
「寂しいです」
ようやく、それだけを口にした。
「行ってほしくありません」
ルイジェルドは俺を見た。
「だが、行く」
「はい」
分かっている。
言えば残ってくれると思ったわけではない。
ただ、寂しいという気持ちまで、理解したふりで隠したくなかった。
「また会えますか?」
「ああ」
「本当に?」
「ああ」
短い返事。
だが、迷いはない。
「お前たちが生きていれば、必ず会える」
「ルイジェルドさんも、生きていてください」
「ああ」
今度の返事も、同じだった。
レイネが一歩前へ出る。
「ルイジェルド様」
「何だ」
「皆様をお守りくださり、ありがとうございました」
レイネは深く頭を下げた。
「私がルーデウス様と離れていた間も。再会した後も。あなた様がいらっしゃらなければ、同じようにここへ辿り着くことはできなかったと存じます」
「俺だけの力ではない」
「はい。存じております」
レイネは頭を上げた。
「それでも、私からお礼を申し上げたかったのでございます」
ルイジェルドは僅かに頷いた。
「レイネ」
「はい」
「次は、死ぬつもりで戦うな」
レイネの表情が止まる。
「俺は、お前がルーデウスを大切にしていることを知っている」
「はい」
「だが、お前が死ねば、ルーデウスも傷つく」
レイネは俺を見た。
目が合う。
俺は視線を逸らさなかった。
「承知しております」
「分かっていない顔だ」
「……否定はできません」
レイネは僅かに目を伏せた。
「ですが、ルーデウス様だけではなく、エリス様からも同じことを指摘されました。今後は、私自身も生きて戻ることを、最初から戦いの目的へ含めます」
「必ずだ」
「はい」
ルイジェルドの言葉は厳しい。
だが、怒りだけを向けているようには見えなかった。
「二人を頼む」
「承知いたしました」
レイネの返事には、いつもより深い重みがあった。
一人で全てを背負うという意味ではない。
俺たちと相談し。
俺たちにも役割を与え。
自分も生きて戻る。
そのうえで、そばにいるという約束だった。
◇
昼を過ぎた頃、エリスとギレーヌが戻ってきた。
エリスの目は赤い。
泣いたのかもしれない。
だが、足取りはしっかりしている。
ルイジェルドの荷物を見ると、動きを止めた。
「行くの?」
「ああ」
「今日?」
「ああ」
エリスは何も言わず、ルイジェルドへ近づいた。
「前に言ってたものね」
「覚えていたか」
「当たり前でしょう」
声が僅かに震えている。
エリスも、以前から聞いていたはずだ。
俺たちを送り届けた後、自分の旅へ戻る。
忘れていたわけではない。
それでも、実際に別れる日が来ることを、考えないようにしていたのだろう。
「私たちを送り届けたら、自分の旅に戻るって」
「ああ」
「でも、ここには何もなかったわ」
ルイジェルドは答えない。
「帰れば、お父様とお母様がいると思ってた。お祖父様も。ギレーヌもいて、ルーデウスの家族も少しずつ帰ってくると思ってた」
「……ああ」
「ルイジェルドまで行ったら、また減るじゃない」
エリスの目から涙が流れた。
「それでも、行くの?」
「ああ」
ルイジェルドは嘘をつかない。
優しい言葉で誤魔化すこともしない。
「ひどいわ」
「ああ」
「そこは否定しなさいよ」
「別れを延ばしても、別れなくてよくなるわけではない」
「分かってるわよ!」
エリスが叫ぶ。
それでも、剣へ手は伸びない。
ルイジェルドを責めたいわけではないのだろう。
行かなければならないことも理解している。
だからこそ、行き場のない感情だけが声へ出たように見えた。
エリスは涙を拭わないまま、正面からルイジェルドを見上げた。
「私、強くなった?」
「ああ」
「最初から?」
「最初から強かった」
エリスの唇が震える。
「だが、今は剣だけではない」
ルイジェルドが続ける。
「自分が戦うべき時と、ほかの者へ任せる時を考えられるようになった。守るために、剣を抜かないことも選べるようになった」
魔大陸で積み重ねてきたこと。
ルイジェルドは全て見ていた。
「それでも、オルステッドには何もできなかったわ」
「俺もだ」
「ルーデウスを守れなかった」
「俺も守れなかった」
「レイネだけに戦わせた」
「そうだ」
否定しない。
「なら、私は弱いでしょう?」
「オルステッドよりは弱い」
あまりにも直接的な答えだった。
エリスが目を見開く。
「だが、お前がこれまで守った者まで、いなかったことにはならん」
「でも、次にまたあいつが来たら」
「強くなれ」
ルイジェルドの声は、普段と同じだった。
「守れなかったことを理由に、自分が守った者の価値まで消すな。そのうえで足りないと思うなら、強くなれ」
エリスは何も言わなかった。
拳を握り。
涙を流しながら。
ルイジェルドの言葉を聞いていた。
それから、レイネを見た。
「レイネは、どう思う?」
突然尋ねられ、レイネは僅かに瞬きをした。
「私でございますか」
「私、強くなった?」
「はい」
「本当に?」
「魔大陸へ転移なさる前とは、比べるまでもございません」
「剣だけじゃなくて?」
「はい。エリス様は、ご自身の感情だけではなく、周囲の状況と、守るべき方々を考えて選べるようになられました」
エリスは唇を結ぶ。
「それでも、足りなかった」
「はい」
レイネも否定しなかった。
「オルステッド様を相手にするには、足りませんでした。私も同じでございます」
「レイネも?」
「はい。あの場でオルステッド様を退けることはできても、長く戦い続ければ私が先に壊れておりました」
エリスは、レイネの白い髪を見る。
「なら、もっと強くなるしかないのね」
「強さだけが答えとは限りません」
レイネは静かに答えた。
「ですが、ご自身に足りないものを知り、それを得ようとなさることは、間違いではございません」
ルイジェルドも頷いた。
「また会った時、私がもっと強くなってたら、褒める?」
「ああ」
「絶対?」
「ああ」
「なら、約束よ」
「約束だ」
エリスが一歩前へ出る。
何をするのか迷ったように、一度腕を止めた。
それから、ルイジェルドの身体へ抱きついた。
ルイジェルドは大きな手を、エリスの頭へ置いた。
エリスは声を上げて泣かなかった。
ただ、服を強く握っていた。
やがて自分から離れる。
「ルーデウス」
ルイジェルドが俺を呼んだ。
「はい」
「お前は考えすぎる」
否定できない。
「自分が全てを決めなければならないと思うな」
「はい」
「だが、考えることをやめるな」
「どちらなのですか?」
思わず聞き返す。
ルイジェルドの口元が僅かに動いた。
「仲間と考えろ」
胸の奥が熱くなる。
「分かりました」
「お前はもう、守られるだけの子供ではない」
オルステッドには何もできなかった。
俺は殺された。
それでも、魔大陸へ転移した直後の俺とは違う。
判断した。
失敗した。
仲間へ相談した。
人を助けた。
ルイジェルドに守られながらも、何もしてこなかったわけではない。
「ですが、まだ大人でもありません」
「知っている」
「そこは否定してくれないのですね」
「事実だからな」
少しだけ笑う。
泣きそうなのに、笑ってしまった。
俺もルイジェルドへ近づく。
エリスのように抱きついてよいのか迷った。
ルイジェルドの方から、俺の肩を引き寄せた。
硬い胸へ、額が触れる。
「ありがとうございました」
声が震える。
「本当に……ありがとうございました」
「ああ」
短い返事だった。
だが、背中へ置かれた手は温かかった。
離れた後、レイネがルイジェルドの前へ立つ。
「道中のご無事を、お祈りしております」
「お前もな」
「はい」
「一人で背負うな」
レイネは一瞬言葉を止めた。
「承知いたしました」
今度は、言い直さなかった。
ルイジェルドは最後にギレーヌを見る。
互いに戦士として相手を見つめる。
「お前も、目的を果たせ」
ギレーヌが言った。
「ああ」
「また会おう」
「ああ」
それだけで十分だった。
ルイジェルドは荷物を背負い、槍を持った。
振り返らずに歩き始める。
数歩進んだところで、エリスが声を上げた。
「ルイジェルド!」
ルイジェルドの足が止まる。
振り返りはしなかった。
「絶対、また会うからね!」
片手が上がる。
それだけで、再び歩き始めた。
俺たちは、その背中が見えなくなるまで立っていた。
誰も先に戻ろうとは言わなかった。
やがて槍の先が見えなくなる。
それでも、しばらく同じ方向を見続けた。
エリス視点
ルイジェルドの背中が見えなくなっても、私はその場から動けなかった。
最後に見えた槍の先も、もうない。
道の向こうには、荷物を運ぶ人や、捜索から戻ってきた冒険者が歩いているだけで、ルイジェルドの姿はどこにも残っていなかった。
本当に行ってしまった。
ずっと、分かっていた。
私とルーデウスを故郷まで送り届けたら、ルイジェルドは自分の旅へ戻る。
一度だけではない。
旅の途中で、何度か聞いていた。
それでも、なるべく考えないようにしていた。
旧フィットア領へ戻れば、家族がいる。
お父様とお母様が待っている。
お祖父様もいる。
ギレーヌも帰ってくる。
ルーデウスの家族だって、きっと少しずつ見つかる。
レイネも一緒にいる。
だから、ルイジェルドがいなくなっても耐えられる。
そう思っていた。
実際に帰ってきたら、何もなかった。
お父様も。
お母様も。
お祖父様もいない。
屋敷も。
ロアの町も。
昔のまま残っているものなど、一つもなかった。
そのうえ、私が知らない男の妾になれば、領民を救えるかもしれないと言われた。
断れば、食べ物が足りなくなるかもしれない。
子供が飢えるかもしれない。
私が嫌だと言うだけで、何人もの人が苦しむかもしれない。
そして今、ルイジェルドまでいなくなった。
「エリス」
ルーデウスの声が聞こえた。
振り返る。
ルーデウスは、私から数歩離れた場所に立っていた。
隣にはレイネがいる。
ギレーヌも、すぐそばにいる。
全員でルイジェルドを見送ったのだから、当然だ。
ルーデウスの目は赤い。
泣いてはいない。
でも、泣くのを我慢しているのは分かった。
レイネはルーデウスの隣へ立ち、何も言わずにこちらを見ている。
私に声を掛けるべきか。
それとも、少し待つべきか。
考えているようだった。
「少し、ギレーヌと話してくるわ」
私は言った。
ルーデウスはすぐに頷かなかった。
心配している。
私を一人にしたくないのだろう。
「遠くには行かないわよ」
「……分かりました」
「レイネは、ルーデウスといて」
レイネが一度、私の顔を見た。
何を話すつもりなのか、確かめるような視線だった。
「承知いたしました」
「何かあったら呼ぶわ」
「はい」
ギレーヌへ顔を向ける。
「行きましょう」
「ああ」
私とギレーヌは、馬車から少し離れた場所へ移動した。
拠点の建物と資材置き場の間。
声を抑えれば、馬車のそばまでは聞こえない。
それでも、振り返ればルーデウスとレイネの姿が見える程度の距離だった。
ルーデウスは馬車のそばに立ったまま、こちらを見ている。
レイネが何かを話しかけると、ようやく視線を外した。
私の話を聞こうとしているわけではない。
ただ、私が急にいなくならないか、心配しているのだ。
「お嬢様」
ギレーヌが声を掛ける。
「何よ」
「アルフォンスの話を、どう思う」
「嫌よ」
すぐに答えた。
「会ったこともない男の妾なんて、絶対に嫌」
「なら、断れ」
「でも、私が断ったら、みんなが困るかもしれないでしょう?」
「それは、お嬢様一人が背負うことではない」
ルイジェルドと同じことを言う。
レイネも。
ルーデウスも。
全員、私一人で背負うなと言った。
「でも、私が受け入れれば助かるのよ」
「助かる保証はない」
「レイネも言ってたわね」
相手が約束を破っても、何もできない。
私が妾になった後、支援を減らされても。
嫌な扱いを受けても。
自分の意思で戻ってくることさえできないかもしれない。
「それでも、何もしないよりはましなんじゃないの?」
「お嬢様は、本当にそう思っているのか」
「分からないわよ!」
声が大きくなった。
馬車の方を見る。
ルーデウスがこちらへ顔を向けていた。
レイネが、その腕へそっと手を添える。
すぐに駆け寄ろうとしたルーデウスを、今は待つように止めたのだろう。
私が話を続けると、ルーデウスもその場に残った。
「分からないから、考えてるんでしょう!」
ギレーヌは怒らなかった。
黙って、私が続きを話すのを待っている。
「アルフォンスは間違ってる?」
「間違ってはいない」
「じゃあ、受け入れるべきなの?」
「そうとも言っていない」
「どっちなのよ!」
「アルフォンスは、領民を救うために最善だと思う道を選んだ。だが、お嬢様がその道を選ぶ必要はない」
「なら、ほかに何があるの?」
ギレーヌは、馬車のそばにいるルーデウスを見た。
「ルーデウスと行けばいい」
胸が強く跳ねた。
「何を言ってるの?」
「お嬢様は、ルーデウスを好いている」
「そ、そんなの……」
否定しようとして、言葉が止まる。
隠す必要はない。
ギレーヌには、昔から気づかれている。
「ルーデウスも、お嬢様を大切にしている」
「でも、ルーデウスはレイネが好きよ」
口にすると、胸が痛んだ。
知っている。
ルーデウスがレイネを見る目。
レイネが傷ついた時の取り乱し方。
レイネと二人で話している時の顔。
知らないふりはできない。
「それでも、お嬢様を見捨てはしない」
「そんなの嫌よ」
反射的に答えた。
「レイネが好きなのに、私が家族を失ったから仕方なく一緒にいるなんて、嫌」
ギレーヌは何も言わない。
「今日も、ルーデウスは妾になってほしくないって言ったわ。でも、最後に決めるのは私だって」
「正しい」
「私を連れて逃げるとは言わなかった」
言ってほしかったのだろうか。
ルーデウスが全てを捨てて、私だけを選ぶ。
そう言われたら、嬉しかったのかもしれない。
でも、本当に言われたら。
家族を失って。
何をすればいいか分からないまま。
私は、何も考えずにルーデウスの手を取ったと思う。
自分で決めず。
また、ルーデウスに決めてもらっていた。
「ルーデウスは、お嬢様を子供として扱わなかった」
ギレーヌが言う。
「自分で決められる者として扱った」
「分かってるわよ」
分かっている。
だから腹が立つ。
優しく全部決めてくれれば、私は何も考えなくて済んだ。
うまくいかなければ、ルーデウスのせいにできた。
けれど、ルーデウスはそうしなかった。
反対する。
助ける。
別の道を探す。
それでも最後は、私が決めろと言った。
「私、何もできなかった」
オルステッドの姿を思い出す。
身体が動かなかった。
剣を抜こうとしても、腕が震えた。
ようやく動いたと思ったら、一撃で倒された。
ルーデウスの心臓が潰されるところを、地面に倒れたまま見ていた。
レイネが一人で戦った。
身体を壊しながら。
ルーデウスを取り戻すために。
「私がもっと強かったら、レイネだけに戦わせなかった」
「私でも勝てない」
「ギレーヌが勝てないからって、諦める理由にはならないでしょう?」
「そのとおりだ」
ギレーヌは否定しなかった。
「ルイジェルドは、足りないなら強くなれって言った」
「ああ」
「ギレーヌ」
私は師匠を見上げた。
「もっと強くなるには、どうすればいい?」
「今までどおり、私と鍛える」
「それで、オルステッドに勝てる?」
ギレーヌは答えない。
それだけで分かる。
今までと同じでは足りない。
「ギレーヌより強い人はいるの?」
「ああ」
「誰?」
「剣神ガル・ファリオン」
ギレーヌの師匠。
剣神流の頂点。
七大列強の一人。
「どこにいるの?」
「剣の聖地」
遠い。
寒い場所だと聞いたことがある。
どれほど掛かるのかは分からない。
行けば、ルーデウスやレイネと離れる。
ルイジェルドと別れたばかりなのに。
また、大切な人と離れることになる。
考えただけで、胸が苦しくなった。
「私が行きたいと言ったら、連れていってくれる?」
「ああ」
ギレーヌは迷わなかった。
「妾の話は?」
「断れ」
「領民は?」
「アルフォンスと別の方法を探す」
「見つからなかったら?」
「それでも、お嬢様を売ることは認めない」
単純な答えだった。
ギレーヌは、領民を助ける方法を知らない。
政治も得意ではない。
それでも、私を差し出す道だけは選ばない。
「レイネにも聞きたい」
私は言った。
「なら、ここへ呼ぶか」
「私が戻るわ」
ギレーヌと並んで、馬車の方へ歩き始める。
ルーデウスとレイネは、先ほどと同じ場所にいた。
ルーデウスは馬車の車輪へ腰を預けている。
レイネは隣に立ち、ルイジェルドが去った道を見つめていた。
私たちが近づくと、二人が同時にこちらへ顔を向ける。
「エリス」
ルーデウスが立ち上がる。
「話は終わりましたか?」
「まだよ」
「何かありましたか?」
心配そうな顔。
私が少しでも変な顔をすれば、すぐに自分のせいだと考える。
レイネの言うとおり、本当に面倒な性格だ。
「レイネと二人で話したい」
「分かりました」
ルーデウスは少し寂しそうな顔をした。
それでも、理由を尋ねたり、自分も一緒に行くとは言わなかった。
「僕は、ここでギレーヌと待っています」
「遠くには行かないわ」
「はい」
「それから、勝手に変なことを考えないで」
「変なこと?」
「私がルーデウスに話せないことを相談する、とか」
ルーデウスの目が僅かに泳いだ。
やはり、もう考えかけていたらしい。
「そういうわけじゃないわ。話す順番があるだけよ」
「……分かりました」
レイネがルーデウスを一度見た。
落ち着いたことを確認してから、私の前へ来る。
「どちらへ参りましょうか」
「さっきギレーヌと話していたところでいいわ」
「承知いたしました」
レイネと二人で、再び拠点の外れへ向かう。
後ろを振り返ると、ギレーヌがルーデウスへ何かを話していた。
ルーデウスは私たちを見ながらも、その場に残っている。
今度は、レイネと二人で話すために離れたのだ。
自分の考えを固めるために。
ルーデウスへ伝える前に、レイネの意見も聞くために。
私はもう一度、あの場所へ向かった。
「レイネ」
「はい」
「さっきは、あの話を受けるなって言ったわよね」
「はい」
「本当に、断っていいと思う?」
レイネは少し考えた。
「断っただけでは、何も解決いたしません」
「やっぱり」
「ですが、受け入れたとしても、解決するとは限りません」
「なら、どうすればいいのよ」
「すぐに全てを解決する方法は、私にも分かりません」
レイネは嘘をつかなかった。
何でも知っているように振る舞わない。
「アルフォンス様の帳簿を確認し、現在の物資と支出を把握いたします。ルーデウス様には、魔術で削減できる復興費用を計算していただきます。ほかの貴族や商会へ支援を求めるための材料も整えます」
「それで助かる?」
「保証はできません」
「また、それね」
「できない約束をするべきではございませんので」
ルーデウスと同じだ。
絶対に大丈夫とは言わない。
その代わり、できることは全てやる。
「私も何かする」
「はい」
「妾になる以外で」
「もちろんでございます」
「でも、その前に強くなりたい」
レイネは、すぐには答えなかった。
「剣の聖地へ行こうと思う」
「ギレーヌ様とともに?」
「ええ。剣神に教えてもらう」
「オルステッド様へ勝つためでございますか?」
「それもあるわ」
でも、それだけではない。
「今のままだと、私はまたルーデウスに決めてもらう。何かが起きたら、レイネに守ってもらう。自分では何もできないまま、隣にいるだけになる」
「エリス様は、何もしてこなかったわけではございません」
「分かってる」
ルイジェルドにも言われた。
私が守った人まで、いなかったことにはならない。
「でも、足りないの」
「はい」
レイネは頷いた。
否定しない。
「ならば、足りないものを得に行くことは、間違いではございません」
「レイネは、行った方がいいと思う?」
今度は、はっきりと判断を求めた。
レイネは私の顔を見た。
「エリス様が、ルーデウス様から逃げるために行かれるのであれば、反対いたします」
「逃げるためじゃないわ」
「アルフォンス様の話から逃げるためであっても、同じでございます」
「それも違う」
「では、何のためでございますか?」
「戻ってくるためよ」
レイネの目が僅かに動いた。
「今のまま、ルーデウスのそばにいるだけじゃ駄目なの。私が何もできないままだと、また誰かに全部背負わせる」
オルステッドの前で倒れていた私。
一人で戦ったレイネ。
心臓を潰されたルーデウス。
あの時、私は何もできなかった。
「次は、私も立っていたい。ルーデウスを守りたいし、レイネ一人にも戦わせたくない」
「私も、でございますか」
「当たり前でしょう!」
声が大きくなった。
「ルーデウスにも言われたでしょう! 死ぬつもりで戦うなって! ルイジェルドにも言われた!」
「はい」
「なら、勝手に死なないで」
「はい」
「本当に分かってる?」
レイネは僅かに目を伏せた。
「私が強くなっても、エリス様が危険な状況に置かれれば、私は戦うと存じます」
「それはいいわ」
「必要であれば、限界を越える可能性もございます」
「それが駄目なのよ!」
「ですが、エリス様も同じことをなさるのではございませんか?」
言い返せなかった。
ルーデウスが殺されそうになれば。
レイネが殺されそうになれば。
私は、自分が死ぬ可能性など考えずに飛び込むと思う。
「……するわよ」
「では、私にだけ禁じることはできません」
「だから、二人とも死なないように強くなるのよ」
言葉にしてから、自分が何を望んでいるのか、ようやく分かった。
「私が強くなるのは、レイネを戦わせないためじゃない。レイネ一人に戦わせないためよ。私も一緒に戦って、二人とも生きて戻るの」
レイネの赤い瞳が、僅かに見開かれた。
「ルーデウスを守るためだけじゃない。レイネも守るの。だからレイネも、最初から死ぬつもりで戦わないで」
レイネは、しばらく私を見つめていた。
「承知いたしました」
「本当に?」
「はい。エリス様とともに戦う場合には、エリス様とともに生きて戻る方法を、最後まで探します」
今までより、少しだけ信用できる返事だった。
「それならいいわ」
「では、剣の聖地へ向かわれることに、私は反対いたしません」
「本当に?」
「はい。今のエリス様は、ただ逃げようとしているわけではございません」
レイネは静かに続ける。
「ご自身が戻るべき場所を、ご自身で選ぶために行かれるのでしょう」
「ええ」
「でしたら、私は応援いたします」
胸の中にあった重いものが、少しだけ軽くなった。
ギレーヌは行けと言った。
ルイジェルドも、足りないなら強くなれと言った。
レイネも認めてくれた。
あとは。
「ルーデウスに話さないと」
「はい」
「何て言えばいいと思う?」
「私がお決めすることではございません」
「少しくらい教えなさいよ」
「エリス様が、なぜ剣の聖地へ行かれるのか。ルーデウス様へ、どのように思っていただきたいのか。その二点を、ご自身の言葉でお話しくださいませ」
なぜ行くのか。
守れるようになるため。
同じ場所に立つため。
置いていかれないため。
どう思ってほしいのか。
待っていてほしい。
忘れないでほしい。
私が捨てたのだと思わないでほしい。
でも、ルーデウスはレイネが好きだ。
私が戻った時、二人の関係が変わっているかもしれない。
それを止める権利はない。
「レイネ」
「はい」
「レイネも、ルーデウスが好き?」
足を止める。
レイネも立ち止まった。
すぐには答えなかった。
迷っているようには見えない。
軽い言葉で答えないために、言葉を選んでいるのだと分かった。
「はい」
やがて、レイネは静かに答えた。
「恋情として、私がこれほど深く誰かを想ったことは、これまで一度もございません」
声は普段と変わらず穏やかだった。
だが、その一言が持つ重さは、いつもの返事とは全く違った。
「友として、生涯でただ一人と呼ぶべき、かけがえのない方は別におります」
レイネの赤い瞳が、一瞬だけ遠い場所を見る。
大切で。
失ってもなお、決して忘れられない誰かがいる。
私には、その人が誰なのか分からない。
けれど、軽々しく名前を聞くべきではないと思った。
レイネは再び私を見る。
「ですが、恋という意味で申し上げるなら、ルーデウス様が最初であり、私の生涯で最も大切な方でございます」
「生涯で?」
「はい」
迷いのない返事だった。
「おそらく、この先どれほど長く生きたとしても、ルーデウス様以上に深く想う方は現れないと存じます」
胸が痛んだ。
レイネの気持ちは、私が思っていたよりずっと深い。
侍女だから。
昔から仕えているから。
そういう理由だけではない。
一人の人間として。
一人の女として。
ルーデウスを愛している。
「それなら、私がルーデウスを好きなのは嫌?」
「嫌ではないと申し上げれば、嘘になります」
正直な答えだった。
「私も、エリス様へルーデウス様をお譲りするつもりはございません」
「やっぱり、私たち敵ね」
「恋に関しては、そうなる可能性がございます」
妙に真面目な返事だった。
思わず少し笑ってしまう。
昨日から何度も泣いた。
家族を失った。
ルイジェルドとも別れた。
知らない男の妾になれと言われた。
それなのに、こんな話で笑っている。
自分でもおかしいと思う。
「でも、私に好きになるなとは言わないのね」
「エリス様のお気持ちは、エリス様のものでございます」
「負けないから」
「私も、譲るつもりはございません」
「でも、今はそれより先に強くなる」
「はい」
「ルーデウスには、私の口から話す」
「はい」
「何も言わずに行くつもりはないわ」
それだけは、もう決めている。
伝えるのが怖くても。
止められるかもしれなくても。
うまく説明できなくても。
手紙だけ残して消えるようなことはしない。
「ルーデウスが、自分のせいだって考えるのは分かってるもの」
「はい。ご理解いただけて何よりでございます」
「私がいなくなったら、また変なこと考えるでしょう?」
「エリス様に嫌われた。ご自分が頼りなかった。オルステッド様に殺されたことで失望された。そのように、考えられる可能性がございます」
「馬鹿じゃないの」
「ルーデウス様は、ご自身を責める際には、驚くほど多くの理由を思いつかれますので」
「本当に面倒ね」
「はい」
レイネは否定しなかった。
「だから、話すわ」
「それがよろしいかと存じます」
「私が強くなって戻ってくることも」
「はい」
「ルーデウスを捨てるわけじゃないことも」
「はい」
「私のことを忘れてほしくないことも」
最後の言葉だけは、少し小さくなった。
レイネは笑わなかった。
「それも、お伝えくださいませ」
「レイネは嫌でしょう?」
「嫌でございます」
即答だった。
「ですが、隠されるよりはよろしいかと存じます」
「変なの」
「互いに、相手の知らない場所で勝手に決めるよりは、正面から競った方が公平でございましょう」
「なら、正面から勝つわ」
「お待ちしております」
私たちは、ルーデウスとギレーヌが待つ馬車へ戻り始めた。
今度は、途中で足を止めなかった。
お父様。
お母様。
お祖父様。
もう会えない。
その悲しみは消えない。
ルイジェルドも旅立った。
寂しい。
それでも。
私は何もかもを失ったわけではない。
ルーデウスがいる。
レイネがいる。
ギレーヌがいる。
強くなるための道もある。
馬車のそばで、ルーデウスが私たちを待っている。
私が近づくと、まっすぐこちらを見る。
不安そうな顔。
私が何を話すのか分からず、それでも逃げずに待っている顔だった。
今度は、何も言わずにいなくなったりしない。
自分の言葉で伝える。
そのうえで、剣の聖地へ向かう。
ルーデウスの隣へ戻った時。
今度こそ。
オルステッドが現れても、地面へ倒れたまま見ているだけでは終わらない。
ルーデウスを。
レイネを。
私の大切な人たちを守れるようになる。
その決意を胸に、私はルーデウスの前まで歩いていった。