ルーデウス視点
ロキシーがグレイラット家へ来てから、ルーデウスの生活は、それまで以上に規則正しいものとなった。
朝食を終えると、午前中はロキシーから魔術の指導を受ける。昼食と短い休憩を挟んだ後は、パウロとともに身体を動かし、日が傾けば家へ戻って文字や計算の復習を行う。夕食後にも余力が残っている日は本を読み、疲れている日はレイネに促されるまま早めに寝床へ入った。
前世での自分は、決められた時間に起きることすら嫌がっていた。学校へ通っていた頃も、何かと理由をつけて授業を休み、一度遅れれば追いつこうとするのではなく、もう無理だと諦めていた。
今世では、昨日できなかったことが、今日には少しだけできるようになる。
その手応えがある限り、学ぶことを苦痛だとは思わなかった。
ロキシーの授業は、初日に見せた自信のなさからは想像できないほど丁寧だった。
ルーデウスが無詠唱で魔術を使えると知った後も、彼女は詠唱を不要なものとして切り捨てなかった。魔術を発動させるために、詠唱がどの工程を補助しているのか。術者が意識しなければならない要素は何か。術の規模、速度、射程、形状を変化させる際、魔力がどのように消費されるのか。そうした基礎を一つずつ確認し、ルーデウスが感覚だけで行っていたことへ言葉を与えていった。
「無詠唱で使えるからといって、詠唱を覚えなくてもよいわけではありません」
授業を始めて間もない頃、ロキシーは教本を開きながら、少し厳しい表情でそう告げた。
「詠唱には、正しい術の形を術者へ覚えさせる役割があります。感覚だけで作った魔術は、本人が意図していないところで余分な魔力を使ったり、威力が不安定になったりする可能性があります」
「では、僕も毎回唱えた方がいいのですか?」
「いいえ。ルディの場合、詠唱を使うと、かえって細かな調整がしにくくなることがあります。ですが、正式な詠唱を知っていれば、どのような術を作るべきか、その基準を持てます。知ったうえで省略するのと、知らないまま自己流で使うのは違います」
ルーデウスには、その説明がよく理解できた。
前世のゲームでも、基本的な仕組みを知らず、上手い人の操作だけを真似していると、少し状況が変わっただけで対応できなくなることがあった。無詠唱という珍しい技術を持っているからこそ、基礎を軽視してはならないのだろう。
ロキシーは水魔術だけでなく、火、風、土の四系統を順番に教えた。
最初に詠唱を覚え、術を発動し、次に詠唱を使わず同じ形を再現する。その後、大きさ、速度、温度、硬度、射程を変え、最後に安全な範囲で実際の標的へ撃ち込む。
庭の端には、レイネが廃材を利用して作った複数の標的が並ぶようになった。
水魔術用には厚い木板、火魔術用には石を積んだ囲い、風魔術用には布を張った枠、土魔術用には何度崩しても困らない土壁が用意されている。いずれも射線の先に人や家畜が入り込まない場所へ置かれ、使用後には周囲の火種や破片を確認することが決まりとなった。
「そこまで準備しなくても、僕はもう壁を壊したりしません」
新しい標的を見たルーデウスが不満を口にすると、杭を打っていたレイネは顔を上げることなく答えた。
「壁を壊された方は、皆様そう仰るのではないでしょうか」
「一度しか壊していません」
「その一度がございましたので、こちらを用意しております」
返す言葉がなかった。
ロキシーは二人のやり取りを聞きながら口元を緩めたものの、授業が始まれば、レイネの安全管理を全面的に支持した。
特に火魔術については厳しく、術を使った後に煙が残っている間は、その場を離れることを許さなかった。
レイネは魔術の内容へ口を挟まず、授業中は少し離れたところで仕事をしていることが多かった。しかし、ルーデウスが急に顔色を悪くすれば誰よりも早く気づき、ロキシーが休憩を命じる前に、水と濡らした布を差し出した。
初めの頃に作った記録帳も、そのまま使われ続けた。
もっとも、今ではレイネだけが記録をつけているのではない。
ロキシーが術の種類、出力、成功率、消費魔力について書き込み、レイネが食事量、睡眠、発熱や疲労といった体調面を補足する。ルーデウス自身も、その日に難しかったことや、次に試したい内容を書き残した。
三人の記録が重なることで、ルーデウスの魔力がどのように伸び、何を苦手としているのかが少しずつ明らかになっていった。
幼少期に魔力を使えば、保有できる魔力量そのものが増加する。
それは、魔術師の間で一般的に知られている知識ではなかったらしい。
ロキシーは最初、成長による自然な変化ではないかと考えていたが、使用回数と魔力量の増加があまりにも明確に連動しているため、やがてルーデウスの仮説を認めるようになった。
「少なくとも、幼い時期に限っては、魔力を使うことで器が広がる可能性があります」
ある日の授業後、ロキシーは記録帳を眺めながら言った。
「ただし、誰にでも同じように起きるとは限りません。ルディが特殊である可能性もありますし、魔力切れを繰り返せば身体へ悪影響が出るかもしれません。確認するために、ほかの子供へ同じことをさせるわけにもいきません」
「僕が毎日限界まで使えば、もっと早く増えるのではありませんか?」
「許可しません」
ロキシーが答えるより早く、後ろからレイネの声が飛んできた。
振り返ると、空になった水差しを回収しに来た彼女が、静かな表情でこちらを見ている。
「以前、魔力を使い切って意識を失われたことを、お忘れになりましたか?」
「忘れてはいません。でも、あの頃より身体も成長しました」
「身体が成長したのであれば、その身体を壊さないようにお使いくださいませ」
レイネの声音は穏やかだったが、譲るつもりがないことは分かった。
ロキシーも小さく頷く。
「レイネの言うとおりです。限界を知ることと、毎日限界まで使うことは別です。魔力を伸ばすために、ほかの学習ができないほど疲れてしまっては意味がありません」
二人から同時に止められ、ルーデウスは提案を引っ込めるしかなかった。
その代わり、一日の練習量は、翌朝まで疲労を残さない範囲で少しずつ増やされた。無理に魔力を空にするのではなく、安定した術を何度も繰り返し、同じ結果を再現できることを優先する。
その地道な積み重ねによって、ルーデウスは初級から中級、やがて上級の魔術まで扱えるようになっていった。
ただし、すべてが順調だったわけではない。
攻撃魔術は無詠唱で使えたものの、治癒魔術は何度試しても、詠唱を省略できなかった。
身体の内部で何が起きているのかを、正確に想像できないためらしい。水球であれば、前世でも水の形や動きを知っている。風や火も、身近な現象として理解できる。しかし、傷が塞がる時に細胞や血管がどのように再生するのかまでは分からない。
「治癒魔術は、詠唱できれば十分です」
ロキシーはそう言った。
「無詠唱は確かに便利ですが、それ自体が目的ではありません。負傷した人を治せることの方が大切です」
その言葉に納得し、ルーデウスは治癒魔術については無理に無詠唱へこだわらず、正確な詠唱と適切な魔力量を覚えることにした。
午前の魔術が順調に進む一方、午後の剣術は、同じようにはいかなかった。
パウロの実演は相変わらず見事だったが、説明も相変わらず感覚的である。
「もっと素早く踏み込め。クッと入って、ザンッと斬るんだ」
「昨日は、グッと押してからドンと腰を入れると言っていませんでしたか?」
「昨日のは基本の踏み込みだ。今教えているのは、クッと入ってザンだ」
「何が違うのですか?」
「速さと鋭さだ」
「もう少し詳しく説明してください」
「だから、クッと入ってザンだと言っているだろう」
ルーデウスは、パウロの言葉だけで理解することを早々に諦め、動きを細かく観察するようになった。
後ろ足を蹴る角度、腰の高さ、前足が地面へ触れる時機、肩と腕が動き始める順番。実演を何度も見た後、その日の夜にレイネへ、自分が気づいたことを説明する。
レイネは剣を持って実演することはなかった。
ただ、ルーデウスの動きを見て、どこで身体の連動が途切れているのかを指摘した。
「踏み込む前に、肩が上がっております」
「力を入れているからです」
「肩へ力を入れれば、腕を動かす時に邪魔になります。剣を握る手まで緩める必要はございませんが、振り始める前から全身を固めないでください」
「父様は、力を込めろと言っていました」
「剣が相手へ届く瞬間に、でございましょう。旦那様も、構えておられる時から全身を固めてはいません」
言われて思い返すと、確かにパウロの構えは自然だった。強い一撃を放つ直前まで、身体には余計な力が入っていない。
翌日の稽古で意識してみると、木剣の速度が僅かに増した。
「そうだ、それだ!」
パウロは自分の説明が通じたと思い、嬉しそうにルーデウスの背中を叩いた。
レイネに教わったことは秘密にしているため、ルーデウスは曖昧に笑って頷いた。
もっとも、レイネはパウロの教えを奪っているわけではなかった。彼女自身が繰り返しているとおり、正しい動きを見せているのはパウロであり、レイネはそれをルーデウスが理解できる言葉へ置き換えているだけである。
稽古が続くにつれ、パウロは三つの主要な剣術流派について教えてくれた。
相手より先に攻撃を当て、一撃で勝負を決めることを重視する剣神流。相手の攻撃を受け流し、隙を捉えて反撃する水神流。そして、周囲の物や状況を利用し、負傷した状態でも戦い続けることを想定した北神流。
パウロは剣神流を中心に学びながら、水神流と北神流も修めているらしい。
「一つの流派を極めるのもいいが、冒険者や騎士として生きるなら、何が起きても対応できる方がいい」
そう語る時のパウロは、普段よりも少しだけ真剣だった。
冒険者時代、剣だけでは解決できない状況を何度も経験してきたのだろう。
ルーデウスは魔術を使えるため、必ずしも剣だけで戦う必要はない。それでも、敵が近くにいる状況や、魔術を使う時間がない場合を考えれば、身体を動かせることに意味はあった。
魔術ほど早く成果は出なかったが、レイネの補足もあって、基本的な足運びと型については着実に上達した。
パウロから見れば、同年代の子供とは比べものにならない速度らしい。
しかし、剣を持てば何でもできるようになったわけではない。パウロと打ち合えば一度も有効な一撃を当てられず、少し速度を上げられただけで木剣を弾き飛ばされる。
「焦るな。剣術は身体ができてからが本番だ」
敗北して落ち込むルーデウスへ、パウロはそう言った。
「お前は頭で考えすぎる。考えることは悪くないが、相手は考え終わるまで待ってくれない。何度も繰り返して、考える前に身体が動くようにするんだ」
擬音ばかりの説明より、珍しく分かりやすい助言だった。
ルーデウスは素直に頷き、翌日から同じ型を繰り返した。
◇
ロキシー視点
グレイラット家での生活は、ロキシーが想像していたよりも穏やかだった。
家庭教師として雇われる前には、田舎の騎士家で、我が儘な子供と横柄な親を相手にする可能性も考えていた。実際には、パウロとゼニスに多少の問題がないわけではなかったが、使用人や教師を理不尽に扱うことはなく、ルーデウスも年齢に似合わないほど勤勉だった。
最初は、その勤勉さを不気味に思ったこともある。
三歳児が自分から本を読み、授業内容を復習し、失敗した原因を紙へ書き出す。普通の子供らしく遊ぶ時間が少なく、学ぶことへ執着しているように見えた。
しかし、一緒に過ごしているうちに、ルーデウスにも子供らしい部分があることを知った。
難しい魔術が成功すれば顔を輝かせ、褒められれば隠しきれない笑みを浮かべる。パウロとの剣術で負ければ悔しがり、ゼニスから甘い菓子を与えられれば素直に喜んだ。
疲れているのに無理をしようとして、レイネから休息を命じられ、不満そうな顔をすることもある。
そういう姿を見るたび、ロキシーはルーデウスを年齢不詳の怪物ではなく、少し変わった才能を持つ子供として捉えられるようになった。
その見方に変わるまで、レイネの存在も大きかった。
レイネはルーデウスの能力を特別視しすぎず、失敗した時にも才能があるから仕方ないとは言わなかった。できたことは認めるが、食事や睡眠、家の決まりについては、ほかの子供へ接するのと同じように扱う。
「本日の復習を終えてから眠ります」
夜遅くまで机へ向かおうとするルーデウスへ、レイネは何度も本を閉じさせた。
「明朝にしてくださいませ」
「あと一頁だけです」
「先ほども、あと一頁と仰いました」
「今度こそ最後です」
「お眠りになるまで、その言葉を繰り返されるおつもりでしょうか」
最終的には、本を取り上げられたルーデウスが不満そうに寝台へ入り、翌朝になると、何事もなかったように続きを始める。
その繰り返しが、行き過ぎた努力から彼を守っているのだろう。
ロキシー自身も、教師として熱が入りすぎることがあった。
新しい術式を思いつき、次の日に試そうと夜遅くまで教材を書いていると、レイネが温かい飲み物を持ってくる。
「まだ起きていたのですね」
ロキシーが言うと、レイネは机の上へ視線を落とした。
「先生のお部屋だけ、明かりが残っておりましたので」
「明日の授業で使うものです。もう少しで終わります」
「それでは、こちらをお飲みになってから続きをなさってください。冷え込んでおります」
差し出された飲み物は、ロキシーが好む甘さに調整されていた。
一緒に暮らし始めてから、レイネは家族だけでなく、ロキシーの好みや生活の癖まで正確に覚えていた。
外見は二年の間に少しだけ成長したものの、現在も九歳か十歳ほどにしか見えない。それでも、屋敷で働く姿を見慣れたロキシーにとって、レイネは子供ではなく、頼れる同僚に近い存在となっていた。
「レイネも、明日は朝が早いのでしょう」
「私はいつもどおりでございます」
「それなら、私もいつもどおりに起きられるよう、そろそろ休みます」
ロキシーが筆を置くと、レイネは満足そうに小さく頷いた。
家庭教師として教えているつもりが、いつの間にか自分まで生活を管理されているような気がしたが、不思議と嫌ではなかった。
◇
ルーデウス視点
ロキシーがグレイラット家へ来てから二年が過ぎ、ルーデウスは五歳になった。
この国では、誕生日を毎年盛大に祝う習慣はないらしい。その代わり、五歳、十歳、十五歳という節目には、家族が贈り物を渡し、無事に成長したことを祝う。
十五歳で成人とされるため、その前に五年ごとの区切りを設けているのだろう。
誕生日当日、普段より少し豪華な夕食が食卓へ並んだ。
料理の大半を作ったのはレイネであり、リーリャも盛りつけや配膳を手伝っている。ロキシーも家族とともに席へ着き、パウロは朝から何かを隠しているつもりなのか、妙に落ち着かない様子を見せていた。
食事を終えると、最初に立ち上がったのはパウロだった。
「ルディ。五歳になったお前に、父親として贈る物がある」
わざわざ声を低くし、厳かな表情を作っている。
背後に置かれていた布を取ると、その下から二本の剣が現れた。
一本は、五歳児が扱うには長く、重そうな実剣だった。鞘から僅かに抜かれた刃は丁寧に鍛えられており、飾りではなく、本当に人や魔物を斬れる武器だと分かる。
もう一本は、ルーデウスの身体に合わせて作られた短い木剣だった。
「男は心の中に一本の剣を持たなければならない」
パウロは実剣へ手を置き、演説を始めた。
「剣とは、ただ相手を斬るための道具ではない。自分の身を守り、家族を守り、大切な者の前に立つための覚悟だ。力を持つ者は、その力をどこで使い、どこで使わないかを――」
話は長かった。
内容そのものは悪くない。剣を与えることに対し、父親として何を伝えたいのかも理解できた。
ただ、パウロは同じ意味の言葉を少しずつ表現を変えて繰り返し始めた。
ゼニスは最初こそ微笑んで聞いていたが、やがて片手で頬杖をつき、リーリャは無表情のまま視線を伏せた。ロキシーも、いつ終わるのか分からない演説を聞きながら、目の前の飲み物へ口をつけている。
レイネだけは、主人の話を遮ることなく、姿勢を崩さずに聞いていた。
もっとも、パウロが一度言葉を区切った瞬間、彼女は自然な動作で空になった杯へ酒を注ぎ、そのまま口を挟んだ。
「旦那様。ルーデウス様も、贈り物を手に取るのを楽しみにしておられます」
「そうか。まだ肝心の剣を渡していなかったな」
注意されたとは感じなかったらしく、パウロは満足そうに頷いた。
ゼニスが小さく笑う。
「要するに、必要な時以外は、実剣を勝手に持ち出さないこと。そういう話でしょう?」
「要するにと言えば、まあ、そうなる」
長い演説を一言でまとめられ、パウロは少し不満そうだったが、最後には実剣と木剣をルーデウスへ差し出した。
「実剣は俺かリーリャ、レイネの許可がある時だけ使え。普段の稽古は木剣で行う。いいな?」
「はい、父様。ありがとうございます」
実剣を受け取ると、予想以上の重さが両腕へかかった。
今の身体では、鞘へ入れたまま持ち上げるだけでも苦労する。実戦で振り回すなど到底できそうにない。
それでも、自分のために鍛えられた剣を贈られたことは嬉しかった。
これは玩具ではなく、いつか自分が責任を持って扱うための武器なのだろう。
パウロの次に、ゼニスが一冊の本を差し出した。
「ルディは本が好きだから、何がいいか随分迷ったのよ」
革で丁寧に綴じられた、かなり分厚い本である。
表紙を開くと、さまざまな植物の挿絵と、その特徴、育つ場所、薬や毒としての用途が細かく書かれていた。
「植物辞典ですか?」
「ええ。薬草だけではなく、食べられる植物や、触ると危険なものも載っているわ。外へ出るようになった時、きっと役に立つと思って」
手書きの本が高価であることは、すでに知っている。
これほど分厚く、挿絵まで入った辞典が、安いはずはなかった。
「ありがとうございます、母様。大切に読みます」
ルーデウスが礼を言うと、ゼニスは嬉しそうに抱きしめた。
その腕の中で、ルーデウスは少しだけ身体を固くした。
ゼニスに触れられることが嫌なのではない。
外へ出るようになった時、という言葉が、胸の奥へ小さな影を落としたのである。
ルーデウスは生まれてから一度も、家の敷地の外へ出ていなかった。
庭には出られる。柵越しに村の景色を見ることもできる。しかし、門を越えて外へ行こうとすると、前世で家から引きずり出された時の記憶が蘇り、足が動かなくなった。
そのことを家族には話していない。
幼い子供が外を怖がっている程度に思われているのか、そもそも気づかれていないのかも分からなかった。
考え込んだのは一瞬だけだった。
ゼニスの腕から解放されると、次にロキシーが立ち上がった。
「私からも、贈り物があります」
差し出されたのは、三十センチほどの短い杖だった。
木製の柄の先に、小さな赤い石が取りつけられている。派手な装飾はなく、全体としては質素な作りだったが、手に取ると不思議なほど馴染んだ。
「先日、私が作ったものです」
ロキシーは少し言いにくそうに続けた。
「ルディは最初から魔術を使っていたため、すっかり失念していましたが、本来は弟子が初級魔術を使えるようになった時に、師が杖を作って贈るものなのです。二年も遅くなってしまい、申し訳ありません」
ロキシーは、自分を師匠と呼ばれることをあまり好まなかった。
何度かそう呼ぶと、自分にはまだ誰かの師を名乗るほどの力はないと、困った顔をしたことがある。
それでも、魔術師の慣習を無視したまま別れることには、抵抗があったのだろう。
「ありがとうございます、師匠。大切にします」
あえてそう呼ぶと、ロキシーは予想どおり、少しだけ苦い顔をした。
「先生で構いません」
「杖を贈ってくださったのですから、今日は師匠と呼ばせてください」
「今日だけですよ」
そう言いながらも、ロキシーはどこか嬉しそうだった。
家族と教師からの贈り物が終わると、レイネが食卓の端へ、小さく包まれた布を置いた。
「私からは、皆様のように立派な物ではございませんが」
包みの中に入っていたのは、厚い革で作られた一対の手袋だった。
掌の部分には別の革が重ねられ、指や手首を動かしやすいよう、細かな縫い目が入っている。
「剣術の稽古と、杖を用いた魔術練習の両方でお使いいただけます。ルーデウス様の手に合わせておりますが、成長なされても、しばらくは紐で調整できるようにいたしました」
手を入れてみると、ぴたりと合った。
木剣を握る部分には十分な厚みがある一方、指先の感覚は失われない。杖を握ってみても、滑ることなく自然に持てた。
レイネは贈り物を用意している様子を一度も見せなかった。
恐らく、夜や仕事の合間を使って作ったのだろう。
「ありがとうございます。いつ作ったのですか?」
「空いた時間に少しずつ進めておりました」
「全然気づきませんでした」
「贈る前に気づかれては、面白くございませんので」
レイネの微笑は、いつもの侍女としての表情よりも僅かに柔らかかった。
初めてこの家へ来た時、レイネは七歳ほどの少女にしか見えなかった。
五年が過ぎ、現在の実年齢は十九歳になっている。身体の成長は相変わらず遅く、外見は九歳から十歳程度に見えるが、初めの頃より背丈は伸び、顔立ちにも少しずつ年長者らしい落ち着きが現れていた。
それでも、ルーデウスから見れば、レイネは外見の変化よりも、この家にいることが当たり前になったという事実の方が大きかった。
毎朝目を覚ませば挨拶を交わし、学習の準備を整えてくれ、失敗すれば後始末を手伝い、無理をすれば止める。
母親でも教師でもない。
けれど、今のルーデウスの生活を語るうえで、欠かすことのできない人間になっていた。
「レイネ」
「はい」
「これからも、よろしくお願いします」
誕生日の礼としては、少し奇妙な言葉だったかもしれない。
レイネは一瞬だけ目を細めた後、丁寧に頭を下げた。
「こちらこそ、よろしくお願いいたします。ルーデウス様」
◇
パウロ視点
翌日から、ルーデウスの剣術修行は、これまでより本格的なものとなった。
五歳になったからといって、急に身体が完成するわけではない。実剣はまだ重すぎるため、普段の稽古には誕生日に贈った木剣を使わせた。
最初は素振りと型を繰り返し、次に庭へ設置した木人へ打ち込ませる。足の運び、腰の位置、剣が標的へ当たる角度を確認し、崩れれば最初からやり直す。
パウロは、息子が魔術ほど剣術を得意としていないことを理解していた。
魔術については、一度見ただけで教師の説明を理解し、自分なりの工夫まで加えてしまう。剣術では、動きを頭で分析しすぎるせいか、咄嗟の判断が遅れ、実際の打ち合いでは身体が固まることがあった。
それでも、三歳の頃と比べれば、見違えるほど上達している。
特に足運びと体重移動については、教えた翌日になると急に動きが改善されることが多かった。
「ルディ。昨日より随分よくなったな」
「父様の動きを、寝る前に思い出しました」
「そうか。俺の教え方がよかったんだな」
ルーデウスは一瞬だけ視線を逸らしたが、パウロは気づかなかった。
少し離れたところでは、レイネが洗濯物を干している。
あの侍女は、家事だけでなくルーデウスの学習にもよく気を配っている。魔術についてはロキシーへ任せ、剣術については決して口を挟まない。
以前に護身術を学んだことがあるとは聞いているが、本人の申告どおり、戦えるほどの腕ではないのだろう。
少なくともパウロは、レイネが剣を振る姿を一度も見たことがなかった。
ルーデウスが木人への打ち込みを終えると、パウロは自分の木剣を手に取った。
「次は俺と打ち合いだ。遠慮せず、どこからでも来い」
「父様は、少しぐらい手加減してください」
「当然する。五歳の子供へ本気を出す父親がいるものか」
実際には、かなり手加減している。
それでもルーデウスの攻撃を避け、受け流し、隙があれば木剣の先で肩や胴を軽く叩く程度なら難しくなかった。
ルーデウスは何度打たれても、すぐに構え直した。
以前なら、攻撃を受けた瞬間に考え込み、なぜ当たったのか整理してから動いていた。今は完全に止まることなく、距離を取りながら次の手を考えられるようになっている。
最後には剣を弾かれ、尻餅をついたものの、五歳児としては十分すぎる動きだった。
「今日はここまでだ」
「まだできます」
「できるかどうかではなく、終わりだ。疲れて姿勢が崩れている。悪い癖を身体へ覚えさせても意味がない」
ルーデウスは不満そうだったが、木剣を拾い、素直に頭を下げた。
「ありがとうございました、父様」
「うむ。明日も同じ時間だ」
父親として、息子から尊敬されることは嬉しかった。
魔術についてはロキシーに任せるしかないが、剣術なら自分が教えられる。少なくとも、この分野だけは誰にも譲るつもりがなかった。
パウロが満足しながら家へ戻ると、その背後で、レイネが疲れ切ったルーデウスへ水を渡していた。
二人が小声で何かを話していることには気づいたが、稽古の感想を聞いているだけだろうと考え、そのまま振り返ることはなかった。
◇
ルーデウス視点
パウロが屋敷の中へ戻った後、ルーデウスは受け取った水を飲み、乱れた呼吸を整えた。
「今日は、昨日より反応できたと思います」
「はい。旦那様の二撃目を受けた後も、完全には足が止まりませんでした」
「でも、三撃目で剣を弾かれました」
「受ける時に、剣だけを動かしたためです。旦那様の一撃を腕だけで止めようとすれば、今のルーデウス様では力が足りません」
レイネは地面へ落ちていた細い枝を拾い、剣の代わりにするのではなく、足元へ一本の線を引いた。
「剣を受けることだけを考えず、身体ごと斜め後ろへ動いてください。正面から力を止めるのではなく、当たる位置をずらしながら逃がします」
「水神流の受け流しですか?」
「私が正式な水神流を教えられるはずがございません。旦那様がなさっていた動きを、ルーデウス様が理解しやすいように申し上げているだけです」
以前と同じ答えだった。
それでも、レイネの説明を聞けば、パウロがどのように攻撃を処理していたのか理解できる。
「明日、試してみます」
「最初から旦那様の攻撃を完全に受け流そうとはなさらないでください。足だけを動かし、正面へ立ち続けないことから始めましょう」
「分かりました」
レイネは頷き、ルーデウスの木剣へついた土を布で拭った。
「それから、今日はお誕生日の翌日でございます。新しい植物辞典をお読みになりたいでしょうが、夕食後に長時間起きていてはいけません」
「まだ何も言っていません」
「表情に出ております」
先回りして釘を刺され、ルーデウスは苦笑するしかなかった。
魔術も剣術も、学ぶべきことはまだ多い。
ロキシーから教わる内容も、パウロとの稽古も、終わりが見えない。それでも、前世の自分とは違い、今は一人で何もかも抱え込む必要がなかった。
間違いを正してくれる教師がいる。
自分の成長を喜んでくれる家族がいる。
そして、理解できないことを、自分に届く言葉へ直してくれる侍女がいる。
五歳の節目を迎えたルーデウスは、贈られた木剣を握り直し、明日もまた同じ庭で稽古を続けることを思い描いた。
その先に、ロキシーとの別れが近づいていることを、この時の彼はまだ深く考えていなかった。