ルーデウス視点
「ゼニスの居場所につながる、有力な情報が見つかりましたわ」
エリナリーゼと名乗った女性の言葉を聞いた瞬間。
冒険者ギルドを満たしていた喧騒が、急速に遠ざかっていった。
母様が見つかった。
胸の内側から、その言葉が湧き上がる。
いや。
正確には、居場所につながる情報が見つかっただけだ。
無事に保護されたとも。
今すぐ会えるとも言われていない。
それでも、長い間、生きているのかさえ分からなかった母様の名前が、初めて具体的な場所と結びつこうとしている。
「どこですか?」
気づけば、俺はエリナリーゼへ一歩近づいていた。
「母様は、どこにいるのですか?」
「ここで立ち話をする内容ではありませんわ」
エリナリーゼは、周囲を見回した。
俺とレイネの名が北方で知られるようになったこともあり、近くにいる冒険者たちが、こちらの会話へ意識を向けている。
母様の情報を聞けるなら、周囲の目などどうでもよい。
そう思いかけたが、エリナリーゼの言うとおりだった。
聞き落としてはならない。
伝わった情報が不完全なら、何が事実で、何が推測なのかも確認しなければならない。
「落ち着いて話せる場所へ移りましょう」
エリナリーゼは続けた。
「あなたに伝えなければならないことは、ゼニスの件だけではありませんの」
俺は隣のレイネを見る。
表情は普段とほとんど変わらない。
けれど、右手が強く握られていた。
爪が手袋越しに掌へ食い込むほど、力が入っている。
「レイネ」
呼ぶと、赤い瞳が俺へ向けられた。
「行きましょう」
「はい」
短い返事だった。
俺たちはエリナリーゼに案内され、冒険者ギルドとつながっている酒場の奥へ移動した。
昼間にもかかわらず、酒場には幾人もの冒険者がいる。
エリナリーゼは店主へ声を掛け、二階の個室を借りた。
部屋へ入り、厚い木の扉を閉める。
中にあるのは、小さな卓と四つの椅子だけだ。
下の酒場から声は聞こえるものの、会話の内容までは漏れにくいだろう。
俺とレイネが並んで座り、エリナリーゼが向かい側へ腰を下ろす。
「まず、順番にお話ししますわ」
エリナリーゼは両手を卓の上で組んだ。
「途中で質問しても構わないけれど、わたくしも全てを知っているわけではありませんの。その点は、先に理解しておいてちょうだい」
「はい」
「承知いたしました」
レイネも答える。
エリナリーゼは一度息を整えた。
「フィットア領の転移事件が起きた後、ロキシーは、あなたたちグレイラット家を捜すために動き始めたの。わたくしとタルハンドも同行して、主に魔大陸と中央大陸を回りましたわ」
「ロキシーは無事なのですね」
「ええ。元気ですわ」
その返事だけで、胸の奥へ残っていた不安の一つが消えた。
ロキシーが俺たちを捜していたことも驚きだった。
それ以上に、生きていると分かったことがうれしい。
「あなたとは何度か、かなり近い場所まですれ違っていたそうですわ」
「すれ違っていた?」
「港町や魔大陸の村でね。あと少し滞在時期が重なっていれば、もっと早く会えていたかもしれませんわ」
俺たちが町を出た直後に、ロキシーが到着していたこともあったのだろうか。
もし会えていれば。
もっと早く母様の捜索へ合流できたのではないか。
ロキシーと一緒に旅ができたのではないか。
幾つもの可能性が浮かびかけたが、考えることをやめる。
過ぎた時間は戻らない。
今さら別の可能性を数えても、母様へ近づくことはできない。
「ロキシー様とタルハンド様は、現在どちらにおられるのでしょうか」
レイネが尋ねた。
俺よりも落ち着いた声だった。
ただし、質問を発するまでの間隔が、普段より短い。
レイネも、一刻も早く全てを知りたいのだ。
「ベガリット大陸へ向かいましたわ」
「ベガリット大陸……」
聞いたことはある。
中央大陸の南西に位置する、広大な砂漠を持つ大陸。
強力な魔物と迷宮が多く、移動そのものが危険な地域だ。
「母様も、そこに?」
「可能性が高いですわ」
エリナリーゼは慎重に言葉を選んだ。
「ギースという男がいるでしょう。パウロの捜索団へ参加していた、猿族の冒険者ですわ」
「知っています」
ミリシオンで父さんと再会した時、捜索団にいた男だ。
「ギースから、迷宮都市ラパンでゼニスらしき女性の情報を得たという知らせが届いたんですの」
エリナリーゼは荷物から一枚の地図を取り出し、卓の上へ広げた。
中央大陸の一部。
海。
その向こうにあるベガリット大陸。
大陸の中央付近。
砂漠地帯の中へ、一つの印がつけられている。
「迷宮都市ラパン」
エリナリーゼが印を指した。
「数多くの迷宮を中心に発展した町ですわ。その近くにある転移迷宮で、ゼニスと特徴が一致する女性が目撃されたらしいの」
「目撃した者は、母様と話したのですか?」
「いいえ」
「外見だけでしょうか」
「届いた報告では、金髪の人族女性。年齢もおおむね一致する。身につけていた物にも、パウロがゼニスのものだと判断できる特徴があったそうですわ」
母様である可能性は高い。
だが、確定ではない。
「その方が、現在も同じ場所にいるという保証はございますか?」
レイネが尋ねた。
「ありませんわ」
エリナリーゼは明確に答えた。
「情報は古いですわ。誰かが直接保護したわけでもない。迷宮の奥で目撃されたという証言にすぎませんの」
「生存していたことは、どこまで確認されておりますか?」
「目撃された時点では、生きているように見えたそうですわ。ただ、会話できたわけではありませんし、状態までは分かりませんの」
「情報を得たのは、いつでしょうか」
「わたくしが知らせを受け取ったのは、数か月前ですわ」
「数か月……」
声が漏れた。
今、この瞬間の状況ではない。
母様が、まだ同じ迷宮にいるのか。
生きているのか。
既に誰かに救出されているのか。
何も分からない。
「父さんは?」
「知らせを受けて、すぐにベガリット大陸へ向かいましたわ」
エリナリーゼは、地図の海岸線を指でなぞった。
「リーリャと、捜索団の中でも経験のある者たちが同行していますわ。ロキシーとタルハンドも、別の経路からラパンを目指しているはずよ」
父さん。
リーリャ。
ロキシー。
タルハンド。
ギース。
既に多くの者が、母様のいる可能性がある場所へ向かっている。
それを聞いて、少しだけ安心した。
同時に。
自分だけが遠い北方にいることへの焦りが生まれた。
「ノルンとアイシャは?」
「二人とも無事ですわ。ベガリット大陸へ連れていくには危険すぎますから、安全な場所へ預けられていますの」
「そうですか……」
妹たちは無事。
母様の居場所にも手掛かりがある。
ロキシーも。
父さんも生きている。
喜ぶべき情報が幾つもある。
それなのに、胸の内側は落ち着かなかった。
「僕たちも行きます」
考えるより先に、言葉が出ていた。
「迷宮都市ラパンへ。すぐに出発します」
「ルーデウス様」
レイネが俺を呼ぶ。
止められると思った。
まず落ち着くよう言われ。
必要な準備を整えるまで、動くべきではないと諭される。
そう考えた。
けれど、レイネは俺の判断を否定するのでも、当然のように追従するのでもなかった。
卓の下で強く握られていた手が開かれる。
その指が、俺の手首へ触れた。
「私も、ゼニス様のもとへ向かいたいと考えております」
声は静かだった。
しかし、普段の冷静さだけではない。
押さえ込まれた焦りと恐怖が、僅かに混じっている。
「今すぐにでも、でございます」
レイネが、自分の望みをはっきりと口にする。
「ですが、私どもはまだ、数か月前の不確かな情報しか伺っておりません」
「それでも、ここにいるよりは――」
「ルーデウス様」
レイネは俺の言葉を遮った。
強い口調ではない。
それでも、曖昧に流すつもりのない声だった。
「私は、あなたへ落ち着くよう申し上げながら、自分だけが冷静であるふりをしたくありません」
俺の手首へ触れる指先が、僅かに震えていた。
「私も怖いのです。ゼニス様が、今も助けを待っておられるのではないかと考えることが」
俺は、何も言えなかった。
レイネは母様を、俺の母親だから捜しているのではない。
グレイラット家へ仕えた侍女としての義務だけでもない。
レイネにとっても、母様は家族なのだ。
俺と同じように。
失うことを恐れている。
「だからこそ、まず全てを伺いましょう」
レイネはエリナリーゼへ顔を向けた。
「現在判明していること。判明していないこと。パウロ様たちの出発時期。通常の移動に必要な期間。連絡を取る方法が残されているか」
それから、俺を見る。
「そのうえで、最も早くゼニス様の救出へ近づける方法を、一緒に決めたいと考えております」
俺を止めるためではない。
待たせるためでもない。
レイネも同じ場所へ向かいたいからこそ、焦りのまま道を選ぶことを避けようとしている。
俺は大きく息を吸った。
肺へ冷たい空気が入る。
すぐにでも走り出したい気持ちは、消えていない。
それでも。
今は、話を聞かなければならない。
「分かりました」
俺はエリナリーゼを見た。
「最後まで教えてください」
エリナリーゼは、俺とレイネを交互に見た。
「ええ。そのつもりですわ」
◇
エリナリーゼから聞いた通常の経路は、想像していた以上に長かった。
まず、中央大陸を南西へ進み、ベガリット大陸へ向かう船が出る港を目指す。
そこで船便を待ち、海を渡る。
ベガリット大陸へ到着した後も、迷宮都市ラパンまでは広大な砂漠を越えなければならない。
「今の季節や船便、道中の準備まで含めれば、早くても一年近く掛かるでしょうね」
「一年……?」
俺は地図を見る。
紙の上では、そこまで遠く見えない。
けれど、実際には国境があり。
魔物の出る街道があり。
船を待つ時間があり。
砂漠がある。
「一切寄り道をせず、馬を替えながら進んだ場合は?」
レイネが尋ねた。
「それでも半年以上ですわ。馬では通れない道もありますし、船はあなたたちの都合だけでは出ませんもの」
エリナリーゼは答えた。
「何より、準備不足でベガリット大陸へ入れば、迷宮へ着く前に死にますわよ」
「レイネと僕なら、普通の旅人よりは速く進めます」
「そうでしょうね」
エリナリーゼは否定しなかった。
「あなたたちの噂は聞いていますわ。泥沼のルーデウスと、白髪の侍女。AランクとSランクなら、道中の魔物程度では困らないでしょう」
「でしたら――」
「でも、強ければ船がすぐに出るわけではありませんわ」
エリナリーゼは、俺の言葉を遮った。
「海を歩いて渡ることもできない。ベガリットの砂漠では、水と道案内が必要になる。力だけでは縮められない時間があるのよ」
言葉を失った。
俺は魔術を使える。
道が崩れていれば直せる。
雪が積もっていれば、歩ける場所を作れる。
魔物が襲ってくれば倒せる。
だが。
存在しない船を出航させることはできない。
知らない砂漠の道を、岩砲弾で見つけることもできない。
今から急いでも、母様のもとへ着くのは半年以上先。
父さんたちは、数か月前に既に出発している。
俺たちが到着する頃には、全てが終わっている可能性が高い。
救出されていればよい。
けれど。
失敗していたら。
母様が助けを待っていたのに、間に合わなかったら。
「それでも、行く価値はあります」
俺は言った。
「到着するまでに解決しているかもしれません。でも、解決していなければ、僕たちの力が必要になるかもしれない」
「否定はしませんわ」
エリナリーゼは真剣な目で俺を見る。
「家族のところへ向かいたいという気持ちも分かりますわ。でも、今すぐ部屋を飛び出す前に、知っていることを全て整理なさい」
「整理している時間にも、母様は――」
「焦って道を間違えれば、もっと遅れますわよ」
強い声だった。
怒鳴ったわけではない。
それでも、俺の言葉を止めるには十分だった。
「パウロたちは、あなたが来るまで何もしないわけではありませんわ。ロキシーもタルハンドもいる。ギースは迷宮に詳しい。彼らは既に動いているのよ」
「だから、僕は何もしなくてもよいと?」
「そんなことは言っていない」
エリナリーゼの声が、少し低くなる。
「行くと決めたなら、行けばいいわ。ただし、自分がゼニスを助けたいのか、何もしていないと思われることが怖くて走り出したいのかは、きちんと区別なさい」
胸へ突き刺さる言葉だった。
俺は母様を助けたい。
それは間違いない。
だが、遠く離れた場所で父さんたちが戦っていると知り、自分だけが北方にいることへ耐えられないという気持ちもある。
母様のため。
父さんのため。
そう言いながら。
自分の焦りを消すために、走り出そうとしている部分は、本当に一つもないのか。
俺は隣のレイネを見る。
レイネも地図を見つめていた。
俺の決定を待っている顔ではない。
自分自身の答えを探している。
「レイネは、どう思いますか?」
問い掛ける。
「先ほど申し上げたとおり、私はゼニス様のもとへ向かいたいと考えております」
迷いのない返事だった。
「今すぐにでも」
レイネの拳が、膝の上で再び握られる。
「ゼニス様は、私にとっても家族でございます。どこかで助けを待っておられる可能性があると知りながら、平静でいることはできません」
「なら――」
「ですが」
レイネは俺へ顔を向けた。
「今この場で出発することが、最も早くゼニス様を救う方法であるとは限りません」
俺の続けようとした言葉が止まる。
「先に到着している方々がいる。通常の経路では、私どもが合流するまで半年以上掛かる。現在の状況を知る連絡手段もございません」
「だから待つのですか?」
「いいえ」
レイネは首を横へ振った。
「調べます」
声は静かだった。
それでも、明確な意思がある。
「より早い経路がないか。ベガリット大陸へ渡る船を確保できないか。迷宮都市ラパンと連絡を取る方法がないか。パウロ様やロキシー様から、新しい報告が届いていないか」
レイネは、地図の上へ指を置いた。
「三日だけ、お時間をくださいませ」
「三日?」
「その間に、ピピンで得られる情報を全て集めます」
レイネは、俺を真っすぐに見た。
「私も、自分の焦りだけで進む方向を決めたくはございません」
以前のレイネなら。
一人で情報を集め。
最も効率的な結論を出し。
完成した答えだけを、俺へ提示していたかもしれない。
自分も迷っていることを隠し。
俺へ不安を見せず。
常に正解を知っているように振る舞っただろう。
今は違う。
自分も迷っていると認め。
俺と相談し。
エリナリーゼの知識を借り。
時間を区切ったうえで、一緒に決めようとしている。
「それでも通常の経路以外に方法がなければ、必要な準備を整えたうえで出発いたしましょう」
「エリナリーゼさん」
俺は尋ねた。
「手を貸していただけますか?」
「そのために、あなたを捜していたんですもの」
エリナリーゼが微笑む。
「三日間で、わたくしの知っている経路も全て教えますわ。その後に行くと決めたなら、止めません」
「ありがとうございます」
三日。
母様を思えば、長い。
けれど、無駄にする時間ではない。
「分かりました」
俺は頷いた。
「三日間、調べます。そのうえで決めます」
◇
その夜。
俺たちはエリナリーゼから、これまでの捜索について詳しい話を聞いた。
ロキシーたちが魔大陸を回ったこと。
ミリシオンで父さんの捜索団と合流したこと。
ギースからベガリット大陸の情報が届いたこと。
父さんが知らせを受けると、すぐに出発したこと。
エリナリーゼが北方へ向かい、俺を捜す役割を引き受けたこと。
「ロキシーは、自分であなたへ会いたがっていましたわ」
エリナリーゼが言った。
「でも、ゼニスの情報を放置できなかった。だからわたくしに、あなたを見つけたら無事だと伝えてほしいと頼んだんですの」
「僕も会いたかったです」
「そうでしょうね」
「ロキシーは、僕が魔大陸から戻ったことを知っていますか?」
「パウロから聞いているはずですわ。ただ、その後どこへ向かったのかまでは分からなかったの」
北方大地で名を広めるという判断は、無駄ではなかった。
ピピンの冒険者ギルドへ到着したエリナリーゼは、「泥沼」と「白髪の侍女」の噂をたどり、俺たちが北方を移動していると知った。
名前が広がっていなければ、再会はさらに遅れていただろう。
「レイネさん」
エリナリーゼが、俺の隣へ座るレイネを見た。
「あなたのことは、パウロから少しだけ聞いていましたわ。グレイラット家へ仕えていた、白い髪の侍女がいると」
「パウロ様が、私のことを?」
「とても優秀で、何を考えているのか分からない子だと言っていましたわ」
「パウロ様らしい評価でございます」
「それから、子供たちを守るためなら、自分の命まで平気で投げ出しそうだとも言っていましたわ」
レイネの目が、僅かに伏せられた。
少し前までなら、否定できなかっただろう。
「現在は、その点を改めるよう努めております」
「そうですの?」
「はい」
レイネは自分の言葉で答えた。
「私が自分を軽く扱えば、私を信頼してくださる方々の判断まで誤らせると学びました」
エリナリーゼは一瞬、驚いたような顔をした。
それから俺を見る。
「あなたが教えたんですの?」
「僕だけではありません」
「ゾルダート様を含む、多くの方々からご指摘いただきました」
レイネが答える。
「ゾルダート?」
エリナリーゼは名前を知っているらしい。
「あの《ステップトリーダー》の?」
「はい」
「随分と面白い組み合わせですわね」
「本人は、親切な先輩冒険者を名乗っています」
俺が説明すると、エリナリーゼは声を上げて笑った。
「それは、本人しか信じていないでしょうね」
「本人も、本気で信じているかは怪しいです」
話しているうちに、張り詰めていた空気が少しだけ和らいだ。
母様のことを忘れたわけではない。
けれど、焦りだけで頭を満たしていても、必要な判断はできない。
「今日は休みましょう」
エリナリーゼが言った。
「明日から、船便と街道、それに各地のギルドへ届いている報告を調べますわ」
「はい」
「ルーデウス君も眠りなさいな」
「眠れるかは分かりません」
「眠れなくても横になるの。疲れた頭で考えても、ろくな結論は出ませんわよ」
言い方は違うが、レイネから何度も言われたことと同じだった。
「分かりました」
俺たちは部屋を出た。
廊下へ出たところで、レイネが足を止める。
「ルーデウス様」
「はい」
「私は、ゼニス様のもとへ行きたいと申し上げました」
「聞いています」
「ですが」
レイネは、赤い瞳を真っすぐ俺へ向けた。
「あなたが別の選択をなさった場合、無条件に従うとは申し上げられません」
俺はレイネを見る。
「場合によっては、私一人でも向かいたいと考える可能性がございます」
「そうですか」
胸の奥が痛んだ。
レイネが一人でベガリット大陸へ向かう。
俺から離れる。
想像しただけで、不安になる。
危険だ。
行かないでほしい。
俺のそばにいてほしい。
そう言いたくなる。
けれど、その不安を理由に、レイネの意思を否定することはできない。
「その時は、ちゃんと話してください」
「お止めにならないのですか?」
「止めたいとは思うでしょう」
俺は正直に答えた。
「でも、レイネの気持ちを聞かずに、僕のそばへいるよう命じることはしたくありません」
レイネは、しばらく俺を見つめた。
「僕も、自分がどうしたいかを伝えます。そのうえで、二人が違う答えを出したなら、どうすればよいか一緒に考えましょう」
「一緒に……」
「はい」
同じ結論になることだけが、信頼ではない。
違う意見を持っても。
相手が離れる可能性を恐れても。
話し合うことを諦めない。
俺も、ようやく少しずつ理解し始めていた。
「承知いたしました」
レイネは頷いた。
「必ず、ご相談いたします」
◇
翌朝から、俺たちは情報を集めた。
エリナリーゼは商人ギルドへ向かい、南西へ進む商隊と船便の予定を調べる。
レイネは冒険者ギルドに残り、ベガリット大陸へ渡った経験のある冒険者を探した。
俺は地図と街道記録を借り、魔術を使って移動を短縮できる区間を調べた。
午後になると、事情を聞いたゾルダートも加わった。
「ベガリットへ行く?」
ゾルダートは、卓へ広げられた地図を見下ろす。
「また、随分と遠い場所だな」
「母様がいる可能性があります」
「なら、行きてえのは当然だ」
ゾルダートは、あっさりと言った。
「止めないのですか?」
「俺が止める理由がねえ」
「ですが、すぐに出発するべきではないとも考えています」
「それも当然だ」
どちらなのだろう。
俺の顔に疑問が出ていたらしい。
ゾルダートが舌打ちする。
「行くかどうかと、何も調べずに走り出すかどうかは別だろうが」
「それは分かっています」
「なら聞くな」
ゾルダートは、地図の上にある街道を指でたどった。
「俺たちが南西へ向かう依頼を取れば、途中までは一緒に行ける。だが、その先は船だ。《ステップトリーダー》全員を連れていくわけにはいかねえ」
「そこまでしていただく理由はありません」
「理由ならある」
「何ですか?」
「お前らが抜けた後の依頼を探すついでだ」
明らかに、後から考えた理由だった。
「ゾルダート」
「何だ」
「ありがとうございます」
真っすぐに礼を言う。
ゾルダートは、嫌そうな顔をした。
「気持ち悪いな」
「礼を言っただけですが」
「お前に素直に礼を言われると、何か裏があるように感じる」
「普段から、もう少し信用してください」
「断る」
それでも、ゾルダートは地図を調べる手を止めなかった。
レイネが集めた情報では、ベガリット大陸へ向かう冒険者は少なく、直近の船便も定まっていなかった。
港へ到着しても、数週間から数か月待つ可能性がある。
砂漠を横断するためには、現地の案内人と大量の水が必要だ。
魔物だけではない。
砂嵐。
高温。
夜間の急激な冷え込み。
道を失う危険。
Sランク冒険者であっても、地理を知らずに進めば死ぬ。
経験者は、そう断言した。
夕方。
宿へ戻る道で、レイネが言った。
「力があれば、解決できる問題ばかりではございませんね」
「はい」
俺も同じことを感じていた。
魔物が道を塞ぐなら倒せる。
崩れた道なら直せる。
けれど、船がないことも。
進む方向が分からないことも。
岩砲弾では解決できない。
「それでも、行きたいですか?」
俺が尋ねる。
「はい」
レイネは即答した。
「私もです」
俺も答える。
難しいからといって、諦めるつもりはない。
ただし。
難しさを無視したまま進むつもりも、なくなっていた。
◇
二日目の午後。
冒険者ギルドへ、俺宛ての大きな封筒が届いた。
エリスからの手紙ではない。
封蝋には、見覚えのない紋章が刻まれている。
差出人は、ラノア魔法大学。
「魔法大学?」
宿の部屋で封を開く。
中には、正式な推薦状と入学案内が入っていた。
俺が無詠唱で攻撃魔術を扱えること。
若くしてAランク冒険者となり、「泥沼」の異名を得ていること。
フィットア領転移事件の被災者であり、魔大陸から帰還したこと。
それらを評価し、特別生として受け入れたいと記されている。
授業料は免除。
研究施設と書庫の利用も認められる。
出席する講義も、一定の範囲で自分で選べるらしい。
「どうして、この時期に……」
推薦状を読みながら呟く。
以前なら。
魔法大学からの誘いを、素直に喜んだかもしれない。
魔術を学べる。
大きな書庫を使える。
知識を持つ人間と出会える。
魅力的な話だ。
けれど、今は母様の情報を得たばかりだった。
大学へ入れば、ベガリット大陸からさらに遠ざかるように感じる。
「断りますか?」
レイネが尋ねた。
「そのつもりです」
「すぐにお決めになるのでしょうか」
「母様が見つかったのですよ」
「居場所につながる情報が見つかりました」
訂正される。
「同じことです」
「いいえ」
レイネは推薦状を手に取った。
「現在のゼニス様の状態は不明でございます。パウロ様たちからの新しい連絡もございません。通常の経路で出発した場合、到着まで半年以上掛かります」
「だから、大学へ行くと?」
「まだ、そのように申し上げてはおりません」
レイネは、入学案内の一部分を指した。
研究施設。
大規模な書庫。
召喚魔術と転移現象に関する研究。
「フィットア領転移事件について、調べられる可能性がございます」
「母様の居場所は、もう分かっています」
「母様だけではございません」
レイネが言った。
「転移事件では、今も多くの方々が行方不明になっております。また、ゼニス様が転移迷宮へ移された理由や、その状態について理解できれば、救出へ役立つ可能性もございます」
確かに。
母様が迷宮にいるという情報だけでは、なぜそこにいるのか分からない。
どのような状態で。
何に閉じ込められ。
どのような方法なら救えるのか。
転移現象を研究することで、何かが分かるかもしれない。
「ですが、可能性にすぎません」
「はい」
「父さんたちは、今も母様のところへ向かっています」
「はい」
「僕だけが、大学へ入るのですか?」
言葉にすると、胸の中へ罪悪感が広がった。
父さんたちが砂漠を越え。
迷宮へ潜り。
母様を救おうとしている間に。
俺は安全な大学で、本を読む。
それでよいのか。
「ルーデウス様」
レイネは俺の前へ座った。
「大学へ入ることが、何もしないことになるとは限りません」
「でも――」
「私も、迷っております」
レイネが言った。
意外だった。
最善の答えを既に見つけたから、大学の利点を説明しているのだと思っていた。
「ゼニス様のもとへ向かいたい気持ちは、変わっておりません。今すぐ出発すべきだとも考えております」
「なら、一緒に――」
「ですが、転移事件を研究できる環境を手放すことも、正しいとは思えません」
レイネは推薦状へ視線を落とす。
「私は、どちらを選べば確実にゼニス様を救えるのか、分かりません」
レイネが。
分からないと言った。
俺よりもはるかに多くの知識を持ち。
戦闘では、ほとんど迷うことのないレイネが。
以前なら、その不確かさを隠していたかもしれない。
答えが出るまで一人で考え。
迷っていたことを、俺へ見せなかっただろう。
今は、俺へ伝えている。
「一緒に考えていただけますか?」
レイネが尋ねた。
「もちろんです」
俺は答えた。
「僕も、一人では決められません」
◇
その夜。
俺は夢を見た。
地面も。
空もない。
どこまでも白い空間。
自分の身体は、前世の姿へ戻っている。
目の前には、顔の見えない白い人影が立っていた。
姿も。
声も。
これまでと変わらない。
直接夢へ現れること自体は、レイネの秘術でも完全には防げない。
ただし。
以前とは異なることがあった。
人神の姿ではない。
あいつが未来を語る時、その言葉へ以前ほどの確信がなかった。
『やあ。久しぶり』
「何の用ですか?」
『相変わらず警戒されているね』
「警戒しない理由がありません」
『君は前より、随分と言い返すようになった』
「自分で考えるようになっただけです」
『それも、例の見えない誰かに教えられたのかな?』
いきなり探りを入れてきた。
だが、驚くことではない。
人神は以前から、俺の周囲にある空白を不審に思っている。
俺が誰かから人神を警戒するよう教えられている可能性も、既に疑っていた。
「僕が自分で考えています」
『そういうことにしておこうか』
人神は軽い調子で肩をすくめた。
『君のすぐそばにある空白は、今も消えていない。前に話しただろう?』
「覚えています」
『君が誰と一緒にいるのか。何人で動いているのか。誰と相談して次の道を選ぶのか。未来を覗くたびに、違う形で重なって見える』
人神は、俺の顔を覗き込むように身を傾けた。
『前に僕のことを吹き込んだ、見えない相談相手。まだ君の判断に関わっているんだろう?』
「答えるつもりはありません」
『名前も、姿も、人数も?』
「はい」
『本当に口が堅くなったね』
人神は笑っている。
だが、俺の返答から何かを読み取ろうとしていることは分かった。
レイネの名前。
容姿。
能力。
秘術。
俺と同行している事実。
どれも伝えるつもりはない。
「それで、何を言いに来たのですか?」
『君が、次にどちらへ進むのか気になってね』
「それも見えないのですか?」
『全く見えないわけじゃないよ。ただ、一つに定まらない』
人神が片手を上げる。
白い空間の中へ、輪郭のぼやけた光景が幾つか浮かんだ。
一つは、砂色の大地を歩く人影。
風に巻き上げられた砂によって、顔も同行者も見えない。
一つは、大きな石造りの建物。
俺らしき人影が机へ向かっているが、手元の本の内容も、周囲にいる者も黒く抜け落ちている。
もう一つは、雪の残る町。
立ち止まる俺の姿が見えたかと思えば、次の瞬間には別の道を歩く姿へ変わった。
『こんな具合だ』
「何も分からないように見えます」
『僕にも、ほとんど同じだよ』
人神はあっさりと認めた。
『砂のある場所へ向かう君』
『大きな学び舎のような場所で、何かを調べている君』
『それから、しばらく北方に残っている君』
『どれが君の選択なのかは、まだ定まっていない。選んだ後の未来も、途中から例の空白へ飲まれてしまう』
「それで、どの道を勧めるのですか?」
『大きな学び舎へ行く道かな』
答えは早かった。
「理由は?」
『三つの中では、少しだけ先まで像が続いているからさ』
「少しだけ?」
『君が本を読んでいる』
『誰かと話している』
『それから、何かを見つけて驚いている』
『僕に見えるのは、それぐらいだ』
「誰と話しているのですか?」
『分からない』
「何を見つけるのですか?」
『それも分からない』
「その結果、母様を助けられるのですか?」
『君が心配している家族については、僕にもはっきり見えていない』
人神は、困ったように両手を広げた。
『遠すぎるうえに、迷宮の奥は元々見通しがよくない。それに、君が今から何を選ぶかで、その先も変わる』
以前の人神なら。
もっと断定的に話したかもしれない。
少なくとも、俺が従いたくなるだけの結果を示そうとしたはずだ。
今は、未来の断片しか見えていない。
その断片を、自分に都合のよい順番で並べている。
「砂のある場所へ向かう未来は?」
『途中から、ほとんど見えなくなる』
「僕が死ぬからですか?」
『分からない』
「母様を助けるから?」
『それも分からない』
「なら、学び舎へ向かう方がよいという根拠にはなりません」
『少なくとも、君の姿が少し長く見える』
「見える未来が、安全な未来とは限りません」
『そのとおりだね』
人神は否定しなかった。
むしろ、面白そうに笑っている。
『見えないから危険とも限らないし、見えるから幸福とも限らない』
「随分と曖昧な助言ですね」
『君の周りが、こうも不鮮明では仕方がないだろう?』
「それでも、僕を学び舎へ向かわせたい?」
『僕としては、そちらを勧めるよ』
「なぜですか?」
『君にとって、悪くない未来に見えるから』
「何をもって、悪くないと?」
『君が少なくとも、生きて何かを続けているように見える』
完全な嘘ではないのかもしれない。
だが、人神が見えている部分だけを説明し、見えていない部分へ俺の期待を向けようとしている可能性がある。
獣族の子供が助けを求めていることは事実だった。
アイシャとリーリャがシーローン王国にいたことも事実だった。
それでも、人神が提示した手段まで正しいとは限らなかった。
情報の一部が正しいことと。
勧められた行動へ従うことは、同じではない。
「聞くだけは聞きました」
俺は答えた。
「ですが、それだけで行き先を決めるつもりはありません」
『分かっているよ』
人神は軽く肩をすくめる。
『君は必ず、目覚めた後で、例の見えない相談相手と話すんだろう?』
返事はしなかった。
否定も。
肯定もしない。
『その相手は、本当に僕のことを嫌っているみたいだね』
「あなたには関係ありません」
『僕としては、会って話してみたいんだけどな』
「それはできないと思います」
『どうして?』
「答えません」
人神は、しばらく俺を見ていた。
表情は見えない。
それでも、俺の言葉のどこかから手掛かりを得ようとしていることは分かった。
『まあ、いいさ』
やがて人神は、あっさりと引いた。
『今の君からは、これ以上聞き出せそうにない』
「最初から、何も話すつもりはありません」
『本当に変わったね』
「あなたへ判断を預けないと決めただけです」
『なら、自分たちで好きに選べばいい』
人神の姿が、少しずつ遠ざかっていく。
『砂の道』
『学び舎へ続く道』
『雪の中へ残る道』
『どれを選んでも、僕には途中までしか見えない』
「なら、あなたの助言を優先する理由はありません」
『そう思うなら、それでいい』
人神は笑った。
『ただ、選んだ後で後悔しても、僕のせいにはしないでくれよ』
「僕たちが考えて決めたことなら、あなたのせいにはしません」
『その答えも、誰かに教わったのかな?』
「さようなら」
『冷たいなあ』
白い空間が遠ざかる。
『次に会う時まで、元気でね』
視界が暗闇へ沈んだ。
レイネ視点
人神の接触が始まった瞬間。
レイネは目を開いた。
物音がしたわけではない。
ルーデウスの呼吸が、大きく乱れたわけでもなかった。
それでも、身体の奥深くへ刻まれた秘術が、外側から触れられたように震えた。
殺気ではない。
呪いでもない。
通常の魔術干渉でもなかった。
世界の外側から、ルーデウスの魂へ視線が差し込まれる感覚。
「人神……」
レイネは小さく呟いた。
以前にも経験したものと同じ干渉だった。
人神は、ルーデウス自身とのつながりを通じて夢へ入る。
秘術によって、レイネの存在を人神の遠視と未来視から外しても、ルーデウスへの接触そのものまでは完全に遮断できない。
レイネは寝台から起き上がり、ルーデウスのそばへ移動した。
呼吸。
脈拍。
魔力の流れ。
いずれにも、今すぐ命へ関わる異常はない。
瞼の下で、眼球が僅かに動いている。
夢の中で、人神と会話している。
レイネはルーデウスの手首へ指を添えた。
接触が始まった時点で気づいた。
しかし、強引に目覚めさせることはできない。
夢を途中で遮断した場合、ルーデウスの精神や記憶へ、どのような影響が生じるか分からない。
以前、同じ状況で判断したことと変わらなかった。
今できるのは、干渉が深くなりすぎないかを監視し、目覚めた直後に状況を確認することだ。
レイネは秘術の境界を慎重に調整した。
自分の存在を隠したまま、ルーデウスへ向けられた視線の流れだけを確認する。
人神の接触そのものは、これまでと同様に明確だった。
弱くなったわけでも。
不安定になったわけでもない。
異常があるのは、人神がルーデウスの周囲へ伸ばしている未来視の方だった。
一つの未来へ、焦点が定まらない。
一つの道を見ようとすれば、別の道が重なる。
ルーデウスのすぐ近くには、秘術によって人神の視界から完全に外れたレイネがいる。
そのレイネがルーデウスへ言葉を掛け。
行動を変え。
ともに進む。
人神には、その原因が見えない。
結果だけが、次々に変化する。
魔大陸で再会した時から続いている現象だった。
最初は、ルーデウスの近くへ、説明できない空白が生じるだけだった。
長く行動をともにするようになり。
互いの判断が未来へ深く関わるほど。
空白から伸びる分岐は増えている。
人神は既に、その原因として「見えない何者か」が存在する可能性を疑っている。
だが。
名前も。
容姿も。
能力も。
同行者の人数さえ、特定できていない。
ルーデウスが秘密を守り続けているからだ。
今回も、人神の視線はレイネの存在を捉えられていない。
ただし、空白の中心へ何度も探りを入れている。
ルーデウスから情報を引き出そうとしている可能性が高い。
レイネは手首へ触れたまま、静かに待った。
やがて、ルーデウスの呼吸が変わる。
夢から戻り始めた。
瞼が震え。
ゆっくりと開いた。
ルーデウス視点
目を覚ますと、寝台の横にレイネが座っていた。
暗い部屋。
窓の外から、薄い月明かりが差し込んでいる。
レイネの指が、俺の手首へ添えられていた。
「今回も、始まった時から分かっていたのですね」
「はい」
レイネは即答した。
「接触が始まった時点で、秘術の外側から干渉を受ける感覚がございました」
以前と同じだ。
人神との接触が終わってから、俺の様子を見て気づいたわけではない。
夢が始まった瞬間から、レイネはそばにいた。
「身体に異常はございませんか?」
「ありません」
「吐き気や、強い頭痛は?」
「ありません」
「承知いたしました」
レイネは俺の状態を確かめた後、声を僅かに低くした。
「何かをお約束なさいましたか?」
助言の内容より先に。
俺が、人神へ判断を預けていないかを確かめる。
以前と同じ順番だった。
「何も約束していません」
「力や知識を受け取ることを、お認めには?」
「何も受け取っていません」
「今後、人神の言葉を信じるとおっしゃいましたか?」
「いいえ」
俺は、はっきり答えた。
「話を聞いただけです。それだけで行き先を決めるつもりはないとも伝えました」
レイネの肩から、僅かに力が抜ける。
「ありがとうございます」
「約束しましたから」
人神から助言を受けた場合は、必ずレイネへ話す。
どれほど正しく思えても、その言葉だけで行動を決めない。
既に、何度も確認したことだ。
「夢の内容をお話しします」
「お願いいたします」
俺は、人神との会話を最初から順番に説明した。
人神が、以前から存在する空白について再び触れたこと。
俺の同行者の人数も。
誰と相談しているかも。
未来を見るたびに定まらないこと。
見えない相談相手について、探りを入れてきたこと。
俺が、名前も。
姿も。
人数も答えなかったこと。
砂の大地へ進む未来。
大きな学び舎で何かを調べる未来。
北方へ残る未来。
三つの不鮮明な光景が、重なって見えていたこと。
人神自身にも、どれが俺の選択になるのか分からないこと。
その先も、途中から見えなくなること。
比較的長く像の残る学び舎への道を、人神が勧めたこと。
だが、そこで何を得るのか。
母様を助けられるのか。
砂の道へ進めば何が起きるのか。
どれも、答えられなかったこと。
レイネは途中で口を挟まず、最後まで聞いた。
「私の名前や容姿について、何かお伝えには?」
「何も話していません」
「能力や、秘術については?」
「何も」
「私が同じ部屋にいることも?」
「伝えていません」
レイネは深く息を吐いた。
「ありがとうございます」
「人神は、見えない相談相手が今も僕の判断へ関わっていると疑っていました」
「以前からの推測を、今回も確かめようとしたのでしょう」
レイネの表情が厳しくなる。
「人神は、私の存在そのものを特定できてはおりません。ですが、ルーデウス様のお考えが変化した理由と、未来に生じている空白の原因を、同じものだと疑っております」
「以前より、人神の未来視が弱くなったのでしょうか」
「弱くなったとは限りません」
レイネは慎重に答えた。
「今回の不鮮明さは、以前から確認されていたものの延長でございます」
「同行者の人数さえ定まらないという話も、以前に聞きました」
「はい。今回も、その状態が改善していないのでしょう」
人神の能力そのものが衰えたわけではない。
人神から見れば。
俺の未来へ、原因不明の変更が加わり続けている。
そのため、像が一つに定まらない。
「砂の大地と、学び舎と、北方の町」
俺は夢で見せられた光景を思い返す。
「未来を三つに絞れる程度には、見えているようでした」
「大まかな可能性は捉えられても、具体的な選択や結果までは見えていないものと考えられます」
「学び舎へ行く未来だけ、少し長く見えたと言っていました」
「それが、よりよい未来である証明にはなりません」
「はい」
俺も、夢の中で同じことを言った。
見える未来が、安全とは限らない。
見えない未来が、危険とも限らない。
「人神が見えた断片の中から、自分に都合のよいものだけを選んで提示した可能性もございます」
「逆に、本当に学び舎へ行く方がよいと考えている可能性も?」
「ございます」
レイネは安易に否定しない。
「人神は、最初から害のある情報だけを伝えるわけではございません。正しい情報を示し、その手段や時期だけを、自分に都合よく誘導することがございます」
「シーローンの時と同じですね」
「はい」
アイシャとリーリャがシーローン王国にいるという情報は正しかった。
本名を伏せることにも、合理的な理由はあった。
それでも、人神が見せた路地を探し回る必要はなく。
勧められた名乗り方へ、考えずに従う必要もなかった。
情報と。
示された行動を分けて考える。
今回も同じだ。
「大きな学び舎で、僕が何かを調べている」
「その光景が、魔法大学を示している可能性は高いと存じます」
「ですが、人神は大学の名前も、推薦状も言いませんでした」
「正確に把握していないのでしょう」
レイネが言う。
「ルーデウス様が手にした推薦状や、その後のお考えから、学び舎へ向かう可能性を、断片的に捉えたのかもしれません」
「母様については、迷宮の奥なのでよく見えないと」
「迷宮内部が、人神の遠視へどの程度影響するかは分かりません」
レイネは俺を見た。
「ですが、少なくとも人神は、ゼニス様の現状について確実な情報を持っているようには見えません」
「嘘をついて、知らないふりをしている可能性は?」
「否定できません」
レイネは、真っすぐに答えた。
「ですから、人神が何を知っているかを推測することだけへ、時間を費やすべきではございません」
「僕たちが調べた情報を基準にする」
「はい」
卓の上には、ラノア魔法大学の推薦状が置かれている。
「人神が学び舎を勧めたから、大学へ行くのではありません」
「はい」
「人神へ逆らうために、ベガリット大陸へ行くのでもない」
「そのとおりでございます」
人神に従うか。
人神へ反対するか。
その二つだけを考えれば、どちらを選んでも、人神を基準にしたことになる。
「ゼニス様の情報は数か月前のものであること」
レイネは、一つずつ確認する。
「パウロ様たちは、既に向かっていること。通常の経路では、私どもの到着まで半年以上掛かること」
「はい」
「魔法大学には、大規模な書庫と研究施設があること。転移現象や召喚魔術について調べられる可能性があること。各国から人が集まり、連絡や情報を受け取りやすいこと」
どれも。
人神から与えられた情報ではない。
俺たち自身が確認した事実だ。
「明日以降も、予定どおり調査を続けましょう」
レイネが言う。
「はい」
「三日目に、集めた情報だけを基に結論を出します」
「人神の助言は?」
「結論の根拠にはいたしません」
明確な答えだった。
「ですが、人神が私の存在を探ろうとする動きを強めております。今後も接触の内容は、全て共有してくださいませ」
「もちろんです」
「たとえ同じ質問を繰り返されても。些細な会話であっても、お願いいたします」
「約束します」
新しい約束ではない。
以前に交わした約束を、もう一度確かめただけだ。
「レイネ」
「はい」
「今回も、気づいてくれてありがとうございました」
「当然のことでございます」
レイネはそう答えた後、僅かに口を閉じた。
また、義務の言葉だけへ逃げたと気づいたのかもしれない。
「いいえ」
自分で言い直す。
「私が、人神の接触へ気づくことができてよかったと感じております」
「僕もです」
「ルーデウス様が、ご自身だけで判断なさらなかったことにも安堵しております」
「もう一人では決めません」
俺は答えた。
「人神の言葉だけでなく、母様のことも」
レイネが僅かに目を細める。
「はい。一緒に考えましょう」
「おやすみなさい、レイネ」
「おやすみなさいませ、ルーデウス様」
レイネは寝台へ戻った。
俺も、再び横になる。
人神の言葉は、頭へ残っている。
砂の道。
学び舎へ続く道。
北方へ残る道。
けれど、そのどれかを人神が示したという理由だけで、選ぶつもりはない。
俺には、相談できる相手がいる。
俺には見えないものを見て。
俺とは違う不安を抱え。
それでも、一緒に考えてくれる相手が。
◇
三日目まで。
俺たちは、集められる情報を集めた。
直近に、ベガリット大陸へ向かう船はない。
港までの道程も長い。
砂漠を越えるための案内人は、この地域では雇えない。
ラパンへ手紙を送っても、届くまで数か月以上掛かる。
一方。
ラノア魔法大学には、転移現象を研究する者がいる。
召喚魔術。
転移魔法陣。
古代の遺跡。
迷宮内部で発生する異常転移。
母様の状態を直接知ることはできなくても、救出へ役立つ知識を得られる可能性はある。
各国から学生や研究者が集まるため、遠方の情報も入りやすい。
三日目の夕方。
俺とレイネは、宿の卓へ全ての記録を並べた。
エリナリーゼも向かい側へ座っている。
「結論は出ましたの?」
エリナリーゼが尋ねる。
「まだ、迷っています」
正直に答えた。
「母様のもとへ向かいたい気持ちは、変わりません」
レイネも言う。
「ですが、今すぐ通常経路で向かうことが、救出へ最も近いとは判断できませんでした」
「そうですわね」
「大学へ入る場合も、条件を決めたいと思います」
俺は並べられた記録を見る。
「迷宮都市ラパンから新しい情報が届いた場合、すぐに再検討すること。救援要請が届いた場合は、大学を離れて向かうこと。大学では、転移事件と長距離移動の方法を優先的に調べること」
「父さんたちへ手紙を送ります」
「ロキシー様にも、可能な限り複数の経路からお送りいたします」
「エリスにも、僕たちの決定を伝えます」
母様を見捨てるのではない。
何もせずに待つのでもない。
今の俺たちが、最も早くできることを選ぶ。
大学で調べることが、本当に救出へつながるかは分からない。
それでも。
半年以上掛けて、情報の古い場所へ向かうことだけが、唯一の行動ではない。
「レイネ」
「はい」
「大学へ行きたいですか?」
レイネは、すぐには答えなかった。
自分の気持ちを確かめるように、少し考える。
「私は、ゼニス様のもとへ向かいたいと考えております」
「はい」
「その気持ちは変わりません」
「僕もです」
「ですが」
レイネは俺を見る。
「大学で転移事件を調べることも、私が行いたいことでございます」
二つの気持ちは、矛盾しているように見える。
だが、どちらかが偽物というわけではない。
母様のところへ行きたい。
同時に。
助けるための知識が欲しい。
「私は、大学へ向かうことを選びます」
レイネが言った。
「ルーデウス様へ従うためではございません。人神の不確かな助言を信じるためでもございません」
自分自身の意思として。
「私どもが調べた情報を基に、ゼニス様を救うために今必要な選択であると考えます」
俺は、胸の内側へ残る迷いと向き合った。
父さんたちへ任せてよいのか。
母様が苦しんでいるかもしれない間に、大学へ行ってよいのか。
完全な答えは出ない。
けれど。
父さんとロキシーたちの力を信じることは、母様を諦めることではない。
俺一人でなければ救えないと考える方が、彼らを軽く見ている。
「僕も、大学へ行きます」
口にすると、胸が痛んだ。
それでも、逃げたとは思わなかった。
「転移事件を調べます。母様を助けるための情報と、より早くベガリット大陸へ向かう方法を探します」
「はい」
「新しい連絡が届いたら、その時は、もう一度一緒に決めましょう」
「お約束いたします」
俺たちは、同じ結論を出した。
ただし。
一方が、他方へ合わせたわけではない。
人神が示した道を、そのまま選んだわけでもない。
迷い。
調べ。
話し。
それぞれの意思で選んだ。
「ラノア魔法大学へ行きます」
俺が告げると、エリナリーゼは驚かなかった。
「そう」
「母様の捜索を、諦めるわけではありません」
「分かっていますわ」
「父さんたちへ手紙を送り、大学で転移事件について調べます。新しい情報や救援要請が来た場合は、すぐに動きます」
「よい判断だと思いますわ」
エリナリーゼは言った。
「少なくとも、何も調べずにベガリット大陸へ飛び出すよりはね」
「エリナリーゼさんは、これからどうするのですか?」
「あなたと一緒にラノアへ行きますわ」
「よいのですか?」
「ロキシーから、あなたを見つけて無事を確認するよう頼まれましたもの。それに、わたくしも魔法大学へ用がありますの」
何の用かは言わなかった。
その表情を見る限り、今すぐ聞かない方がよい気がする。
「よろしくお願いします」
「こちらこそ」
エリナリーゼはレイネを見る。
「三人旅になりますわね」
「はい」
「窮屈ではありませんの?」
「何がでしょうか」
「ルーデウス君と、二人きりではなくなるでしょう?」
レイネは一瞬だけ黙った。
俺も、返答に困る。
「エリナリーゼ様」
やがて、レイネが口を開いた。
「私は、ルーデウス様と二人きりでなければ困ると申し上げたことはございません」
「そうですの?」
「はい。また、旅の仲間が増えることを歓迎いたします」
以前なら。
礼儀として、同じ言葉を答えていたかもしれない。
けれど、今のレイネはエリナリーゼを正面から見ている。
「エリナリーゼ様とも、お話をしたいと考えております」
「あら」
エリナリーゼが楽しそうに笑った。
「パウロから聞いた印象とは、少し違うようですわね」
「変化の途中でございますので」
「なら、その途中を見せてもらいますわ」
◇
ゾルダートへ大学行きを伝えると。
長い沈黙の後で、頭を小突かれた。
「痛いです」
「ベガリットへ行くって顔をしてた奴が、今度は学生になると言い出した。驚いた分だ」
「殴る理由になっていません」
「小突いただけだ」
「同じです」
俺たちは、ピピンの酒場で向かい合っていた。
《ステップトリーダー》の面々も、同じ卓を囲んでいる。
「逃げたわけじゃねえんだな?」
ゾルダートが尋ねた。
「はい」
俺は、正面から答えた。
「大学で転移事件を調べます。父さんたちから新しい情報が届くまで、僕にできる準備をします」
「母親を助けに行くのが、怖くなったわけでもねえ?」
「怖いですよ」
迷宮。
ベガリット大陸。
母様が既に亡くなっている可能性。
父さんたちも、危険に遭っている可能性。
考えれば、怖い。
「でも、怖いから大学へ行くのではありません」
「ならいい」
ゾルダートは杯を傾けた。
「お前が決めたなら、俺が口を出すことじゃねえ」
「珍しく、あっさりしていますね」
「何を言ってほしいんだ?」
「親切な先輩として、ありがたい助言をいただけるのかと」
「調子に乗るな」
ゾルダートは顔をしかめた。
「一つだけ言っておく」
「何ですか?」
「学生になったからって、今まで覚えたことを忘れるな」
ゾルダートは卓へ指を立てる。
「疲れたら、疲れたと言え。分からねえ時は聞け。相手が誰でも、危険だと思ったら意見を出せ」
「はい」
「それから、自分一人で何でも終わらせようとするな」
「分かっています」
「本当か?」
「最近は、ちゃんと任せています」
「白髪の侍女」
ゾルダートがレイネへ顔を向ける。
「監視しろ」
「私だけが監視する必要はございません」
レイネが答えた。
「大学で知り合う方々にも、ルーデウス様を見ていただける関係を築きたいと考えております」
ゾルダートは少し驚いた顔をした後、笑った。
「そっちも、少しはましになったな」
「ありがとうございます」
「素直に礼を言われると、気味が悪い」
「ルーデウス様にも、同じことを申し上げておられましたね」
「お前らが、急に素直になるから悪い」
《ステップトリーダー》の者たちが笑う。
女性治癒術師が、レイネへ小さな袋を渡した。
「北方の薬草をまとめておいたわ」
「よろしいのでしょうか」
「ミミルの記録だけじゃ、分からないこともあるでしょう。大学なら薬草に詳しい人もいるはずだから、見せてみて」
「ありがとうございます」
レイネは袋を受け取る。
「必ず、大切に使用いたします」
「使い切ってもいいのよ。薬なんだから」
斥候は俺へ、小さな金属片を投げた。
受け取る。
《ステップトリーダー》の印が刻まれた、薄い札だった。
「これは?」
「俺たちの連絡札だ。北方のギルドで見せれば、伝言を回せる」
「いただいてよいのですか?」
「返せと言われたら返せ」
「では、返します」
俺が差し出すと、斥候は嫌そうな顔をした。
「今じゃねえよ!」
「冗談です」
「泥沼まで、ゾルダートみたいになってきたな」
「それは心外です」
「俺も心外だ!」
ゾルダートが怒鳴る。
酒場へ、笑い声が広がった。
笑いが落ち着いた後。
レイネが立ち上がった。
「《ステップトリーダー》の皆様」
全員の視線が集まる。
レイネは、いつものように美しく頭を下げた。
ただし。
礼を終えても、すぐには顔を上げなかった。
「皆様とご一緒した時間を、私は忘れません」
静かな声だった。
「私は、冒険者としての連携だけでなく、他者へ頼ることや、自分の気持ちを伝えることを教えていただきました」
ゾルダートが何か言おうとしたが、女性治癒術師が腕をつかんで止める。
レイネは顔を上げた。
「また、皆様と依頼へ赴きたいと考えております」
仕事だからではない。
俺が望むからでもない。
「そのためにも、必ず戻ってまいります」
「おう」
前衛の一人が答えた。
「次は、俺が仕留める魔物を横から取るなよ」
「その際、最も適切な位置におられましたら、お任せいたします」
「また、そういう答えかよ」
「ですが」
レイネの口元へ、小さな笑みが浮かぶ。
「皆様との戦闘は、楽しいものでございました」
今度は、誰も驚かなかった。
「またな、白髪の侍女」
「はい。またお会いいたしましょう」
俺も立ち上がる。
「今まで、ありがとうございました」
ゾルダートは杯を置いた。
「もう会わねえみてえな言い方をするな」
「では、行ってきます」
「行ってこい」
短い言葉だった。
けれど、それで十分だった。
◇
出発までの二日間で、幾つもの手紙を書いた。
父さんへ。
ロキシーへ。
迷宮都市ラパンの冒険者ギルドと、ベガリット大陸の主要な商会へ、同じ内容を複数の経路から送る。
俺とレイネが無事であること。
母様の情報を受け取ったこと。
すぐに通常経路で向かうのではなく、ラノア魔法大学で転移事件を調べること。
助けが必要なら、どのような手段を使ってでも連絡してほしいこと。
新しい情報が届き次第、俺たちも動くこと。
エリスとギレーヌにも書いた。
母様の居場所につながる情報が得られたこと。
すぐに向かいたかったが、到着まで長い時間が掛かること。
大学で調べるという選択をしたこと。
迷ったことも、隠さなかった。
レイネも、自分の手紙を書いた。
「エリスへ、何と書いたのですか?」
「気になりますか?」
「はい」
「以前より、素直でございますね」
「教えていただけないのですか?」
レイネは、少しだけ考えた。
「ゼニス様のもとへ、今すぐ向かいたいこと。それでも大学で調べると決めたこと」
一度、筆を置いた手紙へ視線を落とす。
「自分の選択が正しいか、不安であることを書きました」
「不安だと?」
「はい」
レイネが、自分の不安を手紙へ書いた。
それは。
母様の情報を得たこととは異なる意味で、俺には大きな変化に思えた。
「エリスは、何と返すでしょうね」
「恐らく、私どもが決めたのであれば、最後までやりなさいと書かれるかと」
「ありそうです」
「または、悩んでいる時間があるなら、早く調べなさいと」
「そちらの方が、ありそうですね」
二人で小さく笑った。
◇
ピピンを出る朝。
北方の空は、薄い雲に覆われていた。
雪は降っていない。
街道の脇には、冬の間に積もった雪がまだ残っている。
俺。
レイネ。
エリナリーゼ。
三人分の荷物を載せた馬車が、南東へ向かう門の前で待っていた。
目的地は、ラノア王国。
魔法都市シャリーア。
ラノア魔法大学。
母様のいる可能性がある場所とは、異なる方向だ。
それでも。
母様へ背を向けたとは思わない。
より確実に母様へたどり着くため。
転移事件を理解するため。
次に助けを求められた時、迷わず動けるようにするため。
俺たちは、大学へ向かう。
「ルーデウス様」
馬車へ乗る前に、レイネが俺を呼んだ。
「はい」
「私は、まだ迷っております」
「僕もです」
「それでも、進みますか?」
「はい」
迷いが消えるまで立ち止まっていれば、永遠に動けない。
「正しいかどうかは、今は分かりません」
俺は答えた。
「でも、僕たちが考えて選んだ道です」
「はい」
「間違っていると分かったら、その時は直しましょう」
レイネは、僅かに目を細めた。
「以前の私であれば、間違えない選択を探し続けたと存じます」
「今は?」
「間違えた際に、誰かとともに修正することを学び始めました」
「僕もです」
エリナリーゼが、馬車の中から顔を出す。
「二人とも、話が終わったのなら乗ってちょうだい。置いていきますわよ」
「今行きます」
俺とレイネは馬車へ乗った。
御者が手綱を動かす。
車輪が、ゆっくりと回り始める。
ピピンの城壁が、少しずつ遠ざかっていった。
北方大地で出会った人々。
カウンターアロー。
ミミル。
サラ。
スザンヌ。
ティモシー。
パトリス。
ゾルダートと《ステップトリーダー》。
彼らと過ごした時間は、俺たちの中へ残っている。
俺は、一人で全てを抱えなくてもよいと学んだ。
自分の気持ちを隠すことが、必ずしも相手を守ることにはならないとも学んだ。
レイネもまた。
俺のそばだけではない場所へ、自分の意思で踏み出した。
そして今。
俺たちは母様を想いながら、すぐには母様のもとへ向かわない道を選んだ。
簡単な選択ではない。
胸の痛みも消えない。
それでも、立ち止まっているわけではない。
遠く離れた母様へつながるものを探すために。
俺たちは、魔法都市シャリーアへ向かって進み始めた。