白髪の侍女   作:MトK

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第五十七話 同じ学び舎で

ルーデウス視点

 

入学試験を終えた後、俺はジーナス副校長に連れられ、再び中央校舎へ戻った。

 

先ほどまで使っていた実習場には、レイネとフィッツ先輩が残っている。

 

二人に面識があるようには見えなかった。

 

少なくとも、フィッツ先輩が姿を現した時、レイネは初対面の相手へ向けるものと変わらない態度を取っていた。

 

それでも、試験が終わった後、レイネは俺たちの後をすぐには追わなかった。

 

フィッツ先輩から呼び止められたわけではない。

 

レイネ自身が、何かを確かめるために残ったように見えた。

 

気にならないと言えば嘘になる。

 

フィッツ先輩の声。

 

杖を構える姿勢。

 

無詠唱魔術を使う時の魔力の流れ。

 

初めて会った相手のはずなのに、以前にもどこかで同じものを見聞きしたような、奇妙な懐かしさがあった。

 

その記憶が誰へつながっているのかは分からない。

 

そこへレイネが反応したのなら、何の関係もないとは考えにくかった。

 

以前の俺なら、すぐに理由を尋ねただろう。

 

自分に関係することではないのか。

 

危険があるのではないか。

 

なぜ自分にだけ教えてくれないのか。

 

不安を抱えたまま待つことができず、レイネの事情よりも、自分が安心するための答えを先に求めていたかもしれない。

 

今も気にはなっている。

 

レイネが俺へ話していない何かを持つことに、寂しさがないわけでもない。

 

俺はレイネが好きだ。

 

だから、彼女のことを知りたい。

 

レイネが誰を見て、何を考え、何を大切にしているのか。

 

できるなら、全て知りたいと思ってしまう。

 

けれど、好きだからといって、相手の全てを知る権利が生まれるわけではない。

 

レイネにも、自分の秘密を持つ自由がある。

 

誰かから預かった話を、俺へ伝えないと決める権利もある。

 

少なくとも、レイネ自身が戻り、何を話せるのかを決めるまでは待つべきだろう。

 

「こちらが、入学に必要な書類です」

 

ジーナス副校長が、机の上へ紙の束を置いた。

 

通されたのは、先ほどとは別の事務室だった。

 

壁際には分厚い帳簿が並び、数人の職員が学生の記録を整理している。窓際では、別の入学希望者が職員から手続きの説明を受けていた。

 

俺の前へ置かれた書類には、氏名、年齢、種族、出身地、修得している魔術、希望する研究分野などを書き込む欄がある。

 

「出身地は、アスラ王国フィットア領でよろしいですか?」

 

「はい」

 

既に、俺が生まれ育ったブエナ村は存在しない。

 

フィットア領そのものも、以前と同じ姿では残っていない。

 

それでも、俺の出身地が変わるわけではなかった。

 

「現在の保護者、あるいは身元保証人は?」

 

筆が止まった。

 

父さんの名前を書いてよいのだろうか。

 

父さんは今、母様を救助するために遠い場所へ向かっている。すぐに連絡が取れる状態ではない。

 

「冒険者ギルドの身分証明では不足でしょうか」

 

「特別生として入学する場合、保護者の署名は必須ではありません。ただし、緊急時に連絡すべき人物がいるなら、記入してください」

 

「では、父のパウロ・グレイラットと、レイネの名前を書きます」

 

「レイネさんは、あなたの家族ですか?」

 

「はい」

 

迷うことなく答えた。

 

戸籍上、レイネがどのように扱われているかは分からない。

 

もともとは、グレイラット家へ雇われた侍女だった。

 

けれど、今の俺にとって、レイネは侍女という一つの言葉だけで説明できる人ではない。

 

守られ、叱られ、教えられた。

 

一緒に笑い、離れている間は無事を願い、再会した時には、帰ってきたのだと思わせてくれた。

 

俺が恋をしている相手でもある。

 

「侍女でもありますが、家族です」

 

ジーナス副校長は、一瞬だけ俺を見た。

 

俺が気軽に言葉を選んだのか、それとも本当にそう思っているのか、確かめるような視線だった。

 

俺は目を逸らさなかった。

 

「承知しました。では、続けてください」

 

修得している魔術は、水系統が王級まで。土、風、火は上級相当で、治癒は中級。解毒も一部使用できる。

 

結界や召喚については、ほとんど学んでいない。

 

無詠唱で扱えるのは攻撃魔術だけで、治癒魔術には詠唱が必要だ。

 

書き終えた内容を確認したジーナス副校長が、僅かに眉を上げた。

 

「十五歳としては、やはり異常な修得量ですね」

 

「教えてくださった方々が優秀でした」

 

ロキシー、父さん、ギレーヌ、レイネ。そして、旅の途中で出会った人々。

 

俺一人で身につけたものではない。

 

「研究分野には、転移現象と魔力災害、それから迷宮内の空間異常を希望します」

 

「フィットア領転移事件に関する調査ですね」

 

「はい」

 

「大学にも関連資料はあります。しかし、閲覧を制限しているものも少なくありません」

 

「特別生でも読めない資料がありますか?」

 

「当然です。危険な召喚術式や、過去に大規模な事故を起こした研究については、担当教員の許可が必要になります」

 

「許可を得るには、どうすればよいでしょうか」

 

「まず、基礎的な知識を身につけること。次に、自分が何を調べたいのか、閲覧が必要な理由とともに明確に示すことです」

 

何でも自由に調べられるわけではない。

 

けれど、理由もなく拒絶されたわけでもなかった。

 

正しい手順を踏み、必要性を示せば、奥の資料へたどり着くことはできる。

 

「分かりました」

 

「随分と急いでいるようですね」

 

ジーナス副校長が言った。

 

「母が、転移事件によってベガリット大陸へ送られた可能性があります」

 

隠す理由はない。

 

「現在、父や知人が救助へ向かっています。僕はここで転移現象と迷宮について調べながら、各地からの情報を受け取る予定です」

 

「新しい情報が入れば、大学を離れると?」

 

「はい」

 

「学期の途中でも?」

 

「必要であれば」

 

ジーナス副校長は、俺の書類へ視線を落とした。

 

「本学は、学生を拘束するための場所ではありません。特別生であれば、長期の研究旅行として処理することもできます」

 

「助かります」

 

「ただし、無断で姿を消すことだけは避けてください。あなたほど目立つ学生が突然いなくなれば、学内で余計な騒ぎになります」

 

「必ず連絡します」

 

その時、事務室の扉が静かに開いた。

 

レイネが戻ってきた。

 

少し遅れて、エリナリーゼも顔を見せる。

 

フィッツ先輩の姿はなかった。

 

「お待たせいたしました」

 

レイネの姿を確認した瞬間、自分でも気づかないほど小さく息を吐いていた。

 

危険があったとは思っていない。

 

それでも、無事に戻ってきた姿を見ると安心する。

 

「話は終わりましたか?」

 

「はい」

 

何を話したのか。

 

尋ねようとして、口を閉じる。

 

自分で待つと決めたばかりだ。

 

けれど、レイネは俺の表情から質問を察したらしい。

 

「フィッツ様ご本人の事情に関わるため、私から申し上げることはできません」

 

俺が追及するより先に、明確な線を引いた。

 

「僕にも?」

 

「はい」

 

胸の奥へ、ほんの少しだけ寂しさが生まれた。

 

レイネがフィッツ先輩と共有し、俺には話せないことがある。

 

けれど、それは俺を遠ざけたいからではないのだろう。

 

誰かの事情を守るためだ。

 

「危険なことではありませんか?」

 

「ルーデウス様を害する意図がないことは保証いたします」

 

「フィッツ先輩に、という意味ですか?」

 

「はい」

 

レイネの目に迷いはなかった。

 

俺へ嘘をついているようにも見えない。

 

「分かりました」

 

俺が答えると、レイネの赤い瞳が僅かに和らいだ。

 

俺が追及しなかったことへ、安心したのだろう。

 

「ありがとうございます」

 

礼を言われるほどのことではない。

 

それでも、以前の俺なら簡単には受け入れられなかったかもしれない。

 

俺にとっても、レイネにとっても、これは小さくない変化だった。

 

 

「では、次はレイネさんの試験です」

 

ジーナス副校長が席を立った。

 

「エリナリーゼさんについては、一般入学の手続きを別室で行います」

 

「わたくしだけ別ですの?」

 

エリナリーゼが不満そうに言う。

 

「推薦を受けているルーデウス君と同じ扱いにはできません」

 

「レイネも、大学から推薦されたわけではないでしょう?」

 

「彼女はS級冒険者です。通常の入学希望者と同じ試験だけでは、能力を測れません」

 

「わたくしも冒険者としては、相当な実績がありますわよ」

 

「記録として提示された資格を基に判断しています」

 

「融通が利きませんわね」

 

口では文句を言いながら、エリナリーゼはそれほど嫌そうではなかった。

 

むしろ、久しぶりに学生として試験を受けることを面白がっているように見える。

 

「終わったら合流しましょう」

 

「はい」

 

「レイネ。試験だからといって、施設を壊さないようにね」

 

「そのような予定はございません」

 

「予定がなくても、壊れることはあるでしょう?」

 

エリナリーゼは、なぜか俺を見た。

 

「なぜ僕を見るのですか?」

 

「心当たりがありそうだからよ」

 

否定しきれなかった。

 

 

レイネの試験は、俺がフィッツ先輩と戦った実習場とは別の場所で行われた。

 

屋内に設けられた、個人用の訓練室。

 

壁も床も厚い石で作られ、魔術による衝撃を吸収する術式が刻まれている。

 

立ち会うのは、ジーナス副校長と三人の教員。

 

魔術担当、剣術担当、学力や一般知識を確認する教員だ。

 

俺は見学を許可された。

 

ただし、レイネの個人情報を記入する書類については、本人と担当職員だけで確認することになった。

 

レイネが、公にしていないことは多い。

 

実年齢が二十九歳であることも、必要以上に広めたい情報ではないだろう。

 

外見と年齢が大きく食い違う理由は、俺にも明かしていない。

 

知りたいとは思う。

 

好きな相手のことだから。

 

それでも、知りたいという俺の感情と、レイネが話すかどうかを決める権利は別だ。

 

書類を覗いて、本人が隠していることを知ろうとは思わなかった。

 

「まず、魔術の適性を確認します」

 

魔術担当の教員は、四十代ほどに見える女性だった。

 

机の上には、複数の魔道具と、魔術の標的となる金属板が並べられている。

 

「使用可能な系統を教えてください」

 

「攻撃、治癒、解毒、結界を含め、一通り使用可能でございます」

 

「一通り、とは?」

 

「水、火、風、土の四系統。治癒、解毒、結界について、実用可能な知識がございます。召喚術式については、主に理論を学んでおります」

 

教員の筆が止まった。

 

「複数系統を、実戦で使用できるという意味ですか?」

 

「はい。ただし、召喚術式を実際に使用する予定はございません」

 

「攻撃魔術の修得段階は?」

 

レイネは僅かに考えた。

 

本当のことを、全て話すつもりはないのだろう。

 

「上級相当までであれば、問題なく使用できます」

 

嘘ではない。

 

それ以上を扱えると話していないだけだ。

 

「では、火球を標的へ」

 

「承知いたしました」

 

レイネは杖を持っていない。

 

手を上げることもなく、正面の標的へ視線を向けただけだった。

 

掌ほどの火球が現れる。

 

大きすぎず、熱量も抑えられている。

 

それでも、形は完全に安定していた。

 

火球は金属板の中央へ当たり、標的の表面だけを赤く変色させた。

 

周囲の石壁には、熱も衝撃も漏れていない。

 

「無詠唱……」

 

魔術担当の教員が呟く。

 

「次は土です。標的を破壊せず、動きを止める想定で」

 

床から細い土の帯が伸びた。

 

標的の支柱へ絡みつき、複数の方向から固定する。

 

拘束そのものは強固だ。

 

だが、床や支柱には傷一つついていない。

 

「風」

 

標的の周囲だけに、空気の流れが生まれた。

 

床へ置かれた軽い木片が浮き上がり、標的の周囲を円形に回る。

 

すぐ隣へ置かれた紙は動かなかった。

 

「水」

 

今度は、空中に薄い水膜が作られた。

 

壁のように広がり、飛ばされた木片を受け止める。

 

そのまま水滴へ戻り、用意されていた桶の中へ全て収まった。

 

一滴も床へ落ちない。

 

派手さはない。

 

威力も、俺がこれまで見てきたレイネの戦闘と比べれば、大幅に抑えられている。

 

それでも、教員たちが驚いている理由は分かった。

 

魔力量だけではない。

 

制御が異常なのだ。

 

俺は、その技術をよく知っている。

 

幼い頃から、何度も間近で見てきた。

 

けれど、大学の教員たちが驚いている姿を見ると、改めてレイネがどれほど優れた魔術師なのかを実感する。

 

少し誇らしかった。

 

俺が教えたわけではない。

 

俺の功績でもない。

 

それでも、好きな相手が認められていることがうれしかった。

 

「もう少し大きな魔術は使えますか?」

 

魔術担当の教員が尋ねる。

 

「使用は可能でございます」

 

「では――」

 

「ただし、現時点では必要性を感じません」

 

レイネは穏やかに言った。

 

「この試験は最大威力ではなく、学生としての適性を確認するものと理解しております」

 

「大学としては、あなたの上限も把握しておきたいのですが」

 

「上限を確認するためには、こちらの施設では不足すると考えます」

 

室内が静かになった。

 

言い方だけを聞けば、挑発にも受け取れる。

 

けれど、レイネは事実を述べただけの顔をしていた。

 

「それほどですか?」

 

「S級冒険者として活動する際、屋内での使用を想定していない魔術もございます」

 

それも嘘ではない。

 

本当の上限を示す必要はない。

 

何より、現在のレイネは、大量の魔力を消費する戦いを極力避けている。

 

身体そのものは健康に見えるが、魔力の回復と循環には未解決の問題がある。

 

以前、そう説明された。

 

全てを理解しているわけではない。

 

それでも、入学試験のために無駄な消耗をさせる必要はなかった。

 

「分かりました」

 

ジーナス副校長が口を挟んだ。

 

「制御能力は十分です。威力については、冒険者としての実績を参考にしましょう」

 

魔術担当の教員は完全には納得していないようだったが、試験を止めることはなかった。

 

「次に、治癒魔術を」

 

机の上へ、切れ目の入った植物の茎が置かれる。

 

人間を傷つけて試すわけではないらしい。

 

レイネが茎へ指先を近づける。

 

淡い光が生まれ、裂けていた部分がゆっくりとつながった。

 

詠唱はない。

 

「治癒も無詠唱なのですか?」

 

「はい」

 

俺は治癒魔術を使う時、詠唱が必要だ。

 

攻撃魔術と治癒魔術では、魔力を扱う感覚が違う。

 

以前、レイネから教わろうとしたこともあるが、現在まで完全な無詠唱には至っていない。

 

「なぜ可能なのか、説明できますか?」

 

レイネは少し考えた。

 

「身体の状態を魔力によって把握し、本来あるべき形へ近づけるよう作用させております」

 

「それは一般的な治癒魔術の説明です」

 

「はい」

 

「詠唱を省略する方法について尋ねています」

 

「詠唱によって補助される魔力の方向と変化を、意識のみで再現しております」

 

教員が眉を寄せる。

 

「その説明で、ほかの者も再現できますか?」

 

「困難であると考えます」

 

「なぜ?」

 

「魔力を流すだけではなく、対象の状態を正確に認識する必要があるためです。認識を誤れば、治癒が不完全になるだけでなく、状態を悪化させる可能性もございます」

 

「あなたは、どのように習得したのですか?」

 

レイネが答えるまで、僅かな間があった。

 

「長い時間を掛け、繰り返し練習いたしました」

 

それ以上は話さない。

 

教員も、何かを感じ取ったようだった。

 

俺の胸にも、小さな引っ掛かりが生まれる。

 

長い時間。

 

レイネが話さない過去の中で、どれほどの時間を掛けたのか。

 

俺には分からない。

 

知りたい。

 

けれど、今ここで尋ねることではなかった。

 

「研究として記録を残すことはできますか?」

 

「私自身の技術を整理することには関心がございます」

 

レイネは答えた。

 

「ただし、他者が安全に再現可能かを確認せず、手順だけを広めることには反対いたします」

 

「なぜですか?」

 

「治癒魔術は、失敗した場合に対象者の生命へ影響いたします」

 

その答えに、教員は初めて明確に頷いた。

 

「分かりました。今後、研究計画を提出してください」

 

「承知いたしました」

 

次は剣術だった。

 

剣術担当の教員は、体格のよい男性だった。

 

壁際から木剣を二本取り、そのうち一本をレイネへ投げ渡す。

 

レイネは片手で受け取った。

 

「流派は?」

 

「剣神流、水神流、北神流を学んでおります」

 

「段位は?」

 

「正式な認定については、お答えを控えます」

 

「なぜだ?」

 

「冒険者としての活動において、段位を名乗る必要がなかったためでございます」

 

かなり曖昧な答えだ。

 

「俺を相手に、一本取ってみろ」

 

「よろしいのでしょうか」

 

「試験だ。遠慮はいらん」

 

「承知いたしました」

 

二人が向かい合う。

 

教員は両手で木剣を構えた。

 

姿勢に隙は少ない。

 

剣聖ほどではないだろうが、少なくとも経験の浅い相手ではなかった。

 

対するレイネは、木剣を右手で下げたまま、自然に立っている。

 

構えと呼べるものすらない。

 

開始の合図。

 

教員が踏み込む。

 

上段から振り下ろされた木剣へ、レイネの剣が触れた。

 

正面から受け止めたのではない。

 

刃筋を僅かに横へ逸らす。

 

教員の剣がレイネの肩を外れ、床へ向かう。

 

同時に、レイネは一歩だけ前へ出た。

 

木剣の先端が、教員の喉元へ触れている。

 

速さは、俺にも見えた。

 

普段のレイネと比べれば、かなり遅い。

 

それでも、余計な動きが一つもなかった。

 

「……もう一度だ」

 

教員が言う。

 

「承知いたしました」

 

今度は、教員も慎重に距離を取った。

 

すぐには踏み込まない。

 

左右へ足を運び、レイネの反応を見る。

 

レイネは動かない。

 

教員が低い位置から木剣を振る。

 

レイネは半歩下がった。

 

追撃。

 

さらに下がる。

 

教員が踏み込みを深くした瞬間、レイネの足が前へ出た。

 

相手の剣が、最も力を出しにくい距離へ入り込む。

 

木剣の根元近くを押さえ、教員の手首を僅かに捻った。

 

木剣が手から離れる。

 

床へ落ちる前に、レイネが左手で受け止めた。

 

右手の剣は、既に教員の胸元へ向けられている。

 

「二本でございます」

 

「……分かった」

 

教員は悔しそうだったが、言い訳はしなかった。

 

「本気ではないな?」

 

「試験に必要な範囲で動きました」

 

「俺を傷つけないように?」

 

「はい」

 

「随分とはっきり言う」

 

「事実を曖昧にする理由がございません」

 

教員は、しばらくレイネを見た後、低く笑った。

 

「気に入った。剣術の授業へ出る必要はない」

 

「学ぶ必要がないという意味でしょうか」

 

「逆だ。学生として混ざれば、教える側が混乱する」

 

「では、参加は認められないのでしょうか」

 

「見学なら構わん。希望するなら、教員側の補助を頼むこともある」

 

「私は、学生として学ぶことを希望しております」

 

レイネは即座に答えた。

 

「自身の技術を示すことだけが目的ではございません。ほかの方がどのように剣を学び、どのような言葉で教えられているのかにも関心がございます」

 

教員が、意外そうに目を見開いた。

 

「俺から学ぶことがあると思うのか?」

 

「ございます」

 

「何だ?」

 

「私と異なる経験を持つ方が、学生の失敗をどのように見抜くのか。どの言葉を用いれば、本人が理解できるのか。それらは、技術の強弱だけでは判断できません」

 

俺は、ブエナ村で剣を学んでいた頃を思い出した。

 

父さんの動きを、レイネが幼い俺にも分かる言葉へ置き換えてくれた。

 

レイネは昔から、教えることについて考えていた。

 

だからといって、自分の説明だけが常に正しいとは思っていない。

 

ほかの人間の教え方も学ぼうとしている。

 

何でもできるように見えるレイネが、自分にはまだ学ぶことがあると考えている。

 

その姿勢が、俺には眩しく見えた。

 

「なら、好きに出ろ」

 

剣術担当の教員が言った。

 

「ただし、授業中に俺の説明がおかしいと思っても、学生の前ですぐ訂正するな」

 

「授業後にお伝えすればよろしいでしょうか」

 

「それも言い方を選べ」

 

「努力いたします」

 

「不安になる返事だな」

 

俺は少し笑った。

 

レイネがこちらを見る。

 

「何か問題がございますか?」

 

「いえ。レイネらしいと思いまして」

 

「そうですか」

 

最後は学力試験だった。

 

魔術理論、歴史、地理、薬草、魔物、読み書き、計算。

 

幾つもの分野から質問が出された。

 

レイネは、ほとんど全てに答えた。

 

ただし、知識をひけらかすような答え方はしない。

 

尋ねられた範囲だけを答え、必要であれば理由を説明する。

 

「転移魔術と召喚魔術の違いは?」

 

「術者が対象を指定し、任意の場所へ移動させるものを転移魔術と呼ぶ場合が多く、別の場所や領域から対象を呼び出す術式を召喚魔術と分類します。ただし、実際には両者の境界が曖昧な術式も存在します」

 

「具体例は?」

 

「物体の一部のみを移動させる術式。契約済みの対象を呼び戻す術式。召喚対象の位置を固定せず、条件に合致する存在を呼び寄せる術式などでございます」

 

「フィットア領転移事件を、どちらへ分類しますか?」

 

レイネの目が、僅かに細くなった。

 

「現時点の情報だけでは分類できません」

 

「大規模転移では?」

 

「結果として、多数の人間や物体が別の場所へ移動しております。しかし、それが術者によって移動先を指定された転移であるのか、何らかの召喚現象へ巻き込まれた結果であるのか、自然発生した空間異常であるのかは確定しておりません」

 

教員が頷く。

 

「分からないと答えるのですね」

 

「分からないことを断定すれば、調査の方向を誤る可能性がございます」

 

「よろしい」

 

試験は、それで終了した。

 

教員たちは別室へ移り、結果を協議する。

 

俺とレイネは、廊下に置かれた長椅子へ並んで座った。

 

「疲れましたか?」

 

「いいえ」

 

「魔力は?」

 

「先ほど使用した量であれば、問題ございません」

 

いつもの答えだ。

 

俺はレイネの顔色と呼吸を見る。

 

目立った疲労はない。

 

少なくとも、無理を隠している様子はなかった。

 

「剣術の試験、かなり抑えていましたね」

 

「試験官を負傷させる必要はございません」

 

「本気なら、どれくらいで終わっていましたか?」

 

「開始前に勝敗が決まっております」

 

「そうですか」

 

聞いた俺が悪かった。

 

少し間を置いてから、気になっていたことを尋ねた。

 

「大学へ入ることを、本当に望んでいますか?」

 

レイネが俺を見る。

 

「僕についてくるためだけではなく」

 

尋ねるのが怖くなかったわけではない。

 

俺と一緒にいるためだけだと言われれば、うれしいと思ってしまうかもしれない。

 

けれど、それではレイネ自身の人生にならない。

 

「はい」

 

答えは早かった。

 

「転移現象を調査し、ゼニス様の救助へつなげることは重要でございます」

 

「それ以外は?」

 

「魔力循環について、私自身の理解を深めたいと考えております」

 

レイネは、自分の手へ視線を落とした。

 

「私は、魔術を使用する技術については、多くを学んでまいりました。ですが、現在の身体における魔力の生成、回復、循環については、未解決の問題がございます」

 

それは、俺が全てを知らない事情だ。

 

レイネは大規模な魔術を避けている。

 

身体そのものは健康に見えるが、魔力の戻り方に問題がある。

 

「大学で解決できそうですか?」

 

「分かりません」

 

「それでも調べる?」

 

「はい」

 

レイネは静かに頷いた。

 

「分からないからこそ、学ぶ必要がございます」

 

その言葉は、先ほどの試験での答えと同じだった。

 

「それから」

 

レイネが続ける。

 

「ほかの学生とともに学ぶことにも、関心がございます」

 

「友達を作りたい?」

 

尋ねると、レイネは少し困った顔をした。

 

「友人は、作ろうとして作るものではないと、エリナリーゼから教わりました」

 

「では?」

 

「授業を受け、研究を行い、同じ場所で生活する中で、結果として親しい方が増えるのであれば、うれしく思います」

 

以前なら、任務や目的に必要な人間関係と表現していたかもしれない。

 

今は、うれしいと言える。

 

胸の奥に、温かさと寂しさが同時に生まれた。

 

レイネが、自分の世界を広げようとしている。

 

それは、俺が望んでいたことだ。

 

俺だけに仕える侍女ではなく、一人の人間として生きてほしい。

 

けれど、その世界が広がれば、俺の知らない人や時間も増える。

 

好きな相手が、自分の知らない場所へ進んでいく寂しさはある。

 

それでも。

 

「僕も楽しみです」

 

心から、そう言えた。

 

「はい」

 

「ただ、レイネと同じ授業を受けられるかは分かりませんね」

 

「学力や研究分野によって、異なる授業へ振り分けられる可能性がございます」

 

「寂しいですか?」

 

今度は、俺が聞いた。

 

レイネは、すぐには否定しなかった。

 

「少しは」

 

正直な言葉だった。

 

胸の奥が温かくなる。

 

俺と離れることを、何とも思っていないわけではない。

 

その事実へ安心する自分は、少しずるいのかもしれない。

 

「ですが、それよりも楽しみでございます」

 

俺は笑った。

 

自分の安心だけを求めてはいけない。

 

レイネが楽しみにしていることを、俺も喜びたい。

 

「同じですね」

 

「はい」

 

間もなく、扉が開いた。

 

ジーナス副校長が出てくる。

 

「結論が出ました」

 

俺たちは立ち上がった。

 

「レイネさん。本学への入学を認めます」

 

「ありがとうございます」

 

「ただし、通常の新入生と同じ課程へ、一律に組み込むことはしません」

 

「理由を伺ってもよろしいでしょうか」

 

「基礎課程の大部分を既に修得しているためです。魔術制御、剣術、一般学力。いずれも初学者向けの内容では不足します」

 

「では、どのような扱いとなりますか?」

 

「研究生に近い特別学生とします。希望する講義への参加を認め、教員の許可があれば上級課程の授業も受けられます」

 

「研究施設の利用は?」

 

「ルーデウス君と同じく、一定範囲で認めます。ただし、危険な資料や術式は申請が必要です」

 

「承知いたしました」

 

「それから、剣術担当の教員から、時折授業の補助を頼みたいとの申し出があります」

 

「学生としての学習に支障がない範囲であれば、お引き受けいたします」

 

ジーナス副校長は、そこで少し表情を和らげた。

 

「提出された個人情報については、本人の許可なく、学生や無関係な教員へ公開しません」

 

「ご配慮に感謝いたします」

 

年齢や、外見との差についてだろう。

 

あるいは、それ以外の事情も書いたのかもしれない。

 

レイネが俺へ話していないことは、一つや二つではない。

 

それでも、ジーナス副校長との間で必要な確認が済み、大学側が本人の秘密を守ると約束したのなら、それでよい。

 

いつかレイネ自身が話してもよいと思った時に、聞ければよい。

 

「入学手続きの残りを済ませてください。明日、学生向けの説明会があります」

 

「承知いたしました」

 

「住居については、男子寮と女子寮を利用できます。特別生については、研究や安全上の事情を考慮し、一人部屋を用意することも可能です」

 

「僕とレイネは、別の寮になるのですね」

 

「当然です。男子学生が女子寮へ居住することも、女子学生が男子寮へ居住することも認められません」

 

当然の規則だった。

 

分かっている。

 

それでも、実際に言葉として告げられると、胸の奥へ小さな空白が生まれた。

 

旅の宿では、同じ部屋か隣の部屋。

 

離れていても、すぐに声が届く場所にレイネがいた。

 

今夜からは、それぞれ別の建物で眠る。

 

レイネの表情も、僅かに硬くなった。

 

「ルーデウス様の護衛として、夜間に異常が発生した場合の対応方法を相談させていただけますか」

 

「通常の学生より警備の厚い区画を用意できます。緊急時に女子寮から男子寮の管理人へ連絡する魔道具もあります」

 

「男子寮へ入ることは?」

 

「緊急事態であり、寮監の許可があれば可能です。通常時の出入りは認められません」

 

レイネは、すぐには答えなかった。

 

俺の近くで眠ることは、レイネにとって護衛の一部だった。

 

けれど、護衛だけが理由ではないことも、今なら分かる。

 

レイネも、離れることを寂しいと思っている。

 

先ほど、そう答えてくれた。

 

「レイネ」

 

「はい」

 

「大学の中には警備もあります。夜に離れていても、大丈夫です」

 

「絶対とは申し上げられません」

 

「それは、どこにいても同じです」

 

俺はレイネを見る。

 

「それに、僕も自分で危険へ対処できるようになりました」

 

「存じております」

 

「では、まずは寮で暮らしてみましょう。問題があれば、その時に方法を考えればよいと思います」

 

言葉にしながら、自分の胸にも言い聞かせる。

 

離れて眠ることは、失うことではない。

 

朝になれば会える。

 

それぞれの生活を持っても、関係が消えるわけではない。

 

レイネは、しばらく俺を見つめた。

 

俺が無理をして強がっているのではないか、本当に離れて暮らせると思っているのか、それを確かめているようだった。

 

「承知いたしました」

 

やがて、静かに頷く。

 

「ただし、朝と夜に一度ずつ、体調を確認させてくださいませ」

 

「はい」

 

「魔力の異常や、何者かの干渉を感じた場合には、すぐにお知らせください」

 

「約束します」

 

「私からも、緊急連絡用の魔道具を用意いたします」

 

「分かりました」

 

レイネは、不安を完全に消したわけではない。

 

俺も同じだ。

 

それでも、自分が常に隣へいなければならないとは言わなかった。

 

俺だけでなく、レイネも自分の時間を持とうとしている。

 

二人とも、この大学の学生になる。

 

仕える者と、仕えられる者としてだけではなく、同じ場所で、それぞれが学ぶ学生として。

 

そのことが、うれしかった。

 

 

エリナリーゼの試験が終わるまで、俺たちは構内を見て回ることにした。

 

案内を申し出てくれたのは、フィッツ先輩だった。

 

先ほどと同じ濃色の眼鏡をかけ、白い髪を短く整えている。

 

レイネは、ほかの人間がいる場所では、完全に初対面の先輩へ接する態度へ戻っていた。

 

「フィッツ先輩。よろしくお願いします」

 

俺が頭を下げる。

 

「よろしくお願いします」

 

フィッツ先輩は俺へ答えた後、レイネを見る。

 

「レイネさんも、入学が決まったそうですね」

 

「はい。今後とも、ご指導をお願いいたします」

 

「僕が教えられることがあるかは分かりませんけど」

 

「大学で長く過ごしておられる方から学べることは、多いと考えております」

 

二人の会話は自然だった。

 

自然すぎて、先ほど二人きりで何を話したのか、余計に分からない。

 

それでも、俺は口を挟まなかった。

 

レイネが話せないと決めたことを、表情や言葉の隙から盗み取ろうとするのも違うと思った。

 

「まず、中央校舎を案内します」

 

フィッツ先輩が歩き始める。

 

俺たちは、その後を追った。

 

中央校舎には、一般的な講義室が集まっている。

 

基礎魔術、魔術史、魔力操作。読み書きや計算を学ぶ教室もある。

 

年齢も種族も異なる学生が同じ廊下を行き交い、掲示板には授業の予定や、研究協力者を募る紙が何枚も貼られていた。

 

「入学したばかりの学生は、最初に基礎科目を受けます」

 

フィッツ先輩が説明する。

 

「でも、ルーデウス君とレイネさんは、必要な授業だけ選ぶことになると思います」

 

「フィッツ先輩は、どの授業を受けているのですか?」

 

「無詠唱魔術の研究と、治癒魔術。それから、護衛に必要な授業を幾つか」

 

「護衛?」

 

俺が聞くと、フィッツ先輩の足が僅かに止まった。

 

「僕は、ある方の護衛をしています」

 

「学生をしながら?」

 

「はい」

 

それ以上は話さない。

 

レイネが知っている事情と、関係があるのだろう。

 

声を聞くたび、歩き方を見るたび、胸の奥へ懐かしさが生まれる。

 

けれど、記憶へつながる名前は、まだ見つからなかった。

 

「こちらが図書館です」

 

案内された建物は、外から見た時以上に大きかった。

 

内部へ入ると、天井まで届く書棚が幾列も並んでいる。

 

紙と革、保存用の薬品、古い本特有の匂い。

 

俺は思わず足を止めた。

 

「全部、魔術関係の本ですか?」

 

「いいえ。歴史、地理、魔物、薬草、建築、宗教、法律もあります。魔術関係だけでも、別の棟が必要になるぐらい多いですけど」

 

「転移に関する資料は?」

 

「一般閲覧の棚にもあります。ただ、古い召喚術式や転移事故の記録は、奥の書庫です」

 

「どうすれば読めますか?」

 

「担当教員から許可をもらう必要があります」

 

ジーナス副校長から聞いた話と同じだ。

 

まずは、誰がその分野を研究しているのか調べる必要がある。

 

レイネは、書棚の位置や分類を静かに確認していた。

 

表情は平静だ。

 

けれど、歩く速度が普段より僅かに速い。

 

楽しんでいるのだろう。

 

俺のために必要な資料を探している時とは、少し違う。

 

自分が知りたいものを前にした人の動きだった。

 

その姿を見ると、自然に頬が緩んだ。

 

「レイネ」

 

「はい」

 

「後で、ゆっくり見ましょう」

 

「今も、ゆっくり確認しております」

 

「普段より速いですよ」

 

レイネが止まった。

 

フィッツ先輩が、小さく笑う。

 

レイネは、その声へ一瞬だけ視線を向けた。

 

「申し訳ございません」

 

「謝ることではありません」

 

俺が言う。

 

「僕も同じ気持ちです」

 

「では、ルーデウス様も歩行速度が上がっておられたのでしょうか」

 

「僕は自覚があります」

 

「私にはございませんでした」

 

「なら、今分かりましたね」

 

「はい」

 

レイネの口元へ、ほんの少し笑みが浮かぶ。

 

その笑顔を見て、胸の奥が温かくなった。

 

大学へ来てよかった。

 

少なくとも、今はそう思えた。

 

「次からは、さらに慎重に歩きます」

 

「遅くする必要はありません」

 

「どちらなのでしょうか」

 

「楽しんでいるなら、そのままでよいということです」

 

レイネは少し考えた後、頷いた。

 

「承知いたしました」

 

図書館を出た後、魔術実習棟、食堂、学生寮、研究棟を見て回った。

 

大学というより、一つの町に近い。

 

鍛冶場、薬草園、魔道具の工房、魔物の素材を保管する倉庫、遠方から来た学生のための店まである。

 

「ここだけで、ほとんどの生活ができますね」

 

俺が言う。

 

「だから、何年も町へ出ない研究者もいます」

 

フィッツ先輩が答えた。

 

「それは危険ですね」

 

「何がですか?」

 

「僕も、そうなる可能性があります」

 

レイネが俺を見る。

 

「食事と睡眠については、私からも確認いたします」

 

「ゾルダートには、自分で管理しろと言われました」

 

「では、まずご自身で管理してくださいませ」

 

「失敗したら?」

 

「改善方法を一緒に考えます」

 

「最初から代わりに管理はしない?」

 

「はい」

 

レイネは、少しだけ誇らしそうだった。

 

その返事がうれしかった。

 

俺の世話をしないことがうれしいのではない。

 

俺を信じ、自分の生活も持とうとしていることがうれしい。

 

「フィッツ先輩」

 

前方から声が掛かった。

 

歩いてきたのは、金髪の青年だった。

 

年齢は、俺たちより少し上に見える。

 

腰には剣。

 

立ち方にも隙が少ない。

 

青年は俺とレイネを見た後、フィッツ先輩へ顔を向けた。

 

「そちらが、今日の試験を受けた二人か?」

 

「はい、ルーク先輩」

 

フィッツ先輩が答える。

 

「ルーデウス・グレイラット君と、レイネさんです」

 

「ルーク・ノトス・グレイラットだ」

 

同じグレイラット。

 

しかも、ノトス。

 

父さんの実家と関係がある。

 

「パウロ・グレイラットの息子です」

 

俺が名乗る。

 

ルーク先輩の眉が僅かに動いた。

 

「話には聞いている。ノトス家を飛び出した男の息子か」

 

「父をご存じですか?」

 

「直接会ったことはない。家の中では、時折名前が出ていた」

 

よい意味ではなさそうだ。

 

「君のことも、少し聞いている。《泥沼》だったか」

 

「はい」

 

「フィッツに勝ったそうだな」

 

「試験でしたので」

 

「謙遜する必要はない。フィッツは強い」

 

ルーク先輩は、フィッツ先輩へ視線を向けた。

 

その目には、護衛仲間へ向ける信頼がある。

 

「そちらは、《白髪の侍女》」

 

「レイネと申します」

 

「S級冒険者が学生になるとは聞いていなかった」

 

「本日、入学を認めていただきました」

 

「見たところ、ルーデウスと同じ程度の年齢にしか見えないな」

 

レイネの表情は変わらない。

 

「そのように判断されることが多いと存じます」

 

「実際には?」

 

「二十九歳でございます。ただし、外見との差が生じている理由については、個人的な事情がございますので、お答えを控えさせていただきます」

 

「それも話せないか」

 

「申し訳ございません」

 

ルーク先輩は、レイネをじっと見る。

 

疑っている。

 

敵意ではない。

 

護衛として、正体の分からない相手を警戒している目だ。

 

俺は僅かに身構えた。

 

レイネが自分の秘密を守ることへ、責めるような言葉を向けられれば、口を挟むつもりだった。

 

けれど、レイネは不快そうにしていない。

 

相手が護衛として警戒していることを、理解しているのだろう。

 

「ルーク先輩」

 

フィッツ先輩が穏やかに呼ぶ。

 

「アリエル様がお待ちです」

 

「ああ」

 

ルーク先輩は視線を外した。

 

「二人も来てくれ。アリエル様が会いたいと仰っている」

 

「アリエル様?」

 

俺は聞き返す。

 

「アスラ王国第二王女、アリエル・アネモイ・アスラ様だ」

 

王女。

 

「断ることもできますか?」

 

俺が尋ねると、ルーク先輩は少し驚いた。

 

「王女からの招待だぞ」

 

「だからこそ、何を求められているのか分からないまま会うのは不安です」

 

貴族や王族。

 

俺はロアで、権力を持つ人間の周囲が常に安全とは限らないと知った。

 

相手が王女だからといって、無条件で従うつもりはない。

 

「ルーデウス様」

 

レイネが俺へ声を掛ける。

 

「まず、お話を伺ってもよろしいのではないでしょうか」

 

「危険は?」

 

「フィッツ様とルーク様が、護衛として同行されます。少なくとも、この場で危害を加える意図はないと考えます」

 

レイネがそう判断するなら、会うだけなら問題ないだろう。

 

「分かりました」

 

ルーク先輩は、俺とレイネを交互に見た。

 

「随分と慎重だな」

 

「必要だと思っています」

 

「悪いことではない」

 

ルーク先輩は短く答え、歩き始めた。

 

 

案内されたのは、大学の中にある応接室だった。

 

一般の学生が使う場所ではないらしい。

 

扉の前には護衛が立っており、室内の家具も、ほかの教室とは明らかに質が違う。

 

窓際に、一人の女性が立っていた。

 

長い金髪、青い瞳、整った顔立ち。

 

学生用の制服を着ているが、その立ち姿には、自然と周囲の視線を集めるものがあった。

 

「初めまして」

 

女性は、穏やかに微笑んだ。

 

「アリエル・アネモイ・アスラです」

 

俺とレイネは頭を下げる。

 

「ルーデウス・グレイラットと申します」

 

「レイネと申します」

 

「顔を上げてください。ここは王宮ではありません。私も、この大学では一人の学生です」

 

学生。

 

そう言われても、王女であることが消えるわけではない。

 

アリエル王女は、まず俺へ視線を向けた。

 

「フィッツから、試験の結果を聞きました。見事な魔術だったそうですね」

 

「ありがとうございます」

 

「無詠唱魔術師同士の試合を、私も見たかったものです」

 

「また試合をする機会はあると思います」

 

「その時は、見学をお願いしても?」

 

「フィッツ先輩がよいなら」

 

勝手に約束することではない。

 

アリエル王女は、その答えを聞いて少し楽しそうに笑った。

 

「では、フィッツにも確認しましょう」

 

続いて、レイネへ視線を移す。

 

笑みは変わらない。

 

けれど、目の奥にあるものが少し変わった。

 

「S級冒険者、《白髪の侍女》。噂は北方だけでなく、ここにも届いています」

 

「身に余ることでございます」

 

「多くの魔物を討伐し、転移事件の被災者を救い、各地へ帰還させる経路まで整えたとか」

 

「私一人で行ったことではございません」

 

「それでも、中心にいたのでしょう?」

 

「必要な方々へ協力をお願いし、可能な範囲で行動いたしました」

 

「随分と控えめなのですね」

 

「事実を申し上げております」

 

アリエル王女は、僅かに首を傾けた。

 

レイネの答え方を観察している。

 

「あなたについて調べさせましたが、冒険者として活動を始める以前の経歴は、ほとんど分かりませんでした」

 

俺の身体へ、僅かに力が入った。

 

レイネの過去を調べた。

 

王女という立場なら、当然の警戒なのかもしれない。

 

それでも、好きな相手の秘密へ権力を使って手を伸ばされたように感じ、胸の内側へ不快感が生じた。

 

けれど、レイネは落ち着いている。

 

俺が先に怒るべきではない。

 

「公にお話ししていないことが多くございます」

 

「誰かに、隠すよう命じられているのですか?」

 

「いいえ。私自身の判断でございます」

 

「王族である私にも話せない?」

 

「お答えできる内容であれば、お話しいたします。ただし、立場だけを理由に、全てを明かすことはできません」

 

王女を前にしても、答えは変わらない。

 

その姿が、少し誇らしかった。

 

レイネは、誰かの命令だけで動く人ではない。

 

俺に対しても、王女に対しても、自分で話すことと、話さないことを決める。

 

ルーク先輩が僅かに目を細める。

 

しかし、アリエル王女は不快そうな顔をしなかった。

 

むしろ、興味を深めたように見える。

 

「秘密を守ることには、慣れているのですね」

 

「話すべきではないことを、話さないよう努めております」

 

「あなた自身のことだけではなく、他人の事情についても?」

 

「はい」

 

アリエル王女の視線が、一瞬だけフィッツ先輩へ向いた。

 

「なるほど」

 

それ以上、レイネの経歴を追及しなかった。

 

アリエル王女は、今度は俺たち二人を見る。

 

「あなた方が、大学へ来た目的を伺っても?」

 

俺は母様について説明した。

 

ベガリット大陸にいる可能性。

 

父さんたちが救助へ動いていること。

 

俺たちはここで転移現象と迷宮を調べ、情報を集めること。

 

新しい連絡が入れば、大学を離れる可能性があること。

 

アリエル王女は途中で遮らず、最後まで聞いた。

 

「お母様の救助が最優先なのですね」

 

「はい」

 

「大学での地位や、将来の仕官よりも?」

 

「比べることではないと思っています」

 

「私が、アスラ王国での地位を約束しても?」

 

試されている。

 

「母様を見捨てることが条件なら、断ります」

 

迷いはなかった。

 

アリエル王女は、俺の顔を静かに見つめた。

 

「失礼。意地の悪い質問でした」

 

「いえ」

 

「あなたの優先順位は理解しました」

 

今度は、レイネへ視線を移す。

 

「レイネさんも、同じ考えですか?」

 

「ゼニス様は、私の家族でございます」

 

「仕えていた家の夫人だからではなく?」

 

「はい」

 

「私が、アスラ王国での立場と引き換えに、ゼニス夫人の救助を諦めるよう求めても?」

 

「お断りいたします」

 

ルーク先輩の表情が僅かに硬くなった。

 

それでも、剣へ手を伸ばすことはない。

 

俺が答えた時と同じ質問へ、レイネも同じ結論を返しただけだ。

 

「お二人とも、答えに迷いがないのですね」

 

「母様を見捨てて得た地位に、意味があるとは思いません」

 

俺が答える。

 

レイネも静かに続けた。

 

「私も同じでございます。ゼニス様を救うことと引き換えに求められるのであれば、どのような地位であってもお受けできません」

 

「よく分かりました」

 

アリエル王女は小さく頷いた。

 

「二人にとって、ゼニス夫人は同じ家族なのですね」

 

「はい」

 

俺とレイネの声が重なった。

 

同時に答えたことへ、レイネが僅かにこちらを見る。

 

俺もレイネを見る。

 

胸の奥へ、温かなものが生まれた。

 

母様を家族だと言ってくれる。

 

仕えていた相手だからではなく、自分自身の家族として。

 

そのことが、うれしかった。

 

アリエル王女は、俺たちの様子を見て柔らかく微笑んだ。

 

「私は、あなた方へ仕官を求めるために呼んだのではありません」

 

「では、なぜでしょうか」

 

「フィッツに勝った無詠唱魔術師と、実力も来歴も測り切れないS級冒険者が、同時に入学する。話を聞けば、二人は家族であり、転移事件を調べるために来たという」

 

アリエル王女は、率直に俺たちを見た。

 

「警戒と興味の両方です」

 

隠そうとはしなかった。

 

「あなた方が私の敵となる可能性を確認したかった。そして、敵ではないなら、友好的な関係を築きたいと思いました」

 

「僕たちは、アスラ王国の王位争いへ関わるつもりはありません」

 

口にした瞬間、室内の空気が僅かに変わった。

 

ルーク先輩の視線が鋭くなる。

 

フィッツ先輩も、俺を見た。

 

「なぜ、王位争いと?」

 

アリエル王女が尋ねる。

 

「第二王女が国外の大学へ来て、複数の護衛を連れている。普通の留学ではないと思いました」

 

詳しい事情を知っているわけではない。

 

レイネも、そこまでは俺へ話していない。

 

それでも、少し考えれば分かる。

 

「誰かから聞いたのではなく?」

 

「はい」

 

「レイネさんは?」

 

「私は、アスラ王国内の情勢について、幾つかの噂を存じております」

 

「あなたは事情を知っていた?」

 

「全てではございません」

 

「それを、ルーデウス君へ伝えていないのですね」

 

「ご本人の事情に関わるため、私からお話しすることではないと判断しております」

 

アリエル王女の視線が、フィッツ先輩へ向く。

 

一瞬だけ。

 

それだけで、レイネが誰の事情を守っているのか、察したのかもしれない。

 

俺も、その視線の動きに気づいた。

 

レイネがフィッツ先輩と話していた内容。

 

アリエル王女の事情。

 

フィッツ先輩自身の秘密。

 

全てが、どこかでつながっている。

 

それでも、今は聞かない。

 

「分かりました」

 

アリエル王女は、俺たちへ向き直った。

 

「あなた方へ、こちらの事情へ関わることを強要しません」

 

「ありがとうございます」

 

「ただし、大学内で困ったことがあれば相談してください。私にできる範囲で力を貸します」

 

「なぜ、そこまで?」

 

「将来への投資です」

 

アリエル王女は、隠さず答えた。

 

「あなた方が私の味方にならなくても、敵にならない関係を築く価値はあります。それに、フィットア領転移事件の被災者を救おうとする人々へ協力することは、私個人としても望んでいます」

 

政治的な理由だけではない。

 

そう伝えたいのだろう。

 

どこまで信じてよいかは、まだ分からない。

 

それでも、今すぐ拒絶する必要はなかった。

 

「僕たちからも、何か協力できることがあれば、内容を聞いたうえで考えます」

 

「十分です」

 

アリエル王女はレイネを見る。

 

「あなたも?」

 

「ルーデウス様と同じでございます」

 

「主君の判断に従うという意味ですか?」

 

「いいえ」

 

レイネは静かに答えた。

 

「私自身も内容を確認し、自分で判断いたします。その結果、ルーデウス様と異なる結論へ至る可能性もございます」

 

俺はレイネを見る。

 

以前なら、俺の決定へ従うと答えたかもしれない。

 

今は、自分で判断すると言った。

 

その言葉に、寂しさはなかった。

 

むしろ、うれしかった。

 

俺が好きなのは、俺の命令へ従うだけのレイネではない。

 

自分で考え、自分で選び、必要であれば俺とは異なる意見を言えるレイネだ。

 

「よい関係なのですね」

 

アリエル王女が言う。

 

「はい」

 

俺が答えた。

 

「僕も、そう思います」

 

レイネは一瞬だけ俺を見た後、静かに頭を下げた。

 

「ありがとうございます」

 

面会は、それで終わった。

 

部屋を出る前。

 

アリエル王女がレイネへ声を掛けた。

 

「レイネさん」

 

「はい」

 

「いつか、あなた自身が話したいと思った時には、あなたの事情を聞かせてください」

 

「その時が参りましたら」

 

拒絶ではない。

 

約束でもない。

 

それでも、アリエル王女は満足したようだった。

 

 

応接室を出ると、ルーク先輩が俺たちを追ってきた。

 

フィッツ先輩は、アリエル王女のそばへ残っている。

 

「一つだけ忠告しておく」

 

ルーク先輩が言う。

 

「アリエル様は、敵意を持つ者へまで無条件に手を差し伸べる方ではない」

 

「分かっています」

 

「今日の言葉も、利用できるものを利用するという意味を含んでいる」

 

「それも」

 

ルーク先輩は俺を見た。

 

「ならいい」

 

次に、レイネへ向く。

 

「お前は、フィッツと何を話した?」

 

「フィッツ様ご本人の事情に関わるため、私から申し上げることはできません」

 

「アリエル様にも?」

 

「必要であれば、フィッツ様ご自身からお話しになると考えております」

 

「危険な内容ではないと?」

 

「アリエル様へ危害を加える意図はございません」

 

ルーク先輩は、すぐには引かなかった。

 

護衛として当然なのだろう。

 

「保証できるのか?」

 

「はい」

 

「根拠は?」

 

「お話しできません」

 

空気が硬くなる。

 

俺は口を挟もうとした。

 

レイネが嘘をついていないことは分かる。

 

俺は彼女を信じている。

 

それでも、ルーク先輩が疑い続けることへ、苛立ちが生まれかけた。

 

けれど、レイネが俺を僅かに手で制した。

 

自分で答えるつもりらしい。

 

俺は口を閉じた。

 

守りたいと思うことと、本人の言葉を奪うことは違う。

 

「ルーク様が、アリエル様を守るために私を警戒なさることは理解しております」

 

「なら話せ」

 

「フィッツ様との約束を破ることはできません」

 

「その約束が、アリエル様を危険へ晒すものなら?」

 

「その場合は、フィッツ様へ事前にお伝えしたうえで、必要な情報を共有いたします」

 

「今は違うと?」

 

「はい」

 

ルーク先輩は、長い間レイネを見た。

 

「フィッツを信じているのか」

 

「はい」

 

「今日会ったばかりだろう」

 

「本日お会いした方としてではなく、信頼できる根拠がございます」

 

これ以上は言えない。

 

ルーク先輩にも、それが分かったようだった。

 

「分かった」

 

完全に納得したわけではないだろう。

 

それでも、剣から手を離した。

 

「ただし、アリエル様に危険が及ぶと判断した時は、俺はお前を敵と見なす」

 

胸の奥に、冷たいものが生まれた。

 

レイネを敵と見なす。

 

必要なら、剣を向けるという意味だ。

 

俺は、ルーク先輩の位置と距離を無意識に確認していた。

 

今ここで争うつもりはない。

 

ルーク先輩が、護衛として警告しているだけだとも理解している。

 

それでも、レイネへ明確な敵意が向けられる可能性を示されれば、何も感じずにはいられない。

 

「承知いたしました」

 

レイネは静かに答えた。

 

「怖くないのか?」

 

「ルーク様が、護衛として当然の責務を果たしておられると理解しております」

 

ルーク先輩は、僅かに顔をしかめた。

 

「やりにくい相手だな」

 

「多くの方から、そのように評価されます」

 

「だろうな」

 

今度こそ、ルーク先輩は立ち去った。

 

俺は、その背中が十分に離れてからレイネを見る。

 

「大丈夫ですか?」

 

「はい」

 

「フィッツ先輩の事情は、そこまで大切なのですね」

 

「ご本人が、自らお話しになるべきことでございます」

 

「僕にも?」

 

「はい」

 

「分かりました」

 

二度目の返事も同じだった。

 

それでも、今度は胸の中へ強い引っ掛かりを残さずに受け入れられた。

 

レイネが俺を信じていないから、話さないのではない。

 

誰かとの約束を守っている。

 

俺も、レイネが自分で決めたことを守りたい。

 

「先ほど、口を挟もうとなさいましたか?」

 

「はい」

 

正直に答えた。

 

「ルーク先輩が、レイネを敵と見なすと言ったので」

 

「護衛として必要な警告でございます」

 

「分かっています」

 

分かっていても、嫌だった。

 

「それでも、レイネへ剣を向ける可能性を口にされて、何も思わないわけではありません」

 

レイネが、僅かに目を見開く。

 

「ですが、レイネが自分で答えようとしていたので、止めました」

 

「ありがとうございます」

 

「僕に守られる必要はないと思いましたか?」

 

「いいえ」

 

レイネは、すぐに否定した。

 

「守ろうとしてくださったことを、うれしく思います」

 

胸の奥が温かくなる。

 

「ですが、私自身でお話しできることについては、私に任せていただけることも、同じようにうれしく思います」

 

「はい」

 

守ることと、任せること。

 

どちらか一方だけではない。

 

その両方を選べるようになりたいと思った。

 

 

夕方。

 

一般入学の試験と手続きを終えたエリナリーゼと合流した。

 

「無事に合格しましたわ」

 

「おめでとうございます」

 

「ありがとう。筆記試験は少し面倒でしたけれどね」

 

「どの課程へ入るのですか?」

 

「一般課程ですわ。興味のある授業を取りながら、しばらく学生生活を楽しむつもり」

 

「楽しむことが目的なのですか?」

 

「学ぶことと楽しむことは両立するでしょう?」

 

レイネが小さく頷いた。

 

「確かに、そのとおりでございます」

 

「住居については、寮へ入るのよね?」

 

エリナリーゼが尋ねる。

 

「はい。僕は男子寮です」

 

「私は女子寮でございます」

 

レイネが答えた。

 

「なら、わたくしも女子寮ですわね。レイネとは同じ建物になるかもしれないけれど、部屋は別々にしてもらいましょう」

 

「なぜですか?」

 

「せっかく学生になるのだから、自分の部屋ぐらい欲しいもの」

 

「私も、一人部屋を希望しております」

 

レイネの答えを聞き、胸の中に小さな驚きが生まれた。

 

以前なら、俺の部屋に最も近い場所であることを最優先にしただろう。

 

今は、自分の部屋を望んでいる。

 

それが少し寂しく、同時にうれしかった。

 

「ルーデウス君のそばではなくて、本当に大丈夫?」

 

エリナリーゼの質問に、レイネは僅かに黙った。

 

「不安がないわけではございません」

 

正直に答える。

 

「ですが、大学の規則を破り、ルーデウス様の生活へ必要以上に介入することは望んでおりません」

 

「成長しましたわね」

 

「以前の私であれば、規則を破っていたのでしょうか」

 

「規則そのものは破らなくても、男子寮の前で朝まで立っていたかもしれないわ」

 

レイネは否定しなかった。

 

思い当たる節があるらしい。

 

「夜間に異常が生じた場合の連絡方法は、既に確認しております」

 

「準備が早いわね」

 

「必要なことでございます」

 

三人で学生寮へ向かった。

 

男子寮と女子寮は、校舎を挟むように別の場所へ建てられている。

 

歩けば、そこまで遠くない。

 

けれど、窓から互いの建物が見えるほど近くもない。

 

俺に用意されたのは、男子寮の一人部屋だった。

 

特別生であることと、個人で研究を行う可能性があることを考慮されたらしい。

 

狭くはない。

 

寝台、机、椅子、衣類を入れる棚、本を置ける小さな書架。

 

必要な物はそろっている。

 

それでも、扉を開けた瞬間、一人で暮らすための部屋なのだと改めて実感した。

 

レイネが使う椅子はない。

 

彼女の荷物を置く場所もない。

 

夜になれば、この部屋には俺一人しかいない。

 

レイネとエリナリーゼは、女子寮にそれぞれ別の部屋を割り当てられた。

 

レイネも、特別学生として一人部屋。

 

エリナリーゼは一般学生用の部屋だったが、同室となる学生がまだ決まっておらず、当面は一人で使えるらしい。

 

「では、夕食の時間に食堂で会いましょう」

 

エリナリーゼが言う。

 

「はい」

 

「ルーデウス君。一人になったからといって、荷物を広げたままにしないようにね」

 

「子供ではありません」

 

「レイネがいない部屋で、本当に片づけられるかしら」

 

「できます」

 

俺が答える前に、レイネが俺の部屋を確認しようと一歩前へ出た。

 

途中で足を止める。

 

男子寮の入口だ。

 

寮監から、女子学生は通常時には入れないと説明されている。

 

レイネの足が止まったことに、胸が少し痛んだ。

 

今までは当然のように隣へ入ってきた。

 

今日からは、規則によって分けられる。

 

「ルーデウス様」

 

「はい」

 

「荷物の整理は、ご自身でなさいますか?」

 

「そのつもりです」

 

「分からないことがございましたら、明日の朝に伺います」

 

「分かりました」

 

「寝台の位置と、窓の鍵をご確認ください」

 

「はい」

 

「火を使用する場合には、消火用の水を用意し――」

 

「レイネ」

 

エリナリーゼが横から声を掛ける。

 

「今は、任せるところですわよ」

 

レイネは口を閉じた。

 

俺の部屋へ入ることはできない。

 

荷物を代わりに整理することもできない。

 

「……承知いたしました」

 

寂しそうに見えた。

 

それでも、戻ろうとはしなかった。

 

俺を信じて、離れようとしている。

 

「明日の朝、食堂で会いましょう」

 

俺が言う。

 

「はい」

 

「今夜、何かあったら連絡します」

 

レイネから渡された、小さな魔道具を見せる。

 

魔力を流せば、対になった魔道具が振動する。

 

会話まではできないが、緊急事態を知らせることはできる。

 

「必ずお願いいたします」

 

「約束します」

 

レイネとエリナリーゼは、女子寮へ向かって歩き始めた。

 

レイネは一度だけ振り返った。

 

俺と目が合う。

 

何かを言いたそうに見えた。

 

俺も、呼び止めたい気持ちがあった。

 

今夜だけは近くにいてほしい。

 

そう言えば、レイネは何らかの方法を探すかもしれない。

 

けれど、それでは何も変わらない。

 

俺は小さく手を上げた。

 

レイネも僅かに頭を下げる。

 

それでも、戻ってはこなかった。

 

俺も自分の部屋へ入る。

 

扉を閉めた。

 

一人きりになった。

 

旅の途中では、レイネかエリスが近くにいた。

 

北方では、同じ宿に仲間がいた。

 

誰の気配もない部屋は、思っていた以上に静かだった。

 

寂しい。

 

今度は、否定しなかった。

 

好きな相手と離れて眠るのだから、寂しいのは当然だ。

 

けれど、離れることは失うことではない。

 

レイネは女子寮にいる。

 

明日の朝には会える。

 

俺たちは同じ大学で、それぞれ学ぶ。

 

そう考えると、寂しさの中にも少しだけ楽しみが生まれた。

 

俺は自分で荷物を開き、衣服を棚へ入れ始めた。

 

レイネ視点

 

女子寮へ荷物を置いた後。

 

レイネは寮監へ外出の予定を伝え、再び校舎へ向かった。

 

向かう先は、アリエルたちが使用している区画の一室だった。

 

シルフィから、短い伝言を受け取っている。

 

もう一度、二人だけで話したい。

 

人目のある廊下では、互いに距離を保った。

 

シルフィはフィッツとして先を歩き、レイネは少し離れて後を追う。

 

誰もいない小さな資料室へ入り、扉を閉める。

 

シルフィは周囲に人がいないことを確かめてから、濃色の眼鏡を外した。

 

「レイネ」

 

昼間とは異なる呼び方だった。

 

フィッツとして人前に立つ時は、レイネさん。

 

今ここにいるのは、ブエナ村でともに過ごしたシルフィだった。

 

「はい、シルフィ」

 

レイネも敬称をつけなかった。

 

名前を呼ぶと、生きて目の前にいるのだという実感が改めて胸へ広がった。

 

同時に、ルーデウスがいつか同じようにその名前を呼ぶ姿が浮かぶ。

 

胸の奥が僅かに痛んだ。

 

その痛みを消そうとはしなかった。

 

けれど、言葉へも変えなかった。

 

「ちゃんと、そう呼んでくれるんですね」

 

シルフィの口元へ、小さな笑みが浮かぶ。

 

「シルフィが望まれましたので」

 

「二人だけの時は、そんなにかしこまらなくてもいいですよ」

 

「口調については、すぐに変更することが困難です」

 

「それは分かっています」

 

シルフィは、眼鏡を机の上へ置いた。

 

「今日、ルディに何か聞かれましたか?」

 

「フィッツ様と何を話したのか、尋ねられました」

 

「何と答えたんですか?」

 

「ご本人の事情に関わるため、私から申し上げることはできないとお伝えしました」

 

「怒りませんでしたか?」

 

「受け入れてくださいました」

 

答えながら、レイネはその時のルーデウスの顔を思い出した。

 

寂しさはあった。

 

それでも、追及しなかった。

 

自分の不安を解消するために、レイネへ答えを求めなかった。

 

「ルディ、変わったんですね」

 

シルフィの表情が、少しだけ寂しそうなものへ変わる。

 

「はい」

 

「昔なら、もっと聞いてきましたか?」

 

「ご自身に関係する可能性があると判断なされば、理由が分かるまで質問されたと考えます」

 

「今は、待ってくれた」

 

「はい」

 

シルフィは、机の端へ手を置いた。

 

「うれしいです。でも、少し怖いです」

 

「何がでしょうか」

 

「ルディが待ってくれるなら、僕はいつまでも言わずにいられてしまうから」

 

自分から名乗らなければならない。

 

レイネが明かすことも、ルーデウスが無理に聞き出すこともない。

 

だからこそ、最後の一歩はシルフィ自身が踏み出す必要がある。

 

「いつまでにお伝えするか、お決めになりますか?」

 

「期限を決めた方がいいですか?」

 

「私が決めることではございません」

 

レイネは即答を避けた。

 

「ですが、何も決めずに先延ばしを続ければ、シルフィご自身が苦しくなる可能性はございます」

 

「そうですよね」

 

シルフィは俯いた。

 

「今日、ルディが僕を見て、何度か不思議そうな顔をしていました」

 

「お声と魔術の構えへ、懐かしさを感じておられます」

 

「覚えてくれていたんですね」

 

「はい」

 

「でも、気づかなかった」

 

声へ寂しさが混じる。

 

「現在のシルフィは、髪の色、服装、お声、名乗り、立場の全てを変えておられます」

 

レイネは事実を伝えた。

 

「気づかれなかったことを、ルーデウス様のお気持ちが薄れた証拠とはお考えにならないでください」

 

「分かっています」

 

シルフィは小さく頷く。

 

「頭では分かっているんです。ただ、少しだけ、見ただけで気づいてほしいと思っていました」

 

「そのお気持ちも、否定する必要はございません」

 

「レイネなら、すぐに気づいてくれました」

 

「私は、シルフィの魔力の流れや身体の動きを記憶しております」

 

「ルディよりも?」

 

「比較することではございません」

 

レイネの答えに、シルフィが僅かに笑った。

 

「レイネらしいです」

 

「そうでしょうか」

 

「はい」

 

短い沈黙が落ちた。

 

「レイネ」

 

シルフィが、もう一度名前を呼ぶ。

 

「はい」

 

「女子寮に入ったんですよね」

 

「はい」

 

「ルディとは別なんですね」

 

「男子寮と女子寮に分かれておりますので」

 

「平気ですか?」

 

レイネは、すぐには答えなかった。

 

男子寮の入口で、ルーデウスと別れた時の光景が浮かぶ。

 

扉の向こうへ、一緒に入ることはできなかった。

 

荷物を整えることも、寝台や窓を直接確認することもできなかった。

 

振り返った時、ルーデウスは小さく手を上げていた。

 

呼び戻さなかった。

 

自分で大丈夫だと、示そうとしていた。

 

「不安はございます」

 

正直に答えた。

 

「ルーデウス様が眠っておられる間に、何者かによる干渉が発生する可能性もございます。体調を崩される可能性も、完全には否定できません」

 

「なら、男子寮の近くにいた方が――」

 

「ですが」

 

レイネは言葉を続けた。

 

「私が常にそばにいなければならない状態を、いつまでも続けるべきではないとも考えております」

 

「ルディが、一人でできるように?」

 

「それだけではございません」

 

レイネは、自分の部屋へ置いた荷物を思い出した。

 

ルーデウスのための部屋ではない。

 

侍女として控える場所でもない。

 

レイネ自身が、学生として暮らすために与えられた部屋だった。

 

机へ置く本を、自分で選んだ。

 

窓から見える景色を、自分一人で眺めた。

 

誰かへ仕えるためではなく、自分が学ぶための場所。

 

それを、うれしいと感じた。

 

その感情を認めることは、以前ならできなかったかもしれない。

 

「私自身も、ルーデウス様のおそばにいない時間を持つ必要がございます」

 

以前なら、その必要を認められなかった。

 

ルーデウスを守る。

 

その目的だけを中心へ置けば、離れる理由はない。

 

けれど、今は違う。

 

「それは、寂しくありませんか?」

 

シルフィが尋ねた。

 

「寂しいと感じております」

 

レイネは否定しなかった。

 

誰もいない部屋。

 

隣に、ルーデウスの気配がない夜。

 

それを想像するだけで、胸の内側へ空白が生まれる。

 

それでも。

 

「ですが、明日の朝には再会できます」

 

「そうですね」

 

「離れることは、失うことではございません」

 

自分自身へ言い聞かせるような言葉だった。

 

ルーデウスも、同じように考えてくれていればよい。

 

そう願う。

 

シルフィは、しばらくレイネを見つめた。

 

「レイネも、変わったんですね」

 

「多くの方々に教えていただきました」

 

「僕も、変われますか?」

 

「既に変わっておられます」

 

「正体を言えないままなのに?」

 

「変化とは、全ての不安がなくなることではございません」

 

レイネはシルフィを見る。

 

「不安を抱えたままでも、ご自身で選択できるようになることだと、私は考えております」

 

シルフィは、静かにその言葉を受け止めた。

 

「では、僕も自分で決めます」

 

「はい」

 

「ルディに話す時は、そばにいてくれますか?」

 

レイネは少し考えた。

 

代わりに説明することはできない。

 

シルフィが自分で伝える機会を奪うべきでもない。

 

二人が再会することを望んでいる。

 

その判断に変わりはない。

 

胸の奥にある痛みも、消えてはいない。

 

けれど、その痛みを理由にシルフィの選択を妨げるつもりはなかった。

 

「お近くで待つことはできます」

 

「同じ部屋には?」

 

「最初は、お二人だけでお話しすることをお勧めいたします」

 

「やっぱり?」

 

「シルフィがご自身の言葉で名乗り、ルーデウス様がご自身の言葉でお返事をなさるべきでございます」

 

「もし、怖くなったら?」

 

「その時は、私をお呼びください」

 

「来てくれる?」

 

「はい」

 

答えに迷いはなかった。

 

シルフィの顔へ、僅かな安堵が浮かぶ。

 

「ありがとう、レイネ」

 

「はい、シルフィ」

 

二人は、再び互いの名前を呼んだ。

 

人前へ戻れば、フィッツ様とレイネさん。

 

それぞれの立場を守るため、距離を置く。

 

けれど、二人だけの場所では、レイネとシルフィだった。

 

「レイネは」

 

シルフィが、少し迷ってから口を開いた。

 

「ルディのことを、どう思っているんですか?」

 

胸の奥を、直接指で触れられたような感覚があった。

 

レイネは表情を変えなかった。

 

「大切な方でございます」

 

「家族として?」

 

「それだけでは説明できません」

 

言葉にした瞬間、胸の内側が熱を持った。

 

これ以上は話せない。

 

シルフィは、レイネの顔を見つめていた。

 

「そうなんですね」

 

何を理解したのか、レイネは尋ねなかった。

 

「シルフィ」

 

「はい」

 

「私の感情を理由に、シルフィがご自身の選択を変える必要はございません」

 

「でも」

 

「ルーデウス様へ正体をお伝えしたいのであれば、そうなさってください」

 

声は平静だった。

 

胸の奥は痛んでいる。

 

それでも、言葉に偽りはなかった。

 

「私は、シルフィが生きておられたことを、心からうれしく思っております」

 

シルフィの目が僅かに潤む。

 

「ありがとう」

 

「はい」

 

「僕も、レイネがいてくれて、うれしいです」

 

レイネは小さく頭を下げた。

 

その夜、女子寮へ戻る道を歩きながら、レイネは胸の奥に残る痛みを確かめた。

 

消えてはいない。

 

それでも、痛みを抱えたままでも選ぶことはできる。

 

先ほどシルフィへ伝えた言葉を、自分自身にも向けた。

 

ルーデウス視点

 

荷物の整理を終えた頃には、外はすっかり暗くなっていた。

 

衣服は棚へ入れた。

 

研究資料は机の右側。

 

母様に関する記録は、すぐ取り出せる引き出しへ分けて置いた。

 

保存食と薬も、自分で確認した。

 

レイネがいなくても、問題なく整理できる。

 

明日の朝に見せれば、細かな置き方を指摘される可能性はある。

 

それでも、最初から任せるのとは違う。

 

俺は寝台へ腰を下ろした。

 

学生寮の一人部屋。

 

明日から始まる授業や研究、新しい人間関係。

 

母様についての情報が届くまで、ここでできることを積み重ねる。

 

窓の鍵を確認した。

 

消火用の水も用意してある。

 

扉の内側には、レイネから渡された緊急用の魔道具を掛けた。

 

問題はない。

 

それでも、部屋は静かだった。

 

レイネがいない。

 

それだけで、同じ広さの部屋が少し大きく感じられる。

 

俺はレイネが好きだ。

 

ならば、近くにいてほしいと思うのは当然だろう。

 

けれど、好きだからこそ、俺のそばだけをレイネの居場所にはしたくない。

 

今頃、レイネも自分の部屋で荷物を整理しているのだろうか。

 

どの本を机へ置くか考え、明日受ける授業を楽しみにしているのだろうか。

 

そう想像すると、寂しさの中へ小さな喜びが生まれた。

 

そろそろ眠ろうかと考えた時、部屋の扉が激しく叩かれた。

 

一度ではない。

 

何度も。

 

「ルーデウス・グレイラット殿!」

 

廊下から、大きな声が聞こえた。

 

「こちらにおられるのでしょうか!」

 

聞き覚えがある。

 

妙に格式ばった話し方。

 

興奮すると、周囲が見えなくなる声。

 

俺は扉を開けた。

 

外に立っていたのは、眼鏡を掛けた大柄な青年だった。

 

以前より、さらに身体が大きくなっている。

 

服装も、学生のものへ変わっていた。

 

それでも、顔を見間違えるはずがない。

 

「師匠!」

 

青年――ザノバが、両目を大きく見開いた。

 

次の瞬間、その巨体が俺の前へ勢いよく跪く。

 

「お待ちしておりました!」

 

夜の男子寮へ、その声が響き渡った。

 

周囲の部屋で、扉が幾つも開く。

 

眠そうな顔をした学生たちが、何事かと廊下を覗いた。

 

「師匠! ようやく、ようやく再会が叶いましたな!」

 

「ザノバ、声を落としてください」

 

「これは失礼いたしました!」

 

まったく小さくなっていない。

 

俺は額へ手を当てた。

 

寂しさに沈みかけていた部屋へ、あまりにも大きな声が飛び込んできた。

 

大学生活の最初の夜。

 

久しぶりに再会した弟子は、以前と何も変わらない声量で、俺を師匠と呼んだ。

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