ルーデウス視点
「お待ちしておりました!」
ザノバの声が、夜の男子寮へ響き渡った。
周囲の部屋からは何人もの学生が顔を出しており、眠そうに目を擦っている者もいれば、何事かと杖を手にしている者までいる。その視線が集まる廊下の中央で、ザノバは俺の前へ勢いよく跪いていた。
「ザノバ」
「はい、師匠!」
「立ってください。それから、もう少し声を落としてください」
「承知いたしました!」
声量はほとんど変わっておらず、廊下の奥から誰かが壁を強く叩く音まで聞こえてきた。
「もう少し小さくお願いします」
「承知いたしました、師匠」
今度は、どうにか普通の会話として許される程度まで小さくなった。
俺は周囲の学生たちへ頭を下げる。
「夜分に申し訳ありません。知人と久しぶりに再会したもので」
「知人というより、完全に弟子だろ」
「師匠って、何の師匠なんだ?」
学生たちは小声でそんなことを話しながら、それぞれの部屋へ戻っていった。
明日には、入学初日の夜に学生を廊下へ跪かせたという妙な噂が男子寮全体へ広まっているかもしれない。入学直後からあまり目立ちたくはなかったのだが、《泥沼》という異名に加え、フィッツ先輩との入学試験や、S級冒険者であるレイネとの関係まで知られ始めている以上、そもそも目立たずに過ごすこと自体が難しいのかもしれなかった。
「ひとまず、中へ入ってください」
「失礼いたします!」
ザノバを部屋へ招き入れる。
用意されている椅子は一脚だけだったため、俺が寝台へ腰を下ろしてザノバへ椅子を勧めたものの、彼は座ろうとしない。
「師匠を差し置いて、弟子である余が椅子を使うわけにはまいりません」
「では、僕が椅子へ座りますから、ザノバは寝台へ座ってください」
「師匠の寝台へ腰を下ろすなど!」
「床へ座るのはやめてください」
「では、立っております」
久しぶりに会ったというのに、この部分だけは何も変わっていなかった。
仕方なく俺が椅子へ移動すると、ザノバはようやく寝台の端へ腰を下ろした。大柄な身体が乗ったことで寝台が小さく軋む。
シーローン王国で別れた頃よりも、身体が一回り大きくなったように見えた。肩幅も広くなっており、学生服の上からでも常人とは異なる頑丈な身体つきが分かる。
外見は確かに成長しているのだが、俺を見る目に浮かぶ熱だけは、シーローンで人形を前にしていた時と何も変わっていなかった。
それを見て、少しだけ安心した。
俺たちは別れてから、それぞれ異なる場所で異なる時間を過ごしてきた。それでも、その間に全てが変わってしまったわけではないらしい。
「元気そうですね」
「はい。師匠と再会する日を待ちながら、日々学業へ励んでおりました」
「人形の作り方を学べる場所へ行きたいと言っていましたね」
「覚えておられたのですな!」
「忘れていません」
シーローンを離れることになったザノバへ、俺は人形だけではなく、ほかの人間と一緒に生活する方法も学んでほしいと伝えていた。
一つの人形を完成させるためには、形を作る職人だけでなく、材料を用意する者や道具を作る者、衣服を縫う者など、多くの人間が関わっている。よい人形を作りたいのであれば、他人との協力を覚える必要がある。
単純に「人の気持ちを大切にしろ」と言うよりも、人形へ結びつけて説明した方が、当時のザノバには理解しやすいと考えたからだ。
「大学生活はどうですか?」
「実に難解でございます」
「魔術の授業が?」
「人間関係が、でございます」
即答だった。
「相手へ話しかける前には、相手の都合を確認する必要がある。興味を持った物でも、所有者の許可なく触れてはならない。力を抑えたつもりでも、相手にとっては危険な場合がある。ジンジャーから、毎日のように注意されております」
「ジンジャーも来ているのですか?」
「はい。余一人では、留学先で何をしでかすか分からぬとの理由で同行しております」
それは妥当な判断だと思う。
ザノバ本人に誰かを傷つける意思がなくても、怪力を持つ彼が不用意に人や物へ触れれば、取り返しのつかない事故が起こり得る。
シーローンでは俺との約束を守り、パックスを殺さずに取り押さえてくれたが、それだけで人の痛みや気持ちを完全に理解できるようになったわけではない。
「誰かを傷つけてはいませんか?」
俺が尋ねると、ザノバはすぐには答えなかった。
「一度、挨拶のつもりで同級生の肩へ触れ、転倒させました」
「怪我は?」
「軽い打撲で済みました。すぐに謝罪し、治療費も支払いました」
「その人とは、今も話していますか?」
「はい。最初は余を見るたびに逃げておりましたが、最近は挨拶を返してくれます」
少なくとも、事故を起こした後に金を渡して終わりという対応はしていないらしい。
「その時、何が悪かったかは分かりましたか?」
「相手を壊さぬ程度の力で触れたつもりでも、相手にとっては十分に強かったことです」
「それだけですか?」
ザノバは少し考え込んだ。
「……相手は、余から突然触れられること自体を望んでいなかった?」
「そうだと思います」
「力の問題だけではなかったのですな」
「はい」
ザノバは真剣な表情で頷いた。
以前なら、人を傷つけさえしなければ問題ないと考えていたかもしれない。それが今では、相手が何を望んでいるのかまで考えようとしている。
まだ誰かから指摘されなければ気づけないことは多いのだろう。それでも、自分で考えようとする姿勢そのものは確かに生まれている。
留学前に俺が話したことも、完全に無駄ではなかったらしい。
「では、師匠」
ザノバが姿勢を正した。
「約束を果たしていただけますな?」
「約束?」
「落ち着いて人形を作れる場所で再会できたなら、人形の作り方を教えてくださると仰ったではありませんか!」
もちろん、忘れているはずがない。
ザノバへ一時的に見せたのは、魔大陸で俺が作ったルイジェルドの人形だ。シーローンでの事件が終わった後、ザノバはきちんと人形を俺へ返している。
あれは彼へ贈った物ではなく、魔大陸を旅していた頃のルイジェルドを、自分なりに形へ残そうとして作った物だった。
ザノバは別れ際まで名残惜しそうに人形を見ていたものの、無理に奪おうとはしなかった。あの頃の彼にとっては、それだけでも決して小さくない我慢だったはずだ。
「もちろんです」
俺が答えると、ザノバの顔が一気に輝いた。
「おお!」
勢いよく立ち上がりかけたので、片手を上げて制する。
「ただし、最初から完成した人形を作るわけではありません」
「なぜです?」
「材料の性質や、魔術で形を整える方法、道具の扱い方、壊れやすい部分など、先に知らなければならないことが幾つもあります」
ザノバは、自分の両手へ視線を落とした。
「余が触れれば、大半の材料は壊れます」
「だからこそ、ザノバが全てを自分の手だけで作ることに拘る必要はありません」
「自ら作らなければ、余の作品とは呼べないのでは?」
「設計する人、形を作る人、色を塗る人、衣服を縫う人というように、複数の人間が協力して一体の人形を完成させる方法もあります」
「余一人ではなく?」
「以前も言いました。よい人形を作るには、人との協力が必要です」
ザノバは低く唸った。
人形そのものへの関心は非常に強いものの、誰かと役割を分けるという発想は、まだ自然には出てこないらしい。
それでも、拒絶はしなかった。
すぐに理解できなくても、まず考えようとしている。それだけでも、以前のザノバとは違う。
「まず、大学の工房を調べましょう。土魔術で形を作る方法は僕が教えます。ザノバには、どのような人形を作りたいのかを考えてもらいます」
「ルイジェルド殿の人形のような物を作りたいです!」
「同じ物を作るのではありませんよ」
「では、あの人形をもう一度拝見しても?」
「見るだけなら」
「本当ですか!」
また声が大きくなった。
「ただし、今日は見せません。荷物の奥へ保管していますし、夜も遅いです」
「明日は?」
「授業の予定を確認してからです」
「明後日は?」
「まず予定を確認してください」
「承知いたしました!」
返事だけは立派だった。
「それから、ザノバ」
「はい、師匠」
「僕と再会することだけを目的に、この大学で過ごしていたわけではありませんよね?」
一瞬、ザノバの視線が横へ逸れた。
「人形について学べる場所を探すことも目的でした」
「実際に、何かしましたか?」
「人形を扱う工房を訪ねました」
「結果は?」
「余が彫刻刀を握り潰して以降、入室を断られております」
「ほかには?」
「学生が所有する人形を見せてもらいました」
「許可は取りましたか?」
「ジンジャーが先に確認しました」
それを聞いて、少し感心した。
少なくとも、人形を見たいという自分の欲求だけを優先して、勝手に奪うようなことはしていない。
「人形の構造について、記録も取っております」
ザノバは懐から小さな帳面を取り出した。
中には、木製、石製、陶器、布製といった材質の違いをはじめ、大きさや関節の有無、衣服を着せ替えられるかどうか、どこが壊れやすいかまで、さまざまな人形についての観察結果が文章で細かく書き込まれていた。
添えられている絵だけはひどく歪んでいたが、観察内容そのものは思っていた以上に詳細だった。
「きちんと調べていたのですね」
「無論です!」
ザノバは、ただ俺と再会する日を待っていただけではない。
俺がいなければ何もしないのではなく、自分にできる範囲で人形について学ぼうとしていた。
そのことが、素直にうれしかった。
ならば、俺も約束を果たすべきだろう。
「明日、授業の予定を確認しましょう。その後、工房の使用許可を取ります」
「ありがとうございます、師匠!」
ザノバが再び床へ跪こうとしたので、すぐに止める。
「跪かなくていいです」
「しかし、この喜びをどのように表現すれば――」
「普通に礼を言ってください」
「ありがとうございます!」
「声も普通に」
「ありがとうございます、師匠」
ようやく静かになった。
「ところで」
ザノバが顔を上げる。
「師匠とともにいらした白髪の女性は、レイネ殿で間違いありませんな?」
「はい」
「見違えました」
「外見は、シーローンで会った頃から大きく変わっていないと思いますが」
「外見ではございません」
ザノバは少し考えてから答えた。
「以前のレイネ殿は、師匠以外の全てを警戒しているように見えました。必要がなければ、他者へ自ら話しかけることもなかった」
「よく覚えていますね」
「師匠のそばにいる方ですから」
「今は違って見えましたか?」
「本日、廊下でお見掛けした際、女子学生から寮について尋ねられ、立ち止まって説明しておられました」
ザノバがレイネと会ったのは、シーローンでの短い時間だけだ。
それでも、今のレイネを見て変化が分かったらしい。
「レイネも、多くの人と関わるようになりました」
そう口にしてから、改めてその事実について考えた。
以前のレイネなら、俺や家族に直接関係しない相手との会話は、必要最低限で終わらせていただろう。
今では、自分から誰かを助けることがある。
エリナリーゼと友人になり、カウンターアローや《ステップトリーダー》の仲間とも、自分自身の意思で関係を築いてきた。
フィッツ先輩の事情を守り、アリエルたちとも俺の代理としてではなく、レイネ自身として向き合っている。
確かに変わった。
今も俺のそばにいてくれるが、俺だけを見ている人ではなくなりつつある。
「よい変化ですな」
ザノバは素直にそう言った。
「ただし、あの美貌です。明日から大変なことになるでしょう」
「大変なこと?」
「大学の男子学生が、放っておくはずがありません」
何を大げさなことを言っているのだろう。
レイネが美しいことは、もちろん俺も知っている。北方でも視線を集めることは多かったが、冒険者たちは《白髪の侍女》がS級冒険者だと知れば迂闊に近づこうとはしなかった。
この大学にも彼女の異名を知る者はいる以上、大きな問題にはならないだろう。
そう考えていたはずなのに、胸の中には小さな引っ掛かりが生まれた。
レイネが誰かに好かれること自体は、決して不思議ではない。その相手と親しくなることだって、いつかはあるのかもしれない。
考えたことがなかったわけではない。
ただ、それを具体的な光景として想像したことがなかった。
その時の俺は、胸に生まれた小さな引っ掛かりへ名前をつけないまま、考えることをやめた。
◇
翌朝、目を覚まして寝台から身体を起こしても、隣からレイネが朝の準備を始める音は聞こえてこなかった。
代わりに耳へ入ってくるのは、廊下を歩く男子学生たちの足音と、隣室から響く大きないびきだけだ。
一人で顔を洗って服を着た後、寝台を整え、窓の鍵と緊急連絡用の魔道具まで確認する。
特に問題はない。
今までなら、俺が目を覚ます頃にはレイネがすでに身支度を整え、朝食や一日の予定まで確認していた。一人で同じことをするのは何も難しくないのだが、人の気配が少ない部屋には、どうしても違和感がある。
素直に言えば、寂しかった。
そう認めた直後、自分で少し苦笑した。
寮を分けて暮らそうと決めたのは、レイネ自身の時間を作るためでもある。一晩離れただけでこれほど寂しがっていては、先が思いやられる。
男子寮を出て大学の食堂へ向かうと、入口付近にはすでにレイネが立っていた。
普段の侍女服の上から、大学の学生であることを示す外套を羽織っている。白い髪と赤い瞳、整った顔立ちだけを見れば俺と同じか、場合によっては少し年下にさえ見えるが、姿勢や所作には同年代の学生とは明らかに異なる落ち着きがあった。
彼女の姿を見つけた瞬間、先ほどまで感じていた部屋の静けさが少し遠ざかっていく。
ただし、レイネの前には男子学生が二人いた。
一人はレイネへ食堂の場所を教えているらしく、もう一人は彼女が抱えている本へ手を伸ばしていた。
「荷物をお持ちします」
「お気遣いに感謝いたします。しかし、こちらは私自身で運べます」
「でも、重いでしょう?」
「問題ございません」
レイネが抱えているのは、薄い本が二冊だけだ。
どう見ても誰かに手伝ってもらわなければならない量ではない。
昨夜のザノバの言葉を思い出した。
まさかとは思うものの、二人とも単純に親切な学生という可能性だってある。
そう考えているのに、なぜか俺の歩く速度は少しだけ速くなった。
「おはようございます、レイネ」
声を掛けると、レイネはすぐにこちらを向いた。
「おはようございます、ルーデウス様」
その声を聞いた瞬間、無意識のうちに肩へ入っていた力が抜けた。
男子学生たちの視線が俺へ集まる。
「知り合い?」
「はい。私の家族であり、お仕えしている方でございます」
家族という言葉を聞いた途端、二人の表情が一瞬だけ固まった。
俺の胸にも、僅かな温かさが広がる。
侍女という関係だけではなく、家族。
レイネが他人へそう説明してくれることが、思っていた以上にうれしかった。
「仕えている?」
「ルーデウス様の侍女を務めております」
「学生なのに?」
「学生となる以前からの務めでございます。ただし、大学では、私自身の学業を優先する時間も設ける予定です」
二人は俺とレイネを交互に見た。
「では、僕たちは先に行くから」
「何か困ったことがあれば、声を掛けて」
「ありがとうございます」
二人が立ち去った後、俺はその背中を見送った。
「知り合いですか?」
「先ほど初めてお会いいたしました」
「なぜ、荷物を持とうとしていたのでしょう」
「親切な方々なのではないでしょうか」
どうやらレイネは、本気でそう考えているらしい。
ザノバの言葉は、やはり正しかったのかもしれない。
「お部屋では眠れましたか?」
今度はレイネが尋ねてきた。
「はい。荷物も自分で整理しました」
「窓の鍵は?」
「確認しました」
「魔力の異常や、外部からの干渉は?」
「ありません」
質問へ順番に答えると、レイネは俺の顔色と魔力の状態まで確認してから、ようやく小さく頷いた。
「問題ないようでございます」
「レイネは?」
「私も問題ございません」
「部屋は気に入りましたか?」
「はい。自分のために用意された部屋というものは、不思議な感覚でございました」
返事は、以前より少し柔らかかった。
「落ち着きませんでしたか?」
「少しだけ」
「僕もです」
正直に答えると、レイネが僅かに目を細める。
「ですが、今朝は自分で身支度を整え、どの本を持っていくかを考えました。それを、楽しいと感じております」
レイネは食堂の中へ視線を向けながら、そう続けた。
「なら、寮へ入ってよかったですね」
「はい」
その答えを聞いた時、俺の中では寂しさよりも安堵の方が勝った。
俺と離れている時間を、レイネが楽しいと思える。
それは、よいことだ。
俺たちは並んで食堂へ入ったが、その間にも何人もの学生がレイネへ視線を向けていた。
男女を問わず注目を集めてはいるものの、男子学生の方が明らかに長く彼女を見ている。
隣を歩くレイネへちらりと目を向けてみたが、本人はまったく気づいていない。
どうやら、ザノバの言葉は大げさでもなかったらしい。
◇
俺たち特別生には、一般学生とは異なる時間割が用意されているため、全員が完全に同じ授業を受けるわけではない。
それでも週に何度か、特別生同士で研究の進捗や希望分野を共有する時間がある。
最初の集まりで教室へ入ると、そこには見覚えのあるザノバとフィッツ先輩のほかに、金髪で小柄な少年、猫系獣族の女子学生、犬系獣族の女子学生が座っており、さらに一つだけ空席が残されていた。
俺とレイネが入るなり、ザノバが勢いよく立ち上がる。
「師匠!」
「授業中ですから、座ってください」
「承知いたしました!」
教壇にいた教師が、何とも言えない表情をしている。
「君が、ザノバ王子の師匠か」
黒髪の少年が俺を見る。
年齢は俺と大きく変わらないように見えるものの、その立ち方と表情には強い自信があった。
「ルーデウス・グレイラットです」
「僕はクリフ・グリモル。魔術の天才だ」
初対面の相手へ、いきなり自分を天才だと名乗った。
「よろしくお願いします」
「君の噂は聞いている。無詠唱魔術が使えるらしいな」
「はい」
「僕には必要のない技術だ。詠唱には、魔術を正確に制御する役割がある。省略すればよいというものではない」
「そうですね」
俺が素直に同意すると、クリフ先輩は少し意外そうな顔をした。
無詠唱が常に詠唱より優れているわけではない。複雑な術式なら、詠唱によって魔力の流れを安定させた方がよい場合だってある。
「……否定しないのか?」
「クリフ先輩の言葉にも、一理あると思います」
クリフ先輩は、少しだけ拍子抜けした顔になった。
以前の俺なら相手の態度そのものへ反発したかもしれないが、今は言葉の中身と伝え方を分けて考えられる。
「そちらは?」
クリフ先輩がレイネを見る。
「レイネと申します」
「君も無詠唱が使えると聞いた」
「はい」
「治癒魔術まで?」
「使用可能でございます」
その瞬間、クリフ先輩の目が変わった。
俺へ向けていた対抗心とは違い、未知の術式を見つけた魔術師そのものの目だ。
「後で、術式について話を聞かせてくれ」
「お答えできる範囲であれば」
「全部ではないのか?」
「誤った方法をお伝えした場合、治療を受ける方へ危険が及ぶ可能性がございます」
「なるほど。なら、僕が理論を確認する」
どうやら恋愛的な興味ではなく、純粋に魔術師としてレイネへ関心を持ったらしい。
そう分かった時、なぜか少し安心した。
そのことに気づいて、自分でも戸惑う。
クリフ先輩がレイネへどのような感情を持とうが俺には関係ないはずだと、少なくとも頭では理解しているのに。
次に、猫系獣族の女子学生が俺たちを見る。
「リニアーナ・デドルディアだニャ。リニアでいいニャ」
「プルセナ・アドルディアなの」
隣にいた犬系獣族――プルセナ先輩は、骨付き肉を食べながら名乗った。
どうやら教室の中でも普通に食べるらしい。
「デドルディア……」
聞き覚えのある姓だった。
「ギュエスや、ギュスターヴと同じ一族ですか?」
リニア先輩の耳が勢いよく立ち上がった。
「父ちゃんと、じいちゃんを知ってるのかニャ?」
「はい」
「どこで会ったニャ?」
「ザントポートです」
俺が地名を答えた瞬間、リニア先輩の表情が変わった。
プルセナ先輩も、肉を口へ運ぼうとしていた手を止める。
「ザントポート……」
リニア先輩は、俺とレイネを交互に見た。
「まさか、お前たちがトーナを助けた人族なのかニャ?」
どうやら、話を聞いているらしい。
俺は小さく頷いた。
「はい。トーナとテルセナ、それから、ほかの子供たちや聖獣様を、誘拐犯の倉庫から救出しました」
言葉にすれば、それだけの簡単な出来事に聞こえる。
だが、俺の頭へ浮かんだのは英雄譚のような勇ましい光景ではなかった。
思い出すのは暗い倉庫の中で見た、痣の残った顔や痩せ細った腕、助けると言ってもすぐには俺たちを信じることのできなかった子供たちだ。
トーナはレイネの手を握りながら、それでも何度も周囲を確かめていたし、もう閉じ込めないと告げられた後でさえ、完全には安心できず声を震わせていた。
あの時刻み込まれた恐怖は、救出された瞬間に全て消え去ったわけではない。
「本当に、お前が?」
リニア先輩が、驚きと疑いの混ざった目で俺を見つめる。
「僕だけではありません。レイネやエリス、ルードさんが一緒にいました。ギュスターヴやギュエスにも協力していただきました」
「ルード……青い髪の、槍を使う男かニャ?」
「はい」
「父ちゃんの手紙に書いてあったニャ。最初は怪しい奴だと思ったけど、子供のことになると誰より先に動く男だったって」
「その方です」
それ以上は言わない。
あの時、一般の獣族や子供たちへ通していた名前はルードだ。今もリニア先輩たちにとっては、それでよい。
ルードさんが何者で、どのような種族なのかということは、俺が軽々しく話してよい内容ではない。
「白い髪の治療術師もいたって聞いたニャ」
リニア先輩の視線がレイネへ移る。
「父ちゃんが、子供たちを何日も診てたって書いてたニャ」
「私だけで治療を行ったわけではございません。ルーデウス様にもお力をお借りしております」
レイネは静かに答えた。
「僕は、レイネの指示を受けながら手伝っただけです」
あの時の治療を思い出す。
俺も治癒魔術を使ったが、衰弱した子供へどれくらいの水と食事を与えるか、どの傷から先に診るか、誰なら移動させてもよく、誰をその場で休ませなければならないのかといった判断の大半は、レイネが行っていた。
自分の睡眠時間まで削り、何度も子供たちの脈や熱を確かめていた。
その姿を思い出すと、胸に誇らしさが広がる。
俺の侍女だからではない。
レイネ自身が、多くの命を救ったということがうれしかった。
「テルセナも、白い髪の女と赤い髪の女が、ずっと近くにいてくれたって言ってたの」
プルセナ先輩は骨付き肉を机へ置き、先ほどまでの気だるそうな声とは違う、少し真剣な口調で言った。
「赤い髪の女性は、エリス様でございます」
レイネが答えた。
「テルセナは、お元気ですか?」
「元気なの。前より、たくさん食べるようになったの」
「そうですか」
レイネの表情が僅かに緩んだ。
ほんの小さな変化だったが、俺には彼女が安心しているのだと分かった。
助けた後も、あの子たちが無事に暮らしている。
その事実は、俺にとってもうれしかった。
旅の途中で出会って別れた人たちが、その後どうなったのかを知る機会はほとんどない。無事に家族のもとへ帰したとしても、本当に以前の生活へ戻れたのか、夜に眠れるようになったのか、人族を見ただけで怯えることはなくなったのかと、ずっと気になっていた。
「村まで来たという話も、本当かニャ?」
リニア先輩が尋ねる。
「はい。トーナたちを送り届けるため、村まで同行しました」
「父ちゃんもじいちゃんも、詳しくは書いてなかったニャ」
「いろいろありましたから」
村ではエリスと手合わせをしたし、トーナたちの様子を見に行き、出発の準備まで整えてもらった。
思い出せば幾つもの光景が浮かぶものの、今ここで全てを順番に話す必要はない。
「なら、お前たちは父ちゃんとじいちゃんの恩人ニャ」
リニア先輩は腕を組み、少しだけ居心地が悪そうに言った。
「テルセナの恩人でもあるの」
プルセナ先輩も続ける。
二人から向けられる視線が、少し変わった。
頭を下げられたわけでもなければ、急に親しげになったわけでもない。それでも、最初に向けられていた興味の薄い目ではなくなっている。
「恩人と呼ばれるほどではありません。僕たちは、目の前に助けを必要としている子供たちがいたから動いただけです」
気づけば、そう答えていた。
「それを恩人って言うんじゃないのかニャ?」
「そうかもしれません」
否定し続けることも、助けられた側が感謝を伝えたいと思っている気持ちを拒絶することになるのだろう。
以前の俺なら謙遜することばかり考えていたかもしれないが、今は相手が感謝を伝えたいと思っていること自体も大切にしたい。
「では、ありがとうございます。そう言っていただけることは、うれしいです」
言い直すと、リニア先輩が目を瞬かせた。
「変な奴ニャ」
「なぜです?」
「一度断ってから、急に受け取るのが変ニャ」
「少し考え直しただけです」
「やっぱり変ニャ」
どちらにしても、変な奴として扱われるらしい。
それでも嫌な感じはしなかった。
プルセナ先輩がレイネを見る。
「そっちの白いのは、強いらしいの」
「白いのではなく、レイネと申します」
「S級冒険者なの?」
「冒険者として、そのように認定されております」
「治癒術師なのに?」
「治療だけを行っているわけではございません」
「今度、戦ってみるニャ」
リニア先輩が言った。
「必要がございましたら」
「必要ならって、つまらない答えなの」
「戦闘には、相応の理由が必要であると考えております」
プルセナ先輩がレイネを見つめ、鼻を僅かに動かした。
「変な匂いなの」
俺の身体が僅かに強張った。
レイネが外見と実年齢を大きく違わせている理由や、俺へも明かしていない過去について、匂いから何かを察知されたのではないかと考えたからだ。
「どのような点が、変なのでしょうか」
レイネ本人は落ち着いている。
「人族の女の匂いなの。でも、見た目より、ずっと落ち着いた匂いがするの」
「そのような違いが分かるのですね」
「分かるの。あと、ルーデウスの匂いが少し混ざってるの」
「長く行動をともにしておりますので」
どうやら秘密へ踏み込まれたわけではないらしい。
俺は悟られないように、そっと息を吐いた。
「番なのかニャ?」
「違います」
レイネは即座に否定した。
「ルーデウス様には、別に大切な方がおられます」
エリスのことだと、名前を聞かなくても分かる。
遠く離れており、手紙が届くまでにも長い時間が掛かる。今どこで何をしているのかも分からない。
それでも俺は、今もエリスを待っている。
レイネがそのことを当たり前のように覚えてくれているのがうれしく、同時に胸へ小さな痛みも生まれた。
では、レイネ自身はどうなのだろう。
そんな疑問が浮かぶ。
「じゃあ、レイネには番がいないのかニャ?」
リニア先輩が尋ねると、レイネは僅かに間を置いた。
「そのような個人的な内容について、この場でお答えするつもりはございません」
「秘密なのかニャ?」
「はい」
それ以上、リニア先輩も追及しなかった。
俺も尋ねない。
そう決めたものの、気にならないわけではなかった。
レイネにも誰か大切な相手がいるのだろうか。いるとすれば俺の知っている人物なのか、それとも俺の知らない過去の中で出会った誰かなのか。
そんなことを考えると、胸の内側に小さな寂しさが生まれる。
自分でも勝手だと思う。
レイネが、俺の知らない感情を持つことなど当然なのに。
ふとフィッツ先輩と目が合うと、先輩はなぜか少し複雑そうな表情をしていた。
◇
大学生活が始まって一週間。
俺は転移現象に関する一般資料を読みながら、ザノバとの人形制作の準備を進め、特別生向けの授業にも出席していた。
フィッツ先輩とは、図書館や実習場で顔を合わせることが多い。
ザノバとの人形制作はまだ材料の選定段階で、土や石、木、陶器といった材質ごとの強度や、魔術による加工のしやすさを調べているところだった。
ザノバにはいきなり人形を作らせず、まず小さな板や球体を壊さずに持つ練習から始めさせた。
初日は用意した粘土の塊を指先だけで潰し、二日目には薄い木片を持った瞬間に折った。それでも三日目になると、ようやく陶器の小皿をひび一つ入れずに机から持ち上げることに成功した。
「できましたぞ、師匠!」
「まだ、持ち上げただけです」
「昨日までは、それすらできなかったのです!」
「確かに進歩しています」
ザノバの喜び方は大げさだったが、物を壊さないよう自分の力を抑える練習は、人形制作だけでなく人と接する時にも役立つはずだ。
俺が作ったルイジェルド人形も、一度だけ見せた。
ザノバは机の反対側から顔や槍、衣服の形を食い入るように観察していたものの、触らせてほしいとは言わなかった。
「持たなくてよいのですか?」
俺が尋ねると、ザノバは苦しそうに両手を握った。
「持ちたいです」
「では?」
「今の余が触れれば、壊す可能性がございます」
自分から我慢した。
シーローンで出会ったばかりの頃なら、できなかったかもしれない。
「いつか、壊さずに持てるようになりましょう」
「はい!」
ザノバは、俺が思っていた以上に変わっていた。
まだ危うい部分はあるし、普通の人間なら自然に理解していることを知らない場合も多い。それでも、自分が壊してしまう可能性を理解し、その欲求を抑えようとしている。
本当に変わろうとしているのだ。
その姿を見ていると、師匠と呼ばれることへの気恥ずかしさと同時に、責任のようなものも感じる。
ザノバは、俺の言葉を信じている。
ならば俺も、間違った方向へ導かないようにしなければならない。
一方、レイネは俺よりも広い範囲の授業へ参加していた。
治癒魔術だけでなく、薬草学や魔力循環、剣術、魔物生態なども学び、時折教師から頼まれて初級者の実技を補助することまである。
そして、その結果として、ザノバの予想は完全に的中した。
入学から三日目には、剣術の授業を終えたレイネへ一人の男子学生が食事を申し込んだ。
五日目には女子寮の受付へ三通の手紙が届けられ、六日目になると治癒魔術の授業を受けていた上級生が「研究について話し合いたい」という理由で近づき、そのまま交際を申し込んだ。
一週間を過ぎる頃には、レイネの部屋へ届けられた手紙は十通を超え、食堂や廊下で男子学生から声を掛けられることも珍しくなくなっていた。
最初のうちは、俺も大したことではないと思っていた。
レイネが断れば、相手も諦める。それだけのことだと考えていたのだ。
だが、二人目、三人目と続くにつれて、声を掛けられているレイネを見るたびに胸へ落ち着かない感覚が残るようになった。
別に、相手へ怒っているわけではない。
レイネへ好意を抱くこと自体は自然なことだと思う。
それなのに、誰かがレイネの隣へ立ち、俺の知らない話をして、俺の知らない表情を引き出すかもしれないと想像すると、心のどこかがざわつく。
レイネ本人は、最初の数日、その大半を純粋な親切や学業上の誘いだと思っていた。
しかし、さすがに何度も続けば相手の意図を理解する。
そして、その日の朝。
「こちらを受け取ってください!」
女子寮から出てきたレイネへ、一人の男子学生が封筒を差し出した。
「こちらは?」
「手紙です!」
「授業に関するご連絡でしょうか」
「違います!」
男子学生の顔は真っ赤だった。
レイネは封筒と相手の顔を見比べる。
「個人的な内容であるなら、この場で概要を伺ってもよろしいでしょうか」
「概要を?」
「受け取った後で、私が対応できない内容だと判明するより、事前に確認した方がよいと考えます」
男子学生の顔が、さらに赤くなる。
「す、好きです!」
周囲の学生たちが足を止めた。
レイネは僅かに目を見開く。
「僕と、付き合ってください!」
俺が把握しているだけでも、これが四人目の告白だった。
男子学生の声を聞いた瞬間、胸の奥が僅かに固くなった。
レイネは断るだろう。
これまでにも断っているのだから、今回も同じだと分かっている。
それなのに、返事を聞くまでの短い時間が妙に長く感じられた。
「お気持ちをお伝えくださり、ありがとうございます」
レイネは、相手から目を逸らさなかった。
「ですが、申し訳ございません。お受けすることはできません」
その言葉を聞いた途端、胸の奥へ入っていた力が抜けた。
俺は自分が安心したのだと気づき、そのこと自体へ戸惑った。
レイネが誰と付き合うかは、彼女自身の自由であるはずなのに。
「どうしてですか?」
男子学生が尋ねる。
「私は、あなたと恋愛関係を結ぶ意思がございません」
「今は僕のことを知らないからですよね? なら、これから知ってもらえれば――」
「いいえ」
レイネは穏やかに言葉を遮った。
「あなたについて知る機会が増えたとしても、お返事を変えるつもりはございません」
「ほかに、好きな人がいるのですか?」
俺の心臓が小さく跳ねた。
レイネは、すぐには答えなかった。
「それは、今回のお返事とは関係のない、私個人の事情でございます」
否定しなかったものの、肯定したわけでもない。
それでも、一度胸へ生まれた疑問は消えてくれなかった。
「でも……」
「あなたのお気持ちへお応えできない理由を、別の方の存在へ求めるつもりはございません」
レイネの声は静かだが、曖昧な期待を残すものでもなかった。
「私自身が、あなたとの交際を望んでおりません。それが、お断りする理由でございます」
男子学生は俯いた。
しばらく何も言わなかったが、やがて小さく頭を下げる。
「分かりました。すみません」
「謝罪は必要ございません」
「手紙は、処分してください」
「承知いたしました」
男子学生が去っていき、周囲で見ていた学生たちも少しずつ散っていく。
俺はレイネへ近づいた。
「大丈夫ですか?」
「はい」
「困っていませんか?」
「どのようにお断りすれば、必要以上に相手を傷つけず、誤解も残さないかについては悩んでおります」
「今の答えでよかったと思います」
「ありがとうございます」
レイネは手元の封筒を見た。
「お返しした方がよかったでしょうか」
「本人が処分してほしいと言ったのであれば、そのとおりにすればよいと思います」
「では、女子寮へ戻った後に処分いたします」
少し迷った末に、俺は尋ねた。
「告白されること自体は、嫌ではないのですか?」
口にしてから、踏み込みすぎたかもしれないと思った。
レイネも、すぐには答えなかった。
「どなたかが好意をお伝えくださることを、不快だとは考えておりません」
少し考えてから、続ける。
「ですが、私がお断りした後も、返事を変えるよう求められることには困惑いたします」
「その時は、もっと強く断ってもよいと思います」
「相手を傷つける可能性がございます」
「断られれば、傷つくことはあるでしょう」
俺は言葉を選びながら伝える。
「ですが、レイネが相手を傷つけたくないからと、望んでいない関係を受け入れる必要はありません」
レイネは俺を見た後、小さく頷いた。
「はい。今後は、もう少し早く、明確にお断りいたします」
「それがよいと思います」
レイネの恋愛は、あくまでレイネ自身のものだ。
俺が家族であっても、彼女へ恋をしていたとしても、相手を選ぶ権利まではない。
それは理解している。
だからこそ、先ほどレイネが断ったことへ安心してしまった自分が、少し恥ずかしかった。
レイネには誰か好きな人がいるのか、そもそも恋愛そのものを望んでいるのか。
聞きたい。
けれど、それはレイネ自身が話したいと思うまで、俺から尋ねるべきことではない。
俺は胸に残った疑問を、そのまま飲み込んだ。
◇
その日の昼、エリナリーゼと一緒に食事をしていると、彼女が楽しそうに笑った。
「レイネ、また告白されたそうね」
「なぜ、既にご存じなのでしょうか」
「女子寮では、その話でもちきりですわよ」
レイネが小さく息を吐く。
「入学して十日も経っていないのに、直接告白した男子が四人。恋文は十二通。食事や散歩へ誘った者は、それ以上でしょう?」
「正確に数えておりません」
「男子学生の間では、誰が最初にレイネと親しくなれるかという話まで出ているそうですわ」
「そのような競争へ、私を巻き込まないでいただきたいのですが」
「あなたが直接言えば、大半は諦めるでしょうね」
「既に、お受けするつもりはないとお伝えしております」
「今日の断り方は、かなり明確だったそうですわね」
「ご覧になっていたのですか?」
「見ていた女子学生から聞いたんですの」
エリナリーゼはレイネの顔を観察した。
「断る時に、必要以上の罪悪感を持つ必要はありませんわ。相手の気持ちへ応える義務はないもの」
「はい」
「曖昧に優しくする方が、後で深く傷つけることもあるわ」
「今回の伝え方で、問題はなかったでしょうか」
「十分ですわ。あなたにしては、かなり上手だったと思います」
「私にしては?」
「以前なら、きっと『お受けする必要性を感じません』だけで終わっていたでしょう?」
レイネは否定しなかった。
俺も、以前の彼女なら本当に言いそうだと思った。
「それにしても、よくこれだけ集まるものですわね」
エリナリーゼが周囲の男子学生を見回す。
「外見だけではないでしょう。授業では親切で、困っている人を見れば助ける。強くて、頭もよくて、それでいて本人は自分がどれほど目立つか分かっていないもの」
「私は、必要な対応を行っているだけでございます」
「そういうところも含めて、人気が出るのよ」
レイネは納得できない様子だった。
俺にも、男子学生たちの気持ちそのものは理解できる。
レイネは美しいだけではなく、以前より人から向けられる言葉を受け止め、自分の気持ちを相手へ返せるようになった。
遠くから眺めるだけの冷たい美少女ではない。
話しかければきちんと答えてくれるし、誰かが困っていれば助ける。時には自然に笑うことだってある。
好意を抱く者が増えること自体は、何も不思議ではない。
分かっているはずなのに、次は誰が声を掛けるのだろうと考えてしまう。
レイネは次も断るのだろうか。
それとも、いつかは断らない相手が現れるのだろうか。
そんなことまで考えている自分に気づいた。
「ルーデウス君は、心配ではありませんの?」
エリナリーゼが尋ねる。
「何がですか?」
分かっていながら聞き返した。
「レイネを好きな男が、これだけ増えていることで」
「レイネ自身が断れるなら、僕が口を挟むことではありません」
「本当に?」
エリナリーゼの視線が俺の顔を探る。
取り繕っても、簡単に見抜かれそうだった。
「しつこく付きまとったり、危険なことをしたりするなら止めます。でも、好意を伝えるだけなら、その人の自由です」
これは本心だった。
ただし、俺の気持ちの全てではない。
「でも、少し寂しいとは思っているでしょう?」
逃げられない聞き方だった。
俺は少しだけ迷った末、正直に答える。
「……少しは」
レイネが俺の知らない人と親しくなり、俺のそばにいる時間が減って、誰かへ俺の知らない笑顔を見せる。
そう考えれば、当然寂しい。
それだけではなく、胸の中にはレイネを手放したくないという感情もある。
おそらく、それは単なる寂しさではないのだろう。
すでに俺はレイネを好きだと自覚している。
ならば、彼女の気持ちがほかの男へ向けられる可能性を考えるだけで落ち着かなくなる感情は、嫉妬と呼ぶべきなのだと思う。
ただ、俺はエリスへ「待つ」と約束しており、レイネ本人には自分の気持ちさえまだ伝えていない。
そんな俺が、自分だけはレイネにほかの誰も選んでほしくないと思うのは、あまりにも身勝手だ。
「寂しいからといって、止める理由にはなりません」
口にすると、少しだけ胸が痛んだ。
正しい言葉だとは思う。
けれど、いつか本当にレイネが誰かを選ぶ日が来た時、同じ言葉を平然と口にできるかどうかは分からなかった。
「そう」
エリナリーゼは満足そうに微笑んだ。
レイネは俺の言葉を黙って聞いた後、
「ありがとうございます、ルーデウス様」
と頭を下げた。
「何がですか?」
「私自身で決められると、信じてくださっていることにございます」
「はい」
「今後も、自分でお断りいたします」
その言葉を聞いて、また少しだけ安心してしまう。
俺はその感情が表情へ出ないようにした。
「困った時は相談してください」
「その時は、お願いいたします」
俺が代わりに答えを決めるのではなく、レイネが自分で決めるため、必要な時だけ手を貸す。
少なくとも今は、それでよいのだと自分へ言い聞かせた。
◇
大学へ入ってから、俺は何度もフィッツ先輩へ奇妙な懐かしさを覚えていた。
声だけではない。
無詠唱魔術を使う時の魔力の流れや、困った時に右手の指先を僅かに握る癖、本を読む際に分からない部分へ小さく印をつけ、後からまとめて調べる方法まで、俺が幼い頃にシルフィへ教えたことと妙に似ている。
最初は偶然だと思おうとした。
フィッツ先輩は男性として振る舞っており、髪も白く、声だって記憶の中のシルフィとは少し違う。何より、今の彼はアスラ王国第二王女の護衛だ。
ブエナ村で別れたシルフィと結びつけるには、違う部分があまりにも多い。
ところが、同時に似ている部分も多すぎた。
ある日、図書館で転移事件の記録を探していた俺は、高い位置にある本へ手を伸ばした。
その時、横から風が吹き、本が棚から静かに抜けて俺の手元まで下りてくる。
「これですよね?」
振り返れば、フィッツ先輩が立っていた。
「ありがとうございます」
「脚立を使った方が安全ですよ」
「これぐらいなら、届くと思ったのですが」
「昔から、無理に手を伸ばす癖があるんですか?」
「昔から」という言葉を口にした直後、フィッツ先輩は僅かに身体を固くした。
俺の胸の奥にも、何かが引っ掛かる。
「昔から?」
聞き返すと、先輩は少し慌てたように答えた。
「いえ。そういう人なのかなと思って」
「そうかもしれません」
その場では流したものの、言葉はずっと心へ残った。
知り合って間もないフィッツ先輩が、どうして俺へ「昔から」という表現を使ったのだろう。
また別の日には、魔術実習場でフィッツ先輩と魔力制御について話していた。
「水球を維持したまま、形だけを変える練習をしたことはありますか?」
「あります」
「誰に教わったのですか?」
「昔、知り合いに」
「どのような方です?」
「とても大切な人です」
先輩は俺を見ながら答えた。
濃色の眼鏡で目元までは見えなかったが、声が僅かに震えていることには気づいた。
「今も会うのですか?」
「会っています」
「近くに?」
「はい」
そこまで答えたところで、先輩は話題を変えた。
昔から知っていて、とても大切で、今も近くにいる人。
その言葉が妙に胸へ残った。
さらに別の日、俺が転移事件の資料を読みすぎて昼食さえ忘れていた時には、フィッツ先輩がパンと温かいスープを持ってきた。
「食べてください」
「なぜ、僕が食べていないと?」
「朝から図書館にいたでしょう」
「見ていたのですか?」
「偶然です」
レイネから同じことをされても、何も不思議には思わない。
しかし、フィッツ先輩と俺が知り合ってから、まだ十日程度しか経っていない。
なぜ、ここまで俺を気に掛けるのだろう。
単に親切な人だからかもしれないし、アリエルから頼まれている可能性もある。入学試験で戦った相手だから気になるということも考えられる。
理由はいくつも思いつくのに、どれもしっくりこなかった。
「フィッツ先輩」
「はい」
「以前、僕と会ったことがありますか?」
先輩の手が止まった。
ほんの一瞬の反応だったが、俺は見逃さなかった。
「どうして、そう思うんですか?」
「分かりません。ただ、初めて会ったような気がしないのです」
フィッツ先輩は黙り込んだ。
俺の胸の鼓動も、僅かに速くなる。
自分でも何を期待しているのか完全には分からないまま、それでも何かを期待しているのだ。
やがてフィッツ先輩は小さく笑った。
「僕は有名ですから、どこかで噂を聞いたのかもしれません」
「そうでしょうか」
「きっと、そうです」
明らかに何かを隠している。
ただし、それが悪意によるものだとは思えなかったし、俺を害するためでもないことは、レイネからも保証されている。
それどころか、フィッツ先輩自身が何かを俺へ伝えようとして、その直前で止めているように見えた。
その夜、俺は机へ紙を広げ、フィッツ先輩について気づいたことを書き出した。
無詠唱魔術と治癒魔術を使い、風魔術を好む。俺の生活習慣を以前から知っているような発言があり、昔からの知り合いを思わせる言葉も何度か口にした。
何より、レイネが正体を知っているらしい。
声を聞けば妙に懐かしく感じるうえ、髪は白い。
こうして一つずつ整理していくほど、最初はあり得ないと思っていた可能性が、少しずつ形を持ち始めた。
シルフィの髪は、確かに緑色だった。
しかし、転移事件の影響で髪の色が変わった可能性はないのだろうか。
俺自身が魔力災害について調べている中で、強い魔力や恐怖によって身体へ何らかの変化が生じる可能性は、完全には否定できないと知っている。
男装と濃色の眼鏡、そして王女の護衛という立場も、正体を隠すためだと考えれば説明できる。
「まさか……」
思わず声へ出した。
それでも、まだ名前までは口にできなかった。
期待が大きくなりすぎることが怖かったのだ。
シルフィは、ブエナ村で別れた俺の幼馴染だ。
転移事件の後、ずっと安否が分からなかった少女であり、何度も無事でいてほしいと願い、どこかで生きていると信じてきた。
けれど、見つからない時間が長くなるほど、その願いを強く口にすることが怖くなった。
期待した分だけ、失望することが怖かったからだ。
もしフィッツ先輩がシルフィではなかったら、先輩本人へ失礼なだけでなく、俺はもう一度シルフィを失ったような気持ちになるかもしれない。
それでも、今度は確かめたい。
逃げずに、目の前の相手へ向き合いたい。
俺は立ち上がった。
明日、フィッツ先輩を捜そう。
シルフィ視点
「明日、ルディに話します」
シルフィが告げても、アリエルとルークはすぐには答えなかった。
夕食を終えた後の、アリエルへ与えられた居室。
シルフィはフィッツとして使っている眼鏡を外しており、レイネも同席している。
「決めたのですね」
アリエルが尋ねた。
「はい」
「本当に?」
「怖いです」
シルフィは正直に答えた。
「ルディが僕のことを忘れていたら、どうしようと思います。男だと思っていた相手が昔の友達だったと分かって、怒るかもしれません」
「怒らないと考えます」
レイネが答えた後、すぐに少しだけ言葉を足した。
「ですが、私が断定することではございません」
「分かっています」
シルフィは自分の手を握った。
「ルディは、僕のことを何度も気にしてくれました。声や魔術を覚えていてくれた。以前に会ったことがあるのではないかと、聞いてくれました」
「既に、かなり疑っているのではないか?」
ルークが言う。
「そうかもしれません」
そう考えると、少しだけうれしかった。
ルディが自分の声や癖を覚えていて、髪も名前も違う現在の自分を見ながら、それでも懐かしいと思ってくれた。
ただ、うれしさと同じくらい、怖さも大きくなっていた。
気づきかけているからこそ、自分の口で正体を伝えた時、ルディがどのような顔をするのかを想像してしまう。
「なら、なおさら早く言うべきだ。後から、自分だけが知らされていなかったと分かれば、傷つく可能性もある」
ルークの言葉は厳しいが、間違ってはいない。
「レイネ」
シルフィが呼ぶ。
「はい、シルフィ」
ここには事情を知る者しかいないため、レイネも昔の名前で呼んだ。
その呼び方を聞くだけで、少し安心する。
フィッツという護衛魔術師でも、アリエルの護衛でもなく、ブエナ村にいた頃の自分へ戻れるような気がした。
「明日、近くにいてくれますか?」
「お近くで待機いたします」
「同じ場所には?」
レイネは少し考えた。
「最初は、お二人だけでお話しした方がよいと考えます」
「やっぱり?」
「シルフィご自身の言葉で、ルーデウス様へお伝えする必要がございます」
それは分かっていた。
レイネへ代わりに説明してもらうことはできない。
それでも、同じ場所にレイネがいてくれれば、怖くなった時に逃げずに済むかもしれないと考えていた。
けれど、ルディへ伝えたいと思っているのは自分自身だ。
ならば、自分の言葉で伝えなければならない。
「もし、僕が何も言えなくなったら?」
「その時は、お呼びください」
「来てくれる?」
「はい」
答えに迷いはなかった。
シルフィは頷いた。
「明日の授業が終わった後、ルディを探します」
「場所は決めているのですか?」
アリエルが尋ねる。
「古い実習棟の裏に、小さな中庭があります。人もほとんど来ません」
「分かりました」
アリエルは柔らかく微笑んだ。
「私は、あなたが自分から話すと決めるのを待っていました」
「遅くなって、すみません」
「謝ることではありません」
「アリエル様にも、たくさん心配を掛けました」
「なら、話し終えた後に報告へ来てください。それで十分です」
シルフィは深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
明日、ルディへ話す。
自分がシルフィであることも、ずっと会いたかったことも、忘れられているのが怖くて名乗れなかったことも、自分の口で伝える。
まだ、好きだという気持ちまで話せるかどうかは分からない。
それでも少なくとも、正体だけはもう隠さない。
明日を逃せば、また怖くなって先延ばしにしてしまうかもしれない。
だから今度こそ、自分の言葉で伝えるのだ。
ルーデウス視点
翌日の授業が終わると、俺はすぐにフィッツ先輩を探し始めた。
まず特別生の教室へ行ったが、いない。
次に図書館を確認しても見つからず、魔術実習場にも姿はなかった。
探す場所が増えるほど、胸の中にある期待と不安も大きくなっていく。
見つけた後、何と聞けばよいのだろう。
本当にシルフィなのかと、いきなり尋ねてよいのか。
もし違っていたら、どう謝ればよいのか。
頭の中で同じ考えを何度も繰り返しながら、アリエルの使用している区画へ向かおうとしたところでルーク先輩と会った。
「フィッツ先輩を知りませんか?」
「フィッツなら、先ほどお前を探しに行ったぞ」
「僕を?」
心臓が大きく鳴った。
「ああ。何か、大事な話があるらしい」
大事な話という言葉だけで、期待が一気に膨らむ。
「どこへ?」
「男子寮か、図書館を見に行くと言っていた」
どうやら行き違ったらしい。
俺は来た道を戻った。
廊下にはほかの学生もいるため走りはしなかったが、歩く速度は自然と上がっていく。
中央校舎を抜け、図書館へ向かう道へ出たところで、前方に白い髪が見えた。
フィッツ先輩だ。
胸が詰まる。
先輩も俺を見つけ、その場で足を止めた。
少し離れた場所から互いを見たまま、
「フィッツ先輩」
「ルーデウス君」
と同時に名前を呼ぶ。
「探していました」
次の言葉まで重なった。
フィッツ先輩が僅かに笑ったが、その表情には明らかな緊張があった。
先輩も俺と同じように、不安を抱えているように見える。
「話したいことがあります」
「僕もです」
「人の少ない場所へ行きませんか?」
「はい」
フィッツ先輩に案内され、古い実習棟の裏へ向かった。
そこには使われなくなった小さな中庭があり、周囲を低い石壁と木々に囲まれているため、人の気配もほとんどない。
フィッツ先輩は中庭の中央で立ち止まり、俺も少し後ろで足を止めた。
ここまで来たのだから、もう逃げる理由はない。
「先輩から、話してもらってよいですか?」
俺が言う。
「はい」
返事はしたものの、先輩はその先を続けることができなかった。
手が震えている。
何かを言おうとするたびに、唇だけが僅かに動いて声にならない。
「急がなくて大丈夫です」
「……ありがとうございます」
一度深呼吸をしても、やはり声は出なかった。
俺も、ただ待っているだけではいけないのかもしれない。
先輩一人へ、この場の全てを背負わせる必要はない。
俺は先輩の正面へ立った。
「では、僕から一つだけ聞いてもよいでしょうか」
「はい」
「違っていたら、謝ります」
先輩の肩が僅かに揺れた。
俺の喉も乾いている。
期待しているし、同時に怖がっている。
もし違っていたら、もう一度シルフィを失ったような気持ちになるかもしれない。
それでも聞かなければ、ずっと疑い続けることになる。
「フィッツ先輩は――」
名前を口にする直前、ブエナ村の景色が頭へ浮かんだ。
一緒に魔術を練習した草原や、俺の後ろへ隠れていた小さな姿、初めて無詠唱魔術を成功させた時の笑顔。
そして、別れの日に泣いていたシルフィ。
もう二度と、何も伝えられないまま離れたくない。
「シルフィですか?」
フィッツ先輩が息を止めた。
長い沈黙の間、白い髪だけが風に揺れている。
否定されない。
それだけで、胸が苦しくなるほど鼓動が速くなった。
やがて先輩の手が濃色の眼鏡へ触れ、ゆっくりと外した。
眼鏡の下から現れたのは、涙で濡れた瞳だった。
記憶の中にいるシルフィより、ずっと大人びている。
顔立ちも変わり、髪の色さえ違う。
それでも、目の前にいるのは間違いなく、ブエナ村で俺と一緒に魔術を練習していた少女だった。
泣き虫で、優しくて、俺がずっと無事を願っていたシルフィだ。
「うん」
声が震えている。
「僕、シルフィだよ」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かが崩れた。
長い間、失ったとは思わないようにして、期待すれば傷つくからと心の奥へ押し込めてきたものが一気に溢れ出し、それと同時に、ずっと欠けていた何かが戻ってきたように感じた。
「本当に?」
自分でも分かるほど声が震えた。
「うん」
「シルフィ?」
目の前にいるのに、それでも確かめずにはいられなかった。
名前を呼べば消えてしまうのではないかとさえ思った。
「うん、ルディ」
昔と同じ呼び方だった。
それを聞いた瞬間、もう疑う余地はなかった。
本当にシルフィだ。
生きて、俺の目の前にいる。
「生きていたんですね」
「ルディも」
笑おうとしたのに、声がうまく出なかった。
目の奥が熱くなり、視界が僅かに滲む。
「ずっと、心配していました」
何度も捜し、どこかに手掛かりがないか考えた。
それでも見つけられず、無事だと信じようとしながら、最悪の可能性を考えたことだってある。
「僕も、会いたかった」
シルフィの声を聞けば聞くほど、胸が痛くなる。
うれしいのに、それだけではなかった。
会えなかった時間が、あまりにも長かった。
「どうして、すぐに言ってくれなかったのですか?」
責めるつもりはなかった。
それでも、聞かずにはいられない。
もっと早く分かっていれば、入学試験の日からシルフィと呼べていたのに。
シルフィは俯いた。
「怖かったから」
「僕が?」
「忘れられているのが怖かった。フィッツとしてなら、ルディのそばにいられる。でも、シルフィだと言って、もう昔の友達じゃないと言われたら……」
胸が締めつけられた。
シルフィも同じように怖がっていたのだ。
俺が自分を忘れているかもしれない。
もう必要としていないかもしれない。
そんな不安を抱えたまま、ずっと俺の近くにいた。
「言いません」
思わず、すぐに言葉を重ねた。
「そんなことは、絶対に言いません」
シルフィが顔を上げる。
「でも、気づかなかった」
「髪も服装も名前も違います。男の人だと思っていました」
「やっぱり、男だと思ってた?」
「はい」
「そっか」
少しだけ落ち込んだ顔をした。
感情がそのまま表情へ出るところは、昔と同じだ。
それを見た瞬間、懐かしさが胸へ広がった。
「ですが、何度もシルフィに似ていると思いました」
「本当?」
顔が少し明るくなる。
「声や魔術、仕草、それに僕のことを昔から知っているような言い方もです」
一つずつ挙げていると、どうしてもっと早く気づけなかったのだろうと思う。
けれど、俺は最初からフィッツ先輩を男性だと思い込んでいたし、髪の色まで違っていた。アリエルの護衛という立場も、ブエナ村にいたシルフィとは簡単に結びつかなかった。
「だから、探してくれたの?」
「はい。もしかしたらと思って、今日、確かめようとしました」
俺は昨夜、机へ並べた手掛かりを思い出しながら答える。
「僕も、今日話そうと思って、ルディを探してた」
互いに、同じ日に相手を探していた。
少しタイミングがずれていれば、また行き違っていたかもしれない。
それでも今はこうして会えた。
ようやく同じ場所へたどり着けたのだ。
「レイネは知っていたんですね」
「うん」
「いつから?」
「入学試験の日に、すぐ気づいたって」
やはり、そうだったのか。
「レイネから聞こうとは思いませんでしたか?」
「聞きました。でも、シルフィ本人の事情だから話せないと言われました」
「怒った?」
「いいえ」
以前の俺なら、自分だけが知らされておらず、レイネだけが知っていたと分かれば、裏切られたように感じた可能性もある。
今は違う。
レイネが黙っていた理由を考えられる。
「シルフィが自分で話すことを、守ってくれたのだと思います」
「うん」
「レイネらしいです」
シルフィが小さく笑い、俺も笑った。
その後、何を言えばよいのか少し分からなくなった。
聞きたいことなら、いくらでもある。
転移事件の後にどこへ飛ばされたのか、どうして髪が白くなったのか、なぜアリエルの護衛をしているのか、どのような生活を送ってきたのか。
つらいことはなかったのか。
誰かに傷つけられなかったのか。
俺のいない間、どうやって生きてきたのか。
けれど、一度に全てを聞く必要はない。
シルフィはもう、行方の分からない誰かではない。
今ここにいて、明日も会える。
これから、いくらでも話す時間がある。
その当たり前のような事実が、今は何よりもうれしかった。
「シルフィ」
「うん」
「おかえりなさい」
シルフィの目から、涙がこぼれた。
「ただいま、ルディ」
俺は両腕を広げたものの、抱き締めてもよいのか一瞬迷った。
俺たちはもう幼い子供ではないし、シルフィにはシルフィの立場がある。
しかし、その迷いを見たのか、シルフィの方から一歩近づいて俺の胸へ顔を埋めた。
俺も、その背中へ腕を回した。
幼い頃より背が伸び、身体つきも変わっている。
腕の中にいるのは、記憶の中に残っていた小さな少女ではない。
それでも、抱き締めた時に感じる安心だけは、昔と同じだった。
本当にここにいる。
身体は温かく、確かに生きている。
「会いたかった」
シルフィが言う。
「僕もです」
その一言だけでは、到底足りなかった。
どれほど心配し、どれほど無事を願ったか、今すぐ全てを言葉へすることはできない。
そして、この気持ちが恋愛なのか、友情なのか、それとも家族へ向ける感情に近いのかも、今すぐ決める必要はないと思った。
俺の中にはエリスと交わした約束があり、レイネへの恋心も消えていない。
だからといって、シルフィと再会できた喜びが偽物になるわけでもない。
何か一つを選ぶために、今の感情へ無理に名前をつける必要はないのだ。
まずは、生きて再会できたことを心から喜びたかった。
「人前では、今までどおりフィッツ先輩と呼んだ方がよいですか?」
「うん。まだ、僕が女だってことは秘密だから」
「分かりました」
「二人だけの時は?」
「シルフィと呼びます」
口にすると、胸の中へ温かさが広がる。
もう、心の中だけで名前を呼ぶ必要はない。
「敬語も、やめてくれる?」
「努力します」
「レイネと同じことを言ってる」
シルフィが笑い、俺もつられて笑った。
泣いた後の笑顔ではあるが、昔よりも強く、柔らかく見えた。
ふと、中庭から少し離れた校舎の窓で、白い髪が一瞬だけ動いたように見えた。
おそらく、レイネは近くで待っていたのだろう。
心配だから近くにはいる。
けれど、俺たちが呼ぶまで姿を見せない。
入学試験の日にも、シルフィが自分の口で名乗る機会を守るために黙ってくれた。
今も同じように、俺たち二人の時間を守ってくれている。
「明日から、また話せますね」
「うん」
「今までのことも、少しずつ教えてください」
「ルディのことも聞きたい」
「長い話になります」
「僕もだよ」
長くていい。
一日で終わらなくても構わない。
これから話す時間があるのだから。
大学へ入って、まだ二週間も経っていない。
その短い間に、俺は約束していた弟子と再会し、新しい仲間たちと出会い、レイネが自分自身の学生生活を始める姿を見ることができた。
そして今日、失ったと思うことさえ怖くて心の奥へしまい込んでいた幼馴染とも、もう一度出会えた。
白い髪の護衛魔術師フィッツは、俺がずっと無事を願い続けていたシルフィだった。