ルーデウス視点
翌日、午前中の授業を終えた俺は、中央校舎の入口でフィッツ先輩と合流した。
昨日の俺たちは、互いの正体と無事を確かめるだけで精いっぱいだった。
ずっと行方の分からなかったフィッツ先輩がシルフィだったこと。シルフィが無事に生きていて、俺のことを忘れずにいてくれたこと。そして髪も名前も立場も変わりながら、巡り巡って俺と同じ大学へたどり着いていたこと。
そうした事実を受け止めるだけで胸がいっぱいになってしまい、転移事件が起きてから再会するまでの年月については、ほとんど何も話せていない。
だから別れ際に、これまでのことを少しずつ話そうと約束した。
今日が、その最初の日だった。
「お待たせしました、フィッツ先輩」
人通りのある廊下なので、これまでどおりの名で呼ぶ。
「いえ。僕も今来たところです」
シルフィも、護衛魔術師フィッツとして作っている低い声で答えた。
白い髪に濃色の眼鏡を掛け、身体の線を隠すような中性的な服装をしている。昨日までの俺なら、その姿を見ても、ブエナ村で一緒に魔術を練習していた少女と結びつけることはできなかっただろう。
しかし、正体を知った今では違う。
眼鏡の奥から俺を見つめている瞳も、何かを口にする直前に僅かに唇を結ぶ癖も、知ってしまえば全てがシルフィへとつながって見える。
どうしてもっと早く気づかなかったのだろう、という後悔がないわけではない。
けれど、シルフィ自身が正体を知られないために髪も名前も性別さえ隠していたのだ。分からなかった自分をいつまでも責めるより、今こうして確かめられたことを喜びたい。
「こちらです」
シルフィに案内され、俺たちは中央校舎から少し離れた古い研究棟へ向かった。
建物の裏側には使われなくなった小さな温室があり、窓の一部は割れ、入口には蔓草まで絡んでいるものの、その横に置かれた長椅子はまだ十分に使えそうだった。
昼休みだというのに、周囲には学生の姿もない。
「ここも、アリエル様から教えてもらったのですか?」
「うん。護衛の交代まで少し休みたい時に、使っていいって」
人目がないことを確認すると、シルフィは濃色の眼鏡を外し、フィッツとして作っていた低い声もやめた。
それだけで、フィッツ先輩から昔のシルフィへ戻ったように感じられる。
もちろん実際には、どちらも同じ一人の人間だ。
フィッツとして過ごしてきた年月だって、単なる演技として切り離せるものではない。俺の知らない年月の中で、シルフィ自身が身につけた新しい一面なのだろう。
そう分かっていても、昔と同じ声を聞くと、胸の奥がどうしようもなく温かくなった。
その時、声だけではなく、もう一つ変わっているものがあることに気づいた。
「そういえば、シルフィ」
「なに?」
「フィッツ先輩の時って、声だけではなくて、喋り方も変えているんですね」
「え?」
シルフィは一瞬、何を言われたのか分からないという顔をした。
「今は普通に『うん』って言いますけど、人前では僕にも『はい』とか『そうですね』って言うでしょう?」
「ああ……うん。そうだね」
言われて初めて意識したように、シルフィは少し考え込んだ。
「最初はね、声を低くするだけだったんだよ。でも、それだと時々いつもの喋り方が出ちゃって、アリエル様にも『もう少し普段と変えた方がいいかもしれませんね』って言われて」
「それで、今の話し方に?」
「うん。そっちの方が僕にはやりやすかったから」
シルフィはそこまで答えた後、何かを思い出したように小さく笑った。
「たぶん、レイネのせいもあると思う」
「レイネですか?」
予想していなかった名前が出た。
「小さい頃、ずっと近くにいたでしょう? レイネって、いつも丁寧に喋ってたから。僕も普段とは違う喋り方をしようって考えた時、ああいう感じが一番すぐに出てきたんだと思う」
言われてみれば、納得できる。
フィッツ先輩の口調は、レイネの言葉遣いをそのまま真似しているわけではない。レイネほどかしこまっているわけではないし、シルフィ自身の話し方もかなり残っている。
それでも、普段より丁寧に話し、言葉を荒くせずに相手との距離を少し置くところには、確かに似たものがあった。
ブエナ村にいた頃、シルフィは俺の家へ来れば、必ずと言っていいほどレイネとも顔を合わせていた。
俺にとって当たり前だったレイネの話し方は、シルフィにとっても幼い頃から聞き慣れたものだったのだ。
「では、フィッツ先輩の中には、少しだけレイネが入っているんですね」
「そう言われると、なんだか変な感じだけど……たぶん、ちょっとだけ」
「本人は知っているんですか?」
「言ったことないよ。わざわざ言うことでもないし」
「確かに」
俺が頷くと、シルフィも小さく笑った。
「でも、レイネが聞いたらちょっと喜ぶかもしれないね」
「どうでしょう。『そのような影響を与えていたとは存じませんでした』くらいは言いそうです」
「ふふっ、言いそう」
久しぶりに、ブエナ村にいた頃と変わらない声でシルフィが笑う。
その笑い方を聞きながら、俺も少しだけ嬉しくなった。
長い間、俺たちは離れていた。
俺の知らない場所でシルフィはフィッツとなり、アリエル様を守るための声や振る舞いを身につけた。
けれど、その新しい姿の中にさえ、ブエナ村で一緒に過ごしていた頃の記憶がほんの少し残っている。
離れていた時間の全てが、完全に断ち切られていたわけではなかったらしい。
「昨日の後、眠れた?」
シルフィが尋ねた。
「なかなか眠れませんでした」
「僕も」
シルフィは少し恥ずかしそうに笑う。
「目を閉じると、ルディに名前を呼んでもらったことを思い出して。それで、本当に会えたんだって思ったら、また泣いちゃって」
「僕も、何度か夢ではないかと考えました」
今朝目を覚ました瞬間、昨日の出来事は、シルフィへ会いたいという俺の願いが見せただけの夢だったのではないかと思った。
フィッツ先輩が眼鏡を外し、自分はシルフィだと告げた姿。抱き締めた身体の温かさ。そして耳元で聞いた「ただいま」という声。
そうした記憶を一つずつ思い返し、ようやく夢ではなかったのだと思えた。それでも、こうして本人をもう一度目の前にするまでは、胸の奥に小さな不安が残っていた。
「シルフィ」
「うん」
名前を呼べば、昨日と同じ返事が戻ってくる。
その短い声が胸へ染み込み、残っていた不安を少しずつ溶かしていった。
「本当に会えたんですね」
「もう何回目?」
「まだ何度か確認すると思います」
「仕方ないなあ」
困ったような口調なのに、シルフィはうれしそうに笑っていた。
俺たちは温室の横にある長椅子へ、少しだけ間を空けて腰を下ろした。
昨日は抱き締めることへ迷う余裕さえなかった。シルフィが生きていて、再会できたという喜びだけで身体が動いていた。
しかし今は、成長したシルフィという一人の女性の隣へ座っていることを、嫌でも意識してしまう。近すぎれば困らせるかもしれないし、かといって遠くへ離れすぎれば避けているように思われるかもしれない。
幼い頃は、そんなことを考えず当たり前のように隣へ座っていた。
こういう些細なところでも、失われた時間の長さを感じる。
「昨日、これまでのことを話すと約束しましたが」
「うん」
「どこから聞きたいですか?」
シルフィは膝の上で両手を組み、少し考えた。
「聞きたいことは、たくさんあるよ」
「僕もです」
「魔大陸のことも、レイネとどうやって再会したのかも。ルディのお父さんや、家族のことも……」
そこで一度言葉を止めてから、シルフィは続けた。
「エリスっていう人のことも、聞きたい」
最後の名前を口にした時だけ、声が僅かに硬くなった。
その変化に気づき、俺の胸にも緊張が生まれる。
シルフィが俺をどのように思っているのかは、まだ本人から聞いていない。
幼い頃に抱いていた感情が、何年もの歳月を経た今も同じ形で残っているとは限らない。それでも、エリスの名前を口にした時の声音を聞けば、本当に何も感じていないとは思えなかった。
だからといって、俺の方から勝手に答えを決めつけるわけにもいかない。
「全てを順番に話すと、今日だけでは終わりませんね」
「僕の話も長いよ」
「では、今日は大まかな経緯だけにしましょう。気になったところは、後から詳しく話すということで」
「うん」
離れていた年月の全てを、一日で埋める必要はない。
シルフィはもう、どこにいるかも分からない誰かではない。今日話せなかったことは明日に話せるし、それでも足りなければ、その次の日もある。
何年も会うことのできなかった相手へ、明日も会える。
当たり前のようなその事実が、俺には奇跡のように思えた。
「では、シルフィから聞かせてもらえますか?」
「僕から?」
「髪の色が変わった理由も、アリエル様の護衛になった経緯も、まだ詳しくは知りませんから」
シルフィは自分の白い髪へ触れ、少しだけ迷ってから静かに頷いた。
「分かった。転移事件が起きた直後から話すね」
◇
シルフィは、転移事件によってアスラ王国の王宮上空へ飛ばされた。
目を開けた時には地面が遥か下にあり、そのまま落下していたらしい。
「怖くて、最初は何も考えられなかった」
シルフィは膝の上で指を握り合わせた。
「でも、このままだと死ぬって思って。ルディから教えてもらった風魔術を使ったの」
落下しながら何度も風を起こし、少しずつ速度を弱めた。
それでも空中で完全に停止できたわけではなく、着地する直前には残っていた魔力のほとんどを使い切り、どうにか王宮の庭へ落ちたのだという。
話を聞いているうち、知らず知らずのうちに拳へ力が入っていた。
あの転移事件の直後、俺はエリスと一緒に魔大陸へ飛ばされたが、すぐにルイジェルドと出会うことができた。少なくとも、一人ではなかった。
シルフィは違う。
突然空中へ投げ出され、自分がどこにいるのかも分からず、助けてくれる人間もいない状態で一人きりだった。
もし一度でも判断を誤っていれば、あるいは恐怖に負けて魔術を使えなくなっていれば、今こうして俺の隣に座っているシルフィはいなかったかもしれない。
「よく……」
声が途中で詰まった。
一度息を整えてから、改めて口を開く。
「よく、生きていてくれました」
シルフィが少し驚いたように俺を見た。
「僕も、後から思い出すと怖くなるよ」
「僕が教えた魔術が、少しでも役に立ったのなら」
「少しじゃないよ」
シルフィは、はっきりと否定した。
「ルディが魔術を教えてくれなかったら、僕はあそこで死んでたと思う」
自分が教えた魔術によって、シルフィが生き延びることができた。
そのことは、もちろんうれしい。
けれど同時に、それは幼いシルフィが、かつて俺から教えられた魔術だけを頼りに、生死の境へ放り込まれたということでもある。
その時、俺はそこにいなかった。
助けることもできなければ、怖がっているシルフィの手を握ってやることすらできなかった。
過ぎたことをいくら悔やんでも変わらないとは分かっている。それでも、俺は言わずにはいられなかった。
「一人で、よく頑張りましたね」
その言葉を聞いたシルフィの瞳が、僅かに潤んだ。
「うん」
小さく頷いた後、シルフィは呟いた。
「怖かったよ、ルディ」
その一言が、胸へ深く刺さった。
俺は長椅子の上へ、手のひらを上にして手を置いた。
勝手に触れるのではなく、シルフィ自身に選んでもらえるように。
シルフィは俺の手をしばらく見つめた後、そっと指先を重ねてきた。
強く握り合うほどではなく、互いに触れていることが分かる程度の接触だった。それでも、指先から伝わる温かさだけで胸の奥が締めつけられる。
「話してくれて、ありがとうございます」
「うん」
魔力を限界まで消耗した影響なのか、目を覚ました時には、もともと緑色だった髪が白く変わっていたらしい。
「身体に、ほかの異常は?」
「最初は何日かまともに動けなかったけど、今は大丈夫だよ」
本人の言葉どおり、今のシルフィの身体に目立った異常があるようには見えない。
ただ、髪の色まで変わるほど魔力を使い切った影響が、本当に何も残っていないのかまでは俺には分からなかった。
「後で、レイネにも相談してよいですか?」
「僕の身体のこと?」
「はい。もちろん、シルフィが嫌でなければ」
「うん。レイネなら大丈夫」
シルフィは迷うことなく答えた。
俺の知らない場所で、二人の間にもきちんと信頼関係が生まれている。
以前の俺なら、自分だけが知らないところで築かれた関係に寂しさばかりを感じたかもしれない。
けれど今は、俺がいない場所でも、シルフィに信頼できる相手がいたことを心強く思えた。
王宮の庭へ落ちた時、そこではアリエル王女が魔物に襲われていたという。
シルフィは落下を防ぐためにほとんどの魔力を使い切った直後だった。それでも残った力をかき集め、王女を襲っていた魔物を倒した。
「怖くなかったのですか?」
「怖かったよ」
シルフィは即答した。
「でも、僕が何もしなかったら、目の前にいる女の子が死んじゃうと思ったから」
その答えを聞いて、シルフィらしいと思った。
怖がることと、誰かのために動けないことは同じではない。
幼い頃のシルフィは、いじめられれば俺の後ろへ隠れることも多かったが、決して守られるだけの少女ではなかった。
誰かが傷つくことを嫌い、自分が怖くても必要な時には動くことのできる人だった。
俺の知らない年月の中で、その優しさは、誰かを実際に守れるほどの強さへ育っていったのだろう。
それを誇らしく思うと同時に、俺のいない場所でシルフィが成長したという事実には、ほんの少しだけ寂しさも覚えた。
もちろん、俺だってシルフィの知らない場所で変わっている。
彼女だけが昔のまま俺を待ち続けているはずなどない。
頭では分かっているのに、失われた時間の大きさを改めて感じずにはいられなかった。
その後、行く場所のなかったシルフィはアリエル王女に保護され、身体の治療を受けながら王宮で暮らすようになり、やがて王女の護衛魔術師となった。
シルフィを救命の功労者として公表すれば、アリエル王女を狙う勢力から次の標的として目をつけられる可能性がある。そのため出自と性別を伏せ、《フィッツ》という名前を使うことになったらしい。
「僕が女だってことも、ブエナ村から来たことも、ここでは秘密なの」
「アリエル様を狙う者へ、情報を与えないためですか?」
「うん。それに、僕の家族や、ルディとの関係を調べられて利用されるかもしれないから」
それからシルフィは、何度もアリエル王女を守るために戦ってきた。
夜中に王女の部屋へ侵入した暗殺者もいれば、食事へ毒を混ぜられたこともあり、王宮内で直接襲撃を受けたことさえあったという。
やがてアリエル王女の立場は悪化し、王宮に残り続けること自体が難しくなった。
そこでシルフィはルーク先輩たちとともにアスラ王国を離れ、現在は力を蓄え直すためにラノア魔法大学へ留学している。
「アリエル様のことを、大切に思っているのですね」
俺が言うと、シルフィは迷わず頷いた。
「うん。アリエル様が助けてくれなかったら、僕は行く場所がなかったから」
けれど、それだけではないことは声音からも分かった。
単なる恩義だけで結ばれているのではなく、共に危険を越え、日常を過ごし、互いに支え合う中で大切な関係を築いてきたのだ。
俺がエリスやレイネと旅の中で積み重ねてきたものがあるように、シルフィにも、俺の知らないところで築き上げた大切な関係がある。
そこには少し寂しさもあったが、それ以上に、シルフィがずっと孤独だったわけではないことがうれしかった。
「ずっと、戦っていたのですね」
「ずっとじゃないよ」
シルフィは少し困ったように笑う。
「アリエル様とお茶を飲んだり、ルーク先輩に剣を教えてもらったり。大学へ来てからは、魔術の勉強もできたよ」
「楽しい時間もありましたか?」
「うん」
その返事を聞いて、僅かに肩の力が抜けた。
シルフィが過ごしてきた年月は、苦しみだけで塗りつぶされたものではない。
ちゃんと笑えた日があり、安心して眠れる夜もあった。
それを知るだけで、少し救われたような気持ちになった。
「次は、ルディのことを聞かせて」
「分かりました」
◇
俺は、ロアでエリスの家庭教師となったところから、現在までの出来事を大まかに話した。
最初はエリスと衝突してばかりだったが、読み書きや魔術を教え、ギレーヌから剣術を学ぶ中で、少しずつ互いを知っていったこと。
そして転移事件によってエリスと一緒に魔大陸へ飛ばされ、そこでスペルド族のルイジェルドと出会い、三人で《デッドエンド》を名乗って中央大陸を目指したことも話した。
「レイネは、どこへ飛ばされたの?」
「ミリス大陸側です」
「そこから、どうやってルディたちを見つけたの?」
「お守りです」
胸元へ手を伸ばしかけて、途中で止めた。
かつてそこには、レイネから渡されたお守りがあった。
今はもう手元に残っていないが、あの小さな飾りの感触は今でも指先に残っている。
「転移事件が起きる前、レイネは僕へお守りを持たせていました。あれを通じて、僕が生きていることと、レイネから見て大まかにどちらの方角にいるのかが分かったそうです」
「正確な場所まで?」
「いいえ。距離も方角も大まかなものです」
レイネは自分の転移先から安全な場所へ移動した後、地図とお守りが示す方角を照らし合わせたらしい。
その結果、俺たちが海を隔てた東側にいることを突き止め、さらに示される方角が少しずつ南へ動いていることから、魔大陸を南下していると推測した。
「それで、海を渡ってきたの?」
「はい。僕たちがウェンポートへ向かっていることを予想して、先に待っていてくれました」
俺たちが魔大陸を旅している間、レイネは遥か海の向こうから、お守りの示す方角を追い続けていた。
声も届かず、姿さえ見えない。
それでも、俺が生きていることだけは伝わっていた。
「ルディは、お守りにそんな機能があるって知ってたの?」
「再会するまでは知りませんでした」
「嫌じゃなかった?」
「嫌ではありませんでした。ただ、最初から教えてほしかったとは思いました」
レイネだけは俺が生きていると知ることができた一方で、俺にはレイネが生きているのかどうかさえ分からなかった。
ただ「迎えに行く」という昔の言葉だけを信じ、どこにいるかも分からない相手を待ち続けていた。
あの時の感情を思い出すと、今も胸の奥が僅かに痛む。
「そのことも、レイネへ話しました」
「怒ったの?」
「怒ってはいません。教えてほしかったと、正直に伝えました」
「レイネは?」
「謝りました。それから、僕に関わることを、僕がどう感じるか決めつけて隠さないと約束してくれました」
シルフィは何かを考えるように、自分の膝へ視線を落とした。
「レイネにも、ルディにどう思われるか怖くて、言えないことがあったんだね」
「はい」
「僕と同じだ」
相手の反応を恐れて、尋ねる前から自分の中だけで答えを作ってしまう。
それには俺にも覚えがある。
嫌われるのが怖く、傷つくことを恐れるあまり、相手へ向き合う前から最悪の答えを事実であるかのように扱ってしまうのだ。
「レイネと再会した後は、四人で旅を続けました」
そこから先は、獣族の子供たちを助けたこと、ミリシオンで父さんと再会して激しく衝突したこと、互いに何を抱えていたのかを話し、もう一度親子として向き合ったことを伝えた。
さらにシーローン王国でリーリャとアイシャを救出し、ザノバと出会ったことまで話していく。
全てを詳しく語れば何日あっても足りないため、出来事を羅列するだけではなく、その時に自分が何を感じたのかも、できるだけ伝えた。
父さんと衝突した時には、自分ばかりが苦労していると思い込んでいた。
けれど実際には、父さんも家族を失い、助けられなかった人々への責任を背負っていた。自分の痛みしか見えていなかったと気づいた時には、酷く恥ずかしかった。
リーリャとアイシャの無事を確認した時には、足から力が抜けそうになるほど安心した。
シルフィは途中で遮ることなく話を聞き、ときおり質問を挟みながら、驚いたり、怒ったり、安心したように表情を緩めたりした。
その一つ一つの反応を見るたび、本当にシルフィとこうして話しているのだという実感が増していった。
長い間、話したいことはたくさんあったはずなのに、相手がいない時間があまりにも長すぎて、いつしか何を伝えたいのかさえ考えなくなっていた。
今こうして少しずつ言葉へ変えていくことで、離れていた年月の間へ一本ずつ細い橋を架けているような気がした。
◇
話は、フィットア領へ帰還した後のことへ移った。
フィリップとヒルダが亡くなっていたことも、サウロスが処刑されていたことも話した。
故郷へ帰り着いたからといって、全てが元どおりになるわけではなかった。
家族を失ったエリスは、このままの自分では俺の隣に立てないと考えた。
「それで、エリスは剣の聖地へ行ったの?」
「はい」
「ルディへ何も言わずに?」
「いいえ」
俺は迷わず首を横へ振った。
その問いへ、こうして即座に否定できることがうれしかった。
エリスは消えなかった。
俺を残し、何も説明しないまま去ったわけではない。
「エリスは、きちんと話してくれました」
弱いままではいたくない。
俺と並んで戦えるほど強くなりたい。
守られるだけの存在ではなく、自分の意思で戻ってきたい。
エリスは、そう伝えてくれた。
「僕も、自分の気持ちを伝えました」
シルフィの手が、膝の上で僅かに強張った。
俺の胸にも緊張が走る。
これから話す言葉は、シルフィを傷つけるかもしれない。
それでも、ここで曖昧にしてしまえば、俺はシルフィが何も知らないことへ甘え、自分にとって都合のよい関係を作ることになる。
それだけはしたくなかった。
「どんな気持ち?」
ここだけは、絶対に曖昧にできない。
「僕は、エリスを愛しています」
言葉を口にした瞬間、シルフィの顔から笑みが消えた。
それを見れば胸は痛んだが、それでも視線は逸らさない。
「エリスも、僕を好きだと言ってくれました。今は剣の聖地で修行していますが、必ず強くなって戻ると約束しています」
「ルディは?」
「僕も、生きてエリスと再会すると約束しました」
エリスは町へ着くたびに伝言を残し、可能なら手紙を書く。怪我をした時だって、何も伝えずに消えるようなことはしない。
俺も無茶をして死ぬことなく母様を捜しながら、いつか帰ってくるエリスともう一度会う。
俺たちは、今すぐ結婚すると約束したわけでもなければ、一生何も変わらず待ち続けると決めたわけでもない。
エリス自身、未来の全てを今すぐ決めてほしいわけではないと言っていた。
それでも、互いに愛を伝え、生きて再会することを約束したという事実は変わらない。
その関係を、単に「恋人という言葉を使っていない」というだけで小さく見せることはできなかった。
「恋人なの?」
「恋人という呼び方を、明確に確認したわけではありません」
「でも、好きだって言い合ったんでしょう?」
「はい」
短い沈黙が落ちる。
先ほどまで重なっていた指先は、いつの間にか離れていた。
そのことへ寂しさを感じている自分に気づいた。
エリスを愛していると伝えながら、シルフィが離れたことを寂しいと思っている。
自分でも身勝手だと思う。
「ごめんなさい」
気づけば、そう言っていた。
シルフィが顔を上げる。
「どうしてルディが謝るの?」
「シルフィを傷つけたように見えたので」
「僕は、まだ何も言ってないよ」
「そうですね」
確かに、シルフィからはまだ何も言われていない。
それなのに俺は、心のどこかで「シルフィは今も自分を好きなのだ」と決めつけていた。
幼い頃、シルフィが俺へ向けていた気持ちは友情だけではなかったのかもしれない。
けれど、それから長い時間が経っている。
本人がまだ言葉にしていない感情を、俺が勝手に決めるべきではない。
「ルディが誰を好きでも、ルディの自由だよ」
シルフィは落ち着いた声で言った。
しかし、膝の上で握られた手は、まだ固いままだ。
「僕がいない間に、エリスはずっとルディと一緒にいたんでしょう?」
「はい」
「魔大陸でも?」
「ルイジェルドも一緒でした」
「そういう意味じゃないよ」
少しだけ拗ねたような声音だった。
その言い方が幼い頃のシルフィと重なり、懐かしい、かわいいという感情が胸に浮かんだものの、すぐに戸惑いへ変わる。
今は、その感情に名前をつける時ではない。
「エリスは、ルディを守った?」
「何度も」
「ルディも、エリスを?」
「はい」
「なら、好きになるのも仕方ないよね」
シルフィは、自分自身へ言い聞かせるように言った。
本当に納得しているわけではなく、それでも俺とエリスの関係を否定しないよう努めている。
それが分かるからこそ、胸が痛んだ。
「仕方ない、で納得しなくてもよいと思います」
「嫌だって言ったら、エリスを嫌いになってくれるの?」
「それはできません」
「なら、言っても仕方ないよ」
「何も変えられなくても、シルフィが何を感じているかを、なかったことにはしたくありません」
シルフィは黙り込んだ。
俺が傷つきたくないという理由で、シルフィへ感情を隠すよう求めるのは違う。
「嫌なら、そのまま伝えてください」
「……少し嫌」
しばらくして、ようやく小さな声が返ってきた。
「ルディが、ほかの女の子を好きなのは嫌」
胸の奥が強く痛んだ。
「ごめんなさい」
「だから、謝らないでよ」
シルフィの声が少しだけ強くなる。
「ルディが悪いことをしたみたいになるでしょう」
「ですが」
「僕が嫌だと思ってるだけ。エリスが悪いわけでも、ルディが悪いわけでもないよ」
自分が苦しい時でさえ、誰かを悪者にしないようにしている。
その優しさが、余計に胸を締めつけた。
「でも、嫌だと思ったことまで消す必要はないよね」
「はい」
「だから、少し嫌」
「分かりました」
「分かっただけ?」
「今は、それ以上の答えを持っていません」
誤魔化さずに答えた。
エリスへの気持ちを捨てることはできない。
かといって、シルフィを傷つけたいわけでもない。
その両方を同時に叶えられる都合のよい言葉など、今の俺には見つけられなかった。
「レイネのことは?」
次に出てきた質問は予想していたものの、実際に尋ねられると喉が僅かに乾いた。
「どういう意味でしょうか」
「ルディは、レイネのことをどう思ってるの?」
「家族です」
まず、最も揺らぐことのない部分を答えた。
「僕が生まれた時から、そばにいてくれました。守られ、教えられ、何度も助けてもらいました」
「家族としてだけ?」
シルフィは、そこで止めてくれなかった。
俺も嘘をつくつもりはない。
「それだけではありません」
そこから先を口にするまでには、僅かな時間が必要だった。
本人にさえ、まだ伝えていない言葉なのだ。
それを本人より先にシルフィへ話してよいのか、ただシルフィをさらに傷つけるだけではないのかという迷いはあった。
けれど、エリスについては正直に話しておきながら、レイネについてだけ曖昧にする方が、もっと不誠実だと思った。
「僕は、レイネを愛しています」
シルフィの瞳が大きく揺れた。
「レイネには?」
「伝えていません」
「どうして?」
俺は、すぐには答えられなかった。
以前の俺なら、明確な理由を答えられたはずだ。
俺とレイネの間には主従関係がある。
主人である俺から好きだと告げれば、レイネは自分の感情とは関係なく、俺の望みへ応えようとするかもしれない。
その状態で告白することは卑怯だから、レイネが自分の意思で選べるようになるまで待つ。
そう考えていた。
その考え自体が、全て間違っていたとは思わない。
実際、以前のレイネは自分の望みより俺の命令や安全を優先しており、俺が望めば、それだけで自分の人生を差し出そうとした可能性だってある。
しかし、最近のレイネは少しずつ変わっている。
カウンターアローのもとへ一人で行き、自分の言葉で彼らを仲間として信頼していると伝えた。
ゾルダートたちとの依頼にも、俺が行くからではなく、自分自身が学びたいから同行すると答えた。
大学でも常に俺のそばへ立ち続けるのではなく、自分が学びたい授業を選び、薬草学や治癒魔術の教師へ自分から会いに行っている。
エリナリーゼやシルフィとも、俺を介さずに関係を作り始めている。
つまりレイネは、すでに変わり始めているのだ。
俺が望んだとおり、自分の望みと俺からの命令を分けて考えられる人間になろうとしている。
それなのに俺は、いつまで「レイネ自身の意思が分からない」という言葉だけを理由に、何も伝えずにいるつもりなのだろう。
「以前は、僕が好きだと伝えれば、レイネは自分の気持ちとは関係なく受け入れるかもしれないと思っていました」
俺はゆっくりと言葉を選んだ。
「以前は?」
シルフィは、その言葉を聞き逃さなかった。
「はい」
「今は違うの?」
「完全に違うと、断言することはできません」
レイネが俺へ仕えることを大切に思っている事実は変わらないし、俺を守ることそのものを自分の生き方の一部にしていることも変わってはいない。
それでも、今のレイネには、それだけではない部分が生まれている。
「最近のレイネは、自分が何をしたいのかを、少しずつ言葉にするようになっています」
カウンターアローと話したい。
薬草を学びたい。
大学へ通いたい。
俺以外の人間とも、自分の関係を作りたい。
以前なら、そうした全ての望みへ「ルーデウスを守るために必要だから」という理由をつけていたかもしれない。
今では、自分自身が望んでいるからだと口にできるようになった。
「なら、レイネはもう、自分で選べるんじゃない?」
シルフィの問いは、思っていたよりも真っ直ぐだった。
「そうかもしれません」
「だったら、ルディが先に決めなくてもいいでしょう」
「先に決める?」
「レイネは、ルディから告白されたら命令だと思って受け入れる。だから告白しない方がいいって、ルディが決めてる」
その言葉が胸の奥へ深く入ってきた。
「それは、レイネの気持ちを大切にしているように見えるけど、レイネが何を選ぶかを聞く前に、ルディが答えを決めてるのと同じじゃない?」
反論しようとしたが、言葉が出なかった。
レイネの意思を尊重したいから、告白しない。
そう考えていた。
けれど、本人へ尋ねたことは一度もない。
レイネには自分の意思で答えられないと、俺自身が決めつけていたのだ。
以前のレイネであれば、その判断も必要だったのかもしれない。
だが、今もずっと同じだと考え続けることは、変わろうとしているレイネを、俺だけが昔の姿へ縛りつけることにならないだろうか。
「レイネに、選んでもらえばいいんじゃない?」
シルフィが言う。
「ルディが好きだって伝えて。それが命令じゃないって、ちゃんと説明して。それから、レイネ自身に考えてもらえばいいと思う」
「簡単に言いますね」
「簡単じゃないよ」
シルフィの声は、少しだけ寂しそうだった。
「好きな人に気持ちを伝えるのが怖いことぐらい、僕も知ってる」
その言葉の意味を、今ここで問い返すことはできなかった。
「僕は……」
言葉が喉の奥で止まる。
レイネへ告白する自分を想像しただけで、心臓が強く鳴った。
自分の気持ちを伝えたいという思いは、ずっと前から持っている。
しかし同じくらい、怖かった。
レイネが俺を愛しているとは限らない。
家族としては大切に思っていても、一人の男性として見ていない可能性もある。俺の告白を受け入れれば今の関係が壊れると考えるかもしれないし、あるいは俺から離れ、自分自身の人生を歩きたいと答えるかもしれない。
拒絶された時、俺は今までと同じようにレイネへ接することができるのだろうか。
傷つくのは俺だけではない。
告白したことでレイネを困らせ、今の居場所まで失わせ、侍女としてそばへ仕え続けることさえ苦しくさせてしまうかもしれない。
「怖いのです」
気づけば、正直な言葉が口から出ていた。
シルフィが静かに俺を見る。
「何が?」
「レイネの答えを聞くことが」
レイネの意思を尊重したいという思いは嘘ではなく、主従関係を利用したくないという考えも本心だ。
けれど、その正しさの陰へ隠れて、自分が拒絶される可能性から逃げていた部分もあったのかもしれない。
「レイネが僕を選ばなかった時、僕が今までどおりでいられるのか分かりません。告白したことで、レイネが僕のそばにいづらくなるかもしれない。それが怖いです」
「そっか」
「それに、エリスもいます」
「エリスとの約束があるから、告白できないの?」
「違います」
そこは、はっきりと否定した。
「エリスとの約束は、互いに生きて再会することです。ほかの誰かを愛してはならないとも、気持ちを伝えてはならないとも言われていません」
「なら、どうしてエリスが関係するの?」
「僕が二人を愛しているからです」
俺はエリスへ愛していると伝えた。
そして、レイネのことも愛している。
その二つがどちらも本当なら、いつか二人へ、自分自身が何を望んでいるのかを伝えなければならない。
どちらか一人だけを選ぶのか、それとも二人とも大切にしたいと願うのか。あるいは自分の望みを伝えたうえで、相手から「受け入れられない」と言われたなら、その結果を受け止めるのか。
今の俺は、まだそこまで明確な答えを持っていない。
「レイネへ好きだと伝えるだけなら、できるのかもしれません」
俺は自分の手を見た。
「ですが、その後に何を望んでいるのかと聞かれたら、僕は正確に答えられないと思います」
「エリスを嫌いにはならない?」
「なりません」
「レイネも諦めたくない?」
「はい」
「なら、それを言えばいいんじゃない?」
「そんな都合のよい話を、受け入れてほしいと頼むのですか?」
「受け入れてって頼むんじゃなくて、ルディが何を思っているかを話すの」
シルフィは自分の膝へ視線を落とした。
「相手がどう答えるかは、相手に選んでもらう。嫌だって言われたら、それも聞く」
つい先ほど、シルフィは俺がエリスを好きなのは嫌だと伝えた。
それでも、エリスを嫌いになってほしいとは言わなかった。
自分の感情を隠さず、それと同時に俺の感情まで奪おうとはしなかった。
「ルディは、相手を傷つけることを怖がりすぎて、何も言わないことがあるよね」
「否定できません」
「何も言わなければ、今の関係は壊れないかもしれない。でも、それで相手が何も知らないままになるのは、本当に優しいのかな」
優しさや慎重さ、相手への配慮という言葉を使えば、何も伝えないことをいくらでも正当化できる。
けれど、それは本当に相手のためなのだろうか。
本当は自分が傷つきたくなくて、拒絶されたくなくて、今の関係を失いたくないから、相手へ選択肢を渡さず、自分だけ安全な場所へ留まり続けているのではないか。
「レイネは、変わってきてるんでしょう?」
「はい」
「なら、ルディも、昔のレイネだけを見てたら駄目だよ」
その言葉が、胸の奥へはっきりと響いた。
俺はレイネが変わることを望み、俺を守るためだけではなく、自分自身のためにも生きてほしいと伝えてきた。
それなのに俺自身が、レイネの変化を完全には信じ切れていなかった。
「たぶん僕は、レイネの意思を尊重したいと言いながら、拒絶されることから逃げていたのだと思います」
ゆっくりと言葉にしてみると、胸の奥へ重く残っていたものの正体が、少しだけ見えた気がした。
シルフィはすぐには何も言わず、俺の言葉が自分の中で落ち着くまで待つように隣へ座っていた。
「すぐに告白する?」
やがて尋ねられた。
俺は考える。
この場を出た直後にレイネを呼び止め、勢いのまま好きだと告げる自分を想像した。
しかし、それは違うと思った。
シルフィから背中を押された、その勢いだけでレイネへ向き合うべきではない。
「まだ、今すぐではありません」
「やっぱり逃げる?」
「逃げないために、少し考えたいのです」
今までとは違う。
レイネには答えられないから告白しないのではない。
俺自身が何を伝え、何を望み、そしてどのような答えを返されたとしても受け止められるようにするため、その準備をしたい。
「レイネへ気持ちを伝えるなら、エリスがいることも、僕が迷っていることも隠しません。命令ではないことも、断っても関係を変える必要はないことも伝えたいです」
「断られても、侍女としてそばにいてって言うの?」
「それも、レイネ自身が選ぶことです」
口にした瞬間、さっきよりも怖さが増した。
レイネが俺から離れることを選ぶ可能性まで、認めなければならないからだ。
それでも、自分の気持ちを受け入れてほしいと求めながら、相手へ拒絶する自由を与えないわけにはいかない。
「怖いですけれど、レイネへ選んでもらうべきなのだと思います」
俺がそう続けると、シルフィは僅かに目を細めた。
少し寂しそうなのに、同時にどこか安心したような表情だった。
「そっか」
「ありがとうございます」
「僕は、何もしてないよ」
「自分だけでは気づけなかったことを、教えてもらいました」
「レイネへ告白するように言ったこと、後悔するかもしれないけどね」
冗談のように言ったが、その声は少しだけ震えていた。
「どうしてですか?」
「それは、まだ言わない」
「シルフィ」
「ずるいって言っても駄目。今日は、ルディが話す日だったから」
シルフィが何を言おうとしているのかは、もう全く分からないわけではない。
それでも、本人がまだ言えないと決めたことを、俺が先に言葉にしてしまうべきではなかった。
「分かりました」
「聞かないの?」
「シルフィが、自分で話したいと思った時に話してください」
「待ってくれる?」
「はい」
「ずっと待たれるのも困るね」
「急かした方がよいですか?」
「それも困る」
「難しいですね」
「うん」
シルフィが少しだけ笑った。
先ほどまで張りつめていた空気が、それで僅かに柔らかくなる。
もちろん、何かが解決したわけではない。
エリスへの気持ちも、レイネへの気持ちも、シルフィがまだ言葉にしていない気持ちも、全てそのまま残っている。
それでも、知らないふりを続けるよりは、ずっとよかったと思う。
「ルディ」
「はい」
「僕は、ルディとまた友達になれる?」
その質問を聞いた瞬間、胸が締めつけられた。
シルフィは、俺の中で自分との関係が一度途切れてしまったと思っていたのだろうか。
長い時間、会うこともできず、手紙すら送れず、互いの無事さえ知らなかった。
けれど俺にとって、シルフィは一度だって過去の人になってはいない。
「また、ではありません」
シルフィが目を瞬かせる。
「僕の中では、ずっと友達でした」
「会ってなかったのに?」
「会えなくても、友達でなくなったつもりはありません」
シルフィの瞳へ涙が浮かんだ。
それを見て、俺の目の奥も熱くなる。
昨日再会した時、二人で泣いた。
今日だって、泣きたければ泣けばいい。
会えなかった年月を、一日で全て笑い話へ変える必要などない。
「これからも?」
「もちろんです」
「フィッツとしている時も?」
「人前では、フィッツ先輩として接します」
「二人だけの時は?」
「シルフィです」
「うん」
シルフィは涙を浮かべたまま笑った。
昔と同じ面影を残しながら、それでも昔より少しだけ大人びた笑顔だった。
その表情を見ると、胸の中へ名前をつけられない温かさが広がっていく。
友情なのか、懐かしさなのか、家族へ向けるものに近い愛情なのか。それとも、まだ自分自身が認める準備のできていない別の感情なのか。
今は、無理に決める必要はない。
ただ、シルフィが生きていて、もう一度友人として隣にいられることを喜びたかった。
◇
午後の授業が終わった後、俺たちは中央校舎の廊下でレイネと合流した。
レイネは治癒魔術と薬草学の資料を抱えていた。
俺とシルフィが過去のことを話している間、レイネも自分が学びたいことを、自分の時間を使って学んでいたのだ。
そのことがうれしかった。
以前のレイネであれば、俺たちの会話が終わるまで、何かあればすぐに動ける距離で待ち続けたかもしれない。
しかし今は、俺とシルフィなら大丈夫だと信じ、自分自身の予定を選んでいる。
まるで先ほどシルフィへ話した内容を証明するように、レイネは確かに変わり始めていた。
「お話は終わりましたか?」
「全てではありませんが、大まかなことは話せました」
俺が答えると、シルフィも頷く。
「ルディのことも、少し聞けたよ」
「そうですか」
レイネは俺とシルフィの表情を順番に確認したが、何を話したのかと尋ねることはなかった。
その姿を眺めていると、先ほどまでの会話が胸の中へ蘇る。
レイネへ告白する。
そう考えた瞬間、普段なら何も意識せずに見ていられる顔を、真正面から見続けることが難しくなった。
白い髪と赤い瞳を持つ、俺が生まれた時からずっと知っている整った顔。
見慣れているはずなのに、一人の女性として意識した途端、心臓が大きく鳴った。
「ルーデウス様?」
「何でしょうか」
「私が、何か失敗いたしましたか?」
「いいえ」
慌てて首を横へ振る。
「少し考え事をしていただけです」
「お疲れでございますか?」
「そのようなものです」
嘘ではない。
ただし、何を考えていたのかまでは今は言えない。
ここで、シルフィの前で、何の準備も覚悟もないまま伝えるようなことではない。
「レイネ」
俺は一度気持ちを整えてから、彼女へ向き直った。
「はい」
「シルフィの正体を、本人が話すまで黙っていてくれて、ありがとうございました」
「私へお礼をお伝えになる必要は――」
レイネは反射的にそう答えかけたが、途中で言葉を止めた。
「いいえ。ルーデウス様が、私の判断を受け入れてくださったことに、感謝しております」
自分から言い直した。
「少しだけ、寂しいとは思いました」
正直に伝えると、レイネの赤い瞳が僅かに揺れた。
「僕だけが知らなかったことは寂しかったです。ですが、レイネがシルフィを守るために黙っていたことは分かっています」
「申し訳ございません」
「謝ってほしいわけではありません」
シルフィが少し不安そうに俺を見る。
「二人とも、僕を困らせるために黙っていたわけではないでしょう」
シルフィには自分自身で名乗りたいという理由があり、レイネは預かった秘密を守るために何も言わなかった。
それぞれに理由があった。
「それに、僕も自分でシルフィへたどり着けました」
「最後は、かなり疑ってたよね」
シルフィが言う。
「確信はありませんでした」
「でも、名前を呼んでくれた」
「はい」
シルフィは、うれしそうに笑った。
「レイネ」
「はい、シルフィ」
ここには事情を知っている者しかいないため、レイネも昔の名前で呼ぶ。
「そばにいてくれて、ありがとう」
「最後にお話しになったのは、シルフィご自身でございます」
「それでも、レイネがいてくれたから、話そうと思えたの」
レイネは一度口を閉じた。
自分の行動を「当然のことをしただけ」と退けるのではなく、シルフィが向けている感謝そのものを受け取ろうとしている。
「お役に立てたのであれば、うれしく思います」
シルフィの目が少し大きくなった。
「レイネも、変わったね」
「そのように評価される機会が増えております」
「昔なら、絶対に『当然のことをしただけです』って言ってたよ」
「否定はできません」
レイネの口元へ小さな笑みが浮かび、それを見て俺も、シルフィも笑った。
三人で笑っている。
ブエナ村にいた頃、レイネは俺とシルフィが遊んでいる姿を少し離れたところから見守り、必要がなければ自分から会話の輪へ加わることはなかった。
今は、俺とシルフィの間へ無理に割り込むのではなく、それでも自分自身の意思で三人の輪の中に立っている。
三人とも、あの頃とは違っていた。
シルフィはアリエル王女を守る護衛魔術師となり、レイネは俺へ仕えることだけではなく、自分の望みや人間関係を持ち始めた。
俺自身も、以前とは違う選択を少しずつできるようになっている。
過去へ戻ることはできない。
けれど、今の三人として、もう一度関係を作り直していくことはできる。
◇
そのまま俺たちは、アリエル王女の居室へ向かった。
シルフィが俺へ正体を明かしたことを、正式に報告するためだ。
応接室では、アリエル王女とルーク先輩が待っていた。
シルフィの表情を見るだけで、アリエル王女は無事に話せたことを理解したらしい。
「無事に話せたのですね」
「はい、アリエル様」
シルフィはすでに眼鏡を掛け直しているが、この部屋にいる者は全員が正体を知っているため、声までは作っていなかった。
「ルーデウス君」
アリエル王女が俺を見る。
「フィッツの正体については、今後も公の場では伏せていただきたいのです」
「分かっています」
「理由は、本人から聞きましたか?」
「アリエル様の護衛として、敵へ情報を与えないためだと」
「それだけではありません」
アリエル王女の表情が僅かに引き締まった。
「シルフィエットがブエナ村出身であり、あなたと親しいことが知られれば、彼女を利用してあなたへ接触する者が現れる可能性があります」
「僕を利用して、シルフィを動かそうとする者も?」
「当然、考えられます。さらに、あなた方二人とレイネさんとの関係まで、利用されるかもしれません」
人間関係も家族も友情も恋愛も、政治の中では弱点や武器として利用される可能性がある。
シルフィとの再会をただ喜んでいるだけでは済まない。
正体を知ったことで、俺自身もまた、シルフィがこれまで守ってきた秘密の一部を預かる立場になったのだ。
「人前では、今までどおりフィッツ先輩と呼びます」
「ありがとうございます」
「ただし、シルフィ本人へ危険が及んでいる場合は、事情に関係なく助けます」
俺がそう続けると、ルーク先輩の視線が鋭くなった。
「アリエル様の意向に反してもか?」
「シルフィが危険なのに、助けるなと言われた場合は」
室内の空気が僅かに硬くなる。
それでも、言葉を変えるつもりはなかった。
アリエル王女の事情も、守らなければならない立場があることも理解している。
けれど、政治的にはそれが正しいという理由だけで、シルフィを見捨てることはできない。
「彼女は、僕の大切な友人です」
シルフィが俺を見た。
胸元へ置かれていた手が、僅かに握られる。
アリエル王女はしばらく俺を見つめた末、静かに頷いた。
「分かりました。そのような状況を作らないよう、私も努めます」
「ありがとうございます」
「むしろ、フィッツに私たち以外にも自分を心配する人がいることを、うれしく思います」
「アリエル様」
シルフィが恥ずかしそうな声を出す。
「事実でしょう?」
アリエル王女は柔らかく笑った。
「一つだけ確認する」
今度はルーク先輩が口を開く。
「ルーデウス。フィッツの正体を知ったことで、アリエル様の陣営へ加わったつもりはあるか?」
「ありません」
そこは即答した。
シルフィが大切な友人であることと、アリエル王女の王位争いへ加わることは別の問題だ。
「シルフィが危険であれば助けます。アリエル様から協力を求められた場合も、内容を聞いたうえで判断します」
「それでいい」
ルーク先輩は短く答えた。
「最初から忠誠を誓うと言われる方が信用できん」
「僕も、相手が王女だからという理由だけで、忠誠を誓うつもりはありません」
アリエル王女が小さく笑う。
「あなたは、本当に貴族向きではありませんね」
「父さんの息子ですから」
「パウロも、似たようなところがあったと聞いています」
父さんの昔について、アリエル王女がどれほど知っているのかは少し気になった。
けれど、聞きたいことがあるからといって、今すぐ全てを尋ねる必要はない。
今日は、それを何度も学んでいる気がした。
◇
応接室を出ると、シルフィは人のいる廊下へ戻る前に、フィッツとしての声と姿勢へ切り替えた。
「ルーデウス君」
「はい、フィッツ先輩」
俺も呼び方を戻す。
午前中の会話をした後だからだろう。
フィッツ先輩の丁寧な話し方を聞くと、今までとは少し違って聞こえた。
完全にレイネと同じではない。
けれど、その口調を作る時、幼い頃に聞き慣れたレイネの言葉遣いがほんの少し混ざっている。
そう考えると、妙に微笑ましかった。
「……何ですか?」
俺の顔を見て、フィッツ先輩が僅かに警戒する。
「いえ。何でもありません」
「笑っていますよね?」
「少しだけ」
「もしかして、さっきの話を思い出してる?」
作った声のままなのに、少し恥ずかしそうなのが分かる。
「秘密にしておきます」
「絶対だよ……じゃなかった。お願いします」
慌てて言い直した。
俺は、とうとう笑ってしまった。
「ルーデウス君」
「申し訳ありません、フィッツ先輩」
レイネが不思議そうに俺たちを見る。
「何かございましたか?」
「何でもないよ」
シルフィは一瞬だけ普段の口調へ戻りかけ、咳払いした。
「……何でもありません」
レイネは僅かに首を傾げたものの、それ以上は追及しなかった。
この小さな秘密については、シルフィが自分から話したくなるまで黙っておこう。
昨日までと全く同じ「フィッツ先輩」という呼称なのに、もう目の前の人物が誰なのか迷うことはなかった。
「明日の昼食、一緒にどうですか?」
俺が尋ねる。
「僕と?」
「先輩が新入生へ、大学について教えるだけです」
それなら周囲から見ても不自然ではない。
「レイネも一緒に」
シルフィが付け加えたので、俺は隣にいるレイネを見る。
「レイネは?」
「明日の昼は、薬草学の教員とお約束がございます」
「そうですか」
少し残念だった。
シルフィと二人で昼食を取れること自体はうれしいし、また明日も二人で話せる時間があることも喜ばしい。
その一方で、そこにレイネがいないと聞けば、それはそれで寂しい。
相反するような二つの感情が、俺の中に同時に存在していた。
「では、お二人で行ってきてくださいませ」
「よいのですか?」
尋ねた直後、自分が何を確認したかったのか分からなくなった。
レイネが僅かに首を傾げる。
「私の許可が必要なことでしょうか」
「必要ではありません」
「では、問題ございません」
そのとおりだ。
俺とシルフィが二人で昼食を取ることに、レイネの許可は必要ない。
では俺は、何を期待していたのだろう。
もしかすると、レイネが嫌がるかどうか、少しくらい嫉妬するのか、俺がシルフィと二人になることへ何か感じるのかを、確かめたかったのかもしれない。
何も気にしていないように見えたことに、少し寂しさを感じている自分がいる。
けれど、本当に何も感じていないとは限らない。
レイネは今でも、感情の全てを言葉へできる人ではない。
だからこそ、俺が勝手に「何も感じていない」と決めてしまってはいけない。
シルフィから、つい先ほど教えられたばかりだ。
「何か問題がございますか?」
レイネが尋ねる。
「ありません」
一度そう答えた後、それだけで終われば、また以前と同じだと思った。
「ただ、レイネが何も気にしていないように見えて、少し寂しいと思いました」
言葉にすると、レイネの目が僅かに見開かれた。
「申し訳ございません」
「謝ってほしいわけではありません」
「では、どのようにお答えすればよいのでしょうか」
本当に分からないらしい。
「レイネが、どう感じたのかを聞きたいです」
レイネは口を閉じた。
シルフィが、俺とレイネを交互に見ている。
「私は……ルーデウス様とシルフィが、二人でお話しできることを、喜ばしく思っております」
レイネは慎重に言葉を選んだ。
「それだけですか?」
「それだけではございません」
その答えが返ってきただけで、胸が大きく鳴った。
「私も、ご一緒したかったと考えております」
「薬草学の約束を断ってでも?」
「いいえ」
レイネは、はっきりと否定した。
「教師との約束も、私にとって大切でございます。ですから、明日はそちらへ伺います」
自分の望みを一つ選ぶために、ほかの望みを無かったことにしない。
俺たちと一緒にいたいという気持ちを認めながら、自分が学びたいという望みも同じように大切にする。
レイネはもう、どちらか一方しか選ぶことのできない人ではない。
「ですが、お二人だけで昼食を取られることへ、何も感じていないわけではございません」
レイネが続けた。
「何を感じているのですか?」
レイネの視線が僅かに揺れる。
「今は、申し上げられません」
シルフィがほんの少しだけ笑った。
俺は、その理由を聞かなかった。
「分かりました」
レイネは自分自身の意思で、「今は言わない」と選んだ。
ならば、それを尊重すればいい。
ただ、以前のように「レイネは答えられない人だから」と勝手に決めつけることは、もうしない。
レイネは自分が何を感じているのかを、少しずつ自分の言葉にできるようになっている。
その事実は、怖さと同時に、ほんの僅かな希望を俺の胸へ生んだ。
◇
その夜、俺は自分の部屋で机へ紙を広げた。
エリスへ手紙を書くためだ。
シルフィが生きており、この大学で再会したこと。そして現在は事情があり、別の名前と姿で生活していること。
どこまで書くべきかは迷った。
手紙が途中で誰かに読まれる可能性を考えれば、《フィッツ》という名前や、アリエル王女の護衛であることまで詳しく書くべきではない。
シルフィ本人へ、手紙に書いてよい範囲を改めて確認した方がいいだろう。
それでも、シルフィと再会したという事実そのものをエリスへ隠すつもりはなかった。
俺とエリスは、互いに生きて再会すると約束している。
だからこそ、自分にとって都合の悪い可能性があるからという理由で、新しく起きた大切な出来事を伏せたくなかった。
俺は筆を紙へ置いた。
『エリスへ。
大学で、幼い頃の友人と再会しました。
転移事件の後、長い間行方が分からなかったシルフィです。
事情があって詳しい身分や立場はまだ書けませんが、無事に生きていました。』
そこまで書いたところで、一度筆が止まった。
昨日、俺とシルフィは、再会できたことがうれしくて抱き締め合った。
少なくとも今の俺は、シルフィへ向けている感情を恋愛だと決めてはいない。
けれど、抱き締めたことだけを伏せれば、エリスへ自分に都合のよい部分だけを伝えることになる気がした。
俺は続けて書いた。
『再会できたことがうれしくて、二人で抱き締め合って泣きました。』
書いた文字を見つめた。
エリスがこれを読めば、どんな顔をするのだろう。
怒るかもしれないし、嫉妬するかもしれない。
それでも、書いた紙を破ることはしなかった。
『今日、離れていた間のことを話しました。
シルフィには、俺がエリスを愛していることも、エリスが強くなって戻ることも、俺たちが生きて再会すると約束していることも伝えました。』
そこまで書いたところで、今度はレイネについてどこまで書くべきかを考える。
エリスはすでに、俺がレイネを愛していることを知っている。
今日シルフィから尋ねられ、改めてその気持ちを言葉にした。
ならば、そこを隠す必要もない。
『レイネへの気持ちについても聞かれました。
以前エリスへ話した時と、俺の気持ちは変わっていません。
ただし、レイネ本人にはまだ伝えていません。』
そこで、また筆が止まった。
以前の俺なら、主従関係があり、レイネ自身の意思が分からないからだ、と書いて終わっていたかもしれない。
しかし今は違う。
レイネは少しずつ、自分の望みを持ち、自分の言葉で話し、俺とは違う予定を自分の意思で選べるようになっている。
それでも俺が告白していないのは、単純にレイネが答えられないからではない。
俺自身が怖いのだ。
『以前の俺は、主人である俺が気持ちを伝えれば、レイネは自分の望みとは関係なく受け入れるかもしれないと考えていました。
けれど、最近のレイネは、自分が何をしたいのかを少しずつ言葉にできるようになっています。
それでも俺が気持ちを伝えていないのは、レイネの意思を尊重したいからだけではありません。
拒絶されることや、今の関係が変わることを、俺自身が怖がっているのだと思います。』
文字にしてしまうと、胸の奥にあった恐怖が、より明確な形を持った。
レイネへ告白したい。
その気持ちは、もう誤魔化せない。
それなのに俺は、「いつか」「もっと遠い未来に」「レイネが完全に変わった時に」と考え、先延ばしにし続けていた。
しかし、完全に変わるとは、いったいどういう状態なのだろう。
俺の影響を一切受けない人間になることだろうか。
もしそうなら、そんな日は来ない。
俺だってレイネの影響を受けているし、エリスやシルフィからも大きな影響を受けている。
人は、誰かとの関係の中で物事を選ぶ。
大切なのは、誰からも一切影響を受けないことではなく、影響を受けたうえで自分が何を望んでいるのかを、自分自身の言葉で答えられることなのだろう。
レイネは、すでにその段階へ進み始めている。
『シルフィから、レイネが何を選ぶのかを俺が先に決めてはいけないと言われました。
そのとおりだと思います。
まだ、すぐに伝える覚悟ができたわけではありません。
けれど、いつまでもレイネのためだと言いながら、何も伝えずにいるつもりもありません。』
そこまで書いたところで、この言葉を本当にエリスへ送ってよいのかと迷った。
俺がレイネへ告白するつもりだと知れば、エリスは怒るかもしれない。
裏切られたと思う可能性だってある。
それでもエリスはすでに、俺がレイネを愛していると知っているし、レイネ自身も以前、エリスへ譲るつもりはないと伝えている。
何も知らない相手へ突然告げるのとは違う。
もちろん、それを理由にエリスの気持ちを軽く扱っていいわけでもない。
俺は、さらに書いた。
『俺は、エリスを愛しています。
レイネを愛していることも、シルフィとの再会をうれしいと思ったことも、エリスへの気持ちを消すものではありません。
けれど、それをエリスが受け入れなければならないとは思っていません。
次に会った時、俺が何を望んでいるのかも含めて、改めて話したいです。』
これほど正直に書けば、嫌われるかもしれない。
エリスは、自分が選ばれなかったと感じる可能性もある。
けれど、俺にとって都合のいい部分だけを綺麗に並べた手紙を受け取り、何も知らないまま俺のことを信じ続けるエリスを想像すると、その方がずっと苦しかった。
エリスが愛しているのは、手紙の中へ都合よく整えた俺ではない。
迷ったり、間違えたり、身勝手な感情まで抱えている俺自身だ。
それを伝えたうえで、エリス自身にも今後の関係を選んでもらわなければならない。
最後に筆を動かした。
『エリスを愛している気持ちと、もう一度会いたいという気持ちは変わっていません。
俺は、エリスとの再会を心から望んでいます。
お互いに生きて、必ずもう一度会いましょう。
ルーデウス』
紙を畳んだものの、すぐには封筒へ入れなかった。
明日、シルフィへどこまで手紙に書いてよいのかを確認してから、もう一度最初から読み返すつもりだ。
必要以上に自分を悪く書いていないか、逆に自分に都合の悪いところを曖昧にしていないかを確かめ、そのうえで送ればいい。
机の端には、レイネから渡された緊急連絡用の魔道具が置かれている。
俺はその隣へ、シルフィとの再会を記した手紙を置いた。
母様の捜索や転移事件の研究、ザノバとの人形作り、レイネが始めた自分自身の学生生活、そしてシルフィとの再会。
大学へ来てから、一度にあまりにも多くのことが動き始めている。
全てを正しく扱える自信などない。
俺はエリスを愛しており、同時にレイネも愛している。
そして今は、シルフィという存在についても、昔とは違う形で意識し始めている。
そんな感情を、今すぐ単純に正しいか間違っているかで切り分けることはできない。
ただ、分からないからという理由で黙って逃げるつもりだけはなかった。
レイネが何を望んでいるのかを、俺が先回りして決めてはいけない。
そして、いつまでも「レイネのためだから」という言葉の陰へ、自分の恐怖を隠し続けてもいけない。
怖くても、今の関係が変わる可能性があったとしても、「いつか」という曖昧な未来へ先送りするのではなく、そう遠くないうちに俺はレイネへ自分の気持ちを伝えなければならない。
その時、レイネがどのような答えを出したとしても、それを彼女自身が選んだ答えとして受け止める必要がある。
再会というものは、ただ過去と同じ関係へ戻ることではないのかもしれない。
離れていた時間の中で互いが何を経験し、何を選び、どのような人間へ変わったのかを、もう一度知り直していくことなのだろう。
俺とシルフィの再会は、昨日顔を合わせた瞬間に終わったわけではない。
同じように、レイネとの関係だって、今の形のまま永遠に止まっているわけではない。
俺たちは、それぞれに少しずつ変わっている。
その変化から目を逸らさず、互いに言葉を交わしていくための時間が、ようやく始まったのだった。