ルーデウス視点
五歳の誕生日を迎えてから数日後、午前の授業を終えたロキシーは、いつものように教本を閉じると、どこか改まった様子でルーデウスへ向き直った。
その日の授業では、上級までの四属性攻撃魔術について、これまで学んできた内容を一通り確認していた。術の威力を上げるだけでなく、射程や範囲を意図的に抑える方法、複数の属性を組み合わせる混合魔術、足場や天候を利用して消費魔力を減らす考え方まで含まれており、普段より復習の色が強い内容だった。
何かの区切りが近づいていることは、授業の途中から察していた。
「ルディ。明日は、最後の試験を行います」
予想していた言葉ではあったが、実際に聞かされると胸の奥が重くなった。
ロキシーが家庭教師としてこの家へ来てから、すでに二年が経っている。初級魔術さえ満足に扱えなかった自分は、彼女の指導によって上級魔術まで学び、安全な術の使い方や、教本だけでは知ることのできなかった魔術師としての基礎を身につけた。
それでも、教わるべきことはまだいくらでも残っているように思える。
「最後ということは、試験に合格したら授業は終わるのですか?」
「その予定です。攻撃魔術について、私が教えられる範囲はほとんど終わりました。治癒魔術や魔術理論には、まだ学ぶ余地がありますが、それらは本を使って続けることもできます」
ロキシーは淡々と説明したものの、その声には僅かな迷いが混じっていた。
「明日は村の外へ出ます。屋敷や畑の近くでは使えない、大規模な魔術を試してもらいますので、朝食を終えたら旅のできる服装で玄関へ来てください」
村の外。
その言葉を聞いた瞬間、ルーデウスの身体から力が抜けた。
視界にある教本と机が、一瞬だけ遠ざかったように感じられる。胸の奥から這い上がってきた冷たい感覚が喉を塞ぎ、返事をしようとしても、すぐには声が出なかった。
生まれ変わってから五年間、ルーデウスはグレイラット家の敷地を出たことがない。
庭や厩舎までは行ける。門の近くに立ち、柵の向こうに広がる道や畑を見ることもできた。しかし、一歩でも外へ踏み出そうとすると、前世で家から引きずり出された時の記憶が蘇った。
無遠慮な視線。
嘲笑するような声。
自分を汚らわしいものとして扱う家族の表情。
家の外は、自分を傷つける者が待っている場所だという感覚が、理屈とは無関係に身体へ刻み込まれていた。
ブエナ村が前世の街とは違うことも、今の自分が三十四歳の引きこもりではないことも理解している。それでも、理解しているだけでは足を動かせなかった。
「何か問題がありますか?」
ロキシーに尋ねられ、ルーデウスは反射的に首を横へ振った。
「いいえ。分かりました」
声が僅かに震えていたが、ロキシーは深く追及しなかった。明日の出発時刻と必要な持ち物を伝えると、午後の剣術修行へ遅れないよう、授業を終えた。
ルーデウスは教本を抱えたまま部屋を出たものの、いつもならすぐ庭へ向かうところを、その日は廊下の途中で立ち止まってしまった。
玄関の先に見える扉へ目を向けるだけで、鼓動が速くなる。
「ルーデウス様」
背後から呼ばれて振り返ると、洗濯物を抱えたレイネが立っていた。
五年前と比べれば背丈は伸びているが、実年齢が十九歳になった現在も、外見は九歳か十歳ほどにしか見えない。それでも、長い時間を同じ家で過ごしてきたルーデウスにとっては、彼女を見た目どおりの幼い少女として意識することは、もはやほとんどなかった。
「本日の授業は、終わったのではございませんか?」
「明日、最後の試験をするそうです」
「承知しております。先生から、遠出の準備を頼まれました」
レイネはルーデウスの顔を見て、すぐに何かへ気づいたようだった。しかし、理由を決めつけることも、無理に聞き出そうとすることもしなかった。
「村の外へ行くそうです」
「はい」
「僕は、まだ家の外へ出たことがありません」
ようやく口にできた言葉は、事情を説明するには不十分だった。
なぜ出られないのか、何が怖いのかまで話すつもりはなかった。前世について明かさなければ、本当の理由を説明することはできない。
それでもレイネは、幼い子供が遠出を嫌がっているだけだと笑うことなく、静かに続きを待っていた。
「門の近くまでは行けます。でも、その先へ行こうとすると、身体が動かなくなるんです」
「先生には、お伝えになりましたか?」
「いいえ。試験を嫌がっていると思われたくありません」
「ロキシー先生は、その程度でルーデウス様を見限る方ではございません」
レイネはそう言ったが、ロキシーへ事情を話すよう強制はしなかった。抱えていた洗濯物を近くの台へ置くと、ルーデウスと同じように玄関の扉へ視線を向ける。
「明日の試験は、先生とお二人で行かれる予定です。私や旦那様が同行すれば、先生のお考えを妨げるかもしれません」
「レイネは来ないのですか?」
「はい。先生が、ご自分でお連れになると仰っておりました」
それを聞いた時、ルーデウスは僅かな不安を覚えた。
レイネなら、自分が動けなくなっても無理に笑わず、落ち着くまで待ってくれるだろう。五年を共に過ごしてきた安心感がある。
しかし、明日はロキシーと二人きりで外へ出なければならない。
「私が同行しないことが、ご不安ですか?」
「少しだけ」
「それでも、行くとお決めになったのでしょう?」
問いかけられたルーデウスは、しばらく考えた末に頷いた。
怖いからと断れば、前世と何も変わらない。始める前から逃げ、失敗しない代わりに、何も得られないまま終わる。
今度こそ本気で生きると決めた以上、少なくとも試す前から諦めることはしたくなかった。
「では、明日のために今夜は早くお休みください。旅用の上着と手袋は、私が準備しておきます」
「怖くなくなる方法は、ないのですか?」
弱音を口にすると、レイネは少し考えてから答えた。
「恐怖を消す方法は、私には分かりません。ただ、怖いままでも、信頼できる方へお任せすることはできます」
「信頼できる方……」
「明日は、ロキシー先生がご一緒です。何かあれば必ずお守りくださいます。そして、お帰りになれば、私どもがここでお迎えします」
外へ出る勇気を与えるような、力強い言葉ではなかった。
必ず大丈夫だと根拠なく断言したわけでもない。
けれど、行った先で一人になるのではなく、帰る場所も失われないのだと思えば、胸の奥に絡みついていた恐怖が僅かに緩んだ。
「分かりました」
ルーデウスが答えると、レイネはいつものように穏やかに頭を下げ、洗濯物を抱え直した。
翌朝のための準備を始める彼女の後ろ姿を見送りながら、ルーデウスはもう一度玄関へ目を向けた。
扉は閉じたままだった。
それでも、明日はそこを越えなければならない。
レイネ視点
その日の夕方、レイネは厩舎へ入り、翌朝ロキシーが使う馬の状態を確認した。
グレイラット家で飼われている馬は一頭だけで、名前をカラヴァッジョという。名馬というほど優れた血統ではないが、パウロが冒険者時代から乗り続けてきた馬であり、本人は妻の次に大切な存在だと公言していた。
レイネが厩舎へ入ると、カラヴァッジョは慣れた様子で鼻を鳴らした。
「明日はロキシー先生とルーデウス様をお願いいたします」
言葉の意味を理解しているわけではないだろうが、声をかけながら首筋を撫でると、馬は気持ちよさそうに目を細めた。
蹄と脚に異常がないことを確かめた後、鞍や手綱にも傷みがないか調べる。馬の両側には、昼食と水、雨具、清潔な布、簡単な治療道具を入れた荷袋を取りつける予定だった。
「随分と念入りですね」
厩舎の入口から声をかけられ、レイネが振り返ると、杖を抱えたロキシーが立っていた。
「遠出でございますから、途中で不足があってはいけません」
「日帰りです。それほど遠くへ行くつもりはありません」
「使わずに済むのであれば、それが一番でございます」
ロキシーは荷物へ目を向けた後、カラヴァッジョの隣に立つレイネを見た。
外見だけを比べれば、ロキシーの方が年上に見える。だが、二年間生活を共にしてきた今では、互いにそのような違いを意識していなかった。
「ルディから、何か聞きましたか?」
「村の外へ出ることへ、不安を感じておられるようです」
レイネは、ルーデウスから聞いた言葉だけを伝え、それ以上の推測は加えなかった。
「やはり、そうでしたか」
「お気づきだったのですか?」
「授業中に、村の外へ出ると言った途端、顔色が変わりました。以前から、庭の外へ出た姿を見たことがありませんし、外の話になると不自然に黙ることもありました」
ロキシーは無関心だったわけではない。
気づいていたうえで、明日の試験を村外で行うと決めたらしい。
「無理にお連れになるおつもりですか?」
問いかけると、ロキシーは少しだけ眉を寄せた。
「魔術の試験は、人や畑へ被害を出さない場所で行う必要があります。それに、いつまでも屋敷の中だけで暮らしていくわけにはいかないでしょう」
言い方は淡々としていたが、ルーデウスを軽く扱っているわけではないことは伝わってきた。
「ただ、動けなくなるほど怖がるとは思っていませんでした。明日の様子を見て、どうしても無理そうなら、日を改めます」
「先生へお任せいたします」
「あなたは止めないのですか?」
「私が代わりに連れ出せば、先生の試験ではなくなります」
レイネが答えると、ロキシーは少し驚いたように目を瞬かせた。
それからカラヴァッジョの鼻先へ手を伸ばしたものの、馬が大きく息を吐いたため、僅かに身を引く。
「ルディは、あなたを随分と信頼しています」
「先生のことも信頼しておられます」
「同じではないでしょう」
「同じである必要はございません」
レイネは鞍の留め具を確かめながら、落ち着いた声で続けた。
「私がいることで安心できる場面もあれば、先生にしかできないこともございます。明日は、先生にしかできないことなのでしょう」
ロキシーはすぐには返事をしなかった。
やがて、少しだけ緊張を解くように息を吐き、カラヴァッジョの首へもう一度手を伸ばした。
今度は馬も驚かず、素直に触れさせた。
「必ず連れて帰ります」
「はい。お待ちしております」
ルーデウス視点
翌朝、旅用の上着を着て玄関へ向かうと、すでにロキシーが杖を持って待っていた。
外には鞍をつけたカラヴァッジョが立っており、その荷袋には昼食や水が収められている。準備をしたのがレイネであることは、きっちりと結ばれた紐や、雨具を取り出しやすい位置へ置く工夫を見れば分かった。
パウロとゼニスは、卒業試験だと聞いて期待に満ちた表情を浮かべている。リーリャも普段と変わらない落ち着いた様子で見送りに立ち、レイネは玄関脇でルーデウスの服装を最後に確認した。
「手袋はございますか?」
「はい」
五歳の誕生日に贈られた革手袋を見せると、レイネは手首の紐を締め直した。
「雨に濡れましたら、身体を冷やさないよう、すぐに上着をお使いください」
「分かりました」
返事をしながらも、ルーデウスの視線は開いた門へ吸い寄せられていた。
その先には、見慣れたはずの道が続いている。
庭から何度も見てきた道であり、村人が普通に歩いているだけの場所だ。それなのに、門へ近づくほど呼吸が浅くなり、足が重くなっていった。
ロキシーはカラヴァッジョの手綱を引き、門を出た後で振り返った。
「ルディ。行きますよ」
「はい」
返事はした。
しかし、足は動かなかった。
前へ出ようと意識しても、膝が固まり、地面から離れてくれない。額に汗が浮かび、胃の中がひっくり返るような感覚に襲われた。
家族が見ている。
ここで動けなければ、失望されるかもしれない。
その考えがさらに身体を縛った。
「ルディ?」
ロキシーが戻ってくる。
顔を覗き込まれたルーデウスは、何でもないと答えようとしたが、声を出すより先に身体が震えた。
ロキシーは何かを理解したように目を細めると、ルーデウスの脇へ両手を差し入れ、そのまま抱き上げた。
「先生?」
「歩けないのであれば、乗せていきます。馬へ乗ってしまえば、少しは楽になるでしょう」
「ですが……」
「試験場所まで自分の足で歩くことが課題ではありません」
ロキシーは小柄な身体でルーデウスを運び、カラヴァッジョの背へ乗せた。その後、自分も後ろへ跨がり、逃げられないよう支える形で手綱を握る。
ルーデウスは反射的に家の方を振り返った。
パウロとゼニスは、何が起きているのか十分には理解していないらしく、心配そうにこちらを見ている。リーリャは静かに頭を下げ、レイネも追いかけてくる様子を見せなかった。
ただ、視線が合った時、レイネは一度だけ頷いた。
帰ってくれば迎える。
昨日の言葉を思い出した直後、ロキシーが手綱を軽く動かし、カラヴァッジョが歩き始めた。
門が後ろへ流れていく。
自分の意思で一歩を踏み出すことはできなかったが、ルーデウスは生まれて初めて、グレイラット家の敷地を出た。
村の道へ入ると、畑で働いていた者や荷物を運んでいた村人が、馬上の二人へ視線を向けた。
前世の記憶が蘇り、身体が強張る。
何を見ている。
子供のくせに馬へ乗っていると笑われるのではないか。
気味の悪い人間だと、突然罵られるのではないか。
そんな想像が次々と浮かんだが、実際に起きたことはまるで違った。
村人たちはロキシーの姿を見ると、親しげに手を上げたり、軽く頭を下げたりした。
「おはよう、ロキシー先生」
「今日は坊ちゃんも一緒かい?」
「卒業試験です」
「そりゃあ頑張らないとな」
誰も嘲笑しない。
中には珍しそうにルーデウスを見る者もいたが、敵意や侮蔑を向けているわけではなかった。
背後にいるロキシーも、村人からの挨拶へ一つずつ返事をしている。
この二年間、彼女は魔術を教えていただけではなかった。干ばつの時には水魔術で村を助け、怪我人が出ればゼニスと一緒に治療し、村の人間と少しずつ関係を築いていたのだろう。
魔族であり、決して人付き合いが得意には見えないロキシーが、この村では自然に挨拶を交わされている。
それに気づいた時、背中に触れる小さな身体が、急に頼もしいものへ思えてきた。
この人が一緒なら、誰かに何かを言われても、きっと対応してくれる。
「まだ怖いですか?」
背後から静かに尋ねられ、ルーデウスは周囲を見渡した。
道の両側には畑が広がり、その向こうには何軒もの家が建っている。風が作物の間を通り抜け、遠くでは農具を振るう音が聞こえていた。
そこにあるのは、ごく普通の農村だった。
誰も自分を取り囲んでいない。石を投げる者も、罵声を浴びせる者もいない。
「少しだけ。でも、もう大丈夫です」
「そうですか」
ロキシーはそれ以上何も言わなかった。
ルーデウスも、次第に周囲の景色へ興味を向けられるようになった。畑で育てられている作物や、村の水路、遠くに見える建物について尋ねると、ロキシーは知っている範囲で答えてくれる。
二年間も一緒にいたのに、ロキシーと二人でこれほど長く話したことはなかったかもしれない。
今日の試験が終われば、彼女は家庭教師ではなくなる。
その事実を意識したルーデウスは、話題が尽きないよう、目に入るものを次々と尋ねた。
ロキシーも、質問を煩わしがらずに答え続けた。
畑と家が少しずつ減り、やがて周囲は広い草原へ変わっていった。
地平線の向こうまで草が広がり、遠くには低い山の影が浮かんでいる。前世の日本では、簡単には見ることのできなかった光景だった。
しばらく進んだ後、ロキシーは一本の木が立つ場所で馬を止めた。
「この辺りでよいでしょう」
二人が馬から降りると、ロキシーはカラヴァッジョの手綱を木へ結び、ルーデウスと向かい合った。
「これから、水聖級攻撃魔術の豪雷積層雲を使います。広範囲へ暴風雨と雷を発生させる術ですので、よく見ていてください」
「それを僕も使うのですか?」
「はい。私の術は、見本として短時間で消します。ルディには、同じ現象を長時間維持してもらいます」
試験の内容を聞き、ルーデウスは空を見上げた。
水聖級。
ロキシーが扱える最高位の攻撃魔術であり、それを使えるようになれば、形式上は自分も同じ階級へ到達することになる。
ロキシーは木やカラヴァッジョとの距離を確かめると、杖を空へ向け、長い詠唱を始めた。
普段使っている初級や中級魔術とは比べものにならないほど長い。言葉を重ねるたびに周囲の空気が湿り、上空へ雲が集まっていく。
詠唱が完成すると、晴れていた空が瞬く間に暗くなった。
激しい風が草原を走り、冷たい雨粒が地面へ叩きつけられる。黒雲の内部では稲光が何度も走り、腹の底へ響くような雷鳴が連続した。
実際の天候そのものを作り変える魔術だった。
ルーデウスが圧倒されていると、眩い光が空から落ち、轟音とともに木の周囲を包んだ。
直後、カラヴァッジョが地面へ倒れた。
「カラヴァッジョ!」
ロキシーは慌てて魔術を解除し、馬へ駆け寄った。身体から薄い煙が上がっているのを見ると、すぐに治癒魔術の詠唱を始める。
淡い光に包まれたカラヴァッジョは、しばらくして苦しそうに身を動かした。
即死ではなかったらしい。
呼吸が戻ったことを確認したロキシーは、その場へ力なく座り込んだ。
「危ないところでした……」
「父様が知ったら、どうなるでしょう」
ルーデウスが尋ねると、ロキシーの顔から血の気が引いた。
パウロがカラヴァッジョをどれほど大切にしているかは、家で二年間暮らしてきたロキシーもよく知っている。落雷を受けた痕跡は治癒魔術でほとんど消えているが、鬣の一部が焦げ、馬自身も怯え切っていた。
「このことは、パウロさんには内緒にしてください」
「レイネには気づかれると思います」
「なぜですか?」
「カラヴァッジョの手入れをしているのは、父様とレイネです。鬣の焦げた匂いまで隠すのは難しいでしょう」
ロキシーは泣きそうな顔で馬の首へ縋りついた。
「では、レイネにも口止めをお願いします」
「怪我が完全に治っていれば、黙ってくれるかもしれません」
「お願いします。先生としての最後の頼みです」
卒業試験とは思えない頼みだった。
それでも、深刻な怪我が残っていないことを確認したうえで、ルーデウスは頷いた。
ロキシーは何度も礼を言った後、気持ちを切り替えるように自分の頬を叩き、土魔術で馬を守るための防壁を作った。
今度こそ、ルーデウスの試験である。
先ほどの詠唱を思い出し、同じように空へ魔力を送る。黒雲を作り、そこへ水と風を与え、内部で雷を発生させる。
しかし、ただロキシーの術を再現するだけでは、一時間ものあいだ魔力を送り続けなければならない。
魔術は工夫して使うものだと、二年間繰り返し教えられてきた。
ルーデウスは雲の内部へ上昇気流を作り、下層を温め、上層を冷却することで、魔力を送り続けなくても雲が成長する仕組みを作った。前世で見た気象の知識は断片的だったが、現象の方向さえ合っていれば、魔術による調整で補うことができる。
やがて、ロキシーが作ったものより遥かに大きな雷雲が、草原の上空へ広がった。
豪雨と雷鳴が続く中、土の防壁から出てきたロキシーは、空を見上げたまま動かなくなった。
「ルディ」
「はい」
「合格です」
「まだ一時間経っていません」
「必要ありません。それより、あれを消せますか?」
ロキシーの声には、教師としての威厳よりも切実さが込められていた。
ルーデウスは慌てて気流を変え、雲を作った時とは逆の操作を行った。簡単には消えなかったが、風魔術も併用して少しずつ雲を散らし、どうにか空を元の状態へ戻すことに成功する。
すべてが終わった時には、二人とも全身ずぶ濡れになっていた。
ロキシーは濡れた髪を顔へ貼りつかせながら、それでも晴れやかな表情でルーデウスへ告げた。
「おめでとうございます。これでルディは、水聖級魔術師です」
その言葉を聞いた瞬間、ルーデウスは大きな達成感を覚えた。
独学で壁を壊しただけの子供が、正式な魔術師から階級を認められた。
もっとも、その横ではカラヴァッジョが怯えた顔をしている。
ロキシーの秘密を守るためにも、帰宅後はレイネを説得しなければならなかった。
レイネ視点
昼を大きく過ぎた頃、グレイラット家の門前へ、ずぶ濡れになった一頭の馬と二人の魔術師が戻ってきた。
レイネは音に気づいて玄関を出ると、最初にルーデウスの顔色と手足を確認した。泥と雨水で汚れてはいるものの、目立った怪我はなく、疲労も許容できる範囲に見える。
次にロキシーを見れば、こちらも負傷はしていない。ただし、不自然なほど緊張した表情で、レイネと視線を合わせようとしなかった。
最後にカラヴァッジョへ近づく。
普段ならレイネの姿を見ると鼻先を寄せてくる馬が、その日は耳を後ろへ伏せ、僅かな物音にも身体を震わせていた。鬣の一部が不自然に短く、雨に濡れているにもかかわらず、近づけば焦げたような臭いが残っている。
「何がございましたか?」
静かに尋ねると、ロキシーの肩が跳ねた。
「途中で、少し雷が近くに落ちまして……」
「自然の雷でございますか?」
ロキシーは答えなかった。
ルーデウスも困ったように視線を逸らしたため、レイネはそれ以上追及せず、まずカラヴァッジョの身体へ触れた。
治癒魔術を受けた痕跡はあるが、表面だけを整えて内部へ損傷が残っている可能性もある。脚を一本ずつ確認し、瞳の動きや呼吸、心音に異常がないことを確かめていった。
カラヴァッジョはレイネの手を拒まず、やがて少しずつ呼吸を落ち着かせた。
「命に関わる異常はなさそうです。ただし、本日は厩舎で休ませます。明日の朝までは乗せてはいけません」
「パウロさんには……」
ロキシーが恐る恐る尋ねる。
レイネは焦げた鬣と、必死な表情のロキシーを見比べた。
「先生は、何があったか正確にお話しくださいますか?」
ロキシーは観念したように、卒業試験で豪雷積層雲を使用し、その落雷が誤ってカラヴァッジョへ当たったことを説明した。すぐに中級治癒魔術を施し、呼吸を取り戻した後も異常がないか確認したという。
「申し訳ありません。私の不注意です」
「その場で必要な治療を行い、隠したまま馬を使い続けようとなさらなかった点は理解いたしました」
レイネは淡々と答えた。
「旦那様には、遠出による疲労があるため休ませるとお伝えします。ただし、明日までに異常が見つかった場合や、先生が同様の事故を繰り返した場合には、すべてご報告いたします」
「ありがとうございます」
ロキシーは深く頭を下げた。
「それから、先生もルーデウス様も、まずお身体を温めてください。このままでは風邪を召されます」
レイネは二人を屋敷へ入れ、あらかじめ用意していた湯と乾いた衣服を渡した。
ルーデウスの着替えを手伝いながら試験の結果を尋ねると、水聖級へ昇格したことを少し誇らしそうに報告された。
「合格したのですね」
「はい。先生が認めてくれました」
「おめでとうございます」
レイネは素直に祝福した後、濡れた髪を布で丁寧に拭いた。
「それから、家の外にも出られましたね」
ルーデウスの動きが止まる。
試験の成功以上に、そのことをどう受け止めればよいのか、まだ自分でも整理できていないようだった。
「ロキシー先生が、馬へ乗せてくれました。村の人たちも、僕を笑いませんでした」
「そうでございましたか」
「帰りは、門の前で馬から降りて、自分で歩きました」
レイネは、そこで初めて少しだけ表情を和らげた。
「では、先生とご一緒に行かれてよかったですね」
「はい」
その返事には迷いがなかった。
レイネはそれ以上の言葉を加えず、濡れた上着を回収するため席を立った。
自分が同行しなかったことは、間違いではなかったのだろう。
ルーデウス視点
その日の夕方、雨に濡れた衣服を着替え、食事を終えたルーデウスは、一人で玄関へ向かった。
家族には、少し外の空気を吸いたいとだけ伝えた。
扉を開けると、夜の冷たい風が頬へ触れる。門までは何度も歩いたことがあるため、そこまでは何の問題もなかった。
問題は、その先だった。
昼間はロキシーに馬へ乗せられ、自分の足で境界を越えたわけではない。それでも、村を通り、誰にも罵られずに帰ってきた経験が、以前とは違う感覚を与えていた。
門を開き、片足を前へ出す。
胸の奥には、まだ恐怖が残っている。完全に消えたわけではない。
それでも、足は動いた。
門の外へ降ろした靴の下にあるのは、ただの土だった。
前世の家の前ではない。
自分を嘲笑する者もいない。
もう片方の足も外へ出すと、ルーデウスは生まれて初めて、自分の意思でグレイラット家の敷地外へ立った。
しばらく道の上へ立った後、門を振り返る。
玄関の明かりが見える。
帰る場所は、なくなっていなかった。
扉の近くには人影があった。レイネかもしれないと思ったが、距離があるため顔までは見えない。
人影は近づいてこなかった。
声をかけることも、家へ戻るよう急かすこともない。
ただ、ルーデウスが自分の足で戻るまで、そこに立っていた。
翌朝。
ロキシーは二年前にこの家へ来た時とよく似た旅装を整え、玄関に立っていた。
杖と鞄を持ち、茶色のローブを身につけている。レイネが荷物へ食料と水、治療道具を追加し、長旅に耐えられるよう紐を結び直していた。
「本当に行ってしまうの?」
ゼニスは名残惜しそうにロキシーの両手を握った。
「家庭教師が終わっても、この家にいていいのよ。まだ教えていない料理もあるし、村の人たちも寂しがるわ」
「そうだぞ」
パウロも続ける。
「去年の干ばつでは世話になった。お前なら、魔術を教える以外にも仕事はいくらでもある」
ロキシーは嬉しそうにしながらも、首を横へ振った。
「ありがとうございます。ですが、今回のことで、自分にはまだ学ぶべきことが多いと分かりました。しばらく世界を旅しながら、魔術師として腕を磨くつもりです」
今回のこととは、ルーデウスが短期間で自分と同じ水聖級へ到達したことだろう。
ロキシーは、教師として無力だったわけではない。
自分が魔術を安全に使えるようになったのは、彼女の指導があったからである。それでも本人は、弟子に追いつかれたことを、自らを見直すきっかけとして受け止めたらしい。
「先生は、僕にたくさんのことを教えてくれました」
ルーデウスが告げると、ロキシーは少し寂しそうに微笑んだ。
「そう言ってもらえると、私も家庭教師として来た意味がありました」
それからローブの内側へ手を入れ、革紐についた小さな飾りを取り出した。
緑色の金属で作られ、三本の槍を組み合わせたような形をしている。
「卒業祝いです。私の故郷、ミグルド族のお守りです」
そこでルーデウスは、ロキシーが魔族の一種であるミグルド族だと、改めて理解した。
「魔族の中には、気難しい者もいます。このお守りを見せて私の名前を出せば、少しは話を聞いてくれるかもしれません。ただし、必ず通用するものではありませんから、頼りすぎてはいけません」
「大切にします」
ルーデウスは両手でお守りを受け取った。
贈り物そのものだけでなく、自分を弟子として認め、故郷に関わる物を預けてくれたことが嬉しかった。
ロキシーは最後にルーデウスの頭を撫でると、家族やリーリャへ順番に別れを告げた。
レイネの前へ来ると、二人はしばらく向き合った。
「二年間、お世話になりました」
ロキシーが頭を下げる。
「こちらこそ、ルーデウス様をご指導いただき、ありがとうございました」
「レイネ」
「はい」
「ルディを、よろしくお願いします。頑張りすぎるところがありますから」
「承知しております。ただ、先生のお言葉でなければ止まらないこともございます。旅先からでも、時折お手紙をいただければ幸いです」
ロキシーは僅かに驚いた後、柔らかく笑った。
「分かりました。住所が定まったら、必ず送ります」
レイネは旅の荷物を渡しながら、小さな包みを追加した。
「道中でお召し上がりください。先生がお好きな甘さにしております」
「最後まで、何でも分かっているのですね」
「二年間、ご用意してまいりましたので」
ロキシーは包みを鞄へしまうと、もう一度全員を見渡した。
そして最後に小さく手を振り、村の道を歩き始めた。
その背中が少しずつ遠ざかる。
ルーデウスは何かを言おうとしたが、適切な言葉が見つからなかった。次第に視界が滲み、頬へ温かいものが流れる。
自分が泣いていると気づいた時には、ロキシーの姿はかなり小さくなっていた。
彼女からは、本当に多くのものを受け取った。
魔術の知識。
技術。
失敗した時の向き合い方。
何かを教えるために準備する責任。
そして何より、家の外へ連れ出してもらった。
前世では両親にも兄弟にもできなかったことを、ロキシーは特別な目的もなく成し遂げた。ただ卒業試験へ連れていくため、馬へ乗せて村を横切っただけだった。
しかし、ルーデウスにとっては、その「だけ」が何よりも大きかった。
ロキシーがいなければ、今も門の内側から外を眺めるだけだったかもしれない。
自分より小さな背中を見送りながら、ルーデウスは初めて、誰かを心から尊敬するという感情を知った。
「泣いてもよろしいのですよ」
隣に立ったレイネが、静かに言った。
慰めるために頭を撫でることも、すぐに泣き止むよう求めることもしなかった。
「先生との別れが悲しいのであれば、それだけ大切な時間だったということでございます」
ルーデウスは涙を拭かず、手の中のお守りを握った。
「僕は、先生のようになれるでしょうか」
「どのような意味でございますか?」
「誰かができなかったことを、その人自身も気づかないうちに、できるようにしてあげられる人です」
レイネはすぐには答えなかった。
やがて、遠ざかるロキシーの背中へ一度目を向け、それからルーデウスを見下ろす。
「なれるかどうかは、私には分かりません。ただ、先生から何をいただいたのかを忘れなければ、同じように誰かへ渡せる日が来るかもしれません」
ルーデウスは、その言葉を胸の中で繰り返した。
ロキシーの姿が道の向こうへ消えるまで、家族の誰もその場を離れなかった。
二年間続いた家庭教師との生活は、その朝をもって終わった。
しかし、彼女から教えられたものが、ルーデウスの中から失われることはなかった。