ルーデウス視点
翌朝、俺は昨夜書いた手紙を机の上へ広げ、最初の一文から読み直していた。
エリスへ宛てた手紙には、大学で長い間行方不明だった幼馴染と再会したこと、その再会がうれしくて抱き締め合いながら泣いたこと、そしてシルフィへ俺がエリスを愛していると伝えたことまで書いてある。
レイネへの気持ちについて尋ねられ、以前エリスへ話した時から何も変わっていないと答えたことも隠していない。
書いた内容そのものに嘘はなかった。
けれど、正直であることと、頭へ浮かんだことを何も整理せず相手へ投げつけることは違う。
自分の罪悪感を軽くしたいだけなのに、エリスへ必要のない不安まで背負わせようとしてはいないだろうか。必要以上に自分を悪者として書き、遠くにいるエリスから「ルーデウスは悪くない」と慰めてもらおうとしてはいないだろうか。
逆に、自分にとって都合の悪い部分だけを綺麗な言葉で覆い隠している可能性もある。
一度読み返すたびに、別の不安が浮かんでくる。
俺は筆を持ち、一部の文章を書き直した。
『シルフィへの気持ちは、まだ自分でも正確には分かりません。』
昨日は、そう書いた。
それ自体は嘘ではないが、この一文だけなら「自分でも分からない」という言葉へ逃げ込んでいるようにも見える。
俺は、その後へ文章を書き加えた。
『大切な友人であり、無事に再会できたことを心からうれしく思っています。
昔と同じ関係へ戻るのではなく、今の彼女を改めて知りたいと思っています。』
今の俺の気持ちには、こちらの方が近い。
シルフィを一人の女性として恋愛的に好きなのかと聞かれれば、まだ断定することはできない。だからといって、「昔からの友人だから」という言葉だけで二人の関係を固定し、再会してから胸へ浮かび始めた感情を全て見ないふりにするつもりもなかった。
昨日のシルフィの笑顔を思い出す。
エリスのことを聞いて傷ついた顔をしたのに、それでもエリスやレイネの存在を否定しようとはしなかった。
レイネへ告白できずにいる俺に対しても、自分が不利になるかもしれないことを分かったうえで、
――レイネ本人に選んでもらえばいい。
そう真剣な顔で言ってくれた。
シルフィ自身も、まだ俺へ言えていない何かを抱えているらしい。
それなのに俺がレイネへ向き合うことを勧めてくれた彼女の優しさを、自分に都合のよい形で受け取るわけにはいかない。
シルフィが何を思い、なぜあの言葉を選んだのかは、本人が話してくれるまで勝手に決めつけない。
レイネへ同じことをしていたと、昨日ようやく気づいたばかりなのだから。
俺は手紙を畳んで封筒へ入れたが、まだ封は閉じなかった。
シルフィのことをどこまで書いてよいのか、本人へ確認する必要がある。
現在《フィッツ》という名前で生活していることも、アリエル王女の護衛をしていることも、本当は女性であることを伏せている事情も、手紙を途中で読まれれば危険につながる情報だ。
シルフィという名前だけなら書いてよいのか、それとも単に「幼馴染」とだけ記すべきなのか。
そこまで俺一人の判断で決めてはいけない。
机を離れて授業の準備を始め、鞄を持ち上げた時、昨日レイネと交わした会話が蘇った。
俺とシルフィが二人で昼食を取ることについて、レイネは「何も感じていないわけではございません」と答えた。
ただし、具体的に何を感じているのかまでは話さなかった。
以前の俺なら、「尋ねても答えてくれない。やはりレイネの気持ちは分からない」と考え、その場で思考を止めていただろう。
今は違う。
レイネは何も感じていないから答えられなかったのではなく、自分自身の意思で「今は言わない」と選んだ。
自分の中に感情があり、それをいつ言葉にするのか、それとも今は胸へ置いておくのかを、自分で判断している。
それを知っただけで、俺の中には怖さと期待が同時に生まれていた。
レイネへ告白したい。
その気持ちはもう、以前のように「いつか遠い未来で」と棚上げできるものではなくなっている。
だからといって、今日いきなり勢いだけで伝えるつもりもなかった。
レイネへ俺の気持ちを伝えるなら、その後に自分が何を望んでいるのかまで話さなければならない。
俺はエリスを愛している。
シルフィへの感情については、まだ自分でも完全には定まっていない。
そのうえで、それでもレイネを家族としてだけではなく、一人の女性として愛している。
そうした全てを聞いたうえで、レイネ本人へ選んでもらわなければならない。
そこまでの覚悟を決めず、「好きです」という言葉だけを相手へ投げつけることはできなかった。
「難しいな」
独り言が、静かな部屋へ落ちた。
感情を持つだけなら簡単だし、自分が誰かを愛していると認めることも、今では以前ほど難しくない。
本当に難しいのは、その気持ちを、相手の人生へ触れる言葉として差し出すことなのだろう。
◇
午前中の授業を終えると、俺は昨日約束した場所へ向かった。
中央校舎の東側、学生食堂に面した回廊の下では、フィッツ先輩がすでに俺を待っていた。
今日も短く整えられた白い髪に濃色の眼鏡を掛け、周囲には一般の学生たちが行き交っている。
俺は足を止め、今までと同じ距離を保ったまま声を掛けた。
「お待たせしました、フィッツ先輩」
「いえ。こちらこそ、お時間をいただきありがとうございます」
返ってきたのは、護衛魔術師として作っている低い声と丁寧な口調だった。
昨日、二人だけの場所で話していた時のシルフィとは違う。
けれど、もうその違いに不安を覚えることはない。
フィッツとして振る舞うこの姿も、俺の知らない年月をシルフィが生き抜く中で身につけた、彼女自身の一部なのだ。
「食堂へ行きますか?」
「その前に、少し寄っていただきたい場所があります」
「どこでしょうか」
「図書館です」
シルフィは抱えていた書類を少し持ち上げた。
どうやら、今日は単に一緒に食事をするだけではないらしい。
俺たちは学生食堂でパンと煮込み料理を持ち帰り用に包んでもらい、そのまま図書館へ向かった。
目的地は二階の奥にある、転移事件や召喚魔術に関する資料が集められた区画だった。
ここには、俺も以前から何度も足を運んでいる。
資料を読むことへ集中しすぎて昼食まで忘れていた時、フィッツ先輩が食事を持ってきてくれたこともあった。
今になって考えると、あの時のシルフィはどのような気持ちで俺を見ていたのだろう。
俺は彼女の声や仕草へ懐かしさを覚えながら、それが誰なのか分からなかった。
一方のシルフィは、俺に気づいてほしいという気持ちを抱えながら、正体を明かすことを恐れていた。
同じ机を挟んで同じ資料を読み、互いに言葉まで交わしていたのに、俺たちは思っていた以上に遠く離れていたのかもしれない。
「ルーデウス君?」
呼ばれて我に返る。
「すみません。少し考え事をしていました」
「疲れていますか?」
「いいえ」
周囲に人は少ないが、完全に二人きりというわけではない。
少し離れた机では司書が作業をしているため、俺はフィッツ先輩という呼び方を崩さなかったし、シルフィもそれを理解している。
「それで、何を見せてくれるのですか?」
「こちらです」
シルフィは机へ三冊の本と、数枚の紙を並べた。
一冊目はフィットア領転移事件の目撃証言をまとめた記録で、二冊目は古代の召喚魔術について書かれた研究書、そして三冊目は魔力災害によって身体へ変化が起こった症例を集めた医術書だった。
「これを、フィッツ先輩が?」
「はい」
「全て読みましたか?」
「必要な部分は」
そう言うものの、紙には章や頁数だけでなく内容の要約まで細かく書かれている。
転移した者がどの程度の距離を移動していたのか、発見された時期、転移直前に目撃された光の色、魔物の増加が確認された地域、周囲の魔力濃度へ異常が見られた時期などが、項目ごとに整理されていた。
「すごいですね」
素直にそう口にした。
「僕は、ここまで整理できていませんでした」
「ルーデウス君は、仮説を考える方に時間を使っていましたから」
「見ていたのですか?」
「同じ資料を読んでいましたので」
シルフィの口元が僅かに緩む。
「それに、昔からルディは、気になることを見つけると、そちらへ進んでしまうから」
最後の言葉だけは、司書にも届かないほど小さな、昔のシルフィの声だった。
胸が温かくなる。
「変わっていませんか?」
俺も小声で尋ねる。
「少しは変わったよ」
「少しだけですか?」
「前より、周りを見るようになったと思う」
そう言われると、素直にうれしかった。
同時に、ただ喜ぶだけではいられない感情もある。
シルフィは俺のいない時間の中で変わった。
そして俺もまた、彼女に「以前とは違う」と感じてもらえる程度には変わっている。
失った年月そのものは戻ってこない。
けれど、離れて歩いてきた時間まで無駄だったわけではないのだと思えた。
「それで」
シルフィは姿勢を整え、再びフィッツとしての声へ戻った。
「転移事件の調査へ、僕も正式に加えていただけませんか?」
「正式に?」
「これまでも、自分で資料を調べていました。ですが、同じ資料を別々に読むより、役割を分けた方が効率的だと思います」
「アリエル様の護衛は?」
「空いている時間だけです。護衛へ支障を出すつもりはありません」
俺の答えは、最初から決まっていた。
「もちろんです。こちらからお願いしたいぐらいです」
頷くと、シルフィの表情がぱっと明るくなった。
濃色の眼鏡に目元の一部を隠されていても、喜んでいることは十分に分かる。
「ありがとうございます」
「では、調査の方針を決めましょう」
俺も鞄から、これまで作ってきた記録を取り出した。
俺が調べていたのは、転移事件の発生地点や魔力災害の中心と思われる場所、フィットア領からの距離によって転移した人間や物体にどのような違いがあったのか、さらに転移と召喚の間に共通する原理が存在する可能性についてだった。
「僕は、転移事件が単なる爆発ではなく、何かを別の場所へ送る現象だったと考えています」
「うん」
「ただ、自然に起きた転移と、人為的に行う召喚が同じものなのかは分かりません」
「召喚は、呼ぶ側が必要でしょう?」
「そのはずです」
「なら、フィットア領の事件でも、誰かが呼んだ可能性がある?」
「断定はできません」
俺は首を横へ振った。
「巨大な魔力が偶然、召喚に似た現象を引き起こしただけかもしれません。あるいは、僕たちが知らない場所から、何か別の現象へ巻き込まれた可能性もあります」
シルフィは俺の記録へ目を落とした。
「僕たちが別の場所へ飛ばされた時、同じ場所から消えた人たちが、近い場所へ送られたとは限らないよね」
「はい。僕とエリスは同じ場所へ飛ばされましたが、レイネはミリス大陸側で、シルフィはアスラ王国でした。父さんやほかの人々も、まったく別の場所へ転移しています」
「人だけではないんだよね?」
「ええ。建物や土地の一部まで移動しています」
「選ばれたわけではない?」
「何らかの選別条件が存在した可能性は残ります。ただ、現在の情報だけでは分かりません」
シルフィは一枚の紙を取り出した。
「なら、転移した人の年齢や種族、魔力量も調べた方がいい?」
「そうですね。できれば、転移直前に何をしていたかも知りたいです」
「何をしていたか?」
「同じ場所にいても、転移した人と、転移しなかった物があるかもしれません。姿勢や、その時に接触していた物が関係している可能性もあります」
話しているうちに、思考が次々と広がっていく。
一人で考えていた頃は、仮説を思いついても、それを確かめるにはどの情報が不足しているのかまで整理できないことがあった。
シルフィは俺の考えをすぐ否定するのではなく、「では、その仮説を確かめるには何が必要か」という方向から情報を整理してくれる。
昔、俺が魔術を教え、シルフィが一つずつ覚えていった頃とは違う。
今の俺たちは、同じ研究へ、それぞれ異なる方法から取り組むことができる。
もはや教師と生徒ではない。
同じ机へ並ぶ、研究の協力者なのだ。
その変化が、うれしかった。
「フィッツ先輩」
「はい」
「一緒に調べられることを、うれしく思います」
シルフィの手が僅かに止まった。
「研究のこと?」
「研究もです」
それ以上の意味を、今ここで説明するつもりはなかった。
離れていた時間について語り合うだけではなく、これから先の時間を一緒に作ることができる。
そのこと自体が、うれしいのだ。
シルフィは少しだけ頬を赤くした。
「僕も」
小さく答えてから、すぐに資料へ顔を戻す。
俺も記録へ視線を落としたものの、心臓の鼓動はさっきより少し速くなっていた。
◇
調査の役割を決め始めたところで、図書館の入口から静かな足音が近づいてきた。
顔を上げると、そこには資料を二冊抱えたレイネが立っていた。
白い髪と赤い瞳はいつもどおりだが、今日は侍女服ではなく、大学の制服の上から動きやすい外套を羽織っている。
最近のレイネは、授業へ参加する時には学生としての服装を選ぶことが増えた。
俺へ仕える侍女であることを捨てたわけではない。
ただ、それだけではない自分の時間を持つようになり、それを服装の上でも少しずつ区別し始めているのだ。
「レイネ」
呼ぶと、レイネはこちらの机へ近づいてきた。
「お邪魔ではございませんか?」
「いいえ」
即座に答える。
「薬草学の先生との話は?」
「予定より早く終わりました」
レイネは抱えていた一冊の本を見せた。
北方大地で使用される薬草と、魔力濃度による成長の違いについて記された資料らしい。
「ミミル様の記録と照合したところ、大学の資料へ記載されていない使用法が幾つかございました」
「教員には伝えましたか?」
「はい。次回、実物と記録をお見せすることになりました」
声はいつもどおり落ち着いている。
けれど、自分の発見について話している時には、目元がほんの僅かに柔らかくなっていた。
以前のレイネなら、「ルーデウス様のお役に立つ情報だから」「旅の安全へ必要だから」と説明していただろう。
今は違う。
自分が知りたいと思ったから調べ、自分自身が価値を見いだした記録を教師へ伝えている。
その姿が、俺には眩しく見えた。
昨日、シルフィから「昔のレイネだけを見ていたら駄目だ」と言われた。
本当に、そのとおりだった。
レイネは、俺が迷っている間にも、自分自身の足で前へ進んでいる。
「何をお調べになっていたのでしょうか」
「転移事件です」
シルフィが答えた。
「今日から、僕もルーデウス君の調査を手伝うことにしました」
「そうなのですね」
レイネはシルフィへ穏やかに頷く。
「フィッツ様は、以前から多くの資料をお読みになっていましたので、心強いと存じます」
「レイネも知ってたの?」
「何度か、同じ書棚でお見かけいたしました」
「声を掛けてくれればよかったのに」
「当時は、フィッツ様としての事情を、どこまで存じ上げているように振る舞うべきか判断できませんでした」
「そっか」
シルフィは困ったように笑った。
二人の間には、俺の知らない時間だけでなく、互いの事情をある程度知りながら、それでも不用意に近づかないよう距離を測っていた時間もあるらしい。
これからは、そうした部分も少しずつ埋めていけるのだろう。
「レイネも、一緒に調べませんか?」
俺が尋ねると、レイネはすぐには答えなかった。
一度俺たちの資料へ視線を落とし、その後、自分が抱えている薬草学の本を見る。
以前のレイネなら、ほとんど迷うことなく「ルーデウス様がお望みであれば」と答えていたはずだ。
「本日は、参加したいと考えております」
今のレイネは、自分の意思として答えた。
「ただし、毎回ご一緒することはできないと存じます。私自身の研究も続けたいと考えておりますので」
胸の奥へ温かいものが広がる。
「もちろんです。レイネの予定を優先してください」
「優先するのではなく、どちらを選ぶか、その都度考えたいと存じます」
一瞬、言葉を返せなかった。
どちらか一方を常に上位へ置くのではない。
俺と過ごす時間も、自分自身の研究も、友人と交わした約束も、その時々で何を大切にしたいのかを自分で考えて選ぶ。
レイネは、もうそこまで考えるようになっていた。
「分かりました。では、今日は一緒にお願いします」
「はい」
レイネは最初、俺の隣へ座ろうとしたようだった。
しかし机の配置を確認すると、一度動きを止める。
俺とシルフィは並んで座っており、向かい側には椅子が二脚空いている。
レイネは少し考えた後、俺の真横ではなく、向かい側の席を選んだ。
最初の一瞬だけ、距離を取られたように感じて胸へ小さな寂しさが浮かんだ。
けれど、向かい側なら俺だけでなく、シルフィとも真正面から話すことができる。
レイネは俺へ付き添う者として座ったのではなく、「三人で研究する一人」として自分の位置を選んだのだ。
「転移された方々の身体へ、何らかの変化が残っている可能性を調べていました」
シルフィが説明した。
「レイネは、何か知ってる?」
「直接拝見した範囲に限られますが」
レイネは旅の中で出会った転移被災者たちについて話した。
寒冷地へ飛ばされて凍傷を負った者もいれば、高所へ転移して落下時に負傷した者もいた。魔物の縄張りへ突然投げ出され、襲撃を受けた者もいる。
少なくともレイネが確認した範囲では、転移現象そのものによる傷というより、飛ばされた先の環境によって負傷した例が多かったらしい。
「シルフィの髪の色も、転移自体というより、落下を防ぐための魔力消耗が原因だと考えているのですか?」
俺が尋ねる。
「可能性が高いと存じます。ただし、魔力災害の影響が全くなかったとは断定できません」
「転移した瞬間に、身体へ何かが起きた可能性もある?」
シルフィが尋ねた。
「はい。ただ、転移前後の身体状態を正確に比較できる記録が少なすぎます」
「なら、今後見つかった被災者には、現在の身体だけではなく、転移以前の状態も聞く必要がありますね」
俺は新しい調査項目を書き加えた。
それからは三人で意見を出し合った。
俺が仮説を立てれば、シルフィがそれを検証するために必要な資料と記録を整理し、レイネが実際に見てきた症例や旅の経験から仮説の穴を指摘する。
一人だけで進めていた時とは、調査の速度も内容の深さも大きく違った。
何より、楽しかった。
もちろん、転移事件そのものは多くの人間の人生を壊した災害だ。
俺たち三人だって、あの事件によって別々の場所へ投げ出された。
だからこそ、その事件の調査を「楽しい」と感じることへ、僅かな罪悪感がないわけではない。
けれど、理解しようとすることは、被害を軽く見ることではない。
原因を探し、もし同じことが起きた時には少しでも多くの人間を救えるようにする。
そのために調べている。
そして、かつて俺たち三人を引き離した出来事を、今は三人で同じ机を囲んで調べている。
そこには、上手く言葉へできない意味があるように思えた。
◇
昼食を食べ終え、午後の資料整理へ移ろうとした時、図書館の入口から聞き慣れた大きな声が響いた。
「師匠!」
司書が勢いよく顔を上げ、周囲で本を読んでいた学生たちも一斉に入口を見る。
そこには、両手で木箱を抱えたザノバが立っていた。
「ザノバ」
俺は口元へ指を立てる。
「図書館では静かに」
「失礼いたしました、師匠」
今度はきちんと小声になった。
もっとも、ザノバは身体そのものが大きいため、黙って歩いているだけでもかなり目立つ。
机の近くまで来ると、ザノバはシルフィとレイネへ頭を下げた。
「フィッツ殿、レイネ殿。師匠との崇高なる研究を妨げる無礼をお許しください」
「崇高かどうかは、まだ分かりません」
俺は苦笑しながら答えた。
「何かありましたか?」
「はい」
ザノバは抱えていた木箱を慎重に机へ置き、蓋を開いた。
中には、人の形を目指したらしい土の塊が入っていた。
一応、頭と胴体らしい部分があり、腕と脚も二本ずつ存在する。
しかし全体の比率は大きく崩れており、右腕は左腕の倍近く太い。頭には目を作ろうとしたらしい穴が四つも開いている。
手には、身体と同じ土で作られた長い槍が握られていた。
槍を持った戦士という特徴がなければ、ザノバが何を作ろうとしたのかを判断することさえ難しかっただろう。
それでも、俺には思い当たるものがあった。
「《ルード人形》を再現したのですか?」
「さすが師匠!」
ザノバの顔が輝く。
「この状態でもお分かりになるとは!」
正直、完全に分かったわけではない。
槍がなければ、人間を作ったということさえ自信を持てなかったかもしれない。
ただ、《ルード人形》なら、ザノバが最初の制作対象として選ぶ理由には納得できた。
シーローン王国でザノバと出会った頃、俺は魔大陸を旅している途中で作った人形を持っていた。
ルイジェルド本人を見ながら、少しずつ形を整えたものだ。
もともとは人前へ出すつもりなどなかった。
しかし、あの人形を見たザノバは内部を補強した槍の構造まで確認し、俺が同じ物を作れると知ると、その場へ跪いて「師匠」と呼ぶようになった。
あの人形がなければ、ザノバへ協力を求めることも、ジンジャーから王宮の情報を得ることも、リーリャを救い出す道を作ることも難しかったかもしれない。
俺にとっても、単なる趣味の人形ではなかった。
「よく覚えていましたね」
俺が言うと、ザノバは胸を張った。
「忘れるはずがございません! あの人形こそ、師匠の偉大さを余へ知らしめた至高の一体! 実在する戦士を、小さな形へ余すところなく写し取った傑作でございます!」
途中から声が大きくなり始め、司書がこちらを睨んだ。
「ザノバ」
「失礼いたしました」
すぐに小声へ戻る。
「昨日、人形についての記録を整理しておりましたところ、あの姿が鮮明に蘇りました。師匠と工房での修練を始める前に、現在の余がどこまで再現できるのか確かめたくなり、試作した次第にございます」
以前再会した時、ザノバは大学へ来てからも自分なりに人形について調べてきたと話していた。
木や石、陶器、布といった材質ごとの違いだけでなく、関節の構造や壊れやすい箇所まで帳面へ記録していた。
絵は壊滅的だったものの、観察内容自体はかなり細かかった。
つまりザノバは、ただ俺と再会する日を待っていたわけではなく、自分にできる範囲で人形について学び続けていたのだ。
今回は、その成果を自分自身の手で試したのだろう。
完成品だけを評価するなら、ルイジェルド本人へ見せることをためらうほどの出来だ。
それでも、最初から他人へ作らせず、自分で手を動かしてみたことには意味がある。
「昨日のうちに作ったのですか?」
「はい。工房へ置かれていた練習用の土を、管理者の許可を得て使用いたしました」
「許可は自分で取りましたか?」
「ジンジャーに申請の仕方を確認した後で、余自身が頼みました」
「勝手に持ち出してはいませんね?」
「無論です」
そこにも、きちんと進歩があった。
以前のザノバなら、欲しい物や使いたい物があれば、所有者の事情まで十分に考えず手を伸ばしていた可能性がある。
今はジンジャーから方法を教えてもらったうえで、自分から管理者へ許可を求めている。
俺は土人形を持ち上げてみた。
「……重いですね」
見た目より、かなり重い。
どうやら土を押し固めすぎているらしい。
細い腕や槍が崩れなかったのは、細部まで強引に密度を上げているからだろう。
強度を出すことへ意識を向けすぎた結果、造形へ必要な柔らかさを失っている。
「どのように作りましたか?」
「師匠が以前お作りになった方法を思い出し、土魔術で全体の形を整えました」
「魔術だけで?」
「最初は。その後、指で細部を整えようといたしました」
ザノバの指を見る。
大きい。
しかも彼は神子として、人間離れした怪力を持っている。
本人としては十分に慎重に触れたつもりでも、柔らかな土へ加わる力が強すぎるのだろう。
「もう一度、作るところを見せてもらえますか?」
「もちろんにございます!」
さすがに図書館で土細工を始めるわけにはいかない。
俺たちは資料を片づけ、ザノバが使用許可を得ている工作用の実習室へ移動した。
そこは本来、魔道具や儀式用の模型を作るための部屋らしく、壁際には作業台が並び、土や木片、金属線、細工用の小刀などが用意されている。
俺は作業台へ粘土質の土を置いた。
「まず、簡単な形から作りましょう」
「最初から《ルード人形》を作らないのですか?」
「人間の全身を正確に作るのは難しいです」
「しかし、師匠は旅の途中で、あれほど精緻な人形を作られました」
「僕も、最初から完成形を作れたわけではありません。それに、僕とザノバでは得意な方法が違います」
俺は土魔術を使い、土の塊を小さく分けた。
まず指先ほどの球体を作り、その下へ円柱をつけて簡単な人型へ整える。
顔も服も髪も作らない。
人形というより、身体の比率を理解するための模型だ。
「まずは、左右を同じ長さにすることからです」
「承知いたしました」
ザノバが魔力を流す。
土は一度、人型らしい形へ変わった。
ところが、右腕を細くしようとした瞬間、肩から先が砕けた。
「む」
ザノバが眉を寄せる。
もう一度試す。
今度は魔術ではなく、自分の手を使おうとした。
親指と人差し指で腕の部分を軽く挟んだ――本人としては、そのつもりだったのだろう。
土の腕は、あっさりと根元から潰れた。
「力を抜いたのですが」
「ザノバにとっては抜いたつもりでも、細工には強すぎるのでしょう」
ザノバは自分の両手を見つめた。
自分が持つ強すぎる力のせいで、大好きな人形へ触れることすら難しい。
彼にとっては、戦闘で誰かを倒せないことより、こちらの方がよほど深刻なのかもしれない。
それでも、一度失敗した程度で投げ出すことはなかった。
「もう一度、試してもよろしいでしょうか」
「もちろんです」
ザノバは新しい土を取った。
何度も試し、そのたびに腕が砕け、脚が潰れ、頭が大きく歪んだ。
魔術だけで細部まで形を整えようとすれば、全体へ余計な力が入りすぎて固くなる。
直接手で触れれば、今度は触れた部分が潰れる。
それでもザノバは、途中で諦めなかった。
「ザノバは、以前より力の調整が上手くなっています」
俺が言うと、ザノバが顔を上げた。
「本当でございますか?」
「はい。シーローンで会った時より、物へ触れる時の力は抑えられています。ただ、人形制作に必要な精度へ到達するには、別の方法も考えた方がよいでしょう」
「別の方法」
「魔術そのものの制御を鍛える方法もありますし、道具を使って直接触れずに加工することもできます。あるいは、ザノバが考えた形を、細工の得意な別の人へ再現してもらう方法もあります」
最後の方法は、ザノバ自身が何もせず、全てを他人任せにするという意味ではない。
どのような形にしたいのか、寸法はどうするのか、どの素材を使い、どのような表情にし、関節はどこまで動かすのか。
そうした設計そのものをザノバが考え、それを細工の得意な人間へ伝える。
人形制作には、そういう役割分担も存在する。
俺の前世だって、一つの商品を必ず一人の人間だけで完成させていたわけではない。
原型を作る人もいれば、部品を加工する人や衣服を縫う人、彩色を担当する人、最後に全体を組み上げる人もいる。
「ただし、誰かに作ってもらう場合でも、ザノバ自身が制作について理解していなければなりません」
「なぜでしょうか」
「何が難しいのかを理解していなければ、実際に作る人へ無理を押しつけてしまうからです。ザノバには簡単に見えることでも、職人にとっては何日も必要な作業かもしれません」
「なるほど」
「自分の理想を相手へ伝えることと、不可能な要求を押しつけることは違います」
シーローンにいた頃、俺はザノバへ、人形を作るためにも他人と関わる方法を学んでほしいと話した。
人形を作る職人だけでなく、材料を用意する者も道具を作る者も、誰一人として完全に一人で仕事をしているわけではない。
よい人形を作りたければ、人と協力する必要がある。
当時は「人間を大切にしてください」とだけ言うより、人形へ結びつけた方がザノバには理解しやすいと思って説明したことだった。
今、その言葉が実際の制作へつながり始めている。
ザノバは真剣な表情で頷いた。
「ならば、余も引き続き学びます。自ら作れぬ部分を知るためにも、作ることを諦めてはなりませんな」
「その方がよいと思います」
「いつか、余自身の手でも、あの《ルード人形》へ近づいてみせます。ただし、同じ物を写すだけでは、師匠の作品を越えたことにはなりませぬ。いずれは、余自身が選んだ人物を、余自身の理想によって人形へいたします」
ザノバは箱の中の失敗作を見ながら、そう言った。
単なる模倣で終わらず、自分が誰を作り、どのような姿を残したいのかまで考え始めている。
今のザノバには、まだ明確な答えはないのかもしれない。
それでも、「自分が作りたい物」を探し始めている。
変わり始めているのは、レイネだけではない。
シルフィも、ザノバも、それぞれ自分の意思で前へ進もうとしている。
俺も立ち止まってはいられない。
会話を聞いていたシルフィが、作業台へ近づいてきた。
「僕も、試していい?」
「もちろんです」
シルフィは手のひらを土へ向けた。
小さな土の塊が浮き上がり、空中でゆっくりと形を変えていく。
最初は歪んだ球体だったものが細長い胴体となり、左右へ翼が伸び、最後に小さな頭と尾が形成された。
出来上がったのは、一羽の鳥だった。
羽毛や目といった細部までは再現されていないものの、翼の長さも尾の向きも整っており、誰が見ても鳥だと分かる。
「上手ですね」
「細かいところは全然だけどね」
シルフィは小さな鳥を壊さないよう、慎重に作業台へ下ろした。
「無詠唱で形を変えるのは、ほかの土魔術と同じだから。崩れないように魔力を流し続ける方が難しかったよ」
「形を作ることより、維持することを意識したのですか?」
「うん。いきなり顔や服を作ろうとしたら、ザノバみたいに全体が崩れそうだったから」
ザノバが、自分の失敗作とシルフィの鳥を見比べる。
「余の失敗を観察し、その原因を避けたのですな」
「せっかく先に見せてもらったからね」
シルフィは当然のように答えた。
昔、俺が教えた無詠唱魔術を、今のシルフィは自分自身で考え、状況に合わせて使っている。
俺の知らない年月の中で身につけた技術だ。
幼い頃の教え子としてではなく、一人の魔術師として今のシルフィを見ると、離れていた時間への寂しさと同時に、誇らしさが胸へ広がった。
「フィッツ殿」
ザノバが、小さな鳥へ顔を近づけた。
「こちらは、何という鳥を模した物でしょうか」
「特定の一羽じゃないよ。ブエナ村や王宮で見た鳥を思い出しながら、鳥らしく見える形にしただけ」
「複数の記憶から、必要な特徴を選び取ったのですな。見事でございます!」
「そこまで大げさなものじゃないと思うけど」
シルフィが困ったように俺を見る。
「ザノバは人形のことになると、評価が大きくなりがちです」
「大きすぎるという意味でしょうか?」
ザノバが真剣に尋ねてきたが、俺は答えなかった。
「レイネ殿も、いかがでしょうか」
今度はレイネへ話を振る。
レイネは作業台へ置かれた土を見た。
「私は、魔術による造形を専門としておりません」
「ですが、侍女として細かな作業には慣れておられるのでは?」
「裁縫や料理とは異なります」
そう答えながらも、レイネは小さな土の塊を手に取った。
魔術は使わず、細工用の小刀と細い木の棒を選ぶ。
土を指で押し、表面を削りながら、少しずつ形を整えていく。
やがて出来上がったのは、小さな器だった。
両手で包める程度の、飾り気のない単純な茶器だ。
それでも縁の厚みは均等で、底もしっかり安定している。
「見事です!」
ザノバが身を乗り出した。
「これは、どなたの茶器を再現されたのでしょうか!」
「特定の物を再現したわけではございません」
「では、レイネ殿の創作!」
「創作と呼べるほどのものでは――」
レイネはいつものように否定しかけて、途中で言葉を止めた。
そして、自分の作った小さな器をじっと見つめる。
「私が、使いやすいと思う形へいたしました」
そう言い直した瞬間、胸が大きく鳴った。
誰かのためではない。
俺の好みでもなければ、「侍女として作るならこの形が正しい」と考えたものでもない。
レイネ自身が使いやすいと思い、その感覚を形にした茶器だった。
たった一つの小さな器にすぎない。
それでも、レイネが自分自身の好みを形にした物なのだ。
「よいと思います」
俺が言うと、レイネがこちらを見る。
「何が、でございましょうか」
「その形です」
俺は茶器を手に取った。
手に馴染み、縁が僅かに外へ向いているため、熱い飲み物でも口をつけやすそうだった。
「本当に使いやすそうです」
「ありがとうございます」
「これを、焼いて残しませんか?」
レイネの目が僅かに開かれた。
「残すのでございますか?」
「はい」
「練習で作った物ですが」
「レイネが自分で作りたいと思って作った物でしょう」
俺は茶器を丁寧に作業台へ戻した。
「なら、残す価値があります」
レイネはしばらく茶器を見つめた後、静かに頷いた。
「では、残したいと考えます」
もちろん、その答えが俺の告白に対する答えではないことくらい分かっている。
それでも、レイネが自分で作った物を、自分の意思で「残したい」と答えた。
ただそれだけのことが、うれしかった。
「ねえ」
シルフィが、作業台へ残っている土を見ながら言った。
「三人で、一つ作らない?」
「三人で?」
「うん」
シルフィは少し考えた後、土の表面へ簡単な線を描いた。
緩やかな丘を作り、その中央へ一本の大きな木を立てる。丘から下へ細い道を伸ばし、その先に小さな家々を置くような構図だった。
「ブエナ村ですか?」
俺が尋ねる。
「村を全部作るのは無理だけど、丘の大木なら三人とも分かるでしょう?」
俺とシルフィが、何度も魔術を練習した場所だ。
別れの前日にも二人で長い時間を過ごし、それぞれ自分の道を歩くことについて話した。
レイネがいつも訓練へ同行していたわけではないが、同じブエナ村で暮らしていたため、俺たちがどこで魔術を練習していたのかも、丘からどの道を通って家へ戻っていたのかも知っている。
三人が同じ出来事を、全く同じ立場や視点から見ていたわけではない。
だからこそ、それぞれが覚えている景色を持ち寄って作ることには意味があるように思えた。
「よいですね」
俺が答えると、レイネも静かに頷いた。
「では、私は土台と丘を作ります」
「僕は木の幹を作る」
シルフィが言う。
「なら、僕は枝と葉を作ります」
役割を決め、三人で作業を始めた。
レイネが土を平らに整え、中央へ緩やかな丘を作る。
シルフィがその上へ太い幹を伸ばし、俺はそこから枝を広げ、小さな葉の形を重ねていった。
最初は、それぞれが自分の担当部分だけを作っていたが、途中でシルフィの作った幹と、俺の伸ばした枝の角度が合っていないことに気づいた。
「もう少し、こちらへ傾けた方がよいですね」
「なら、幹を少し直すよ」
「僕の枝を短くした方が早いです」
「でも、その枝は長かったと思う。ルディが雨宿りしようとして、全然隠れられなかったところでしょう?」
「覚えていたのですか」
「ルディがずぶ濡れになったからね」
シルフィが覚えている大木と、俺が覚えている大木では、同じ場所を見ていたはずなのに強く記憶へ残っている部分が少しずつ違う。
だから、どちらか一方の記憶だけを正しいものとはせず、互いが覚えている形を少しずつ合わせていく。
「丘の傾斜は、こちらでよろしいでしょうか」
レイネが尋ねた。
土台には、大木から村へ下っていく細い道まで作られている。
「道まで作るのですか?」
「はい。大木だけでは、どの場所を表しているのか分かりにくいと考えました」
「確かに、この道を通って村へ帰っていましたね」
「うん。僕は途中で家の方へ曲がって、ルディはレイネとグレイラット家へ戻ってた」
「そうでしたね」
シルフィの言葉を聞きながら、レイネが道の先へ小さな分かれ道を加えた。
俺とシルフィが二人で魔術を練習した時間があり、その後にはレイネと俺が家へ帰った時間もある。
三人の記憶は、最初から全く同じではない。
けれど、それぞれの道を一つの土台へ作れば、ブエナ村で過ごした三人の時間を無理なく同じ景色へ収めることができた。
「昔は、僕とルディだけで、この丘にいることが多かったけど」
シルフィは作りかけの大木を見ながら言った。
「今は、レイネとも一緒に作れてうれしいよ」
レイネはすぐには答えず、丘から伸びる道と、その中央に立つ大木を静かに見つめた。
「私は、お二人と同じ思い出を持っているわけではございません」
「うん」
「ですが、今の三人で新しい思い出を作ることはできます」
レイネは顔を上げた。
「本日こうしてご一緒できたことを、私もうれしく思っております」
胸の奥が静かに温かくなる。
過去の記憶を、後から無理やり同じものへ書き換える必要などない。
あの頃に俺とシルフィが二人で過ごした時間は、二人のものだ。
レイネと過ごした別の時間も、きちんと存在している。
そのうえで、今の三人が同じ場所へ集まり、新しいものを作っていけばいい。
「僕もです」
俺は二人を見た。
「昔の関係を作り直すのではなく、今の三人で過ごせることをうれしく思います」
シルフィが柔らかく笑い、レイネも静かに頷いた。
三人で作業へ戻り、やがて丘の上に一本の大木が立った。
決して完成度の高い模型ではない。
縮尺も正確ではないし、枝の方向や道の幅も、本当のブエナ村とは違っている可能性がある。
それでも、三人がそれぞれの記憶と、今の意思を持ち寄って作った物だった。
「こちらも、焼いて残しますか?」
レイネが尋ねる。
「はい」
俺は即答した。
「三人で持つことはできませんね」
「なら、順番に預かる?」
シルフィが提案した。
「最初は、誰が?」
シルフィとレイネが同時に俺を見る。
「僕ですか?」
「ルディが言い出したわけではないけど、ルディの部屋が一番安全だと思う」
「ルーデウス様は、物品の管理を適切になさいますので」
二人から同意されたものの、俺は少し考えて首を横へ振った。
「最初は、シルフィが持っていてください」
「僕?」
「はい」
シルフィは長い間、ブエナ村へ戻れていない。
俺には村で過ごした後、ロアでの生活があり、その後には旅があり、父さんたちとの再会もあった。
レイネもブエナ村で暮らした記憶を持ったうえで、その後は別の土地を歩いてきた。
シルフィだけが、あの日突然空へ飛ばされ、故郷から完全に切り離されたのだ。
「ブエナ村から、最も長く離れていたのはシルフィですから」
シルフィは完成した大木を見た。
眼鏡の奥で、瞳が僅かに潤んでいる。
「いいの?」
「もちろんです」
「レイネは?」
「異論はございません」
レイネも頷いた。
「次は、私がお預かりしてもよろしいでしょうか」
「うん」
「その後は、俺ですね」
順番まで決まった。
一つの物を三人で持ち、特定の誰かだけを所有者にするのではなく、それぞれの場所へ順番に置く。
何かの約束に少し似ていると思った。
誰か一人へ全てを渡すのでもなければ、誰かから奪うわけでもない。
互いの時間と意思を認めながら、同じ物を大切にしていく。
もちろん、それがそのまま俺たちの関係へ当てはまるとは限らない。
恋愛は模型ほど単純ではない。
それでも、三人で同じものを作れたことが、どうしようもなくうれしかった。
「師匠」
黙って俺たちを見ていたザノバが、真剣な声で呼んだ。
「何でしょうか」
「余にも、同じ物を作る資格はございますでしょうか」
「同じ物?」
「誰かとともに、一つの人形を作ることでございます」
ザノバは自分の失敗作を見た後、三人で作った大木の模型へ目を移した。
「余一人では、師匠のような人形を作れないかもしれません。しかし、誰かとともにならば、作ることができるのでしょうか」
「できると思います。ただし、その相手を道具のように扱ってはいけません」
「心得ております」
「相手が何を作りたいのかも聞いてください。ザノバの理想を押しつけるだけでは、共同制作にはなりません」
「はい」
ザノバは力強く頷いた。
「ならば余は、細工を教えられる者を探します」
「探す前に、どのような能力が必要なのかを整理しましょう」
細かな作業を苦にせず、根気があり、必要であれば魔術も学べる。
そして何より、ザノバを怖がらず、必要な時には「それは無理だ」「それは違う」と意見を言える人間がいい。
すぐに条件へ合う相手が見つかるとは限らない。
それでも、ザノバの人形制作はようやく本当の意味で前へ進み始めた。
◇
作業を終える頃には、窓の外が夕方の色へ変わっていた。
模型はそのまま放置すれば崩れる可能性があるため、ザノバが実習室の管理人へ確認し、焼成用の設備を借りる手続きをしてくれることになった。
完成するまでには数日掛かるらしい。
「《ルード人形》の方も焼くのですか?」
俺が尋ねると、ザノバは木箱の中に入った不格好な失敗作を見た。
「残します」
「よいのですか?」
「はい。現在の余が、どこまで作れなかったのかを示す一体でございます」
意外な答えだった。
ザノバなら、理想から大きく外れた失敗作など壊して、すぐ作り直すと思っていた。
「次に作った物と比べれば、余が何を学んだのか分かるはずです。いつの日か、師匠へ認めていただける人形を完成させた時、この一体を見返したいと考えております」
「そうですか」
「それに、形が悪くとも、余が自ら作った最初の人形でございますから」
ザノバは不格好な人形を、壊さないよう丁寧に木箱へ戻した。
失敗を恥じて消すのではなく、自分がそこから始まったことを形として残す。
それもまた、ザノバなりの成長なのだろう。
「三人の模型が完成したら、僕へ知らせて」
シルフィが言う。
「もちろんにございます、フィッツ殿!」
「声」
俺が注意すると、
「失礼いたしました」
ザノバは素直に声を落とした。
彼と別れた後、俺たちは三人で中央校舎を出た。
途中までは同じ道だ。
夕方の冷たい風が校舎の間を通り抜け、シルフィは周囲に人がいるため、再びフィッツとしての姿勢と声へ戻っている。
レイネは、以前のように俺の半歩後ろへ控えるのではなく、横へ並んで歩いていた。
三人がほぼ同じ位置を歩いている。
たったそれだけのことなのに、それがブエナ村の頃とは違う、今の俺たちの関係を目に見える形で示しているように感じた。
「今日は、楽しかったです」
俺が言うと、シルフィがこちらを見る。
「研究が?」
「全てです」
転移事件の資料を整理したことも、ザノバの人形制作について考えたことも、三人でブエナ村の大木を作ったことも、どれか一つだけではない。
「僕も」
シルフィが答える。
「昔のことを話すだけじゃなくて、今のルディと何かできたから」
その言葉が、胸へ静かに入ってきた。
再会してから、俺たちは離れていた年月を少しずつ埋めようとしている。
けれど、過去について語り続けるだけなら、いつまでも別れた日の延長にいることになる。
今の俺と、今のシルフィが、新しい記憶を作る。
それが、再会の先へ進むということなのだろう。
「レイネは?」
俺が尋ねる。
レイネは少し考えてから答えた。
「私も、楽しいと感じました。三人で模型を作ったことも、ザノバ様の制作について考えたことも、転移事件の調査へ自分の経験を役立てられたことも、好ましく思っております」
「また、三人で何かを作りませんか?」
シルフィが言う。
「今度は何を?」
「決めてない」
「では、決めるところから三人で行いましょう」
俺が答えると、レイネも頷いた。
やがて道の分かれ目へ着いた。
シルフィはアリエル王女の居室へ向かい、俺とレイネは寮の方角へ進むことになる。
「では、フィッツ先輩。また明日」
「はい。ルーデウス君」
公の声で答え、シルフィが立ち去ろうとしたところで、朝から確認しようと思っていたことを思い出した。
「フィッツ先輩。少しよろしいですか?」
「何でしょうか」
周囲に人がいないことを確認してから、声を落とす。
「エリスへ手紙を書いているのですが、その中でシルフィと再会したことを伝えたいと思っています」
「僕のことを?」
「はい。ただ、現在の名前や立場まで書けば、手紙を誰かに読まれた時、シルフィやアリエル様へ迷惑を掛けるかもしれません」
シルフィは少し考えた。
「それなら、行方不明だった幼馴染と再会した、というくらいにして。名前やアリエル様のことは書かない方がいいと思う」
「分かりました」
「でも、僕が無事だったことや、再会できたことは書いていいよ」
「ありがとうございます」
これで手紙へ書く範囲を決められる。
現在の立場や正体は伏せたまま、それでもシルフィが生きていたという最も大切な事実を、エリスへ隠す必要はない。
「ほかには、何を書くつもりなの?」
シルフィが尋ねた。
「再会した時のことを、正直に書こうと思っています」
「再会した時って……」
「二人で抱き締め合って泣いたこともです」
シルフィの顔が一気に赤くなった。
「そこまで書くの?」
「隠すようなことではないと思いますので」
「でも、エリスっていう人に誤解されない?」
「恋愛的な意味で抱き締めたわけではないと、きちんと説明します」
「それなら……ルディが決めればいいでしょう!」
シルフィは思わずフィッツの声を忘れ、昔の声で言い返した。
近くを通り掛かった学生が驚いたようにこちらを見る。
シルフィが慌てて口元を押さえ、俺はその学生へ軽く頭を下げて、何もなかったように取り繕った。
学生が離れていくと、レイネが僅かに口元を緩めた。
俺とシルフィも顔を見合わせ、つい小さく笑ってしまう。
「では、内容を整えてから送ります」
「うん。でも、送る前に僕へ見せる必要はないからね」
「分かりました。シルフィの正体に関わることは書きません」
「それなら大丈夫」
「では、また明日」
今度こそ、シルフィはアリエル王女の居室へ向かって歩き出した。
白い背中が少しずつ遠ざかる。
昨日までなら、それは《フィッツ先輩が離れていく姿》にしか見えなかった。
今は違う。
シルフィが、明日になればまた会える場所へ帰っていく姿だった。
「ルーデウス様」
隣から呼ばれる。
「はい」
「シルフィとのお時間を、楽しまれましたか?」
「はい」
素直に答えた。
「レイネと一緒に過ごせたことも、うれしかったです」
レイネは少しだけ目を伏せた。
「ありがとうございます」
「レイネ」
俺は彼女を呼び止めた。
足を止めたレイネが、こちらを見る。
その瞬間、
――告白する。
という言葉が喉元まで上がってきた。
今なら二人きりだ。
今日のレイネは、自分の意思を何度も言葉へした。
俺たちと研究したいが、自分の研究も続けたい。
自分で作った茶器を残したい。
三人で過ごした時間を、うれしいと思っている。
俺が長い間待っていたものは、もう目の前にあるのかもしれない。
それでも、俺は今ここでは告白しなかった。
怖くなって逃げたからではない。
少なくとも、自分ではそうありたいと思っている。
今日、三人で一緒に過ごした時間の直後に、それもシルフィから背中を押された勢いのまま、レイネへ気持ちを投げつけるべきではないと考えたのだ。
伝える時には、俺自身の言葉で、レイネだけを見ながら正面から話したい。
「何でしょうか」
レイネは、俺の言葉を待っている。
「今日、レイネが自分の作りたい形を作ったことを、うれしく思いました」
赤い瞳が僅かに揺れた。
「茶器のことでございますか?」
「それだけではありません」
自分の研究を選んだことも、三人で過ごした時間をうれしいと言ったことも、俺とシルフィのためではなく、自分自身の経験を研究へ役立てようとしたことも。
そうした一つ一つの場面で、レイネは少しずつ自分自身の言葉を使うようになっている。
「レイネが、自分の望みを話してくれることが、うれしいです」
レイネは、すぐには答えなかった。
夕方の風が、白い髪を揺らす。
「私も」
やがて静かに口を開いた。
「ルーデウス様が、私の答えを待ってくださることを、うれしく思っております」
胸が大きく鳴った。
「以前の私は、ルーデウス様へ望まれたことを、すぐに実行することが正しいと考えておりました」
「はい」
「今は、何を望まれているのかを伺い、そのうえで、私がどうしたいのかを考えたいと思っております」
それは、俺がずっと聞きたかった言葉だった。
同時に、ずっと恐れていた言葉でもある。
レイネが自分で考えられるようになれば、当然、俺とは違う答えを出す可能性も生まれる。
それでも、そのようなレイネになってほしいと望んだのは俺自身だ。
「分かりました」
俺は頷いた。
「これからも、そうしてください」
「はい」
俺たちは再び歩き始めた。
告白は、まだしていない。
けれど、もう「遠い未来のいつか」へ置いている言葉でもなかった。
そう遠くないうちに、俺はレイネへ自分の気持ちを伝える。
その時には、レイネは自分自身の意思で答えてくれるはずだ。
もちろん怖い。
それでも以前よりは、その答えを聞いてみたいと思えるようになっていた。
シルフィ視点
アリエルの居室へ戻ると、ルークはすでに席を外しており、室内にはアリエルだけが残っていた。
シルフィが扉を閉めると、アリエルは読んでいた書類から顔を上げる。
「お帰りなさい、フィッツ」
「ただいま戻りました、アリエル様」
「今日は、ルーデウス君と昼食を取る予定でしたね」
「はい」
「楽しかったですか?」
尋ねられ、シルフィは迷わず頷いた。
「楽しかったです」
今日はルディと一緒に転移事件を調べた。
自分がこれまで集めてきた資料を見せ、これからは同じ研究を一緒に進めることになった。
途中からレイネも加わり、ザノバの人形制作を手伝い、最後には三人でブエナ村の大木まで作った。
昨日までは、とにかく再会できたことがうれしくて、失われた時間を少しでも取り戻したいという気持ちばかりが強かった。
今日は違った。
昔の続きを取り戻すのではなく、今の三人で新しい時間を作れた。
そのことが、泣きたくなるほどにうれしかった。
「アリエル様」
「はい」
「僕は、ルディへ告白しようと思います」
アリエルの目が、僅かに大きくなった。
「今日ですか?」
「いいえ」
シルフィは首を横へ振った。
「今日は、ルディとレイネが話す時間を、僕の気持ちで変えたくありません」
昨日、自分はルディへ、レイネに告白した方がいいと伝えた。
後悔が全くないわけではない。
レイネがルディの気持ちを受け入れたなら、自分が入り込める場所はさらに小さくなるかもしれない。
それを考えれば、怖い。
それでも、レイネの気持ちをある程度知っていながら、ルディが何も伝えずにいることを「自分に有利だから」と喜ぶことはできなかった。
レイネにも、ルディにも、自分自身で選んでほしいと思った。
ならば、自分も同じようにしなければならない。
「明日、話します」
シルフィは自分の手を強く握った。
「エリスを愛していることも、レイネを愛していることも聞きました。それでも、僕がルディを好きなことは変わりませんでした」
アリエルは何も口を挟まず、静かに聞いている。
「選んでほしいと、今すぐ言うつもりはありません。ただ、僕の気持ちを知らないまま、ルディ一人で何もかも決めてほしくないんです」
昨日は、まだ自分の気持ちを言えないと答えた。
けれど今日、三人で時間を過ごし、ルディがレイネへ向き合おうとしている姿を見た。
もう、自分だけが「相手に知られない場所」へ隠れ続けてはいられない。
「怖いですか?」
アリエルが尋ねた。
「はい」
シルフィは迷わず答えた。
「断られるかもしれません。友達のままでいたいと言われるかもしれない。僕が気持ちを伝えたことで、今日みたいに話せなくなるかもしれません」
「それでも?」
「言います」
シルフィは顔を上げた。
「ルディには、僕の気持ちを知ったうえで、考えてほしいから」
アリエルはしばらくシルフィを見つめた後、柔らかく微笑んだ。
「分かりました」
「アリエル様」
「明日は、護衛の交代時間を長く取りましょう」
「よいのですか?」
「あなたが自分の人生へ関わる話をするのです。急かすべきではありません」
その言葉を聞くと、胸が温かくなった。
「ありがとうございます」
シルフィは深く頭を下げた。
その夜、明日ルディへ何を伝えるのかを、何度も考えた。
綺麗な言葉である必要はない。
エリスより自分を選んでほしいと思う気持ちもあるし、レイネより自分を大切にしてほしいという気持ちだって、ないわけではない。
嫉妬もしているし、怖い。
それでも、二人を否定してまで、自分だけを見てほしいとは言いたくなかった。
だから、まずは最も単純で、これまでずっと隠し続けてきた言葉を伝えればいい。
――僕は、ルディが好き。
その気持ちだけなら、誰かと比べる必要もなければ、誰かへ譲る必要もない。
自分自身の言葉として、ルディへ伝えることができる。
明日。
フィッツという護衛魔術師としてでも、ブエナ村にいた頃の幼い子供としてでもなく、今ここにいるシルフィ自身として、自分の気持ちを伝えるつもりだった。