白髪の侍女   作:MトK

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第六十一話 自分で選ぶということ

ルーデウス視点

 

翌日の放課後、俺はザノバが借りている工作用の実習室で、昨日作られた人形を眺めていた。

 

作業台の上には、焼成を待っている三つの作品が並んでいる。

 

一つ目は、ザノバが初めて自分の手で作った、不格好な《ルード人形》。二つ目は、レイネが自分にとって使いやすい形を考えて作った小さな茶器。そして三つ目が、俺とシルフィとレイネの三人で作った、ブエナ村の丘と大木の模型だ。

 

まだ焼かれていないため、どれも強く触れれば形が崩れてしまうだろう。

 

それでも、昨日より少し乾いた土の表面には、誰がどこを作ったのかがはっきりと残っていた。大木の幹を作ったのはシルフィで、そこから広がる枝は俺が整え、丘と村へ続く道はレイネが作った。

 

一つの作品でありながら、それぞれの違いは消えていない。

 

そのことが、今の俺たちの関係に少し似ているような気がした。

 

同じ場所にいるために、全員が同じ考えや同じ形になる必要はない。異なる記憶や望みを持ちながら、それでも一つの時間を共有することはできる。

 

恋愛についても、同じように考えられれば簡単なのだろうか。

 

俺はエリスを愛しており、レイネも愛している。そして、シルフィから向けられている感情にも、少しずつ気づき始めている。

 

だからといって、誰か一人を選べば、それ以外へ向いている感情まで綺麗に消えてなくなるわけではない。

 

逆に、全員へ「愛している」と伝えれば、それだけで何もかも許されるわけでもなかった。

 

俺が望んでいる関係が、相手にとっても望ましいとは限らないのだ。

 

結局のところ、俺一人で全員分の答えまで決めることはできない。

 

昨日、シルフィから言われた言葉が蘇る。

 

――レイネに、選んでもらえばいいんじゃない?

 

そのとおりだ。

 

レイネが何を望むのかは、レイネ自身が決めるべきことであり、エリスが俺の気持ちを受け入れられるのかどうかも、エリス自身が判断することだ。

 

そしてシルフィにだって、自分の気持ちを伝えるのか、伝えた後で俺とどのような関係になりたいのかを、自分自身で選ぶ権利がある。

 

それなのに俺は、「相手を傷つけたくない」という言葉を使いながら、実際には自分が拒絶される可能性から逃げようとしていた。

 

「師匠」

 

背後から声を掛けられ、振り返る。

 

ザノバが作業台の反対側に立っており、その隣にはジンジャーもいる。少し離れたところには、フィッツ先輩とレイネが並んでいた。

 

今日ここへ集まったのは、昨日ザノバが口にした問題について、改めて話し合うためだ。

 

ザノバは、自分が生まれ持った怪力のせいで細かな造形を行うことが難しい。

 

魔術の制御を鍛えていくとしても、人形を商品として作れるほどの技術へ到達するには長い年月が必要になるだろう。

 

ならば、細かな作業を担当できる誰かを見つける必要がある。

 

「考えました」

 

俺は全員へ向き直った。

 

「ザノバ一人で、人形制作の全てを担当する必要はありません」

 

「昨日も、そのようにおっしゃっておられましたな」

 

「はい。ただ、誰かへ作業を頼むとしても、すでに一人前になっている普通の職人では難しいと思います」

 

既に技術を持つ職人には、それぞれ今の仕事や所属する工房がある。

 

いくらザノバが王族だからといって、今まで見たこともないような人形を作るためだけに、それまで続けてきた仕事を捨ててくれるとは限らない。

 

大金を積んで専属として雇えたところで、こちらが求める造形方法や土魔術を、一から学び直してくれるかどうかも分からない。

 

「ですから、長い時間を掛けて、土魔術と造形技術の両方を学べる人が必要です」

 

「弟子を取る、ということでございましょうか」

 

ジンジャーが尋ねた。

 

「それが一番近いと思います」

 

ただ、子供を弟子として迎えるのであれば、技術だけ教えれば終わりというわけにはいかない。

 

毎日の食事も、安心して眠れる寝床も、季節に合った衣服も必要になるし、読み書きができないのであれば、それも教えなければならない。

 

つまり、その子供の生活全体に対して責任を持つことになる。

 

「師匠」

 

ザノバが、少し困ったように眉を寄せた。

 

「余の弟子になりたいという者が、自ら現れるでしょうか」

 

「難しいでしょうね」

 

ザノバは王族であるうえ、生まれつき人間離れした怪力を持ち、人形へ異常なほどの情熱を向けている。

 

事情を何も知らない子供本人やその親が、喜んで「弟子にしてください」とやってくるとは考えにくい。

 

「そこで……」

 

続く言葉が、一度喉へ引っ掛かった。

 

この世界では、特別に珍しい提案ではない。

 

それでも前世の価値観を持っている俺には、何の抵抗もなく口へ出せる言葉ではなかった。

 

「奴隷市場へ行く方法があります」

 

実習室の空気が僅かに変わった。

 

シルフィが俺を見つめる。

 

レイネは表情そのものを変えなかったが、赤い瞳だけは、俺の言葉の意味を慎重に見定めていた。

 

一方でジンジャーは特に驚いていない。

 

この世界の貴族にとって、奴隷を購入すること自体は、それほど異常な行為ではないのだろう。

 

ザノバも、露骨な拒否感は示さなかった。

 

「奴隷を購入し、人形制作を学ばせるということですな」

 

「そうなります」

 

実際に口へ出してみると、自分が何を提案しているのか、その重みを改めて感じた。

 

人間を買い、代金を支払うことで、その人間に対する所有権を手に入れる。

 

そして本人が何を望んでいるのかとは関係なく、生活する場所も、させられる仕事も、購入した人間によって決められる。

 

この世界では、それが合法であり、社会制度として当たり前のように存在している。

 

けれど、制度として認められていることと、俺自身がその仕組みに加わることが正しいかどうかは、まったく別の問題だった。

 

「ルディ」

 

シルフィが、人目のない場所で使っている本来の声で呼んだ。

 

「本当に、奴隷を買うの?」

 

「ほかの方法も考えています」

 

「でも、今のところ一番現実的なのは、それ?」

 

「はい」

 

そこは否定できなかった。

 

理想を語るだけなら簡単だ。

 

奴隷制度は間違っており、人間を商品として売買するべきではないと、そう言い切ってしまえばいい。

 

けれど今の俺には、この国に根付いている制度そのものを変えるだけの力はない。

 

だからといって、「自分は奴隷を買わない」と決めて市場から帰ったところで、そこで売られている子供が自由になるわけでもない。その子は別の誰かに買われるかもしれないし、誰にも買われなければ、環境の悪い場所へそのまま残される可能性もある。

 

だから自分たちが買ってもいい。

 

そう考えることもまた、俺自身にとって都合のよい言い訳だった。

 

一人を助けたような気分になりながら、その金が奴隷市場へ流れ、制度そのものが続くことには目を瞑る。

 

どちらの立場にも、俺は胸を張ることができなかった。

 

「購入なさるのであれば」

 

レイネが口を開いた。

 

「少なくとも、購入したことを理由に、相手の意思を無視するべきではございません」

 

「はい」

 

「人形制作を学びたいのか、ザノバ様のもとで暮らすことを望むのか、可能な限り本人へ確認する必要がございます」

 

「奴隷に、選択を許すのでございますか?」

 

ザノバが尋ねた。

 

責めるような声音ではない。

 

本当に、制度上どう扱えばいいのか分からず尋ねているだけなのだ。

 

「許すのではございません」

 

レイネはザノバを見た。

 

「本来、本人が持っているものと考えます」

 

静かな言葉だった。

 

けれど、以前のレイネだったなら、こんな言葉を口にしただろうか。

 

主の命令へ従い、自分自身がどうしたいのかより、仕えている相手の望みを優先する。それを長い間、自分の生き方そのものとしてきたレイネが、今は他人の選択する権利について語っている。

 

その変化が、俺には何よりも重く感じられた。

 

「僕も、同じ条件でなければ賛成できません」

 

シルフィも言った。

 

「購入するからといって、何をしてもいいわけじゃない。食事や服を与えるだけじゃなくて、嫌なことは嫌だって言えるようにしないと」

 

「承知いたしました」

 

ザノバは、意外なほど素直に頷いた。

 

「人形作りをさせるために購入するのであれば、その者が人形を作れるようになるまで、余が責任を持ちます」

 

「作れるようになった後もです」

 

俺はすぐに付け加えた。

 

「仕事ができるようになったからといって、好きなだけ働かせていいわけではありません。休む時間も、その人自身の生活も必要です」

 

「無論です」

 

「読み書きも学ばせましょう。働いた分については本人の財産として金銭を積み立てる。そして将来、本人が自由になりたいと望んだ場合には、解放の手続きも行います」

 

ザノバは俺を真っ直ぐに見つめた。

 

「師匠が必要とお考えになる条件を、全てお教えください」

 

軽い返事ではなかった。

 

自分一人では何をすればよいのか分からないから、教えてほしいと、そう言っている。

 

「余は、人形を作る者が欲しい」

 

ザノバは続けた。

 

「ですが、人形を作る者を壊してしまえば、何の意味もございません」

 

今のザノバにも、人間を人形制作のための手段として見てしまっている部分は残っているのだろう。

 

それでも、以前とは違う。

 

以前のザノバなら、壊れた道具の代わりに新しいものを用意するように、使えなくなった人間の代わりを探せばよいと考えていた可能性がある。

 

今は、人間には自分とは違う意思があり、恐怖を感じれば怯え、疲れれば休む必要があり、ザノバとは別の望みを持つこともあると、完全ではなくても理解しようとしている。

 

「分かりました」

 

俺は頷いた。

 

「では、明日、奴隷市場へ行きましょう」

 

 

翌日、俺たちはラノア王国の市街地にある奴隷市場を訪れた。

 

同行したのは俺とザノバ、フィッツ先輩とレイネ、そしてザノバの護衛であるジンジャーだ。

 

市場という言葉から、俺は広い通りに露店が並んでいるような場所を想像していた。

 

実際に着いたのは、石壁に囲まれた大きな建物だった。

 

入口には武装した男たちが立っている。

 

建物へ足を踏み入れた瞬間、最初に意識したのは臭いだった。

 

人間の汗と汚れた衣服、建物に籠もった湿気に、消毒へ使っているらしい薬品の刺激臭が混じっている。そこへ、長い間まともに身体を洗えていない人間から漂う臭いまで重なっていた。

 

窓は少なく、外から差し込む光もほとんどない。

 

薄暗い通路の左右には、鉄格子で区切られた部屋が幾つも並んでいた。

 

その中にいるのは、商品ではなく人間だった。

 

男も女もいるし、老人も子供もいる。

 

人族だけではなく、獣族や魔族、俺には名前さえ分からない種族までいた。

 

首へ輪をつけられ、足首に鎖を巻かれ、床へ座らされている。

 

客が通るたびに期待するように顔を上げる者もいれば、最初から何も見ようとせず俯いている者もいる。少しでも高く売れれば待遇がよくなるとでも教えられているのか、客が近づくと無理に背筋を伸ばす者さえいた。

 

その光景を目にした瞬間、吐き気がした。

 

前世の俺にとって、奴隷制度は歴史の教科書で知るものだった。

 

人間が人間を商品として売買していた時代があった。

 

少なくとも、自分が生きていた社会では到底許されない過去の話だと思っていた。

 

ところが今、その市場の中を、俺自身が「買う側」として歩いている。

 

いくら購入した後の生活を保障すると決めても、将来は本人が望めば自由にすると約束したとしても、今日ここで俺たちが金を払い、一人の人間を連れて帰ろうとしている事実そのものは変わらない。

 

「ルーデウス様」

 

隣から呼ばれた。

 

レイネが俺を見ている。

 

「お顔の色が優れません」

 

「大丈夫です」

 

反射的に、そう答えた。

 

しかし大丈夫ではない。

 

そう思ったところで、すぐに言い直した。

 

「申し訳ありません。少し気分が悪くなりました」

 

レイネの視線が、周囲の檻へ向けられる。

 

「私も、好ましい場所とは感じておりません」

 

「それでも、止めませんか?」

 

「止めることが、あの方々のためになるとは限りません」

 

レイネは、一つの檻を見た。

 

そこには痩せた獣族の少年が座っている。

 

「私たちが本日購入しなかった方が、その後どのような方へ買われるのかは分かりません」

 

「だから、買うべきだと?」

 

「いいえ。それを理由に、購入することが正しいとも申し上げられません」

 

レイネも俺と同じなのだ。

 

何が完全に正しいのか、分からない。

 

買わずに帰ってしまえば、「自分は奴隷制度へ加担しなかった」と考えることはできる。

 

だが、それによって目の前の子供の境遇がよくなるわけではない。

 

反対に買えば、少なくとも一人には食事と教育を与えることができるかもしれない。

 

その一方で、人間を売買する制度へ俺たち自身が金を払い、結果的に次の売買を支えることにもなる。

 

どちらを選んだとしても、「これが完全に正しい」と胸を張ることはできなかった。

 

「今、私たちにできることを行いましょう」

 

レイネが言う。

 

「ただし、自分たちが正しいことをしたと、安易に考えないようにするべきだと存じます」

 

「はい」

 

奴隷を一人買い、衣食住を与えたから、自分たちは善人なのだ。

 

そんな考え方だけはしてはいけない。

 

この行為によって救われなければならないのは俺自身の良心ではなく、これから購入される本人なのだから。

 

 

市場を管理している商人へ、俺たちが希望する条件を伝えた。

 

長い時間を掛けて土魔術と造形技術を学ばせるため、年齢はできれば幼い方がよい。

 

種族については手先の器用さを重視し、一定以上の魔力を持っていることが望ましい。健康状態に問題があっても、治療できる範囲なら構わない。

 

性別については問わなかった。

 

「随分と変わった条件ですな」

 

商人は愛想よく笑った。

 

太い指には、幾つもの指輪が嵌められている。

 

「普通、子供をお求めになる方は、見た目か将来性を重視なさいます。魔術と細工を学ばせるためとは珍しい」

 

「該当する子供はいますか?」

 

俺が尋ねると、商人は顎へ手を当てた。

 

「炭鉱族ならば、手先は器用です。大人になれば、金属加工や細工にも向いている」

 

「魔力は?」

 

「個体によりますな」

 

商人に案内され、建物のさらに奥へ進んだ。

 

入口付近よりも光は少ない。

 

売れやすい奴隷は、人目につきやすい前の方へ置かれているらしい。

 

奥へ置かれているのは、長い間売れ残った者や病気や怪我を抱えている者、あるいは商人から高く売れないと判断された者だという。

 

一つの檻の前で、商人が足を止めた。

 

「炭鉱族の子供なら、こちらに」

 

鉄格子の向こう、薄暗い壁際に小さな少女が座っていた。

 

髪は伸び放題になっており、本来何色なのかさえ分からないほど汚れている。

 

身体はひどく細く、腕も脚も枝のようだった。

 

身につけているのは粗末な布だけで、靴すらない。

 

俺たちが檻の前へ来ても顔を上げない。

 

商人が鉄格子を叩いても、ほとんど反応を示さなかった。

 

「おい。客だ」

 

ようやく少女の肩が僅かに動き、ゆっくりと顔が上がった。

 

その目を見た瞬間、胸の奥を強く掴まれたような感覚がした。

 

そこには、何かを期待する色がほとんど残っていなかった。

 

いつか誰かが助けてくれるとも、明日になれば今とは何かが変わるとも思っていない。

 

食事を渡されれば食べるし、命令されれば動く。殴られれば、痛みが終わるまでただ耐える。

 

自分から何かを選びたいと思う力そのものが、ほとんど残っていないように見えた。

 

俺は、その目を知っている。

 

前世で部屋から出なくなり、家族から声を掛けられても聞こえないふりをしていた頃の俺だ。

 

何かを始めたって、どうせ失敗する。

 

誰かと関われば、また傷つけられる。

 

そう考えて、ならば最初から何も選ばず、何も望まない方がいいと、自分から世界との関係を切っていった。

 

生きているとも、死んでいるとも言えないような時間の中で、ただ毎日が過ぎていくのを待ち続け、鏡を見ることすら嫌っていた。

 

もし、あの頃の自分の目を正面から見る機会があったなら、きっと目の前の少女によく似ていたのだと思う。

 

「師匠?」

 

ザノバに呼ばれたが、すぐには返事ができなかった。

 

俺は鉄格子の前へ膝をつき、少女と同じ高さまで身体を下げる。

 

少女の瞳が、ほんの僅かにこちらを向いた。

 

「言葉は分かりますか?」

 

反応はない。

 

代わりに商人が答えた。

 

「簡単な中央語なら分かるはずです。以前の主人が最低限は教えたと聞いております」

 

以前の主人。

 

その言葉を聞くだけで、腹の奥が冷たくなった。

 

改めて少女を見れば、身体には単なる汚れだけでなく、古い傷が幾つも残っている。

 

「名前は?」

 

「ございません。前の持ち主は、番号で呼んでいたようです」

 

人間として呼ぶ名前さえ、与えられていない。

 

俺はもう一度少女を見た。

 

「死にたいですか?」

 

自分で口にしておきながら、ひどい質問だと思った。

 

後ろではシルフィが息を呑み、レイネも俺を見ている。

 

ザノバは、俺が何を意図してそんなことを尋ねたのか理解できずにいるようだった。

 

少女は最初、何も答えなかった。

 

もしかすると、「死ぬ」「生きる」のどちらかを自分で選ぶという考えそのものが、もう残っていないのかもしれない。

 

俺は前世の最後を思い出した。

 

家から追い出され、何年ぶりかに外へ出た。

 

そして、誰かを助けようとして車に轢かれた。

 

死ぬ直前になって初めて、自分から何かをしようとした。

 

あの時、誰かを本当に助けることができたのかは分からないし、結果だけを見れば俺は死んだ。

 

それでも、あの一歩がなければ今の俺はいない。

 

パウロにもゼニスにも、リーリャにも出会えず、シルフィやエリス、レイネとも今のような関係を築くことはなかった。

 

「質問を変えます」

 

声が震えないよう、一度息を整えた。

 

「生きたいですか?」

 

少女の瞳が、ほんの僅かに動いた。

 

「生きたいなら、僕たちと来てください」

 

買う側にいる俺が、まるで少女へ自由な選択肢を与えているかのような口を利いている。

 

欺瞞だと思う。

 

この少女に与えられているのは、ここに残るか、俺たちへ買われるかという選択肢だけだ。

 

自由な人間が行う選択とは、まるで違う。

 

それでも、何も尋ねずに金だけを払い、そのまま連れていくことだけはしたくなかった。

 

「食事を用意します。眠る場所もあります。土魔術と、人形を作る技術を学んでもらいます」

 

少女は、俺をじっと見ている。

 

「仕事はしてもらいます。ですが、殴らせません。食事を抜かせません。できないことを理由に、傷つけさせません」

 

俺はザノバへ確認するように視線を向けた。

 

「約束できますか?」

 

「はい」

 

ザノバは迷わず答えた。

 

先ほどまでとは立ち方も違う。

 

大きな身体を僅かに屈め、少女を上から見下ろす形にならないようにしていた。

 

「余は、そなたに人形を作る技術を学んでほしい」

 

ザノバが言う。

 

「余は、力が強すぎるため、細かな物を作ることができぬ。ゆえに、そなたの手を借りたい」

 

少女は何も答えない。

 

ザノバは一度、俺とレイネを見てから言葉を続けた。

 

「ただし、余が望んでいるからというだけで、そなたが何でも従わなければならないとは考えぬようにする」

 

不器用な言葉だった。

 

けれど、ザノバ自身が考え、自分で選んで口にした言葉でもある。

 

俺は少女へ向き直った。

 

「生きたいですか?」

 

長い沈黙が続いた。

 

やがて少女の唇が僅かに開き、音にならないほど小さな息が漏れた。

 

俺は急かさず、そのまま待った。

 

もう一度答えるよう求めることもせず、少女自身の中から言葉が出てくるのを待つ。

 

「……いき、たい」

 

聞き間違いではないかと思うほど、小さく弱い声だった。

 

それでも、少女は確かに「生きたい」と答えた。

 

胸の奥が強く痛んだ。

 

うれしいと思った。

 

けれど、そう感じる資格が自分にあるのかは分からない。

 

少女が生きたいと答えたことを、まるで自分が救った結果であるかのように感じてしまう。

 

だが、俺はまだ何もしていない。

 

これから金を払おうとしているだけだ。

 

この先、きちんと食事を与え、教育を受けさせ、安心して眠れる場所を用意し、少女自身が少しずつ自分の意思を取り戻せるようにする。

 

そこまで続けて初めて、今日ここで選んだことに意味が生まれるのだろう。

 

「分かりました」

 

俺は頷いた。

 

「一緒に行きましょう」

 

 

商人との交渉を終え、ザノバが代金を支払った。

 

書類上の所有者はザノバとなった。

 

少女の首へつけられていた粗末な首輪が取り外されたが、代わりに装着されたのは、奴隷としての所属を示す別の簡素な首輪だった。

 

それを見た瞬間、自由になったわけではないという現実を改めて突きつけられた。

 

俺たちが彼女を買ったから、以前よりましな生活を与えることはできる。

 

けれど、この少女は今も法的には誰かの所有物なのだ。

 

「いつか」

 

俺はザノバへ言った。

 

「本人が望んだ時には、この首輪を外してください」

 

「承知しております」

 

「それと、自由を望むこと自体を怖がらなくていいと思えるようにする必要もあります」

 

「それは、どのようにすればよいのでしょうか」

 

「僕にも、正確には分かりません」

 

少女が自分は何をしたいのか、何を嫌だと思うのか、誰と一緒にいたいのか。

 

そうしたことを自分で考えられるようになるまでに、どれほど時間が必要なのかは分からない。

 

「だから、全員で考えましょう」

 

俺が答えると、ザノバは深く頷いた。

 

 

大学へ戻る前に、少女の身体を洗い、清潔な服を用意することにした。

 

市場から近い宿で部屋を借り、少女の入浴はシルフィとレイネに任せる。

 

俺とザノバ、ジンジャーは部屋の外で待った。

 

閉じられた扉の向こうからは、水を動かす音に混じって、時折少女が小さく怯える声が聞こえる。

 

それに続いて、シルフィが無理に触らないことを説明する声や、レイネがこれから何をするのかを一つずつ伝える声も聞こえてきた。

 

「髪を洗います。痛みがあれば、お伝えください」

 

「服を脱がせるけど、嫌だったら止めるから」

 

二人とも、少女へ何かをする前には必ず内容を説明している。

 

嫌なら嫌だと言っていいことも、途中で止めてほしくなったら伝えて構わないことも教えていた。

 

そんなものは本来、当たり前のことなのだろう。

 

けれど、この少女にとっては当たり前ではなかったらしい。

 

最初のうちは水へ触れられるたびに身体を強張らせていたようだが、時間が経つにつれ、扉の向こうから聞こえてくる息遣いが少しずつ落ち着いていった。

 

俺は廊下の壁へ背を預けた。

 

「師匠」

 

隣に立つザノバが、小さな声で呼んだ。

 

「はい」

 

「あの者を、選んだ理由を伺ってもよろしいでしょうか」

 

「……魔力を確認していませんでしたね」

 

本来なら、購入する前に土魔術を使える可能性や魔力量を確認するべきだった。

 

炭鉱族だからといって、必ず魔力が多いわけではない。

 

人形制作の弟子として奴隷を探しに来た以上、条件に合うかどうかを確かめてから購入するのが本来の順序だった。

 

それでも、あの少女の目を見た瞬間、そんなことを考える余裕がなくなった。

 

「僕と似ていたからです」

 

「師匠と?」

 

「以前の僕に」

 

ザノバは俺の過去を知らない。

 

俺が転生者であることも、前世で長い間引きこもっていたことも話すつもりはなかった。

 

だから、話せる部分だけを言葉にする。

 

「何も望めなくなり、自分から何かを選ぶことを諦めていた時期がありました」

 

「師匠にも、そのような時期が?」

 

「ありました」

 

今の俺しか知らないザノバには、信じられないかもしれない。

 

魔術を使い、冒険者として魔物と戦い、旅をしながら多くの人間と関わっている。

 

けれど前世の俺は、何年もの間ほとんど何もせずに生きていた。

 

生きることへ意味を見つけられず、それでも自分から死ぬ勇気も持てないまま、ただ時間を浪費していた。

 

「あの少女を見て、昔の自分を思い出しました」

 

「ゆえに、救おうと?」

 

「救えるかどうかは、まだ分かりません」

 

俺は首を横へ振った。

 

「こちらの都合で買い、人形作りを教えようとしています。善意だけでやっているわけではありません」

 

ザノバが望んでいる職人を育て、人形を作るための技術を広めたいという目的が、俺にもある。

 

「それでも、生きたいと答えた人へ、生きるための場所を用意することぐらいはしたいと思いました」

 

俺はそう言いながら、閉じた扉を見た。

 

ザノバは、しばらく黙っていた。

 

「余は……人形を作れる者が欲しいとしか考えておりませんでした」

 

「はい」

 

「今も、作ってほしいという望みは変わりませぬ」

 

「それでよいと思います」

 

自分の目的や望みを持つこと自体が悪いわけではない。

 

大切なのは、自分の望みを叶えるために、相手の人生を使い潰さないことだ。

 

「ですが」

 

ザノバは続けた。

 

「師匠が、あの者の『生きたい』という言葉へ責任を持つのであれば、余も同じように責任を持つべきなのでしょう」

 

「そうしてください」

 

「承知いたしました」

 

迷いのない返事だった。

 

 

しばらくして扉が開いた。

 

最初にレイネが出てきて、その後ろから、シルフィに手を引かれた少女が姿を現した。

 

汚れを落としたことで、ようやく本来の髪色が分かる。

 

少しくすんだ灰色だった。

 

長すぎた部分はレイネが整えたようで、肩に触れない程度まで切られている。

 

新しく用意した服は少女の身体に合わせて買ったはずなのに、それでも少し大きく見えた。

 

それほどまでに身体が痩せているのだ。

 

「どうですか?」

 

シルフィが尋ねる。

 

少女は新しい服の裾を両手で握り、俯いたままだった。

 

「似合っています」

 

俺がそう答えると、少女の肩が僅かに揺れた。

 

褒められること自体に慣れていないのかもしれない。

 

「お腹は空いていますか?」

 

尋ねても、少女はすぐには答えなかった。

 

俺ではなく、シルフィとレイネの顔を確認する。

 

二人が「答えていい」と伝えるように頷いてから、ようやく少女は小さく首を縦へ動かした。

 

俺たちは宿の食堂へ移動し、柔らかく煮込んだ麦粥を注文した。

 

極端に弱った身体へ、いきなり大量の食事を与えるのは危険だ。

 

そのためレイネが量を調整し、最初は少しずつ食べさせることになった。

 

少女は器へ顔を近づけ、一口、もう一口と、ゆっくり麦粥を口へ運んでいく。

 

最初のうちは周囲を警戒している様子だった。

 

途中で食事を取り上げられると思っているのか、少し口にするたびに俺たちの顔を確認している。

 

「全部、あなたのものです」

 

レイネが言った。

 

「慌てる必要はございません」

 

少女はもう一度器へ目を落とした。

 

そして今度は、先ほどよりほんの少し大きな一口を食べた。

 

その様子を見ていると、胸の奥が熱くなった。

 

食事を一度与えただけだ。

 

こんなものは「救い」と呼べるような特別な行為ですらなく、人間が生きるために本来必要な最低限のことだ。

 

それでも、少女の口へ温かい食事がきちんと入っているという事実に、どうしようもなく安心している自分がいた。

 

 

食事を終えた後、少女の名前を決めることになった。

 

市場では番号だけで呼ばれており、本人も自分が以前どのような名前だったのか覚えていないらしい。

 

「名前が必要ですな」

 

ザノバが言った。

 

少女は、何を話されているのか理解できていないような顔で俺たちを見ている。

 

「ザノバが決めますか?」

 

俺が尋ねる。

 

「余が?」

 

「書類上の主人は、ザノバです」

 

「しかし、師匠が選ばれた者でもございます」

 

ザノバは少し考えた。

 

「ジュリエット、という名はいかがでしょうか」

 

「ジュリエット……」

 

俺も繰り返してみる。

 

悪くない。

 

幼い少女へつけても、不自然ではない名前だ。

 

「普段は、ジュリと呼びましょうか」

 

「よいと思います」

 

俺は少女へ向き直った。

 

「ジュリエット」

 

反応はない。

 

「ジュリ」

 

今度は、少女の目が僅かに動いた。

 

「これから、あなたをジュリと呼びます」

 

意味がどこまで伝わったのかは分からない。

 

それでも、俺はもう一度呼んだ。

 

「ジュリ」

 

少女が、自分自身を指さした。

 

「はい」

 

俺は頷く。

 

「あなたの名前です」

 

「……ジュリ」

 

初めて、少女自身の口から自分の名前が発せられた。

 

小さな声だった。

 

けれど市場で聞いた「生きたい」という言葉よりは、ほんの少しだけはっきりしていた。

 

 

大学へ戻ると、ジュリがこれから暮らす場所と、今後の生活について話し合った。

 

ザノバの部屋には十分な空間がある。

 

しかし、ザノバとまだ幼いジュリを、いきなり二人きりで生活させることには不安が残った。

 

そこで当面はジンジャーにも同じ場所で生活してもらい、着替えや入浴など女性の手が必要な時にはレイネやシルフィへ相談することになった。

 

「私も、可能な範囲でお手伝いいたします」

 

レイネが言った。

 

「ただし、私が全てを行うべきではないと考えております」

 

「理由を伺っても?」

 

ザノバが尋ねる。

 

「ジュリが、私にしか頼れなくなることを避けるためです」

 

レイネはジュリを見た。

 

「ザノバ様やジンジャー様、ルーデウス様、シルフィ、大学の教師とも関係を作ることになるでしょう。将来的には、ほかの学生とも関わる可能性がございます」

 

特定の一人だけを、自分にとっての世界の全てにしない。

 

その考えは、まるでレイネ自身へ向けた言葉にも聞こえた。

 

「複数の方と関係を築き、その中で、ジュリ自身が誰を信頼するのかを選べるようにするべきだと存じます」

 

「そうですね」

 

俺は頷いた。

 

自分が助けた相手なのだから俺だけを頼ってほしいし、誰よりも俺を大切にしてほしい。

 

そんな気持ちが自分の中に全く存在しないとは、言い切れない。

 

助けた相手から感謝され、必要とされることには、間違いなく気持ちよさがある。

 

だからこそ、その感覚へ甘えてはいけない。

 

ジュリは、俺が善人であることを証明するために生きるわけではないし、俺へ感謝し続けるためにここへ来たわけでもない。

 

ジュリ自身の人生を生きるために、ここへ来たのだ。

 

「明日から、魔術の素質を確認します。ただし、最初の一週間は生活へ慣れることを優先しましょう」

 

俺がそう説明すると、ザノバが尋ねる。

 

「人形制作の訓練は?」

 

「食事と睡眠が安定してからです」

 

「承知いたしました」

 

「それから、読み書きも必要です」

 

「余が教えましょう」

 

一瞬、ザノバがジュリへ読み書きを教えている光景を想像した。

 

ただでさえ大きな身体をしているうえ、普段の声も大きく、人形について説明を始めれば止まらなくなる。

 

まだ俺たちに慣れていないジュリが怯える可能性は高い。

 

「最初は、ジンジャーと一緒に教えてください」

 

「なぜでございますか?」

 

「声の大きさです」

 

「余は、静かに話すこともできます」

 

「図書館でも、同じことを言っていました」

 

ザノバは黙った。

 

シルフィが小さく笑い、レイネも僅かに口元を緩める。

 

ジュリは、俺たちが笑っている様子を不思議そうに見ていた。

 

少なくとも、その笑い声へ怯えている様子はない。

 

それだけでも、市場の檻へ座っていた時より、ほんの僅かに周囲を見るようになった気がした。

 

 

一通りの話し合いが終わると、シルフィが俺へ近づいてきた。

 

「ルディ」

 

小さな声だった。

 

「少しだけ、時間をもらってもいい?」

 

昨日、シルフィは俺へ、まだ言えないことがあると話していた。

 

その時、俺はシルフィ自身が話したいと思えるまで待つと答えた。

 

おそらく、今がその時なのだろう。

 

「はい」

 

俺は頷いた。

 

「どこへ行きますか?」

 

「昨日の温室の近くがいい」

 

「分かりました」

 

レイネへ視線を向ける。

 

レイネは俺とシルフィを一度見比べたが、何を話すのかとは尋ねずに頷いた。

 

「ジュリの様子は、私が確認しておきます」

 

「ありがとうございます」

 

「ルーデウス様」

 

歩き出そうとしたところで、レイネに呼び止められた。

 

「はい」

 

レイネは何かを言おうとした。

 

けれど、一度口を閉じる。

 

「いってらっしゃいませ」

 

結局口にしたのは、侍女として何度も聞いてきた、いつもの言葉だった。

 

それなのに今日は、ほんの少しだけ声が違って聞こえた。

 

レイネが何を感じているのか、聞きたい。

 

けれど今は、シルフィと話すための時間だ。

 

俺自身が知りたいという理由だけで、レイネの感情を今すぐ言葉にさせるべきではない。

 

「行ってきます」

 

俺はそう答えた。

 

 

古い研究棟の裏へ回り、昨日、離れていた年月について話した温室の前へ着いた。

 

夕方の光が、割れた窓から古い温室の中へ差し込んでいる。

 

周囲に人はいない。

 

シルフィは濃色の眼鏡を外し、護衛魔術師フィッツとして作っていた姿勢も、低くしていた声もやめた。

 

目の前にいるのは、フィッツ先輩ではない。

 

ブエナ村で俺と一緒に魔術を学んだ幼馴染だ。

 

けれど、もう昔のままのシルフィでもない。

 

アリエル王女を守るために何度も戦い、自分自身の足でこの大学までたどり着いた、今のシルフィだ。

 

「今日は、ジュリのことがあったでしょう?」

 

「はい」

 

「本当は、昼に話そうと思ってた」

 

「そうだったのですか?」

 

「でも、奴隷市場へ行く話になって、ジュリを連れて帰ってきて……今すぐ言うのは違うのかなって、途中で思った」

 

シルフィは両手を胸の前で強く握っていた。

 

「ですが、今ここへ来てくれました」

 

「うん」

 

「なら、聞きます」

 

俺はシルフィの正面へ立った。

 

「急がなくて大丈夫です」

 

昨日、シルフィが自分の正体を明かそうとして言葉に詰まった時にも、同じことを言った。

 

あの時は、シルフィ一人へ全てを背負わせないために、俺の方から「シルフィですか」と尋ねた。

 

今日は違う。

 

シルフィが自分自身の言葉で何かを伝えようとしている。

 

ならば俺は、先回りして答えを決めるのではなく、待つべきだ。

 

シルフィは何度か深呼吸した。

 

「ルディ」

 

「はい」

 

「僕は……」

 

声が震え、一度言葉が止まる。

 

俺は何も言わず、その続きを待った。

 

「僕は、ルディが好き」

 

胸が大きく鳴った。

 

まったく想像していなかったわけではない。

 

昨日交わした会話や、シルフィが見せていた表情、その時々に選んだ言葉を思い返せば、彼女が何を伝えようとしているのか全く分からなかったわけではなかった。

 

それでも、本人の口から直接聞いた言葉は、想像していたものとはまるで違う重さで胸へ届いた。

 

「友達としてだけじゃない」

 

シルフィは続ける。

 

「子供の頃から、ずっと好きだった」

 

白い髪が夕方の風に揺れる。

 

「離れてからも、忘れられなかった。王宮にいた時も、アリエル様と一緒に国を出た時も、大学へ来てからも」

 

声は震えている。

 

それでもシルフィは、俺から目を逸らさなかった。

 

「フィッツとしてルディと会って、ルディが僕に気づいてくれなくて、苦しかった」

 

胸が痛んだ。

 

「ごめんなさい」

 

「謝らないで」

 

シルフィは首を横へ振った。

 

「僕が隠してたから、分からなくて当然だよ」

 

「それでも……」

 

「今は、僕の話を聞いて」

 

強い声だった。

 

俺は口を閉じた。

 

シルフィはいま、自分自身の感情を俺へ伝えようとしている。

 

そこへ俺が自分の罪悪感を持ち込み、謝罪することで話を遮ってはいけない。

 

「エリスのことも聞いた」

 

シルフィは言った。

 

「レイネのことも」

 

胸元で握られていた両手へ、さらに力が入る。

 

「本当は嫌だよ。ルディが、ほかの女の子を好きなのは嫌。僕だけを見てほしいって思ってる」

 

昨日は「少し嫌」とだけ言った。

 

今日は、その奥にある感情まで隠さず伝えている。

 

「エリスより僕を選んでほしい。レイネより、僕を大切にしてほしい。そう思うこともある」

 

シルフィの目に涙が浮かんだ。

 

「でも、二人を嫌いになってほしいとは言えない」

 

「シルフィ……」

 

「エリスがルディを守ってくれたことも、レイネがずっとルディのそばにいたことも聞いたから」

 

涙が頬を伝う。

 

それでも、シルフィは言葉を止めなかった。

 

「それを全部なかったことにして、僕だけを見てって言うのは違うと思う」

 

一度だけ唇を強く結んだ後、シルフィは再び口を開く。

 

「だから、今すぐ僕を選んでとは言わない」

 

「ですが……」

 

「でも、友達のままにしてほしいわけでもない」

 

その言葉が、胸の奥まで深く入ってきた。

 

「僕がルディを好きだって知ったうえで、考えてほしい」

 

シルフィは自分の胸へ手を置いた。

 

「僕が何を望んでいるかを、ルディ一人で決めないで」

 

昨日、俺がレイネについて話した時、シルフィは同じことを言った。

 

レイネは主人である俺へ逆らえないから、俺から告白するべきではない。

 

俺はそう考えていた。

 

けれどそれは、レイネが本当は何を選ぶのか本人へ尋ねる前に、俺自身が答えを決めてしまっているのと同じではないかと、シルフィは言ったのだ。

 

「今日、ルディはジュリに聞いたでしょう?」

 

「生きたいかどうかを?」

 

「うん」

 

シルフィは頷いた。

 

「あの子が自由に選べる状況じゃなかったことは分かってる。でも、それでもルディは、何も聞かずに連れていかなかった」

 

俺は黙って聞いた。

 

「僕にも選ばせて」

 

シルフィの声が真っ直ぐに届く。

 

「ルディがエリスを好きでも、レイネを好きでも、それでもルディを好きでいるのか、どんな関係を望むのか、僕にも自分で考えさせて」

 

すぐには、何も答えることができなかった。

 

いや、答えが何もないわけではない。

 

怖いのだ。

 

シルフィの気持ちを受け入れると答えれば、エリスを裏切ることになるのではないか。

 

レイネを傷つけるのではないか。

 

そして何より、三人とも大切にしたいという、自分にとってあまりにも都合のよい望みを認めることになるのではないか。

 

だから俺は、「正しい答えが分からない」という言葉の陰へ隠れようとしている。

 

けれど、シルフィは今すぐ全ての答えを俺一人に決めてほしいと言っているわけではない。

 

ただ、自分の感情を最初から存在しないものとして扱わないでほしいと求めている。

 

「僕も……」

 

自分の声は、思っていたよりも掠れていた。

 

一度息を整える。

 

「僕も、シルフィが好きです」

 

シルフィの目が、大きく見開かれた。

 

「友人としてだけではありません」

 

そう言葉にした瞬間、胸の奥にあった曖昧なものが、少しずつはっきりとした形を持ち始めた。

 

再会した時、シルフィを抱き締めたまま離したくないと思った。

 

エリスのことを「嫌だ」とシルフィから言われた時、彼女を傷つけたことに胸が痛んだ。

 

そして今日、シルフィは俺と一緒に奴隷市場まで来てくれた。

 

ジュリへ優しく声を掛け、入浴を手伝い、怯えさせないよう「これから何をするのか」を一つずつ説明していた。

 

その姿を見て、シルフィは昔と変わらず優しいのだと思った。

 

けれど同時に、昔と同じではないとも感じた。

 

今のシルフィは自分自身で考え、相手の意思を尊重しながら、それでも必要な時には俺へ強い言葉を向けられる女性になっていた。

 

「再会したばかりで、まだ、今のシルフィを全て知っているわけではありません」

 

シルフィの表情に、僅かな不安が浮かぶ。

 

「ですが、もっと知りたいと思っています」

 

「ルディ……」

 

「一緒にいるとうれしいです。シルフィが笑うと、僕もうれしい。ほかの人へ向けている姿を見て、僕の知らない時間を過ごしてきたのだと、少し寂しく思うこともあります」

 

自分の中にある感情を、一つずつ確かめながら言葉へ変えていく。

 

「僕は、シルフィを一人の女性として意識しています」

 

シルフィの頬が赤くなる。

 

おそらく、俺の顔も同じように熱くなっていた。

 

「だから、僕もシルフィを恋愛として好きです」

 

逃げずに言い切った。

 

シルフィの目から、新しい涙が溢れた。

 

今まで流していた苦しそうな涙とは、少し違って見えた。

 

「本当に?」

 

「はい」

 

「エリスがいるのに?」

 

「エリスを愛している気持ちは変わりません」

 

「レイネも?」

 

「レイネを愛している気持ちも変わりません」

 

シルフィの表情が、ほんの僅かに曇った。

 

それでも、ここだけは曖昧にしてはいけない。

 

「その二人への気持ちを隠したまま、シルフィだけへ応えることはできません」

 

「うん」

 

「僕が三人とも大切にしたいと願うことを、シルフィが受け入れなければならないとも思っていません」

 

「うん」

 

「ですから……」

 

そこで言葉が止まった。

 

俺は、今のシルフィへ何を約束できるのだろう。

 

この瞬間から恋人になろうと答えてよいのか。

 

俺はまだ、レイネ本人へ自分の気持ちさえ伝えていない。

 

エリスからも、今の俺の考えについて返事を受け取ったわけではない。

 

ならば、シルフィへ待ってほしいと頼むことになる。

 

それは、自分の都合によってシルフィの感情だけを保留にすることにならないだろうか。

 

「ルディ」

 

迷っている俺を、シルフィが呼んだ。

 

「今すぐ、全部決めなくてもいいよ」

 

「ですが……」

 

「僕も、今日言ったばかりだから」

 

シルフィは涙を拭った。

 

「エリスやレイネと、どんな関係になれるのかも分からない。僕が本当に、二人と一緒にルディのそばにいられるのかも分からない」

 

「シルフィも、迷っているのですか?」

 

「迷うよ」

 

シルフィは少しだけ笑った。

 

「好きな人に、ほかにも好きな人がいるんだよ。簡単に決められるわけないでしょう?」

 

「そうですね」

 

「でも」

 

シルフィは俺へ手を差し出した。

 

「僕を好きだって言ったことを、明日になってなかったことにしないで」

 

差し出されたのは、小さな手だった。

 

昔、ブエナ村で何度も握った手だ。

 

けれど今では、護衛魔術師として杖を握り、アリエル王女を守るために戦ってきた手でもある。

 

俺は、その手を取った。

 

「しません」

 

「友達としてだけじゃない?」

 

「はい」

 

「僕を、女の子として好き?」

 

「好きです」

 

シルフィの指へ、僅かに力が入った。

 

「なら、今日はそれでいい」

 

二人の間に、しばらく静かな時間が流れた。

 

握った手から、シルフィの温かさが伝わってくる。

 

俺はまだ、何もかも決められたわけではない。

 

エリスとの関係も、レイネとの関係も、シルフィと今後どのような形で付き合っていくのかも、まだ答えは出ていない。

 

それでも、一つだけは決めた。

 

シルフィの気持ちを、知らなかった頃へ戻すことはしない。

 

「シルフィ」

 

「うん」

 

「抱き締めてもよいですか?」

 

昨日は再会できた喜びが大きすぎて、確認する余裕もないまま互いを抱き締めた。

 

今日は違う。

 

シルフィ本人へ、俺から尋ねることができる。

 

「うん」

 

その返事を聞いてから、俺はシルフィを抱き寄せた。

 

シルフィの腕も、ゆっくり俺の背中へ回ってくる。

 

昨日より、ずっと穏やかな抱擁だった。

 

生きて再会できたことを確かめるためだけではなく、互いの気持ちを知ったうえで、相手が確かにここへいることを感じるための時間だった。

 

胸の中には、幸福だけではなく、怖さや申し訳なさまで同時に広がっていた。

 

それでも、シルフィの身体を抱きながら、この感情そのものを「間違いだから」と消してしまうことはできないと思った。

 

しばらくして、シルフィが俺の胸へ顔を預けたまま口を開いた。

 

「ルディ」

 

「はい」

 

「次は、レイネに言って」

 

身体が僅かに強張った。

 

「やはり、そうなりますか」

 

「僕には言ったでしょう?」

 

「シルフィから、先に伝えてくれたのですが」

 

「でも、ルディも好きだって言った」

 

「はい」

 

「なら、レイネにも伝えないと」

 

シルフィは俺の胸から顔を上げた。

 

目元は泣いたせいで赤くなっている。

 

それでも、その表情は真剣だった。

 

「レイネがルディをどう思っているのか、僕には決められないよ」

 

「はい」

 

「でも、ルディが何も伝えなかったら、レイネは答えることもできないでしょう?」

 

その言葉が、胸へ深く入ってきた。

 

レイネが俺を恋愛対象として見ているとは限らない。

 

家族として大切に思っているだけかもしれない。

 

俺がエリスだけでなくシルフィも愛していると知れば、そのような関係は受け入れられないと答える可能性もある。

 

それでも、俺が何も話さなければ、レイネは選ぶために必要な事実さえ知らないままだ。

 

今日、俺はジュリへ「生きたいか」と尋ねた。

 

シルフィからも、自分の気持ちを言葉にして伝えてもらった。

 

ならばレイネにだけ何も知らせず、今までどおり俺のそばへ置き続けることはできない。

 

「分かりました」

 

俺は答えた。

 

自分でも分かるほど、声が僅かに震えていた。

 

怖い。

 

レイネから拒絶されるかもしれないし、告白した後には、今までと同じ関係でいられなくなる可能性もある。

 

それでも俺自身が「受け入れてほしい」と願っておきながら、レイネから拒絶する権利だけを奪うわけにはいかない。

 

「明日、レイネへ話します」

 

シルフィは、少しだけ寂しそうに笑った。

 

「後悔するかもしれない」

 

「僕がレイネへ告白するよう勧めたことを?」

 

「うん」

 

「それでも、勧めてくれるのですか?」

 

「だって……」

 

シルフィは俺の服を僅かに握った。

 

「僕だけが、自分の気持ちを知ってもらって、レイネは何も言えないままなんて、嫌だから」

 

優しいと思った。

 

けれど、シルフィの感情を「優しい」という一言だけで綺麗にまとめてしまうべきではない。

 

シルフィは苦しんでいるし、嫉妬もしている。自分が選ばれないかもしれないことを怖がってもいる。

 

その全てを抱えたうえで、それでもレイネにも選ぶ機会を渡そうとしているのだ。

 

「ありがとうございます」

 

俺が言うと、シルフィは首を横へ振った。

 

「お礼は、まだいらない」

 

「では、いつ伝えればよいでしょう」

 

「みんなで、ちゃんと話せるようになった時」

 

「分かりました」

 

俺たちは、もう一度だけ短く抱き締め合った。

 

 

シルフィと別れ、寮へ戻った。

 

レイネは自分の部屋の前に立っていた。

 

俺を待っていたわけではないらしい。

 

手にはジュリの今後の食事量や健康状態について記した紙を持っているため、これから教師へ相談するための資料でもまとめていたのだろう。

 

「お帰りなさいませ、ルーデウス様」

 

「ただいま戻りました」

 

レイネは、俺の顔をじっと見た。

 

目元や表情だけではなく、呼吸まで含め、いつもと違う部分がないか確かめているようだった。

 

「シルフィとのお話は、終わりましたか?」

 

「はい」

 

「そうですか」

 

それ以上は尋ねない。

 

シルフィが何を話したのか知りたいと思っているのかもしれない。

 

俺がどのように答えたのかを聞くことが怖いのかもしれない。

 

あるいは、本当に何も感じていない可能性だってある。

 

以前の俺なら、そのうちの一つを勝手に選び、「きっとレイネはこう思っている」と決めつけていただろう。

 

今は、本人に聞かなければ分からないことだと理解している。

 

「レイネ」

 

「はい」

 

心臓が強く鳴った。

 

今、この場で言おうと思えば言える。

 

けれど、寮の廊下で、ジュリについての資料まで手に持たせたまま、突然自分の感情をぶつけるのは違う。

 

レイネへは、きちんと自分で考える時間も渡したい。

 

そのためにも、落ち着いて話せる場所と時間を用意する必要がある。

 

「明日、時間をいただけますか?」

 

レイネの赤い瞳が僅かに揺れた。

 

「どの程度のお時間でしょうか」

 

「分かりません」

 

「授業の後でよろしいでしょうか」

 

「はい」

 

レイネは俺をじっと見つめていた。

 

何の話なのか尋ねることもできたはずだ。

 

しかし、聞かなかった。

 

「承知いたしました。明日の授業後、予定を空けておきます」

 

「ありがとうございます」

 

これで、もう逃げられない。

 

いや、違う。

 

逃げないために、自分から約束したのだ。

 

ジュリは、自分の口で「生きたい」と答えた。

 

シルフィは、「ルディが好きだ」と自分の意思を言葉にした。

 

二人とも、自分が何を望んでいるのかを、自分自身の言葉で俺へ伝えてくれた。

 

ならば、次は俺の番だ。

 

明日、俺はレイネへ伝える。

 

主人として命じるのではなく、守られるだけだった子供として縋るのでもない。

 

一人の男として、彼女を愛しているのだと、自分自身の言葉で伝える。

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